「子供ができたの」

 少女が言った。これは本当。

「あなたの子よ」

 これが嘘(うそ)。

「責任を取るよ」

 少年が言った。これは本当。

「きみを愛しているから」

 これが嘘。

「いったいどういうつもりなんだ?」

 首を突っ込もうとするのは偶然居合わせただけの第三者、我らがアッシュ・グレイブフィールド巡査。

 ……人の恋路なんかほっとけよ、まったくしょうのないお坊ちゃんだな。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「お前には俺のことがよっぽど可憐(かれん)に見えているらしいな、お坊ちゃん」

 病室でアッシュと顔を合わせるなりジジはそう言った。

 ベッドの鋳鉄製(ちゅうてつせい)のフットボード枠にもたれかかる、六フィートを越える長身。

 今(十九)世紀のロンドンの繁栄の陰の存在、ぞんぶんに搾取される労働者階級。

 薄汚れてくたびれた、不精髭(ぶしょうひげ)の三十路(みそじ)。おまけに今はいつもより髭が濃い。

 窓から差し込む夕陽に照らされているその姿は、ただの中年男だ。

 まさか本気で言っているわけではあるまい。冗談でもない。嫌味だ。

 先の事件で半ば強制的に入院させたあげく、退院の日に迎えまで寄越した警察(スコットランド・ヤード)が気に食わないのだ。顔に書いてある。“そんなにかいがいしく世話をしてくれなくて結構”。

「はあ、そうですね。なにか僕にお手伝いすることはありませんか、レディ」

 アッシュは適当に合わせることにした。ジジに恭しく手を差し出す。

「まあ、さすがエクスワイアのお坊ちゃん。お出迎えくださって光栄だわ」

「だからお坊ちゃんって呼ぶなよ。……なんだ、さすがって」

「こんな素敵な馬車をお持ちだなんて」

 次の瞬間、ジジから足を払われた。無様に転ぶ。

「なにをするんだ!」

 食ってかかりつつも、その場に四つん這(ば)いになったところで気が付いた。馬に見立てられたのだ。アッシュはすぐさま立ち上がりジジに詰め寄る。

「おてんばにもほどがあるだろ!」

「やかましい。どちらかというならお前のほうが淑女のように振る舞うのにふさわしいだろうが」

「はあ? 僕だぞ?」

「お前だな」

「ああ、僕だ。どこがふさわしいんだよ」

 家柄だろうか。貴族ではないがジェントリー階級の名家の出身。それは事実だが、アッシュは男だ。この二十数年、生まれたときからずっと。

 まさか容姿ではないだろう。太陽の金色の真っ直ぐな髪に、晴れ渡った空色の青い瞳。そこはまだいい。だが、柔らかさとかけ離れた細身の体に、睨(にら)んでいると勘違いされるほどの鋭い目つき。これでは女性と間違いようがない。

「名前」

「ああ……」

 不意を突かれて納得してしまった。アッシュ。灰。灰かぶり(シンデレラ)。幸運の象徴の姫だ。

「まあ、お前は姫って柄でもないがな」

「特に目つきが、とでも言いたいのか? いちいち指摘してこないでくれ」

「よっぽど自分の顔が嫌いなんだな。じゃあ俺が大嫌いなものはなんだかわかるか?」

「……は? なんだよ、いきなり」

「縛られること、だ」

 ジジは自由が好きだ。いや、愛している、らしい。病院に押し込められ、さぞや鬱憤が溜(た)まっているのだろう。

「でも、今回は入院もやむなかっただろう? 見捨てろって言うのかよ」

「それで結構だ」

「ばか言え。それに、快適だったんじゃないのか。いつもあんたが寝泊まりしてるところよりずっとましなはずだろう。ゴキブリ(black beetles)一匹出ない」

「教区吏(black beadle)みたいな医者はいたけどな」

「なんだそれ」

「典型的な腹黒小悪党とでもいうべきか。ずいぶん態度が悪かった。お前にはぴんと来ないかもな。ああいうのはお前みたいな立場のものには腰が低い」

「お、おい、もしかしてちゃんと治療されてなかったのか?」

「いいや、そこまでじゃない。仕事は最低限こなしてくれたさ」

「…………そ、そっか」

 アッシュはほっと胸を撫(な)で下ろした。直後、はっとして大げさに拳を振り上げた。

「別に僕はあんたの心配をしてるわけじゃないからな!」

「聞いてない」

「あくまで警察の仕事の一環として被害者の安否をだな!」

「聞いてない」

 ジジは心底興味がなさそうに聞き流した。唾がかかるくらいの至近距離にあるアッシュの顔を押しのける。

「そんなに警察が大事なら、こんなところに来てないで仕事に戻ればいい。いくらパートナーといえども、日常生活を共にするつもりなんかないぞ。お前に面倒を見られるなんてごめんだ」

「僕だって嫌だね! これは仕事なんだよ。いや、むしろ、これからが本番だな」

「どういうことだ」

「今回の詫(わ)びとして、酒でも、飯でも、菓子でも、ごちそうしてから家まで送り届けて来いって。班長も優しいところがあるだろ?」

「どう考えても嫌がらせだろうが。俺に家はない」

「なんで素直に受け取れないんだよ。班長はあんたに棒付きキャンディーでも買っておあげ、とまで言ってくれてたんだぞ。真っ白な砂糖たぁっぷりのを、ぜひともって。あんた、甘いもの好きなのか?」

「……なるほどな」

 ジジが鼻に皺(しわ)を寄せた。

「あいつは俺がくたばらなかったのがよほど気にくわないらしいな」

「どうしてそうなるんだよ」

 ジジは答えず、ベッドの上に支度してあった鞄(かばん)を肩にかける。アッシュを横切り、病室から出て行ってしまった。アッシュは後を追う。

「ついてくるな。仕事で飲む酒がうまいか?」

「酒は酒だ。味なんか変わらないだろう」

「情緒のないやつだな」

「あんたこそ、がばがば飲むから味なんかわからないだろ。丁寧に飲めよ、丁寧に」

 飲酒の習慣のないアッシュから酒の飲み方について口を出されたのが面白くないのか、ジジは足を速めた。アッシュは開いた距離を慌てて詰める。

「ついてくるなと言っている。俺の行くようなところに来たらお前の上等な服が汚れるぞ」

「汚れたらまたきれいにすればいい。なに取り返しがつかないことみたいに言ってんだ。ほら、行くぞ」

 アッシュは小走りになる。ジジの鞄を奪って、ジジを追い越した。

「おい、触るな。返せ」

「ふははははー、返してほしければ力尽くで奪うがいいいぃ痛って! 痛い痛い痛い! やめろよ、やめろ、やめ、やめてえええ!」

 廊下にアッシュの悲痛な叫びが響き渡った。


 ジジが入ったのは質素だが落ち着いたパブだった。カウンター席しかないこじんまりとした店で、客も少ない。すすけた梁(はり)、白く曇った窓、小さな暖炉。炉の中で、積まれた薪(まき)の束が赤く燃えあがり、ぱちぱちと音を立ているのが聞こえる。

「あっ」

 カウンターに近付いたアッシュは帽子をうっかり取り落とした。近くのスツールに腰掛けている少年の、わずかに開かれた足の上に向けて帽子が落ちて行く。

「あ……!」

 小さく声をあげた少年は、とっさに大きく足を開いてみせた。

 ――――なぜ開く。

 足を閉じてくれれば受け止められただろうに。

 アッシュは、失礼、と、少年の足もと、床に転がる帽子を拾った。少年はアッシュから顔を背けた。気まずいのか。むしろ、ざまあみろ、と舌を出しているのか。

 十代半ば程度のこの少年は仕事終わりの呼売(よびうり)商人かなにかだろう。それなら、あどけない顔をしているが、やることはすでに一人前の商人たちと同じく意地悪だ、とでもたたえてやるべきか。

「……パンチ酒を二杯」

 気を取り直して、アッシュは少年からふたつ分席を空けて座った。

「勝手に頼むな」

 店主にまとめて注文を出したら、少年とは逆隣(ぎゃくどなり)のジジから文句が飛んできた。

「なんだよ、もう、うるさいなあ。おとなしく甘えてればいいんだよ」

「これだもんな。素晴らしく恩着せがましいことで。どんどん警察らしくなっていくな、お坊ちゃん」

「僕をお坊ちゃんって呼ぶな」

 吐き捨てるのと同時に、いささか乱暴にドアが開いた。蝶番(ちょうつがい)が軋(きし)んでギィギィと嫌な音を立てている。

「ああ! ここだったのね。探したわ」

 少女が入ってきた。先ほどの少年に声をかけている。

「あんたって好きよね、地味な店が」

 悪気はないのだろう、少女は屈託なく笑った。歯並びの悪い少女。少年と同い年くらいだろう。

「わたしね、子供ができたの」

 少年の隣に座り、二言三言言葉を交わしたあと、少女は唐突に言った。声をひそめるでもない。丸聞こえだ。

 アッシュはグラスを持とうとしていた手をぴたりと止めて、思わずジジを見た。

 ジジはゆっくりと一度うなずいた。意味するところはこうだ、“彼女の言っていることは本当だ”。

 ジジはスナークなのだ。彼の力を使えば、相手が嘘をついているかどうかはすぐにわかる。

 スナーク。四十五年前からぽつりぽつりと現れた怪物のことだ。

 犯罪者の臓器の一部を移植され、身体機能が拡張した人間のことを指す。犯罪者の臓器から人知を越えた力を獲得したものたち。その能力は臓器によってさまざまだ。

 ジジも犯罪者の臓器を持ち、そのために特殊な力を得ている。

 アッシュが警察の中で所属しているのは犯罪捜査部(CID)派生のスナーク班だ。スナークの取り締まりを業務にしているのだから、ジジをパートナーなんかに持つのは本来ありえない。そもそもジジは刑事でもなんでもないのだ。

 紆余曲折(うよきょくせつ)を経て現状に収まっているわけだが、ともかく、これだけは言える。

 ジジの力は信じていい。今までの付き合いで証明済みだ。

 だから、少女は嘘をついていない。子供ができたというのは本当のことなのだ。十三歳以上になれば女子は法でも婚姻と性交を認められている。問題はない。だが、それでも、まだ幼さの残る目の前の少女のようなものが妊娠となると面食らってしまう。

「もちろん、あんたの子よ」

 嘘だ。ジジが首を振った。

「覚えてないでしょうけどね。ほら、きっとあの日よ。あんたが酔いつぶれた晩のこと。淡泊で奥手なあんたが激しくて、わたし、もう……」

 嘘だ。ジジがやっぱり首を振る。

「責任を取ってやるよ」

 少年が答えた。本当だ。ジジがうなずいた。

「お前のことを愛しているから」

 嘘だ。ジジが首を振った。

「嬉(うれ)しいなあ、おれの子かあ」

 嘘だ。これまたジジが首を振る。

「結婚しよう」

 本当だ。ジジがうなずく。

 少女は、嬉しい、と少年の首に抱きついた。一緒に暮らしましょう、などとごく軽く将来の約束をして、それじゃあまたあとでね! とパブから出て行く。

「やめとけ」

「痛って!」

 残された少年に向かって手を伸ばしかけたアッシュは、ジジに後頭部をはたかれた。

「な、なにするんだよ、なんでだよ!」

 アッシュは声をひそめてジジに体を寄せる。

「だって、おかしいだろ。二人とも、思ってることとやってることがちぐはぐだ。いったいどういうつもりなんだ? 大体、あの若さで子供を持つって……」

「そう珍しいことでもない。お前から、いや、お前の階層から言わせれば無教養ってことになるのかもしれないが」

「彼女はどうしておなかの中の子の本物の父親と結婚しないんだ」

「めでたいな。そうできないからに決まっているだろうが。逃げられたのかもしれない。殴られたのかもしれない」

「ひどい!」

「ああ、ひどい。だが、よくもてる、つまり性的に魅力的な男は、たいていの場合、家庭作りの才能がない。野性的で、生き急いで、ひとつのところに収まるのが苦手で、およそ父親なんかにゃ向いていない」

 この男、放浪癖のある自分のことを魅力的だと主張したいんじゃあるまいな、とアッシュは半眼になってジジを見た。ジジは意に介さず続ける。

「あるいは、そうだな、さらにお前の言うところの“ひどい”相手なのかもしれない。自分の実の親だとか」

「……は?」

「血の繋(つな)がった父親から無理やりそういうことが行われたとする。だとしても現在の法律ではなんの問題もない。よしんば娘が裁判を起こせたとしても、証拠不十分ということにされて、不起訴だ。父親は世間からは非難されるだろうが、実質はおとがめなし、だな」

「ひどい! そんなのは! 親のやることじゃない!」

 アッシュは声を荒げる。店内中の視線がアッシュに向けられる。興奮しているアッシュの代わりに、ジジが片手をひらひら挙げて周囲に謝罪の意を示した。非常に不本意そうに、ではあったが。俺は子守役じゃない、とでも言いたげだ。

「落ち着け。なにもそれが事実だとは言ってないだろう」

「じゃあなにが事実だ」

「さてね。俺がわかるのは嘘をついているかどうかだ。真実を究明する力じゃない」

「やろうと思えばできないこともないだろう。わかるのは嘘だけじゃないんだから。もっと有効に使えるはずだろ、あんたの力。なんでそう使いかたが下手(へた)なんだよ」

「お前は今まで俺のなにを見ていたんだ? 力なんかたいしたもんじゃない。俺の話はただの雑談だ。いくつかある可能性のうちのひとつ。あの少女は、たとえば暴漢に襲われたとも考えられるしな。仮に犯人が捕まったとして、それが計画的犯行だと発覚しても罰則は」

「……三ヶ月の禁固刑程度」

「ああ、それくらいだろうな。いや、むしろ罪になったらいいほうだ。被害者が死にそうなほどの怪我(けが)を負っていなければ、十分な抵抗をしなかったとみなされる。非があるとされてしまう。法廷じゃ、女である、ただそれだけで不利だ。その場合、犯人はやっぱりおとがめなしになる」

「ひどい! そんっ……」

 最後まで言わせてもらえなかった。ジジの手が顔面に叩(たた)きつけられたからだ。骨ばった指が頬に沈む。口をふさがれたのだ。うるさくするな、ということだ。

 アッシュはジジの手を引っぺがす。ひりひりとする頬をさすって、むっつりと唇を引き結んだ。ジジの所業に対して怒っているわけではない。

 外は暗くなり、霧が立ち込め、ひんやりとして湿っぽい空気に満たされている。きっとパブの古びた窓から漏れる光は、柔らかで、ぬくもりがあるように見えているだろう。だが、実際には、中にいるアッシュは寒々しい気分になっていた。少女の不遇に思いを馳(は)せたせいだ。同時に、ジジと組むきっかけになった事件が脳裏によぎったせい。

 まったく許せない!

 声に出してはいないのだが、ジジが右の耳の奥に指を突っ込んだ。迷惑そうに顔をしかめている。

「気に病むな。あの少女からは悲壮感溢(あふ)れる音なんてまったくしていなかった。最初に言ったとおり、単に、腹の中の子の本当の父親がろくでなしだったんだろうさ」

「……じゃあ、やっぱり、手堅い男を適当に騙(だま)そうとしているってだけ?」

「ああ。したたかなもんさ。よかったな」

「いや、よくはないだろ。たとえ彼女がとびっきりのひどい目に遭ってたとしても、だめだよ。それとこれとは別だ」

「ご立派なことで。彼女なりの生きていくための知恵だと考えてやることはできないのか。今の世の中、パンは高いからな。人の血肉(死)よりもよっぽど手に入れにくい」

「それにしたって。いくら劣悪な環境で、生きづらかったとしても、していいことと悪いことが……」

「実に高潔でいらっしゃる。毎日の食事の心配もなくお育ちになった方は違うね」

 ぱち、ぱち、ぱち、という乾いた拍手。称賛されていないことくらいはわかる。

「お前の言う絵空事で腹が膨れりゃいいんだがな。なかなかそうはいかない。人生にはうるおいが必要だ」

「あ、ちょっと、飲むつもりかよ、こんな話してる真っ最中に。うるおいが必要だから喉をうるおそうって? あんたには繊細さってものはないのか」

「俺ほど繊細なやつはそういないぞ」

「黙れよ。待て、だ、待て」

 グラスを持ったジジの手首を握って止める。つい、犬に対する命令のような口調になってしまった。ジジは空いているほうの手でぺちりとアッシュの額をはたく。

「痛いな!」

「しつけられた覚えはないからな。嚙(か)みつくんだよ、俺は。わん、わん」

「こっちだってあんたを飼った記憶なんかないよ。無駄吠(むだぼ)えするくらいなら僕ともっと話してりゃいいだろう」

 アッシュはグラスにへばりついているかのようなジジの頑固な指を苦労して引きはがす。ジジは肩をすくめた。

 アッシュのしつこさは身に染みているのだろう。一通り話に付き合ってやったほうが早く酒にありつけると踏んだらしい。おそらくだが、とジジは自分から口を開いた。

「少年は酔いつぶされただけなんじゃないのか。実際子供を作る行為すら行われてない。淡泊で奥手だというのなら、これからも手は出さないかもな」

「ありもしない一夜のあやまちで、なんの見返りもなく、これからただ生活費だけを払っていくのか?」

「そういうことになるな」

「子供を作ったって嘘をつかれて、自分の子じゃないってわかってて、しかも相手を愛してなくて、それでいて責任を取る? どうしてそんなことをするんだよ」

「子供がすごく好きなんじゃないのか。誰の子でもいいから育てたくてたまらない」

「……あんた、それ、自分で言ってて納得できてるか? 説得力がない。そんなんならこんなところに来ずに蓄えて救貧院にでも行くだろ」

「そうかね」

「そうだよ。もしかして、ものすごく押しに弱いのかな。女の子に対しては気が弱いとか。……もしそうなら、産まれてくる子がかわいそうだ。不本意で引き受けて、しかも、実の子じゃない。とてもじゃないけど愛してもらえそうにない」

「どうかな。血が繋がっていたって愛されるとは限らないだろう」

 血筋をなにより重んじるこの国で、驚くほどさらりとジジは言う。

「……そんなの、血が繋がっていないからって愛されるわけでもないだろうが」

「そのとおり。運でしかないってことだな。親から愛されるのは当然じゃない。愛されるのは奇跡だと思っておけばいい」

「愛されないのが普通なら失望もしないから?」

「まさに」

「欺瞞(ぎまん)だ」

「どこがだ? 家族愛なんて世間が言うほど満ち溢れているわけがない。存在しないことで落ち込む必要はない。まして与えられなかったせいで大事なものが欠落しているのかなんて不安がる必要もない。考えてもみろ、どこにでもある退屈なものだったら誰がクリスマスやらなんやらの物語の題材になんかするんだ。なくて当たり前なんだ、……どうした。面白くないって顔だな」

「なんでそう斜に構えてるんだよ。あんたの考えはいつだって僕と真逆なんだ」

「そりゃ結構なことだな。お前とそろいの頭の中身なんてぞっとする」

「ふん。中年は擦れててご苦労なことだな。さぞかしつらい家庭で過ごした幼少期だったん……」

 言いかけて、ジジから少し前に教えてもらったばかりの彼の生育環境を思い出した。

「いいや。家庭には恵まれていたな」

 ジジは顔色ひとつ変えず平然と言う。嘘をついているようには見えないのだが、どう考えたってそんなわけがない。傷口をえぐってどうする。

「そんなことより、だよ!」

 慌ててアッシュは話を戻す。

「本当に、あの少年(彼)はどうして結婚を了承しちゃったんだろうな」

「ほっておけよ」

「父親ってのはこんな簡単になっていいものなのかよ」

「お前も二十……いくつだ? その歳(とし)なら一度くらい思ったことはないのか?」

「なにを」

「大人っていうのは子供のとき思っていたよりも大人じゃないなってことを、だ。父親だってお前の考えるような絶対的な存在じゃない。神でもなんでもないのさ」

「なにを知ったふうな、……あんたって子持ちなのか?」

「お前に関係ない」

「なあ、おじさんたち。聞こえてるんだよ、さっきから」

 二つ席を挟んで隣から、不機嫌なアルトが投げつけられた。少年の声だ。少年は目をすがめてこちらを睨んでくる。

「おじさん、たち……?」

 アッシュの口の端がひくりと震える。いっしょくたの扱いをされてしまった。普段さんざんジジのことを中年だなんだとからかっていたというのに。

「勝手にこっちの事情に踏みこんでくんなよ。好き勝手に言ってくれちゃってさ」

「すまない。まったくだな。お前さんの言うとおりだ」

 ジジが応える。

「詫びよう。このおじさんに奢(おご)ってもらえ」

「えっ?」

 突然の提案に、思わずジジの顔を見る。ジジはぱちりと器用に片目をつぶってみせた(あんたは僕をおじさんと呼ぶな、このおじさんめ)。

「俺の分は出さなくていいからそうしてやれ。これから入り用だろうしな」

「いいのか? へへっ、ありがとな」

 少年は丸い形をしたゆでプディング――羊肉とスグリから作られている――を嬉々として頼んだ。運ばれてきたそれは、ずいぶんこってりとしているように見える。ゆでプディングからは口の中を火傷(やけど)しそうなほどの熱い湯気が出ていた。少年は右手に左手にほいほい投げて冷ましている。

 あっという間にアッシュが金を出すことで話がまとまってしまった。アッシュはジジに一言言ってやろうかと口を開きかける。だが、ジジが少年に話しかけるほうが先だった。

「お前さん、ロンドン(ここ)は長いのか?」

「え? あー、もしかして訛(なま)ってる? 数年前に出てきたんだよ」

「出稼ぎか?」

「そんなとこ」

「嘘だな」

「え?」

「いや、なんでもない」

 少し不穏な空気が漂う。

「……なに、おじさん? もしかしておれの子供についてなんか言いたいことでもあんの? 頭が堅いジジイの説教なんてお断りだよ」

「そうおじさんを嫌ってくれるなよ。お前さんみたいに若いやつからみたら野暮ったくて辛抱ならないんだろうが、誰でもおじさんになるまで生きられるわけでもないご時世だ」

「だから? 無駄に長生きした目上を敬えって?」

「突っかかるなあ、お前さん。なんだ、もしかして、うらやましいのか? お前さんがおじさんになれないからって」

「なにを……」

 小馬鹿にしたような態度だった少年は、ふいに息を呑(の)んだ。彼の目に映っているのは、ジジのなにかを見透かしている琥珀(こはく)色の瞳だ。それから、いっそわざとらしいほどの、いや、実際わざとなのだろう、見下した笑みを浮かべる口元だ。まるで、道化を前にしたときのような。少年はかっと怒りに顔を染める。

「うるさい!」

 誰よりもうるさく少年は叫んだ。いきなり立ち上がると、ジジの背中に一発、力のままに拳を叩きこむ。そのまま外へと走り去っていってしまった。アッシュは呆然(ぼうぜん)と見送る。ジジは軽くせきこんでいた。

「あ、あんた、なんでいきなり喧嘩(けんか)なんか売ったんだ?」

 我に返り、アッシュがジジに問いかける。

「喧嘩?」

「おじさんになれない、それ、お前の命はここで俺が終わらせるぞってことだろ?」

「そんな物騒なことを言うわけあるか」

「違うのか? 大体、なんでやられっぱなしなんだよ、避(よ)けるなりしろよ」

「そりゃ無理な相談だ」

「あんたにできないわけがないだろ」

「気の済むようにさせてやらなきゃ泣きだしていたかもしれないからな。秘密を暴くような真似(まね)をして悪いことをした。お前が余計な口を出してつつくよりはましだと思ったんだが」

「なんの話をしているんだ」

「前に言ったろう。俺は泣かせる趣味はないんだ。それがたとえベッドの上でもな」

「はあ? それは女性相手の話であって……」

「ああ」

「え?」

「そうだ」

「……え?」

「そうそう」

 ジジがなにを肯定しているのか。行きついた結論は、そう難しいことではないが、にわかに信じられない。

「………………今の、女の子?」

「多分な」

「えええええええ!? なんで男装なんか……」

「さあな。人にはいろいろ事情があるだろうさ。確かなのは、あいつが周囲から男と認識されるように生きてきて、これからもそう生きたがっている、ってことだけだ」

「……あ」

 ジジの言葉に、アッシュはなぜあの少年、いや、男装の少女が父親になろうとしていたのかを察する。

「あの子たち、利用してたのはお互い様ってことなのか」

「そういうことだろうな」

「愛してもない、自分のでもない子を腹に宿している少女と結婚したがった理由はそれか。妻と子を持てば自分が女だって疑われることもない……」

「Your MONEY, or your LIFE。強盗の常套句(じょうとうく)だ。『命』が惜しければ『金』を出せ。……ただし、あの男装の少女は逆で」ジジは指を拳銃の形にして自らの腹に向けた。「『金』が惜しければ『命』を出せってところだな。金を出してやるからお前とお前の赤ん坊をよこせ、なんてな」

 なるほどな、と相槌(あいづち)を打ちかけて、アッシュは、いやいやいや、と首を振る。

「ちょっと……、あまりにも短絡的すぎないやしないか!?」

「まあそうだな」

「やっぱり子供なんだよ、あの子たちは。二人とも、まだ。あれで本当に親になんかなれるのかな。幸せになれるのかな。どこにも愛がない、嘘ばっかりの家族だ。偽物の家族……。子供が生まれてもすぐ手に負えなくなるのが目に見えるようだ」

「心配するなよ。そうなったら棒付きキャンディーでも与えるだろうさ。わざとじゃなくて、ついうっかり、な」

「なんだそれ。甘やかすってことか?」

「いいや。お前のところの班長様が俺に食わせようとしたのと同じことさ」

「……つまり?」

「混ぜ物がしてあることで有名なんだよ、世間知らずのお坊ちゃん。場合によっちゃ即死だ」

「は!?」

「焼き石膏(プラスター・オブ・パリス)くらいならまだいい。砒素(ひそ)が入っていることがある。どちらも見た目は砂糖と同じく真っ白だ。店主は無知で、ちょっとした健康被害で済むと思っている。捕まるまでは売り続ける。そうして、あれよあれよと死の販売店のできあがり、だ。可愛げのないお子様を持つ親はそういう店で土産に飴(あめ)を買う。悲劇が起こる。計画的な悲劇がな」

「殺人じゃないかよ! ……子供が欲しい人はいっぱいいるだろうに、あんまりだ」

 ジジの入院の原因となった事件。そして、それは同時にアッシュの心の片隅に影を落とす事件でもある。今回のことはそのことを少なからず思い出させる。だからこそ過敏になっているのかもしれない。

「お前の気持ちはわからんでもないがな、お坊ちゃん。必ず不幸になるって見立ててやるな。俺の言っていることはただの想像だぞ。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。円満な家庭を築くかもしれないだろう。本物か偽物かなんてどっちでもいいんだ。うまくまわりゃあそれでな」

 楽天的なことを、と思ったが、正論でもある。未来がどうなるかなんて誰にもわからない。

 ジジは少年が手つかずで残していったゆでプディングを店主に運んでもらっていた。すっかり冷めているそれには、味が濃くておいしそうに見せかけるために糖蜜が用いられている。だが、それはたいていの場合は節約されている。見せかけるためだけ、つまり、口当たりについては度外視だからだ。

 ジジの口の中には見た目よりもずいぶん素朴な風味が広がっているはずだ。

 外面だけではわからない。一目見ただけで判断するな。そういうことがこの世界にはたくさんある。アッシュはいい加減それを学ぶべきなのだろう。なにせ、今までさんざん引っかかってきた。

「……あれ。そういやあんた、あの少年が女の子だって最初からわかってるふうだったな。力を使ったのか?」

「使っちゃいない。力は関係ない。もしかして、と思ったのは、お前が帽子を落としたからだ」

「え?」

「そのときに、あの少年は、こうしただろう」

 ジジはその長い足を大きく開いてみせた。まさに少年がしたのと同じように、だ。

「スカートだったら帽子を受け止められただろうな、という動きだろう?」

 確かに、足と足の間、スカートの布地がぴんと張って広がるはずだ。

「癖なんだろうな、と思ったんだ。幼い頃は、いや、ロンドンに出てくる前は、か? スカートをはかされていたんだろうな、なんてな」

「ああ! ……うん? いや。えええ? でもそれ、たとえそうだったとしてもだよ。逆にさ、昔、女装させられてた男の子って可能性だってあるだろ」

「そりゃそうだ」

 ジジはあっさりと認めた。

「真実なんて見方によっていくらでも姿を変えるんだから、お前の見たいように見ればいいさ」

「適当だな」

「自由だと言ってくれ」

「ぬけぬけと……」

「俺はな、お前とは違うんだよ、お坊ちゃん。やけに親が子供を愛せるかどうかにこだわって、とらわれて、束縛されているのが大好きなお前とは、な」

「なんなんだよ、あんた。あんな事件があったあとだぞ。そりゃ誰だって……」

「それだけか? 本当に? 本当にそれだけ?」

「……なにが言いたい」

「お前はシンデレラが幸せになった理由をきちんと考えたほうがいいな」

「なんだよ、いきなり」話の繋がりが見えない。「……そんなの、王子に見初められたからだろ?」

「違う」

「魔法使いに会ったから?」

「違う。お前はお留守番をしていなさい、という親の、まあ義理の親だが、それでも親の言いつけに背いたから、だ」

「別に僕は親の言いなりになんかなってない」

「別に俺はお前の話なんかしてない」

「どの口が言ってんだ」

「お利口さんにしててもいいことないぞって教訓だな」

「……僕がお利口さんに見えてるのか?」

「さてね」

 なにをやらかしても刑事でいられるのは幹部である親の威光のおかげだと思われているのだろうか。それとも、父親への反逆心から警察に所属したことが、結局父親ありきの選択でしかないと揶揄(やゆ)されているのだろうか。

 どこまで知られているのだろう。あてこすりなら遠回しすぎる。だが、こちらから積極的に掘り下げたいような話題ではない。真っ向勝負しかできないアッシュなのに、引き下がるしかないのだ。胃のあたりがもやもやしてくる。

「……なんだか、あんたと一緒に飲むと酒がまずくなりそうだな」

「おっ。少しは情緒ってもんがわかってきたじゃないか」

「余計なお世話だ」

「まずい酒を無理に飲むことはないぞ。俺が二杯やるさ」

「飲まないとは言ってない!」

 アッシュはむきになって、一気に喉の奥にパンチ酒を流し込んだ。やれやれと横目でそれを見ていたジジは、ふとなにかに思い当たったようで、アッシュに体ごと向き直った。

「がばがば飲むなよ、お坊ちゃん。そうやって飲むと、味なんかわからないらしいからな? 丁寧に飲めよ、丁寧に」

 ここぞとばかりにアッシュに言われた言葉をそのまま返すと、ジジは意地悪く笑ってみせた。

【END】