『真紘さん! 悠貴君の文化祭、慧星祭がもうすぐ始まります。生徒会もバタバタしてきました。にぎやかなお祭りになりそうで、とっても楽しみです!』

 メールの文章を打ち終え、小野寺美久は先ほど撮った写真を添付した。映し出された画像に思わず頬が緩む。その時、後ろから声が響いた。

「おい、巡回に出るぞ」

 振り返ると、すらりと背の高い高校生がいた。柔らかな黒髪に、柔和に整った顔立ち。王子様という言葉がぴたりとはまりそうな端整な顔をしているが、眼鏡の奥の目は理知的で、一筋縄ではいかない強さが窺える。

 今日も一分の隙なく制服を着こなした上倉悠貴が、「行くぞ」と言い置いて生徒会室を出た。

「あっ、待って」

 美久はスマートフォンの送信ボタンをタップして、悠貴を追った。

「文化祭、楽しみだね!」

「まあな」

「どんな出し物があるのかなあ」

 声を弾ませ、美久はこれから始まる文化祭に思いを馳せた。


 ――そして、同時刻。

 緑深い井の頭恩賜公園のほとりの建物で、スマートフォンが美久からの新着メール受信を告げた。

 メールを受け取ったその人の、慌ただしくも不思議な一日が始まろうとしていた。

 自宅の玄関を出たところでメールを開いた上倉真紘は笑顔になった。添付された画像には、手作りの看板やポスターで彩られた教室の廊下と、笑顔の高校生たちが映っている。赤い腕章をつけているので全員生徒会だろう。弾ける笑顔の少女に、カメラに近づいてピースする小柄な男子、それをうるさそうに眺める長身の学生、と一瞬の中にそれぞれの個性がよく出ている。その中にすまし顔で微笑む弟を見つけて真紘の笑みは深くなった。

 九月最後の日曜日。あと三十分もしないうちに弟の学校で文化祭が始まる。

 見上げた空は良く晴れ、白い雲がぽっかりと浮かんでいた。絶好の行楽日和だ。

 喫茶店を営む身としては日曜はかき入れ時なのだが、家族の晴れの日を見逃すわけにはいかなかった。高校二年生の文化祭は一生に一度きりだ。写真もたくさん撮ってやりたい――悠貴は嫌がるだろうが。

 悠貴は素直じゃないからなあ、と真紘は内心で微笑み、『臨時休業』と書かれた紙を手に二階の外階段を下りた。喫茶店エメラルドは自宅一階で経営しているので、すぐそこだ。建物を回り込んで店の正面に出て、真紘は、おや、と足を止めた。店の玄関に思わぬものが落ちていた。

 人である。

 サックスカラーのデニムに七分丈のTシャツを着た若者が戸口に手を伸ばした恰好で倒れていた。まさに行き倒れという風情だ。

 常人なら驚いて声を上げる場面だが、真紘は動じることなく青年に近寄った。

 大学生だろうか。顔は見えないが、髪はやや赤みのある優しいシナモン色をしている。見たところ怪我はない。春先であれば酔いつぶれた花見客かと思うが、今は九月下旬、夏休みでむちゃな酒の飲み方をしたと考えるにも少々季節外れだ。

 真紘は青年のそばに膝をついて、優しく肩を軽く叩いた。

「おはようございます」

 青年がうめいた。

「どうしましたか、気分がすぐれませんか」

 もう一度呼びかけたが、声が不明瞭で聞き取れなかった。

 弱ったなあ。どういう状況で倒れたのかわからないので、うかつに動かせない。持病で倒れたのであれば、医師の助けが必要だ。

 救急車を呼ぼうか。真紘が立ち上がろうとした時、不意に腕を取られた。

 青年が真紘の腕を掴んでいた。彼は顔を上げると、気力を振り絞って言った。

「腹、減った」

 そう残して、がくっ、と地面に落ちた。


 数十分後。オークの無垢材のテーブルに空の皿が並んだ。ビーフカレーにベイクドチーズケーキ、真紘が自宅から持ってきた握り飯三つも完食だ。

「ごちそうさん」

 ぱん、と両手を合わせ、青年が満足そうに息を吐いた。

「お粗末様でした」

 真紘はカウンターを出て、淹れたてのコーヒーをテーブル席へ運んだ。店内に他に人はいない。扉に臨時休業の張り紙をしたので、客が来ることもないだろう。弟の文化祭は始まってしまったが、夕方までやっているので青年を休ませてから向かっても十分間に合う。

 真紘はコーヒーを青年の前に置いて、テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした。

「顔色がずいぶん良くなったね。ええと――」

「鈴木。スズでいいよ」

 そう言って、青年は気さくに笑った。

 スズとは初対面だ。仕事柄顔の覚えのいい真紘は一度会えば大抵の顔を忘れない。俺じゃなくてもスズと会えば忘れられないか、と真紘は目を細めた。

 明るい茶髪に、耳や指にシルバーアクセサリーが光る。きりりとした顔立ちの派手な風貌だが、眼差しはやんちゃな少年のようだ。ともすれば馴れ馴れしい態度も彼にはよく似合っていた。大人びた印象と無邪気さが混在する、不思議な人だ。

「スズはどうしてうちの前で倒れていたのかな。ここは駅から遠いし、まわりは森で商業施設もないから……遊びに来て迷子になったわけじゃないね」

 すぐに答えはなかった。スズはコーヒーを一口飲んでカップをソーサーに戻すと、神妙な面持ちでレジの方を指した。

「ここであってるよな」

 示された方を見なくともわかった。レジ奥の壁には張り紙がある。

〈貴方の不思議、解きます〉

 一文きりの文章の意味を理解する人は多くない。ただ、その存在を必要とする人を除いて。

「探偵に会いたいんだ」

 スズが確認するように言った。真紘は驚かなかった。

 スズの服装は井の頭公園へ散策に来る客のそれとまるで違う。しかも空腹で倒れるまで店の前で待っていたのだ、出会った時からわけありだろうと感じていた。

 喫茶店として営業するエメラルドだが、実は探偵と依頼人を繋ぐ窓口でもある。

 探偵業を取り仕切るのは弟の悠貴だが、その不在中に依頼人が訪れることはままある。そういう時は真紘が話を預かるのが慣習だ。勝手に依頼を引き受けたり気を持たせる返事をしては、かえって依頼人を傷つけるからだ。

「話を聞いてからでないと判断できないけど、構わないかな」

 真紘が説明してそう結ぶと、スズはほっとした顔で頷いた。

「よかった、すげえ助かる。知り合いがやばいことになってて、どうしようかって思ってたんだ。警察も頼れないし。実は先日――」

 スズが言いかけた時、突然ドアベルがけたたましく鳴り響いた。

 何事かと真紘が振り返ると、入り口に息を切らせた男がいた。どうやら臨時休業の張り紙を見落としたらしい。これでは落ち着いてスズの話を聞けない。

 すみません、今日は休業なんです、と真紘が伝えようとした時だった。

「あなた探偵さん!?」

 男が叫んだ。目を白黒させる真紘を尻目に、男は閉めた扉にぴたりと身を寄せて鋭い声で早口に言った。

「助けてください! まずいことに巻き込まれて、このままじゃ俺っ」

 急に言葉を呑み込むと、男は身を強張らせた。パタパタと足音が聞こえた。音は次第に大きくなり、一直線に向かってくる。次の瞬間、店の扉が勢いよく開かれた。

「みぃーつけた!」

 飛び込んできたのは、小学校低学年くらいの女の子だ。頭の両側に結んだリボンを揺らして、にっこりと男に笑いかける。とたんに男は震え上がった。

「どうしたの、パパ?」

 小首を傾げる少女を無視して、男は勢いよく真紘を振り返った。

「こ、ここここの子知らない子なんです、家に帰してやってください!」

 あれ、今女の子が『パパ』って呼んだような……?

 真紘がきょとんとしている間に、少女が頬をふくらませて男に抗議した。

「ひどいパパ!」

「パパじゃない!」

 男は鋭く叫び、すがるような目で真紘を見た。

「本当です、本当にこんな子ども知らないんです! いきなり現れて俺にまとわりついてきて……どうにかしてください!」

「ネグレクトはだめだよパパ」

「だからパパじゃないって言ってるだろ!」

 押し問答を始める男と少女を前に、スズがうなった。

「あー、俺の依頼よりあっちが先でいいよ」

 なんか大変そう、と呟く声に、真紘は深く頷いた。


『エメラルドの探偵』は都市伝説のようなものだ。まことしやかに囁かれる噂でしかなく、その話を信じてここを訪れる者は決して多くない。依頼人が重なること自体異例な上に、その探偵の不在中とは何とも間が悪い。

 どうしたものかな、と真紘はテーブル席に新たに加わった二人を眺めた。

 正面に男と少女が並んで座っている。男は三十代半ば。Tシャツにスウェット姿で、無精ひげを生やしている。髪には寝癖がついたままだ。一方少女は花柄のワンピースを着て、両サイドの髪を少量リボンで束ねて肩にたらしている。よそ行きとまでいかないものの、男に比べてきちんとした服装だ。二人の表情も対照的だった。くたびれきった男と、楽しそうににこにこする少女。なかなか不可解だ。

 真紘は小さく咳払いして、男を見た。

「お話を伺う前に。大変申し訳ありませんが、探偵は今外出していまして」

「えっ、あなたが探偵じゃないんですか?」

「ええ」

「じゃあ、あなた?」

 男が真紘の隣に座るスズに目を向けた。スズが肩を竦めると、男は目に見えて落胆した。頼りにして来たのに、梯子を外されたように感じたのだろう。見放す気はないことと支払いについて簡単に説明すると、少し落ち着きを取り戻したようだった。

「探偵は六時頃戻ります。依頼相談はそれからになりますが、構いませんか?」

 男の表情が明るくなった。

「じゃあ引き受けてもらえるんですね!」

「それはお話を伺ってからでないと……まず、お名前を教えていただけますか」

「あ、申し遅れました。藤村健作です」

「藤村栄子、小学三年生です」

 すかさず少女が名乗り、「パパがおさわがせしてすみません」とぺこりと頭を下げた。

 とたんに藤村が頭を抱えて「はあああ」と深い溜息を漏らしたが、栄子はその反応すら予期していたらしい。「ごめんなさい。パパは二日酔いで、まだ頭が痛いみたいです」とそつなくフォローを入れた。まだ小さいのに、しっかりしている。

 真紘は感心しながら、頭を抱える藤村に目を戻した。

「ところで藤村さんは当店へ来るのは初めてですよね。失礼ですが、どこかでお会いしていませんか? お顔に覚えがあるのですが……」

「あ、わかっちゃいましたか?」

 答えたのは栄子だ。

「きっとテレビです。パパはふだんはかっこいい俳優さんなんですもん」

 鼻高々に言うのを聞いて、合点がいった。

「ああ、そうか、『おののこまち』。トレンディドラマで主人公の恋敵を演じられていましたね。病院の御曹司で、人が良くて少し抜けたところのある」

 へえ、とスズが興味深そうに藤村を眺めた。ぼさぼさ頭と無精ひげで想像しにくいが、整えれば確かにテレビ映えする顔で、かなりの二枚目だ。

 当時、新星のごとく現れた若手俳優にお茶の間の女性たちは「あの人は誰?」と大いに沸いた。しかしその人気も一年ほどで陰りを見せ、現在藤村健作という役者を思い出す人は少ないだろう。その証拠に、藤村の顔がぱあっと輝いた。

「ご覧になってたんですか! 久しぶりです、そう言ってもらうの!」

「ええ、毎週かかさず。すごい人気でしたね。うちの店も放送の翌日はドラマの話で持ちきりでした。主役の会社員と御曹司のどちらがいいか、女性客がよく話題にしていましたよ。もう八年前になりますか」

「そうですそうです。やあ、嬉しいなあ」

 照れくさそうに頭を掻く藤村に、「それよりさ」とスズが話に割って入った。

「そのちっさいのが娘じゃないって、どういう話?」

「あっ、それですよ!」

 藤村は声を大きくして、テーブルに身を乗り出した。

「朝、寝てたんです。久しぶりにドラマで良い役がもらえて、前日からマネージャーと祝杯を上げてたんですよ。明け方の五時くらいにふとんに入って、気持ちよーく寝てたんです。そしたら八時くらいにチャイムが鳴って」

 無視したが一向にチャイムは鳴り止まない。藤村は酒の抜けない体を引きずって、ベッドを出たという。そして玄関を開けると、明るい日差しの中に栄子がいた。

 栄子はぺこりとお辞儀すると、こう切り出した。

「ママが死にました。私は身寄りがありません。このままでは施設に入れられてしまいます。あなたがパパであることはママから聞いています。ですから、義務教育が終わるまで養育してください」

 その時を再現するように藤村は裏声で言い、急に地声に戻って訴えた。

「ねえ、俺の驚きがわかります!? 玄関開けたら子どもがいて、しかもパパって!」

「そうですね……なかなかドラマチックな展開ですね」

「ドラマチックどころかサスペンスですよ! 何で朝からこんなことに……もう最悪ですよ!」

「確かに独身俳優にこういうスキャンダルはまずいよな」

 スズが言うと、藤村は我が意を得たりと言わんばかりに強く頷いた。

「そうです、そうなんです、こんなのあんまりです!」

「けど身に覚えあるんだろ?」

 スズの切り返しに、一瞬藤村の顔がムンクの叫びのようになった。

 あ、覚えがあるんだ。真紘は察した。察したが、かける言葉に困る。

 気まずい沈黙を破ったのは朗らかな声だ。

「パパとママは一夜かぎりのカンケーだったそうです」

 栄子は笑顔で溌剌と答えた。

「出会いは九年前。私は生まれていませんので、聞きかじったていどですが、とうじのパパはイケイケだったのです。これ、どうぞ」

 栄子は膝に置いた小さなバッグから写真を取ると、真紘に差し出した。

 写真には親しげに肩を寄せた若い男女が写っていた。パーティー会場のようで二人は華やかな衣装に身を包み、シャンパングラスを手にしている。女性は知らない顔だが、隣に立つ男性は誰かすぐにわかった。

「藤村さんですね」

「そうです……。た、たぶん大御所俳優か女優さんの誕生日パーティーです。こういうイベントって結構あって、どの会だったかな……」

「隣の女性はどなたですか?」

「……そ、それを覚えてたら苦労しないというかなんというか」

 ごにょごにょと歯切れ悪い藤村に代わって栄子が言った。

「とうじ、パパは『劇団スイッチ』のかんばん俳優でした。演出家でも有名な野田かんとくの舞台に特別出演して、公演は大成功。パパはいちやく有名人になりました。写真はそのころのです」

「お前、小っちゃいのにハキハキして、しっかりしてんな」

 スズが褒めると、栄子は「ありがとうございます」と微笑んで話を続けた。

「急に人気者になったパパは調子にのって、浮き名をたくさん流しました。ママと知り合ったのもそのころです。写真のパパのとなりにいるのがママです。ママの腕時計を見てもらえますか?」

 女性の右手首に赤い腕時計がはまっている。ブランド品だろう、革ベルトはバラ色で時計の部分も洒落ている。

 コト、と音が聞こえて真紘が顔を上げると、栄子が写真と同じ時計をテーブルに置くところだった。

「パパが買ってくれたそうです。限定モデルで高いから、ビンテージになったら売るのよ、とママが言っていました」

「本当ですか?」

 真紘が視線を向けると、藤村は精気の抜けた顔で遠くを見つめた。

「そんな記憶もあるような、ないような……」

「パパはママに一目ぼれしたそうです。それはもうゾッコンで『百回記憶をなくしても百一回あなたにほれる。あなたは僕の女神だ』と口説きまくったそうです。『おののこまち』の名ゼリフですね」

「本当ですか?」

「た、確かにそんな台詞をおふざけで使ってましたけど……! あれは皆が喜んでくれるからで、俺って人気者だなあって嬉しくて、若気のイタミというか何というか」

「それを言うなら若気のいたりだよ、パパ」

 栄子が訂正すると、藤村はキッと隣に座る栄子を睨んだ。

「とにかく俺に娘はいないんだ! 目的は何だ、金か!?」

「ひどい、どうして私がそんなこと!」

「だっておかしいだろ、いきなり現れて俺の娘とか! 本当に身寄りがないとしても子どもが朝っぱらから一人で来るか!?」

「だって早くパパに会いたかったんですもん。ママがいまわのきわにパパのことを教えてくれて、本当によかったです。とうめんの心配がなくなりました」

「なっ……! で、でででもおかしいっ! 何がって、その何だよ……あっ、母親の名前! いくら名前を訊いても答えないじゃないか!」

「そんなの覚えてないほうがおかしいんです」

 栄子はばっさり切り捨て、さらに続けた。

「私はしょうしんしょうめい、パパの娘です。パパは私が娘じゃないと言いますが、そう言うならしょうめいしてください。私が娘じゃないしょうこはありますか? ないですよね。しょうこがない以上、私を無視できません。DNAかんていでも何でもどうぞご自由に。ですけど、そのあいだ私をきちんとよういくしてください」

 藤村はがっくりうなだれた。小学生の言い分に手も足も出ないようだ。

「悪魔の証明みたいだな」

 スズは面白がって笑ったが、当人は笑い事ではない。

 藤村が涙目で真紘に訴えた。

「もうすぐ地方ロケがあるんですよ、そこにこんな子ども連れていったら、どう思われるか……。探偵って人捜ししますよね? ほら、家出人捜索とか捜し人とか!」

「迷子を捜すことはありますが、『この子誰ですか』というのは初めてですね」

「そこを何とかお願いしますよ!」

「でしたら栄子ちゃんの母方のご親族や小学校を当たられては――」

「だから口を割らないんですって、こいつ!」

 栄子はつんと顎をそらした。

「当たり前です。私は怒ってるんです。みんな私を子どもあつかいするからいけないんです。パパのこと、もっと早く教えるべきです。私にはその権利があります。しかも私をにんちしていないなんて。パパはサイテーです、少し困ればいいんです」

「ああっ、もう! とにかく今すぐ何とかしてください! こんなことが事務所に知れたらどうなるか……! 解決してくれるまで絶対ここを動きませんからね!」

 真紘は弱って、頤に手をやった。

 悠貴に連絡すれば、すぐに戻ってくるだろう。しかしそれではせっかくの文化祭が台無しになってしまう。今日のために毎日遅くまで学校に残って頑張っていたのに、そんなことはさせたくない。今日くらい友だちと楽しく騒いでほしい。かと言って、藤村ものっぴきならない状況だ――

 その時、コンコン、と扉をノックする音がして思考が打ち切られた。目を向けると扉のガラス越しに常連客の姿が見えた。介護職に就いている四十代の女性だ。

 臨時休業の張り紙は見えるはずだが、どうしたのだろう?

 真紘は藤村たちに断って、入り口に向かった。扉を開くと、常連客は申し訳なさそうな表情を浮かべた。

「ごめんね、今日お休みよね。わかってるけど、少しだけお店を開けてもらえない? 場所を貸してくれるだけでいいから」

 お願い、と顔の前で手を合わせられては事情を訊かずにはいられなかった。

 訊けば、仕事の勉強会のためにコミュニティーセンターの会議室を予約したが、日付を間違えて取ったらしい。他の会議室は使用中で場所が取れず困っていたところ、店の前を通りかかり、明かりに気づいたとのことだった。

 店の前の小道を見ると、十人ほどの人が気を揉んだ様子でこちらを窺っていた。皆常連客か店に来たことのある人だ。

 真紘は店内に目を戻した。テーブル席にはテコでも動かないという顔をした藤村と自称その娘の少女がいる。栄子の表情は硬い。悠貴の戻る六時過ぎに出直してもらう方がいいのだろうが、とてもそんな空気ではなかった。それにスズの依頼もまだだ。

「あのさ」

 声をかけられてはっとすると、スズがそばに来ていた。

「その人たち行くとこないんだろ? 店、開けてやれば?」

「そうしたいけど、藤村さんたちも気がかりだし、俺一人であの人数は……」

「俺が手伝うよ」

 思わぬ提案に真紘が目を瞬くと、スズは気さくに言った。

「どのみち夕方まで探偵は来ねえんだろ? メシもご馳走になったし、そのお礼ってことで。藤村さんもこの店手伝うよな?」

 スズがテーブル席の藤村に声を投げると、「ええっ!」と藤村は慌てた。

「なんで俺が……」

「じゃあ藤村さん子連れで外で待つ? それこそスキャンダルの元だろ。店を手伝って好感度上げとけば、探偵も一所懸命依頼を解決してくれると思うけどなあ」

「えっ、そうかな? ……そういうことなら、手伝おうかな」

「よし、決まり。人材確保もできたぜ」

 スズに得意満面で言われ、真紘は思わず笑みを漏らした。

 困っている常連客も藤村たちも放り出すわけにはいかない。店を開ければとりあえず問題を回避できる。何より、悠貴には今日一日文化祭を楽しんでほしい。

「ありがとう、スズ」

 真紘は入り口の扉を大きく開けて休業の張り紙を剥がし、常連客に告げた。

「少し時間をいただけますか。今店を開けます」




 開店すると決めたからには半端なことはできない。まずは清掃だ。いつも営業後に清掃しているので、開店準備では軽く箒をかけてテーブルを整えるだけで時間はかからない。問題は店員だ。

「店長さん、その方はあまり店員っぽくないですけど、いいんですか?」

 似たようなことを考えていたのか、栄子がスズを見上げた。シナモン色の髪が目を引くが、耳や指に光る大量のアクセサリーもかなりの存在感だ。

「平気だよ、俺モテるから」

 てらいもなく言ってスズが笑った。モテるかは措いておいて、接客では身だしなみや清潔感が重要だ。真紘は「指輪は外して」とスズに頼み、藤村を振り返った。

「藤村さんはひげを何とかしていただければ。二階の洗面台を使ってください。服は俺のを貸しますから、ついてきてください」

 藤村を連れて裏口へ向かうと、すかさず栄子の声が追ってきた。

「にげてもおうちの場所はわかってますからね、パパ」

 藤村がぎくりとした様子で首を竦めた。実行はしないだろうが、頭の片隅にそんな考えがあったのだろう。

 栄子ちゃん、本当にしっかりしてるなあ、と真紘は内心で微笑んで裏口を出た。藤村を自宅の洗面台に通して着替えを渡し、とんぼ返りで店へ帰る。開店までの段取りを考えながら客席に入り、真紘は目を瞬いた。

 思いもよらずテーブルのセッティングが終わっていたのだ。

「早いじゃん。箒がけ終わってるよ。台拭きも勝手に借りてる」

 カウンターにいたスズが栄子に固く絞った台拭きを手渡しながら真紘に言った。

 頼まなくても動いてくれるとは、若いのに目端が利く。

「ありがとう、スズ。こっちを手伝ってもらっていいかな」

 真紘はスズとバックヤードへ向かい、棚からクリーニング店のビニールがかかったサロンエプロンを二枚引き出してスズに手渡した。

「調理をスズか藤村さんに頼みたいんだけど、いいかな」

 スズは「いいよ」と答えてから、首を傾げた。

「けどこの店、休みの予定だったんだよな。料理の仕込みとかねえの? ケーキとか時間のかかるヤツはどうする?」

「大丈夫。焼き菓子とケーキはストックがあるから」

 これまで定休日の前日は在庫を出さないように数量を減らしていたが、品切れになって潜在客を逃すことがままあった。最近、それを解消してくれた人がいる。

「四月から働いている人がすごく料理上手で、メニューから見直してくれたんだ。生クリームを使ったものは傷みやすいから、定休日前は日持ちする焼き菓子やパウンドケーキの点数を増やすようにしてね。少し置いた方が味が馴染むし、注文が入ってからホイップクリームをトッピングすれば、もっと美味しいんだ」

 残った食べ物を廃棄する心配が減り、しかも美味しく食べられるので一石二鳥だ。今日のような急な営業もそのアイデアに助けられている。

「へー、良い人見つけたな」

 真紘は頷いて、春の朝に忽然と店に現れた美久を思った。

「彼女のケーキはとても評判が良くて、それを目当てに来るお客さんも増えているんだ。だけど一番すごいところは常連さんの好みをしっかり覚えていて、その人の好きな味に調えてくれることかな。あの品質での提供は無理だから、今日はメニューを変えて対応しないといけないけどね」

 個人経営のカフェでは、チェーン店と同じように業務用レトルトを使う店が少なくない。何十種類もの飲み物を提供する傍ら、多彩な料理を出すのは人件費と調理スペースの面で無理があるからだ。エメラルドも半年前までメニューの半分をレトルトに頼っていた。レトルトは誰が作っても同じ品質で提供できるのが魅力だが、今は美久のおかげで八割方手作りだ。彼女が休みの日は前日に仕込みをしたり、当日の朝に悠貴が手伝ったりして、注文を受けた時に簡単な調理で出せるようにしている。しかし今日はその準備もない。

 美久がいれば、と思ってしまうのは、それだけ頼っている証拠だ。

 小野寺さん、どんどんなくてはならない人になっているなあ。悠貴に給料を上げるように言わないと、と真紘は心に決めて、スズに目を戻した。

「ケーキの盛りつけ方はその人が作った調理用のメモと写真があるから難しくないよ。わからないことがあったら俺に訊いて。あとは料理だね」

 想定外のことが起きても臨機応変に対応できるのが個人経営の強みだ。真紘は部屋の隅に積んだダンボールを開いて中を探った。

「上倉さんは料理しないの?」

 スズの声に真紘は振り返らずに答えた。

「するよ。作るのも好きだけど、禁止令が出ていて」

「禁止令?」

「作ったらだめって弟に言われているんだ。普段は弟か別の人に任せているよ」

「ふーん。弟って料理上手いの?」

「上手いよ。この頃忙しくて、うちでは手抜きばかりだけどね」

「仲いいんだな」

 スズが笑った時、探していた物が見つかった。

 高さ一メートルほどの長方形の黒板とチョークの箱だ。ダンボールの後ろに立てかけたイーゼルを引き出して、真紘はスズの方を向いた。

「店にあるレトルトと簡単にできる料理を教えるよ。その中からスズの作れるものをここに書いてくれるかな」

「そんなテキトーでいいの?」

「うん、そうしないとお客さんが臨戦態勢になるから」

 怪訝な顔のスズに「すぐにわかるよ」と真紘は請け合った。


 二十分後、いつもより遅い時刻にエメラルドは開店した。十人の団体客が入ったので店は賑やかだ。カウンターで湯を沸かしながら、真紘は藤村の接客を見守った。