勉強の合間に縁側へ出ると、真っ白なクチナシの花に蜜蜂が群がっていた。夕焼けの赤い光の中、なめらかな動きで花から花へと移動している。

 ――蜜を採ってる。

 桃花は、最近クラスメイトの園子と入った蜂蜜店を思い出した。

 揃いのガラス瓶にアカシア、クローバー、リンデン、リンゴなど、様々な花から生まれた蜂蜜がきらめいていた。

 それぞれ違う色合いが面白く、琥珀の展覧会のようだった。

 ――トチノキの蜂蜜が、一番きれいだった。晴明さんの髪や瞳をちょっと明るくしたような色。

「晴明さん」

 板の間を振り返ると、晴明は三毛猫のミオを撫でていた。ミオは何度も膝に乗ろうするが、その度に晴明はやんわり押しのけている。

「クチナシの蜂蜜って、どんな味がすると思います?」

「……蜂蜜はどれも似たような味だろう」

「そんなことないですよー。蜂蜜屋さんで試食させてもらいましたもん」

 桃花は板の間に戻ると、ミオを挟んで晴明の横に座った。

「たとえば蜜柑から採った蜂蜜は蜜柑っぽい香りで、さっぱりしてますよ。花や採った場所や時期で、味が変わるんです」

「そうか」

「クチナシはいい香りだから、蜂蜜もきっとそう」

「ニャ」

 低く鳴いたミオは、晴明から離れて桃花の膝に乗ってきた。

「晴明さん、この間ミオに『膝には乗せんぞ』って言ってましたよね?」

「言った」

 ミオは喉をゴロゴロと鳴らし、目を閉じている。

「人なつっこい子ですよー。どうして乗せてあげないんですか?」

 晴明は壁の時計を見て、「休憩時間が終わる」と言った。

「今日授業で聞いたことを、教科書を出さずに説明するように。各教科五分ずつ」

「……はい」

 教科書なしなんて厳しいな、と思いながら教科書の表紙に掌を置く。こうするとうまく思い出せるような気がしたからだ。

 ――あーあ。質問、無視されちゃった。

 しかし、桃花が世界史で習ったエジプトの王朝や戦車の出現について話しはじめると、晴明はうなずきながら聞いているのだった。

 いつか教えてくれるかな、と桃花は期待しておくことにした。


 翌日、高校の門を出てバス停に向かった桃花は、街路樹の脇に見覚えのある少年が立っているのに気づいた。小学校の制服に似た格好で、年齢は十歳ほど。

 晴明がそばに置いている式神、双葉だ。

 ――双葉君、どうしたんだろ?

 桃花が手を振りながら近づいていくと、双葉は背伸びをした。口の両脇を手で囲んで、内緒話をしたい様子だ。

「何、何?」

 桃花は右耳に手を添え、双葉の方へ身を傾ける。

「せいめいさまが、こねこをひろいました」

「ほんと?」

「生け垣の根元に、捨て置かれておったのです」

「ひどいね」

「面倒の見方が分からないから教えてほしい、とのことです」

「分かった。すぐバスに乗るから」

 桃花が右手を軽く挙げると、双葉は応えて手を合わせた。低めのハイタッチだ。

「では」

 双葉は脇道へと歩いていく。人目に付かないところで、蝶か鳥に変化して家に帰るのだろう。

「糸野さん。さっきの子、弟さん?」

 クラスメイトの男子が一人、自転車を停めて聞いてきた。

「ううん、近所の子。子猫拾ったから世話の仕方教えてって」

 本当は、助言を求めているのは齢千年の陰陽師なのだが。

「大変やな。育てはるん?」

 桃花は首を左右に振った。晴明の現世での休暇は、猫の寿命より短いかもしれないからだ。

「残念だけど無理だと思う。また明日ねっ」

 せわしなく手を振ってバス停へ向かう。現世における晴明の指南役として、最大の仕事がやってきた、と思った。

 

 縁側でくつろいでいる晴明の脇には、白い猫が座っていた。子猫と呼ぶにはやや大きいその猫は、布を詰めこんだ箱をじっと見ている。虹彩の色は澄んだ青だ。

「晴明さん」

「お帰り。呼びつけてすまんな」

 晴明が目をやったのは、箱の中だった。茶虎の子猫が布から頭だけ出して、もごもごと身をよじっている。目は閉じているので光彩の色は分からない。

「拾ったのって、この子ですか?」

「ああ。しばらく見ていたが、親猫が迎えに来るでもなく、飼い主が来るでもない」

「そうなんだ……」

 薄いクッキーのような前足が布からはみ出る。それに引き寄せられるように、白猫が鼻先を箱に近づけた。

「聞こうと思ってたんですけど、こっちの白猫さんは?」

「猫絵の猫だ。うちの二階に貼ってある」

 猫絵とは、鼠を撃退するのに効果があると信じられた一種のまじないだ。普通の人間が描いたものとは違い、晴明の猫絵は本当に効力があり、おまけに鳴く。

 もっとも、その猫絵は二階にあるので姿を見たのは今日が初めてだ。

「この間鳴いてた猫さんですよね? 絵から出られるんですか?」

「時々な。描かれた猫が鳴けるのだから、絵から出てくることは造作もない。そう驚くな」

「晴明さんから見れば、普通でしょうけど」

 白猫は青い瞳で桃花を見て、ニャアと鳴いた。確かについ最近、この家で聞いたことのある声だ。

「この白猫は、もともとは本物の猫だ。生まれて間もない頃に死んだ子猫の魂を絵に封じて、鼠よけの猫絵とした」

「難しい話ですけど、それ以前に、うーん」

 浮かんだ疑問に、桃花は唸った。

「生まれて間もない猫にしては大きいですよね?」

 白猫の外見は、どう見ても生後一年前後だ。

「実際の姿では、鼠を追い払う威力に欠けるからな。一歳ほどに成長した姿を紙に描いて魂を封じた。現世に住まいを移してすぐだから、つい最近の話だ」

 小柄な白猫は、舐めた前足で顔を撫でている。後ろ足を開いて腹も舐めようとしたが、すぐ仰向けにこてんと倒れてしまう。

「ミオが小っちゃかった頃みたい。頭が重いのと、体を動かすのに慣れてないせいで倒れちゃう……」

「猫としての経験が少ないからだ。母親やきょうだいと接していた時間がとても短い」

 何か思い出したのか、それとも考えているのか、晴明は庭の新緑に目を移している。

「名前、なんていうんですか?」

「まだ決めていない」

「え、どうして?」

「現世風の猫の名前はよく分からん」

 ああそうか、と桃花は得心がいった。

 晴明が生身の人間であった平安時代には猫は珍しく、主に身分の高い人々が飼っていたはずだ。

「平安時代の猫って、すごく雅な名前が付いてたんじゃないですか?」

「よく分かったな」

「漫画の『源氏物語』で、女三宮と一緒に御簾の内側に入ってましたもん」

「ああ。姫君たちの好みそうな名前が付けられていた」

 玉鬘、白梅、はやて――といった、和歌に出てきそうな名前を晴明は挙げた。

「きれいじゃないですか。雅でも現世風でもいいから、名前付けましょうよ。今」

「任せる」

 白猫は元のように座ると、再び箱の中の子猫を見つめだした。興味は持っているものの、態度を決めかねているように見える。

 青い虹彩を見て、アクセサリーショップで見た天然石を思い出す。ラピスラズリ、日本での名前は瑠璃。

「瑠璃ちゃんって、どうですか? 目の色が青いから」

「良い。ありがとう」

 晴明が首肯した時、桃花の家の方から猫の鳴き声がした。

「ミオ! ただいまー」

 両家の境界となっている生垣をくぐって、三毛猫のミオがこちらへやってきた。

「おいで。足、拭こう」

 沓脱ぎ石に乗ってきたミオを膝に抱き上げて、桃花はバッグからウェットティッシュを出した。 

「汚れた足で晴明さん家に上がっちゃ駄目だからねー。ごめんね、じっとしてて?」

 肉球を丁寧に拭いている間、ミオはウミャウミャと鳴きながら身じろぎしていた。

「はい、終わり。えらかったね」

 ミオは膝の上で「ニャッ」と鳴くと、桃花の指や手の甲を舐めはじめた。

「皮膚の塩分を取られているぞ、桃花」

「違います。愛情表現ですっ」

 断言した。なぜならミオは喉を鳴らし、長い尻尾を桃花の腿にぴったり添わせているのだから。

「とにかく、この茶虎さん、猫用ミルクか離乳食が要りますよ」

「猫用ミルクならやった。近くのドラッグストアで売っていたのを」

「わ、すごい」

 褒められても、晴明は大して嬉しくなさそうだ。

「以前、桃花から教わった店だからな。それくらいは分かる」

「じゃあ、次は病院で健康状態のチェックですね。この子、目が開くの遅いみたいだから心配……」

 桃花の不安げな声に反応したのか、ミオがまた手の甲を舐めてきた。まるで慰めるかのように。

「うん、大丈夫。わたしは大丈夫だから」

 その言葉を理解したのかどうか、ミオは手の甲を舐め続けている。

「どうした、瑠璃」

 問いかけるように、晴明が呼んだ。瑠璃は、青い目でミオを見ている。正確には、桃花の手を舐めているミオの口元を。

 瑠璃が箱に近づいた。

 茶虎の頭を、ちろちろと舐める。茶虎が「ミィ」と高い声で鳴く。

 瑠璃が箱に入り、茶虎を抱えこんで丸まった。母猫が我が子を可愛がるように、繰り返し喉元や顔を舐めてやる。

「晴明さん、これって晴明さんの陰陽術、じゃないですよね?」

 確信をもって桃花が言い、晴明がうなずく。

「瑠璃の意志だ。ミオと同じことをしている」

「愛情表現ですよね。ハグしてる」

 桃色の舌で舐められている子猫の顔を見ているうちに、桃花はあることに気づいた。細い線だった目が、左だけわずかに開いている。だんだんと、線から黒っぽい紡錘形になっていく。

「晴明さん、目! 左目が開いてます」

「ああ」

 開いた左目は腫れぼったい。しかし茶褐色の光彩と、黒い縦長の瞳孔がはっきり見分けられた。

「まぶたの内側が炎症起こしてるのかも」

「ああ。見えてはいるようだが」

 桃花と晴明が見守っているうちに、右目も同じように開いていく。

「手柄だな。ミオも瑠璃も」

 すっかり目の開いた茶虎の体に白い前足を巻きつけて、瑠璃は一心不乱に舐めてやっている。

 ここは安心だ、お前は守られている、と分からせるかのように。

「瑠璃はミオから子猫の可愛がり方を学び、瑠璃から力を得た子猫は両目を開いた。自分に触れてくるのが何者なのか、見たいという欲求も生まれただろう」

「生物学の話ですか?」

「命がどういう挙動を見せるか、という話だ」

 晴明は生物学よりももっと根源にある、命の在り方の話をしているようだった。

「ミオのおかげで瑠璃が猫らしくなった。礼を言う」

 晴明は、桃花の膝に座っているミオの頭を撫でた。

 経験の少ない瑠璃が猫らしいしぐさを身につけるのを、きっと待っていたのだろう。

「もしかして、晴明さん」

「何だ」

 喉を鳴らすミオの頭から手を離し、晴明が琥珀色の瞳で桃花を見る。

「ミオを膝に乗せてあげないのは、瑠璃ちゃんがもっともっと猫らしくなって、なついて膝に乗ってくるのを待ってるから、ですか?」

 口元を柔らかに緩ませて、「さあな」と晴明は言った。

「ずーるーい」

 不満の声を上げた時、桃花のスマートフォンが鳴った。ショートメッセージが届いたらしい。

「珍しい。何だろ?」

 高校から帰る時、話しかけてきたクラスの男子からだ。

 京都市内に住む知り合いが猫を飼いたがっている、里親がまだ見つかっていなければ譲り受けたい、という内容であった。

「良かった。もう声がかかるなんて、すごくラッキーな子ですよね茶虎ちゃん」

 まだ話が決まったわけではない――と注意されるかと思ったが、晴明は微笑を浮かべて予想もしないことを言った。

「好かれているな、桃花」

「え? え? わたし?」

 戸惑う桃花の膝からミオが下りて、茶虎と瑠璃のくるまっている布にじゃれつきはじめた。

「知り合いが子猫を拾った、という桃花の話だけで貰い手を探してくれるとは。なかなか熱心な若者だ」

 晴明は所感を述べながら、瑠璃を撫でてやっている。

「何でそうなるんですか。わたしじゃなくて猫が好かれてるんですっ」

 本気で否定した。相手は同じクラスとはいえ、あまり話したことのない男子だ。

「仲いいかどうかで言ったら、美術部の男子の方がよく話しますよ? 言いがかりです、心外です」

「桃花がそう言うなら、口は出すまい」

 あっさり引っこんで猫たちに視線を戻した晴明に向かって、一瞬だけ舌を出す。

「授業の開始が遅くなったが、どう組み立てようか」

「古文の予習は帰ってから自分でやりまーす」

「よし」

 桃花は返事のメッセージを入力しはじめた。

「『ありがとう。これから写真撮って送ります。茶虎ちゃんで、ちょっと目が腫れぼったいです。知り合いの人が気に入ってくれたら、お父さんかお母さんと一緒に車で連れていきます』……っと」

 あくまで事務的な内容なのだと強調したくて、わざとメッセージの内容を口に出す。

 晴明はそんな桃花の意図にも気づかぬ風で、「すぐ引き離してすまんな」と子猫を抱える瑠璃に話しかけている。

 夕風が吹いて、猫たちの憩う縁側にクチナシの芳香が躍った。