――僕らあやかしと恋に落ちる代償を、君は払えるかい?


「蘇芳(すおう)殿! 助けてください~!」

 叫び声と共に、部屋に転がり込んできた茶色のたわしを受け止める。

 すると僕の手の中でたわしに目がぱちぱちと現れ、にょきっと小さな手足が生えた。

「伝兵衛(でんべえ)? どうしたの? 母屋まで来て」

「すみません、蘇芳殿。喜八(きはち)殿と出雲(いずも)殿を諌(いさ)めようとしたのですが……」

 喜八? と目を縁側に向けると、鎌が刃をギラギラさせながら、伝兵衛と同じように手足を柄(え)の部分に生やして、こちらに向かって駆けて来ていた。

 またか、と溜息(ためいき)混じりに肩を落とすと、鎌に続いて桶(おけ)の出雲も大きな体でゴロゴロと転がりながら姿を現した。

「げっ、蘇芳!」

「わっ、蘇芳様!」

 二人は僕の顔を見るなり、ぴょんと飛び跳ねて後ずさりした。

 逃げられないように開いていた障子を閉め、部屋に閉じ込める。

「ちょっと、二人とも。また何かもめごと?」

 二人の前に座り込んで、じーっと睨(にら)みつけると、慌てたように弁解を始める。

「ち、違いますっ! 伝兵衛のやつ、いちいち俺に口出ししてくるんで、売り言葉に買い言葉で言い争いになっただけですよ!」

「そうなんです、喜八さんは悪くないです! さっきも喜八さんが刃の切れ味を試してやるって、近くにいたまだ目覚めていない藁(わら)人形に刃を掛けようとしたら、伝兵衛が止めてきて……。せっかく盛り上がっていたのに、興を削がれたんですよ!」

「そうだそうだ! まだ目覚めていないなら構わないだろ!」

「そうですよ! 我々と違って、『ただの物』ですよ! それなのに伝兵衛がやいやい言ってくるから!」

「い、言いますよ! 黙って見ていられませんっ!」

 僕の前で伝兵衛たちが言い合いを始める。

 それを遮るように、はあーと大きな溜息を吐(つ)くと、三人はぴたりと口を引き結ぶ。そうして顔を見合わせて、僕を恐る恐る覗(のぞ)き込んだ。

「……喜八、出雲。まだ目覚めていない『ただの物』だとしても、蔵に置いておけば、明日目覚めるかもしれないでしょ? 僕らが棲(す)むあの蔵は特別なんだって、何度言えばわかってくれるかな? 僕がその場にいたって、伝兵衛と同じように口出しするよ。伝兵衛は悪くない。間違いなく喜八が悪い。騒ぎに便乗して二人を止めようとしなかった出雲も同罪だ」

 僕の怒りを感じ取ったのか、喜八と出雲は顔を上げようとせず、ひたすら俯(うつむ)く。

「喜八、どうして君はそんなに喧嘩(けんか)っ早いんだろうね。これで何度目かな? いくら僕でも、もう見逃しておけないよ? 君が切ろうとした藁人形のように、いっそのこと壊し――」

「――蘇芳。待って」

 ふわりと薫(た)き染められた甘い香が鼻をくすぐる。顔を上げると、閉じたはずの障子がいつの間にか開いていて、その向こうで黒髪の美しい女性が僕らを見下ろして優しく微笑(ほほえ)んでいた。

「壊す、なんて言ってはダメよ。きっと喜八にもそうしたかった理由があるはず。喜八、どうして試し切りなんてしようとしたの? 蔵の中の物たちは、目覚めていなくても皆大事な物に変わりないって言ったでしょう?」

 まだ幼さが残る顔で微笑むから、彼女は実年齢の十六よりも年下に見える。

 いや、その無邪気さが、さらに彼女を幼くさせているのかもしれない。

 彼女は部屋に入って喜八の傍に膝を突き、遠慮なく顔を寄せる。喜八は恥ずかしそうに身を引いた。

「り、理由、ですか? え、ええっと……」

「あるでしょう? あら、忘れてしまった?」

「は、はいっ! 急にぽんっと忘れてしまいまして!」

 渡りに船と言わんばかりに、喜八は勢いよく何度も頷く。彼女はそんな喜八に向かってにこりと微笑んだ。

「そう……、忘れてしまうほどどうでもいい理由で伝兵衛や藁人形に刃を向けたなんて言ったら、どうしようかしら?」

 ふふっと無邪気に微笑んでいるはずなのに、なぜか笑顔の下では怒りに燃えているように見えて、途端に僕の背筋が冷える。

 喜八や出雲もそれを感じ取ったのか、慌ててきちんと正座し直した。二人が人の姿を取れるのならば、今頃真っ青な顔をしていることだろう。

「えっ、えっと……、あの」

「面白いからだとか、力を誇示したかったからだとか言ったら、私どうしましょう。そんな悲しい理由だとしたら泣いてしまうわ。喜八を許せなくなってしまうかも」

 彼女は自分の着物の袂(たもと)をほんの少し引き、目許(めもと)の涙を拭うような仕草をする。それを見た喜八はいよいよ倒れそうだった。

 恐らく彼女は、喜八の斬りかかった理由が、さっき彼女自身が口にした、面白いから、力を誇示したかったからだけだと、わかっていて言っている。

 無邪気なのか計算ずくなのか、長く生きている僕ですらわからないほど、彼女は僕らよりも一枚上手。

「ご、ごめんなさい……」

 喜八と出雲は、耐えきれなくなったのか、深々と頭を下げた。

「伝兵衛、悪かった。許してくれ」

「ごめんなさい……」

「喜八殿、出雲殿……。もう結構ですよ。私もかっとなってしまって申し訳なかったです」

 喜八と出雲は伝兵衛に向かってよろよろと歩み寄り、握手を求めた。伝兵衛が応じると、見守っていた彼女が弾んだ声を上げた。

「ふふっ、よかった! これで仲直りね!」

 彼女は満面の笑みのまま、二度ほど手を叩(たた)く。するとほどなくして蔵から多くの足音が聞こえ、どどっと部屋に様々な物が雪崩(なだ)れ込んできた。

「伝兵衛と、喜八と出雲が仲直りをしました。なので宴(うたげ)をいたしましょう! 皆、踊って!」

 彼女が手拍子をすると、太鼓やヴァイオリン、琴や三味線(しゃみせん)、フルートが音楽を奏で出した。それに合わせて行燈(あんどん)や糸切狭(いときりばさみ)、洗濯板、鰹節(かつおぶし)の削り器や湯呑(ゆの)みが踊り出す。

 伝兵衛たちも彼らに混ざって、楽しそうに踊り出した。

 突然部屋の中が宴になって、思わず溜息が出た。ここは母屋なのに。宴なら蔵でやってほしいよ。

「――名采配だな」

 そう言って僕の隣に姿を現したのは、人の姿をした男、清澄(きよずみ)。

「名采配かどうかはわからないけれど、僕らはお嬢様には勝てないよ」

 軽く笑ってそう言うと、清澄は苦笑する。

 黒髪に切れ長の目、すっと通った鼻筋に控えめに弧を描いた薄い唇。清澄のような男を、人間たちは美男子と呼ぶんだろう。

 でも清澄の本当の姿は、数珠(じゅず)。

 江戸時代の初め、近隣の寺の住職からの貢ぎ物としてこの家に来た。

 全て水晶でできた、僕から見てもとても美しい逸品だ。

 そう僕らは、人間じゃない。


 ――上倉(かみくら)家の蔵には化け物が棲んでいる。


 そう囁(ささや)かれ出してから、何百年経ったか。

 元々武家だった上倉家は、室町時代の頃、初代当主の父親が大層な蒐集家(しゅうしゅうか)だったそうだ。彼が集めていたのは、長い年月を経て人の言葉を理解し、各々(おのおの)話すことができる物、つまり付喪神(つくもがみ)だった。

 その中でも特に長い年月を経た物たちは、それだけでは飽き足らずに、人の姿に化けることができるようになる。

 上倉家の初代当主は父親と同じく付喪神を視ることができ、幼い頃から付喪神と共に育ってきた。応仁の乱が勃発すると、彼は人の姿に化けた付喪神と共に戦場を駆け抜けて、百戦錬磨と謳(うた)われたらしい。付喪神たちはこの上倉家の従順な家臣でもあった。

 江戸時代になって平和になったこともあり、上倉家の三代目の当主はこの地を本格的に開拓し、五代当主の頃には付喪神たちをしまう『蔵』を建てた。

 僕はその蔵を棲家にしている、『付喪神』。

 元々殿様の娘に献上される婚礼衣装だったけれど、殿様が失脚したせいで行き場を失い、上倉家が買い取ってくれたのがここに来たいきさつだ。

 物は普通、百年以上経つと命を得るのが一般的。だけど上倉家の蔵に入れられた物は、百年に満たなくても付喪神として目覚めることができる。

 無論、全ての物が目覚めるというわけではないけれど、その確率は他の家の蔵に入れられた物たちよりも何倍も高い。

 なぜならば、僕らが棲む上倉家の蔵には物に命を与える力があるから。

 その理由を僕は嫌になるほど知っているけれど、口外するつもりはない。

 上倉家の家人たちも、そういうものだ、と理由を知らないまま死んでいく。

 僕は清澄よりも少し前の、戦国時代の終わりに上倉家にやってきた。

 もう三百年、いや、四百年近く上倉家の一族と、不思議な蔵と一緒に暮らしている。

 初代当主の頃にいた付喪神たちは時代を経るごとに壊れたり、朽ちたり、人に貰(もら)われたりして少なくなり、いつの間にか僕が一番古株になっていた。

 上倉家も武家から大庄屋になり、形は変わったけれど、今も変わらずこの神蔵町(かみくらちょう)一帯を治めている。

「蘇芳! 一緒に踊りましょう!」

 突然彼女が僕に向かって手を差し出した。一瞬その小さな手を取りそうになったけれど、急に体が動かなくなって、代わりに苦笑いを浮かべる。

「えー。僕はいいよ。清澄、踊ったら?」

「えっ……。わ、私は……」

 ほら、と促すと、渋々清澄は立ち上がって、彼女の手を取った。

 彼女の頬があっという間に色を付けて、鮮やかに紅色に発色する。いつものあの無邪気さはどこにいったのか、清澄の前だとまるで別の人間のように大人しくなる。

 清澄だって本当は、渋々なんかじゃない。

 いつもムッとしているくせに、彼女のことになると、たまに笑顔が零(こぼ)れる。

 ほら、今も。

 彼女に向けて笑顔を見せた清澄を、横目で見つめる。

 そんな優しい表情で笑うようになったのは、ここ最近。

 しかも彼女を見ている時だけ。

 清澄がこんなに露骨な男だとは思わなかったよ。

 何百年と一緒にいるけれど、初めて目にする同輩の姿に、僕はひたすら呆れている。

 僕らは人間と恋に落ちる付喪神を、山のように見て来ただろう? 

 どうなるかなんて百も承知。清澄も恐らく嫌になるほど知っている。

 それでも惹(ひ)かれてしまうのは、人に使われるために生まれてきた物の定めなのか。

「清澄、やめなよ」

 ぼそりと呟いた声は、清澄には届かなかったみたいだ。今も僕なんか目もくれず、自分の手を取って可憐(かれん)に踊るお嬢様を一心に見つめている。

 やめなよ、清澄。何百年と共にいる僕を置いて、君一人解放されるのかい?

 そんなの、許せないよ。

 そう、許さな――。

 ビリッと、自分の体に衝撃が走る。

 驚いて目を向けると、踊っていた鎌の喜八と桶の出雲、それにたわしの伝兵衛が僕の着物の袂に倒れ込んで目をぱちくりさせている。何が起こったかわからず呆然(ぼうぜん)と彼らを見下ろしていると、突然袂に痛みが走った。

「!!!」

 まるで電流のような痛みに微動だにできなくなる。

 僕はこの日初めて、己の身が裂けるということを経験した。


「……ごめんなさいね、蘇芳」

 夜が来て、傍らで蝋燭(ろうそく)が揺れている。

 彼女の手元の針が軽やかに動くのが、まるで影絵のように障子に映し出されていた。

「君が謝ることではないよ。大丈夫、そんなに大きく裂けなかったし。それに裂けた瞬間は痛かったけれど、今は全然痛くないんだ。針を刺されるのも少しくすぐったいくらい。勉強になったよ」

「そう。でも、謝ることよ。私ったらつい嬉しくなって宴をしましょうだなんて言ってしまって……。ここは蘇芳が飾られている部屋なのに、蔵でやればよかったわ。本当にごめんなさい」

 付喪神たちは上倉家の蔵を棲家にしているけれど、僕は付喪神たちの中で一番古株だし、彼らを取りまとめている存在だからか、蔵ではなく母屋の一室に飾られて、そこで暮らしている。清澄も別の部屋に飾られているから母屋で生活しているし、僕一人特別というわけではないけれど、さっきみたいに困った付喪神たちが僕の部屋に相談に来るから、良き相談部屋になっている。

「あのね、喜八たちを怒らないでやってね」

 彼女は針を止め、大きな黒い瞳が僕を見上げた。

「ね? お願い。悪い子たちじゃあないのよ。本当は私があの子たちを躾(しつ)けないとならなかったの。『鍵守(かぎもり)』である私の不手際よ。私が悪いの」

 暗い部屋の中で、二人きり。

 彼女の長い睫(まつげ)に蝋燭の揺らめきが当たり、柔らかそうな白い頬に影を生む。

 途端に湧き上がる、抑えきれない劣情。

 何百年と仮初の人の姿で生活しているというのに、ほんの一瞬、自分の芯が揺れただけで、己が人間ではない『バケモノ』なのだと理解させられる。

「……大丈夫、わかってるよ。喜八の刃が僕を裂いたのも、ただの事故。君も喜八たちも心を痛める必要はないよ」

 でも僕にはすでに『理性』がある。

 他のあやかしたちのように本能だけで行動できれば幸せだろう。でもそうできない自分が、嫌になるくらいだ。

 彼女は困ったように眉を八の字にした後、すぐに微笑んだ。

「ありがとう。助かるわ。……蘇芳、貴方(あなた)はきっと永遠に私には心を開いてくれないのね」

「ええ? 何を言っているんだい? 僕はいつも君には……」

「嘘(うそ)。貴方、いつだって自分の本心を語らないくせに」

 二の句が継げない。

 彼女は痛い所を突いてくる。

 僕は確かに君が言う通り、本心なんて一度も語ったことはないけれど、でも彼女には全部見透かされている。

 言葉にしなくても、僕の考えていることなんて、全部。

 でもあえて口にして、僕を咎(とが)める。

 言いたくないことは黙って誤魔化してへらへら笑っておきたいのに、それをこの子は許してくれない。

 君は僕の何を見たいのか。

 理性の存在しない、ただのバケモノの僕を見たいのか。

 いや、そうじゃない。彼女があまりに無邪気で純粋だから、僕の嘘を暴こうとする正義感から口にしているだけ。

 君の心の中には僕は棲んでいないくせに、酷(ひど)いよ。

 本心なんて語ったら、君はひたすら困り果てるだけだろうに。

 しんと静まり返った部屋の中、ただ無言で彼女は針を進める。まるで時間が重りを付けて降り積もるようで、徐々に体が重くなる。

「――さあ、直った。酷い裂け目ではなくて、本当によかった。これで私の婚儀にも蘇芳を着て行けるわ」

 ――彼女の婚儀にも、この僕を。

 その言葉で、悲しいくらい冷静になれるのはきっと、僕を縛り付ける数多(あまた)の『鍵守』との思い出だろう。

「……そうだね。上倉家の花嫁は皆、僕を着て嫁いでいく。そうして嫁ぎ先の家で僕を脱ぎ、嫁ぎ先で別の婚礼衣装を着直すのがこの家の慣習だ。その後は僕も当主と一緒に式に出て帰るよ。君の時もそれは同じだ」

 そっと彼女の背を撫(な)でると、こくりと頷いて、ほっとしたように猫背になる。

 悩みごとが沢山あるのだと、その姿から伝わってくるようだった。

 僕の掌(てのひら)に伝わるのは、優しい熱。

 この熱を感じるたびに、僕はいつも泣き出しそうになる。

 『人間』という存在の愛おしさと羨望が、心の中で暴れまわって僕の首を締めるから、今にも窒息しそうだ。

 このまま息を止めて死ねたら楽なのに、と願うのは虚言ではない。本気だ。

 でも僕らが死ぬ時はこの身が朽ちる時。

 僕はあと何百年、このまま生き続けたらいいのだろうか。

「――お嬢様。体に障りますよ。そろそろお部屋にお戻りになってはいかがでしょうか。蘇芳の修理ももう終わられた頃でしょう」

 障子の向こうから聞き覚えのある低い声が響く。

 誰と問わずとも、すぐに清澄だとわかる。清澄は僕の次に古株だけど、誰よりも礼節に重きを置いている。僕ら付喪神の主である彼女に対して、丁寧な言葉遣いを崩したことはない。

 彼女も清澄だと察したのか、途端に真っ白い頬を紅色に染め、慌てたように長い黒髪を手櫛(てぐし)でさっと整えた。

 その姿は、腹が立つほど美しい。

「は、はい。そうね。そろそろ戻ります」

「清澄。お嬢様をお部屋まで送ってあげなよ。どうやらお嬢様は僕の修理のせいで少しお疲れのようだから、息抜きついでに庭を軽く散歩したら? 僕も今日は疲れたよ」

 障子を開けた清澄が、口を出すな、とでも言うように僕をギロリと睨みつける。

 僕のほうが少しだけ先輩なのに、この態度。でももう何百年と一緒にいるから咎める気にもならない。

「元々そうするつもりだった。――参りましょう、お嬢様」

「はい……。よろしくお願いいたします」

 差し出した清澄の手に、おずおずと小さな手が重なる。

 ねえ、僕らあやかしと恋に落ちる代償を、君は払えるかい?

 何度も尋ねようとして、やめた。

 彼女は、この上倉家の血を引く娘。

 そして幼い頃から僕ら付喪神の姿を視(み)ることができた。

 僕や清澄のように人の姿に化けている付喪神は誰からでも知覚できるけれど、人の姿になれない付喪神たちを視ることができるのは、上倉家の血を引く者でも、選ばれた人間だけだ。

 彼女には生まれた時から『素質』があった。

 彼女の兄も付喪神を視ることができるけれど、上倉家の当主になるということもあり、蔵の維持や管理は、彼女が任されることになった。と言っても、今のところ遊んでいるだけで、僕らの修理は専ら彼女の兄が手配しているけれど。

 彼女は、付喪神の棲む蔵の鍵を持つ、唯一の人間。

 つまりそれは、蔵の鍵の守り人。僕ら付喪神たちの主。

 代々『鍵守』と呼ばれてきた。

 彼女が鍵守になった時に、先代の鍵守や上倉家の当主から、付喪神と恋に落ちることの危険を耳にタコができるくらい聞いただろうに、どうして――。

「――あいつら、またか?」

 二人が縁側を歩いて行くのを、ぼんやり見ていた僕に声を掛けてきたのは一重の男、月下(げっか)だった。

 月下も人の姿に化けることができる付喪神。

 元々日本刀のせいか好戦的で、悪くない見目をしているのに、上倉家に仕える人間の使用人たちからの人気は皆無だ。月下本人も人間にはまるで興味はないから、そんなことはどうでもいいのだろうけれど。でもせっかく人間に化けられるんだから、少しくらい人間と交流を持てばいいのに。

「また、だねえ。逢瀬を重ねるのはいいと思うよ。恋というのは、本来ああいうものであるべきでしょ」

「何だよ、ああいうもの、って」

「――互いに、命を捧げるものでしょ」

 そう言った僕に、月下は驚いた顔をした。

 そして苦々しげに眉根を寄せて舌打ちする。

「……人間なんてもっての外だろうが。オレには清澄や蘇芳の考えがよくわからねえな。恐らく永遠に理解できねえよ」

「あのね、僕が蔵の中で一番古株だよ? つまりそれは、僕は命を捧げるほどの相手には今まで出会えなかったってことなんだよねえ」

「だろうな。てめえは得体のしれないものを腹に抱えていそうだからな」

 誰にも明かせない、何かを。

 ふっと息だけの声で微笑むと、月下は僕から視線を逸(そ)らして、提灯(ちょうちん)をぶら下げて暗い庭を歩いて行く二人を見つめる。

「……本気になる前に、清澄を止めろよ。お嬢様には人間の許嫁(いいなずけ)がいるんだろ?」

「うん。隣町の元蔵町(もとくらちょう)の神明社(しんめいしゃ)の責任役員の家の息子だったかな。会ったけれど、悪い男じゃない。蔵のことや僕らのことも理解があるようだった」

「なら、反対のしようもないな」

「反対のしようは初めからないよ。当主の決めることだしね」

「まあそうだろうが……」

「婚儀は半年後だよ。無事に終わることを祈るけれど、そうはならないだろうね」

 さっきはああ言ったけれど、恐らく彼女が僕を着て婚儀に臨むことはないだろう。

 月下は僕の言葉に、肯定も否定もしない。

 結ばれてはいけないと彼女も清澄もわかっているからこそ、加速していく。

 この恋路に、幸せな結末などない。

 理解していても制御できずに増幅していく感情は、最早(もはや)『バケモノ』。

 僕たちは、元々人間に使われるために生まれた道具。だからなのか、人間に執着する心は他のあやかしたちよりも何倍も強い。

 こんなにも人間を愛するあやかしは、僕らの他にはいないだろう。

「……人間と恋に落ちて死ねるのは、きっと何よりも幸せなことだろうね」

 そう、人間とあやかしが恋に落ちる代償は、互いの命を捧げること。

 僕は付喪神と恋に落ちて死ぬ鍵守を、何人もこの目で見てきた。

 それなのに、愚かな選択だとは思えない。

 恐らく、それ以上の幸福は存在しないだろう。

 人間のために生き、人間のために朽ち果てる僕ら付喪神にとって、至上の幸福。

 だから僕らはこぞって人の姿に化けるようになるのだ。

 そっと自分の手を空にかざす。それは紛れもなく人のもの。

 僕の仮初の体は、完璧に人間そのものだ。涙だって流すことができる。

 こんな僕らを健気(けなげ)だと、誰か褒めてくれないだろうか。

 くだらないことを願ってしまったと勝手に唇が弧を描いた。

「はあ? そんなんが幸せとは思えねえよ。オレの幸せは主の仇(かたき)を殺すことだ」

 月下が水を差すように吐き捨てて、自分の腰に下げていた脇差を撫でた。

「あのね、人間は脆(もろ)いんだよ。今は戦後十年も経ってるんだ。もうその『主の仇』はとっくに死んでるよ」

「うるせえな、いいんだよ! 主の仇が死んでいても、その子孫がのうのうと生きているだろうよ! 一族郎党皆殺しにしてやる!」

「おやめよ。あのね、月下の前の主が死んだのは、江戸の終わりでしょ。そんな昔のことをほじくり返されて、子孫も大迷惑だよ?」

「っっ!!」

 月下は顔を真っ赤にして、我慢ならないという目で僕を睨みつける。けれどそれ以上言い返せなくなったのか、派手な音を立てて母屋の障子を蹴破った。

「ちょっと月下! これ誰が直すの! 当主に怒られるよ!」

「うるせえっ!! 金輪際話しかけるなっっ!」

 と、言っても、いつも月下から話しかけてくるんだけど。

 言い返そうと思ったけれど、これ以上月下を激昂(げきこう)させたら、さらに家が壊れるだろう。不本意だけれど口を噤(つぐ)むと、月下はわざと大きな足音を立てて蔵に戻って行ってしまった。


*  *  *


「……蘇芳さん? あの、続きを聞かせてください」

 突然話すのをやめた僕を、心配そうにのぞき込むその両目。

 月下がまるで似てねえよ、と吐き捨てたのを思い出す。

 僕もそれに異論はないけれど、でも急にこの子と彼女が重なって見えたのはなぜだろうか。

「どうかしました? 清澄さんとお嬢様は一体どうなったんですか?」

 その子は横になっていた体を起こし、いつか彼女が直してくれた僕の袂を軽く引く。

「ねえ、君はやっぱり僕を選ぶべきだよ」

「え、どうしたんです? 急に」

 呆れたように軽く笑い、横になっていたせいで乱れた髪を、手早く直す。

 月明かりが黒髪を艶(あでやか)に輝かせる。尚(なお)も乱れた髪の束を、そっと指先で梳(す)いてあげると、恥ずかしそうに俯いた。

「本気だよ。君は人間なんかじゃなく、僕を選ぶべきだよ」

「蘇芳さん、そんな私は……」

「あいつが好きだって? 言わせないからね」

「い、言いませんよ。私たちはそんな関係じゃないんです」

 怖気(おじけ)づいたように僕から距離を取ろうと身を引く。

「違うんです、私たちは……」

 暗い瞳の、僕のお姫様。

 上倉――結花(ゆいか)。

 あれから時代が移り変わり、蔵の鍵が開かない期間が二十年もあった。

 錆(さ)び付いた鍵を開け、もう一度僕らに光を差し込んだのが、今僕の目の前にいる、結花だ。

 その暗い瞳は、結花の心の闇の色。

 僕の心の闇の色と、同じ。

 結花を初めて見た時、確信したよ。

 抱えているものが似ているから、僕らはきっとわかり合える、って。

「……ごめんね、意地悪を言っちゃった。嘘だよ、嘘。さあ横になって。そろそろ眠れるでしょ? もちろん君が眠るまで僕が傍にいる。添い寝をさせてくれたら最高だけどさ」

 茶化すように笑ったら、結花がちょっとムッとした顔になる。それを見ていつもの結花に戻ったと、ホッとして胸を撫で下ろした。

 さあ、と促すと、結花は渋々もう一度横になる。薄いタオル地の掛布団を掛けてあげると、静かに目を閉じる。

 今宵は月が綺麗(きれい)だ。虫の音も心地好い。

 眠れないと縁側で涼んでいた結花に、寝物語を話してあげるよと言って語り出したのは、僕の大事な思い出。

 あれから六十年くらいか。

 時間ばかりが過ぎたけれど、今も鮮明に昨日のことのように思い出せる。

「……あの、話の続きを」

「ああ、途中だったね。ごめん。でももうおしまい」

「え?」

「――清澄とお嬢様は共に死んだよ」

 付喪神と恋に落ちると、夢か現(うつつ)かわからなくなって最期は衰弱して死ぬと、結花には以前に伝えてある。

 でも二人がどんな風だったかとか、あまりに壮絶な最後だったとかいうことは、結花には伝えないようにしようと思っている。

 そう決めたのは単純に結花を悲しませたくなかったからだけど、僕の中で浅はかな感情が芽吹き出していたからかもしれない。

 ズルいと、罵られても仕方ないけど、今は言いたくない。

 たとえば、僕と君が恋に落ちたら、僕らは彼らと同じように、互いの命で代償を支払わないといけなくなるだろうから。

「死んだ……」

「うん。でも悔いはないだろうと思うよ。二人はどうなるかわかった上で、恋に落ちたんだから」

 結花は言葉にせずにこくりと頷く。

 それきり、静寂が優しく結花の上に降り積もっていく。

 しばらく結花の傍にいたけれど、吐息が寝息になかなか変わらない。

 そして、

「……あの、いつの時代の話なんですか? 付喪神と恋に落ちて死んだ鍵守が何人もいるって以前にお聞きしていますが、『お嬢様』って、もしかして私の、」

 しっ、と人差し指を結花の唇に当てて、言葉を封じる。

「これはただの寝物語だよ。余計なことを考えずに、もうおやすみ。明日もきっと蔵の皆が君と遊びたがっているよ」

 耳元で囁いて、髪を撫でると、結花は渋々目を閉じた。

 しばらくして吐息が寝息に変わる。

 それを見届けて立ち上がると、月光が結花の柔らかそうな頬にあたって煌めいていた。

 君が僕の救世主か否か、まだわからない。

 でも僕が君を気に入っていることだけは、確か。

 さて、結花にまとわりつくお邪魔虫を成敗する計画を立てないと。

 まずは手っ取り早く、蔵に棲むあいつからにしよう。その後は、一番目障りなあいつを成敗して……。

 僕を着てあいつのもとに嫁ぐ結花なんて絶対に見たくない。

 うん、絶対に阻止する。

 そんなことをあれこれ考えていたら、心が浮遊するように弾んでいることに気づく。

 同じ場所に留まっていたものが一気に動き出すのを、ここ一か月の間、肌で感じている。

 結花が来てから、何もかも生まれ変わって、また一から始まったみたいだ。

 明日は一体何が起こるのか、君が僕らと関わってどんな風に成長していくのか、柄にもなく僕はわくわくしているんだよ。

「……おやすみ。見習い鍵守殿」

 呟いて、結花が眠る部屋の障子をトンっと閉める。

 縁側に出ると、夏の終わりの夜空を星が埋め尽くしていた。

 まるで世界を輝かせるように。