家から、『暗号』が出てきた。

 それは、物置部屋の隅に置かれた段ボールの一番底に入っていた。

 ――チラシの切れ端。その裏面に、黒のマジックで、こう書かれていた。


《710 46000 126》


 おれは、謎の数字が書かれたチラシの切れ端を指でつまみ、顔の前に持ってくる。

 ――ん? 『暗号』?

 そこでふと、憑(つき)き物が落ちるというか、我に返るというか、なんというか冷静になった。よくよく考えれば、それはただの数字の羅列だった。意味が分からないというだけで、暗号と決まったわけではない。

 思わず自嘲的な笑みがこぼれる。

 おれが数字の羅列を見ただけで、真っ先に『暗号』を連想してしまったのは、隣に――三輪ケイトがいるからだ。

「……たっくん」

 ケイトが、そう呟(つぶや)いて、おれの袖を軽くつまんでくる。

 ケイトはおれのことを『たっくん』と呼ぶ。真銅達己(しんどうたつき)の達己から『たっくん』。おれは、自分でいうのもなんだが、強面(こわもて) で、格闘家に間違われるくらい体格もよく、『たっくん』なんて呼ばれる柄ではないのだが、昔からの愛称であるため仕方がない。

 おれたちは、九歳のときにケイトが隣に引っ越してきてからの付き合いで 、今でも同じ大学に通う幼なじみだ。

「なんだろうな、この数字?」

 呼びかけられたので尋ねてみたのだが、ケイトから返事はなかった。ケイトは、じっとメモに書かれた数字を見つめながら、飴をなめているみたいに口をもごもごと動かしていた。

 それは――『暗号』を解読しているときに見せる癖だった。



 話は、三十分前に遡る。

 どうして、遡るかといえば、ケイトがおれの家にいる理由をまず説明しなくてはならないからだ。

 それは、とても稀(まれ)なことで、おれの家で、おれの隣に、ケイトがいることは当たり前のことではないのだ。そこをまず、しっかりと説明しなくてはいけない。

 ――おれは、物置部屋の大掃除をしていた。

 正確には、させられていた。昨日親父(おやじ)に、命令されたのだ。どうやら、その部屋をトレーニングルームにしたいらしい。

 部屋にあったのは、ほとんどが親父の気まぐれで買った物だった。釣竿(つりざお)、プラモデル、ジグソーパズル……。どれもこれもほぼ新品で、一度も開封されてないものさえあった。ダンベルが出てきたときは、腹が立つのを通り越して、思わず笑ってしまった。この部屋をトレーニングルームにすること自体が、親父の気まぐれなのだ。

 それらを整理しながら、全部ネットオークションいきだな、と考えていたところ、チャイムが鳴った。

玄関へ向かい、扉を開けると――ケイトが立っていた。ケイトは、顔を赤らめながら、モジモジと両方の袖を意味もなく擦(こす)り合わせている

 よく見るとケイトの後ろに知らない男が立っている。四十代くらいで、眼鏡(めがね)をかけてスーツ姿だった。男は、少し申し訳なさそうに、また、少し困惑していた。

 ケイトは、何か言いたそうに上目遣いでおれを見つめ、助けを求めていた。

 おれは、すぐに事情を察した。

 おれの家の隣に住む幼なじみ、三輪ケイトは――アメリカ人の父親と日本人の母親を持つ、いわゆるハーフというやつで、いわゆる美人だ。

 スーツの男は、芸能関係者で、ケイトをモデルだとか女優だとかにスカウトするために、家へ直接押しかけたのだろう。これまでにも似たようなことが何度かあった。

 だがこの男は、ケイトのことを誤解している。ハーフといえば、テレビの影響なのか、自己主張が強く陽気な性格だと思われがちだが、ケイトは――極度の人見知りで恥ずかしがり屋なのだ。服屋のマネキンとすら、ろくに目を合わすことができないのに……。

 ケイトが、おれの家にスーツの男を連れて来たのも、自分で断ることができないからだろう。

 おれは、顎を少しだけ上げ、睨(にら)みつけるようにして、一歩前に出て言った。

「人には、得手不得手があるんだ。諦めてください」

 熊みたいながたいをしているおれが、そう言うと大抵の人間は諦める。だが、男はなかなか肝が据わっているのか、怯(ひる)みながらも、必死に食い下がってきた。

「あっ、あなたは、誰ですか? ケイトさんの彼氏ですか?」

 予想外の抵抗、予想外の言葉に、

「なっ」

 と思わず声が上ずった。横目でケイトを見ると、熱を出しているみたいに真っ赤になっていたので 、余計に気が焦った。

「幼なじみだ!」

 おれは、半ば無意識にそう叫ぶと、ケイトの腕を引っ張り、家に引きこみ、扉を強引に閉めた。

 その後のことは、何も考えていなかったのだ。

 ――おれの家の玄関は、それほど広くない。ケイトを強引に引きいれてしまったがために、互いの呼吸が聞き取れるくらいの距離で、向き合うことになってしまった。気まずい沈黙が おとずれた。

 ケイトのつむじが目の前にあり、おれの頭の中を竜巻みたいにかき乱した。それでも、何か言わなければと必死に言葉を探し、ようやく出たのが、

「あがっていくか?」

 だった。おれの記憶の中で、ケイトがおれの家にあったことは一度もない。いつも玄関どまり。自分でもどうしてそんなことを言ったのか分からなかった。

 ケイトは、胸に食い込まんばかりに顎を引きながら、申し訳なさそうに言った。

「……ありがとう」

 それは、イヤホンの音漏れ程度の小さな声で、おれには肯定にも否定にも、どちらの意味にも取れ、次の言葉が出せなかった。

 と、ケイトは、おれの腕のあたりに視線を落とした。

「……何かしていたの?」

 またしても、虫の羽音ほどの小さな声。おれが服の袖をまくりあげていたからだろう。おれは、事情を説明した。

「あぁ、昨日親父に物置部屋の整理を頼まれて、片づけをしていたところだ。 トレーニングルームにしたいらしい」

「……じゃあ、助けてくれたお礼に、それを手伝う」

 ケイトにとっては、かなり勇気のいる言葉だったのだろう。ハーフとはいえ、日本語はペラペラであるはずなのに、少し片言になっていた。

 そうして、おれたちは物置部屋の整理をすることになったのだ。

 とはいえ、実際、ケイトができることなんて何もなかった。ただ、おれの作業を見つめ、たまに親父のがらくたを右から左に移動していただけだった。

 そんなこんなで、三十分ほど片づけをしていると、部屋の片隅に大量の埃(ほこり)を被った段ボール箱を発見した。

 うまく説明できないのだが、その段ボール箱は、他とは何かが違って見えた。大量の埃を被っていた が、それでも、特別な何かが入っているような気がした。

 おれは、埃を払うと、段ボール箱を開けた。そして、自分の直感が間違っていかったことを知った。

 そこには、母親の形見が詰め込まれていた。おれの母親は、おれが物心をつく前に病気で死んでしまった。

 おれが、どんな顔で段ボールの中を見ていたのか分からないが、すぐにケイトが声をかけてきた。

「……これ、たっくんのお母さんの?」

「あぁ」

 ケイトもどこか寂しげだった。おれは、ケイトの父親を直接見たことが一度もない。隣に引っ越してきたときには、母の早苗(さなえ)さんしかいなかった。

 ケイトの父親に何があったのか、聞いたことは一度もないが、おそらく父親のことを思い出しているのだろう。

 三つの数字が書かれたチラシの切れ端は、その段ボール箱の一番底に入っていた。


《710 46000 126》


 おそらく、母親が書いたものだろう。親父の字とは明らかに違う。チラシは、スーパーの広告で、随分と古いものだった。

 おれは、ケイトに改めて尋ねた。

「これは、『暗号』なのか?」

「まだ分からない」

 ケイトは、これまでとは違って、はっきりとした口調でそう言った。メモを見つめる目も力強い。

 先程、スカウトの男に、『人には得手不得手がある』と言ったが、ケイトにとって、他人とのコミュニケーションを得手とするならば、これこそが得手だ。

 ケイトは、極度の人見知りだが――『暗号』を前にすると人が変わるのだ。

 どうやらそれは、アメリカ人の父親の影響らしい。ケイトの父親は、NSA(アメリカ国家安全保障局)の暗号開発の部門で働いていて、ケイトに幼少期から暗号をクイズと称して出題しては、解読させていたそうだ。

 ケイトは、『暗号』に集中すると、一時的に、他人の存在が目に入らなくなり、行動も大胆になる。

 ケイトの母、早苗さん曰(いわ)く――暗号中毒者(コードジャンキー)なのだそうだ。

 ケイトの口が、閉じられた状態で飴(あめ)をなめているみたいにもごもごと動く。口の中で『暗号』を転がせているのだ。さらに、左手の人差し指で、栗色の癖毛を巻きつける。

 全て、『暗号』を解読しているときに見せる癖だった。

 だからといって、これが本当に『暗号』かどうかは分からない。ケイトは、暗号中毒者であるがゆえに、どんな文書でも、何かのマークでも、数字の羅列でも、それが適当に書いたなんの意味もない落書きであったとしても、まずは真剣に向かい合い、その意図をくみ取ろうとする。

 おれは、もう一度メモに目を落とす。

 そういえば、と一つ思い出すことがある。以前、早苗さんが、ケイトに「これなんだか分かる?」と数字の羅列を書いたことがある。

《11410649106841》

 それは、早苗さんの青春時代に流行った、ポケットベルで用いられていた数字の語呂合わせだった。

 ポケットベルは、『かけてほしい電話番号を送る』ためにあったのだが、当時の若者は、数字の語呂合わせで作ったメッセージ(今でいうメールのようなものだろうか)を送っていたそうだ。

 ちなみに早苗さんが出題した数字は、《愛してる。至急、TEL欲しい》という意味になるらしい。

おれの両親も、年代的に、青春時代はポケットベルを使っていただろう。この三つの数字はその類(たぐい)かもしれないと、頭の中で、語呂合わせを作ってみる。

 だが、《710 46000 126》では、うまく言葉が作れなかった。

 ……語呂合わせではないか。

 おれの頭では、これが限界だった。数字を意識的に読み上げ、ケイトに尋ねる。

「《710 46000 126》。――この数字は、なんなんだ?」

 ケイトは、眉間に少し皺(しわ)を寄せながら、悩ましげに言う。

「まだ分からないけど……一つ気づいて、一つ分かったよ」

 ――一つ気づいて、一つ分かった?

 おれには、どこからか風が吹き込み、ケイトの髪を一瞬ふわりと持ち上げたように見えた。

「教えてくれ」

「まず、『気づいた』のは、《710》。これは、《710》じゃないよ。よく見て」

 おれは、目を凝らす。

 思わず、「あっ」と声が漏れた。確かに、それは、《710》ではなかった。小さな点が『7』と『1』の間に打ち込まれていた。つまり――。

「《7.10》か」

 ケイトは、頷く。……が、その上で、否定する。

「たっくんが思っていることとは、多分、違うんだけれど……」

 ――どういう意味だろうか?

 だが、一つ引っかかるのは、なぜわざわざ《7.10》と『0』をつけたのかだ。《7.1》でもよかったのではないか。

 おれは、とりあえず保留し、ケイトにもう一つの『分かったこと』について尋ねる。

「……『分かったこと』は、残りの《46000》と《126》。《46000》を《126》で割ってみて」

 暗算してみる。そして、気づいた。

 ――《46000》を《126》で割ると、約『365』になる。

 一年の日数だ。ということは、《46000》は日数で、《126》が年数ということになるのだろうか。

「……あっ、そうか!」

 そこで、《7.10》が何を意味するのか、気づいた。この点は、小数点ではなかったのだ。

「これは……『七月十日』という意味か」

 ケイトがこくりと頷く。

 おれは、改めてケイトの洞察力に感心した。チラシの裏に書かれたただの三つの数字から、瞬時にここまで導きだせるとは……。

 ケイトがいつか 言っていた。


――『暗号』には、強い思いが込められていると。


 だが、ケイトはそこで、行き詰っているようだった。『七月十日』と『46000日』と『126年』に、どんな関係性があるのか、見つけきれないのだ。

 おれも、いつのまにか、三つの数字と真剣に向かい合っていた。この数字に、母親のメッセージが込められているのならば――解読したい。

 段ボール箱に両手を突っ込み、何か手がかりがないかと探る。

 ケイトから、以前聞いたことがある。『暗号』には必ず解読するために『鍵』がいる。この三つの数字が、『暗号』かどうかは分からないが、『鍵』となるヒントが段ボール箱の中に隠されているかもしれない。

 段ボール箱の中には、母親の思い出が詰まっていた。友人からの手紙や、若き日の親父と並ぶ写真、その旅行で買ったのであろう土産品、おれが描いた絵まで出てきた。

 そして――あるものを見つけた。

 それは、三つの数字が書かれたチラシの切れ端と同様に、箱の一番底にひっそりと入れられていた。

 ――お守りだ。『安産御守』と書かれていた。

 ケイトは、そのお守りを見た瞬間に、ふっと体の力を抜いた。周囲の空気も幾分緩んだ気がした。

 おれは、そんなケイトの表情を見て、悟った。

「分かったのか?」

 ケイトは、小さく頷いた後、微かに笑みを浮かべ、言った。


「――解読したよ」


 おれには、ケイトの周囲を文字や数字が祝福するようにフワフワと浮かんでいるように見えた。

 そして、ケイトはおれに三つの数字が何を意味するのか教えてくれた。

「――これは、四万六千日(しまんろくせんにち)だよ」

「あぁ、そうか!」

 おれは思わず声を上げた。どうして、それに気づかなかったのだろう。

 ――四万六千日。

 七月十日の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の縁日のことで、この日にお参りに行くと、一回で四万六千日分の功徳があると言われている。

 おれの誕生日は――八月だ。

 ふと、こんな光景が浮かんだ。

 腹を大きくしたおれの母親が、テレビか何かで『四万六千日』のことを知った。近くにあったチラシで作ったメモ帳を手に取り、七月十日に行けばいいと《7.10》と書いた。さらに母親は、四万六千日が、何年分に相当するのだろうと計算を始めた。

 そして、《46000》、《126》とメモ帳に書き込んだのだ。

 ――母親は、大きくなったお腹をさすりながら微笑(ほほえ)んでいる。

 手の中の『安産御守』と書かれたお守りが、微(かす)かに熱を帯びたような気がした。その熱がおれの体に伝わり、体を温めていく。

 三つの数字は、『暗号』ではなかったかもしれない。だが、おれは確かに母親の『思い』を受け取ったのだ。

「ありがとう」

 素直に心から湧き出た言葉を口にした。母親に対して。母親の思いを解読してくれた――ケイトに対して。

 ケイトは、いつのまにか、いつものケイトに戻っていた。恥ずかしがり屋のケイトに。

 先程まで、大胆に『暗号』を解読していたことを恥じているのか、顔を赤くし、うつむき、床の木目をなぞっていた。

 そして、とてもとても小さな声で、おれにこう言った。

「よかったね」