夜の空気は、春と冬を行ったり来たりしていた。

 空に月の姿はない。

 あたりは真っ暗で、明かりどころか人影さえなかった。

 そんな夜道を、若い女は身を縮めて進んでいた。

 すると正面から、冷たい夜風がひゅるりと彼女に吹きつけた。

 その夜風は、おいしいにおいがした。

 人々の足を止めたり、振り向かせたり、口の中を唾液でいっぱいにしたりする、あのおいしいにおいである。

 女は顔を上げると、小走りで駆け出した。

 彼女の向かう先は、暗闇の中にぼんやりと浮かぶ、あたたかな光のある場所だった。


     ◇


 その光の正体は、一軒のレストランだった。

 広い店内には、木製のテーブルや椅子がいくつも並び、この夜もまた、大勢の客でにぎわっていた。

 客の声が、おいしいにおいと、あたたかい光と一緒に、外まであふれ出している。

 厨房で腕を振るうのは、日辻(ひつじ)という名の若い男だった。

 日辻はまさに職人らしい顔つきで、テキパキと動き、出来上がった料理を皿に盛りつけては、また次の料理へと取り掛かる。

 左足の古傷のせいで、日常生活では杖なしで歩けないものの、厨房の中では、彼は大空を羽ばたく鷹ように自由を得るのだった。

 そこへ小柄なウェイトレスがやってきた。

 キラキラと輝くその瞳は、作業台の上に並ぶ食材の数々に釘づけとなっている。

 すると日辻は、低い声でいった。

「みづき」

「なんですか?」

「きみってやつは……また客の料理をつまみ食いしただろ」

「さあ。いったいなんのことでしょうか」

「とぼけても無駄だ。口についているぞ」

 日辻がいい、ウェイトレスのみづきはハッと顔を上げる。

 その顔は喜びに染まっていた。

「ラッキー!」

 みづきは、人差し指で唇の端についた真っ赤なトマトソースを拭き取ると、ソースのついたその指に、勢いよく吸いついた。

「ううん! 今日のソースもおいしいですね! 玉葱(たまねぎ)の甘味が口の中にジュワーって広がって、もう最高です!」

「ところで、きみに作った賄いのなかで、トマトソースを使った料理があったか?」

 日辻がいうと、みづきは「えへ」と首を倒した。

 日辻はがっくりと肩を落とす。

「何度もいっただろう。客の料理をつまみ食いするのはやめないか」

「じゃあじゃあ、日辻さんは、ウェイトレスの気持ちを考えたことあるんですか?」

「なに?」

「おいしい料理を運んで運んでまた運んで、おいしいにおいだけで我慢しろだなんてあんまりです! そんなの拷問ですよ! 訴えたらわたし勝ちますよ!」

「いやいや、それがきみの仕事だろう。それに、きみのぶんはちゃんと作って――」

 みづきは力強く流しの方を指さすと、日辻は途端に口を閉ざした。

 流し台には、みづきが空にした賄の皿の数々が、塔のように積み上がっていた。

「あれだけ食べて、まだ足りないのか」

「ぜんっぜん足りませんよ! 本当はもっと食べたいです! もう、お客さんの料理を全部わたしが食べたいくらいなんですからね! わたしの気持ちも、よーくよーくわかってください! いいですね!」

 みづきは、鼻息を荒くしてそう言った。

 呆れた様子のシェフのまえには、食いしん坊のウェイトレスが立っている。

 色のついたミディアムボブと、その内側にすっぽりと収まる丸い顔。

 大きな目と、小さく形の良い鼻。唇は薄いが、彼女は一度にたくさん食べられる大きな口を持っている。

 みづきの食欲は限界を知らない。

 今も彼女は、半オープンキッチンとなった厨房から、ちらちらと視線を走らせては、客の皿に残る、おいしそうな料理の数々を羨ましそうに見るのだった。

 そんな腹減りウェイトレスの雇い主は、店のオーナーでもある、シェフの日辻だ。

 高い上背を包む、洗いたての調理服。長い首の先には、獣のようにおそろしい顔があるが、その目はどこか悲しげな光を宿している。まるで、牙を抜かれた一匹狼(おおかみ)のように。

「まったく……おれの作った料理は、きみのどこに消えていくんだ」

 ため息交じりにそういうと、日辻はフライヤーに手を伸ばした。

 高温の油からあがったのは、こんがり狐色に染まった、

『ワカサギのフリット』

 である。

 大振りのワカサギに、胚芽入りの小麦粉と、コーンスターチ、メレンゲ、ビールを混ぜあわせた衣をつけて、太白胡麻油(たいはくごまあぶら)でカラッと揚げたものである。

 日辻は、ワカサギを油切りのバットに移すと、「邪魔だ」と静かにいった。

 日辻の脇のすぐ下に、みづきが頭を突っ込んでいたのだ。

 ゆらゆらと舞い上がる湯気に鼻を近づけて、彼女はうっとりという。

「天にものぼるにおいですねえ……」

 余分な油が落ちたところで、日辻はワカサギを皿に盛りつけ、その皿をみづきに渡した。

「つまみ食いはするなよ」

「じゃあ、わたしのぶんもありますよね?」

「ああ、用意しておく」

「やったあ! レモン絞って食べよっと! 冷蔵庫にあるタルタルソースもたっぷりつけちゃお! あ! 世界中の塩をつけて、食べ比べしてもいいなあ!」

「わかったから、早く料理を運んでくれ」

 日辻からいわれると、みづきは幸せそうな笑顔と弾むような足取りで、厨房を出ていった。

 客たちが、店内を歩くみづきを明るい声で迎えた。

「みづきちゃん、こっちお酒おかわりね!」

「はーい! 少しお待ちくださーい!」

「みづきさん、こっちもワインをボトルでもう一本ちょうだい!」

「はーい! かしこまりましたー!」

 明るく、元気な彼女の声は、騒がしい店内でもよく響いた。

 このレストランは、いつだって大勢の客でにぎわっている。

 彼らはみな、日辻の作るおいしい料理と、底抜けに明るいみづきの笑顔を楽しみにやってくるのだ。

 みづきが、『ワカサギのフリット』の皿をサーブしたテーブルにも、この店を愛してやまない客がふたり座っていた。そのうちのひとり、白髪を後ろに流した初老の男が、みづきに穏やかな笑顔を向ける。

「待ってました。こいつは極上のワカサギだね」

「そうなんです! 北海道の綱走で、今朝獲れたばかりの、新鮮な子持ちのワカサギですよ! もうすぐ旬も終わりですから、心ゆくまでお楽しみください! もちろん、おかわりもありますからね!」

「ありがとう。おいしそうだ」

 みづきは微笑むと、他の客の対応へ向かった。

 その男は、上谷慎太郎(かみやしんたろう)という、この店の常連だった。

 ロマンスグレーの風貌には、茶色いウール生地のジャケットと、細身のチノパンがよく似合っていた。眼鏡の奥の眼差しには、知性と優しさがにじみ、顔に刻まれた深いしわの数々は、苦労と栄光を知る証でもあった。

 かつて慎太郎は、落伍者でもあり、成功者でもあった。

 彼は母親の温もりを知らずに育った。

 船乗りだった父親は、慎太郎の生みの親について多くを語らなかった。それについて訊ねると、慎太郎の父は決まって「どこか遠くで暮らしてるさ」と寂しげにいうのだった。

 義務教育を終えると、慎太郎は大きなコンクリート工場で働いた。

 しかし、その工場は、国の定める安全基準を満たしておらず、やがて取り壊しが決まり、慎太郎は仕方なく、タクシーの運転手として日銭を稼ぎながら、貧乏から脱出する計画を立てていた。

 ちょうどそのころ、世の中はバブル景気の真っ盛りで、慎太郎もその恩恵として、ちょっとばかりの贅沢ができるようになっていた。

 乗客がくれるチップで、慎太郎は上等な鮨や鰻、天ぷらなどを毎晩のように食べ歩きながら、「こんな好景気がいつまでも続くはずがない」と考えていた。

 それからしばらくして、慎太郎の予想どおり、バブルは崩壊した。

 慎太郎にとってそれは、またとないチャンスだった。

 彼は借金に借金を重ねて、底値に落ちた不動産を買いあさったのである。

 慎太郎には確信があった。

 いずれ経済は立ち直り、不動産の価値は元に戻るのだと。

 そして、その直感は見事に的中した。

 すると、慎太郎が都内に所有した、何十軒というビルや家屋が、超大型の粗大ごみから、まさに金のなる木に変身したのである。

 莫大だったはずの借金は数年のうちに完済でき、慎太郎はかねてからの夢だった家族を持つこともできた。

 愛する妻とひとり娘が、彼にとっての宝物だった。

 ところが慎太郎は、幸せな日々を送りながらも、「こんな幸せがいつまでも続くはずがない」と考える毎日だった。

 彼は、自分が長く生きられない運命なのだと知っていたのである。

 慎太郎は五十を前にして病床につき、家族の見守る中、静かに息を引き取った。

 その彼が、今まさに揚げたてのワカサギを前に満面の笑みを浮かべている。

「こりゃあきっと、口の中を火傷しちまうぜ」

 慎太郎のいったそばから、ワカサギにかぶりついた男がいた。

 慎太郎の目の前に座るのは、「まっつん」というあだ名の、自分の死を笑いながら話す、おかしな男である。

 慎太郎とは歳が近く、出会ってすぐに意気投合したふたりは、この店にやってきては同じテーブルを囲むのだった。

 まっつんは、はふはふと口を開閉し、白い息を吐いては、熱そうに目をつむる。

 慎太郎はその顔を楽しそうに眺めながら、まっつんのグラスに白ワインを注ぐ。

「ほら、これを飲むんだ。淡白な白身によくあうぞ」

 まっつんはワインをひと口、ふた口と飲み、満足そうに息を吐くと、ワインボトルに顔を近づけて、ラベルの小さな文字に目を凝らした。

「これは、なんていうワインなんだ? おれ、日本語以外はまるで読めねえんだよ」

「こいつは、去年のヴィラージュ・ヌーヴォーだよ。ボジョレー・ヌーヴォーの赤に隠れてしまっているけど、ヴィラージュ・ヌーヴォーの白は、フランスワインとして胸を張れるすっきりとした味わいが特徴なんだ」

 慎太郎はそういって、ワカサギの皿に手を伸ばした。

 しかし彼のフォークが突き刺したのは、フリットではなく、その付け合せのポテトフライだった。

 サクッという音と、ふんわり舞い上がる湯気。

 慎太郎は知っていた。

 親指程度の大きさの、一見なんてことのないポテトフライが、脇役にしておくにはもったいないうまさを誇るのだと。

「まっつんも、このポテトフライを食べてみろよ。こいつはさ、細かいパン粉をつけて揚げただけの、なんてことはない普通のやつに見えて、実はたまらないくらいうまいんだ。ジャガイモは北海道のレッドムーン。聞いたことないだろ? 冬の間、じっくりと熟成させてあるから、甘味がすごく強いんだ。歯応えがよくて、ポテトフライにするにはベストだとおれは思う」

 そういうと、慎太郎はポテトフライを口に入れ、口の中でほくほくとやった。

 それから反対の手で白ワインをひと口――慎太郎がこのとき吐きだした息というのは、紛れもなく幸せの吐息であった。

 まっつんは羨ましそうにいった。

「相変わらず、うまいものを食べたときの慎ちゃんは、いい顔するねえ」

「おれの人生なんて、食べることくらいしか、楽しみがなかったからな」

「おれも生きてる間に、もっと色々と食っておくべきだったなあ」

「うまいモンを食べるなら、死んでからでも遅くないさ」

 慎太郎がいうと、まっつんは歯を見せて笑った。

「そうだな。よし、今日はたらふく食おう! たらふく飲もう!」

「今日も、だろう?」

 ふたりは笑いあい、こうして夜は更けていった。


   ◇


 その客がやってきたのは、慎太郎とまっつんが、二本目のワインボトルを空にしたころだった。

 店のドアが開くと、あたたかい光と、賑やかな宴の声が、その女を迎えた。

「正子(しょうこ)ちゃん、こっちこっち!」

 テーブルに座るひとりの男が、その若い女に笑顔で手招きする。

 女はにこりと笑うと、コツコツと小気味よい足音を奏でて、客たちの間を進んだ。

 女は椅子に座り、小さな頭を飾るカチューシャの位置をそっと直した。

「走ってきたから、のど乾いちゃった」

 きっちりと化粧をした女の顔は、しとやかな気品があった。

 眉は太めで、白い頬に笑窪(えくぼ)がくっきりと浮かんでいる。

「前から思ってたんだけど、正子ちゃんのファッションセンスってイカすよね。なんだか昔の映画のヒロインみたいだ。オードリー・ヘップバーンのような」

 ひとりの男がいうと正子は、「ありがと」と可愛らしく微笑んだ。

「似合ってるでしょ?」

 そういって、正子は両手をパッと広げる。

 厚いアランセーターに、膝までのスカート。

 小さなリボンのついたフラットシューズをはいている。

 テーブルの男たちは手を叩き、「もう最高!」とだらしなく目尻をさげていた。

 店の一歩足を踏み入れたその瞬間から、正子はアイドルのように、男たちからもてはやされていた。

 その様子を、にらむようなきつい視線で見つめるのが、ちょうど新しいワインボトルがきたばかりの、慎太郎だった。

 彼は突然席を立ち、「用事を思い出した」と一方的にまっつんにいって、店を出ていった。

 そのときの慎太郎の顔は、怒りと悲しみに染まった、とてもおそろしい顔だった。

 次の日も、そのまた次の日も、慎太郎は店を訪れては、楽しそうに、そしておいしそうに食事を楽しんだ。

 酒を飲み、料理を食べ、まっつんや他の客たちと笑いあった。

 ところが店に正子がやってくると、彼の表情はたちまち険しくなり、数分後には店から出ていくのだった。

 それが何度か続くと、ついにまっつんは慎太郎に訊ねた。

「なあ、慎ちゃんは、あの女にホの字なのかい?」

「馬鹿いうな」

「それなら、あの女は何なんだよ。まさか娘かい?」

「おまえには関係ないだろ」

 慎太郎は、ひと言そういった。

 まっつんは、それ以上その話を掘りさげることはしなかった。

 なぜなら、まっつんを見返した慎太郎の目には、ただならぬ怒りが宿っていたからである。

 慎太郎は席を立ち、乱暴な足取りで店をあとにした。

 その背中から、決して目を離さなかったのはただひとり。

 厨房にいたシェフの日辻だった。


     ◇


 この日もまた、夜の訪れとともに開店したレストランに、慎太郎はやってきた。

 飲んで食べて笑って、やがて正子が店にくると、彼はしばらく彼女を見つめ、いつものように席を立った。

「おいおい、もう帰るのかよ。メインディッシュもまだなのに」

 まっつんが、慎太郎のこわい顔を見上げて、そういった。

「ほら、厨房を見てみろよ。シェフとウェイトレスがやりあってるだろ? あれは、もうすぐメインディッシュが出てくるサインなんだぜ?」

 まっつんからいわれ、慎太郎は店の厨房に目を向けた。

 厨房では、一メートルにも満たない距離で、日辻とみづきがにらみあっていた。

 先に動いたのは、みづきだった。

 彼女は、さっと右に動いた。

 すると日辻は、そう広くない通路をふさぐようにして左に動いた。

「オーブンの中には、何が入ってるんですか!」

 みづきはそういって、今度は左に動いた。

「焼き上がればわかることだ」

 そういって、日辻は右に動いた。

 日辻の背後では、オレンジ色の光がもれる大型のオーブンの中で、じりじりと何かが焼かれていた。

「中身を見るだけですから!」

 みづきは、厨房の真ん中に置かれた作業台をぐるっと回った。

 日辻もまた、作業台の反対側から回り込み、みづきの進路をふさぐ。

「だめだ。見るだけといって、今までに何度きみはオーブンを開けた」

「仕方ないじゃないですか! 気になるんですもん!」

 みづきは高らかにそういうと、突然頭を引っ込めて、作業台の下をくぐった。

 しかし頭を出したその先で、日辻の杖がドンと音を立てるのだった。

 みづきがおそるおそる顔を上げると、日辻の冷たい眼差しが、怯えたみづきの顔を見下ろしていた。

「まったく……きみは子供か。今すぐ手を洗うんだ」

「だってえ! お腹空いたんですもーん!」

 みづきは涙目で立ち上がると、ふらふらと流しまでいき、手を洗った。

「ローストは火加減が命なんだ。途中でオーブンを開けてしまうと、火の通りに影響が出る。つまり味が落ちるんだ。だから、においを嗅ぐのも許さん」

「オーブンの中身くらい、教えてくれたっていいじゃないですかー」

「あててみろ」

 するとみづきはタオルで手を拭きながら、ふっと不敵な笑みを浮かべた。

「望むところですよ。ウェイトレスを甘く見ると恥をかくってことを、思い知らせてあげますよ」

 みづきは冷蔵庫を開けて、冷気の中に顔を突っ込んだ。

「ふんふんふん! 石垣牛のブロックは明日のために手をつけていないようですね! 豚肉は、鹿児島産黒豚の、肩肉ともも肉が未開封で残っています! ヒレ肉は、全部縛って大鍋で煮込んでいますよね! ミンサーは汚れていないので、ハンバーグの線は消えます! 鶏、ラム、マトンはお客さまのテーブルに出して残りわずか! ごみ箱の中身からしてお魚の可能性はゼロ! 野兎とヤマシギのお肉は、すでに八、九番テーブルに各200グラムずつ料理があるので在庫なし! ということはつまり! オーブンの中は、アグー豚です! 間違いありませんよ! わたしの食欲に誓って、オーブンでじっくり焼かれているのは、アグー豚のロース肉です!」

 鼻息荒く語るみづきを前に、日辻はおかしそうに笑った。

「まったく……きみは探偵か」

「観念するんですね! 冷蔵庫の中身は、ぜんぶ把握してるんですよ!」

 ちょうどそのとき、フロアでひとりの男が席を立った。彼は辛そうな顔で店を出ていった。寂しそうなドアベルの音が、厨房の中にまで響いてきた。

「ちょっと行ってくる」

 日辻は杖を手に厨房をあとにした。


     ◇


「メインディッシュぐらい、食べていったらどうだ」

 店から出た日辻は、冷たい風をものともしない様子で慎太郎に告げた。

 慎太郎は、店のポーチにひとり座っていた。

 彼の背中には店の明かりが差していたが、ひとけのない夜の街を見るその顔は、暗い闇の色に染まっていた。

「悪いな。料理が口に合わなかったんじゃないんだ」

「ああ、知っているよ。おれの料理が不味いわけがないからな」

 日辻は白い息を吐いてそういった。

「早く中に戻ってこい。風邪を引くぞ」

「おれたちは風邪なんて引かない」

「おれが引くんだ」

「そうだったな」

 ふん、と慎太郎は鼻を鳴らした。

「おれのことは放っておいてくれ」

「わかったよ」

 数秒の沈黙のあと、ドアベルの音がりんと鳴った。

 慎太郎は立ち上がり、弱々しい足取りで夜の帳の中へと歩き出した。

 するとそこで、女の声が慎太郎を呼び止めた。

 慎太郎は振り返り、驚きと、戸惑いが浮かぶ瞳でその女を見つめた。

「声をかけてくれてもよかったんじゃないの? もうとっくに、あなたの方が年上なんだから」

 声の主は正子だった。

 彼女は月明かりのように柔らかい微笑みをたたえていた。

「なぜ、おれだとわかったんだ」

 慎太郎は逼迫(ひっぱく)した声でそういった。

「当然でしょ。わたしは、ずっとあなたを見守ってきたんだから」

「ずっと?」

 慎太郎が訊ねると、正子はポーチを降りて、彼に歩み寄った。

「小学生のときの運動会、あなたはリレーでバトンを落としてビリになって、その日の夜、ひとり悔しくて泣いたわね。中学生のときの初恋では、女の子の気持ちがわからずに、突然別れを告げられて葛藤してたでしょ。あなたは偉かったわ。相手の子を責めなかったんだから。それから高校へは行かずに、コンクリート工場に勤めていたのに、その工場の取り壊しを機に、タクシー会社に就職したことも知ってるわ。もちろん、あなたがどれだけ車の運転が上手かもね。慎太郎、あなたは気づかなかったでしょうね。あなたの運転するタクシーの助手席には、いつもわたしが乗っていたことを……わたしは、いつだって、どこにいても、あなたを見守っていたんだから。あなたの、ただひとりの母親としてね」

 聞いていた慎太郎の顔に、輝きが戻った。頬を涙がつたった。

「母さん」

 慎太郎はいった。

 正子は慎太郎の、ひと回り大きな体を抱き寄せた。

 そして、ギュッと音が鳴るかのように、力強く抱きしめた。

 慎太郎は、震えた声でいった。

「ひと目見たとき、おれはすぐに気づいたよ。あなたがおれの母親だということに。だってあなたは、親父が残した夫婦の写真に写る女性と瓜二つだったから。でも、おれは信じたくなかった。あなたが母親であって欲しくなかったんだ……親父は死ぬ間際、おれに言った。『全部おまえのせいだ』と……その言葉の意味が、写真そのままの姿のあなたを見たときに、ようやく理解できたよ。あなたは、命を懸けて、おれを生んだんだ。そんな事実、おれには重すぎるよ。重すぎるんだ……あなたには生きていて欲しかった……どこか遠くで、幸せに暮らしていて欲しかった……」

 慎太郎は悔しそうに、苦しそうにいった。

「母さん……おれ、生まれてきてごめんな……本当に、ごめんな……」

 すると正子は、息子の顔を見上げて、愛おしそうに笑った。

「馬鹿ね。あなたを生んだことが、わたしの人生で一番の誇りなのよ。生まれてきてくれて、ありがとう」

 慎太郎は泣いた。

 大声を出して泣いた。

 鐘の音がしんみりと響き渡り、店のドアが優しく閉じた。

 赤ん坊の産声にも似た大きな泣き声は、しばらくの間、止むことはなかった。

 その頃、厨房では、みづきがオーブンの中を食い入るように見つめていた。

 オレンジ色の明かりが、みづきの白い肌を染めている。

 厨房に戻ってきた日辻は、意外そうに眉を上げた。

「ほう。つまみ食いを我慢できたのか」

「あたひだって、我慢できまひゅよ!」

 みづきはいった。だが口の中はよだれであふれ、言葉になっていなかった。

 日辻は、サッと手を洗いオーブンを開ける。

 熱気とともに、肉の焼けたおいしいにおいが厨房に立ち込めた。

『アグー豚のロースト』

 甘味の強い脂身は、おいしそうな肉汁の光沢で覆われ、鉄板の上でジュウジュウと幸せの音色を奏でていた。

 下味はシンプルに塩と胡椒のみ。それとは別に、サーブ用の皿には絵の具をしぼったパレットのように、わさびや柚胡椒、そして特製のグレイビーソースなどが少量ずつ盛りつけられている。

 最高の火加減でじっくり焼かれた豚肉は、表面に香ばしい狐色を帯びていた。

 おいしいにおいは厨房から満ちあふれ、我慢の限界を迎えたみづきが、フォークを片手に日辻に飛びついた。

「贅沢はいいません! 端っこの切れ端をわたしにください! お客さまには出せない、お肉の切れ端を!」

「やけに謙虚じゃないか」

 日辻はそういって、『アグー豚のロースト』、その端にナイフを入れた。

 するとみづきは眉をハの字にして、

「もうちょっと厚めに切ってもらえると……」

「ダメだ」

「そ、そうですよね。お客さまのぶんですもんね」

 みづきが唇を噛むと、「いや、きみのぶんも焼いてあるんだ」と日辻がいった。

 その途端、みづきは幸せそうな顔で日辻の脇腹を強く抱きしめた。

「さすがはうちのシェフです! 一生ついていきます!」

「こら。邪魔だ」

 動きづらそうにしながらも、日辻は『アグー豚のロースト』をカットして、美しく皿に盛りつけた。

 みづきはその皿を手にしてフロアへ飛び出すと、慎太郎と正子の座るテーブルに皿を置いた。

 母と息子は、おいしそうだね、と嬉しそうに顔を見合わせる。

 そう、この店にやって来る客は幽霊である。

 人々は知らない。

 幽霊は歳を取らないということ。

 そして、死ぬのもそう悪くないということを。

 あなたも機会があれば、ぜひ訪れてみて欲しい。

 この店に来れば、おいしい料理と愛する人が、あなたを待っているのだから。