「ねえ、あずさはどう思う?」
「うーん…………難しいんだよねえ〜、そういう問題って」
「だって夜にふと思い出して、忘れる前に伝えておこうってこともあるじゃない。残業中に発覚した事とかさ。係長の言い分もわかるんだよ」
「うんうん」
「でもさあ、確かに『業務外の時間に上司からメールがくるとリラックスできない』っていうのも理解はできるんだよね」
「メールなんて好きな時間に見れるんだし、一言返信したらそれで終わりなのに」
「それ、係長も言ってた。それが最近の新人の妙にデリケートなところっていうか……メールがきたらすぐに返信しなきゃ、失礼だと思うんだって。内容にもすごく気を遣うから考えるのが負担になるって」
「時代の違いかねえ〜」
「私たちだってもう彼女たちとは育った時代が違うもん。そもそも今みたいにメールで業務連絡なんてなかったし。でも係長は二十代は全員同じ世代と思ってるからさあ」
「じゃあ、あと半年もしたら良子も係長からこんな頼みごとされなくなるんじゃない? 無事に三十路グループに足を踏み入れるわけだし」
ハハッと笑ったあずさの携帯が、テーブルの上でブーンと振動しはじめた。
「先輩だ。ちょっとごめんね」
あずさは携帯を肩に挟むように持つと、手帳とペンを手に席を立った。
良子は眉をハの字に下げたまま、あずさの背中に軽く手を振った。
あずさの手前、あまり深刻ではないフリをしていたが、内心は焦っていた。早く解決しないと業務に支障がでかねない。係長には新人の頃から世話になってきたし、力になってあげたい。手元のコーヒーを掻き混ぜながらフーッと溜め息をつく。
ふと、視線を感じた。
顔を上げると、向かいの席でアイスコーヒーを飲んでいる、黒のパンツに白いYシャツ姿の〝爽やか系男子〟と目が合った。良子に向かってにっこり微笑んでいる。
えっ、なになに! 私? 良子はどぎまぎして目を逸らした。人生であまり(いや、もしかしたら一度も)出くわしたことのない出来事に、心臓がドキドキ高鳴りはじめた。
彼は立ち上がると、ゆっくりと良子に近づいてきた。
「はじめまして」
そう言うと彼はニカッとした笑顔を見せた。おもわず良子の頬がピンクに染まる。
「は、はじめまして……」
「あずさちゃん、どこ行ったん?」
良子は拍子抜けした。なんだ、あずさの知り合いか。ナンパかと思った。やっぱ人生なんてそんなもんだ。良子はがっかりした事を悟られないように、いつも以上に澄ました声で、少し恰好をつけて微笑みながら言った。
「あ、今ちょっと電話がかかってきたみたいで、外に」
「そっかあ。もっと早く声かけようと思ったんやけど、なんか真剣な話してたみたいやったから、タイミングが掴めへんかってさ」
彼は話しながら、当然のようにあずさの席に座った。
どう見ても二十代半ばだ。あずさの数多い飲み友達の一人だろうか。この馴れ馴れしさはそんな気がする。
「〝返信不要〟」
「はっ?」
彼は「えーと……」と言いながら良子をちらりと見た。
「あ、良子です」
「良子ちゃん」
そう言うと、彼は白い歯を見せて再びニカッと笑った。
ああ、どこかで見た笑顔だと思ったら、あれだ。歯磨き粉のCM。こんな風に歯を見せて爽やかに笑っている、あの俳優にちょっと似ている。それにしても私の事いくつと思ってるんだろう。あずさと一緒にいるんだから年上だと思わないのかな。でも、そもそもあずさの年齢を知らないのかもしれないし(あずさなら秘密にしていそうだし)若く見られているのなら悪い気はしないな。今日のゆるふわニットは正解アイテムか。今度の飲み会はこれで————————
「それでええんちゃう?」
「え、え、何が?」
ニット? いや、違う。良子はあわてて妄想から頭を切り離した。
「だから、解決策。要するにメールの内容どうこうよりも、返信にかかる手間と時間が嫌なわけやろ? 最後に〝返信不要〟って付ければいい」
…………確かに。あまりにも単純な解決策だ。でも————————
「でも、それだけじゃあんまり意味がないような……。返信不要って付けたところで、みんな本当にしなくていいのか余計に迷って、結局返信してくると思う」
「その通り! さっすが、良子ちゃん! さらにもうちょっとフォローが必要や。まずは係長に、業務時間外のメールはなるべく減らしてもらえるよう話をする。『絶対しないで』ってことじゃないから、そこまで難しくないやろ? 良子ちゃんの腕のみせどころや。ほんで、どうしてもメールしなアカン時は末尾に〝返信不要〟を付けてもらう。最後に、マニュアルをつくってあげる」
「マニュアル?」
「返信不要メールには、返信『しない』こと。『しなくてもいい』じゃアカン、はっきり『しない』というのを文書にして通達するんや。朝礼でもその件について徹底するよう伝える」
「なるほど…………。マニュアル化ね」
「新人は特に、マニュアルを守ろうとする意識が強いからな。まだ自分で判断できへんから、書いてある通りにしたら間違いないって安心感があるんやろなあ。あと、最近はマニュアル重視の店が増えてるから、就職前のバイト先がそうやったりね。ま、よかったら一回提案してみて」
彼は良子を見つめ、再度ニカッと笑った。
「うん。確かに良いかも。ありがとう。ねえ、えーと……」
良子が名前を聞こうとしたのと同時に、彼が立ち上がった。
「電話、終わったみたいやで」
向こうからあずさが、ごめんごめん、という仕草をしながら小走りで戻ってくる。
「良子、待たせてごめんね。でも、退屈してないみたいでよかった」
あずさはテーブルのそばに立っている彼の姿を見て、ニヤッと笑った。
「あ、偶然ここにいたみたいで。さっきの話のアドバイスしてくれたんだ」
「えーそうなんだあ。よかったじゃん」
「ほんなら、邪魔すんのもなんやから。ごゆっくり。またね、良子ちゃん」
「えっ……」
せっかくあずさが戻ってきたのに…………。
引き留める間もなく彼は去っていった。
いいのかな〜とあずさに視線を送ると、あずさはニヤニヤと意味深な笑みを浮かべて良子を見ていた。
「ねえねえ、誰? なかなかカッコ良かったじゃん」
「…………!! あずさの知り合いじゃないの!?」
「はっ? 何言ってんの? 良子の友達でしょ?」
「わたし……!? 知らない…………」
良子は目を丸くしてあずさを数秒見つめた後、彼が座っていた向かいの席に目を移した。
誰もいなくなったテーブルにはアイスコーヒーのグラスだけが残されていた。
「誰…………」
良子のつぶやきと共に、グラスの中の氷がカランと音を立てて崩れた。