八月。東京都、某所。火曜日。

 定休日の札を掲げた居酒屋とりいの厨房(ちゅうぼう)で、若き店長・御所雄里 (ごせゆうり)は一人、頭を悩ませていた。

 目の前に並ぶのは、カウンターの上の一升瓶の数々。それらは全て封が開き、中途半端に中身が残った状態である。

「夏場になると、途端に日本酒の出が減ってまうなぁ」

 人好きする優しげな顔を顰(しか)めつつ、ため息混じりに雄里は呟(つぶや)く。

 日本酒の注文が減少している理由は他でもない、この夏の暑さのせいだ。

 〝猛暑〟〝熱中症〟〝最高気温の更新〟と、聞くだけでウンザリするようなワードが飛び交う真夏のこの時期だが、一方一年で最も生ビールが美味(おい)しく飲めるのもまたこの時期だ。それはとりいの客も例外ではないらしく、「まずは生」、の一杯だけでは止まらず、中には最後までビールだけを飲み続ける客も少なくない。

 何であれ、注文が多いことは非常に有難いのだが、酒のなかでも特に原価率の高いビールばかりが出てしまうと、必然的に店の売り上げが落ちるため、仮にも経営者である雄里にとっては、悩みの種でもあった。

「それに、いくら日本酒には賞味期限がない言うても、あんまり長い間置いとったら風味が悪なるしなぁ……」

「何だ、そんなことで悩んでいるのか?」

 雄里の独り言に対して、正面から淡々とした声が応えた。声の主を察して、雄里は顰め面のまま顔をカウンターの端へと向けた。

 並べた一升瓶を挟んだ反対側、カウンター席の一番端の、壁に面したその場所に、若い女が腰をかけてこちらを見つめていた。

 女性にしては涼しげな、しかし女性らしくもある大きな青灰色の目を僅かに細め、傾げた首元で短く切り揃(そろ)えられたワンレングスの金髪がさらりと揺れる。国籍不明の容姿だが、総じて人目を引く美人であることは間違いない。ただ残念なのは、愛嬌(あいきょう)をどこかに忘れてきたかのようにまるでにこりともしないことだ。だが、それが雄里の友人であり、居酒屋とりいで一風変わった探偵業を営む、葛城(かつらぎ) コトハという女だった。

「遅ようさん。もう昼やぞ」

 嫌味を込めて言ってやるが、言われた本人は気にした様子もなく悠然と長い足を組む。

「理由なく寝坊した訳ではないぞ。昨日は〝でーぶいでー〟で映画を観ていたのだ。最近の漫画映画は凄(すご)いな。最早(もはや)実写と変わらん。あの凸坊新画帖 (でこぼうしんがちょう)が、よもやこれほどまでに進化するとはなぁ」

 感慨深げにコトハが言う。正直、雄里には理解できない単語が混ざっているが、いつものことなので気に留めないことにする。

「DVDな。映画って、この前遥(はるか) ちゃんが持ってきてくれとった やつやろ?」

 遥は、とある事件がきっかけで最近頻繁に店を訪れるようになった大学生だ。そんな彼女が持ってきたDVDは、少し前に流行(はや)った氷の女王をテーマにしたもので、映像の美しさに定評のある映画らしい。アニメーション映画など見慣れないコトハにしてみれば、さぞや衝撃的だったのだろう。

「あぁ。夏に見れば涼しくなると言って貸してくれたのだが……いくら見た目に涼しくても、体感とは異なるからな。まぁ、面白くはあった」

 小さく肩を竦(すく)めてから、コトハは改めてこちらを見据え口を開いた。

「おっと、話が逸(そ)れてしまったな。雄里、先ほどの話だ。風味が劣化した酒を客に出して良いわけがない。これは、間違いないことだな」

「せやから、困っとるんやんけ」

 雄里を見上げたまま、コトハの口角がほんの僅かだけ釣り上がる。およそ微笑とも分かりかねるその表情の変化に雄里が気付くことができるのは、偏(ひとえ)に長年の付き合いによる。そして、その表情が意味するところもまた容易に想像がついてしまうだけに、雄里の眉間から皺(しわ)が消えることもない。そんな雄里の心情に気づくはずもないコトハは、堂々と戯言(たわごと) を口にした。

「注文は入らない。しかし時が経てば経つほど風味は落ちる。ならば、封が開いているそれらの酒を、おれが全て飲んでしまえば、新しい酒を入れられるではないか。どうだ、これで万事解決だ!」

「――やっぱ、少しずつでも料理に使うべきかなぁ。冬やったら美酒鍋に挑戦してもええんやけど、夏に鍋は売れんわなぁ」

「……おい、雄里。何度も言っているが、無視だけはダメだ。さすがのおれでも、そのうち泣くぞ」

「お前の表情筋は死滅しとるやろ。ほぐれて丁度ええんとちゃうか?」

 さらりと笑顔で返すと、コトハはふいと顔を逸らしてこれ見よがしなため息をついた。

「あぁ嫌だ嫌だ、冗談も通じんとは。まったく、雄里は若いくせに頭が固くていかんな」

「お前が緩すぎるだけや。ちゅうか、下らんこと言うてる暇あったら、コトハも何かええアイディア考えてくれや」

 ゆるゆると首を振った雄里の前で、コトハが突如ぐふふと怪しい声を上げた。その能面のような無表情に変化はないが、一応これは彼女の笑い声らしい。そして、ふいに笑い声を収めたコトハが言う。

「雄里。おれが、〝何者〟なのか忘れたのか?」

「は? 何者って……」

 訝(いぶか)しげに眉を顰めた雄里をよそに、コトハは堂々と言ってのける。

「おれは、どんな依頼でも必ず達成する探偵、葛城コトハだぞ」

 そんなコトハの発言から、うっかりその意を汲(く)んでしまった自分に若干の後悔の念を抱きつつ、雄里はその後に続くだろう台詞(せりふ)を先んじて語る。

「……〝ただし、依頼は一言に限る〟やろ? あぁ、知っとるわ。そらもう、嫌っちゅうほどにな!」

 この先の展開がありありと分かってしまうだけに、雄里としては、苦々しさを噛 (か)みしめて額を押さえるしかない。そんな雄里の様子を面白がるように見つめ返し、コトハは念を押すように重ねて言った。

「つまり、今の〝一言〟は、探偵であるおれへの〝依頼〟と受け取っていいのだな?」

 そもそも、これは探偵が請け負う類(たぐい)の話ではないと思うのだが、それを指摘したところでこの場の何が変わる訳でもない。 

「――もうこの際、依頼でも何でもええわ」

 ひらひらと手を振って了承すると、腕を上げたコトハは、指先を雄里の鼻先へ向かって突きつけた。細い腕に絡められた鎖が、ジャラリと重々しい音を鳴らす。

「今の一言、しかと聞き届けた。葛城の名にかけて、必ずや依頼を達成してやるぞ」

 高らかに言い放ったコトハに、雄里は諦めにも似た感情でため息をついたのだった。


      *


「つまり、夏場であっても麦酒 ではなく日本酒が飲みたくなるような仕掛けを作ればいいのだろう」

 厨房で昼食を作り始めた雄里に向かって、カウンター越しのコトハが口を開いた。名探偵を気取ってか、意味深な口調で言ってはいるが、その視線は完全に作りかけの冷やし中華へと向けられている。内実、心の半分以上はとっくにこれから食す冷やし中華に奪われていることだろう。

 早くもいつもの胡散臭(うさんくさ)さを醸し出してきた探偵を尻目に、雄里は茹(ゆ)でてから流水で冷やした麺と、細く切った野菜や錦糸卵などの具を、手早く且つ綺麗(きれい)にガラスの器へと盛り付けていく。

「む。雄里、それは妙 (たえ)ちゃんから教えてもらったタレだな?」

「せや。妙さん直伝、和風冷やし中華。和風やのに中華っちゅうんも、何や矛盾はしとるけどな」

 笑いつつ特性のタレをかければ、青紫蘇(あおじそ)の風味が爽やかな冷やし中華の完成だ。元は、コトハが言うように近所に住む妙から教えてもらったレシピだが、冷やし中華のタレに青紫蘇ドレッシングを加えることで、簡単に和風アレンジができる。カリカリに炒(い)ったジャコがまた絶妙に合い、夏場であっても食欲をそそる。妙に許可をもらったにせよ、さすがに簡易すぎてこのまま店に出すわけにはいかないが、本物の大葉を使ってもう少し改良すれば人気の一品になるかもしれない。

 そんなことを考えながら、雄里はコトハの前へと皿を置いてやり、自分もその隣へと腰掛けた。せっかくの定休日なのだから、店から離れてもいいのだが、この場所が落ち着くというのはコトハだけでなく雄里にとってもまた同じだった。

「そんで、その仕掛けっちゅうやつに、何ぞアテはあるんか?」

 目の前に皿が置かれるや否や、一心不乱に麺をすすっていたコトハが、雄里の問いに目だけをこちらへと向ける。

「任せておけ。おれとて、伊達(だて)に長くこの世に留まっている訳ではないからな」

「この世に留まるて……お前な、亡霊みたいな言い方すんなや」

「何、大した差はあるまい。違いなど、肉体を持っているかどうかくらいじゃないか」

 どこか自虐的なその発言に、思わず顔を顰める。近くにいると、つい忘れそうになるが、コトハはヒトのようであって実際はヒトではない。

 古事記にもその名を記された古(いにしえ)の神、葛城一言主(かつらぎひとことぬし)が、かつてのコトハの姿だ。尤(もっと)も、今のコトハは現在神として祀(まつ)られている一言主とは別の、何の力もない空の器のような存在になっているらしいのだが――。

 黙ってしまった雄里に気付いたコトハが、こちらを振り返って小さく肩を竦(すく)める。

「だから、そう真に受けるな。ほんの冗談だ」

 そして、続けてさらりと言う。

「だが、雄里。おれはせっかくこうしてヒトと同じく五感を伴う肉体を持っているのだ。何なら、美味い昼食と併せて、昼から酒を飲む楽しみを味わわせてくれても良いのだぞ?」

 真顔で、しかし口調だけはしっかりと面白そうに言ったコトハに、雄里はコトハの真意を悟る。つまり、ここで本当に言いたかったのは後半部分であったらしい。

 期待の色を感じさせる視線に、雄里は無言のまま隣からその頭を叩(はた)いた。力は入れてないものの、スパンと存外小気味よい音が鳴る。

「――痛い。おい、雄里。ツッコみは口でやるものではないのか? 関西人としての矜持はないのか」

「俺は、下らんプライドは持たん主義やでな。ちゅうか、お前の言動は口だけでツッコみ切れへんから、つい手が出てまうんやろ」

「むぅ……仮にも元神に易々(やすやす)と手を上げるとは、不届き千万。いつか罰を当ててやるからな」

「はいはい、バチでもハチでも何でもええから、さっさと依頼を達成してくれませんかねぇ、名探偵?」

 ふんと鼻で笑って言ってやると、頭を押さえたままコトハが恨めし気な視線を向ける。

「よかろう。そこまで馬鹿にするのであれば、おれの素晴らしい探偵っぷりを、とくと拝ませてやろうではないか」

 言うと、コトハは立ち上がってカウンターにずらりと並んだ一升瓶を睨(にら)むようにして見渡す。続いて厨房の中へと入ると、酒が入っている冷蔵庫を開いて、中を吟味する。

「ふむ。純米酒に吟醸純米、冷蔵庫には生酒も多く残っているな」

 生酒は要冷蔵の酒なので、常温の日本酒に比べれば夏場であっても出る方ではある。しかし、火入れをしていない分、火入れをしている酒よりも風味の変化は早い。そういう意味では、多く出て欲しい酒の一つである。

 そして最後に、おしながきと書かれた手書きのホワイトボードをじっと眺めてから、コトハは小さく頷いた。

「なるほど、なるほど。雄里。答えは簡単だ」

 腕組みをしつつカウンター席へと戻ってきたコトハが、定位置に腰を下ろしつつ言う。

「解決の鍵は日本の食材に有り、だ」

「日本の食材?」

 もし表情が豊かであれば、おそらくにんまりとした笑みを浮かべているだろうコトハの真顔を見遣(みや)って、雄里は聞き返す。

「いいか雄里。日本酒というのはその名のとおり、日本で生まれ日本の風土に最も合った酒なのだ。本来であれば、夏であろうが日本のこの地で飲まれない道理がない」

「せやから、それはビールやらサワーやらが主流になってもうたから」

「いいや、それだけではあるまい」

 雄里の言葉を遮って、コトハが強く言い募る。

「確かに麦酒 はどんな料理にも比較的合いやすく、且つ飲みやすい酒だ。しかし、日本固有で、更に旬の食べ物があれば、自然とヒトはそれに最も合う酒、つまり日本酒を飲みたくなるのではないか?」

「それは……確かに、そうかもしれんな」

 珍しくマトモな発言をするコトハに、雄里は内心で驚く。

 実際は大して当てにしていなかったのだが、まさかコトハが打開策を見出(みいだ)してくれるとは。

「ほな、お前がこれぞと思う、日本酒が飲みたくなる夏の食材っちゅうんは何や?」

 期待を伴ってその答えを待った雄里に向かって、コトハが高らかに言い放つ。

「旬の物は多々あれど、日本酒に合うと言う点では、岩牡蠣(いわがき)に勝るものはあるまい」

「……岩牡蠣、か」

 若干の落胆とともに呟く雄里だったが、コトハは生き生きとした口調で続ける。

「岩牡蠣は知ってのとおり、日本固有の牡蠣だ。真牡蠣とはまた違った、とろっとした口当たりと、濃厚で芳醇(ほうじゅん)な味わい。大振りであっても、決して大味ではない繊細なうま味。日本人であれば、これを前に日本酒を飲まずにはいられないだろう。……あぁ、思い出しただけで、軽く二合はいけそうだ!」

 恍惚(こうこつ)として語る コトハに、だが雄里は渋い表情を浮かべて言った。

「残念やけど、そら無理やな」

「何故だ!? 」

 くい気味に尋ねたコトハに、雄里は短い前髪を掻(か)き上げながら答える。

「コトハの言うとおり、岩牡蠣があれば、そらビールより日本酒ってなるわな。けどな、岩牡蠣はこの時期めっちゃ、高いんや」

 産地ならまだしも、残念ながらここは東京だ。仕入先に頼んでいいものを安く入れてもらったとしても、店に出すとなればどうしても単価が千円を超える値となる可能性が高い。安くて美味いがモットーのとりいを訪れる客層には、とてもじゃないが提供できない価格だ。かといって、いくら旬であってもトマトやキュウリでは岩牡蠣ほどの成果は期待できないだろう。

「ちゅう訳で、残念ながらその案は不採用やな」

 雄里の至極真っ当な返答に、しかしコトハは不満げに反論する。

「待て待て、雄里。雄里の信条は〝客に喜んでもらってナンボ〟ではなかったのか? ならば、赤字覚悟で提供する気概を見せようとは、思わんのか?」

「赤字にならんように酒を売る方法を考えとんのに、それやと本末転倒やんけ」

 呆(あき)れたように言い返すと、コトハは顔を背けてぼそりと言う。

「まったく。岩牡蠣を肴(さかな)に酒を飲む。これほど美味い夏の酒はないというのに……」

 その発言に、雄里はぴんと来る。

「おい、コトハ。お前、何やかんやと理由をつけて、実は自分が岩牡蠣を食いたかっただけなんとちゃうやろな?」

 低く言うと、コトハの肩がぴくりと僅かに上がる。

「そ、そんな訳がないだろう? おれは、あくまでも雄里の依頼を達成せんと考えた次第で……」

「コトハ?」

 にっこり笑みを湛(たた)えて凄むと、最早開き直ったらしいコトハがふんと鼻を鳴らす。

「夏には夏の、冬には冬の、季節に合わせて旬のものを食う。それこそ、古き良き時代から続く日本人の楽しみではないか。おれは、自分の気持ちに正直であるだけだ」

「そういうんは、仕事やないところで発揮せぇ! お前は、どんな依頼でも必ず達成するんとちゃうんか?」

 顔を近づけてもう一押し凄むと、青味がかかった灰色の目が僅かに揺らいだ。普段、散々コトハにやり込められていることもあり、雄里の中で小さな悪戯(いたずら)心が疼(うず)く。

「あーあ。このままやと、葛城探偵、初の黒星やなぁ?」

 わざと意地悪く言ってみると、今度こそはっきりと瞳が動く。

「これで名探偵を語るなんぞ、片腹痛いわ」

「ぬぅ……小童(こわっぱ)の分際で、何たる言いぐさだ。見ていろ、雄里が泣いて感謝するくらいの、素晴らしい案を探してきてやる!」

「ほー。そら楽しみやな。せいぜい頑張ってや。ま、別に俺はお前が名探偵でも迷探偵でも、どうでもええねんけどな」

 鼻で笑って言ってやると、すっくと立ち上がったコトハは真っ直ぐ に扉へと向かう。勢いよく扉を開いたコトハだったが、敷居を跨(また)いだまま立ち止まると、こちらを振り返った。そして、言う。

「雄里の雪男! 覚えてろよ!」

 訳のわからない捨て台詞を吐いて、足音荒くコトハが店から出ていく。

「――雪男って、何やねん……」

 冷血漢とでも言いたかったのだろうか。勢いよく閉められた扉を呆然と見遣ってから、雄里はふと思い当たる。昨夜コトハが見たという、氷の女王の映画。おそらく、その映画に感化されての、あの発言なのだろう。

「……ったく。あれが、天皇にも畏怖された神様やったとは到底思われへんな」

 呆れたように言いつつも、所在なさげに首元へ手を当てて、雄里は小さくため息をつく。軽く灸(きゅう)を据えるだけのつもりだったのだが、こちらも少々大人気なかっただろうか。

 コトハが出ていったばかりの扉へともう一度視線を移した雄里だったが。

「ま、ええわ。そのうち腹が減ったら戻ってくるやろ」

 コトハの性格を熟知しているのも、また長年の付き合いがあってこそである。

「それより、ほんまにどうしたもんかな」

 結局何の解決もしていない問題に、今度こそ雄里のため息は重くなる。だが、そんな雄里の脳裏に、先ほどのコトハの捨て台詞が浮かんだ。

「雪男、か。――雪男……雪と、氷……?」

 呟いた雄里は、件の映画の内容を思い出して、あっと小さく声を上げた。

「そうか、その手があったやん!」

 小さく微笑むと、思いついたアイディアを形にすべく、雄里はさっそく厨房へと入っていった。


      *


 夕刻。定休日でなければ暖簾(のれん)を出す時分に、今宵(こよい)は客が来ないはずのとりいの扉がそろそろと開いた。

 中を窺(うかが)うように顔を覗(のぞ)かせたコトハが、身を隠すようにそっと店内へと入る。しかし、厨房にばかり気をとられているのか、すぐ近くに立つ雄里にどうやら気がついていない。

「おかえり」

 腕を組み、壁に背をつけたままそっけなく声を掛けると、驚いた猫のようにびくりと身体(からだ)を竦ませ、コトハが勢いよく振り返る。無言で見上げたその視線から、どうやら画期的なアイディアが終(つい)ぞ浮かばなかったのだと察する。

「ゆ、雄里。その、だな……」

 傍目には真顔で、しかし表に出ない部分では相当に焦りながら必死に言い訳を考えているのだろうその姿に、堪えきれずについ吹き出してしまう。

「……雄里?」

「いや、何でもあらへん。それより、待っとったんやで」

「ぐぅ……。あぁ、もういい、分かった! 悔しいが、今回はおれの負けだと認めよう。さぁ、煮るなり焼くなり、好きにすればいいだろう!」

 両手を腰に当て、むしろ不遜にも見える態度で開き直った友人に、雄里は眉根を寄せて笑う。

「お前は、煮ても焼いても食えなさそうやな。ええからちょお、席座れや」

 訝しげなコトハをいつもの定位置へと促し、雄里は厨房へと入る。そして、冷凍庫からホーローのバットを取り出した。中には、白濁色の氷が入っている。

「何だ、それは?」

 不思議そうに手元を覗き込んだコトハが、尋ねる。

「それは、食ってのお楽しみ」

 にっと笑って言いながらスプーンを氷に差し込むと、さして力を入れずともシャリシャリとした荒いかき氷のようになる。四角いロックグラスにそれを盛り、スプーンと共にコトハの前へと出すと、コトハが小さく首を傾げた。

「かき氷か? それにしては、少々氷が柔らかいな」

 言いつつ、一匙(ひとさじ)掬(すく)って口に入れたコトハが僅かに目を見開く。

「どうや?」

 面白そうに尋ねると、シャリシャリと気持ちの良い音を立てて続けざまに氷を口へと運んだコトハが、ほう、とため息をついた。

「美味い。これは、日本酒だな?」

「正解や。見た目にも涼しい、夏にぴったりの味わい方やろ?」

 雄里の言葉に頷き、もう一匙口に含んだコトハは、今度はゆっくりと味わうように目を閉じた。

「日本酒本来の甘い香りに、ほんのり柑橘(かんきつ)系の香りもする。酒というより、まるで菓子みたいだ」

「ちょこっとレモンを絞ってみたんや。そのままでも美味いんやけど、口当たりが良うなるやろ? 氷の食感もええし、黒蜜かけてデザートにしてもええんちゃうかと思うてな」

 醸造アルコールを添加した酒の場合、凍らすことで味が若干変わってしまうこともあるようだが、果汁や黒蜜をかけてデザート風にアレンジするのであれば、ほとんど気にはならないだろう。

「なるほど。これならば、仮に日本酒そのものに抵抗があっても、口にしやすいだろうな。遥ちゃんのように若い女性も好みそうだ」

 素直に感心した口調でコトハが言う。だが、まだこれで終わりではない。

「ほんで、酒本来の味をしっかり楽しみたいんなら、こっちや」

 雄里は、よく冷えた空のグラスをコトハの前に置くと、もう一つの仕掛けを冷凍庫から取り出した。

 小ぶりのビンの中身はこちらも日本酒だが、中身は液体のままだ。

「おいおい、ビンのまま冷凍庫で凍らせたのか? 溶けるまで、注げないじゃないか」

 呆れたように言ったコトハに意味深な笑みを向けてから、雄里はそっとビンの蓋を開けた。

「さぁて、〝雪男〟の面目躍如といくやろか?」

 ビンへ衝撃を与えないように最新の注意を払いつつ、そっとそれを傾ける。すると、するすると液体の状態でグラスに酒が流れ出た。その様子を見守っていたコトハが、「あ」と小さく声を上げる。

「……酒が、凍っていく」

 コトハの視線は、グラスの中で白く凍っていく酒を凝視している。雄里がグラスに注ぐまでは、確かに液体だったはずの酒が、グラスに落ちると同時に氷となって形を成す。この不可思議な現象こそが、雄里の思いついたもう一つの秘策だった。

「みぞれ酒や。テレビとかで見たことあるやろ。過冷却って原理で、ゆっくり冷やした液体は零度以下になっても凍らんと液体のままなんやけど、衝撃を与えると途端に氷になるっちゅう、アレや」

「あぁ。つまり、雨氷のようなものか」

 納得したようにコトハが言った。雨氷は、過冷却された雨が木の枝などに落ちることで氷になる自然現象だが、原理はこのグラスの中で起きたことと同じらしい。咄嗟(とっさ)に雨氷と結びつくあたり、さすがは長らく山で暮らしてきただけある。

 注がれる酒は次々と氷へと変化し、グラスの中は春先の雪山の如(ごと)く、緩い氷で満たされた。そんな冷たいグラスをじっと見つめてから、コトハがこちらへと顔を上げた。

「おれは、今回の依頼を達成できなかった。それなのに、おれがこれを飲んでもいいのだろうか?」

 珍しく殊勝なことを言う。普段は不遜極まりないが、一応コトハなりに昼間のことを気にしているらしい。上目使いにこちらを見遣ったコトハへと、雄里は穏やかな苦笑を向けた。

「かまへんわ。これは、お前の一言がきっかけで思いついたもんやでな。ギリギリやけど一応及第点っちゅうことで。依頼達成ってことにしといたる」

「おれの、一言?」

 どうやら、本人に自覚はないらしい。首を傾げるコトハに、雄里は笑いながらグラスを勧める。

「ほれ、早よ飲まんと、せっかくの氷が溶けてまうで」

「う、うむ。雄里がそう言うのならば、遠慮なくいただくとしよう!」

 そう言って、コトハは早速グラスの酒へと口を付けた。シャーベットよりも少し柔らかな氷が、するりと喉へと運ばれていくのが傍目にも涼しげだ。

「これは、美味い! 純米酒を凍らせたのか!」

「お、さすがやな。純米酒は、凍らしても味が変化せぇへんからな。これは、純米生酒や」

「ふむ、生酒は元々香りが良く芳醇な酒だが、みぞれ酒にすることで更に飲み口が良くなるな。氷が溶けていく中で、酒の香りがにじみ出る感じも凄くいい」

 嬉しそうに 言ったコトハに、厨房から雄里は満足げに頷く。若干手間はかかるが、これらは期間限定で店に出してみる価値はあるだろう。

「よっしゃ。新メニューも決まったことやし、せっかくの休みや。俺も、たまには飲もうかな」

 そう言うと、コトハが酒に集中している間に用意した、とっておきの肴を持って、雄里は厨房から客席側へと移動した。

 コトハの隣に腰を下ろすと、二人の間に皿を置く。そこに乗るのは、身も艶やかな岩牡蠣が二つ。

 コトハが、驚いたようにこちらを窺う。

「たまたま、魚幸 (うおこう)さんで売っとったんや。さすがに店用に仕入れることはできひんけどな。まぁ、たまにはこれくらいの贅沢(ぜいたく)したって、罰は当たらへんやろ?」

 悪戯っぽく笑って言うと、こちらを見上げたコトハの表情に、じわじわと変化が生じていく。依頼の成功報酬として与えられた酒の力を借りてのみ和らぐ表情が、ようやくコトハの感情に追いついてきたらしい。

 つい見惚れてしまいそうな満面の笑みを湛え、コトハが昂然(こうぜん)と言い放つ。

「罰など、当たるものか。このおれが言うんだ。間違いない!」

 その素直な表情を受けて、雄里にもまた、柔らかな笑みが浮かんだ。

「――せやな。お前が言うんやったら、そら間違いあらへんな」

 願わくば、長く孤独な時を過ごしてきたこの友人に、楽しく過ごせる日々が続きますように――。

 そんなことを思いつつ、雄里はコトハと小さくグラスをぶつけ合う。


 そうして二人は、小さな夏の幸せを味わったのだった。