3回表


 金で売られた。

 九歳のときだ。

 林の家は、貧しかった。加えて、賭け事で膨らんだ父親の借金も、家計に重く圧し掛かっていた。病弱な母親が、女手ひとつで二人の子を養うのは厳しい。林は幼いながらも、望みのない家庭の現状をよく理解していた。

 怪しげな男が、頻繁に林の家を訪れていることも知っていた。男は人身売買の買い付け役で、母に子供を売るよう執拗に迫っていたことにも、林は気付いていた。その度に、彼女は強く断っていた。それでも男はやってきた。日に日にやつれていく母を、『どちらかを手放せば楽に暮らせる』と唆した。彼女は我が子を守ろうと、頑なに首を左右に振り続けた。

 もう十分だ、と思った。

 それだけで十分だった。彼女のその姿だけで、よかった。幸せだった。母がこれほどまでに、自分たちを愛してくれているのだから。十分だ。これ以上、なにもいらない。そう思った。



 三日後、林は家族の元を離れた。

 出発は夜中だった。まるで家畜のように林は荷台の檻に押し込まれ、男の運転する車は発進した。

 舗装されていない田舎道を、半日の間、休憩もなく走り続ける。揺れが激しく、車酔いは避けられなかった。何度か吐きそうになるのを、口を押えて耐えた。林は一晩中、寒さと気分の悪さに体を震わせた。

 目的地に着いたときには、朝を迎えていた。

 長旅で、林は疲弊していた。ふらつきながら地面に降り立ち、建物を見上げる。目の前には、コンクリートの外壁が聳え立っていた。

『この工場は、元々刑務所だったのを、立て直して再利用してんだ』男が言った。

 たしかに、見るからに閉鎖的な建物だ。有刺鉄線付きの高い塀に覆われていて、中のようすは窺うことができない。一度入ると二度と外に出られないような、そんな恐ろしい印象さえ覚えた。

『工場といっても、つくられるのはお前の方だがな』男は笑っていた。『ここは人間の工場なんだ。まだ試験的ではあるが、今年から少年の兵器をつくることにした。お前は今日から五年間、この中で特殊な訓練を受ける』

 人間の工場、少年の兵器、特殊な訓練――理解しがたい言葉が、男の口から次々に飛び出す。

『人を殺す勉強をするのさ。立派な殺人兵器になって、裏の組織に買ってもらえるようにな。殺し屋になる奴もいれば、スパイや軍人になる奴もいる。テロリストになる奴もいる』

 続く男の言葉に、林はさらにぞっとした。

『一昨日、訓練生がひとり死んで、ちょうど欠員が出たんだよ。運がよかったな、お前。でなきゃ今頃は、切り刻まれて臓器売られてるか、金持ちのペド野郎に売り飛ばされてたぜ』

 固く閉ざされた鉄扉の前で、深緑色の制服姿の男が直立している。門番だろう。彼らに、買いつけ役の男はなにかを言伝てした。門番は頷き、建物の中へと消えていく。

 しばらくして、通用門が開いた。現れたのは、別の男だった。門番と同じく、軍服のような形の服を身にまとっているが、色が違う。帽子からブーツの爪先まで、全身が漆黒に包まれている。

 林はその男の顔を見上げた。目は窪んでいて影ができている。頬はこけ、不健康そうな顔つきだが、体は大きくがっしりとしていた。歳はわからない。ぴんと伸びた背筋。無駄のない動き。やたらと威圧感がある。いったい何者なのだろうか。得体の知れない、不気味な男だった。

 買い付け役は、その男を『教官』と呼んでいた。

 教官は男に札束を渡した。林が渡された分と比べ、三倍の分厚さはあった。金を懐にしまい込むと、『せいぜい頑張れよ』と言い残し、男は去っていった。

 教官は、林をじっと見下ろしてから、視線だけで『ついてこい』と合図した。

 彼に続いて通用門を潜り、林も中へと入る。

 堅固な外壁に囲まれた敷地内には、いくつかの建物が並んでいた。なかなか古い施設である。すべて鉄筋コンクリートでできていて、老朽化が進んでいた。腐食し、ひび割れも見られる。中央には見張り塔があり、ライフルを担いだ男の姿が見えた。侵入者や脱走者がいないかと目を光らせているようだ。

 それにしても、どの建物も気が重くなるような色合いである。灰色の壁、黒い扉、濁った硝子。嫌な場所だ、と思った。敷地内に足を踏み入れたときから、妙な息苦しさを感じていた。空気は澱み、施設全体が鬱々とした雰囲気に包まれている。おまけに今は天気も悪い。排気ガスと黄砂のせいで、空は汚く濁っていた。どこに視線を向けても、モノクロ写真のような色味のない景色ばかりが続いている。

『ここでは、私の言うことは絶対だ。いいな?』

 教官が口を開いた。感情が削ぎ落ちてしまったような、抑揚のない声色で続ける。

『他人を一切信用するな。信じられるのは自分だけだ。それが、この施設での――いや、これからの人生の教訓となるだろう。覚えておけ』

 低いが、よく通る声だった。

 大股でずかずかと進んでいく教官の背中を、林は小走りで追いかけた。やがて、ある場所に辿り着いた。扉の前には、見張り役が二人、退屈そうに立っていた。

 第一監房棟――扉にはそう書かれていた。

 鉄扉を開けると、そこは牢獄だった。

 通路を挟んで向かい合うように、鉄格子の扉がいくつも並んでいる。それぞれの独房の中には、自分と同い年くらいの子供が閉じ込められていた。怯え、警戒した表情で、檻の中からこちらを見つめている。どの顔にも生気がない。まるで捕虜の集まりだ。自分もいずれは、あんな風になってしまうのだろうか。人生の目的を見失ったかのような、生きる屍に。

『ここでは、常に二人一組で行動する。同じ部屋の者が相棒となる。すべてが連帯責任だ。互いに協力し、助け合いながら、訓練に励め』

 教官の言葉に妙な違和感を覚えながらも、林は頷いた。

『ここが、お前の部屋だ』いちばん奥の監房の前で、教官が足を止めた。扉を開け、顎をしゃくる。『入れ』

 言われた通り、林は檻の中に足を踏み入れた。

『これに着替えろ』と投げて渡されたのは、囚人服を思わせる簡素な運動着だ。受け取ると、鉄格子が音を立てて閉まった。それ以上の説明はなく、教官は去った。

 監房は質素な造りだった。寝心地の悪そうな寝台に、曝け出された便器。鉄柵で閉ざされた小さな窓。中央には、分厚い仕切りがある。

『よっ、新入りっ!』

 仕切りの向こう側から、赤い髪の少年が顔を出した。

 反対側も、同じような間取りになっている。どうやら、二つの独房の間の壁を半分だけ取り壊し、無理やりに二人部屋が作られているようだ。

『俺は緋狼。よろしくな』

 同室の少年は、にかっと歯を見せて笑った。赤く短い髪。つり目だが、笑顔には愛嬌がある。

 林も名乗り、握手を交わした。『あ、うん……よろしく』

『よかった、独りで心細かったんだよ』

 陽気な少年だ。こんな陰鬱な場所で、しかも檻の中に閉じ込められているというのに、その表情はやけに明るい。他の少年らの顔に浮かんでいた諦めや絶望、悲観のようなものは、彼からは一切感じられなかった。自分の置かれた状況を理解していないのか、それとも元から楽天的な性格なのか。

 所在なく佇む林に、『まあ、座れよ』と促した。言われるまま、かたい寝台に腰を下ろす。

 緋狼は床に胡坐をかくと、声を潜めて言った。『実はさ、俺と同室だった奴が、自殺したんだ』

『えっ』思わず大声をあげてしまった。

 緋狼は人差し指を唇に当て、『しっ』と嗜めてから、

『縄で首吊ってた』窓に取り付けられた格子を指差した。『朝起きたら、そこにぶら下がってたんだよ』

 そういえば、買い付け役の男が言っていた。訓練生がひとり死んでちょうど欠員が出た、と。だから自分がここに連れられてきたわけだが、まさか自殺だったとは。

 この部屋で人が死んだのか。しかも、自分と同じくらいの子供が。改めて考えると、いい気分はしない。

『たぶん、ここの訓練に耐えきれなかったんだろうな。二週間でリタイアだ』

 自殺者が出るような訓練とは、いったいどれほど苛烈なものなのだろうか。想像して、身震いがした。不安は募るばかりである。

 そんな重苦しい気分を吹き飛ばすかのように、

『これから五年間、一緒に頑張ろうぜ、相棒』

 緋狼が満面の笑みを見せた。

 相棒――そうだ、独りではないのだ。教官も言っていた。互いに協力し、助け合いながら、訓練に励め、と。少しだけ気分が軽くなる。

 同い年だというのに、緋狼の話しぶりは大人びていた。ここで生活していれば、嫌でも大人にならざるを得ないのかもしれない。

 この施設ではどんな訓練が行われているのか、彼に尋ねようとしたときだった。ジリリリ――という、けたたましい音が鳴った。まるで非常事態を知らせるサイレンのようだ。驚いて、緋狼の顔を見遣る。彼は平然としていた。いつものことらしい。『始業の合図だ』と教えてくれた。

 鍵をかけられていた鉄格子が、自動で開いた。

『早く行こうぜ』緋狼が顎をしゃくった。『遅刻したら殴られる』



 緋狼に連れられた部屋には、机と椅子が並んでいた。教室のようである。机はどれも使い古されていて、右端に番号が書かれていた。二つずつ合わせられ、全部で十組ある。二十人の訓練生がそれぞれ席に着いた。場所は予め決められているようで、『俺たちの席はここだ』と、緋狼と林は隣同士に座った。

 午前中は座学だった。内容は主に語学。五時間、教室の中にこもりきりで、様々な国の言葉を学ぶ。講師は言語ごとに入れ替わっていた。訓練生の中には貧しい生まれが多く、まともに母国語の読み書きができない者すらいた。インドやフィリピンなどの、余所の国の者もいた。

 日本語の授業を終えると、昼休憩に入った。昼食は、味の薄い質素なものだった。ただ腹を膨らませるために作られたようで、とてもじゃないが美味いと言えるものではなかった。水で流し込むようにして平らげていると、再びベルが鳴った。緋狼曰く、休憩終了の合図らしい。

 午後は一転して、全員が屋外に集められた。

 運動場の中央で、あの教官が待ち構えていた。

 午後の最初の授業は、持久走だった。なにがあっても足を止めず、二人で協力して走り続けること。足を止めた組には罰を与える――教官はそう命じた。訓練生は二列に並び、言われた通り、外周を走りはじめた。

 最初は皆が同じペースで走っていたが、三十分も経てば列が乱れてきた。中には足がもつれ、転倒した者もいた。その際に足首を挫いたようだ。起き上がれずにいる。すぐに別の少年が駆け寄り、肩を貸そうとしている。彼が同室の相棒なのだろう。

 足を挫いた少年は、立ち上がらなかった。その場にへたり、堰を切ったように泣き出した。

『――泣くな』

 いつの間にか、彼らの背後に教官が忍び寄っていた。

『涙を見せるというのは、自分を弱める行為だ』

 教官は、その手に硬鞭を握っていた。黒い棒のようなそれで、少年を容赦なく殴りつけた。その横にいた同室の者までもが叩かれ、二人は揃って地面に突っ伏した。

『なっ、なんだよ、あれ……』

 酷い光景だった。走りながら、林は唖然として呟いた。

 隣を走る緋狼が顔をしかめる。『いいから、黙って走れ。俺たちまで殴られるぞ』

『でも――』

『あれが、ここのやり方なんだ』

 他の組の心配をしている場合ではなかった。林の両脚も、そろそろ限界だった。体が重い。鎖で繋がれているかのように動きが鈍り、自由がきかない。息が苦しい。吐きそうだ。

 やがて、足が止まってしまった。少しも動かせなくなり、その場にくずおれる。

『おい、大丈夫か?』

 緋狼も立ち止まり、林の顔を覗き込んできた。

『休むな』

 教官の声がした。

 次の瞬間、背中に痛みが走る。

『い、っ』小さく悲鳴をもらし、林は顔をしかめた。

 硬鞭で殴られたと、すぐにわかった。痛ぇな、この野郎、なにしやがるんだ。教官を見上げ、睨みつける。

『なんだ、その目は』冷たい視線が返ってくる。

 林は歯を食いしばり、拳を握った。この男は、俺たちを舐めているんだ。子供にはなにもできないだろうと、高を括っている。思い知らせてやりたかった。

『私に歯向かうつもりか? やってみろ』教官が、緋狼を一瞥した。『そいつも、同じ目に遭うことになるぞ』

 連帯責任――教官の言葉が頭を過る。ここで自分が反抗すれば、緋狼を巻き添えにすることになる。先刻の少年たちのように、同室の者までもが殴られてしまう。

 唇を噛みしめたまま、林は拳を解いた。

『すみませんでした、教官』隣で、緋狼が頭を下げている。それから彼は、林の前に座り込んだ。『ほら、乗れよ。運んでやる』

『え、いや、でも――』

『いいから、早く』彼は半ば無理やり、林を背負った。『このままじゃ、俺たち二人とも罰を受けることになる』

 少年たちの中には、相棒の肩を借りる者や、腕を引かれて走る者もいた。

 二人で協力して走り続けること。教官はそう言っていた。どんな形であれ、進み続けなければならないのだ。緋狼の行為は、正しかった。

 彼は林を背負ったまま、黙々と走り続けた。その間も、足を止めた者たちに教官は容赦なく硬鞭を振るっていた。



『……死ぬかと思った』

 足を引きずりながら監房に戻った林は、倒れ込むようにして、寝台の上に寝転がった。全身が鉛のように重い。酷使された両足が、いまだに熱をもっている。

『なにが訓練だよ。こんなの、ただの虐待だ。……くそぉ、あの教官、ぶん殴ってやりてえ』

 口を尖らせて言うと、緋狼がくくっと笑った。『よせよ、聞かれてたら大変だ』

 たしかにな、と林は口を噤んだ。昼間のように、また緋狼に迷惑をかけるわけにはいかない。

『……あのさ、緋狼』林は上体を起こした。俯き、小さな声で告げる。『今日は、ごめん。……助かったよ、ありがとう』

 緋狼は『気にすんな』と笑い飛ばした。

『それにしても、すごいよな、緋狼は……あれだけ走って、しかも俺を担いでたってのに、そんなに元気なんだから』

 疲れ果てている林とは対照的に、彼はぴんぴんしていた。感心する。

『二週間も鍛えられりゃ、体力もつく』彼は袖を捲り、力こぶを作ってみせた。『最初はキツイだろうけど、お前もすぐに慣れるさ』

 とはいえ、二週間分の遅れを取り戻すのは、なかなか大変そうだ。

『慣れるかな、こんなこと』

 息ひとつ乱さず、ひたすら何時間も走り続けている二週間後の自分の姿なんて、想像がつかない。

『なあ、それより』緋狼が話題を変えた。『お前はどうして、ここに来たんだ?』

『それは……』

 これからともに過ごす相棒なのだから、自分のことを知られていても構わないだろう。林は正直に話すことにした。『金が、必要だったんだ』

 買い付け役の男と、林は交渉した。迷いはなかった。俺を連れて行けと言えば、男はすぐに頷いた。代わりに大金をくれた。

『家が貧乏で、父親の借金もあって、どうしようもなかった。だから、金を貰う代わりに、俺がここに来た。母さんには、出稼ぎに行くって嘘を吐いてさ』

 母には、詳しいことは黙っていた。街に出稼ぎに行く。知り合いの伝手で、日本の工場に住み込みで働くことになった。そう伝えた。反対されたが、林の決意は揺らがなかった。自分の身を切り売りしてでも、母を助けたい。その一心だった。

『そっか……お前んところも、大変そうだなぁ』

 次は林が質問を返す。『緋狼は?』

『俺はな、親に売られたんだ』常に明るい彼の声色が、このときばかりは微かに曇った。目を伏せ、続ける。『俺の母親は、娼婦でさ。最初は、俺も客引きの仕事を手伝わされてたんだけど、男じゃ将来客も取れないし、金がかかるからって』

『そんな――』

 信じられなかった。親が、実の子を売るなんて。

『でも、俺は、ここに来てよかったと思ってるよ』

 緋狼は屈託のない笑顔を浮かべた。強がっているわけじゃなく、心からそう思っている。そんな表情だった。

『訓練はきついけど、飯は食べさせてもらえるし、寒さも凌げる。あの頃の生活に比べたら、ここの方がマシだ。だから、どんなに苦しい訓練だって我慢できるんだ。お前みたいに、家族のためとか、母親のためとか、そんな褒められた理由じゃないけどさ。自分のために、絶対に生き残ってやる。どんな手を使っても。――今は、そう思ってる』

 力強い口調だった。彼はその目にしっかりと現実を捉えている。諦めるわけでも悲観するわけでもなく、前を向いている。その強かさが、羨ましいと思った。

 そのときだ。突然、ベルが鳴り、牢の中の蛍光灯が消えた。

『なんだ……?』

『ああ、就寝時間だよ』

 どうやら、夜の十時を知らせる合図らしい。

『毛布に潜って、目を閉じろ。見回りが来るぞ。起きてるのがバレたら、懲罰房に入れられちまう』

 暗闇の中でも、彼の笑顔は眩しく見えた。

『しっかり寝て、体を休めとけ。明日は負ぶってやらないからな』緋狼は、自分の寝台へと戻っていった。仕切りの向こうから、声が聞こえる。『じゃ、おやすみ』

『おやすみ、緋狼』

 林も寝台に潜り、目を閉じた。

 朝六時に起床、七時から十二時まで勉学。それから昼食を挟み、また二時間耐久の持久走や過酷な筋力トレーニングを強いられるのか。明日のことを考えるだけで、うんざりする。

 このまま、朝が来なければいいのに。

 なかなか寝付けなかった。頭が妙に冴えている。ふと、目を開く。いつの間にか通路の電気や非常灯までもが消灯され、辺りは真っ暗になっていた。なにも見えない。ただ暗闇だけが、そこにある。

 帰りたい、と思ってしまった。

 なにを今さら弱気になっているんだ。自分で決めたことじゃないか。大丈夫、五年なんてあっという間だ。家族にもすぐに会える。そう言い聞かせるしかなかった。

 母さんに会いたい。寂しい。平気だ。辛い。大丈夫。逃げ出したい。――相反する感情が、錯綜する。

 こっそりと持ち込んだ家族の写真を胸に抱え、林は再び、目を閉じた。




3回裏


 七月末の強烈な日差しが、グラウンドをじりじりと照りつけていた。

 焼かれて熱をもった砂の上を、二列に並んで走る。紺色のアンダーシャツに締めつけられた体に、じんわりと汗が滲んだ。暑い。真夏特有の、強暴な暑さだ。少しでも日光を遮ろうと、林は野球帽を深く被り直した。

 ――そういえば、昔もこんなことやってたな。

 ふと、思い出した。今みたいに整列して、ひたすら走らされていたっけ。

 ラーメンズの練習は、週に一回。土日のどちらかに行われ、だいたいどこか市内の野球場を四、五時間ほどレンタルしている。基本的に参加不参加は自由で、メンバー全員が揃うことは珍しい。今日の参加人数は、監督を含めて六人だった。林と馬場、榎田、重松、それからマルティネスだ。

 ランニングを終えると、次はストレッチだ。水分を補給してから、一塁側のベンチ前に集まり、皆で小さな円をつくる。

「……歳かな」重松が呟いた。息が上がっている。両膝に手をつき、深呼吸を繰り返していた。「ちょっと走っただけで、きついんだよな、最近」

「歳だね」という、遠慮のない答えを返したのは、榎田だ。

 涼しい顔をしている林を一瞥し、重松は笑った。「さすが、若い奴は体力あるよな」

「……別に」

 これぐらい、何ともない。あの頃と比べたら何てことない。二時間も三時間も延々と走らされていた、あの地獄のような日々に比べれば。

 当時の訓練を思い返す。持久走だけでなく、様々なトレーニングも強いられた。中には遠投もあった。遠くに投げる力なんかを鍛えて、いったい何の役に立つのだろうか、と当時は半信半疑だったが、おかげで今こうしてショートを守り、三遊間の深いところから一塁までノーステップで送球できるのだから、奇しくも役に立っていることになる。

 肩や首、手足を回したり、腿を伸ばしたりと一通りストレッチを終え、さっそく練習に入る。まずは、バント練習からだ。

 かなり上達したよな、と林は思う。最初の頃は空振ってばかりだったが、当てて転がすことができるようになった。野球のルールにも、だいぶ詳しくなった。今なら犠打はもちろん、スクイズの意味だってわかる。守備では、イージーな打球の処理をミスすることも少なくなった。なにより、馬場に怒られる回数が減った。

 練習メニューは毎度、監督の源造が考えていて、参加人数や天候に合わせて臨機応変に変わる。バント練習のあとは、トスバッティング。それから内外野ノック、ロングティー、走塁練習と続く。

 あの頃も、こうして一日に数々のメニューをこなしてたな。林はまた、訓練生時代を思い出した。うだるような暑さのせいか注意が散漫になっていて、つい余計なことを考えてしまう。

 集中を切らしているのは、林だけではなかった。少人数だと、自分の番が回ってくることが多いため、必然的に練習がハードになる。炎天下という環境も相まって、豚骨ナインの動きは普段よりもやや鈍かった。いつもなら追いつく打球も、足がもつれて届かない。簡単なフライも、太陽の光に目が眩んで落球する。ドリンクの減りも速い。皆、滝のような汗をかいている。

 ノックが終わったところで、休憩を挟むことになった。全員がベンチに集まり、日陰に避難する。

「あっちいな……熱中症になりそうだぜ」マルティネスが顔をしかめ、2リットルのペットボトルを呷った。

 林もベンチに腰かけ、タオルで汗を拭いていたところ、

「そろそろ林にも、うちのチームのサインば教えないかんねえ」

 源造がそんなことを言い出した。

「サイン?」

「ブロックサインってやつ。たとえば、こういうのたい」と言って、馬場が手本を見せてきた。右手で左の肘を掴み、それから帽子の鍔、ベルト、右耳、手首の順に触れる。「今のは、盗塁のサイン」

「……そんな難しいの、覚えらんないんだけど」

 動きが速すぎて、目で追うのがやっとだった。

「キーを覚えりゃ、簡単よ」と、源造が言った。

「キー?」

「うちのチームのキーは、ベルト。ベルトの次に触ったところが、本当のサインなとよ。他は全部フェイク。ベルトの次が耳やったら、盗塁のサイン。帽子ならバント」

「なるほど……」わかったような、わからないような。

「なら、これは?」源造が右手を動かす。帽子、手首、胸、耳、ベルト、帽子、手首の順に触れた。

「…………バント?」

 と、自信なさげに答えたところ、源造はにっこりと笑った。「正解」

「あと、ベルトの次に胸元を触ったときは、エンドランね」榎田が付け加える。

「……エンドランって、なに?」

「あんた、エンドラン知らんかったと?」馬場が目を丸くした。

 拾った木の棒で地面に図を描きながら、榎田が説明する。「ヒット・エンド・ランのことだよ。ランナーが一塁にいて、なんとしてでも進塁させたいとき、投球と同時にランナーを走らせるんだ。バッターは絶対ボールに当てなきゃいけない。明らかなボール球だろうと、食らいついて最低でも転がす。打球が内野ゴロになっても、ランナーがスタートしてるからゲッツーを免れる可能性が高い。ヒットになったら、一・三塁の形をつくれる。わかる?」

「まあ、なんとなくは……」

「打球がライナーだったときは、ランナー飛び出して戻れず併殺、っていうリスクもあるけどな」重松が言った。

「試しにやってみよっかね。林、お前ランナーにつきんしゃい。一塁ね」

 体で覚えた方が早そうだ。源造に言われた通り、一塁ベースにつく。

 馬場が打撃投手を務め、打席には榎田が入った。

「どのタイミングで走ればいいんだ?」

「投げると同時よ。馬場が動いたら、すぐ走りんしゃい」

 ベンチの前で、源造がサインを出した。帽子、耳、ベルト、胸、帽子――エンドランのサイン。

 馬場が投げる。林は二塁に向かって走り出した。

 ところが、榎田は空振りした。

「やべっ」

 林は、とっさに一塁に帰塁した。

「こらこら! 戻ったらいかん!」源造の声が飛んでくる。

「だって、空振ったじゃん、あいつ!」打席のキノコ頭を指差す。

「空振ったって、サインが出たら走らないかんとよ。バッター気にしたらいかん。スタートが遅れるばい」

 見ときんしゃい、と言い、代わって源造が一塁ランナー役に入った。ショートに林がつく。

 馬場が投げた。源造が走り出す。球を、榎田が打ち返した。ボテボテのショートゴロだ。捕球したときには、源造がすでにスライディングの動作に移っていた。二塁手にトスしたとしても、悠々セーフのタイミング。林は一塁に送球した。

「なんだ、今のスライディング……ジジイの体とは思えねえな」

「まだまだ現役やねえ」

 歳を感じさせない俊敏な動きに、マルティネスと馬場が感心している。

「今のがエンドランたい。わかったね?」練習着についた土を叩き落としながら、源造が言った。

「ああ、わかった」

 たしかに、仕掛けたことによってランナーが進塁できた。こういう作戦もあるんだな、と納得する。

 ただ、ひとつ気になることがあった。「……でもさ、バッターが打てなかったら、三振ゲッツーってこともあるんじゃねえの?」

 打者は空振り三振でアウト、一塁走者も刺されてアウト、という最悪の結果になるかもしれない。

「そんときは、しょんなか」答えたのは、馬場だった。「それも『野球』やけん」

「……難しいな、野球って」

 難しいし、奥が深い。野球なんて、ただ球を遠くに飛ばせばいいだけのスポーツかと思っていた。実際は、守ったり走ったり、大変だ。

「エンドランのサインが出たら、味方を信じて走るとよ。絶対に当ててくれる、ってね」

 ――味方を信じて、か。

 馬場の言葉を、心の中で反芻する。

 他人を信用するな。信じられるのは自分だけだ。それが、これからの人生の教訓となるだろう――そういえば昔、そんなことを言われたな。なんとなく、思い出した。

 なぜだろう。今日は妙に、昔のことを思い出す。



 明け方、一仕事終えた猿渡は行きつけのバーへと向かった。北九州市小倉北区の一角、紺屋町。閑散とした通りを歩いていく。人通りがなく、建ち並ぶ飲食店や風俗店のシャッターもかたく閉ざされていた。

 夜通し飲み歩いていた人々が帰宅し、眠りにつくようなこの時間帯でも、ダーツバー『レディ・マドンナ』は営業している。

 店に入り、派手な格好の女店主に一瞥をくれると、彼女は真っ赤な爪の付いた人差し指で、奥の扉を指した。『関係者以外立ち入り禁止』という注意書きのあるドアを開け、その先の階段を下りれば、そこは殺し屋専用のフロアだ。屈強な体つきのベネズエラ人バーテンが待ち構えている。猿渡はコーラを注文した。他に客の姿はない。

 壁際には、人型の模型が三体並んでいる。射撃の練習スペースだ。その真ん中の一体めがけて、猿渡は四方手裏剣を投げ込んだ。

 何度投げても、手裏剣は思うような軌道を描かない。苛立ちばかりが募る。

 ――こんなことでは駄目だ。あの男には勝てない。

 タンクトップの裾で汗を拭う。とにかく今は、練習あるのみだ。

 しばらく投げ込みを続けていると、

「――もうやめときなよ、投げ過ぎだよ」

 聞き慣れた声がした。

 振り返ると、新田がボックス席から手を振っていた。いつの間に来やがったんだ、と顔をしかめる。的に集中していたせいか、気付かなかった。

 猿渡は練習を中断し、新田の向かい側に腰かけた。

「猿っち、ちょっとフォーム変わった?」

「……いや、別に」素っ気なく答え、炭酸の抜けたコーラの瓶に口をつける。「で、なんか用かちゃ」

「久保田の暗殺、どうだった?」

 久保田というのは、華九会幹部の名だ。

 ラウは猿渡の実力を認め、さっそく次の依頼を寄こしてきた。その標的が、久保田だった。

 宗像市の一軒屋に住んでいるらしく、つい数時間前に、猿渡は久保田の自宅へと向かったのだが、

「……標的はおらんかった」

 そこに久保田の姿はなかった。車ごと消えていた。危険を察知し、一足先に逃げ去ったのだろう。いったいどこに隠れたのやら。

「誰もいなかったの?」

「標的は、な」

 蛻の殻だった、というわけではない。久保田の自宅のリビングに、猿渡を待ち構えている者がいた。黒いスーツに眼鏡、前髪は七三で、真面目な会社員という雰囲気の男だった。

 猿渡を見つけると、その男は襲い掛かってきた。当然、返り討ちにしておいたが。

「なるほど」新田が唸る。「命を狙われていることに気付いて、殺し屋を雇い、身代わりに置いてったのかな」

 当面、久保田が自宅に戻ることはないだろう。他の華九会幹部たちも同様に、姿をくらましている可能性が高い。標的の居場所がわからないことには、仕事のしようがなかった。

 退屈そうに、猿渡は欠伸を噛み殺した。「あーあ、つまらん」



 李を含む幹部は全員、ホテルや別荘に移動させた。もちろん、各々の居場所は本人しか知らない。それから殺人請負会社に連絡し、殺し屋を五、六人雇った。幹部宅の一部に配置し、相手が罠に掛かるのを待っていた。

 そして、ついに動きがあった。久保田という幹部の自宅に、例の殺し屋が侵入したようだ。朝一で駆けつけてみれば、争った形跡とマーダー・インク社員の刺殺体だけが残されていた。

「……くそ、やられたか」

 ソファの背にもたれるような体勢で死んでいる男の姿に、進来は小さく舌打ちをこぼした。

「隠しカメラの映像、ご覧になりますか?」

 部下の言葉に、進来は頷いた。

 予め仕掛けておいたカメラをテレビに繋ぎ、録画された映像を再生する。

 そこに映っていたのは、見覚えのある男だった。フードを被り、口を黒い布で覆っている。

「この男――」

 顔は見えないが、間違いない。あいつだ。

 進来は、映像を食い入るように見つめた。画面の中で、男が部屋を物色している。その背後で、マーダー・インクの殺し屋が銃を構え、引き金を引いた。

 殺気を感じ取ったのか、男が振り返る。銃声がしたと同時に、曲芸のような動きで弾を避けた。

『――お前、久保田やないな?』余裕が感じられる声色だ。

 どこからともなく取り出した手裏剣を、独特のフォームで投げつける。狙いは外れた。相手がそれを避けている隙に、忍者刀を抜く。

 一瞬だった。

 男は銃を恐れもせず、間合いを詰めた。すばやく刀を振るう。拳銃を握る腕を切り落として攻撃の手立てを奪うと、そのまま体を反転させるようにして、相手の首を真横から貫いた。

 たった数秒で、殺し屋を倒してしまった。

『……まだ曲がりも落ちもイマイチやな』

 男は手裏剣を拾い上げ、呟いた。次の瞬間には、画面の中から消えていた。

 それにしても、驚いた。なんて強さだ。次元が違う。進来は息を飲んだ。しばらくの間、茫然と映像を見つめていた。

 はっと我に返り、テレビの電源を消した。それから電話をかける。相手は李だ。すぐに出た。『また、悪い知らせですか』

「ええ。宇野山とキムを殺したのは、やはりあの殺し屋で間違いなさそうです」

『……そうですか』

「それから、もうひとつ」ため息混じりに、告げる。「今、貴方の傍にいる殺し屋ですが、あまり役に立たないかもしれません」

 雇ったマーダー・インクの社員をひとり、李の護衛につけておいた。だが、無駄だったようだ。映像を見る限り、連中程度の実力では、あの男には手も足も出ないだろう。

 事の始終を話すと、李もため息をついた。『困りましたね、それは』

「手当たり次第、仲介屋に声をかけて、腕のいい殺し屋を掻き集めます」と宣言したはいいが、はたしてそんなことができるのだろうか。あの男より腕のいい殺し屋なんて、そう簡単に見つかるはずがない。おそらく、福岡でもトップクラスと謳われる実力だろう。奴に敵いそうな者といえば――。

 ふと、ある殺し屋が頭に浮かんだ。

 ――にわか侍。福岡最強の『殺し屋殺し』屋。

 奴ならば、あの男を倒せるかもしれない。だが、にわか侍は組織のお尋ね者だ。そんな男に助けを求めれば、面子ばかりを気にするプライドだけは立派な幹部共が黙っていないだろう。

 唯一の望みは絶たれた。結局、不可能だ。この国内に、あの男をくい止められる殺し屋は存在しない。

 ……ならば、国外はどうだ?