ざざんと聞こえる波の音。近くに寄ると、じゃばじゃばとした音が集まっているんだと分かる。

 大縄跳びのようにタイミングを計りながら、鈴(すず)は海水でハンカチを濡(ぬ)らそうとしていた。波が引いた瞬間に駆け出すが、波がUターンすると一緒になって戻ってくる。

「ハンカチ貸して。僕がやるよ」

 鈴は波と砂浜を一度ずつ見てから、僕にハンカチを渡した。

「ありがと、でも、濡れそうだったらいいからね」

 四年生の一学期、鈴は黒板消し係だった。上のほうに手が届かない鈴から黒板消しを受け取ろうとした時も、鈴は同じように迷ってから僕に渡した。

「よっと!」

 掛け声を出して走り出したけど、タイミングは、ずれていた。ハンカチを濡らすことはできたが、片方のスニーカーが波に摑(つか)まった。

「わ、濡れちゃった! 大丈夫?」

「平気平気。むしろ洗濯になるよ」

 遠くの岬に太陽は半分隠れている。昼ならまだしも、これでは帰るまでに乾かないだろう。でも、鈴の綺麗(きれい)なサンダルと違って僕のはボロ靴だ。大した問題ではない。

 ハンカチを受け取った鈴は、手の平をごしごしとこすった。

「落ちた? 絵の具」

「うん、半分くらい」

「一花(いちか)さんに落とし方を教えてもらえばよかったな」

 この夏休み、僕と鈴は、一花さんという美大生のお手伝いをしている。一花さんは、昔この土岐波(ときなみ)町に住んでいたというおばあちゃんに、故郷の絵を描いて見せたいらしい。三枚描く予定で、すでに一枚目は完成間近だ。

 そして、全部描き上げたら、僕らのためにもう一枚描いてもらう約束をしている。

「明日になっても落ちなかったら、一花さんに聞こうよ。美大生が使ってるやつだから、特別な絵の具なのかも」

 鈴は「多分、石鹸(せっけん)で落ちるよ」と、手の平をこすりながら歩き始めた。

「とーくの水面にわすれものー。とーりの海がわかつ向こー」

 会話が途切れたので、昔からこの町に伝わる、お歌を口ずさむ。正直言葉の意味はよく分からない。“トキコさま”と呼ばれる、時間を操る神様のことを歌ったものだということしか知らない。

「といて、時駆る、時渡りー」

 トキコさまには、悩みやつらさを抱えた人をタイムスリップさせる力があると、言い伝えられている。それが時渡りだ。

 トキコさまは町内の土岐波神社に祀られている。昔は神社の裏山にある古い祠で祀っていたらしいが、今そこは僕らの秘密の遊び場だ。

 歌い終わったところで、大事な用事を思い出したかのように鈴がこちらを向いた。

「そういえばさ、青斗(あおと)くんは一花さんに聞いた? 豊川荘(とよかわそう)に来るおかしなお客さんの話」

 豊川荘は、一花さんがこの町にいる間、住み込みで働いている民宿だ。

「なにそれ」

 足を振って、濡れたスニーカーから水を飛ばす。

「毎年釣りする格好して、豊川荘に泊まりに来るんだって」

「釣りに来る人くらい、いるでしょ」

「でもね、そのお客さんは釣りにはいかないんだって。一日部屋にこもってるだけ。去年も、一昨年(おととし)も、えっと」

 一昨年のさらに前の言い方が分からず、鈴は結局「その前の年も」と付け加えた。

「それは……おかしいかも。釣り道具なんて使わないなら荷物になるだけなのに」

 初めて見る虫を見つけた時のように、足の裏がぞくりとむず痒(がゆ)くなった。

「部屋でごろごろしてるのかな。テレビ見てるとか?」

 自分で予想してから、豊川荘にはテレビがないことを思い出す。

「ね? 不思議でしょ? その不思議な人が毎年予約をとってる日っていうのが、八月十日なんだって!」

「え! それって、明日じゃん!」

「そう。毎年八月十日に来て、また来年の八月十日を予約して帰るんだって」

「永久欠番ならぬ、永久予約ってことか!」

 野球の永久欠番のことを知らない鈴は、僕の言ってる意味が分からず首を捻(ひね)る。

「と、とにかく不思議な人だね。もしかして、悪いことでもしてるとか……?」

 この前観た刑事ドラマでは、犯人はマンションの一室で拳銃を取り引きしていた。

「わ、悪い人なのかな。だとすると一花さんが心配……」

 鈴が僕の考えを真に受けてうつむいた。

「あ、いやいや、今のは冗談。嘘(うそ)だよ。嘘」

「でも、本当にどんなお客さんなんだろ。なにしてるんだろ」

 鈴が口をへの字にしたまま固まった。

「じゃあ、明日確かめにいこう!」

「いいね! あ、でも、私明日ピアノのおけいこがあるから……」

 一瞬鈴の顔が咲きかけたが、すぐにしおれた。好きなテレビ番組をまるごと見逃してしまう時のような絶望を感じているのかもしれない。

「じゃあさ、僕が調べてくる! そんで、鈴に教えるよ! そのお客さんの正体!」

「ほんと?」

「うん、だから僕に任せて待っててよ!」

 アニメのキャラクターがそうするように、親指を立てて自分を指差してみせた。ポーズをとってから、それが子供っぽいことに気がついてすぐやめた。でも、大げさにしてみせたおかげか、鈴の顔は明るくなっている。僕はそれがとても嬉(うれ)しい。

 鈴には、笑っていてほしいのだ。できるなら夏休み中ずっと。


 〈豊川荘〉と書かれたのぼりが、海風にはためいている。バタバタという音が、今日は僕を追い払おうとしているように感じた。昨夜一晩中、例の不思議なお客さんについて考えていたせいだ。自分でした怖い妄想が現実になるのではと、なんだか心配になってきた。

「なにやってんだい」

「うわぁ!」

 後ろからかけられた声に飛び上がる。

「なんだ、豊川のおばさんか」

 そこに立っていたのは、豊川荘の女将(おかみ)さんだった。

「なんだとはなんだい」

「あ、ごめんなさい……」

 おじさんみたいな短い髪と、その不機嫌そうな表情に、収まりかけた冷や汗がまた噴き出す。この人に悪戯やおふざけが見つかると、いつでもどこでも怒られるのだ。

「今日は一花ちゃんと絵は描かないって聞いてたけどね」

 豊川のおばさんはエプロンから煙草(たばこ)を取り出して咥(くわ)える。おばさんが火をつけ終わるのを見計らって、僕は昨日考えた作戦を実行に移した。

「あ、あの! 今日は一日、豊川荘を手伝いたいんだ! ですけど……」

 無理やり敬語に直す。豊川のおばさんは煙草を咥えたまま「なんでまた?」と聞き返してきた。

「学校の宿題であるんだ。夏休みに、人のお手伝いしてきなさいってのが。お母さんの手伝いとかでもいいんだけど、それだと普通だからさ……」

「はーん。そんな宿題があるのかい」

 イエスともノーとも言わず、おばさんは豊川荘の中へと入っていった。

「おーい、一花ちゃん」

 玄関から奥へ呼びかけると、小さく「はいな」という声がした。それからしばらくして、豊川のおばさんの代わりに一花さんが出てきた。外の日が眩(まぶ)しかったのか、鋭い目をさらに細めて僕を見つけた。

「おはよ。青斗」

 長い茶髪を、今日はお団子にしている。Tシャツの上にエプロンをつけて、すでに仕事中の格好をしていた。

「豊川のおばさん、僕のことなんか言ってた?」

「ん? 青斗が今日ここを手伝うから、その面倒見ろって言われたけど」

 豊川さんのはっきりしない「はーん」という返事は、イエスの意味だったらしい。


 一花さんが洗い終わったお皿を僕が受け取り、ふきんで拭いて横に重ねていく。豊川荘のキッチン台は高くて、僕は台に乗りながらの作業だった。

「私の絵だけじゃなく、豊川荘まで手伝うだなんて、青斗も物好きだね」

 一花さんが頬に飛んだ水滴を袖で拭いた。

「宿題だから、仕方なくだよ」

「それにしたって、家の皿洗いのほうが楽でしょ?」

 確かに豊川荘のキッチンは広い。お客さんの分のご飯を一度に作るのだから当然だ。お皿だって、いろんなサイズのものがたくさん流しの中に入っている。

「それはそうなんだけど……」

 僕が歯切れ悪く答えると、一花さんは手を止めた。人差し指と親指で洗剤の膜を作ってから、ふーっと息を吐き出して大きなシャボン玉を作る。一花さんの手から離れてすぐ、シャボン玉は僕の顔の前で弾(はじ)けた。

「わ、なにするんだよ」

「ふふん、私を誤魔化そうなんてそうはいかないよ」

 一花さんは指で作った丸から、僕を覗(のぞ)き続けていた。

「さては、あのお客さんの件だね」

 にたりと、一花さんが笑う。

 一花さんには、こういうところがある。まるで、僕のことをなんでも知っているかのように、時々ずばっと言い当てる。

 これは一花さんには秘密だけれど、僕は一花さんがトキコさまなんじゃないかと疑っている。それくらい、この人は不思議なことを起こすのだ。

「実はそうなんだ。永久予約してるお客さんが気になって」

「はは、永久欠番ならぬ永久予約ときたか」

 一花さんには伝わったらしく、僕のネーミングを笑ってくれた。

「でもなんで、僕がそのお客さんを調べに来たって分かったの?」

「その話を鈴ちゃんにしたの私だもん。それに、さっきそのお客さんを案内したばかりだからピンと来て……」

「え、そのお客さんもう来てるの?」

 台に乗っていることを忘れて踏み出そうとしてしまった。慌ててバランスをとる。

「うん。二階の松の間に案内したよ」

「どんな人だった? 釣りの道具は今年も持ってたの?」

「持ってたけど、普通のおじさんだよ? 名前は河野(こうの)さんって言ったかな」

「河野さん……」

 まるで刑事ドラマで犯人が出てきた時のように、心が盛り上がる。

「でも、釣りにはいってないんだよね? 今も部屋の中?」

「うん。とはいえ、青斗が来るすぐ前にチェックインして案内したばかりだから、まだ三十分も経ってないけど」

 やっぱり、不思議なお客さんは実在したんだ。

「あの、そのお客さんに用事とかない? 見てみたい!」

「ないけど、皿洗いが終わったら、次は空き部屋の掃除だよ。二階のね。トイレとかに出てくれば顔は見られるかも」


 締め切られた隣の部屋の襖(ふすま)を見ていると、まるで雪男の住む洞窟を見つけたような興奮があった。

「こら、廊下ばっかり見てないで、手を動かしなさい。手伝うって言った以上は、ちゃんと手伝わなきゃ」

 一花さんがバケツの上で絞った雑巾を僕に放り投げた。キャッチできずに、畳に落ちた雑巾を拾ってから机を拭き始める。

「でも、一花さんだって気になるでしょ? 河野さんのこと」

 隣に聞こえないように小声で尋ねると、一花さんはため息をついた。

「あのね。私はここで働かせてもらってる身よ。私のお給料は、お客さんが払ってくれる御代から出てるんだから。その人がしたいようにさせてあげるのが、こっちの務めってもんでしょ。身の上を探ったりするのはマナー違反」

 人差し指を立ててつらつらと説明したあと、一花さんは目を逸(そ)らした。

「……でも、まぁ、気になるけど」

 一花さんの正直さに、僕はくすりと笑ってしまう。

「実は私もこの話を有紀(ゆき)ちゃんに聞いてから、今日を楽しみしてたわ」

 有紀ちゃんは、豊川のおばさんの娘さんだ。今年の春に中学生になったばかりで、一花さんとも仲良しだ。一花さんの情報源は豊川のおばさんだとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。

「犯罪行為でもしてるなら、問題だしね。豊川さんは気にするなって言ってたけど」

「なにしてるのかな? 海を見てるとか? 外の人は海珍しいんでしょ?」

「それはないかな。窓の大きな部屋は他にあるし、景色を楽しんでるわけじゃないと思う。そもそも二階の松の間は日当たりもよくないし、むしろ不人気な部屋よ?」

「じゃあ、隠れて怪しい取り引きをしてるとか!」

 一花さんは、一度大きな声で笑いそうになって、すぐに口を閉じた。

「他の人が訪ねてきたことはないって、有紀ちゃん言ってたよ」

「そっかー……」

 肩を落として、机を隙間なく拭いていく。

「でも、あんまり人に言えないことをしてるのは確かよね」

「え、なんで?」

 一花さんは雑巾の表裏をひっくり返して、また窓を拭き始めた。

「だって、あの人釣りしないのに、釣り人の格好してきてるでしょ? それはきっと、子供や奥さんには、釣りにいくって言って、家を出てきてるからじゃないかな」

「変装してきてるってこと?」

「変装とはちょっと違うけど。偽装工作よね」

 手に持っていた雑巾を落としそうになる。急に自分が河野さんの隣の部屋にいることが怖くなってきた。

「さて、青斗、バケツの水替えてきてくれる?」

「うん、分かった」

 水道へいって蛇口をひねる。考え事をしていたので、水を入れ過ぎた。

 バケツの重さにふらつきながら戻ろうとした時、河野さんの部屋から声がした。

「おっと、ちくしょ……」

 野太い声だった。なにかをこぼしてしまったのか、ばたばたと動く気配がする。

 手に持ったバケツと雑巾を見る。チャンスかもしれない。

 怖い気持ちもあった。でも、鈴にちゃんと報告をしたい気持ちが少しだけ勝った。

 襖の縁をこんこんと叩(たた)いてから、声をかける。

「あのー」

「なんだ?」

 ぶっきらぼうな声が返ってきた。僕は好奇心を抑えきれずに襖を開ける。一花さんがそうするのを見たことがあったので「失礼します」と深く頭を下げる。

「あ? ちびんちょが、なんの用だよ」

 河野さんは僕のことを“ちびんちょ”と呼んで顔をしかめた。

 おでこが出ていて、残った髪にはパンチパーマがかかっている。皺(しわ)は濃いが、おじいさんというほどではない。学年主任の先生や、豊川のおばさんと同じくらいの年に見えた。

「あの、僕、今日この豊川荘をお手伝いしてて。今、なにかこぼしませんでしたか?」

 首を傾けて河野さんの足元を見ると、部屋に置かれているおせんべいが散らばっていた。

「あ、僕今ちょうど雑巾持ってるから。拭きます」

 襖を大きく開けて、中で水が暴れるバケツをなんとか両手で持ち上げた。

「いい。いらん」

「でも……」

「いいって言ってんだろ!」

 河野さんの雷のような大きな声に、踏み出そうとしていた足を引っ込める。

「ご、ごめんなさい……」

 条件反射で謝ってしまう。それと同時に、僕は畳に異変を感じて固まる。

「え……」

 畳と畳の間に、ナイフが刺さっていた。僕が見つけたのに気がついて、河野さんはさっと畳からナイフを抜きとる。

「どうかなさいましたか?」

 河野さんの怒鳴り声に気がついて、来てくれたのだろう。一花さんが僕の後ろに立っていた。河野さんは一花さんを見ると、我に返ったかのように目を逸らした。

「俺が拾っとくから、部屋には入んねぇでくれ」

 河野さんは机の上のティッシュを使って、おせんべいを拾い始めた。

「失礼しました。ごゆっくりおくつろぎください」

 一花さんが僕の上から手を伸ばして、丁寧に襖を閉じた。

「あの人が帰ったら掃除すればいいよ」

 一花さんは笑ったが、僕の内臓は怒鳴られたショックで痺(しび)れたままだった。

「ごめんなさい。僕、どんな人か気になって。それに、掃除もしなくちゃって……」

 頼まれてもない言い訳をしていると、階段下から豊川のおばさんの声が聞こえた。

「一花ちゃん。おつかい頼んでもいいかい?」

「はーい」

 一花さんは僕の代わりにバケツを持ち上げた。

「ほら、青斗、しょげてないで手伝って」


 豊川のおばさんに頼まれたのは、土岐波神社へのおつかいだった。

 トキコさまを祀る土岐波神社は、新しくて豪華だ。屋根の縁についている金の飾りは太陽に当たりっぱなしで、触れば火傷(やけど)するくらい熱くなっているかもしれない。

 長い石段をのぼって、足はぱんぱんだった。自分で腿をマッサージしながら、一花さんの用事が終わるのを待った。

「はい、よろしくお願いします」

 一花さんが頭を下げながら、土岐波神社の社務所から出てきた。

「もう終わったの? おつかい」

「うん、お祭りの書類を渡すだけだからね」

 この土岐波神社は、夏に二回お祭りを行う。夏の間降りてくるトキコさまを迎えるお祭りと、送り出すお祭りだ。そのお祭りに、豊川のおばさんも毎年屋台を出しているので、その関係の書類なのだろう。

「うわーあっつ。早く帰ろう。豊川のおばさん、いつもジュース用意してくれるんだよ。おつかいから帰ると」

「ジュースって、何ジュース?」

「オレンジ」

 僕の好きな味だったが、あまり元気は出なかった。

「もしかして、さっき怒鳴られたこと気にしてるの? それとも畳に刺さってたっていうナイフが気になる?」

「えっと、どっちも」

「怒られたことは忘れなよ。別に悪いことしようとしたわけじゃないんだから。それにナイフは、釣りで使うナイフだよ。魚をさばいたり、絞めるのに使うやつ。それを、おせんべいと一緒に落としちゃったってだけじゃないかな」

 一花さんは明るい口調で僕を慰めてくれた。でも気持ちは晴れない。

「でも、それだけじゃなくてさ。僕、鈴と約束したんだ」

「約束?」

「うん。あの不思議なお客さんの謎を解くって。なのに……」

 一花さんは、納得したように笑った。

「なるほど、そういうこと。ほんとに青斗は鈴ちゃん思いだね。鈴ちゃんが蝉(せみ)を百匹捕まえてって言ったら、ほんとにやってのけちゃいそう」

「鈴は蝉苦手だよ」

「例えよ、例え」

 一花さんが苦笑いしてから、親指を立てて自分自身を指差した。

「そういうことなら、この一花さんが探ってあげようじゃないか」

「え……? いいの?」

 一花さんの向こうには、土岐波町の景色が広がっている。まるで、その中に巨大な一花さんが立っているかのように錯覚してしまう。

「また明日おいでなさいな。今日は手伝いありがとう」


 夜の間、強い雨が降っていたらしい。コンクリートや地面が黒く濡れていた。

 太陽の光で蒸発した雨が、鈍い匂いになって鼻に入る。

「一花さん。おはよ」

 豊川荘の玄関にいた一花さんに声をかけると、一花さんはまとめていたゴミ袋の口をぎゅっとしばってから立ち上がった。

「おはよ、青斗。これ出すまで待ってくれる?」

「あ、うん。手伝う」

 僕は一花さんの足元に置いてあったゴミ袋を一つ持ち上げた。もう一つ持とうと思ったが、残りの二つは一花さんがまとめて持ち上げた。

 左右を確認してから、道路の向こう側にあるゴミ捨て場に僕らは向かう。

 一花さんは普段通りだ。僕は昨晩、謎を探ろうとした一花さんが、河野さんに怒られたり捕まったりしないかなんて心配までしていたのに。

「それで、分かったの? あのお客さんがなにしに来てるのか」

「まぁ、あくまで予想だけどね」

「ほんとに⁉」

 一花さんが「よいしょ」とゴミ捨て場のコンテナへとゴミ袋を放り込んだ。

「最初に言っておくけどね。あの人、別に怖い人ってわけじゃないよ。昨日は思わず怒鳴っちゃっただけみたい。確かに愛想はよくないけど」

「でも……」

 記憶の中には、僕を怒鳴りつけた河野さんの顔が張り付いている。

「ああして怒鳴っちゃったのはね、理由があったのよ」

 読み返しても理解できない算数の文章問題みたいだった。

「どういうこと?」

 一花さんは僕から受け取ったゴミ袋をさらに放り込んでから、手を叩いた。

「昨日、お夕飯の時に目に入っちゃったのよね。あの人の部屋に、ノートが置いてあるのが」

「ノート?」

「うん。四冊くらいだったかな。それぞれに去年と今年の西暦と、何月から何月まで。みたいに数字が書いてあったわ。多分、あれは日記だと思う」

「日記って、あのおじさんの?」

「ううん。違うと思うわ。使い切った自分の日記帳を持ち歩く人は、あんまりいないんじゃないかな。それに、数字がちょっと女の人の字っぽかったし。私が見てたらすぐ机の下に隠したから、はっきりとは分からなかったけど」

 一花さんは腰に手を当てて、僕を見下ろした。

「きっと、あの人はあの日記を読んでるのよね。あの部屋で。一冊のノートにはペンが挟んであったから、読むだけじゃなくて、交換日記みたいに、書き込みもしてるのかもしれない」

 一花さんの説明に、僕はまだぴんとこない。

「日記に返事を書くために、わざわざ豊川荘に泊まってるの?」

「ううん。多分きっと、豊川荘のあの部屋が、日記の受け渡し場所なのよ」

 受け渡し場所。という刑事ドラマでも聞く単語に、どきりとする。

「そう考えると、説明がつくのよね。青斗が見た畳に刺さったナイフと、青斗が怒鳴られたことに」

「え、どういうこと?」

「うん。ちなみにまず勘違いを正すと、刺さってたのはナイフじゃなくて、ペーパーナイフだったわ。手紙の口を開けたりするのに使うやつね。刺さらないし切れないやつ。ノートの隣に置いてあった」

 それはお父さんが使っているのを見たことがある。

「そのペーパーナイフを、畳に刺してたの? なんで?」 

「畳をめくろうとしてたのよ。裏に隠されたノートを取り出すためにね」

 ぞわっと鳥肌が立つ。僕が部屋に入ろうとしたのは、まさに隠されたノートを取り出そうとしている時だったということか。

「だから、青斗をあの時怒鳴ったのよ。バケツ持ってふらふらしてたでしょ? 転んで水がぶちまけられたら、日記も濡れると思って焦ったんじゃないかな?」

 確かにあの時の僕は、水をいれすぎたバケツに揺られて、いつ転んでもおかしくなかった。

「で、でも、なんで部屋に隠してまで日記を渡すのさ。郵便とかじゃダメなの?」

「堂々とできない相手との交換日記なのよ。釣りする格好してまで、この町に来てるんだから」

「じゃ、じゃあ、やっぱり悪いことしてるの?」

「そのノートが、麻薬の取り引き明細とかなら悪いことだけど。さすがにそれは違うと思うな」

 一花さんが「ここからは私の予想だよ?」と前置きした。

「多分。女の人なんだろうね。交換日記の相手は。多分元恋人」

 一花さんが海のほうをぼんやりと見つめた。

「河野さんは、昔この町に住んでたんだよ。その時、この町に住むとびきりの美人と仲が良くて、付き合ってた。でも、大学進学とか、就職とか、とにかくどうにもできないことが理由で二人は離れ離れになってしまった」

 一花さんはまるで本を朗読するかのように話し続ける。

「その数年後、河野さんは別の場所でその元恋人と再会した。でも、その頃には、お互い結婚していて、子供もいた」

 目の前に、二人が街中で出会っている光景が浮かぶ。

「でも、河野さんはどうしても、元恋人が元気だったのか、どんな人生を送ってきたのか気になった。だから提案した。“土岐波町の豊川荘に、今度泊まりにいく。会わなくてもいい。だからせめて前日までに手紙を同じ部屋に隠しておいてくれないか?”」

 演技っぽく、でもしっとりと一花さんは言葉を再現した。

「そうして、それは毎年繰り返され、手紙は日記になり、畳の下に隠されるようになり、気の長い、年に一回だけ行われる交換日記が、今も続いてる……なんてね」

 一花さんは、にぱっと表情を崩した。

「それするくらいなら、一緒にいればいいじゃないか」

「それが簡単じゃないのは、青斗くんも分かってるんじゃない?」

 その言葉にひやりとして、僕は固まってしまう。

「いい線いってると思うな。私のこの“予想”」

 今の話を疑ってるわけじゃない。むしろ、正しい気がする。でも、そうだとすると、僕にはそれが寂しい話に聞こえてしまい、なんだかスッキリしない。

 一花さんは車が来ないことを確認してから、豊川荘へと歩き出した。僕はそれを追いかける。

「まぁ、ちょっとだけ穴はあるけどね。畳にノートを隠すなんて、誰がいつ豊川さんにバレずにやってるのか。とかね。でもそれは多分きっと……」

 一花さんが豊川荘の玄関を開けると同時に口を閉じた。まさに河野さんが受付でお金を払っているところだったからだ。

「じゃあ、また来年の八月十日に、予約いれといてくれ」

「ご贔屓(ひいき)にしていただき、ありがとうございます」

 豊川のおばさんがカウンターの向こうで、ごそごそとメモをしていた。

「姉ちゃんもありがとな。出る前にトイレ借りるよ」

 河野さんは一花さんに挨拶すると、クーラーボックスと釣竿をその場に置いて、豊川荘の奥へと入っていった。

 河野さんを見た途端、一花さんがしてくれた話が一気に僕の頭に広がって、同時に、落ち着かない気分になった。すごくそわそわする。

「あれ、なんだい青斗、今日も来てたのかい」

 豊川のおばさんには返事をせずに、僕は靴を脱ぎ捨てて河野さんを追っていた。

「遠くの水面に忘れ物っ~とくらっ」

 男子トイレを覗くと、河野さんは小便器の前に立って、トキコさまの歌を口ずさんでいた。チャックを閉めるのと同時に、僕に気がつく。

「なんだ、昨日のちびんちょじゃねぇか。なんだよ。なんか用か?」

 一花さんの“予想”が正しいのかどうか、河野さん本人に確かめたかった。でも、どうすればうまくできるのか分からない。

「えっと、その、今の歌って……」

「あぁ、ちびんちょも聞いたことあるか。ここに来ると、なんとなく思い出しちまうんだよな」

「今はもう、ここに住んでないんだ?」

「まぁな。――って、なんで俺がそんなことまで話さねぇといけねぇんだよ」

「いや、その、別に。なんとなく気になっただけ。なにしに来てるんだろうって。ほら、ここ田舎なのにさ」

 河野さんはため息をつくと、目を逸らして呟(つぶや)いた。

「別に、野暮用だよ。ちっと、まぁ、昔馴染(なじ)みとやりとりしただけだ」

 その答えは、ほとんど一花さんの“予想”が正しいことを証明しているようなものだった。やっぱり、この人は交換日記をしていたのだ。

 河野さんが、ぱっぱと乱暴に手から水滴を飛ばした。

「おいおい、ちびんちょ。なにを暗い顔してんだ。俺がなんかしたか? むしろ質問に答えてやってんのに。あ、もしかして、昨日怒鳴っちまったことか?」

「ううん、そうじゃなくてさ、なんか、寂しくなって……」

「寂しい? わけの分からないこと言うやつだな」

「だって、おじさん、昔、この町から出ていったんでしょ? それって、この町で仲良しだった人と離れ離れになったってことだよね?」

 今も、年に一度交換日記をするだけなのだ。

「だから、なんだってそれでおまえがそんな暗い顔してるんだよ」

「その……あのね」

 いつの間にか、僕は胸の前で手をまごつかせていた。

「僕にも友達がいて。鈴っていうんだけど」

 僕が、河野さんの話を寂しいと思ったのには理由がある。

「鈴も引っ越しちゃうんだ……」

 この夏休みが終わったら、鈴はこの町からいなくなる。

「その、僕、すごく、それが寂しくて。仕方がないって分かってるんだけど……。せめて最後の夏休みを、最高にしてあげたくて。だから、一花さんの絵を手伝って、鈴のために絵を一枚描いてもらおうとしたり、不思議に思ってることは全部解決してあげたいって思ってたんだけど、あの……」

 ずっと、誰かに聞きたかったこと。でも鈴には聞けないこと。

「あのさ、離れたら、友達じゃ……なくなる?」

 すがるように尋ねたが、河野さんは動じることなく顎をなでた。

「覚えてねぇよ。俺がこの町を離れたのは、ちびんちょが生まれてもないくらい昔のことだしな」

「そっか……」

 足元の靴下へと目線を落とす。つま先がくっついていた。

「でもな」

 河野さんの声に、僕はまた顔をあげる。

「友達とか、恋人とか、そんな言葉に囚われるこたぁねぇんだぞ」

 河野さんは僕ではなく、力を抜いて鏡を見ていた。

「相手次第で、そんなもん、どうとでも変わるんだよ。ただ友達っていってもな、毎日仕事で顔つき合わすやつもいりゃぁ、月に一回飲みにいくだけのやつもいる。多分、葬式まで会わねぇだろうなってやつもな」

 河野さんが「そんで」と呟きながら目を瞑(つむ)った。

「年に一回、そいつが幸せだったかどうかだけ、確かめられりゃいいってやつとかな」

 そう言った河野さんは笑っていたわけではないけど、寂しそうではなかった。なぜだかすごく心地よさそうで、それが僕には嬉しかった。

「ちびんちょと、その鈴って子がどうなるのかなんて分からねぇ。トキコさまでもねぇ限りな。だが、どうなっても、どんな関係を続けることになっても、おまえらはおまえらなんだ。その時、呼びたけりゃ、友達って呼べばいい。ただそんだけのことだ」

 乱暴な話だけど、なんだか安心している自分がいた。

「とにかく、したいようにすりゃいい。今はその子のために、いい夏休みにしてやることだけを考えろ」

 僕は河野さんに「うん」と、はっきり返事ができた。

 河野さんが玄関に戻ると、豊川のおばさんがクーラーボックスを、一花さんが釣竿をそれぞれ手渡した。

「いってらっしゃいませ」

「おう」

 河野さんが一花さんに靴べらを渡してから、玄関を開ける。ぎらぎらした太陽の光の中に河野さんが埋もれた。「暑いな。ここは」とぼやいてから歩き出す。

 その時、河野さんの背中に、豊川のおばさんが一言だけなげかけた。

「くたばるんじゃないよ」

 全身に、炭酸が弾けるような感覚が広がった。

「はっ、おまえもな」

 河野さんは振り向くことなく出ていった。唖然(あぜん)としながら豊川のおばさんを見ると、いたずらっぽく、でも満足げな表情を浮かべていた。

 一花さんと目が合う。一花さんはまったく驚いていなかった。穏やかに、そして、綺麗な花を見つけた時みたいに、僕に向けて、にかっと笑った。


「青斗くん、どうだった?」

 その日の午後、いつのも集合場所である集会所にやってきた鈴は、すぐに僕に聞いてきた。

「あ、その、八月十日に泊まりに来てる、お客さんの話ね」

 慌てて鈴が付け足すのが、少しおかしかった。

「分かってるよ。そんなの」

 僕の晴れやかな表情から、迷宮入りしなかったことが分かったのだろう。鈴はわくわくしながら「それで?」とまた尋ねてきた。

 まず僕は一花さんのことを話したくなった。今回も一花さんに助けられた。河野さんに関する“予想”は大正解だった。おかげで、僕は今堂々と鈴の前に立っていられる。

 一花さんが正解できたのは、ただ鋭いからというだけなのだろうか。

 この町で祀られるトキコさま。人を時渡りさせるトキコさまには、過去を見通す力があるといわれている。“トキコさまには全部分かっちゃうんだからね”が大人たちの口癖なのだ。

 やっぱり、一花さんは……。と僕は思わずにはいられない。その答えも、きっと分かるはずだ。僕が夏の最後に、トキコさまなのかどうか尋ねる時に。

「ねぇ、もったいぶらずに教えてよ」

 鈴が珍しく僕を急(せ)かしてから「あ、嫌なら、いいんだけど……」と縮こまった。

「嫌じゃないよ」

 一花さんの話、河野さんが言っていたこと、豊川のおばさんのあの顔。いろんなことを混ぜ合わせて出来上がった僕の中での不思議への答えが、鈴を寂しくさせないか心配ではあった。でも、僕が見た限り、悲しい話ではないはずなのだ。

 だから、できるだけ、楽しく話そう。鈴が、聞いてよかったと思えるように。

 今日も暑い。朝は濡れていたはずの地面がもうカラカラだ。湿気の匂いすらしない。

「あのね、あの人は――」

 僕らの夏休みは、まだ半分残っている。