閻魔大王のレストランと日本酒BAR『四季』 | メディアワークス文庫 1PAGE

 わたしが実質的に経営している恵比寿の日本酒バー『四季』。

 古色蒼然(こしょくそうぜん)としているけど趣のある外観に、和の情緒漂う店内。お客さんも引いて静まり返った、ある秋の日の午後十一時だった。

 カウンターの中に立つわたしの体は驚きで強張っていて、バーテンダーの冴蔵(さくら)ちゃんは茹で上げたように顔を真っ赤にしていた。好きですと、はっきり告げられた。

「……少し、考えさせて」

 わたしはやっとのことでそう答えると、繕(つくろ)うような笑みを頬に宿した。こんな表情で誤魔化したい訳じゃなかったけど、わたしにはこれ以外に、どんな顔を彼に向けていいのか分からなかった。

「も、も、もちろん、もちろん、まちゅ、待ちます」

 赤い顔で喋って激しく噛む冴蔵ちゃん。わたしのツボに入っていきなり緊張が解けたけど、次は笑いを堪えるのが大変だ。しかもあれだけ完璧に噛んだのに、冴蔵ちゃんの顔はなにごともなかったかのように真剣なまま。まちゅまちゅまちゅ……。

「って言うか……」

 冴蔵ちゃんは堪えるわたしに気を払わず続ける。

「こういうこと、楓(かえで)さんが困るって分かってたんですけど……。仕事とか、色んな立場もあるし。でも気持ちを知ってほしいって、それが自分の中でどんどん膨らんで、どうしても勝てなくて……。返事はいつでもいいです。――すいませんでした」

「ううん。嬉しい」

 決まり悪そうな冴蔵ちゃんに、わたしは笑いを飲みこんでそう答えた。困らないと言えば嘘になるけど、口にしたのは心からの言葉で、今度はちゃんとした微笑みを浮かべられた。

「でも……。やっぱりちょっと時間は欲しいんだ。色々、考えたいから」

「はい。困らせちゃって……」

 冴蔵ちゃんは忙しなく視線を泳がせると、申し訳なさそうに少し俯(うつむ)く。わたしは彼のその表情を、

「それはもういいの」

と明るい口調で拭(ぬぐ)って、お客さんがいなくなった店内に視線を巡らせた。月曜の深夜でこれからの来客は微妙だし、わたしたちはこんな雰囲気だし……。

「……じゃあ、今日はもう閉めようか。また明日、頑張ろうね」

 そう言うと、冴蔵ちゃんは「はい!」と、明らかにムリした声と表情で返事をした。後悔させたかもしれない。しばらくは、少し気まずいかも。

 わたしは苦笑を浮かべると、なるべく何事もなかったように装い、それから簡単に店内を片付けた。

 ――明日からは、普段の通り話せますように。

 祈るようにそう思って、わたしは着物にたすき掛けしていた腰紐を外し、いつものように閉店業務を彼に任せた。そして二階の更衣室で洋服に着替えると、

「それじゃあね。お疲れ様」

 その言葉を残して、そっと家路に就いた。


 もう十月の足音も聞こえる時期に入ったのに、肌を撫でる夜風はまだ生温い。

 わたしは髪をかき上げると、小さな声で、まいっちゃったなあ、と呟いた。

 心の中はやっぱり嬉しさが一杯で、そこに仄かな熱のようなものまで生まれていたけど、そういう喜びを感じてしまうことに、どうしようもない罪の意識があった。

 わたしはふうと息をついて、いつもの交差点で足を止める。そして少し考えたあとで角を曲がり、帰り道を迂回した。

 街の営みが途切れない恵比寿は、この時間でも賑やかで気が紛れる。それにカップルやグループが多い中で夜風に寂しく吹かれていたら、ちょっとは頭が冷えて自分の立場を自覚できると思ったから。

 冴蔵ちゃんがウチで働くようになってから、もう一年半ほど。

 最初は可愛い従業員だったけど、わたしの気持ちが傾いたのは去年の秋、店の経営危機を一緒に乗り切ってからだ。いつも一生懸命な彼に、わたしはお店を二人の宝物にしたいと、冴蔵ちゃんとならそれができると、不覚にも思ってしまった。

 でも自分の状況を鑑(かんが)みると、そんなことは許されない。冴蔵ちゃんの態度にもなんとなく感じるものはあったし、アルバイトに来てくれた女の子もやたらと仲を煽(あお)ってきたけど、わたしはそれをなるべく意識しないように過ごしてきた。

 なのに彼の今日の不意打ちはズルい。我慢していたわたしの心は、たぶん坂道を転がるように一気に動いてしまった。

 本当なら、「わたしで良ければ、喜んで」って答えられて、わたしたち二人に幸せな未来が待っていたのかもしれない。

 でも、わたしには素直に喜べない事情がある。わたしがもう二十八で彼はまだ二十二って年齢もそうだし、あとは経営者と従業員というどうしようもない間柄もそう。

 それになによりも、わたしには死別した夫がいるから。

 赤橋青葉(あかはし あおば)。『四季』の創始者であり、四年前、三十三才でこの世を去った罪な人。

 わたしはとても愛していたあの人の妻で、その事実の前に、自分の感情を挟む余地はない。それどころか、本当ならこんな気持ちを持つことだって――。

 だから……。だから、ごめんね、冴蔵ちゃん。やっぱり、ムリっぽい。

 心に結論が浮かぶと、わたしは「でも……」と言いかける自分の感情に無理矢理蓋(ふた)をして、緩いため息をつく。そして星が瞬く夜空を見上げてから、また小さな声で、まいっちゃったなあ、と呟いた。


 翌日。わたしは更衣室で着物に着替えると、まとめた髪に簪(かんざし)を挿した。

 お店、今日は普通に営業できるだろうか。冴蔵ちゃんのことだから、昨日のあのことを仕事に持ち込まないと思うけど。

 わたしは店のカウンターで準備をしている冴蔵ちゃんを想像して、そっと自分の胸に手を当てた。――ごめんね。

 冴蔵ちゃんの気持ちも、なんとなくは分かっていた。これは彼の想いも、そして自分の想いも曖昧なまま放置していたわたしの責任だ。

 今日の営業が終わったら、ちゃんと返事をしよう。

 時間が欲しいとは言ったけど、こんな関係のままで待たせちゃいけない。それが原因で彼が『四季』から離れることになったら、それは胸が張り裂けるくらい辛いけど、でも、どうしようもないことだって世の中にはあるから。

 わたしは鏡に向かって気持ちを固めると、部屋から出て階段を下りた。

 ここから左を向くと、いつものように和を強調した内装の店内が見え、艶めく木製カウンターの中では冴蔵ちゃんが開店準備をしているはずだ。いまの時間なら、グラスを拭いている頃かな。

 よし。まずは「おはよう」って言って笑ってみせる。表情に、「昨日のことは気にせず働こうね」って意味を込めて。

 大丈夫。難しくない。彼だって分かってくれる。

 わたしは心へ刷り込むようにそう思うと、暖簾(のれん)を潜って店に出た。そして「おはよう!」と、にっこり笑って……。

「おはようございます」

 返ってきた言葉に、わたしは強烈な違和感を覚える。声が冴蔵ちゃんじゃない。低くて、よく通る声。

 わたしは一瞬真顔になったあと、有り得ない事態に慌てて視線をカウンターに移す。するとそこには冴蔵ちゃんじゃないバーテンダーが、柔らかい物腰でもってそこに立っていた。整えたヒゲを口まわりに蓄えた、なんかダンディなオジさん。グレーのスーツを隙なく着熟している。照明がそうさせるのか陰影は濃く、彫りの深い顔立ちだった。年は四十過ぎくらいだろうか。

「赤橋楓様」

 ダンディが、またよく響く声を出す。状況が整理できていないわたしは、

「は、はい?」

 と、普通に聞き返した。

「ようこそ当店、日本酒バー紫苑(しおん)へお出でくださいました。私はバーテンダーの虎杖竜児(いたどり りゅうじ)と申します。楓様のご来店、歓迎致します」

「え、え? 紫苑? って……。あれ、わたし……」

 店を間違えちゃった……、訳ないか。ここは間違いなく『四季』のはずで……。どうしよう、これ。警察に通報した方がいい? 冴蔵ちゃんは?

「お間違えではございません」

 わたわたしていると、虎杖と名乗ったその人が穏やかな表情で、わたしの心を見透かしたように言った。

「そちらにおられるお客様より、楓様を当店へご招待するようにと仰(おお)せつかっております。急な上に強引なお誘いになり恐縮ですが、どうぞ当店のお酒と料理でおくつろぎくださればと思います」

 虎杖さんは流暢(りゅうちょう)にそう話し、カウンターの端にある席にスッと手を延べる。影になっていて見えなかったけど、そこには確かに人がいて……。

 人? ううん。あの姿……、見覚えがある。がっちりした体格で、くせっ毛にポロシャツ、知的で柔和(にゅうわ)な切れ長の目。一日だって忘れたことのないあの人は……!

「青……クン?」

「ああ」

 彼はちょっと照れくさそうに笑うと、まるでいつも会っている友達にそうするように、こっちに向かってひょいと手をかざした。やっぱり、間違いない……! カウンターの端に座る男性は、紛れもなくわたしの夫、赤橋青葉だった。

「う……そ……」

「久しぶり、楓」

「本当に……? ど、どうして……?」

 窒息(ちっそく)しそうなほどの緊張が、わたしの体中を襲っていた。なんで青クンがここに? 夢? でも朝起きてから眠った覚えなんてない。じゃあ、じゃあ……。

 心臓が痛いくらいの鼓動を刻み出す。腰が抜ける、という表現が、いまほど適切な状態があるだろうか。わたしは立っていられずに、へなへなとその場に崩れ落ちた。


「落ち着かれましたか?」

「――はい。すみません」

 カウンターの席に座って少し時間を置くと、バーテンダーの虎杖さんが水の入ったグラスを、わたしの前にコトリと置いてくれた。

 わたしは目礼してからグラスに口を付け、喉を波打たせる。冷たい水が喉を通る感触はリアルで、いまのこれは現実なんだとわたしに教えてくれた気がした。

「楓様」

 ふうと息をついていると、カウンターの中の虎杖さんが呼びかけてくる。

「突然のことに驚かれたかと思います。ただ事前に告知することが難しく、このような形を取らせて頂きました。どうぞご理解くださいませ」

「あの、はい……。って言うか、ここって、なんですか? 夢……、じゃなさそうな感じはするんですけど」

 わたしは隣の青クンと虎杖さんを交互に見た。変な場所だけど、不思議と怖いという感覚はなかった。

「夢、と言われればそうかもしれません」

 虎杖さんが答える。そしてそれから彼は『四季』そっくりのこの場所について、丁寧に説明してくれた。

 それによると、ここは『四季』に似せて空間を作った紫苑という店で、さっき聞いた通りに、青クンの招待でわたしはここに呼ばれたみたいだった。

 なんでも食に未練を残して亡くなった人が来る場所みたいで、青クンの場合は『四季』でわたしと食事をすることに、大変な執着があるらしかった。だから彼はその未練を解消したいと虎杖さんに頼んだみたいだ。

 疑問を先回りして滔々と語る虎杖さんの口調には不思議な説得力があって、わたしはポカンとしてただ頷くことしかできなかった。そして彼の話が終わる頃、その説得力に納得させられたわたしは、自分がいまいるとても奇妙で非日常なこの場所を、現実の出来事として普通に受け入れていた。

「――当店について申し上げることは以上となります。宜しいですか?」

「あの、すみません。一つだけ」

「なんなりと」

「えっと、お店、『四季』の方って、いまどうなってるんですか? わたし、そこにいたはずなんですけど」

「ご心配には及びません。こちらでのお時間は現世では瞬きするほどの、ほんの短い時間でございます。紫苑で制限時間まで過ごされますと、楓様はこちらへ来られた一瞬あとの現世でお気が付かれるでしょう」

「そう、ですか……。分かりました」

 わたしはそう返事をする。なるべく冷静に聞いたつもりだったけど、内心は驚きと喜びと、一つまみの切なさで満ちていた。やっぱり夢かもしれないと思ったけど、たとえそうであっても、いまという瞬間を精一杯大切にしたかった。

「それでは、これより天へ昇る味わいで、赤橋様ご夫婦の別れを祝福致します。ご堪能(たんのう)くださいませ」

 虎杖さんはそう言い残すと、カウンターの奥に引っ込んだ。わたしはそれを見て、「――ホントに、青クンなんだね」

 首を横に回して、彼に言う。

「もちろん。遺書でも暗唱しようか? 初めて楓から受け取った手紙でもいい」

「やめてよ。恥ずかしい」

 答えると、彼はいたずらっ子のように笑う。くしゃっと眉間にシワが寄るその笑顔も、やっぱり懐かしい青クンのものだった。

 そうしてわたしたちは、虎杖さんから出されるお酒や料理を楽しみながら、積もる話に花を咲かせた。

 いつもわたしが立っているカウンター奥の厨房には、いま、和服を着流した長髪の男性が立っていて、料理はその人が作っているみたいだった。お酒の美味しさは想像していた通りのものだったけど、料理は信じられないくらいの絶品で、それがわたしたちの久々の会話に弾みを付けてくれた。

「そうだ、親父は元気? 兄貴は?」

「もう一度、あの山に楓と登りたかったなあ」

「嘘。あのマンガ終わっちゃったの?」

 会話の大半はそんな他愛もないものだったけれど、でも内容なんかどうだってよかった。息遣いが伝わるほどの距離で彼が生きていた頃のようにお喋りできるのが、わたしには堪らなく嬉しかった。青クンがまだ生きていた頃の『四季』の定休日、わたしたちは店の中でこんな風に日本酒を飲んで、二人で幸せな時間をずっと過ごしていたから。

 湧き出てくる感情はやっぱりあのときのものとは違うけれど、わたしには『せめてもう一度』、と思っていた夢がかなったような気持ちだった。でも心の中には時折、冴蔵ちゃんの顔が浮かんできて、それが胸の辺りをチクチクと苛んだ。


「店の方は、どう?」

 そろそろ制限時間が気になり始めた頃、青クンは虎杖さんからお酒のおかわりをもらって、そう切り出した。たぶんそれは彼が一番聞きたかったことで、そしてわたしが一番答えにくいことだった。

 わたしは日本酒を一口飲んで、「うん」と返事をしてから、言葉を続ける。

「……実は青クンが亡くなったあと、日本酒バーをやめてたんだ。わたしだけじゃ難しくて。でも最近、新しいスタッフが入って、やっと再開できたの」

「冴蔵クンのこと?」

「知ってるの?」

「ああ。実は店のこと、たまに見てる。月命日には一緒に墓参りへ来てくれているのも知ってるし。良い男だね、冴蔵クン。君とも上手くやれそうだ」

「……うん。仲良いよ」

「誤魔化さなくていい。昨日の夜は、俺が見ていた『たまに』だった」

「…………」

 返答に困って青クンをチラッと見ると、温和なその視線はじっとこちらに注がれていた。――全てを見抜かれている。わたしはそう感じ、心に焦りを覚えた。

「でも、楓は変なことを考えていそうだったからね。最後の最後になったけど、ちゃんとそのことを言っておきたくて」

「……変なことなんて、考えてない。わたしは青クンの奥さんだから」

「それが変なことだよ、楓」

「…………」

 わたしはまたグラスに口を付け、沈黙だけを青クンに返した。でも内心では分かっていたのかもしれない。わたしの好きだった青クンなら、あのことについてなんて言うかを。

「簪、変えたんだね」

 黙っていると、青クンは不意にそんなことを言った。わたしは彼がなにを言いたいのか察するとハッとして、髪に挿したそれに触れる。

「うん。……あの。ゴメンね。青クンからもらった簪、折れちゃって、それで……」

「冴蔵クンからのプレゼントだろ? 知ってるよ。着物にも合ってるし、楓によく似合う。それに指輪を外した薬指も綺麗だ」

 青クンはそう言って、真剣なままの目で笑みを浮かべた。それに胸がドキリと音を立て、わたしは息を飲んで自分の左手を隠すように右手を重ねた。

「――意地悪なこと言わないで」

「ごめん。でも時間が経てばなにもかも変わっていくだろ? 不変なんて有り得ない。中には壊れるものだって――」

「やめて」

 少し低い声で、わたしは青クンの言葉に割り込んだ。自分の想像以上に感情は昂っていて、そして心はその中で震えていた。

「話はまだ途中だけど」

「聞きたくない」

 わたしは青クンから目を逸らして言った。でも彼は、

「それでも聞いてほしい」

 と、拒否するわたしにかまわない。

「楓の機嫌が悪くなるかなって、この話を最後にしようと思っていたんだ。俺が言えた義理でもないけど、楓には幸せになって欲しいから」

 彼は宥(なだ)める口調でそう言うと、体をわたしの方へ向け直した。

「あのさ、いま楓が俺にこだわってくれてるのって、それってたぶん優しさだと思うんだ。その気持ちは嬉しいんだけど、俺に同情はいらないよ。楓が自分の気持ちに素直になって、幸せに過ごせる道が一番……」

「聞きたくないの。お願い」

 わたしは呼吸を整えて、なるべく静かな声で言った。

「聞いてくれ。これは今回だけじゃなくて楓の一生に関わる」

「わたしに、青クンのこと忘れろって言ってるの?」

「……心のどこかに仕舞っておいてくれたら、俺は嬉しい」

「嫌。青クン、それってすごい残酷なことだって分かって言ってる? わたしを残して死んじゃって、そんなこと言うの? 二人いた部屋で、一人で食べるご飯の味って分かる? 青クンへの気持ち、ずっと大事に守ってきたのに」

 嘘だ。あの頃の感情は守り切れず、かつての場所から剥がれていくのは感じていた。でもそのことを見透かされているようで、わたしの心はますます焦燥感に囚われていく。

「楓。申し訳ないと思ってる。でも楓が見ているそこって、もう存在しないんだ。分かるだろ? ないものにこだわったってしょうがない。本当にあるのは楓がいま立っている場所だけ。その隣には誰がいる?」

「せっかく会えたのに……! 青クンからそんなことを聞きたくないの」

 わたしは絞り出すように、同じ言葉を口にした。だけど視界の中の青クンは、すぐに涙でぼんやりとぼやけて滲(にじ)んでいった。

「……だって、そうでしょ? 青クン、あんなに早く死んじゃって……。わたしがどんな気持ちだったか分かるの? ずっと一緒だと思ってたのに!」

「ゴメン。それしか言えない」

 青クンは素直に謝ると、ぐっとくちびるを結んだ。でも零れ出すわたしの言葉は止まらない。

「指輪だってそうだよ。ずっと付けてた。外すとき、すごい泣いた! なのに!」

 こんなことを口にしたい訳じゃないのに、でも声は次第に熱を帯びていく。誰かわたしを止めてと願っていると、

「失礼致します」

 いつの間にか虎杖さんがカウンターの向こうに立っていて、そこから声をかけてきた。ハッとして顔を向けたら、彼は穏やかな表情で、わたしたちに優しい眼差しを向けていた。

「青葉様。楓様。名残は尽きないご様子ですが、そろそろお時間が参りました。お別れはお済みでしょうか?」

「時間……、ですか? もう?」

 わたしはそう答えながら、自分の体に戦慄(せんりつ)が通り抜けるのを感じた。

 心の中は冷や水を浴びせられたように冷静さを取り戻していたけど、それによってまずやってきたのは、ここから後戻りできないという、絶望じみた恐怖だった。

 きっと傷付けてしまった。青クンもわたしのために言ってくれた。思ってもないことを言ってしまった。病気で亡くなった彼を責めたい訳じゃなかった。なのに……。

 顔が強張っているのが分かる。もう少し、もう少しだけでいいから時間を……。懇願するように虎杖さんを見ると、

「冗談でございます」

 彼は雰囲気を無視していきなりニコリと相好を崩し、その言葉に、『冗談?』と、わたしと青クンの声が重なった。たぶんわたしの顔はバカみたいに呆けていた。

「ええ。タイミングを見計らった上での渾身の冗談です。しかしどうも私には笑いのセンスがないようで」

 虎杖さんは両肩を少しコミカルに竦ませて、弁解するようにそう言った。

 するとその言葉でわたしと青クンは思わず顔を見合わせ、どちらからともなくプッと笑いを漏らしてしまう。

「一本取られました。勘弁してくださいよ」

 青クンも安心したような苦笑いを浮かべた。わたしも「ビックリした」ってちょっとむくれて見せたけど、その一方でひどく感心もしていた。声をかけるタイミングやその意図から、虎杖さんの高い技量が窺(うかが)えたから。

「笑いのセンスについては、精進致します。しかし時間が迫りつつあるのは事実です。どうか後悔が残りませんように」

 虎杖さんはおどけた口調で言うと、柔和(にゅうわ)な笑みを浮かべる。気が付くと店の中は、さっきまでの緊張が嘘のように空気が弛緩(しかん)して穏やかになっていた。救われたような気持ちだった。

「さて、それではお寒い思いをさせたお詫びと言ってはなんですが、私からお二人へご用意致しましたお酒がございます。是非お召し上がりくださればと」

 虎杖さんはカウンターに、白く露をまとったグラスを二つ、コトリと置く。背を伸ばして覗き込むと、その中身は磨き抜いた宝石のように光を集めていた。

「日本酒バー『四季』が末永く繁栄するようにと願いを込めまして、『笑四季 センセーション 特別純米黒ラベル』でございます。滋賀県は笑四季(えみしき)酒造で醸(かも)された清酒でございます」

「おっ。笑四季。美味いんだ、これ」

 青クンの顔がパッと輝いた。

「そうなの? わたしは飲んだことない」

「冴蔵クンに言って仕入れてみなよ。すぐに売れちゃうからさ」

 言いながら青クンはグラスを傾け、

「……んまい……」

 と、目を細めて幸せそうな表情を浮かべた。あー、この顔見るのも懐かしいなーなんて思いつつ、

「じゃ、わたしも」

 そう言って、わたしもグラスを手に取った。そして確かめるように鼻先へそれを近づけて、ちょっと大袈裟にクンクンと鼻腔(びこう)を膨らませてみる。

「――なんか、控え目だけどフレッシュな香り。リンゴみたいな」

 わたしは言いながら、グラスをクルクル回してスワリングした。すると波紋を立てたお酒からは更に香りが立ってきて、ヨーグルトを和えたような、まろやかな風味も感じられた。

「これは飲んだあともいいんだ。良い意味で一癖ある」

 青クンは言って、またそれを口に含んだ。そしてやっぱり「んまい!」とでも言いそうな顔をするので、わたしもそれに続いて、ワクワクしながら口にしてみる。すると、

「あ」

 漏れてしまうそんな声。わたしは鼻から喉元に駈け抜けた味覚に思わず口に手を当てて、確認するように目の高さでグラスを凝視した。

 美味しい……。思ってたより、ずっと。

 口当たりは軽快でドライ。ちょっと懐かしいような風味もある。

 だけど舌の上で転がすと口の中にはまるで上昇カーブを描くように、しっかりした旨みと酸味がじわ~っと膨らんでいった。何層にも重なった風味が舌の上を通り抜ける、奥行きのある味わいだ。

「辛口だけど、甘味もクルんだよね、これ。酒質に厚みがある」

 青クンが言う。わたしが軽く驚いたのを見てご満悦だ。

「うん。わたし、好き。こういうの」

 後味はキリッとした酸味で切れたけど、ほどよい渋みも舌の上に残る。そして芯の通った日本酒感は、濃度の高い余韻を長く口内に残してくれた。べとつかない爽やかなスッキリ感だ。

「笑四季って名前も良いよね。わたしたちにピッタリのネーミング」

 わたしはこのお酒の向こうに、『四季』で笑い合っているみんなを連想した。常連さんたちや、わたしと冴蔵ちゃんが楽しそうにしている姿。でも、

「わたしたちって?」

 青クンはわたしの言葉尻を見逃さない。わたしは「えっと……」と、言葉に詰まり、目を逸らした。久しぶりの青クンは少し意地悪だ。

「ゴメン。答えにくいよな。でも、他意はない。わたしたちってのは、楓と冴蔵クンでいいんだ。きっと楓の頭の中もそうだったろ? 俺はもう『四季』どころか現世の人間ですらないんだから」

 青クンはここで言葉を区切ると一呼吸置き、前を向いて続けた。

「確かに笑四季ってネーミング、楓の理想そのままだよな。面白い」

「わたしの?」

「昔、言ってたじゃん。わたしは『四季』でみんなが笑ってるのが好きだって」

「うん。好きだよ。生き甲斐かも」

 答えると、「だろ?」と確認するように彼は言って、カウンターにグラスを置いた。

「なら、やっぱりまず『四季』の主人公が笑えなくちゃ」

「主人公? お客さん?」

「楓だよ。『四季』の主役は楓以外に有り得ない」

 青クンは言って、再びわたしを見つめる。

「俺の口からこんなこと言っても説得力ないけどさ。楓には幸せに過ごして欲しい。最後の手紙にもそう書いたはずだ。それは『四季』の主役である楓の義務だと思う。良い空間を提供するなら、まず自分がそうならなくちゃ」

「でも、わたしは……」

「俺と楓は夫婦だった」

 カウンターに置いたわたしの手に、青クンは自分のそれを重ねた。

 でも彼の表情とは裏腹に触れたその手は驚くほど強張っていて、そこからはなにか重大な想いを告げるというような、ヒリつくような緊張が伝わってきた。――そしてその内容の想像は、わたしにとって簡単だった。

 わたしは目をつぶって、覚悟を固めるようにくちびるを噛んだ。

 心臓が激しく波打ち、お店の空気は冷たく肌を撫でた。わたしはこのときに下りた呼吸数回分の沈黙を、たぶん生涯忘れないだろう。

「俺には」

 青クンの優しい声がわたしを包む。

 目を開けると、彼の髪や顔の産毛がうしろからの照明をうっすらと反射していて、理知的な青クンのその輪郭を光で縁取っていた。それはわたしの目に、ひどく眩しく映った。

「――俺には、過去にあった楓とのその関係だけで充分だよ。君がそのことを守ってくれるのは嬉しいけど。でも楓には未来があるから」

「…………」

「沈んだ太陽を追いかけていても、夜明けを見逃すだけだ。でも楓のうしろからは声がかかっている。君も声に応えて振り返りたいはずだ。そうだろ?」

 青クンの言葉が、重みを持って胸の中に反響した。

 でも今度は反論が生まれず、素直にそれを聞くことができた。

 虎杖さんに驚かされて、美味しいお酒で一息ついて、そしてそのお酒の名前で諭されて。上手い具合に転がされたわたしの心からは、魔法が解けたように硬さが蒸発していた。いや、もしかしたらわたし自身が望んでいたことだから、元々聞く用意があったのかもしれない。

「……いいのかな」

 わたしは尋ねる口調で青クンに言った。そこにはたぶん、赦(ゆる)しを請うような響きが含まれていたと思う。

「当たり前だよ。楓の人生なんだから。文句なんか誰も言わないって。そんなヤツがいたらさ、俺が呪ってやるから」

 青クンはおどけていって、またくしゃっと笑った。わたしはその表情に彼が生きていた頃を思い出して、胸がきゅっと締め付けられた。思い出せばそれだけ、苦しくて苦しくて堪(たま)らなかった。

「泣かないで」

 青クンが、指でわたしの目を拭(ぬぐ)う。わたしはそれに頷いて堪(こら)えてみたけど、やっぱり我慢できなくて涙は次々に頬へ伝っていった。わたしは見られているのが申し訳なくて、肘をカウンターにつき、手の平で顔を覆った。

 あの頃はこんな風に自分の心が沈んでしまったとき、いつも青クンは側にいてくれて、優しく微笑みながら弱いわたしを支えてくれた。料理を上手く作れなかったときもそう。お客さんを怒らせたときもそう。どんなときのわたしも受け止めて、幸せを分かち合った、花を降らせるようなこの温和な微笑。

 でも、いまの彼の微笑みは、わたしの幸せだけを願うとても切なくて苦しいものだった。もう青クンはこの世に、『四季』にいないんだ。――そしてたぶん、わたしの心の中心からも居場所を失う。

 ああ、どうすればいいんだろう。あれだけ逃げ回ったのに、わたしはとうとう、自分を追い掛け回していた黒いものに捕まってしまった。

「自分を責めちゃいけない。もし痛みが残ったとしても、冴蔵クンとの時間がそれを洗い流してくれる。俺への気持ちって、守るようなものじゃないと思うから」

 青クンは言って、わたしの背をゆっくりと撫でた。

 わたしはコクコクと頷きながら、彼に何度も「ごめんなさい」と謝った。いまさらこんなことを言ったってどうしようもないのは分かっているけど、でも気持ちからはみ出したものが言葉となってしまって、どうしようもなかった。わたしは手で顔を押さえたまま、何回もごめんなさい、ごめんなさいと呟き続けた。


「落ち着かれましたか?」

「――はい。すみません」

 カウンターの席に座って少し時間を置くと、バーテンダーの虎杖さんが水の入ったグラスを、わたしの前にコトリと置いてくれた。本日二度目のそれはとてつもなく恥ずかしくて、別の意味でまた泣きそうだ。

「じゃあ、もう一回、笑四季で乾杯しようか」

 水を飲んで一息つくと、青クンがグラスを持ってわたしの方へ掲げる。わたしも「うん」と答え同じ動作で応じると、

「『四季』の主人公に」

 青クンはまたくしゃっと笑って、グラスの中身を一気に喉に流し込んだ。彼のそれはまるで心を溶かすような声で、わたしはやっぱり優しい彼のその言葉に、心が楽になった気がした。

 ――わたしが主人公、か。

 わたしなんかがそうなっていいのか、まだちょっと自信はないけど。

 だけど青クンの言う通りにそう考えてみると、なんだか不思議な感覚が湧いてくるのもまた事実だった。体の中には、深夜に当てもなく散歩に出かけるような、なにかから抜け出した高揚感が駆け巡っている。

 経験したことのないそれに戸惑い自分の中を覗き込むような気持ちでいると、厨房からは虎杖さんが、「ではお料理の方を」と、漆(うるし)塗りの皿を持ってきた。そしてわたしたちの前へ音も立てずにそれを置き、温和に相好を崩す。

「先のお酒とマリアージュになりますよう、料理人が考えました。お料理の最後を締めるデザートで、栗道明寺(くりどうみょうじ)でございます」

 彼は手を延べ、皿の上のそれを紹介する。そこに載っているのは、ピンクに艶めく桜もちを緑の葉で包んだ、鮮やかな色彩のお菓子だった。

 栗道明寺って言ってたから、栗は桜もちの中かな? 桜の小枝も添えてあって、ピンクと緑、枝のブラウンが織りなすコントラストが可愛い。

「綺麗ですね……。桜もち」

「ええ。楓様と冴蔵様のお名前にあやかり、秋と春を閉じ込めた一皿です」

「わたしと……、冴蔵ちゃんを……?」

 わたしは呟くと、虎杖さんを見上げた。彼は笑顔を浮かべたまま、意味ありげに小さく頷く。

「――こんな外堀の固め方ってあります?」

「気のせいでございます」

 虎杖さんは飄々(ひょうひょう)と答えた。なんかすごい煽られた気がするけど……。ま、いっか。

 わたしはあえて気にしないようにして、出された栗道明寺をつまんで口に運ぶ。そして形が崩れないよう、口をすぼめて噛み切ってみると……。

「んっ」

 期待はしていたけど、期待以上の美味しさに声が漏れた。咀嚼(そしゃく)すると、ねっとりとした栗餡の風味が解けるように舌の上へ膨らむ。それは桜もちのもちっとした食感と重なり、深みのあるまろやかな甘味を口の中に膨らませた。

「美味い?」

 青クンが栗道明寺とわたしを見比べながら聞いてくる。

「すっごい美味しい。栗、ほっこりしてる」

 わたしは目を見張り、口を押さえて即答した。桜もちに栗ってどうかなって思ったけど、驚くほど相性が良い。

「へえ。どれどれ」

 青クンもくちびるを舐めて、自分の栗道明寺にかじり付く。するとやっぱり、「んまい……」と言って、いつもの至福の表情を浮かべた。

「甘味がぶわっと濃い~よね。辛口のこの笑四季ともよく合う」

 青クンは言った。それにわたしも頷いて、残った栗道明寺を口の中に放り込む。そしてやっぱり口に広がるのは、密度があって心に染みる、じんわりとした味わいだった。食感も堪らない。噛むのが楽しくてクセになりそう。

 これいいなあ。冴蔵ちゃんに食べさせてあげたら、なんて言うだろう。お店で出しても面白いかもしれない。……って、そんな想像をしていたら、

「楓様」

 と、カウンターの向こうから虎杖さんが呼びかけてくる。

「栗と桜もち、秋と春の相性は如何でございましたか?」

「相性、ですか」

 問い返すわたしに、彼は口角を持ち上げた。答えは分かっている。虎杖さんの表情は言外にそう告げていた。

「わたしが言うこと、分かってるくせに。ごちそうさまでした」

 せめてもの抵抗で、ちょっとだけそっけなく答える。だけど虎杖さんは全てを見透かしたように、穏やかな表情を浮かべたままだ。

「それは良うございました。現世でもそうなるようにと、祈りを込めまして」

「やっぱりそうなんじゃないですか」

 ジト目で言うと、虎杖さんは息を漏らすほどの微かな笑いを漂わせた。そして視線を移し、青クンに柔らかな目配せをする。

「さて、青葉様。これで宜しゅうございましたか?」

「ええ。もちろん」

 言って、青クンは栗道明寺をもう一口食べる。すると目尻のシワを深くして、

「最高です」

 と、満足そうに口にした。


「――さん……、楓さん、楓さんっ!」

 次第に大きくなる声にふっと気が付くと、目の前には血相を変えた冴蔵ちゃんがアップで迫っていた。泣きそうな顔になってわたしの肩を揺すっている。

 えっと、これ、なに?

 確かわたし、『四季』そっくりの紫苑でお酒を飲んで、最後に栗道明寺を食べて、それからまた青クンと話をして、それで泣きながらお別れして……。

『紫苑で制限時間まで過ごされますと、楓様はこちらへ来られた一瞬あとの現世で気が付かれるでしょう』

 ハッと虎杖さんの言葉を思い出す。同時に意識が全て元に戻った。

 慌てて違和感のある顔に手をやると、頬には滂沱(ぼうだ)の涙が流れていた。自分で引いちゃうほど、かつてない量だ。

「あ……。冴蔵、ちゃん?」

「やっと気が付いた……」

 冴蔵ちゃんは呟くように言うと、大きく鼻をすする。

「どうしたんですか、いきなり立ったまま固まって。大丈夫でちゅ、ですか? 病院行った方が……」

 わたしは噛んだ冴蔵ちゃんから思わず目を逸らす。いま笑っちゃダメだ。どうしてこの子はこういうときにいつも噛むんだろう。でちゅでちゅでちゅ……。

「ホントに、大丈夫です? やっぱ俺のせい……」

 わたしが目を逸らして俯いたのを、変に解釈する冴蔵ちゃん。でも、彼のせいであることだけは当たっている。

「ううん。体は平気なんだけど……」

 わたしは笑いを飲み込むと、店内を見回してから、もう一度冴蔵ちゃんに視線を移した。

「――わたしって、どうなってたの?」

「え。覚えてないんですか?」

 キョトンとする冴蔵ちゃんに、うんと頷くわたし。

「えっと、楓さん、たぶん着替え終わって階段を下りてきたんだと思うんですけど、俺が気付いたときはもう、そこに立ってたんです」

 冴蔵ちゃんは店と母屋を繋ぐ、暖簾が垂れた出入り口を指差す。

「で、なにしてんのかなって思ったら、楓さん、いつまで経ってもこっち向いたまま固まってるんですよ。いま思うと、なんか目の焦点合ってなかったし。俺をからかってるのかなって思ってたら、いきなり泣き出して……。ホント、もう救急車呼ぼうかと思って……」

 冴蔵ちゃんはまだちょっとパニック気味だ。まあ立場が逆なら、わたしもそうなってると思うけど。

「……ちなみにわたし、どれくらい固まってたの?」

「えっと、俺が気が付いてからは三分くらいかな」

 ということは実質三分以上……。って、それは一瞬じゃない。わたしは心の中で虎杖さんに文句を言った。時間の感覚がアバウト過ぎる。こんなことで病院に運ばれても、なんて言い訳していいか分からない。

「ごめんね。ちょっと夢を見てて」

 わたしは繕うように言って、もう一度頬の涙を拭う。

「夢? 悲しい夢を?」

 わたしは冴蔵ちゃんの疑問に「ううん」と答えて、笑顔を向けた。

「嬉しい夢」

「? なら、いいんですけど……。あ、あ、そだ。水入れますね」

 冴蔵ちゃんは慌てた様子でそうに言って、冷蔵庫を開けて屈み込む。わたしだけが全てを分かっているこの状況は、ちょっとおかしい。

「あ。そうだ。冴蔵ちゃん」

 わたしは彼を見たまま名前を呼ぶ。冴蔵ちゃんは水を注いだグラスを傍らのカウンターに置き、問い返す目線をわたしに送ってきた。

「あのね、悪いんだけど、今日はお店、お休みにしよう」

「あ、ええ。もちろん。やっぱ体調悪いんでしょ? 熱は? そうだ、病院病院……。救急車は、もういいのかな……」

「そうじゃなくて」

 わたしは冴蔵ちゃんに苦笑いをして見せた。

「お酒、飲んじゃったんだ。ゴメンね」

「え。酒を?」

 冴蔵ちゃんは不思議がる。バーにもよるけど、ウチではお酒を飲んで接客はしない。

「そう。あと、仕入れて欲しいお酒あるんだけど」

「え、あ、はあ……」

 脈絡なく飛ぶ話に、冴蔵ちゃんの顔が疑問の色に染まっていく。でもわたしは彼のそんな表情にかまわず話し続けた。助走を付けて勢いを得ないと、ここからの言葉は言えない気がしたから。

「ね、いいでしょ? 一本でいいから!」

「ええ、もちろんかまいませんけど……。で、なにを仕入れるんです?」

「笑四季! えっと、なんだっけ。黒……」

「笑四季、センセーションの黒ラベルかな。でも、いきなり、どうして?」

「それに合わせて作りたい料理があるの。それまでは秘密」

 答えると、「秘密、ですか」と、冴蔵ちゃんは首をかしげる。

「そう。秘密。でも、待ってて。わたし、その料理を冴蔵ちゃんへの答えにするから!」

 わたしは満面の笑みを浮かべて、冴蔵ちゃんのその手を取った。

 すると彼は一瞬ポカンとしたあと、すぐに表情を一変させて、「はい!」と弾んだ声で返事をする。そしてわたしの手をぎゅっと握り返す冴蔵ちゃんのその表情は、わたしにとって、堪らなく愛おしいものだった。


三年後


 石を積み上げて作られた壁に、眩い光が投じられてる。

 その反射を間接照明にして、紫苑の店内は薄明るくぼんやりと照らされていた。

 通常時の紫苑は十歩も歩けば壁にぶつかる、あまり広いとは言えない空間である。

 そんな店の中で虎杖竜児は椅子に腰かけ、深いブラウンに艶めく内装や調度に目を這わせていた。

 あの世と現世の境界線、次元の狭間。そこに位置するレストラン、紫苑。

 三年前、竜児は赤橋青葉の願いで、彼と赤橋楓をここで食事させた。気持ちに正直になれない彼女を、赤橋青葉が見かねたためだ。

 そして月日が流れた今日は、その食事代の支払期限。青葉は世話になった礼にと店内を細部まで掃除し、閻魔からの特別な配慮を受けて現世へ降りている。

 このあと用事を済ませると彼はここに戻り、そして三年前のお代を支払って浄土に旅立つことになるだろう。今日で知り合いを失うことに、竜児としても感じるものがあるが……。

「寂しいですか?」

 シェフの閻魔が奥の部屋から出てくると、穏やかな声で話しかけてきた。見ると長髪に和服を着流したいつもの彼は、日本酒の瓶とワイングラス二つを手に持っている。中性的で柔和な顔立ちだが、相変わらずルーズな姿だ。

「別に寂しくないです。ただ、いなくなるのが青葉クンじゃなくて閻魔さんだったならなら幸せだなあと」

「またまた罪深い嘘を」

「正直者と自覚してるんですがね」

 竜児は表情を作らずそう答える。すると閻魔が隣の席へひょいと腰かけてグラスに日本酒を注ぎ、その一つを竜児の前に置いた。

「お酒、今日くらいはいいでしょう。お客さんの気配もありませんし」

 閻魔はにっこり笑って、自分のグラスを掲げた。迷ったが竜児もグラスを手に取り、同じ動作で乾杯を示す。

「それにしても竜児君にしては珍しく、甘い気遣いでしたねえ。三年前の青葉君の食事代、その徴収をいままで猶予(ゆうよ)してあげるなんて」

「どうでしょうね」

 竜児は反応を窺うように、チラリと閻魔を見る。

「――ただ、思い出にはより磨きをかけた方が好都合だ。閻魔さんにとってもプラスでしょう。損得でソロバン弾いただけです」

「またまた罪深い嘘を。照れているのですか? 可愛らしい」

「うるせえ」

 竜児は舌打ちを返し、目をテーブルの上に戻す。

 そしてその視線の先でテレビのように現世を映しているのは、紫苑のコントロールパネル、浄玻璃(じょうはり)鏡。そこには三年前に紫苑で食事をした、あの赤橋楓と若い男との煌びやかな披露宴が投影されていた。

「しかし」

 閻魔がグラスに口を付けてから、浄玻璃鏡に映る楓に目を凝らした。

「楓さん、あのときとは表情が違いますねえ。輝いている。良い方と結ばれたようです。冴蔵クンと言いましたか。彼が『四季』中興(ちゅうこう)の祖(そ)となれるといいのですが」

「なれますよ。青葉クンが認めた男ですから」

 竜児もグラスに口を付けて答えた。

 楓は純白のドレスを着飾り、冴蔵は全く似合わないタキシードでガチガチだ。会場も豪奢で大勢の人間が招かれており、門出を飾るのに相応しいシチュエーションだった。親戚友人に加えバーの常連もおり、その人数には二人の人柄が窺える。全員が笑顔で二人を祝うそこは、この上なく幸せに満ちた空間で……、

 ――そして現世へ下りた青葉の魂も、そこにいた。

 律儀(りちぎ)に用意された自分の席に座って、笑い合う二人を恍惚(こうこつ)として見つめている。

「良い光景です。幸せそうな彼らを見ていると心が和みますねえ。愛に輝ける彼らには、きっと幸福な未来が待っているでしょう」

 閻魔がグラスの中身を飲み干しつつ、うんうんと頷きながら言った。なにを語っても胡散臭(うさんくさ)いが……。

「ちなみに彼らって誰と誰のことです? 冴蔵クンと楓さん? それとも青葉クンと楓さんですか?」

「全員ですよ。君や私も含めてね」

「……あんたの嘘が、一番罪深い」

 竜児は言って、再び浄玻璃鏡に視線を据える。

 そしてそこにいる見知った魂に、心の中で祝いを述べた。お前がその場の隠れた主役だと、その想いに精一杯の愛を込めて。