「今、何とおっしゃいました?」

 警視庁捜査一課の今井千春(いまい ちはる)は、不服そうな顔でそういった。

 霞が関にある庁舎高層階の会議室では、警視監クラスの高級官僚たちがコの字型の長机に座り、ドアの前に立つ今井に値踏みするような視線を向けていた。

「連続殺人事件の捜査は、ひとまず後回しにしろといったんだ」

 長机の中央に座る、四角い眼鏡の男が答えた。男の肩書は内閣官房長官。黒革の椅子にゆったりと腰掛け、肘掛に腕を乗せて、顎をやや上にあげたそのたたずまいは、まるで一国の主のようだった。

「しかし、あと一歩で犯人に手が届くんですよ」今井は語気を強めた。「もう少し時間を頂ければ、例の凶悪犯を特定できるはずです。犯人は、間違いなく追い詰められてます。今ここで油断するべきではありません」

 すると官房長官は机の書類を静かにめくった。周囲の官僚たちも同じように書類に目をやる。それは今井の顔写真が印刷された、彼女の経歴書だった。

「代わりにきみに課す任務は、連続殺人犯を逮捕することよりも、さらに重要な任務であるといえる」

「本気ですか?」

「もちろん。我々は本気だ」

 躊躇なく答える官房長官に、今井は鋭い視線を注いだ。

 彼は気に入らないといった目で今井をにらみ返し、

「きみはとても優秀な刑事だと聞いている。きみと組みたがる捜査官は非常に多いともね。だが、きみのことを高く評価しているのは現場の人間だけじゃない。我々のような上の人間も同じだ。何より、きみは上からの指示に忠実だそうじゃないか。そこで今井君、きみにはこれから要人の警護にあたってもらう」

「要人の警護?」今井は眉根を寄せた。「お言葉を返すようで恐縮ですが、私は捜査一課の人間であり、警備部警護課の人間ではありません。よって、要人の警護よりも四人の若い女性たちを殴殺した凶悪犯に手錠をかけるのが先決だと考えます。加えて、つい先ほど、犯人の男が利き手である右の手に、銀製の大きな指輪をしていると判明しました。それが女性たちの遺体から出た唯一の手がかりです。それにもかかわらず、私に捜査から手を引き、本来なら警備部警護課の者がやるべき要人の警護役を務めろとおっしゃるんですか」

「いいか、これは命令なんだ」男は身を乗り出していった。

 一瞬だったが、そのときの男の顔には焦りと怯え、そして強い恐怖が表情に透けて見えたのである。

 今井が状況を理解するには、それだけで十分だった。官房長官のいう要人とは、次期総理大臣ですらいいなりにすることのできる重要人物なのだと。


          *


 今井はエレベーターの階数表示ランプを見上げながら、警護する要人がどんな人物なのか考えた。大物政治家か財界の重鎮の線が濃厚だが、彼ら親交のある芸能人やスポーツ選手の可能性もある。どちらにせよ、相手は超大物であることは間違いない。部屋に集まっていた高級官僚たちは、国政や経済界に強いコネクションを持つエリート中のエリートである。彼らが恐れる人物といえば、彼らのすべてを握りつぶせる権力者か、そういう人物と深い関わりを持つ人間だ。

 しかし、それほどの重要人物ならシークレットサービスを大勢雇えるに違いない。一介の刑事を警護役に添えるには、何か特別な理由があるのではないか――。

 短い電子音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。

 撫でるような冷たい薄闇が、今井を静かに迎える。

 今井は硬い床を静かに歩きながら周囲を見渡した。

 地下駐車場には車の黒い影と、警光灯の頼りない明かりに照らされた、黒いレザージャケットを羽織る今井の姿しかない。

 するとそのとき、遠くで猛獣の咆哮にも似た車のエンジン音が鳴り響いた。

 今井が音の方向に目を向けると、車と車の間から、切れ長のヘッドライトが闇を切り裂くのが見えた。車体は暗がりの中でも輝く鮮やかな真紅。やがてツードアの赤いセダンは〝キュッ″と小気味のいい音を奏でて今井の隣に停まった。

 助手席のバタフライドアが音もなく開き、今井の目は高級感漂う車内とギアに置かれた男の手を捉える。

「乗れ」

 今井はその低い声から、野心家で自信家、それでいて傲慢な男の人間性を一瞬で見抜くのだった。

「失礼ですが、どちらさまでしょうか。かっこいい車を武器に女性に声をかけるのでしたら、警視庁の地下駐車場より適した場所は他にもあると思いますよ」今井は皮肉たっぷりにそういった。

「警戒しなくていい。キミが刑事の今井千春君だね。話しは聞いているよ。連中のいった要人とはボクのこと。すなわちキミの任務は、この車に乗ってボクと一緒に来ることというわけさ」

「あなたが要人で私が警護役なら、運転は私がするはずでは?」

「あいにく助手席は好きじゃないんだ。特に女性が運転する車の助手席は、どうも居心地が悪くてね」

「つまらない理由ですね」

 そういって今井は歩き出すと、車は同じ速度でついてきた。

 今井が足を止める。車もまたピタリと横に停まる。

「乗るんだ」男はいった。力強い声だった。

 今井は再び周囲を見やる。他に人の姿はなく、あたりには薄闇がしんとたたずんでいるだけだった。要人とはこの男のことだと、今井は認めざるを得ない。

「乗ればいいんでしょ、乗れば……」

 今井はボソッとつぶやき、助手席に乗り込んだ。

 運転席にはどこか見覚えのある横顔があった。幼さの残る大きな目は長いまつ毛に縁どられていて、高い鼻には意志の強さが感じられた。唇は余裕のある柔らかい笑みを描いている。

「悪いね。ボクだって他人を巻き込みたくはないが、どうしても必要あってのことなんだ」そういって要人は、形のいい眉の片方を、クイッと上にあげた。

 整髪料で後ろに流した髪には、男としての強い自信がみなぎっていた。厚みのある体を包むダークグレーのスーツはひと目で上質だとわかるもので、ベストとシャツ、身に着けた靴や腕時計も洗練された超一級品だ。

 むろん、だからといって今井が驚くことはなかったが、それでも彼女が目を凝らしたのには理由があった。

 それは要人の若さだった。顔と手の皮膚の具合から判断して、要人の年齢は二十代の後半といったところで、官房長官クラスのエリートが恐れるほどの権力者にはとうてい見えない。さらに彼がその身にまとう雰囲気は、これから遊園地に行く子供のようにワクワクと心が躍るといったものであり、その姿に威厳や圧力感はまるでなく、むしろ爽やかな親近感や、真っ直ぐな誠実さを彼は全身にまとっていたのだ。

 今井が疑いの目で要人をにらみつけていると、助手席のバタフライドアが自動で閉まった。

 こうしてふたりを乗せた車が地上へと走り出ると、薔薇のように美しい赤の車体に、太陽の陽射しと、通行人の視線が一気に注がれた。

 居心地を悪そうにする今井とは裏腹に、要人は顔色を変えない。運転するのが楽しいといった表情を顔に貼りつけてアクセルを踏み、どういうわけか青信号の連続する大きな車道を突っ走るのだった。

 すると突然、後方を走る車がクラクションを鳴らした。今井は振り返って後ろを見る。すぐ後方を走る車の中では、数人の影が今井たちに手を振っていた。

「知り合いですか?」

「ボクは彼らを知らないけど、彼らはボクを知っているのさ」

 そういって要人はハザードランプを点滅させた。その途端、後ろの車では喜びが爆発していた。一等の宝くじにでも当たったかのようだった。一方で要人は涼しげな笑みを浮かべている。

「それにしてもこの車、ずいぶん派手ですね。命を狙われてるとは思えません」

 今井が皮肉っぽくいうと、要人はニンマリと唇を横に広げた。

「注目されることには慣れているからね」

「だとしたら」と今井は声を低くする。「目立たない車で、目立たないように目的地まで行くのがセオリーでは?」

「確かにキミのいう通りだ」要人は首を縦に振り、だけど、と続ける。「この車は完全防弾で、対戦車用の地雷を踏んでも窓ガラスすら割れないんだよ。水に沈んでも車内には酸素が供給されるし、当然浸水を防ぐ機能もある。さすがに対戦車ミサイルを受けたら吹き飛ぶけど、それでも車内は特殊なエアバッグで守られるからボクもキミも無傷で済むのさ。どうだい? すごいだろう?」

 今井は訝しげな目で要人の横顔を見つめた。

 彼女の疑いの矛先は、話の内容ではなく、男の性格に向いていた。相手の反応を窺ったりせず、嬉しそうな顔で、好きなもののすごいと思うところを情熱的に語るその姿はまさに子供そのものだった。

 人が大人になるにつれて失う何かを、この男はいまだに持ち続けているのである。

 だから今井は訊ねた。それは彼女の中で、要人への興味が大きく膨らみ、破裂した瞬間でもあった。

「そういえば、あなたのお名前をまだ伺ってませんでしたね」

「ボクの名前だって?」要人は驚いた顔を今井に向けた。

「前を見て下さい」今井は要人から視線を切り、進行方向を顎で示した。

 要人は、過去に一度でも目を合わせていれば、決して忘れることのできない目力の持ち主だった。宝石のような瞳の輝きが、今井にそう確信させる。だが今井に要人と接触した記憶は一度もない。それにもかかわらず、彼は前を向き直り、「ボクが誰か、本当に知らないのかい?」と瞬きを繰り返している。

 今井は隣に座る思いあがりの甚だしい傲慢な男に対して、「知るわけないでしょ」と声に怒りを込めた。

「おいおい、強がるのはよせよ」

 敬語を辞めた今井に、要人は怒るどころか、嬉しそうに笑っていた。

 屈託のないその微笑みは、笑顔の神様に愛されているかのようだった。

 今井は不機嫌を顔に貼りつける。その顔にはこう書いてある。

〝何て失礼なやつ!″

 伸ばした足をクロスさせ、背もたれに身を預け、腕組みまでして今井は訊ねた。

「それで、あなたの名前は?」

 要人は今井のその姿をチラリと見やり、満足そうに片方の眉をあげた。

「いいね。ボクに対してそんな態度を取る人間はなかなかいないよ」

「な、ま、え」と今井はいう。「もったいぶるほどあなたって有名人なわけ?」

「まあね」と要人は答え、車内は奇妙な沈黙に満たされた。

 信号は依然、青が続いている。


          *


 ふたりを乗せた赤い車は、東京湾の見える倉庫街の一角でエンジンを止めた。

 あたりには同じような色と形をした大型倉庫が建ち並んでいて、かつての工業地帯のにおいが空気に染みついていた。

 周囲に人影はない。遠くに見える京浜工業地帯から、巨大な金属がぶつかり合う音が聞こえる。海から陸地へと流れ込む潮風は、勢い激しく今井に吹き付けている。

 長い髪を押さえながら、体を丸めて歩く今井とは反対に、要人は満ち足りた顔でジャケットのボタンを締め、冷たい潮風をものともせず、シャキっと鳴るような姿勢で大型倉庫の扉の前に立つのだった。

 彼の頭上にある防犯カメラが、その姿を見下ろしている。

「ところで、何のためにここに来たわけ?」追いついた今井が訊ねた。

「取引さ」

 要人がいうと、ガラガラと音を立てて、トラックが入れるほどの大きな扉が開いた。

 倉庫の内部は、貨物船に積み込むためのコンテナや積み荷などが保管されていた。

「お先にどうぞといいたいところだけど、キミは車で待っていた方がいい」

「警護が私の任務でしょ」

「キミにボクは守れない」

 要人のひと言で、今井の頭はカッと熱くなった。彼女は苛立ちで声を震わせた。

「じゃあ誰ならあなたを守れるわけ?」

「少なくとも人間には無理だね」

「あなたって頭おかしいでしょ」

 今井の言葉は槍で突くように厳しかったが、それでも彼は笑うだけだった。

「キミみたいに率直にものをいってくれる人間は大歓迎さ」

「残念だけど、私はあなたのような変人はお断りよ。それでも与えられた任務は責任を持って遂行するわ」

「それじゃあ頼むよ」

 そう告げると、要人は颯爽と倉庫の中へと入っていった。

 あとに続いた今井の背後で突然扉が閉まった。

 要人はくるりと踵を返して両手を広げる。

「さあ、ボクを守ってくれ」

 その途端、銃を持った男たちが一斉に物陰から姿を現した。

 銃口はどれも例外なく要人に狙いを定めている。

 今井は動けなかった。冷たい汗が、彼女の全身から噴き出していた。

「実のところ、ボクの部下が悪人どもに脅されて会社の機密情報が入ったメモリーカードを渡してしまってね。その中に保存された情報をバラまかれると会社の信用に関わるから、こうして買い戻しにきたってわけさ」

 要人は声色を変えずにそういって、今井にサッと背を向けた。

 そこで今井は確信する。男には何か策があるに違いないと。彼の背中は、命の危機に陥っているとは思えないほどの、圧倒的な余裕をまとっていたのである。

「約束通り金を持ってきたよ」

 要人はいった。その声には依然、緊張や不安は見られない。

 すると二階から突然人が落ちてきた。全身にタトゥーを掘った大柄の男だった。

 ドン、と豪快な着地音を響かせて、タトゥーの男は顎をあげる。大きな銀の指輪をつけた右手には、黒光りする自動小銃が握られていた。

「遅かったな」タトゥーがいう。「約束の金はどこだ」

「なかなか面白い冗談だね。キミたちの要求した金額を紙幣にして持ってくるなら、大型トラックを何十台も用意しないといけないよ。違うかい?」

 はっはっはと笑う要人に、タトゥーは舌打ち交じりに銃を向ける。

「ふざけるな。小切手はどこだっていってんだよ」

「ジャケットの内ポケットさ」要人は自分の左胸を指さした。「取ってもいいかな?」

「ダメだ」そういうと、タトゥーは部下のひとりに顎で指示を出した。

 突撃銃を持つその部下は、細い銃口を男にピタリと向けたまま、要人のスーツの内側に手を差し込んだ。

 要人はニコリと笑っていった。

「それで、メモリーカードは?」

「金が先だ」タトゥーが答える。

 そこでようやく、部下が要人のジャケットから小切手を取り出した。

 額面を見た瞬間、部下の男は逃げるようにしてタトゥーのもとへと走った。

 タトゥーは部下から小切手を奪い取り、ギョッと目を剥いた。

 その隙を今井は逃さなかった。瞬時にシミュレートした行動――拳銃を抜き、最初の二発で連射性の高い突撃銃の所持者とタトゥーの眉間を撃ち抜き、さらに要人をコンテナの陰に隠して、救援を要請し逃亡を図る――その準備はすでにできていた。

 刑事としての今井は知っている。男たちに、まともに取引する気はないことを。

 ところが、「やめろ」という意外な人物の声が今井を動揺させた。

 要人が、今井に背中を向けたままそう告げたのである。

 そのとき、今井の手はホルスターのすぐそばにあった。男たちの注目がふたりに戻り、今井はすぐさま手を引っ込める。

「何かいったか」タトゥーが顔をあげた。その顔は強い警戒心に染まっていた。

「たいしたことじゃない」と要人は肩をすくめた。「ところで、早く機密情報を返してくれないか?」

 要人が訊ねると、タトゥーは唇の端を吊り上げた。

「おまえみたいな大富豪がコロっと騙されるとはな」タトゥーの持つ拳銃が、要人に狙いを定めた。「おまえにもう用はない。死ね」

 咄嗟に今井は走り出す。要人を突き飛ばして、弾丸の軌道から彼を弾き出そうとしたのだ。

 しかし、タトゥーの男はいとも簡単に引金を引いた。今井の誤算――それは、彼がすでに大勢を殺した極悪人だと知らなかったことである。

 そして、銃声が鳴った。

 一発の銃弾が要人に向けて発射されたとき、今井の手は彼の背中まで一メートルのところにあった。甲高い音のあと、今井の足が止まる。その瞬間、彼女の瞳が捉えたのは、依然としてその場に堂々とたたずむ要人と、彼の目の前に立つどこからともなく現れた黒塗りの男だった。

 今井がその人物を男だと判断したのは、日本人離れした上背が理由である。

 その男はハイネックのコートにつばのしっかりしたハットを被っていて、その男の右手から弾丸がカランと落ちたとき、今井は彼が人間ではないことを確信した。時速一一〇〇キロの弾丸をつかみ取れる人間など、この世にいるわけがない。

「異常はないかい?」要人が平然と訊ねた。

「ワンタイム・セルフシステムアセスメントを実行。その結果ワタシに異常は見つかりませんデシタ」黒尽くめが答えた。その声は、肉声というより音声というべき人工的な響きがあった。

「データのバックアップを忘れるなよ」

「かしこまりマシタ」

 そう告げた途端、黒尽くめは地面にへこみを残して跳躍した。

 彼は倉庫にいるすべての人間の注目を集めながら飛んだ。そして、音もなく二階の渡り廊下に着地すると、狙撃銃を持つ男を蹴り倒し、一階へと突き落とした。さらに近くにいた拳銃の男の首を片腕で持ち上げ、その体を遠くの壁に投げつける。

 銃声よりも大きな衝突音が響き渡ると、ようやくタトゥーが声をあげた。

「あいつを撃ち殺せ!」

 無数の弾丸が一斉に黒尽くめに目がけて発射される。彼はハットを押さえながら、人間離れした動きで男たちに襲い掛かった。

「なぜだ。なぜ彼は弾丸を避ける」と、要人は首を傾げている。「あの程度の衝撃で傷がつくような体じゃないことくらい、彼は知っているはずなのに。待てよ……もしかすると、体が傷つくことに対する不安や恐れを、彼の人工知能は感じているのかもしれない……」

 ブツブツと独り言をいい始めた要人に、今井が訊ねた。

「ねえ、あれは何なの? まさか超能力者?」

「おやおや」と要人は嬉しそうな目をする。「キミは超能力を信じるのかい?」

「そんなの信じるわけないでしょ。でも、どう考えてもあの動きはおかしい。人間とは思えない」

「そうさ。彼は人間じゃない」要人は自慢するようにこういった。「彼は人工知能を搭載したロボットであり、ボクの最高傑作なんだ」

「ロボット……」今井はゴクリと息を呑んだ。

 彼女が黒尽くめに疑いの目を向けたのは、それまでだった。

 人間の筋力ではとうてい到達できない運動能力を目の前で見せられてしまっては、嫌でも信じるしかない。

「なるほどね。あれが、あなたを守るために造られた最強のボディガードってわけ」

「守ってもらうために彼を造ったわけじゃない。それに彼にはちゃんとした名前がある。あれ、と呼ぶのは失礼だよ」

 要人はいった。その表情に不満を隠す気配はない。まるで友だちを馬鹿にされた子供のような顔だった。

「わかった。謝るわ。とにかく、物陰に隠れないと危ないわよ」

「そうだね。でも、もう終わるみたいだよ」

 要人は片眉をあげてそういった。余裕がみなぎるその笑みの向く先では、逃げ惑いながら銃を撃ちまくるタトゥーと、いとも簡単に弾丸を避ける黒尽くめの姿がある。やがてタトゥーの銃が弾切れを起こし、黒尽くめは瞬時に彼との距離を詰めた。次の瞬間には、タトゥーの体は宙を舞っていた。彼は完璧な放物線を描き、要人と今井の足元で地面と強烈な抱擁を交わした。そしてピクリとも動かなくなった。

「彼らはちゃんと生きてるかい?」

 要人が訊ねると、黒尽くめは例の音声で答えた。

「対象たちのテラヘルツ波を解析したところ、指定暴力団、井上組構成員十九名全員の生体反応を感知できマシタ。それぞれ損傷個所と内容は違いますが、共通して全員が意識を失っていマス」

「素晴らしい。すべてボクの指示通りじゃないか」要人はいった。「ところで、弾丸をいちいち避けた理由を教えてくれないかい?」

「コートは仕立てたばかりの新品デス。傷つけたくありませんデシタ」

「それは感動的な理由だ。すでにキミは人間らしさを持ったようだね」要人は満足そうに目尻を下げた。「それでは最後に、意識を取り戻したときに逃げられないよう、彼らを拘束しておいてくれ」

「かしこまりマシタ」そういうと、黒尽くめは人間よりも美しい歩き方で倒れた男たちのもとへと向かった。

「いったいどういうつもり?」と今井は訊ねる。「ロボットに守ってもらえるなら、私を連れていく必要なんてなかったはずでしょ」

「さあ、どうしてだろうね」要人は今井の方を向き、意味ありげに微笑んだ。

 そこで今井は、タトゥーが右手にゴツゴツしたシルバーの指輪をはめていることに気づいた。その瞬間、今井の目は大きく見開かれ、霧がかっていた彼女の頭に、強い光が差し込んだ。

「わかった……こいつが、私たちの追ってた連続殺人犯なのね」

「ご名答。さすが刑事さん、なかなか鋭いね」

 片眉をあげてそういった要人は、倉庫の二階から、コンテナ用の強靭なワイヤーでひとりひとり丁寧に吊るされる暴力団員たちに笑顔を向けた。

「どうしてあなたが犯人を知ってるの?」今井が訊ねる。

「それは当然、調べたからさ」

「警察だって調べたわ。被害者だけじゃなく、事件への関与の可能性が少しでもある人物は片っ端からね。家族構成に交友関係、所属する会社とその事業内容から経営状態まで隅々――」

「だが、それには時間と人手が足りなかった」

 はたと放たれた要人の言葉に、今井は口を閉ざした。

 彼は優しい口調で話を続ける。

「時間と人手がもう少しあれば、真犯人まで手が届いただろうね」

「それなら教えて。どうやってあのタトゥーの男を見つけたっていうの?」

「まずはキミたち警察と同じように、被害者を探ったのさ」要人は軽やかな口調でそういった。「被害者は全員、二十代で外見のいい無職の女性だったね。しかし、言葉を変えると、若さと美貌しかない世間知らずな女性といえる。そんな女性が家賃三十万円のマンションに住めるのは、たいていパトロンがいるからだ。パトロンを疑うのは当然だけど、警察は肝心のパトロンの存在を突き止められずにいた。ここまでで間違いはあるかい?」

「ないわ」と今井は正直に答える。

「そこでキミたちは被害者に関わりのある人間を徹底的に調べることにした。被害者はみな、ひと気のない路地で襲われていて、携帯や財布、金目になるものはすべて奪われていたことから、通り魔的犯行の線も捨てられない。時間と人手が必要だが、捜査に見落としのないよう慎重な手段を取ったわけだね」

「それが最善策だった。警察の捜査が犯人の次なる犯行を抑制してたのは事実よ」

「なかなか強気なものいいだね」要人は肩をすくめた。「だが、いわせてもらうなら、キミたちが汗水垂らしてあちこち走り回っているとき、ボクは座り心地抜群のオーダーメイドのアームチェアに腰をかけて、コンピューターでサラッと被害者たちの住んでいたマンションを調べてたわけさ。そして犯人を見つけた。警察よりも先にね」

「あなたこそずいぶん偉そうなものいいね」今井は不愉快そうに眉をひそめる。「被害者たちのマンションなら警察も徹底的に調べたわよ。それでも、四棟それぞれの管理会社や管理人、建物の所有者に怪しい点は何もなかった」

「彼らは無関係だからね」

「それならどうして犯人にたどり着いたっていうのよ」

「四人は別々のマンションに住んでいた。そしてそのマンションはどれも、とある株式会社の投資物件になっていたんだ」

「その情報、どこで手に入れたの?」

「電話の音波から」そういって要人は、ピンと立てた人差し指をクルクルと回した。「地球上にはあらゆる電波が飛び交っているのは知っているね? その中で電話の音波に検索コード、いわば網を仕掛けたわけさ。被害者が住んでいたマンション名を誰かが口に出した会話だけを救い取る網をね。こうして、ひとつの投資会社が浮上したのさ」

「投資会社?」

「又貸し専門の悪質な業者だよ。名簿屋から買い付けた大量の番号に、片っ端から電話をかけて、相手に美味しい儲け話を持ちかける。キミも思い当たる節はないかい? 携帯に知らない番号から着信があって、出たら怪しい不動産の投資話だったことが」

「確かに、何度かあるわ」今井は腰に手を当てた。「だからってコンピューターでそんなことができるわけ?」

「もちろんできるさ。彼ならね」

 要人の視線の先には黒尽くめのロボットがいる。

 教科書通りの完璧な歩き方でふたりのもとへ戻ってくるそのロボットは、目元から下に向かって真っ直ぐに線が走っていて、顔や手の色はひと目で作り物だとわかる白だった。彼は要人の隣で足を止めると、コートの襟で隠れた口元から例の機械的な音声を発した。

「ワタシがその投資会社の資金の流れを洗ったところ、井上組という指定暴力団組織が浮上しマシタ。続いて構成員全員の携帯の記録を調べ、タトゥーの男が四人の女性を愛人として囲っていたと判明し、マタ、警視庁のNシステムから彼らの車が頻繁にこの倉庫に出入りしているとわかりマシタ」ロボットは、聞き取りやすい人工的な声で続ける。「若くて美しい女性は、引く手数多のようデス。携帯の記録によれば、四人の女性はみな浮気をしていたと判断できマス。それが犯人の動機デショウ。犯人であるタトゥーの男は、一度癇癪を起こすと歯止めが利かなくなる気質を持っていマス。その裏付けは、かつて男が通院していた精神科病院の電子カルテのデータによって証明されていマス」

「つまり、ハッキングしたってことね」今井はその目に不信感を宿した。

「ただ検索しただけさ。ネットでね」

 あっけらかんと答える要人に、今井はため息交じりにかぶりを振った。

「ものはいいようね。それじゃあ、せっかくだから調べてくれない? お金持ちの権力者が、わざわざ危険を冒してまで犯罪者の隠れ家に足を運ぶのは、どんな理由があったからなのかしら」

「すでに説明しただろう? 部下が会社の機密情報を――」

「それは嘘でしょ」今井の唇が挑発めいた笑みを描く。「その可能性をすべて否定する気はないわ。だけど、この短時間の間にあなたの人間性はだいたい把握できた。スバリあなたは実験がしたかった。それもただの実験じゃない。人体実験よ。あなたは、最初からこの悪党どもをロボットの実験台にするつもりだったんでしょ?」

「キミは鋭いね」そういって、要人は白い歯を見せた。片方の眉は、それが彼のトレードマークとでもいうように吊りあがっている。

「まだあるわ」と今井は続けた。「あなたは凶悪犯の居場所を突き止め、連中に餌を撒いた。餌とは、部下が漏らしたという機密情報。脅迫してきた凶悪犯どもは、あなたの罠にかかったとは知らないでしょうね。連中には金が必要だった。海のそばの倉庫に身を隠すなんて、あなたから巻き上げたお金で海外逃亡を図るつもりだったとしか考えられない。だから美味しい話に食いついた。本来ならあなたひとりで来てもよかったのに、わざわざ警視庁の捜査一課の人間を同行させたのは、餌に食いついた凶悪犯を、事件の担当刑事に捕まえさせて、警察に貸しを作りたかったから。警護役をひとりしか呼ばなかったのは、犯人たちとの争いを避けて、人体実験を成功させるため。そうでしょ?」

「素晴らしい。実に頭の回転が速い刑事さんだ」要人は満足そうにいった。「しかし、ひとつだけ間違いがある。確かにボクが捜査官を同行させたのは、担当刑事の手で悪党を逮捕してもらうためだが、警察に貸しを作るつもりなんてこれっぽっちもないよ。警察とコネクションを作るなら、もっと簡単な方法があるからね」

「あっそう。とりあえず、詳しい話は取調室で聞くから」

 突き放すようにそういった今井は、要人の両手に手錠をかけた。

「本気かい?」要人は目を丸くして、繋がれた二本の手をまじまじと見つめる。

「いくらお金と権力があったとしても、違法アクセスも電波の傍受も立派な違法行為よ。あいにく、私はお金にも権力にも興味がないの。だからあなたの名誉と自尊心をうんと傷つけることにするわ。そうでもしないと、あなたは謙虚になれないでしょ?」

「なるほど。キミは思いやりもあるんだね」

 言葉とは裏腹に、要人の表情に皮肉や嫌味の色はない。

 彼は、前向きで純真で、そして人を無条件で信じる清らかな顔をしていた。

 今井の携帯に着信があったのはそのときだった。彼女は要人から一歩距離を取り、携帯の画面を確認する。警視庁からの着信だった。通話ボタンを押し、携帯を耳にあてると、受話口から興奮する男の声が流れた。

「今すぐ手錠を外したまえ。彼を逮捕することは許されない行為だ」

 それはどこかで聞き覚えのある声だった。何度か、いや何度も耳にしたことがあったが、肝心の顔と名前を、今井はすぐに思い出せない。

「……どちら様ですか? いや、どうしてそのことを?」

 訝しげに訊ねる今井に、電話の男はさらに語気を強めた。

「とにかく、彼を逮捕するなどというバカげた真似はやめなさい!」

 男は怒鳴り声でそう告げると、今度は記憶に新しい声が今井の耳をつんざいた。

「今井君、きみはなんて無礼なんだ! 今の電話の相手は総理大臣だぞ!」

「そ、その声は官房長官……まさか、そんな……」

 動揺に目を瞬かせる今井の前で、要人は笑みを浮かべた。

「彼女の携帯をスピーカーモードに」

「かしこまりマシタ」

 ロボットが答えると、携帯から今井を叱責する官房長官の声が鳴り出した。

「まあまあ、落ち着きたまえ。あまり怒ると寿命が縮むよ」

 要人がいい、官房長官はピタリと口を閉ざす。

「それで、どうだった? 彼の性能は文句なしだろう?」

「ああ、総理は要求を受け入れるそうだ」官房長官が答えた。

 すると要人は、「ありがとう。これで交渉成立だね」といって、ロボットに目で合図を送った。

 ロボットはうなずいた。そして、今井の携帯がひとりでに通話を切断した。

「彼は、人の携帯を遠隔操作もできるのね……」今井は携帯をジャケットの内側にしまう。彼女の強張った顔付きが物語るのは、要人の持つ権力が、あまりにも巨大であるということだった。

 そんな今井に楽しげな顔を向けながら、要人はロボットをノックした。

 ゴンゴン、と金属の音が鳴る。

「彼の目はカメラになっていてね、一連の映像はすべてキミのいた会議室に中継されていたよ」

「いったい何のために?」

「当然、彼の有能性と安全性を確認してもらうためさ」

「だから、何のために?」

「安心してくれ。悪事を企んでいるわけじゃないんだ」

 そういって要人は、手錠のかかる両手を、ロボットに差し出した。

 ロボットは要人の手錠をそっとつまんだ。何てことのない手つきだったが、手錠はバリバリと音を立て、要人の手首を解放した。

「この手錠はアルミニウムが主原料となっていマス。リサイクルすることが可能デス」ロボットは、ひしゃげた手錠を元の形に戻して今井に渡した。

 今井は手錠をしまい、ハチミツ色のロボットの瞳を見つめる。

「何かいいたそうだね」と要人は微笑んだ。「大丈夫。すでに中継は切れてるよ」

 すると今井はいった。

「あなた、警察を買収してる?」

 その途端、要人の笑顔が輝き出した。喜びと驚きの入り混じったその顔を今井は知っている。クリスマスの朝に、枕元のプレゼントを開ける子供の顔だ。

「どうしてそう思うんだい?」要人は弾んだ声で訊ねた。

「官房長官との電話でのやりとりから、あなたはその若さで支配層と呼ぶべき彼らと同等か、それ以上の存在だと感じたの。そしてあなたは、完璧なロボットを作り上げるほどの頭脳と財力の持ち主なんでしょ。ということはつまり、お金に困らないはずの支配層ですら、思わず飛びつく大金を餌にすることができて、敵に回せば怖いはずの彼らを、思い通りに操ることのできる知能をも兼ね備えてる。そうよ、だからすでに警察を買収し、手のひらで操ってると考えるのが妥当でしょ。そうなると、どうしても気になるわね。電話で話してた〝要求″が何なのか」

「それはたいしたことじゃない。人工知能を搭載したボクの最高傑作を、いつでもどこでも自由に連れて歩ける政府の許可が欲しかったんだ」

 悪気のない顔で要人はいった。

「だから買収したというわけ?」

「買収だなんて誤解だよ。いうなればこれは契約なんだ。誰も損をしない有意義で建設的な契約さ」

「知ってるかしら。契約には、お互いのメリットが必要不可欠よ。あなたはロボットと自由に歩ける政府直々の許可を得た。それなら、政府の連中は何を得たの?」

「すごい。まるで取り調べを受けているみたいだ」要人は手首を揉みながらいった。「ボクはキミが気に入ったよ。このボクとこれほど対等に話せる人間はそういない。そんな目でボクを見る人間も、キミが初めてさ」

「やめたらどう? 自分が世界的な有名人みたいなその話し方」

「キミは本当に何も知らないみたいだね。いい機会だ。アノン、彼女にボクのことを教えてやれ」

「かしこまりマシタ」

 アノンと呼ばれたロボットがコクリとうなずくと、要人は得意げに片眉をあげてこういった。

「検索――逢木恭平(あいらぎ きょうへい)について」