平成 Ⅰ



 ――平成二十七年 一月/仲尾晴人


 病院へ向かう橋は、舞い上がる雪で霞んでいた。

 俺は薄手のビジネスコートを選んだことを少し後悔しながら、雪を避けるよう伏し目がちに歩き続ける。空は晴れているのに、風が強いせいで積もった粉雪が舞い散っているのだ。雪片が光を反射し冷たく輝く。

 北東北、岩手県の県都盛岡市。

 内陸部の盆地に位置するため、冬は寒く夏は暑い。今年に入ってからは晴天が続いていると思っていたのに、昨日寝ている間に積もってしまった。さらに、路肩には十二月に降った雪がいまだがっちりと凍りついていて、俺は足元を確保するので精一杯だ。先日まで東京にいた俺には、故郷の感覚はすでに遠いものとなっていた。

 風に煽られ、手にした紙袋が不穏な音を立てる。慌ててそれを両手で抱えるようにし、俺は見えてきた総合病院へ急いだ。


「おお、晴人か」

 六人部屋の窓際で退屈そうにテレビを観ていた祖父は、俺を認めると皺だらけの顔をさらにくちゃくちゃにした。

「さっき、リハビリをしたんだ。ほら、ちゃんと動くだろう?」

「いいから無理しないでよ。また折れたらどうすんの」

「大丈夫大丈夫」

 三角巾で吊った右腕を誇らしげに動かすので、ひやひやする。

 実家の九十歳の祖父が、自宅前で転倒して手首を骨折したのは、先月のことだ。歳が歳だし、手術をしたということで心配だったが、俺も異動の内示が重なり、残務処理と引継ぎ、そして怒濤の引っ越しで年末年始も帰れず、見舞いに来られなかった。

「それにしても、この時期に異動とはねえ。なにやらかしたんだ、おまえ」

 無事な左手で禿頭をつるりと撫で回し、祖父がにやつく。怪我をしてしょげているかと思いきや、相変わらずの態度だ。だが、俺は安心するよりも、痛いところをつかれてぎくりとした。

「たいしたことじゃないよ。地元に戻ったんだから喜んでよ。じいちゃんの顔も見られるし」

「年寄り扱いはやめてほしいね。で、どこの所属だい」

「文化部だよ。今日も神社の祭りを取材してきたんだ。まあ、人が足りないからって急遽神輿を担ぐはめになったけどね」

「晴人は俺に似て体格がいいからな、もってこいだろう。それにしても、水泳一筋だった晴人が文化をねえ」

 祖父が見舞いの花を抱いて、大笑いする。俺は口を尖らせて窓を見た。


 俺、仲尾晴人が盛岡市に本社を構える北東北新聞社に入社して、四月で丸三年になる。東京の私立大学を卒業した関係か、新人研修が終わった俺は東京支社に配属となった。支社といっても、西新橋の雑居ビルの一室に、支社長と二人の社員が詰めているだけの、小さな職場だ。

 それでも、俺は東京でのスポーツイベントを中心に駆け回り、それなりに懸命に取材をしてきたと思う。小学校から十年以上水泳を続けたので、スポーツは好きだし、取材で動き回ることも楽しかった。逆に記事を書くことは苦手だけれど、東京では故郷にないたくさんのものがある。それらを地元に発信するつもりで意気込んできた。

 だが、先月俺は重大な過ちを犯した。

 とある競技大会で県人選手が入賞した記事を書く際、大会会場の名をど忘れしてしまった。手っ取り早くその場でインターネットを使って調べ、記事を入稿したのだが、なんとそれは昨年の会場だったのだ。検索結果の上位に来たページを、ろくに確認せずに信用したせいだ。しかも、記事は何人もの目をすり抜け、堂々と掲載された。関係者からの指摘でミスが発覚したのは、そのあとだ。

「きみは記者失格だな」

 重々しい顔の支社長から漏れた言葉が、いまだに頭から離れない。

 翌日にはお詫びの記事が出た。盛岡の本社ではコンプライアンス委員会が開かれたらしい。最初は些細なミスだと思っていた俺だが、突然の本社異動の辞令が出るにおよび、これは一大事だと悔やむにいたった。

 俺からしてみれば、本社への異動はすなわち、左遷と同じだ。

 上層部は、俺を本社で再教育する心づもりなのだ。人の少ない東京でのびのびやっているのがばれていたのかもしれない。

 その証拠に、これまで取り組んできたスポーツ関係の業務とは関係のない、縁もゆかりもない文化部への配属が決まった。四月に定年で欠員が出るからとはいうものの、その老兵のもとで一から鍛え直されている俺はどう見ても社内で浮いている。

 同期たちとは新人研修くらいでしか話す機会がなかったし、俺以外の県内組はよく飲み会などしていて仲がよい。俺だけよそ者のようだった。

 寒々しく不安定な天気は、まさしく俺の行く先を示している。


 内心で溜息を吐く俺の様子に、祖父も気づいているのだろう。同室のご老人からもらったという最中を俺にも差し出しながら、「平気だろ」と言う。

「なにやったか知らないが、俺はとある会社の会長さんに『故』ってつけちまったんだぞ。記事を見るなり『まだ生きとるわ!』って凄い剣幕で乗り込んできた。よりによって広告主だったから大変だったぞ。あれは東京オリンピックの時期だったな」

 言葉のとおり、祖父は俺の大先輩にあたる。つまり、彼も北東北新聞社に勤務していた。終戦後、盛岡に住みついてから四十年近く勤め上げたというから、おそらくいまの問題もクビには至らなかったのだろう。確か最終的には文化部長にまでなったはずだから、立派なものだ。だが。

「うーん……時代が違うんだよなあ……」

 祖父が大丈夫だったからといって、俺も無事とは限らない。

「昔はおおらかだったんでしょ? いまはなにかにつけて『コンプライアンス』だよ」

 愚痴をこぼすと、祖父は最中を齧りながら笑った。

「まあなあ。だがな、せっかく同じ会社に入ったんだ。昔の経験なんかも、晴人に話しておこうと思っているんだけどな。おまえ、なかなか帰ってこなかっただろう? 来週あたりまた顔出さないか?」

「どうだろうな。取材が入らなきゃいいんだけど」

「ま、いつでもいいけどな」

 そう言う横顔が少し寂しそうに見えてしまう。

 この歳まで病気らしい病気もせず、矍鑠としていた祖父。十五年前に祖母に先立たれて、娘夫婦と同居してはいるものの、二人とも仕事で忙しい。そこにあるかもしれない孤独に気づいている人間は、どれほどいるのか。

 元来話し好きな祖父からしてみれば、こんな俺でも会えて嬉しい……のだろうか。

「わかった。じゃあ明日また来るよ」

「明日?」

 俺の申し出に、祖父は驚きの目を向ける。

「来週だと仕事がどうなってるかわかんないしさ。明日なら空いてるし。じいちゃんも、話し相手がいたほうがボケないだろ?」

「一言余計だ」

 そう言いつつも、祖父は頬をますます皺だらけにしている。この顔が見られただけでも、帰郷した意味はあったろうか、と思った。

「……じゃあな、折り入って晴人に頼みがあるんだが」

「頼み?」

 話が意外な方向に転がり、今度は俺が戸惑いの表情を作る。

「正直な、今回のことで俺もずいぶん弱ってると思い知ったよ。もしかすると明日、いいや、すぐにでもお迎えが来てもおかしくない。だから……人生の心残りに、けりをつけようと思ってなあ」

 人生の心残り? 突然そんな重大な用件を託されても困る。それなら、実の娘二人のどちらかか、弁護士にでも頼めばいいじゃないか。俺だって仕事があるし――。

 喉元まで出かかった言葉を、辛うじて呑み込む。

 矍鑠として、平々凡々に生きてきた祖父の人生。

 俺が生まれたときから祖父は『おじいちゃん』で、禿頭で、皺だらけで、なんだか最初から祖父はこの祖父のまま、そしてこれからもずっとそうなのだと漠然と思ってきた。

 だが、そうではない。入院の知らせを聞いて、俺も心臓がどぎまぎしたのだ。

 縁起でもない予兆。祖母が亡くなったときと同じ、取り返せない喪失。

 それはいつか必ず、訪れる。

 そして、ごく普通の『おじいちゃん』である祖父の、人生の心残りとはなんだろう。

 俺は少なからずそれに惹かれていた。

「……聞いてもいいけど、力になれるかはわからないよ。いいの?」

 しばしの葛藤のあげく、最大限の譲歩としてそう問うたが、祖父はいたって気楽な顔で、「いいさ」と言った。

「どうせ、宛てのないことだ。海の中で一匹の魚を探すようなもんさ」

 そうして祖父――仲尾碧というハイカラな名を持つ老人は、俺にささやかな願いを語った。

 それは確かに、途方もないことに思えた。



    *


「手紙を渡してほしい人がいる。名は、表に書いてある」

 冷え込む祖父の書斎。数年ぶりにそこへ足を踏み入れた俺は、白い息を吐きながらそれを探した。祖父の言葉を思い出しながら。

「俺の書斎の机、わかるだろう? その一番下の段に、黒い文箱が入っている。そこからそれらしいものを探しだして、宛名の人に渡してほしい」

 なんとも漠然とした頼みではあったが、いまやることははっきりしている。教えられたとおり、神棚の小箱から鍵を取り出し、机の最下段に差し込む。机上ならず書斎は全体的に雑然としていて、どこになにがあるのか測りがたい。開けた抽斗もやはり整理されているとはいえないだろう。

 それでも、書類やノートの束をどかすと、問題の文箱はすぐに見つかった。黒漆の蓋にはテープでメモが貼りつけてある。

『榮枯』

「……えい、こ?」

 栄枯盛衰の『栄枯』だろうか。少し間延びしたような筆文字は、祖父の筆跡のように思う。

 中には古い手紙と手帳、半紙の束などの雑多な紙類が入っている。青いガラスのボタンまで出てきた。手紙の宛名は『仲尾碧様』。消印は戦前から平成にかけて。差出人はまちまちだが、数人の男性のようだ。祖父の友人だろうか。

 だが、探すものは祖父宛てではない。多分、祖父が誰かに認めた書簡だろう。

 出しそびれていたのか、住所がわからなかったのか――。

「あ……」

 そこで、俺は思わず声を漏らした。

 無地の茶封筒。それを開くと、中から白い上質紙の封筒が出てきた。きちんと封がされており、中まではわからない。それを取り出すとともにこぼれ落ちる、一葉の白黒写真。

 これだと思った。訊かなくともわかる。祖父にしては珍しい、丁寧なしまい方。そして慎重な筆跡。

『蓮沼閑子様』

「はすぬま……?」

 下の名はなんと読むのだろう。戸惑ったが、芭蕉の句が思い出された。

『閑さや岩にしみ入る蝉の声』。だったら、『しずかこ』……いや、『しずこ』か。

 女性の名前。この人と祖父はいったい――。胸が不穏にざわめく。

 だが、一瞬で思考は止まる。床に落ちた白黒写真。それに目が吸い寄せられていく。

 美しい人だった。

 中に収まるのは六人の男女。四人の青年と、同年代の二人の少女。

 青年たちはみな揃って学生服と学生帽姿だ。場所はどこかの喫茶店らしい。いまでいうアンティークのテーブルを囲み、勉強会でも開いているような雰囲気だった。

 高校生くらいの少女の一人は、親しみやすそうな子だった。セーラー服とお下げの黒髪、丸顔に屈託のない表情。大きく開けた口からは笑い声まで聞こえてきそうだ。

 そして、左に並ぶもう一人の少女。

 俺は彼女を的確に表す語彙を持たない。ただ、美しいと思った。

 一人だけ洋服を身に着け、髪は胸まで下ろしている。俯き気味の顔で目線だけをカメラに向け、ごく薄い微笑みを浮かべる。育ちのよさを思わせる顔立ちは驚くほどに整い、まるで銀幕女優のよう。

 長い睫に縁どられた黒目がちの瞳、流れる鼻梁、優しく弧を描く眉と唇。

 どこか儚い微笑。

 しばらく、俺は彼女に見入っていたと思う。ふだんは聞く者のない鳩時計が十時を知らせる音で、ふっと我に返った。

 この人が、『蓮沼閑子』。

 手紙を見つけた最初の閃きと同様に、俺は確信した。

 写真を再度眺める。学生服の男子たち。その中に、背の高い剽軽そうな男がいる。彫りの深い目と、三角の鼻。上向きの眉。俺によく似たその姿の持ち主こそが、祖父仲尾碧の若かりしころに違いない。話し好きそうなところも祖父らしい。戦争で学生時代に徴兵されたと聞くから、これはきっとその前になる。

 ならば、祖父と彼女の関係は――。

「初恋の人だったのかな……」

 俺は当然そう思った。これだけ美しい人なのだ。気持ちはわかる。

 だが、俺の胸には戸惑いも芽生えていた。

 十五年前に病死した祖母の顔が思い出される。

 祖母はしっかり者だった。多忙な祖父を助けて二人の娘を育て上げたし、俺を含めた五人の孫の面倒をよく見てくれた。

 俺は水泳をはじめる前は貧弱で、よくクラスの悪ガキに泣かされて帰ってきた。そんな俺を慰め、水泳教室を勧めたのは祖母だった。その矢先、十歳のときに突然死に別れたからか、祖母の面影はどこか特別なのかもしれない。

 祖父母は近所でもおしどり夫婦で通っていた。どこへ行くにも一緒だし、祖母が体調を崩したときは、祖父が手を握って病院まで連れていったものだ。そして、祖母の葬式のとき、祖父は本当に落ち込んでいた。剽軽な性格が別人のようでさえあった。

 俺はまた写真に目を落とす。気弱そうに微笑む、十五、六の少女。

 祖母は祖父より九つも年下だった。それに、生まれは満州で戦後に引き揚げてきたというから、この人は絶対に祖母ではない。

 祖母の死後も、写真と手紙を保管し続けた祖父。自分の先が短いと感じ、これを俺に託そうという祖父――。

 祖父の一番は、祖母ではなかったのだろうか。


    *


 翌日の昼すぎ、不機嫌な顔を隠そうともせずに現れた俺を、祖父は見透かしていたように迎えた。

「見つけたか」

 俺は沈黙をもって返答とした。祖父も俺の心中をわかっているのだろう、俺が丸椅子に腰かけるのを待ち、「蓮沼、閑子さんという」と教えた。

「歳は、俺の二つ下だ。もっとも、生きているかどうかわからん」

「その人はじいちゃんのなんだったのさ」

 俺は初めて棘のある声を出した。祖父は皺を歪めて苦笑し、「説明が難しいな」と答えた。

「ただ、晴人。おまえにしか頼めないんだよ。母さんも伯母さんも、りなちゃんたちも美晴もみんな女だろう?」

 祖父は俺の従姉妹と姉の名を挙げた。

「どうしたってばあさんの味方になる。俺のことを一番わかってくれそうなのはおまえだけだと思ったんだ」

「つまり、俺が男だから男心をわかってくれってこと?」

「そうじゃない。そもそもその人は浮気相手でも元恋人でもない。そういう色眼鏡で彼女が見られるのがいやだったんだ」

 そうはいっても、俺だっておばあちゃん子だった。それに、祖父の説明は説明になっていない。やはり浮気の言い訳みたいだ。

 俺が黙ってふてくされているのを見て、祖父は弱った顔になる。

「まあなあ。そうだよな。これじゃあなんだかわからんよな……。ただ、話すと長くなるんだ」

「…………」

 俺だって、祖父が嫌いなわけではない。しょげてしまった横顔に、渋々ながら声をかける。

「納得できる説明ならいいよ。でも、今日はこれから伯母さんたちが来るんだよね?まあ、来週また来られればそのときでいいから」

「ああ……」

「それより、問題なのはその蓮沼さんの行方だよ。生きてるかわかんないって本当なの? それに、住所は?」

「わからん」

 祖父ははっきりとそう言った。

「盛岡にいないことは確かだが……。もう彼女には七十年近く会っていない」

「な、七十年?」

 確かに、学生だった祖父だってもう九十だ。写真の中では美少女でも、現実には年を取る。生きていれば幸運だし、命があっても祖父のことがわかるかどうか――。

「だけどな、一つだけ心当たりがある。彼女は東京生まれだが、戦中戦後に盛岡に疎開していた。預かり先の人間なら、もしかすると連絡先くらい知っているかもしれん」

 ずっと、それを訊きにいくのは怖かったのだと祖父はこぼした。

「それがわからなかったら、もう打つ手はない。結婚して名字も変わったかもしれん。それに、へたに連絡すれば彼女がいらん誤解を受ける。本当は、このまま黙って墓に入るつもりだった」

「それはとりあえずいいよ。事情があるんだろ? 悔いを残したまま死んだら成仏できないぞ」

「まだ死なんわ」

 祖父は少し笑顔を取り戻す。

「じゃあさ、その預かり先ってところを教えてよ。取材にかこつけて行けるかもしれない。それと、その蓮沼さんってどんな人だったのさ」

「ああ――」

 どこか、遠い昔を懐かしむように目を細め、祖父は感慨深げに囁く。

 長い歳月、蓋をしてきたであろう言葉を。

「綺麗な人だよ。そしてそれ以上に、誰もが忘れられない人だった」


    *


 俺は病院からまっすぐ、祖父が言った場所を目指した。そこは偶然にも、昨日取材で訪れたばかりだ。由緒あるという大きな神社で、名を『盛岡草壁神社』という。祖父によると、その宮司の家こそが、蓮沼閑子が縁故疎開していた先という。

「彼女は国会議員令嬢で、もともと華族の出だった。そんな人を受け入れられる家なんて限られてくる。草壁家は市内でも指折りの名家だ」

 こともなげにそう言ったが、俺はとうの昔に滅びた『華族』なんて言葉に眩暈をおぼえた。あの写真の少女は、本当に育ちがよかったのだ。

「晴人、手っ取り早く知りたいなら、例の文箱に入っている手帳を見なさい。事情の半分はそこに記してある。六十七年前に書きつけたものだ」

 伯母と従姉妹らが訪ねてくる直前、祖父は俺にそう伝えた。

「手帳ねえ……」

 なにやらことが大きくなりそうな予感を抱えて、俺は昨日と同じ鳥居をくぐる。

 ここに直行したのは、昨日の今日という奇妙な縁を感じたこともある。

 ただ、あの少女の存在に反発するいっぽうで、どこか抗いがたい興味をおぼえたことも確かだ。祖父が七十年にもわたって、どういう形でか想い続けたその人に。

 誰もが忘れられないと語った、祖父の瞳とともに。


 駄目元で社務所に顔を出すと、宮司は近くにいるという。彼とは昨日よく話した。六十代後半の人の好い笑顔の持ち主で、神社と同じ『草壁』と名乗った。

「ああ、仲尾さん、昨日は本当に助かったよ。今日も取材ですか?」

 草壁宮司は変わらず愛想よく俺を迎えてくれたが、俺は正直に私用で訪れたことを告げた。それでも、草壁宮司はいやな顔もせずに隣の私邸へ俺を通してくれた。

 二十畳はあろうかという広い座敷に、石油ストーブが赤々と燃えている。

「仲尾碧さんのことは存じていますよ。わたしが若い時分、よく取材に来てくれたからね。そうか、あなたはお孫さんなのか。確かによく似てらっしゃる」

 その祖父から預かった奇妙な用件を伝えると、宮司は「蓮沼……閑子さん……?」と困ったような顔をした。

 よくよく考えれば、宮司は七十代に届かないだろう。戦争前後に疎開していた人のことなど、知るはずもない。俺は七十年という歳月のあまりの遠さに愕然とするとともに、無鉄砲に飛び込んできた自分を恥じた。

「すみません。変なことを訊いて――」

「いや……もしかして、あの人のことかな」

「え?」

 宮司は隣室へ行き、なにやら押し入れをごそごそとあさっているようだった。ややあって持ってきたのは薄手のアルバムのように見えた。

「この方のことかと思うよ」

 表紙をめくると、大判の記念写真が一枚、目に飛び込んできた。

 俺はすぐに返事をすることができず、自分の視覚を疑う。

 モノクロの中にいるのは、一組の男女だった。

 男は二十歳前後だろうか。戦時中の男性が着ていたような、簡素な軍服のような服装をして、凜々しい顔つきで立っている。二十歳くらいといっても、いまの二十歳とは全然雰囲気が違う。優しげな顔立ちの中に、強い意志めいたものが感じられる。

 そして、その傍ら。椅子に腰かけている、袴姿の女性。

 蓮沼閑子だ、すぐにわかった。長い髪は後ろでまとめているし、服装も前の写真とは正反対だけれど、端正な顔立ちは変わっていない。むしろ、前からは少し成長しただろうか、十七、八の彼女はさらに、怖いほどに美しい。強く引き結んだ唇のせいか。

 そして、この青年との関係。二人で写っているということは、単なる友達ではないだろう。二人の間に感じる、凄絶なまでの意志。それはもしかして――。

「この人はね、わたしの叔父なんだよ」

 青年を指さしながら、宮司が語る。「これは、出征前に撮られた二人の唯一の写真。叔父はこのあと南方に行ったんだよ」

「出征……」

 また、滅びた言葉が現れる。

 どこか呆然とする俺に、宮司は淡々と、「叔父は、帰ってこられなかった」と告げた。

「だから、わたしは叔父に会ったことはないよ。優しい人だったと聞いたけどね。一時期は東京の大学で、魚の研究をやっていたとか」

「魚、ですか」

「そう。ほら、近くの中津川には鮭が上るでしょう? そこから魚に興味を持ったとか。まあ、戦局の激化で学業を諦めて盛岡に戻ったそうだけど」

 この華奢な青年の、あまりにも短い生。俺はそれを想像することもできない。時代は流れすぎている。

「彼女――閑子さんはね、叔父の恋人だった」

 声に、意識は引き戻される。

「彼女はわたしが生まれた年まで盛岡にいたけれど、東京に戻ったんだ。わたしは一度だけ、向こうで彼女に会ったことがある。写真のとおり、美しい人だったな」

「あの……住所はわかりますか?」

 思わず急き立てると、宮司はしばし考え込んだ。

「探せば出てくると思うけど……。閑子さんはね、叔父の法要のたびに香典を送ってくれていたんだよ。ただ、五十回忌を最後に終わらせたから……二十年ほど前の住所しか……」

「それでも構いません」

 俺の返事を聞くと、宮司は苦笑して頷いた。

「きみはおじいさん孝行だねえ。少し待ってね。今日、先方へ手紙を書いてみる。向こうでオーケーだったら連絡をくれるように頼んでみるから」

 彼の親切に、俺は本心から頭を下げた。

「閑子さんはね、戦後の名は水森さんというんだ。水森閑子さん。結婚したの」

 だから、最初に名を伝えてもピンとこなかったのか。

「わたしが会ったのは五十年近く前だなあ。東京オリンピックの観覧に行ったときにね、死んだ両親が彼女の家に連れていってくれたんだ。わたしの母とは仲がよかったみたいだ。家は確か本郷だったと思うが……」

「それで、どんな感じでしたか?」

「じつはね、閑子さんはピアノが得意で、教室の先生だったんだよ。けっこう繁盛しているみたいで、立派な家だった。グランドピアノで聴かせてくれた曲もまた美しかったんだ。なんだっけかなあ、あの曲は……」

 思い出にふける宮司を見て、俺は昨日とは別の胸のざわつきを感じる。

 戦後、結婚し、幸せにピアノを弾いていた彼女。祖父はそれを聞くとどう思うだろう。二人の関係のことはまだよく知らないが、祖父が少しでも想いを懸けていた人ならば、複雑な気持ちになりはしないだろうか。

 それとも、幸福を喜ぶのか。

 このことを祖父に伝えるべきか、俺は思い悩む。いいや、そもそも閑子はこの戦死した青年と恋人だったのだ。祖父が横入りする隙など最初からない。

 そんなことを知るよしもなく、宮司は懐かしい日を語った。

「閑子さんは盛岡が好きだったみたいだよ。前もって頼まれていたみたいで、母は土産と一緒にこっちの新聞を手渡してた。それを読みながら、本当に楽しそうに笑っていた。よほど懐かしいんだと思ったよ」

「新聞……」

 それは北東北新聞だろうか。もしかすると、競合する盛岡デーリーかもしれない。

 答えは藪の中だ。だけど、それは北東北新聞であってほしいと小さく願った。俺が勤めているからだけではなく。


    *


 翌週の土曜、俺は東京へ来ていた。

 草壁宮司のおかげで、無事に水森家との連絡がついたからだ。

 もちろん俺は恩には恩で報いる。今後、神社の神輿を担ぐことがほぼ決まった。まあ、遠くの支社に転勤になれば終わりということで……。甘い考えだっただろうか。

 東京に行くことは、母を通して祖父に伝えてもらった。母はそれがどういう意味を持つのか知らないが。土産の希望があれば母を通して連絡をくれと伝言した。きっと、これで祖父も察するだろう。今日は日帰りをして、明日また病院に行くつもりだ。

 相手とは直接連絡を取り、自宅まで俺が赴くこととなった。言われたとおりにネットで検索すると、ルートはすぐにわかった。『水森音楽教室』。それがそのまま水森家の住所だった。

 本郷三丁目駅から徒歩約十分。東京大学のすぐ近くの住宅街に、その教室はひっそりと佇んでいた。

 音楽教室だけあって、中からはピアノの音色が聞こえてくる。邪魔すると悪いと思いつつ、音が途切れたタイミングを狙って呼び鈴を押した。

 しばらくして、ドアを開けた人を見て驚いた。二十歳前後の女性。胸に流した黒髪と端正な顔立ち。写真の中の蓮沼――水森閑子が現れたのだと思った。

「あ……あの、お電話した仲尾と申します」

 やっとの思いでそう告げると、俺の体格と無愛想な顔を警戒していた様子の相手は、少し笑った。

「水森閑子の孫の、咲子と申します。ようこそおいでくださいました」

 驚いたことに、今日教室は休みだった。スタッフである家族が出払っているからだという。

「じゃあ、さっきのピアノは咲子さんが……。お上手なんですね」

 音楽教室に来てそんなことを言うのは無粋だと、我ながら思う。咲子は紅茶を淹れ、手作りだというクッキーを差し出しながら、困ったように笑った。

「私なんかまだまだですよ。音大の試験に落ちたので、ピアノの道は諦めました」

 まずい、突いてはいけないところだったか。クッキーを詰まらせる俺に、今度は相手が弱ったようだった。

「あ、変なことを言ってすみません。いまは経済学部で公認会計士を目指しています。ピアノは単に好きで弾いているんですけど、そのほうが楽しいかも」

 優しく笑う顔はやはり美しい。写真の祖母よりも生き生きとして見えるのは、現実がカラーだからだろうか。それとも、生きる時代が違うせいか。

 なにも考えず大学を訊くと、「近所です」と言う。たまげてのけぞると、「東大じゃないですよ。国際経済大です」と悪戯っぽく笑った。それでも俺の出身大よりも上のランクだ。天は二物も三物も与えるとみえる。しかも、華族とやらの血を引いているのだ。俺が口を利いてよいのだろうか。

 おずおずと、ここへ来た用件を改めて告げる。電話口でも話してあったが、閑子氏の友人であった祖父から、手紙を預かっているということ、いま閑子氏は元気か知りたいこと、その二点だ。

 咲子は整った眉を優しく下げた。

「ご丁寧にありがとうございます。おかげさまで、祖母は健康体なのですが、ちょっと認知症気味で。たまたまいま両親と箱根に旅行しているんです。後日でよろしければ渡せるのですが」

「それでも大丈夫です。連絡がついただけでもラッキーだったんです。ご本人の手に渡るんなら、祖父も喜びますよ」

 ほっと一息ついたところで、応接椅子に向かい合った咲子がもの言いたげにしている様子に気づく。

 俺とまともに目が合うと、照れるように微笑んだ。

「じつは……祖母から言われていたことがあったんです。『私が死んだら、盛岡の仲尾さんにそのことを伝えてくれ』って」

「じゃあ――」

「私も祖母から、仲尾碧さんや戦時中の話を聞きました。といっても、全部ではないんですが。よろしければ、晴人さんにもお話ししたいと思っていまして……」

「お願いできますか。じつは俺も祖父の記録を見たんですが、どうもはっきりしなくて……」

 東京行きが決まり、昨夜慌てて祖父の手帳を引っくり返した。だが、まだあの二人の関係がわからない。やはり祖父の片想いだったとしか思えないのだ。

 閑子側からの話が聞ければ、話も整理できるだろう。まあ、戻ってからゆっくり祖父に質してもいいが……。

「これ。祖母が、大事に持っていた新聞の切り抜きです」

 一枚の紙切れを渡される。よほど古い記事らしく、黄色味を帯びている。精緻な楷書のメモ書きは、『昭和二十四年八月十五日 北東北新聞』とあった。



 四年目の鎭魂の夏を迎へた。盛岡の街はどんどんと復興が進み、焼夷彈の爪痕は目立たなくなつてきてゐる。

 毎秋、中津川に遡上する鮭を見てゐる。戰爭があつても、人の世が變はつても、鮭は毎年戾つてくる。そこに失はれた人々の魂を垣間見てしまふのは、人間の勝手だらうか。四度目の終戰の盆。人の魂は胡瓜の背に跨り、迎へ火の光に誘はれ、變はらず戾つてくることだらう。世界のどこで命果てやうとも。遙か遠い海上から歸つてくる鮭と同じに。

 そして送り火の灯籠に揺られ、また遙か彼方の海へと出かけていく。その先にあるものはきつと龍宮の城であらう。上を向いて歩まねばならぬ我々は、只管さう信じる。

 さうして、失はれてしまつた人々が果たせなかつた幸せと平和を、築いていくしかない。道は永く嶮しい。だが、個々人の幸せを考へれば、為すべきことは定まる筈である。今日も鎭魂の鐘が鳴る。



 俺は、長い間息を詰めてそれを読み返していた。

 これは一面の下に出る短い時事コラムだろう。そして、祖父が書いた記事。

 筆者の名はどこにも書いていないが、俺には確信できた。

 閑子も、きっと同じだ。この記事を祖父の手と直感し、切り抜いたのだろう。

 彼女にとっても、祖父はどこかで特別な人だったのか?

「祖母は、仲尾碧さんを『魚のような人だ』と言いました」

 咲子が口を開く。「どういう意味かは、聞きそびれました。ただ、祖母が大事に持っていたこの記事と、きっと関係があるような気がします」

 俺の頭は混乱する。魚。鮭が遡上する地元の川。死に別れた、魚を研究していた恋人。祖父の言葉。

『綺麗な人だよ。そしてそれ以上に、誰もが忘れられない人だった』

 俺は祖父の書きつけを読んだ。そこには、思い出とともに一つの単語が何度も記されていた。

 それは――。


 そこに、突然俺の携帯が鳴る。相手は母だった。あとでかけ直してもよかったが、頭を切り替えたくもあった。廊下に出て「もしもし」と言う間もなく、母の叫ぶような声が耳をつんざいた。

「晴人、すぐ帰ってきなさい! おじいちゃんが急に具合悪くなって、いまICUに入ってるの!」

「は!? どういうことだよ!? 大丈夫なのか?」

「大丈夫よ、大丈夫だと思うんだけどね。でも万一ってこともあるから……」

「落ち着いてよ。父さんもいるんだろ? すぐ戻るから」

 半ばパニック状態の母との通話を終え、振り返るとすぐ近くに咲子が立っていた。

 優しげなコロンの匂いが動悸と混じりあう。

「すみません、聞こえていました。すぐにタクシーを呼ぶので上野まで急ぎましょう」

「えっ、いや、そんな……」

「いいから!」

 慌てる俺を、凜とした瞳で射る。

 彼女はもう通話をはじめていた。喋りながら、カップをキッチンへ下げ、次々とカーテンを閉めていく。

「あと五分ほどで着くそうです。門の外で待っていましょう」

 驚くほどの手際のよさで、自らの身支度を整え、白いロングコートを羽織った。

「え、あの……咲子さんは……」

「私も行きます」

「いや、大丈夫ですよ。見送りはここで――」

「違います。盛岡まで行くんです」

「はあ!?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。

「な、なに言ってるの? 新幹線で二時間ですよ? 家や学校はどうするのさ」

「どうせ教室は休みですし、週末です。カードも持っていますので大丈夫です」

 言いながらも俺を玄関から押し出して、施錠とセキュリティシステム作動をいっぺんにこなす。

 俺は、目の前の人物を誤解していたのかもしれない。いくら祖母に似ていても、彼女はあのモノクロ写真の儚い銀幕女優ではない。穏やかに見えた物腰はもう消えていて、俺を見据える視線は凜と鋭い。妙な道中になるのではと、俺は混乱とともに予感した。

 そして俺は水森咲子と、北へ向かう新幹線に乗る。

 二人の祖父母の縁が少しだけ交差した街。白く凍りつく盛岡へ、俺たちは行く。

 過去の話を、それぞれに語りながら。



  昭和 Ⅰ



 ――昭和十九年 七月/蓮沼閑子


 よく晴れた、暑い夏の午後だった。

 私と彼は人の行き交う橋の上から、街の中心を流れる川を眺めていた。

 日の光を受けてきらめく川は街を横切っているのにもかかわらず清らかで、毎年秋になると産卵のために鮭が遡上するという。擬宝珠の美しい欄干越しに目を凝らすと、涼しげな流れに小さな川魚の群れが見えた。

「子供のころ、よくこの川で釣りをしたよ」

 隣に立つ彼がおもむろに口を開いた。陽光が眩しすぎて、彼の顔は見えない。それでも私には、にこにこと笑う彼の表情が容易に想像できた。

 空が抜けるように青い。それだけを漠然と感じ、彼の話に耳を傾ける。彼は華奢で長い指を下流の方角へ向け、愉しそうに思い出を語る。

「ここよりももう少し向こうのほうかな。あっちに行くと、秋には産卵を終えた鮭がたくさん川原に打ち上げられているんだ。その鮭の顔がみんな、なにかを訴えたくて叫んでいるように見えてね、怖くて怖くて秋だけは川に行けなかった」

「気味が悪いわね……」

「いまではいい思い出だけどね」

 乗合バスが、黒いガスを吐いて私たちを追い越していった。煙を吸ってしまって軽く咳き込むと、傍らの手が心配そうに背をさすった。

 彼は少し身を乗り出して橋の下を覗くと、「下に降りようか」と私の手を取った。

 夏草の繁る小径を通って川原に降りる。先刻までいた橋から陽炎が立ち昇っているのが見て取れた。空は快晴で、川はひたすら清冽に流れる。それは人の心を映さない。ただ無情に、美しい。

 日陰になっている橋の下は驚くほどに涼しく、季節を忘れさせた。日光に照らされる遠くの川面が白く輝いて見え、それとは対照的に、暗い流れをたゆたわせる陰の部分は重く浮き立つ。彼は愉しそうな顔を崩さぬまま、草の隙間から平たい石を拾い、慣れた手つきで水切りしてみせた。

「死んでしまうとき、鮭はどんな気持ちなんだろうって、ぼくはいまでも思うよ」

 石は三回川面を跳ね、ぽちゃんと飛沫をあげて沈んだ。

「最後の命を振り絞って子孫を残して、鮭にとってみれば幸せなはずなんだけどね。死んでしまうのは悲しいことと同情するのは、人間の思い上がりだろうか」

 話しながら石の行方を見つめ、振り返った彼の眉が少し切なげに下を向いていたが、知らないふりをして私は視線を川へ逸らした。

「どうなのかしらね……」

「だけど……次の年にも同じように鮭は上ってきて、同じように卵を産んで死んでいくんだ。きっと今年も来年も、ずっとそうだろう」

 私は「ええ」と頷き、鈍く青い川面を見る。欄干から見たのと同じ種類であろう、小さな灰色の魚の群れが泳いでいる。いつまでも同じところで身をくねらせ、時折腹をきらりと光らせるその姿はどこか優雅で、思わず見入ってしまいそうだった。


「魚になりたい」


 彼はそう言うと私の前に立ち、再び石を放った。

 石は橋の支柱に当たって沈んだ。

「鮭は何度でも戻ってくる。どんなにつらい旅でも、自分が死ぬと知っていても、この川がこのままここにある限り、何年後かの秋には必ずここに泳ぎ着く。だからぼくは魚になりたいんだ。なにがあろうと、必ずこの場所に帰ってこられるように」

 いつのまにか周囲には夕暮れの気配が漂っていた。橋の下はもちろん、川原にも私たち以外に人影はなく、まるで世間から孤絶してしまったような気分を味わう。

 いままで、私はずっとそうなることを望んでいた。だが刹那の感覚はすぐに、川の流れに消え去ってしまう。現実は変わらずここにある。

 しょせん、社会や他人から切り離されて彼と二人きりで生きるなど、私だけの――淡い夢でしかなかったのだった。

 斜めに差し込む夕陽に照らされ、眩しそうに目を細める彼は、本当はきっと泣いていた。それでも芯の強い彼が私の前で泣くことは決してないのだろう。ただいつものように――優しく微笑む。

「大丈夫だから、そんな顔しなくても」

 そしてそのままで、そっと私を抱き寄せる。

 時が止まったかのような橋の陰で、私は涙を堪えて震えながら、泳ぎ続ける灰色の魚を見つめた。

「待っていてくれとは言わない。ただ、ぼくは必ず戻ってくる。もしもそのときまできみがぼくを想っていてくれたのなら――絶対にきみのもとへ帰るから」

 彼の胸に顔をうずめ、私は黙って頷いた。両の目から涙がこぼれそうになったが、私は必死に、それを悟られないように努めた。時の流れも、どんなしがらみも存在しない、二人きりの甘美な世界。それに焦がれたときも確かにあったが、すでに夢物語を語るには、私たちは疲弊しきってしまった。

 そして別れは跫音を立てながら、決して逃れられぬよう周到に訪れた。

 たった一枚の紙切れの姿で。

 しかし、それでも彼は微笑うのだ。まるでぐずる幼子をあやすように、このうえもなく優しく、甘い表情を私だけに向ける。それはとても哀しくて――とても、残酷な微笑だった。

「ずっと、ずっと待つわ、私。だからどうか……必ず」

 堪えきれずにぐしゃぐしゃの顔を上げると、彼は少しはにかんだように、しかしひどく悲しそうに――私を見ていた。

「……ぼくが約束を果たしたら、きみも必ず、この前の頼みを聞いてね」

 以前、彼と交わしたもう一つの『約束』。彼はそれを覚えていてくれたのだ。

 私だって、忘れるはずがない。忘れようがない。

 泣きながら私は何度も頷いた。そうすることで、それは必ず叶えられると信じた。

 魚の影はもう見えず。

 夕陽は完全に没していた。

 そして彼はまたいつものように優しく微笑んで――。

 そして――。


 ――昭和二十三年 七月/仲尾碧


 列車は定刻どおりに到着した。

 終着の車両から吐き出される乗客に混じり、盛岡駅の改札を出た仲尾碧は、「やれやれ」と胸ポケットから紙巻煙草を取り出した。

「今日も暑いなあ……」

 仲尾は来月で二十四歳になる。盛岡市内の小さな新聞社に勤めている。四年前までは東京都内の大学に通っていたが、徴兵されたために二年で卒業となった。

 戦後、復員してからは、故郷の県都である盛岡市で暮らしている。東京ほど人がいるわけでもなく、実家のある田舎町ほど閉塞的ではない、適度な賑わいが好きだった。

 午後の暑さは盛りを過ぎたとはいえ、日射しが強い。駅から出る前にここで一服しておこうと思った。今日の仕事であった取材は予定よりも早く終わったので、あとはもう帰宅するだけだ。

 改札から次々に流れる老若男女を観察するように眺め渡し、駅舎の柱にもたれてしばし無心になる。

 そうしていると、だしぬけに背後から呼びかけられた。


「――碧さん?」


 煙草を口に銜えながらなんとはなしに振り返ると、柱の向こうに白いリボン帽子を被った若い女性が立ち、驚いたような顔で仲尾を見ている。

 綺麗な人だ、そう思った。半分呆けた頭で「どちらさんで?」と尋ねようとした仲尾は、一瞬後に記憶の中で繋がった答えに、思わず煙草を取り落として奇声を上げていた。

「どっ、えっ、あっ、しっ!――閑子さんじゃあありませんか!」

 人混みを押し分けるようにして彼女のもとへ駆け寄る。

「ほ、ほ、本当に閑子さんなんですか! いやあ、お久しぶりです! 何年ぶりだ? ええと、三年、や、四年かな」

 生来騒がしい性格の仲尾が喚き立てると、近代的な駅舎に声ががんがんと響く。人人がちらちらと仲尾を見て通って行ったが、当の本人はもちろん、閑子と呼ばれた女性もそれを気にする様子はない。流行のアメリカン・ヒールを履き、ふわりとしたフレアー・スカートと鍔の広い帽子に身を包んだ彼女は、どこか雅やかに「五年ですね」と微笑んだ。

「ははあ、もうそんなになりますか。閑子さんは、なぜ盛岡に? ああ、お時間ありますか?」

 勢いのまま、仲尾は彼女を外へと連れ出す。

「街道の裏にうまい喫茶があるんですよ。ま、ご多分に漏れず代用珈琲ですがね。そこにはそれはそれは可愛らしいスエさんという――。や、申し訳ない。どうも口が勝手に」

 苦笑いして頭を掻くと、相手は笑顔を絶やさず、「いいえ」と首を振った。

 彼女――蓮沼閑子は仲尾の学生時代の友人にあたる。

 仲尾は昭和十七年から、東京で妹と三人の男子学生とで国文学研究の同人活動を行っていた。そこにある日現れたのが閑子だ。

 初めて出席したとき、閑子は俯き、小さな声で「はじめまして」と囁いた。

 触れれば壊れそうな子だと思った。それと引き換えに、恐ろしいほど色白で美しかった。彼女は体が弱く、学校へ満足に通えないという。そして一年もしないうちに、遠い親戚のもとへ疎開してしまった。今年彼女は二十二歳になるはずだが、仲尾の中の彼女はそのころの――十七歳のままで止まっている。

 その直後に今度は仲尾が兵隊にとられ、復員してきたときには東京の仲尾の寄宿寮も、閑子の実家も灰燼に帰していた。以来閑子の安否は不明で、仲尾も妹もずいぶんと心配したものだが、とにかく瓦礫から出て生きていくことに必死で、閑子の面影はいつしか陽炎のように遠いものになっていた。

 それが、この北の小都市で会えるとは。

 先の大戦で盛岡駅周辺は空襲に遭い、二年前に仲尾が帰郷してきたときにもその傷跡は生々しいものだった。

 だが、またたく間に駅前の焼け跡には闇市が軒を連ね、野菜から鍋から流行の英会話本から、ありとあらゆるものが揃うようになった。確かに公定価格よりは張るが、それも徐々に落ち着いてきている。

「いつ行っても賑わってますよね。これじゃあ『闇』とは正反対だ」

 そんなことを喋りながら、仲尾は闇市の喧騒を避け、焼け残った路地裏へ閑子を案内した。そこに、戦前からの喫茶が細々と営業している。

 暑い日なので満員かと覚悟したけれど、存外喫茶は空いていた。風通しのよい席を選び、大豆の根などを焙煎した代用珈琲を頼んだ。

 注文を待ちながらも、仲尾は取りとめもなく喋る。

「俺の実家は黒石村にありましてね、ご存知ですか? ここから南に行った、汽車で一時間ほどのところなのですが、盛岡に比べればど田舎でして。あすこで有名なのはなにかな?――まあいいや。俺は終戦後すぐに南方から復員してきまして、だが親しんだ場所がみんな焼けてなくなってしまった東京にはとても住めませんで。閑子さんは? お元気そうでなによりですが、いまは?」

 仲尾はようやく運ばれてきた飲みものを呷る。

 代用珈琲とはいっても、仲尾は本物の珈琲の味をよく知らない。学生時代、すでに珈琲豆の輸入は制限されていた。とりあえず苦ければ珈琲ということでよいのだろうか。

 喋り続ける仲尾を興味深そうに眺めていた閑子は、「碧さん、変わっておられませんね」と吹き出した。そして被った帽子の鍔を指先で弄びながら、カップを傾ける。

「私もいま盛岡に住んでいるんですよ。十七で疎開してきてからずっとです」

「そうか。東北の疎開先とは盛岡だったんですね。それはえらい偶然で。だが確かここも市街を爆撃でやられましたよね、大変な目に遭われたでしょう」

「疎開先の家は辛うじて無事でした」

 微かに顔を伏せ、白い帽子で隠す。

「東京をもう恋しいとは思いません、盛岡が私の故郷です。麻布の実家は焼けて、両親も亡くなりましたし」

「…………」

 思わず仲尾は表情を強張らせた。閑子の父は貴族院議員の男爵で、軍部と関係してえらく羽振りがよかったことを覚えている。一人娘とは正反対の磊落な人間で、外に何人もの愛人を囲っていた。そして空襲に遭って世を去ったことも風の便りで知ってはいたが、五年ぶりの再会に浮き足立ち、そこまで気が回らなかったことが悔やまれた。

 しかし顔を上げた閑子は変わらず、明るく微笑む。

「いまは預かり先の家の仕事を手伝いながら、一人暮らしをしています。体の調子もうまくいっていて、毎日がとても楽しいんです」

「ああ……それはよかった。閑子さんとは戦争からこっち、ずっと連絡が取れなくなっていましたからね。正直このままもう一生あなたとは会えないのかと案じていたんですよ」

 仲尾も安堵の表情を浮かべ、茶色い液体を啜る。

「ところで――」

 仲尾は向かいの閑子を見つめた。

「あの、閑子さん、妙なことをお尋ねしますが、その帽子……取らないのですか?」

 夏の午後でありながらも、喫茶店は薄暗く涼しい。まるで土蔵の中を思わせるかのような室内で、閑子の纏う白い洋服と帽子はやけに映えて見えた。

 仲尾の問いに、閑子は大きなリボンがあしらわれた帽子を被ったまま頷く。縁の広い帽子が彼女の端麗な顔と艶のある長い髪を隠しているので、もったいないと思ったのだ。だがさすがにそれを口に出すことは憚られ、もごもごと口を噤む。

 閑子はそっとカップを置いた。

「じつを申しますと、空襲で頭に怪我をしたんです。髪の毛に隠れて別段目立たないのですが、包帯を巻いていた時分からこれを被っていたもので、もう習慣みたいなものです」

「あ……ああ、本当に申し訳ない。つまらないことを訊いてしまって、その――」

「いいえ、そんな」

 狼狽する仲尾に、閑子は微笑んで頭を振った。

「私はこれのお陰で、いま生きていられるんです」

「え、なんのお陰ですって?」

 言葉の意味が取れずに小首を傾げる。しかし閑子はその問いに答えることなく、微笑みを浮かべたまま、泰然とカップを口に運ぶ。

 その姿は記憶の中よりずいぶんと大人びている。別れて五年も経ったのだ、当たり前だと、仲尾は思う。

 戦時中、どのように暮らしていたのか――問いが喉元まで出かかったが、とてもそのような勇気は出ず、落ち着かぬままに苦い液体を飲み込んだ。


 暮れなずむ外に出ると、埃っぽい路面で熱された空気がまとわりついてきた。

「まあ、蝉の声が――」

 街並みの遠くに目をやる閑子の呟きに、仲尾が耳を澄ませると、確かにどこか遠くから侘しげな声が流れてくる。

「もう夏なんですね」

 三十分ほど歩くという閑子のアパートまで彼女を送りながら、仲尾は頻りに木綿のハンケチで額を拭う。

 暑さのせいばかりではなく、汗が止まらない。

 喫茶店には一時間ほどいたが、閑子と当たり障りのない会話しかできないことに、仲尾は妙に焦っていた。何度かしてしまった失言も悔やまれる。

 歩きながらふと会話が途切れたので、仲尾は胸ポケットに手をやる。しかし閑子の呼吸器が弱いことを思い出し、取り出しかけた煙草をそっとしまい込んだ。

 闇市から藩政時代の街道に沿って歩くと、城下町へと至る。昔からの商店が多い地域だ。そこを過ぎれば閑静な寺社と緑が広がる。市内随一の寺と神社を尻目に歩くと、橋が見えてきた。閑子の住まいはその近くという。

「ああ……ええと、閑子さん、あの――」

 別れる前、仲尾は改まって声をかけた。

「はい?」

「閑子さん、ずいぶんと変わりましたね。もちろんいい意味で、ですが」

 大きな瞳を細め、傍らの閑子は首を傾げる。

「以前は繊細な日本人形といった趣でしたが、なんだか今日は表情が柔らかくなったような……輝きのようなものがある。見ていて眩しいくらいです」

「あら、そうですか?」

「ええ、本当に。きっと生活が充実してらっしゃるのでしょうね」

 閑子は無言で微笑みを浮かべる。本当に満ち足りているような、柔和な表情だ。

「あの……失礼ですが、ご結婚を――?」

 仲尾は妙に上擦った声で問うた。対する閑子は「いいえ」と白く細い首を振りながらも、ほんのりと頬を染めた。

「……ただ、私、好きな方がおりますの。その方も私のことを好いてくださっていて……いま、とても幸せです」

 帽子の向こうには輝く笑顔。それは女学生のような、天真爛漫な表情。

 仲尾はつられるようにして微笑み返す。が、頬が強張ってしまい妙な顔になる。

 なにが彼女を明るく変えたのか、仲尾にはよくわかった。

「……それは……よかったじゃあないですか。じゃあ、よろしければ今度、その彼も含めて皆で食事でも。妹の紫も、閑子さんが近くにいると知ったら喜びますよ。あいつはいま、北奥大で事務の仕事をしているんです」

 橋を渡ってすぐの、大通りから逸れた川沿いの小径は、石畳の洒落た造りになっている。川側に躑躅が植えられた歩道はまだ新しい。

 その道の途中で閑子は足を止める。つやつやとした椿の生け垣に囲まれた、小綺麗な二階建てのアパートメントがあった。

「ここです」

「なかなかモダンな物件ですね。俺のぼろい長屋とは大違いだ」

 感心してそう漏らすと、はにかむような笑顔が返ってくる。

「ご覧のとおり、戦後のものなんです」

 仲尾が首を伸ばして覗き込むと、白亜の壁面に『メーゾン草壁』という金文字の刻印が見えた。

「ははあ、さすが」

 仲尾の安月給では到底住めそうにもない。

 鉄筋アパートは学生時代に東京でもよく見かけたが、いずれも仲尾には別次元だった。勤めはじめてもそれは同じことらしい。

 羨望の眼差しでアパートを眺める仲尾に、閑子はふわりと頭を下げた。

「すみません、わざわざ――」

「なんの、どうせうちも近所ですから。ここから歩いて十分ほどの貧乏長屋ですよ。県庁のすぐ裏手ですから、なにかあったときにはどうぞ訪ねていらっしゃい」

 閑子によれよれの名刺を手渡すと、仲尾は「ではまた」と下宿のほうへ歩きだした。

 しばらく歩き、煙草に火を点けなにげなく振り向く。朱に染まった空を背景に、閑子が笑って手を振った。どきりとし煙草を落としかけてしまう。

 帽子の下の顔は記憶にある閑子の面影をとどめているが、五年という歳月が彼女をすっかり美しい女性に変えていた。

 仲尾はほんのわずか立ちすくむ。思い出されるのは五年前、東京での別れの日。

 あの日、自分は全力で手を振った。とにかく必死に、一心に。その手をいまは振ることがためらわれるのは、なぜだろう。

 閑子との再会を嬉しく思うはずなのに、胸が押し潰されるように痛んだ。