「『それ、おいしいのかしら?』と俺に尋ねる女が煙草の味を知りたいとでも思っているのか。目当ては唇の味なんだよ、大抵の場合な」

 昼間とはいえ秋口の曇り空の下は肌寒い。それなのに、目の前の不精髭の男は葉巻を胸にしまいつつ、さらにうすら寒くなる発言をしてきた。

 なにをふざけたことを、と悪態をついてやりたいが、おそらく真実なのだからたちが悪い。

 ロンドン警視庁(スコットランドヤード)の刑事であるアッシュは、上司からの調べものの指示で、大英博物館図書室へ向かうところだった。馬車には乗らず、倹約と警邏(けいら)がてら徒歩でだ。

 ディーン・ストリートを北へ進んでいると、ふと、舗道の隅っこで自分のパートナーの姿を見つけた。

 ジジだ。警察の非公式の雇われで、依頼がないときには呼売商人をして生計を立てている三十路の男。

 口寂しいのか商店を背に火のついていない葉巻をくわえていた。隣にはその風味についてやたら熱心に問いかけている女がいて、親切心からアッシュはごく近くの煙草の店を教えてやった。ところが、女はひどく迷惑そうにして、少し憤りながら立ち去って行った。なにか悪いことをしてしまったのか、とうろたえていたところ、ジジから飛んできたのが先の台詞、というわけだ。

「つまり、僕は……、お邪魔しちゃったってことですかね」

「お前が邪魔じゃないときがあったか」

「ああ、そういうことを言うんですか。ふしだらな人だな」

「俺は案外貞淑だぞ」

「口腔衛生のことも少し考えたらどうです。バクテリアの交換なんかしてなにが楽しいんだか」

「おっと、そう来るか。残念だったな、お坊ちゃん。キスは歯に良い影響をもたらす。唾液の分泌量が増えるから、虫歯予防になるんだ」

「はいはい、経験豊富なことで」

 実際、ジジは非常に女性受けが良い。アッシュには一回り上のこの中年のどこにそこまでの魅力があるのかよくわからない。長身はまだしも、猫背で、青みがかった黒の蓬髪で、眠そうな琥珀色の瞳。着飾っているときならばともかく、普段は薄汚れていて、枯れていて、終始だるそうにしているのに。

「俺のことよりも自分の心配をしろよ、無垢な子供(ロマンチックチャイルド)。そんな調子じゃいざってときに鼻でもぶつけそうだな」

「ばかにしないでくださいよ。首を傾けるくらい僕にだってできる」

「どちらに?」

「え、……え? どちらに? そんなもの、正解があるんですか」

「正しいとか正しくないとかじゃないが、昔、親父に聞いたことがあってな」

 ジジの言う親父とは、育ての親のことだ。すでに他界した悪名高き外科医。

「キスのときに大多数の人間は首をこっちに傾ける、と。俺もそうだな」

 ジジはジジから見て右側に首を傾けた。まるでそこに人がいるかのように空気にキスをする(ジジが左右どっち派だろうが知ったことではないのだが)。

「なんで右なんですか」

「親父が言うには――――」

 ジジが説明しようとした矢先、大通り側から、男の怒鳴り声が聞こえてきた。ジジの答えを聞かずに、アッシュは走り出していた。


 野次馬をかき分けていくと、マフィンの呼売商人が、ようやく十歳を過ぎようという幼い少女の首根っこをとっ捕まえているところだった。警察に突き出してやる、とわめている。少女は浮いた足をばたばたとさせていた。そのたびに、マフィン売りが持っている鈴がやかましく鳴る。

「一体なにが……」

「ちょうどいいところに!」

 マフィン売りはアッシュのスーツの襟元にある金属製バッジを見て叫んだ。これは犯罪捜査部(CID)派生、スナーク班所属の印なのだ。

 スナーク。犯罪者の臓器・ブラッドコレクションを移植され、身体能力が拡張した能力者のことを指す。およそ人知を越えた不思議な力を操るものたちだ。

 聞けば、この少女は万引き犯で、呼売仲間も過去に被害に遭ったことがあると言う。しかも、少女は盗みのためにスナークの力を利用している、と。

 マフィン売りは、持ち歩いているカゴの中、フランネルの布の下のマフィンがいくつか無くなっているのに気付くと、すぐさま少女を取り押さえたのだそうだ。

「……え? ちょっと待ってください。その子がマフィンを盗んだのかどうかはまだわからないってことですよね」

「それを調べるのが警察の仕事だろ!」

「つまり、今はなんの確認もしてない、と?」

「スナークだぞ! 俺の仲間がやられたとき、こいつの唇にBの烙印(スティグマータ)が浮かんでいるのをしっかり見たって言ってたんだ。B〇一〇九。なんの力かは知らないが、気付いたときにゃ商品が消えてたと!」

「スナークだからいつでも悪いことをする、とでも言いたいんですか。あなたたちのそういう決めつけがスナークを生きづらくするんです。とにかく、一度、その子から手を離してください」

「警察がスナークの味方かよ!」

「警察の仕事を僕がきちんとするなら、まず、あなたが持っている客呼びのその鈴も条例違反です、と申し上げなければなりませんね」

 慇懃無礼なアッシュの忠告に、マフィン売りは忌々しげに顔をしかめた。直後、少女を投げ捨てるように地面へと放る。少女は這いつくばってむせた。

「きみ、大丈夫?」

 アッシュは少女の前に片膝をついた。呼吸を整えた少女は、きっ、と下からきつくアッシュを睨み付ける。

「余計なことすんじゃねえ、ばぁ――――――かっ!」

 少女は乱暴な口調でアッシュに向かって叫ぶと、服の中に隠し持っていたマフィンを二つ投げつけて、逃走した。

 アッシュの帽子に、ぽこん、ぽこん、と間抜けに当たったマフィンが地面をころころと転がっていく。

 少女は、事実、万引きをしていたわけだ。

 行く末を見守っていた人々の間に、小馬鹿にしたくすくす笑いや、これだから警察は、という嘆き声がさざめきのように広がっていく。

 アッシュは、背中に刺さるマフィン売りの非難の視線が怖くて、とてもではないがすぐには振り返れなかった。


「スナークだからという理由で虐げられている。彼らは本当は心が美しいやつらばかりなのに――――とでも思っているのか。それもまたずいぶんな偏見だな」

 グレイト・ラッセル・ストリートをまっすぐ進む。ジジも博物館内の図書室に行く途中だったらしく、アッシュの隣でマフィンを頬張っている。

 マフィン売りに平謝りし、アッシュが代金を支払って引き取ってきたものだ。野次馬にまぎれていたジジは、お前は落ちたものなんか食えやしないだろお坊ちゃん、とさも気遣わしげにマフィンを強奪していった。出会ったばかりの頃の、他人からものを貰うのは荷物になるから嫌だと言っていた可愛げはどこへやら、だ。

「そんなつもりじゃ……」

「スナークだって善人ばかりじゃない。目の前の俺を見てりゃわかるだろうが」

「……悪い人ぶりたいお年頃のおじさんがいるだけですけど?」

「くそがきが」

 ジジは不満げに吐き捨てた。

 そんな彼の右耳の縁は、銀色の蛇の耳飾り(イヤーカフ)で覆われている。力を使うと浮き出るBの烙印(スティグマータ)を隠すためのものだ。この露悪的な中年男もスナークなのだ。

「はいはい、悪人ですよね、悪人。ああ、怖い、怖い。あんたと一緒にいるときは、僕、常に恐怖を覚えてます」

「くだらない嘘をつくな」

 ジジが顔をしかめているのは、耳が痛いから……、ではなく単純に不愉快だからだろう。

 ジジの右耳は人の感情を音として聞くことができる。だからジジの能力発動時に嘘をつくとすぐにばれる。嘘の音は鼓膜を突き破るようなひどく不快な音であるそうだ。

 しかし、その能力を使うまでもなくジジは大抵アッシュの嘘を見破る。顔や声色にすぐ本心が出てわかりやすいから、らしい。

「でもですよ。あの少女、今回は本当に窃盗をしていましたけど、過去のことはまだ確証がないですよね。彼女がやったと決まったわけじゃない」

「お前はどうしてそうおめでたいんだろうな」

「スナークの力を使っていたところを見ただけで、誰も盗んでいたところは見ていないんですよ」

「かなり怪しいとは思うがな。商品が忽然と消える。B〇一〇九の唇ならそれは可能だ」

 ジジは断言した。彼の頭の中にはスナークについての膨大な知識があるからだ。養父から受け継いだかたちなき遺品。

「……対象を瞬間移動させられる力がある、とか?」

「いいや。持ち運ぶのが容易だという意味だ」

「わからないな」

「元々の唇の持ち主は娼婦。……男嫌いの娼婦だ」

 ジジはちょっとだけ言いよどんだ。マフィンの最後のひとかけらを口に放ると、右手の中指と人差し指を揃えて立てる。

「その娼婦は大変結構なお手前のキスをする。もちろん、唇へ」

 両唇に擬したジジの指がアッシュの唇に触れる。指に残るマフィンの甘ったるい匂いに鼻をくすぐられながら、なんだか今日はキスに縁のある日だ、と思う。

「それから、のどへ。胸へ。へそへ」

 宣言した場所を順に滑るように指がなぞっていく。きざったらしい人だなあ、とアッシュは少し白けた。別にアッシュの感情の音を聞いてむっとしたわけでもなかろうが、ジジの指はいきなりアッシュの額をぴんと弾いた。痛い。

「ただ、へそより下に対してはお世辞にも上手だとは言えない」

「うん?」

「どんなに興奮して大きくなっていようが即座に萎えてしまう。うっとり夢見心地で油断していたら、足の間のものを食い千切られて死ぬんだ」

 うへえ、と、アッシュは無意識に両手を股間に持っていった。痛い。

「そう、被害者はお前とお揃いになるわけだ。去勢をされる」

「されてませんってば」

「似たようなものだろうが」

「だとしてもなにか不便が?」

 けろりと言うアッシュに、ジジは一瞬、もどかしげな表情を浮かべた。だが、すぐにゆるやかに頭を振って本題に戻る。

「……ブラッドコレクションB〇一〇九の娼婦の唇。それは、『触れたものを小さくする』唇だ」

 話をしていたら目的地に到着した。

 大英博物館のギリシャ様式の荘厳華麗な正面玄関を通り抜け、図書室へと向かう。

 丸天井の下、壁一面、圧倒されるほどの無尽蔵な書籍。

 金のない文化人はここが自分の屋敷の居間だったら誰を呼んでも恥をかかないのに、と日々夢想するだろう。見栄を抜きにしても室内は温かく調整されていて快適に過ごせる。

 中央の出納台で手続きをして、本が手元に来るまで席で待つことにした。

「対象を小さくする唇を持っているなら、今日、証拠を残さずマフィンを盗むのは簡単だったはずなのに、……なんで力を使わなかったんだろう……」

「見つかりたかったんじゃないのか」

 ほぼ独白だったのだが、隣で突っ伏していたジジが(寝るなよ)、わずかに顔を上げて片目だけで見上げてきた。見つかりたかった? と小声で返す。

「もともと捕まるつもりだったということだ」

「なんで」

「さあな。お前が邪魔したから、調子が狂っていらいらしながら逃げたのかもしれない」

「はいはい、本日の僕は人様の邪魔をしてばかりってことですね。…………あの、ひょっとして、ジジさんこそ怒ってます? 行きずりの恋を阻止されて。どうせ淫蕩にふける機会なんかまたすぐにおとずれるんでしょう。あんた、大変おモテになるようですしね」

「うるさい……」

 ジジは顔を伏せてしまった。自分勝手な中年のことは放っておいて、再びアッシュは少女に思いを馳せる。

 もしかすると、少女は、悪行に走る自分のことを止めてほしかったのだろうか。

 マフィン売りが言っていたように、今日以前の盗みが彼女の仕業だったと仮定する。

 盗んだ果実というものはなによりも甘い(Stolen fruit is sweetest)。禁忌を犯す快楽の味はひとたび口の中に含めばあっという間に中毒になる。そこから解放されたくて、だからこそ捕まるためにあえて力を使わず盗んだ……、のか?

 どうもしっくりこない。アッシュは顎を撫でさすって考える。

 とはいえ、この予想が正しくても、間違っていても、仕事として捜査しているわけでもなし、確かめるすべはどこにもない。


 ところが偶然にも、翌日、確かめるチャンスに恵まれたのだ。

 アッシュにとっては二週間ぶりの休日だった。出かけた先で、大道音楽師の少年の心地よいハープの音に誘われ、彼を囲んでいた人垣の一番うしろに加わったところ、少女がすぐ隣にいたのだ。

 存在に気付いたのは同時で、一瞬お互いに固まってしまった。我に返ったのはアッシュが先で、とっさに少女の腕をつかんだ。少女が騒ぎだす前に、舗道の隅へと引っ張って集団から離れる。

「……なんだよ」

 少女はぶすくれている。だが、意外なまでに大人しい。

「あたしを捕まえに来たのかよ。昨日のは未遂だっただろ。……まあ、いいけどさ。さっさと逮捕しろよ、警察」

「今日、僕はお休みだから刑事じゃないよ」

 安心させたいがための嘘だ。スナーク班のバッジこそつけていないが、休日であっても刑事としての心意気を持てという勤務規程がある。一秒たりとて職務からは解放されないのだ。

 とはいえ、これは職務ではない。

「……じゃあなんなんだよ」

 アッシュは少女の腕こそつかんだままだったが、腰を下ろして目の高さを合わせた。

「ただのおせっかいなおじさんだよ」

「え?」

「きみのしたことにはなにか事情があるんじゃないかと思ってさ。よかったら話してみてくれないか。力になれるかもしれない」

「……はあ? 昨日、聞いたろ。あたし、スナークなんだぞ」

「うん」

「なのに、言い分を聞こうって言うのかよ」

「うん」

 少女は疑いの眼差しをアッシュに向けた。それを受けるアッシュの曇りなき澄んだ蒼玉の瞳はいつでもまっすぐで、彼の心を直に反映している。騙してもからかってもいない、真実の心。

 しばらくの間、少女は値踏みをするようにアッシュを見ていた。

 が、やがて、唐突に。

「うわアん。そんな人初めてダあ!」

 泣きながらアッシュの首に思い切り抱き着いた。

 アッシュがもう少し世慣れていたのなら、それがわざとらしいほどの嘘泣きで、少女が見えないところで舌を出していることに気付けたのかもしれない。だが、いかんせん、彼は鈍く、お人よしで、純粋な男――彼のパートナーはそのすべてをひっくるめて馬鹿と評しているが――だった。そして、それゆえに傲慢だ。少女の恵まれなかったのであろう過去を手前勝手に妄想し、同情し、僕だけは味方でいるぞ、などと決意を固めてしまった。

「……実はな、あたし、父さんが大事にしてたものを失くしちゃったんだよ」

 少女はいかにも哀れっぽく同情を引く声色を出した。

「大事なもの?」

「ええと、……そう、カフスボタン! 特別なときにしか使わない、父さんのお気に入りなんだ。いつもは……、引き出しの奥底にしまってある」

「それを、持ちだした?」

「だって、金ぴかで、色ガラスがきれいで、じっくり見てみたくて。ポケットにいれといたはずなのに、どっかで落としたんだ。でも、どこを探してもなくて、同じようなものも見つからない」

 少女は、わあ、と両手で顔を覆った。

「まだばれてないけど、父さんは、怒ったら、とっても、とっても怖い。だから、昨日、マフィンを盗んだんだ。それで捕まれば家に帰らなくていいなって……。なあ、刑事のお兄さん。手遅れかもしれないけど、あたしと一緒に探してくれる?」

「もちろん!」

 二つ返事をしてしまったのは、少女の口から恐ろしい父親という記号が出て来たからだ。アッシュ自身、父親に苦しめられてきたせいで、必要以上に肩入れしてしまう。そのせいで、他の解決方法を提示するといった刑事以前に大人として当然の振る舞いができない。

「心当たりのところは? どのへんを歩いていた、とか……」

「……そうだなあ……」

 少女はうつむいて、指で唇をとんとんはじき、思い出す素振りをした。アッシュからは死角のその唇の端はにんまりと持ち上がっている。


 振り回された、というのにふさわしかった。

 イーストエンドにある動物園に行ったときかも! と少女が言うので、二人分四ペンスの入場料を払い、ろくに手がかけられていない悪臭漂う檻を巡った。少女はカフスボタンを探すというより純粋に楽しんでいて、ライオンの檻の前でアッシュの背を押して、悲鳴を上げるアッシュを見てげらげら笑っていた。

 あの人が持っているやつが父さんのものかも! と少女が言うので、昼間から酔っている路上の男に声をかけた。えらくがたいのいいその男に、盗人扱いするのか、と胸ぐらをつかんですごまれた。その瞬間、少女があっさり、あ、勘違いだった! と掌を返した。男は謝罪の言葉になど耳を貸してくれず、アッシュは頬に一発拳を食らうはめになった。

 さんざんだ。

「もしかしたら、ここにいたときだったかも!」

 少女に次に連れて来られたのは、工場だった。

「仕事中にってことかい?」

「ううん。あのな、ここでかくれんぼして遊んでたんだよ。だから、どっかにはあるんじゃないかなって」

「どっかにって……」

 あたりを見渡す。

 ここはココナッツの殻から繊維を取り加工する工場だ。無断で入っても監督者がすぐに注意に来ないくらいには広い。とても目が行き届かないのだ。

 敷地の中は殻だらけで、殻は大の男二人分の身長よりもずっと高くまで山となって積まれている。その山もいくつもある。

 カフスボタンがこんなところに紛れ込んだら探しあてるのは至難の業だ。限りなく不可能で絶望的、それこそ、海の中から一粒の真珠を見つけるようなものだろう。

 だが。

「よし、手分けしようか」

「……えっ?」

「僕はこっちから見ていくから、きみは向こうから。それでいいかな」

「う、うん」

 アッシュは一切不平を漏らさず、殻をかき分けて探し始めた。

 少女はアッシュから距離を取って、アッシュの視界に入らないよう殻の山に身を隠した。地面に尻をつけて座り、伸びをする。カフスボタンを探すつもりなど、はなからない。

 アッシュが諦めたら、そのときこそ真実を明かすつもりでいるのだ。偽善者、と思い切り吐き捨ててやる。少女はにやにやしながら、アッシュがこちらを疑い、献身的な態度を手放すのを今か今かと待っていた。

 ところが。

 いつまで経ってもアッシュは作業をやめなかった。

 十分経っても、三十分経っても、一時間経っても。

 ちらり、ちらりと時々山陰から顔を出し様子を窺うが、アッシュからは諦める気配が一向に感じられない。

 いくらなんでもこんな馬鹿げた無理難題、すぐに音を上げると思ったのに。

 少女は眉間に皺を寄せる。遠く小さなアッシュの背中をじりじりした思いで睨む。

「焦れたときにはジジさんお手製のジンジャーブレッドがおすすめだ」

 そこに降ってわいたように、掠れた低い声。それからほのかに甘い香り。

 少女は両手で口を押さえ、悲鳴を喉の奥で必死に潰した。

 いつの間にやら背後に立っていたのは、蓬髪の三十路の男――ジジさん、なのだろう――だ。書籍の一頁で作られている袋を振っている。中身はきっと言葉通りの菓子だ。

「一袋一ダース入り二ペンスだ」

「な、なんだよ、あんた。工場の人……じゃないよな」

「あの金髪のお坊ちゃんはどうやらどこかのおちびさんの厄介ごとに巻き込まれているようだな」

 ジジは白々しく言った。

「それとも、あいつのことだから自分から巻き込まれにいったのか」

「……あんた、あれの仲間かよ?」

「仲間? 失礼だな」

 ジジはこれ以上ないくらい心外そうに顔をしかめた。

「俺はあいつとは無関係で、いいとこ単なる知り合いだ。だがその俺でさえわかることがある」

「なんだよ」

「あのお坊ちゃんはひどく諦めが悪い。延々と探し続けるぞ。――ありもしないお前さんの落としものをな」

「どうしてそれを知って……」

 少女はびくりと肩を揺らした。ジジが、おじさんだからな、と理由になっていない理由を返してきて、片目をぱちりと閉じた。そのふざけた態度にいらついて、わずかばかりの自責の念が吹き飛ぶ。

「……でも、だとしたらなんだっていうんだ。あんた、ただの知人なんだろ。説教でもしにきたのかよ」

「いや? 騙された間抜けをお前さんと一緒に笑いに来た」

「え?」

「ほら、笑え」

 ジジは顎をしゃくってアッシュを見るよう促す。汚れるのもいとわず四つん這いになり、素手で地面に触れ、時には顔を地面にこすりつけんばかりに身を低くするアッシュをだ。

 少女は思わず顔を背ける。

「あんなに必死になっているなんてな。どうせ無駄なのに。傑作だろうが」

 ふ、とジジは小さく声を立てて笑った。

「おい、どうした? 笑わないのか。ちゃんと見ろ。早く笑えよ」

「……うるさいなあ! もういいよ、つまんねえな!」

 少女はジジを振り切って、アッシュのいる場所へどすどすと近寄っていく。

「うん? なにかあった? あ、見つかったのかい?」

「あのなあ、嘘なんだよ!」

「え?」

「全部嘘なんだよ、あたしが言ったこと! カフスボタンなんか落としてないよ! もう探さなくていい!」

 少女は、はあ、はあ、と肩で息をする。

 アッシュは一瞬ぽかんとして、そのあと、なぜか慈悲深い笑みを浮かべた。

「な、な、なんだよ、その顔……」

「きみ、僕に迷惑をかけてると思ったからそんな嘘を言うんだろう?」

「はあっ?」

「大丈夫、まだ時間はあるよ。でも、もし、見つからなかったら、僕がきみのお父さんのところに一緒に謝……りにいくと、他人を味方につけやがってってきみが余計にひどい目に遭わされるのかなあ」

 父親ってやつは陰湿なんだよな、とアッシュは独り言のように続けた。

「でもね、僕に気を遣ってくれなくてもいいんだよ。きみはいい子だなあ」

 アッシュは歯を見せて笑うと、再びカフスボタン捜索へと戻った。目つきが悪いもののこの青年の無垢な笑顔はまぶしい。

 愚直さに圧倒されて、少女はとぼとぼとジジの元へと戻る。

「なんなんだよ、あいつ……」

「だから言ったんだ。諦めるわけがない。自分の理想で盲目になるところもあるしな。どうだ、鬱陶しいだろう」

 ジジは地べたに腰を下ろし、持っていた菓子の袋からぱっと手を離した。落ちた袋がほんの少しだけ泥で汚れる。

「おっと。こりゃてんで売り物にならないな。お前さんも食うか?」

 差し出されたジンジャーブレッドを困惑しながらも受け取って、ジジの隣に座る。

 隣同士でそろってのんびり菓子を食べている間もアッシュは休んでいない。見ていないけれど、もうわかる。

「――――自分のことを信じられるのはそんなに苦しいか」

「なに……」

 だしぬけにジジが囁いて来た言葉に、少女の心臓は縮み上がった。

 ジジは右の耳たぶをいじくりまわしている。

「まあ聞けよ。取るに足らない昔話だが、おじさんというのはつまらない話をして若者に絡むものだと相場が決まっている。俺……、の知っているスナークの男がお前さんより小さかった頃のことだ」

 そのスナークには養父に拾われた七歳以前の記憶がない。

 養父は世間から蛇蝎のごとく嫌われていて、各地を点々としていたものの、どこに行っても受け入れられることがなかった。確かに、そういう扱いをされても致し方ないほどに養父は個性的すぎる男だった。記憶を持たない子供を息子にして、ブラッドコレクションを問答無用で与えて、元々の臓器は子供自身に食わせて片付けた、というエピソードひとつとってもそれは証明できる(塩胡椒をしてディナーに出したのだ。はたして悪趣味と取るべきか、合理的と取るべきか)。

 そんなものだから、養父の巻き添えでその子供も当然のように嫌悪の対象だった。

 同年代の子供たちからは集団でいじめられる。殴られ蹴られ、いつしかやり返すことを覚える。だが、いくら腕っぷしが強くなっても、恨まれ絡まれ、余計に面倒事が増えていく。

 ところが、そんなある日、いじめっこの筆頭の少年になつかれることになる。少年の病気がちの母親が行き倒れているところを、助けてやったのだ。

 いじめっこは、元来単純なたちだったのだろう、ころりと態度を変えた。

 ――なんだ、お前、悪いやつだと思い込んでいたけど、案外いいやつなんだな。今までごめんな。

 あっけらかんとそう言って、ほかのものの前でも親しく振る舞うようになった。

「さて、どうなったと思う?」

「…………そいつもいじめられるようになった」

 正解、とジジがおどけてみせる。

 頬を腫らしながら、その少年は言うのだ。

 ――これくらい平気だって。お前もやられてただろう。俺は信じてるからな。間違ってるのはあいつらだ。

 気が気じゃないのはスナークである子供のほうだった。自分のせいで、少年が仲間から疎外されているのだから。

「それで、そのスナークはどうしたんだよ」

 少女はことのほか真剣な顔をしている。

「わざと遠ざけるようなことをした。そいつをひどく殴って、ほかのいじめっこたちの元へと戻るよう仕向けたんだ。そのスナークはそこに永住するわけでもないからな、自分が立ち去ったあと少年が孤立するのは本意じゃなかったんだろう」

「そいつのためを思って、自分を悪者にしたってことだよな」

「ああそうだ」ジジはわずかに自嘲した。「……と、思っていたが、違うんだろうな。ずっとあとになってから気付いたよ。そのスナークはどうしようもなく臆病者なだけだ」

「え?」

「うっかりこいつは俺の味方だなんて信頼してしまったら、いつ裏切られるかわからなくて、終始びくびくしてなきゃいけないからな。いっそはなから嫌ってくれていたほうが気が楽だ、ってところだな。信じられるのは落ち着かないんだ。大切にされるのは苦痛なんだ。自分のことなんか相手にしないでほしいんだ。見捨てられるのが怖いから自分から見捨てよう、そうだ、そうだ、それが得策だ、ってな」

 ジジの言葉を聞きながら、少女はぎゅっと胸の前で震える片手を握る。

「わざと相手を不愉快にさせて、そのせいで離れていったのに、それ見たことか、思ったとおり、やっぱりこれが世界の真実だ! ――なんてな。痛々しい強がりだ。思いやっているふりをして、結局自分だけが大事で、人の感情なんて一顧だにしない。独りよがりの自己満足なんだよ」

「そっ、そんな言いかたないだろっ! あたしがっ! あたしが迷惑をかけたくないのは本当の気持ちで……!」

 激昂して叫んだ少女は、しかしそれ以上続けられなかった。ぼろぼろと涙があふれてきてしまったのだ。自分でも驚いているようで、ごしごしと必死でそれを拭っている。

「あれ?」

 声を聞きつけてアッシュがやって来た。

「ジジさん。なんでここに……、あ、ちょっと、なに泣かせてるんですか」

 さすがになにか事情があったのは察したようで、本気でジジを責めている声色ではない。

「どうしたの? お父さんに怒られるかもって不安になっちゃった?」

 この期に及んでアッシュは腰を折り優しく問いかけてくる。いたたまれなくなったのだろう、少女は、違う、と、先ほどよりも大きな声を出した。

「違うんだよっ、本当に嘘なんだよっ、あたし、カフスボタンなんか落としてない、父さんなんて、生まれたときから、いないっ!」

「え……?」

 アッシュは、ちらり、とジジに視線をやった。ジジが嘘を見抜ける力を持っているからだ。ジジはわずかにうなずいて、少女の言葉が嘘ではないことを示した。

 少女はしゃくりあげながら言葉を重ねる。

 半年前に母親をも亡くし、誰にも頼らず貧しく暮らしていた。悲しくはない。どうせ母親にも疎まれていた。好奇心だけは旺盛な下衆い医者に誘拐されブラッドコレクションを移植され戻ってきた娘など愛する価値がない、と。

 ところが、最近になって、どこで調べたのやら、顔も知らない父親のそのまた親、つまり彼女にとっては祖母が接触をはかってきた。もはや身寄りなどこの世のどこにもないと思っていたのに。

 父親は存外結構なご身分にあったようで、祖母は小奇麗な老婦人だった。彼女もまたほとんどの家族を亡くしてしまったらしく、寂しくなったのか、少女を引き取りたいと申し出てきた。

 上の階級のことなんて知りたくもない。むずがゆくなる。第一、信頼できない。少女はにべもなく断った。

 だが、祖母は引き下がらなかった。なんと、説得のため、従者もつけずに単身、少女の泊まっている安宿で一緒に暮らし始めたのだ。危なっかしくて見ていられず、ついつい少女は口を出し、手を出し、祖母を助けてしまう。

 そのたびに祖母はにこにこと言うのだ。

 いい子ね、と。

 彼女が風邪を引いて寝込んだときは、栄養のある食べ物が必要だと、唇の力を使って盗みもやった。犯罪だ。しかも、スナークの能力による、だ。それなのに、やはり祖母は、いい子ね、と愛おしそうに頬を撫でてくるのだ。

 好かれることへの罪悪感があった。わけもわからずうしろめたくて、不安になっていく。でも、とにかく突き上げるように湧き出たのはこの言葉だ。

 ――――駄目だ。

 駄目だ、駄目だ。あたしなんかを引き取って、こんないい人が白い目で見られるのは絶対駄目だ。この人に思い知らせてやらなきゃ駄目だ。

 あたしがどんなに価値のないやつかってことを。近くにいたらどれほど不利益をもたらすのかってことを。

 呆れられなきゃ。がっかりさせなきゃ。諦めさせなきゃ。

「……だから、昨日、力を使わずにマフィンを盗んだのかい?」

 少女はこくりとうなずいた。

「今日、あんたに見つかって、もういっそ、警察に捕まるのでもいいかなって思った。でも本当は、そこのおっさんが言ったとおりかもしれない」

 すべては祖母のため、――――ではなく、自分のため。

「……自分でも意識してなかったけど、あんたって、おばあちゃんに似てるんだ。あたしのことを信じてくれる。だから、それが、居心地悪くて……」

 少女は気付いたのだろう。祖母に期待しそうになっている自分に。愛されるかもしれない、などという彼女にとっては分不相応だと思える期待だ。

 期待を打ち砕かれるのが怖い。

 不幸な暮らしに安心して縮こまっているほうが楽だとしか思えない。すべてを台無しにするような見え透いた窃盗をしたのは、そのいびつに凝り固まった考えのせいだ。

 信用されたくない。信頼されたくない。いつか後悔されるくらいならば、今すぐがいい。

 だからこそ、今日、アッシュの厚意を踏みにじり、もてあそんだのだ。アッシュに――そしてアッシュと重ねている祖母に――早いところ愛想をつかされたかった。

「おばあちゃんのためにやってるつもりだったけど、きっと、本当は、あたしが弱虫なだけだ。ご、ごめん、な。ごめんなさい……」

「いや、うん、いいよ、というか、ええと、なんだかよくわからないけど……」

 アッシュは突然の謝罪とわんわんと泣きわめく少女に面食らいつつも、胸ポケットのチーフを差し出した。

「きみ、そんなに気が回るのに、どうしてすごく単純で簡単で易しいことに気付かないのかなあ。不思議でたまらないよ」

「あた、あたしがこれ以上なにに気付いてないって言うんだよ」

「好きなんだろ。おばあさんのことがさ。それで、おばあさんもきみのことを好ましく思っている」

「う、ん……」

「なら一緒にいればいいじゃないか。それだけのことだ。遠ざけることなんてない。好きな人と一緒にいられたら、嬉しいし、楽しいよ」

 こともなげに言われて、少女はあっけにとられた。知らず、涙も止まる。近くでジジがふき出していた。ごまかそうとして咳払いをしている。

「……まあ、世の中にはこういうやつもいるわけだな。お前さんの身内がどうかは知らないが、おそらく、こいつと似たようなもんなんだろう」

「で、でも……」

「スナークってやつはどうしても深刻になりやすい。案外、おめでたい生き物のほうが大事なことを知っているのかもしれない。好きなら一緒にいろ、か。――なんともまあ単純明快だな」

 あー、とか、うー、とかうめくばかりで、いくらでもあるはずの反論要素を探しながらも少女はなにも言葉にしない。

 それどころか、少女は、ぐちゃぐちゃになった顔面をアッシュのチーフで遠慮なく拭いてから、やがて、小さく、小さくうなずいた。

 綺麗になった顔に、決意を固めたような凛々しい表情が浮かぶ。祖母を試す不毛な真似はもう止めると己に誓ったのかもしれない。なぜなら、彼女の目の前には、自分が騙されたと知っても、なお、未来を信じる言葉を紡いでしまうような人間が――アッシュがいたからだ。

「……なあ。ちょっと」

「うん?」

 少女がアッシュに、耳を貸してほしい、というような仕草をする。アッシュは乞われるがまま、少女に顔を寄せる。

「じゃあな!」

 ちゅ、と。

 礼の代わり、ということなのだろうか。

 アッシュがリップ音を認識したときには、少女はすでに走り去っていた。

「び、びっくりしたあ……」

 少女の唇の感触が残る頬へと手を当てる。ついつい放心したような声が出てしまった。

「ずいぶんおモテになるようですね、お坊ちゃん」

「からかわないでください。――――あ、チーフを返してもらうのを忘れた」

「盗もうとしていたわけじゃないだろうから、いつか返しに来るかもな」

「別にいいんですけどね」

「十年後くらいに年頃の娘さんになってな。今度は唇を奪われるかもしれない。美しい話だ」

「ばかなことばっか言ってないで、……と、そういえば」

「なんだ」

 頬にとはいえキスはキスだ。

 だからだろうか、ふと、昨日、キスについてのジジの話が途中だったことに思い至った。工場の敷地を出ながら尋ねる。

「キスをするときに人々が右に顔を向けるのはなんでですか」

「その話か。おいおい、わざわざ蒸し返すなんて、無関心を装っていたのに、実は興味深々だったってことか。素直になれよ、お坊ちゃん」

「じゃあ結構です」

「せっかくだから聞いておけよ」

「話したいんだったら話せばいいでしょう。素直になってくださいよ、おじさん」

 くそがき、と二の腕を小突かれた。

「親父が言うには、多くのものが首を右に傾けてしまうのは、八割の母親が左胸で赤ん坊を抱くからだ、とさ」

「母親は心音を聞かせたいから左胸で抱く?」

「いいや、関係ない。理由はわからないが、なぜか利き手に関係なく左胸で抱くもののほうが多いんだ」

「でもそれがなんなんです。キスの話ですよね?」

「キスの話だ。さて、赤ん坊がその状態で乳を吸うとしよう。首をどっちに傾ける?」

「――――右……か!」

 なんだか嘘臭い話だなあ、と思ったのが顔に出たのだろう。ジジが苦笑している。

「俺も信憑性は薄いと思っている。もしかしたら、親父のジョークだったのかもしれない。だが、人がキスをするときというのは、さながら乳を求める赤ん坊のように必死なんだ、という意味ならわからないでもない。生存にかかわるくらい真剣なことなんだ、なんてな」

「ふうん」

 アッシュはもう一度、少女の唇が触れた頬を撫でた。

「じゃあ、これは光栄なこととして受け取っておこうかな」

「お坊ちゃんには刺激が強かったろう」

「やかましいですよ、汚れた大人め」

「俺は案外健気だぞ」

「……健気な好色家ってことですか?」

「健気で清純ってことだろうが」

「痛って、うわ、うわあ、耳、痛ってえ」

 アッシュは右耳を押さえてわめいた。むろん、ジジと違って嘘を聞き分ける耳など持っていないのだから、嘘の不快な音が聞こえたわけではない。だが、これくらい大げさに茶化しても許されるくらいのでたらめだろう。

 こいつ、とばかりにジジが背中に拳をぐりぐりと突き上げてくる。

「ちょっ、痛い! 本当に痛い! 耳じゃなくて背中! 背中痛い!」

「痛くしているんだから当たり前だろう」

「……もう。どうせジジさんこそ真剣なキスなんてこれまで一度もしたことがないくせに」

「さあ、どうだろうな。なんにせよ、真剣で恐ろしいほどに情熱的なキスっていうのが世の中にはある。じわりと雪がとけ、つぼみがほころび、鳥が歓喜に歌い、林檎の実が真紅に熟すかのようなキスがな」

「なにを詩人みたいなことを」

 アッシュの呆れ声を受け流し、ジジは薄く笑う。

「……いつかお前にもそれがわかる日が来ることを願っているよ。なあ、無垢な子供(ロマンチックチャイルド)」

 ジジの声色はぎょっとするほど優しかった。まるで、若者を温かく見守る真っ当な年長者のそれだ。気のせいか、どこか同情じみた響きさえある。

 アッシュは少し動揺して、どう反応すべきか迷った末に、吸いたくもない葉巻をジジから奪った。くわえて、火をつけ、吸い込み――――――これ以上ないくらいにむせた。

 口の中に広がってまとわりつく苦味に後悔していると、ジジがやれやれ、とあてつけがましく肩をすくめた。


 ――――Stolen kisses are ……sweetest? 【END】


★第2話は2017年8月25日アップ予定です。