その夜も妹は脚に数ヶ所の切り傷と虫刺されを拵(こしら)えて帰ってきて、床に座って膝を折りマニキュアでも塗るような体勢で軟膏(なんこう)や虫刺され薬を足首やふくらはぎや膝の裏に塗り始める。野球中継を見ながら焼き鳥をつまみにビールを飲んでいた僕は、虫刺され薬のメンソールの香りや彼女の服に染みついた虫除(むしよ)けスプレーの臭いで食欲を奪われる。妹は薬類を薬箱にしまってから台所にいって手を洗い、ラップされていた夕食を電子レンジで温め直すとテーブルを挟んで僕の正面に座って手を合わせる。

「いただきます」

 僕は掛け時計に目をやる。午後九時十二分。運動部に所属しているならこれくらいの時間の帰宅も珍しくはないのだろうが、今年で十六歳になる妹は、現在どこの部活にも所属していない。大方、どこかに寄り道をしてきたのだろう。

 それにしても奇妙なのは、彼女が毎晩のように体のあちこちに傷や虫刺されを作ったり、靴を泥で汚したりしてくることだ。僕の知っている妹は屋内にこもって音楽を聴いたり本を読んだりするのが好きな内向的な女の子で、傷とか汚れといったものとは無縁の存在のはずだった。

 一体どこで何をしてきているのだろう?

 僕は思い切って訊(き)いてみる。「こんな時間まで何をしてたんだ?」

「教室に残って勉強してたの」と彼女は答える。

「その教室、蚊がうようよいて、棘(とげ)の生えた植物が密生してるのか?」

「ええ、そうよ。よく知ってるわね」妹は涼しげな顔でいう。「この前、掃除中にマムシに嚙(か)まれて生徒が二人亡くなったばかりよ」

「全国有数のお嬢様学校にマムシが出るのか?」

「あら、おにいさんの学校には出なかったの?」

 少し考えてから僕は答える。「授業中、校舎に犬が入ってきたことはあったな」

「ほら、似たようなものじゃない」妹は愉快そうに笑う。

 夕食を終えると妹は食器を片づけ、湯を沸かして紅茶を淹(い)れる。カップを持って席に戻ると、シュガーポッドから角砂糖を八粒ばかりとって紅茶に混ぜる。そんなに甘くしてよく飲めるよなと僕は閉口する。

 僕はもう一歩踏み込んで彼女に訊ねる。

「なあ、本当は勉強をしてきているわけじゃないんだろう?」

「うん。実をいうと、そうなのよ」妹は紅茶を一口飲んでからいう。「本当は、幽霊を探しにいっているの」

「幽霊?」と僕は訊き返す。

「嘘(うそ)。冗談よ」

 彼女は口元を押さえてくすくす笑う。

 けれども僕は知っている。妹は、聞いてほしい話があって、でも自分からはそれをいい出しにくいとき、冗談の皮を被せて僕にそれを知らせることがある。今回もおそらくそれだろう、と僕は推測する。彼女が妙なことをいい出したら、それは「聞いてもらいたい話がある」というサインなのだ。

 昔は、妹がそういうサインを出すたび、僕は「何かあったんだろう?」と真摯に話を聞いてあげていたものだった。しかし彼女も今年で十六歳だ。そろそろ僕に頼るのをやめて精神的に自立してもらう必要がある。そういうわけで、僕は彼女のサインをあえて無視する。

 妹は僕がサインに気づかなかったと思ったのか、「幽霊を探しにいってるのよ」ともう一度いう。「それは大変だな」と僕が素っ気なく返すと、彼女は膨れ面をする。「……おにいさんのばか」といって恨めしそうに僕を睨(にら)む。「人非人」とつけ加える。僕は無視してビールを飲む。妹が席を立つ。


 僕に構ってもらえなくて腹が立ったのか、その日から妹は帰宅するたびに「幽霊探し」の報告をするようになる。

「おにいさん、おにいさん」

「どうした?」

「今日も幽霊はいなかったわ」

「そうか。ご苦労様」

「明日もがんばるつもり」

「ああ。がんばれ」

 妹は何かを期待するように僕の顔をじっと見つめる。僕はそれに気づかないふりをする。彼女は肩を落として床に座り、虫刺されの薬を塗り始める。部屋にメンソールの香りが漂う。

 話を聞くに、どうやら妹は冗談ではなく本当に幽霊を探しているらしい。毎晩一人で海沿いの防風林にいってベンチに座り、幽霊が現れるのをじっと待っているそうだ。

 ピーナッツの殻を剝(む)きながら、僕は幽霊について当て所なく考える。ここ数年、ここ美渚(みなぎさ)町では幽霊話が激増している。無理もない話だ、と僕は思う。十年前には防風林で女子中学生が自殺、五年前は男子中学生がスーパーの屋上から飛び降り自殺、四年前は専門学校生がアパートの自室で自殺、二年前にはこれまた防風林で年配の男が自殺、昨年は町外れの廃墟(はいきょ)で女子中学生二人が自殺。そんな町なのだ。妙な噂(うわさ)が立たない方がおかしい。

 東北の田舎町に自殺が多いのは今に始まったことではないが、それにしてもここ十年ほどの美渚町の自殺者数は異常だ。しかも老人ではなく若者の自殺者数が多いというのが気味の悪さに拍車をかけている。町側は古くから伝わる人魚伝説を前面に押し出して美渚町を「人魚の町」として売り出そうとしているらしいが、その思惑とは裏腹に、最近の美渚町は「若者の自殺する町」として全国に悪名を轟(とどろ)かせつつある。なんとも不名誉な称号だ。

 数々の自殺のせいで、美渚町には至るところにホラースポットがある。その中でも一番幽霊の目撃談が多いのが、海沿いの防風林の周辺だ。木の下でやけに背の高い女が手を振っていると思ったら首を吊(つ)ってもがいている最中だったとか、夜中に散歩していたら頭上から笑い声が聞こえてきて逃げても逃げてもその声が追いかけてきたとか、バーベキュー中に撮った写真を現像したら海から大量の手が伸びて近くの人を引きずりこもうとしていたとか、そんな噂話が数え切れないほどある。ただ、どの話も例外なく「友達の友達が実際に体験した話なんだけど……」というイントロから始まるから笑えてしまう。娯楽のない田舎町で暇を持て余した人たちが、そういう話を考えて広めているのだろう。

 僕も、子どもの頃は霊的な存在を信じていたものだった。テレビでホラー特集を見た晩には一人で手洗いにいけなかったし、毛布から足を出して眠ると幽霊に摑(つか)まれるのではと不安で仕方なかった。墓地で転ぶと寿命が縮まると思っていたし、霊柩車(れいきゅうしゃ)が通りかかったときは親指を隠すようにしていた。でも、それはせいぜい十歳くらいまでの話だ。僕の妹は十六歳にもなって幽霊を探している。あまりにも馬鹿げている。

 僕は妹の話にまともに取り合わないようにする。まったく、何が幽霊だ。大体、君は幼い頃からUFOもUMAもESPも信じない、夢のない女の子だったじゃないか。僕よりも早くサンタクロースが父親であることを見抜いたくせに、どうして今になって突然「幽霊を探してるの」なんていい出すんだ? 優等生にありがちな「遅れてきた反抗期」みたいなものだろうか?

 わからないな。

 玄関のドアが開く音がして、「ただいま」と父の声がする。床に座り込んでぼうっとテレビを眺めていた妹は素早く立ち上がり、父が居間に現れる前に二階の自室に戻ってしまう。鞄(かばん)を下ろしてネクタイを外した父は、僕と視線が合うと肩を竦(すく)める。

「傷つくよなあ」彼は困ったように笑う。「娘に嫌われてるってのはきついもんだ」

「自業自得だよ」と僕はいう。

「返す言葉もない」といって彼は首の後ろを掻く。

 父は冷蔵庫から冷えたビールを持ってきて僕の隣に座る。父はテレビの野球中継を眺めながら、これまでの試合の流れについて僕に訊(たず)ねる。僕は手短にそれを説明する。

 間近で話していても、父はとても四十代後半の男には見えない。三十代前半といっても誰も疑わないだろう。体は締まっているし、目はぎらぎらとしているし、肌は綺麗(きれい)だし、髪もたっぷりある。

 若々しいのは見た目だけではない。ここ数ヶ月、父は休日の間ほとんど家にいない。家族を放ったらかして何をしているかというと、なんということはない、不倫に勤(いそ)しんでいるのだ。酔った父から話を聞き出したところによると、どうやら彼の不倫相手は十九歳の短大生らしい。十九歳? 自分の年齢の半分以下の女の子とつきあっているのか。それって、息子の僕より年下じゃないか。いやそれどころか、娘ともほとんど変わらない年齢じゃないか。僕は呆(あき)れたが、同時に彼に敬意を抱きもした。あまり褒められた人間じゃないけれど、部分的には見習うべき点もある。

 母が父の不倫に気づいていないかというとそんなことはなくて、僕なんかよりもずっと前に彼の不義を見抜いていた。だが彼女に夫を攻める権利はなかった。というのも、母は母で、職場の若い男性とたびたび一夜限りの関係を持ってしまう悪癖を持っていたのだ。父は女性の些細(ささい)な変化によく気がつく男だったので、自分の妻がそういう女だということはお見通しだった。

 要するに、二人の不倫は半ば互いの合意のもとに行われていた。俺は自由にやるからお前も自由にやってくれ、ということだ。僕はそういうのを悪いとは思わなかった。二人とも一人の異性に縛られるにはもったいないくらいの美男美女だったし、下手(へた)に我慢をして家の中で苛立ち(いらだ)を振りまかれるよりは、互いに割り切って自由に遊んでくれた方が僕としては大いに助かる。それに不倫をしているからといって両親仲が悪いわけではないのだ。むしろ二人は互いの愛を確かめ合うためにわざわざ他の男や女で試しているようにさえ見える。それで夫婦仲が深まるなら好きなだけ不倫してくれればいい、と僕は思う。

 ただ、妹はそうは思っていないようだ。二人の不倫を知ってからというもの、妹の両親への態度は露骨に変化した。特に父に対しては汚らわしいものを見るような目を向けるようになった。自分と三つしか年の変わらない女の子と父親が交際しているという事実がよほどショックだったのだろう。

 あるいは、こうしたぎくしゃくとした家庭環境が妹の頭をおかしくしてしまったのかもしれないな、と僕は思う。というか、それ以外に彼女を狂わせるような原因が見当たらないのだ。学校で何かひどい仕打ちにあっているという可能性もゼロではないが、僕の妹はあらゆる能力が平均値よりもほんのわずかに高いという恵まれた資質の持ち主であり、よほど運が悪くない限り、そういう子は虐(いじ)めや嫌がらせの対象になるものではない。そうなると、彼女をおかしくした原因としてもっとも有力なのは、やはり家庭環境ということになる。

 とはいえ、仮に妹の奇行の根っこに家庭の問題があったとして、だからどうという話でもない。帰するところ、すべては彼女自身の問題なのだ。彼女が幽霊を探したいというのなら僕はそれを止めないし、彼女が両親の不倫をやめさせたいというのなら僕はそれを止めない。その代わり、手を貸すこともない。


     *


 いつからか、何もかもが上手(うま)くいかなくなっていた。

 ――これは僕自身の話だ。

 去年の秋、中学校の頃から交際していた恋人に別れを告げられた。多分、歯車が狂い始めたのはあの辺りだ。

 別れ話の最中、彼女が「現実」というワードを繰り返し使っていたことをよく覚えている。

「そろそろ現実的に将来を考え始めて……」

「現実問題、これ以上あなたといても……」

「あなたはいい人だけど、考え方が現実的じゃないっていうか……」

 よくある話だ。女の子というのは高校を卒業した頃から急速に考え方が現実的になる。男子大学生が頭を空っぽにして遊んでいる一方で、女子大学生は着々と将来設計を進めているものだ。多分、遺伝子にそういう風に刻まれているのだろう。

 その元恋人が近々結婚するという噂を、最近耳にした。あれほど苦労して入った外語大を中退してしまうそうだ。きっとさぞかし現実的な男が相手なのだろう、と僕は想像する。現実的な職業に就き、現実的な趣味を持ち、現実的な目標を抱き、現実的な話をする男。僕のようにふんわりと考えてふんわりと生きている人間とは似ても似つかないような。

 彼女の結婚の報(しら)せが原因かどうかはわからないけれど、僕は四年生前期の重要な単位を三つ落とすことが六月にしてほぼ確定していた。理由は単純で、まったく講義に出なかったからだ。噂によると、そのうち二つの講義は講師にかけ合えば今ならまだなんとかならないこともないらしいのだが、僕はどうしてもその気になれずにいて、このままいけば留年は免れないという状況にある。

 おまけに五月の末、僕は長く勤めていたアルバイト先で立て続けに大きなミスをやらかし、そこを首になっていた。三年間も働いた職場だったが、店を去るときはあっさりしたものだった。最終日に僕が「今までお世話になりました」と店長に声をかけると、彼はあからさまに僕を無視して別の店員に話しかけていた。

 なんだか世界から取り残された気分だな、と僕は思った。もっとも、元はといえばすべて僕が悪いのだけれど。


 そんな僕にとって唯一の気晴らしは、気心の知れた友人と深夜のドライブに出かけることだった。友人の名前は、ここでは仮に木村(きむら)としておこう。

 木村は僕の周りでは数少ない、“非現実的”な人間だった。「音楽に関わらない仕事に就くくらいなら死んだ方がマシ」と息巻く彼は、昨年大学を中退して以来、アルバイトをしながらバンド活動を続けていた。最近はライブハウスのチケットノルマをクリアできるくらいには客が集まるようになってきたらしいが、もちろんそれだけで生活が成り立つはずもなく、依然として親の仕送りに頼っているそうだ。一年で結果らしい結果が出なかったら音楽を諦めると退学当時はいっていたが、半ば実績がある分、ずるずるとこういう生活を続けてしまいそうで怖いと近頃彼はよくぼやいている。

 僕は一日中大学の研究室にこもり、なんの役にも立たない研究をする。木村は一日中アルバイトをして、空いた時間にはギターの練習をする。そうして真夜中になると、僕は彼の住んでいる木造の安アパートに車で向かう。入り口の前に乗りつけて小さくクラクションを鳴らすと、彼がアパートから出てきて無言で助手席に乗り込む。

 そうして僕らは真夜中のドライブに出かける。FMを聴きながら明かりのない山道を走り、磨きをかけた自虐的ジョークで自分たちの現状を笑い飛ばし、深夜二時の不安をやり過ごす。そうして日が昇る頃に町に戻り、真っ当に生きている人々と入れ違いに眠りにつく。それが僕たちの習慣だった。

 その日も僕たちは、山道を無目的に走っていた。妹が幽霊を探しているという話をすると、木村は「おいおい、それ大丈夫なのか?」と心配した。

「ただでさえこの町は女子中学生の自殺が多いんだぜ。お前がしっかり見張ってやらなきゃ」

「妹はもう女子高生だよ」

「あれ、そうだったか? ちょっと前まで中学生だったと思ってたのに、もうそんな歳(とし)か」

 僕はハンドルを握ったまま溜(た)め息をついた。「高校生にもなって『幽霊を探してる』なんて、馬鹿げてるよなあ。しかもあいつ、その経過をいちいち僕に報告してくるんだ」

「構ってほしいんだろう、お前に」

「僕も、来年か再来年には家を去るんだ。あんまり依存されても困るよ」

 木村はシートを倒し、靴を脱いでダッシュボードに足を投げ出した。

「だからこそ――お前がいなくなるのを意識し始めたからこそ、お前に甘えてるんじゃないのか? その妹は、あんまり両親のことが好きじゃないんだろう? 唯一信頼しているお前に、今のうちにたくさん甘えておこうと思ったんじゃないのか?」

「考え過ぎだよ。もしそうなら、幽霊の話なんてせず、もう少しわかりやすいサインを出してくると思う」

 それからしばらくの間、僕たちは無言でラジオの音楽に耳を傾けていた。自販機を見つけると車を停め、コーヒーを買って車内に戻った。夜の虫の声に囲まれて煙草(たばこ)を吸いながら、僕は先ほどの木村との会話を思い返した。そしてふと違和感を覚えた。なんだか今日の木村はいつもと調子が違うよな、と僕は首を捻(ひね)った。普段の彼であれば「幽霊」なんて単語が出たらもっと気の利いた冗談を返してくれるはずだ。

 ひょっとすると、彼の心境に変化を与えるような出来事があったのかもしれない、と僕は思った。

 僕の勘は当たっていた。コーヒーを飲み終えると、僕たちは日の出を見に海へ向かった。波止場(はとば)に車を停めて海岸を散歩しているうちに、空が白み始めた。そのとき、ふと木村がいった。

「こんな気楽な生活も、もう少しで終わりみたいだ」

 その発言をなんとなく予想していた僕は、驚かずにただ頷(うなず)いた。

「来週にはこの町を出るよ」

「どんな仕事に就くんだ?」と僕は訊いた。

「聞いても、十秒後には忘れてしまうような職業さ。俺自身、ときどき忘れそうになる」

「そうか」

 音楽関係の仕事ではないんだな、という言葉を口に出しかけて呑(の)み込んだ。

「あと一週間、せいぜい楽しもうぜ」と木村はいった。「この愛すべき退廃的生活を」

「ああ。そうだな」と僕は答えた。

 これでまた一人非現実的な人間が減ってしまったな、と僕は思った。

 彼をアパートに送り届けて家に帰る最中、突如、僕は途方もない空虚感に襲われた。

 道脇に車を停め、ハンドルに頭を乗せて目をつむり、長い長い溜め息をついた。

 ――そろそろ、僕も地に足をつけるべきときがきたのかもしれない。

 そう思った。


     *


 一週間後、僕は朝一番で大学にいって講師に謝罪して回り、なんとか二つの単位を確保した。それから久しく顔を見せていなかった卒論の指導教員にも謝罪にいき、二ヶ月近く放置していた卒論の執筆を再開させた。帰り道、国道沿いにある紳士服店で安物のスーツを三本購入し、さらに書店で就職活動のガイド本を数冊買った。

 この日を境に、僕の生活は見違えるように変わった。余計なことはすべて頭から追い出して、黙々と目の前の課題を解決し、一つの課題が終わると間をおかずに次の課題に取りかかった。なんのために前進しているかなど考えず、前進するための前進を続けた。瞬く間に日々が過ぎていった。一ヶ月半も経つ頃には卒業論文の落ち着きどころが見え始め、就職活動も順調に進んでいくつかの企業から最終面接の案内が届いた。

 僕は急速に現実的な人間になりつつあった。一歩目を踏み出すまでは大変だが、それさえできれば後は案外惰性でどうにかなるものなのだ。もう少し早く一歩目を踏み出せていたら、恋人に見捨てられることもなかったんだろうな、と思ったこともあった。しかしもちろん、そんな「もしも」は考えるだけ無駄だ。つまるところ、その仮定が意味しているのは「僕が僕でなかったら」なのだから。

 気がつけば八月に入っていた。就職活動で半月ほど都会に出ていた僕は、その日久しぶりに実家に帰った。午後十一時頃に家に着くはずが、線路内に立ち入った者がいたせいで新幹線が数時間止まり、午前一時頃の帰宅になってしまった。

 そっと玄関のドアを開けて、靴を脱いで家に上がった。皆眠っているかと思いきや、居間から明かりが漏れていた。

 思った通り、そこにいたのは妹だった。僕の顔を見ると、彼女は満面の笑みを浮かべた。それを見ただけで、僕の全身を覆っていた疲労感はほんの少しだけ緩和された。

「おかえりなさい、おにいさん」

「ああ、ただいま」

 僕が台所と居間を行き来している間、妹はちょこちょこと後ろをついてきた。食事の支度を整えて僕が席に着くと、彼女も僕の正面に座った。

「相変わらず、幽霊を探してるのか?」と僕は訊いた。

「ええ、そうよ」と妹は答えた。「相変わらず」

「収穫は?」

「ゼロね」

 彼女はそういって肩をすぼめたが、僕の方から幽霊の話を切り出されたのが嬉(うれ)しかったのか、テーブルに身を乗り出して両手で頬杖(ほおづえ)をつき、にっこりと笑った。

「あんなに色んな人が『幽霊を見た』っていっているのに、どうして私の前には姿を現してくれないのかしらね?」

 僕はやや考えてからいった。「僕が昔聞いた話によると、幽霊を信じていない人ほど幽霊と出会いやすいらしい」

「世の常ね」妹は憮然(ぶぜん)とした様子でいった。「必要としていない人ほど、それを手に入れられるものなんだわ」

 それからしばらくの間、僕たちは互いに無言のままテレビを眺めていた。やがてテレビに飽きた僕はテーブルの上の新聞を手に取った。新聞は今年の夏の異常な暑さについて報じていた。あちこちで観測史上最も早い真夏日・猛暑日が訪れており、今日までに複数の観測地点で気温が四十度を超えたそうだ。僕はそれを妹に語って聞かせた。

「実際、すごい暑さよね」と妹がいった。「これだけ暑いと、幽霊も出てくるのが億劫(おっくう)になるのかしら?」

「そうかもしれない」

 曖昧な返事をした後、僕はふと思いついていった。

「なあ、一つ、提案があるんだけど」

「なあに?」

「僕も幽霊探しについていっていいかな?」

 彼女は僕の顔を見て目を瞬かせた。「おにいさんが?」

「そうだよ。ええと……ほら、幽霊を信じていない人と一緒だと、幽霊に出会える確率が上がるかもしれないだろう?」

「うれしい」妹は目を輝かせた。「すごくうれしいわ」

「それはよかった」

「じゃあ、今すぐいきましょう」

「今?」僕は思わず訊き返した。「今からいくのかい?」

 妹は僕の手を取っていたずらっぽく微笑(ほほえ)んだ。「ええ、そうよ。せっかくおにいさんが乗り気になってくれたんだもの。気が変わる前にいっておかないと」

「安心しなよ。気まぐれでいってるんじゃないんだ。いつでもつきあうから、別に今じゃなくても……」

「だめ。待ち切れないの」

 彼女はそういって首を振り、僕の手を引っ張った。


 深夜の散歩は久しぶりだった。思えばここ一ヶ月ほど、午前五時に起きて午後十一時に眠るような生活が続いていたのだ。

 向日葵(ひまわり)畑の前を通りかかったとき、僕はふと足を止めた。見慣れているはずの向日葵畑だが、昼間に見るのと真夜中に見るのとでは印象がずいぶん違っていた。明るさの権化のような姿をした向日葵たちは、暗闇の中ではひどく場違いな存在に感じられた。閉園した遊園地の中で満面の笑みを浮かべている道化師みたいな気味の悪さだ。

「おにいさんは結局、来年には家を出ることになるのかしら?」僕の手を握ったまま、妹が訊いた。

「この調子でいけば、そうなるだろうね」と僕は答えた。

「そう。……寂しくなるわね」妹は目を伏せて小さく溜め息をついた。「そのときは、ときどき遊びにいっても構わない?」

「もちろん。前もって連絡さえ入れてくれれば」

「よかった」彼女はほっとしたようにいった。「これで避難場所が確保できたわ」

 避難場所か、と僕は頭の中で妹の言葉を繰り返した。やはり彼女にとって、あの家庭で過ごすことは大きなストレスになっているのだろう。両親の共犯的不義が判明した当時、僕は既に大学生になっていたが、妹は十四歳の少女に過ぎなかった。まだ両親への信頼を土台として世界と向き合っていた彼女にとって、それは人格の根本を揺るがすほどの大事件だったのかもしれない。

 思い切って、僕は訊いた。「家にいるのは嫌か?」

「ええ」彼女はゆっくりと頷いた。「おにいさんが家をあけていた一ヶ月の間に、お父さんとお母さん、色々あったのよ。これまではばらばらになる寸前で奇跡的な均衡を保っていた二人の関係に、ほんの少しだけれど、ずれが生じたの。一度こうなってしまったら、もう取り返しはつかないでしょうね。あとは時間の問題だわ」

「そうだったのか。……まあ、いつかはそうなるだろうとは思っていたけれど。君からすれば、迷惑な話だよな」

「そうね。勉強してるときに大声で口論するのは勘弁してほしいわ」

 そういうと、妹は僕の手を引いて再び歩き始めた。

「でもね、そんなことはどうでもいいのよ」と彼女はいった。

「どうでもいいのか」

「ええ。今は幽霊のことだけ考えましょう。こんな機会、滅多にないんだから」

「まあ、それもそうだな」

「……ねえおにいさん、私が家庭の問題から目を逸(そ)らすために幽霊探しに逃げているなんて思わないでね」と彼女は釘(くぎ)を刺すようにいった。「私が幽霊を探しているのと、お父さんとお母さんの仲が上手くいっていないのとは、まったく別の問題だから。さらに念のためいっておくと、自殺願望があるというわけでもないわ。私はそんな不純な動機から幽霊を探しているわけじゃないのよ」

 僕は少し考えてから訊いた。「じゃあ、一体なぜ幽霊を?」

 妹はそれには答えず、代わりに前方を指差した。

「あそこが林の入り口よ。心の準備はいい?」

「ああ」僕は頷いた。

 夜の林は、想像していたよりもずっと暗かった。明かりがないだけでなく、木々が傘になっているせいで月明かりが届かず、枝葉が密集しているところでは自分の手のひらさえうっすらとしか見えなかった。そんな中を、妹は淀(よど)みない足取りで進んでいった。毎晩のように通っているだけある。

 木の根につまずかないように足下(あしもと)に注意を向けて歩いていると、蜘蛛(くも)の巣がぶちぶちと音を立てて顔に貼りついた。舌打ちをしてそれを振り払っていると、次の瞬間耳元で大きな虫の羽音がして、僕は思わず「うわっ」と小さな悲鳴を上げて飛びのいた。

「おにいさん、怖がり過ぎよ」妹がくすくすと笑った。

「いや、本当に大きな虫だったんだ」と僕は弁明した。

「ふうん。あ、そうそう、あちこちに蜘蛛の巣が張っているから、引っかからないように気をつけてね」

「忠告ありがとう。しかし、もう引っかかったよ」僕は顔を手でこすりながらいった。「よくもまあ、こんな場所に毎晩通っていられるね」

「仕方ないわ。幽霊に会うためだもの。……さあ、いつもの場所に着いたわ」

 妹がそういった直後、木々に覆われていた視界が開け、小さな広場のような場所に出た。彼女は広場の真ん中にある切り株のベンチを指差した。

「あそこに座って幽霊を待ちましょう」

「待っていれば出てくるものなのか?」

「わからない。でも、ここで幽霊を見たって噂を聞いたことがあるわ」

「なるほど」

 僕らは切り株に背中合わせに腰かけた。並んで座れるほど大きな切り株ではなかったし、こうしていれば、どの方向から幽霊が現れてもすぐに見つけられるだろうと思ったのだ――もっとも、幽霊なんてものが本当に存在していればの話だが。

「さっきは訊きそびれたけれど、結局、ここまでして幽霊を探す理由はなんなんだ?」と僕は訊ねた。「不純な動機ではない、っていったよね?」

「おにいさんは幽霊に会いたくないの?」と彼女は訊き返した。

「どちらかといえば会いたくないかな。幽霊って、あまりポジティブなイメージがないから」

「じゃあ質問を変えるわ。おにいさんはサンタクロースと会ってみたくない?」

「サンタクロース?」こんな真夏に何をいっているんだろう、と僕は首を捻った。「まあ、会えるものなら会ってみたいかな。もっとも、今の僕はサンタにプレゼントをもらえるような年じゃないけど」

「じゃあ、宇宙人は? UFOを見てみたいと思う?」

 僕は彼女の質問の意図について考えを巡らせた。「もしかして、別に幽霊である必要はないのか?」

「そういうこと。さすがおにいさんね」妹はそういうと、じゃれつくように僕に寄りかかってきた。「ただ、美渚町っていう町の性質上、幽霊を探すのが一番手っ取り早いと思っただけなの」

「奇妙なものでさえあればなんでもいい、ってことかい?」

 彼女は考え込むように唸った。「うーん、なんていうのかしらね。確かに奇妙なものならなんでもいいのかもしれない。とにかく私は、びっくりしたいのよ」

「びっくりしたい?」と僕は繰り返した。「そんなに刺激に飢えてるのか?」

「どう説明したものかしら。そうね……おにいさん、今、あなたの五感が感じ取っているもの、すべて列挙してみて」

「いいけれど、なぜ?」

「お願い」妹は甘えるようにいった。

「そうだな……」僕はまず目を閉じて嗅覚に意識を集中させた。「湿った土の匂い、草木が呼吸する匂い、木の実の甘い香り」それから聴覚に移る。「虫の鳴き声、枝葉がこすれ合う音、僕自身の声」さらに触覚。「背中に触れている君の体温、靴底越しに感じる柔らかい地面の感触、蚊に刺された足首の痒(かゆ)み、皮膚を伝う汗の生温(なまぬる)さ、じっとりした夏の夜の空気」そして目を開けて視覚。「真っ黒な木々、真上に見える紺色の夜空、そこに浮かぶ数多(あまた)の星々」

「ありがとう」と彼女は満足そうにいった。

「それで、何がしたかったんだ?」

 考え込むような間の後、妹はいった。

「私ね、今、それの半分も感じないの」

 彼女は腰を浮かせて切り株に座り直し、僕の背中にぴったりと自分の背中を密着させた。

「視覚も、聴覚も、嗅覚も、触覚も、以前の半分くらいしか機能しないの。でもね、視力が落ちたとか聴力が落ちたとか、そういうわけじゃないのよ。見えているのに、聞こえているのに、それを認識できないの。今も、おにいさんにいわれるまで、草木の匂いだとか空気の湿り気だとか足の痒みだとかに気づけなかった。一体どうしちゃったのかしらね?」

「……その症状は、いつ頃からなんだ?」と僕は訊いた。

「そうね。大体、三年ほど前からじゃないかしら。だから、家のことばかりが原因ってわけじゃないと思うわ」

「病院にはいってみたのか?」

「いいえ」

「一応、駄目元でもいってみた方がいい」

「いやよ。そんなことしたら、私を出汁(だし)にしてお父さんとお母さんが仲直りしちゃいそうだもの」

 僕は思わず振り向いて訊いた。「仲直りしてほしくないのか?」

「ええ。さっさと別れちゃえばいいのよ、あんな夫婦」

 平然と彼女はいい放った。

 開いた口が塞がらなかった。

「……君がそんな風に考えていたなんて知らなかった」

「二人が別れてある程度したら、思う存分病院に通うつもり。でもそれまでは、自分の力でこの問題に立ち向かいたいの」と彼女はいった。「それで、ようやく話は戻るけれど……私、このある種の不感症を治すには、ショック療法が一番だと思うの。根拠はないんだけれどね。きっと今の私の脳は、いろんなことを恐れるあまり、目や耳を塞いで縮こまってるのよ。でも、もし、それまでの人生観がひっくり返されるような、呆気(あっけ)にとられて声も出なくなるほどびっくりする出来事に遭ったら、私の臆病な脳も、『何があったんだろう?』って外に意識を向け始めると思うの」

「だから幽霊に会ってびっくりしたかった、と」

「そういうこと」

 なるほどな。

 ここ数ヶ月の彼女の奇行が、ようやく理解できた気がした。

 僕は空を仰ぎ、ゆっくりと溜め息をついた。

 そのとき、一瞬、夜空に細い線が走ったように見えた。何かの見間違いだろうか、と思いつつもそのまま夜空を見上げていると、数秒後、今度ははっきりと夜空に一筋の彗星(すいせい)が見えた。

「なあ、上」と僕は妹にいった。

「上?」いわれるがままに、彼女は夜空を見上げた。

 ややあって、一際明るい彗星が夜空を横切った。

「すごい」と妹が呟いた。


 その後も、彗星は断続的に流れ続けた。僕たちは長い間、切り株に背中合わせに腰かけたまま、その非現実的な光景に見とれていた。

 八月十二日。奇しくもその日がペルセウス座流星群の極大にあたる日だったことを、僕たちは帰宅後に早朝のニュースで知ることになる。しかも今年――一九九四年のペルセウス座流星群は、スイフト・タットル彗星の回帰の影響で平年の二倍以上の大出現を記録していたらしい。

 なんとも幸運な話だ。

 彗星を眺め始めてから、一時間ほどが過ぎた。「そろそろ帰ろうか」といって僕が立ち上がると、妹は若干名残(なごり)惜しそうにしつつも切り株から腰を上げた。スカートの汚れを払った後、もう一度夜空を仰いだ彼女は、囁(ささや)くような声でいった。

「ちょっとだけ、びっくりしたわ」

 それから僕の顔に視線を移し、目を細めた。

「おにいさんのおかげね」

 僕は首を振った。「君が幽霊探しに誘ってくれたからだよ。こっちこそ、感謝してる。いいものが見られた」

「ううん。さすがの私も、おにいさんがいなかったらこんな深夜に外を出歩くことはなかったと思うわ。それに、お礼をいいたいのは今日のことだけじゃないの。……なんのことだか、わかる?」

 僕は腕組みして少しの間考え込んだ。「なんだろう? 身に覚えがないな」

「私、新しく友達ができたの」と彼女は照れ臭そうにいった。「とても話の合う友達よ。その人と出会うきっかけを作ってくれたのも、おにいさんなの」

「僕、君に誰か紹介したっけ?」

「わからないならいいのよ。たいした話じゃないから」

 妹はそういって自己完結的に微笑んだ。僕はもう一度頭の中を整理してみたが、ここ最近あまりに多忙だったせいで記憶がすっかりごちゃごちゃになってしまっていて、彼女のいう「きっかけ」がなんのことか思い出せなかった。

 まあいい、と僕は思った。何はともあれ、妹には新しい友人ができた。彼女はそれを喜んでいる。今は、それだけわかっていれば十分だろう。


 林を出る頃には僕の体はすっかり汗まみれで、手足のあちこちが草に負けたり虫に刺されたりしていた。しかしその惨状と裏腹に、気分の方は晴れやかだった。なんだか無性に痛快で、そこら中を裸足で駆け回りたいような気分だった。

 帰り道、僕は妹にいった。

「なあ、絶対に幽霊を見つけてくれよ」

 彼女は不思議そうに首を傾(かし)げ、それからふっと噴き出した。

「なんだか今日のおにいさん、おにいさんじゃないみたいね」

 僕も彼女につられて笑った。「実をいうと、最近、自分でも自分がよくわからないんだ」

「変なおにいさん」

 彼女はそういいつつ、僕の手を取った。

「まあいいわ。約束する。私、絶対に幽霊を見つけてみせるから」

「ああ、頼む」

 僕は再び夜空を仰いだ。

 前を向いて歩かないと転ぶわよ、と妹がいった。

 そうならないようにリードしてくれ、と僕は上を向いたままいった。

 ――次の彗星が流れたら、柄にもなく、願いごとでもしてみようか。

 そんなことを考えながら、ゆっくりと家路を歩いた。