あんみつ


「お兄ちゃん、本気? やめた方がいいって」

 楓の言葉に、兄の浅羽怜は靴のチェーンベルトを巻きながら気怠げに応じた。

「お前も心配性だなぁ。俺には俺の考えがあんの」

 下町の小さな町工場、浅羽製作所に程近い住宅地に建つ浅羽家――その天井の高い玄関で兄の浅羽怜と妹の楓は噛み合わない会話を続けていた。

 二人は二歳違いの兄妹だ。

 共に色白で整った顔立ちながら、性格は正反対に近い。

 夕食後、さりげなく外出しようとした兄に気づき、行き先を楓が訊いたのが発端。最初、兄はコンビニにでも行くのだろうと思っていた。

 楓は先日、地元の高校を卒業して現在は浪人生。今日も一日の大半を勉強時間に充てていたので気分転換がしたかった。

 大学受験に失敗したショックからは、もうすっかり立ち直っている。

 一時は食べ物を何も受け付けなくなって入院していたが、幼馴染の栗田仁と、葵という謎の女性の助けで元気を取り戻した。

 今は胸を張って受験勉強に専念できており、感謝の言葉もない。

 だがそんな恩人の栗田に、今から兄は途方もないことをしにいくらしい。

「例の件……今から栗田にぶっちゃけてくる」

 と、兄は不遜な表情で楓に告げたのだった。

 続けて語られた話の詳細は、正直、口に出すのも憚られる内容で、楓は当然賛成できない。

 顔を合わせると常に憎まれ口の応酬をしている兄と栗田だが、この件を切り出せば冗談では済まない事態になる可能性が高かった。

 まかり間違えば、十年来の友情に決定的な亀裂が生じる。

 だがいくら楓がやめろと促しても糠に釘で、兄は気怠く躱すだけ。

 何を考えているのか、真意はどこか? 楓には兄の心理が掴めなかった。

「じゃ、行ってくる」

 軽薄な口調で言い、玄関から出て行こうとする兄の背中へ楓は再び釘を刺す。

「ほんとにやめた方がいいって! 知らないよ、どうなっても」

「んー……」

 兄は曖昧に間を置くと、振り返って退廃的な微笑を浮かべた。

「それが、面白いんじゃん」

「は?」

 口を開けて固まる楓にひらひら掌を振ると、兄は玄関のドアを開け、夜の帳が下りた浅草の町へ颯爽と出かけていった。


     *


 四月も既に半ば。

 桜が香る夜風が吹き、桐の工芸品の老舗や、モダンな看板を掲げた宝石店、着物を中心に扱う呉服店など、立ち並ぶ店の軒先を優しく撫でていく。

 薄闇に浮かぶ灯りは、どこか郷愁を誘う柔らかい光を辺りに投げている。

 ここは浅草。日が暮れると昼間とはまた違う、風雅な日本情緒を漂わせる町。

 その一画に明治時代から佇む和菓子屋兼甘味処、『栗丸堂』はある。奥の作業場では、和帽子と調理用白衣を身につけた二人の若い和菓子職人――栗田と中之条が向かい合って作業をしていた。

 明日の仕込みだ。

 栗丸堂の閉店時刻は夜八時。

 もうすぐ店仕舞いのこの時間帯は、菓子作りより道具の手入れや、材料の不足分の計量などが主な業務となる。

 年季の入った鍋やふるいが棚にずらりと並び、壁際には二槽式の流し台と業務用の餅つき機が設置された、いかにも職人の空間というその仕事場で、今二人は鈍色に光るステンレスの作業台を挟み、明日の餡作りに使う材料を選別中だった。

 作業台の中央に置かれているのは、竹かごに入った大量の小豆。

 それを左の掌に掬い、形が悪いものや虫食いを摘んで別な容器によけていく。

 良質の小豆だけが揃った時点で水に漬け、一晩放置しておくと、豆が膨らんで皮も柔らかくなり、翌朝には餡作りに最適の状態が整うのだが――。

「ところで中之条、そろそろ教えろよ」

 小豆を選り分けながら口を開いたのは栗田仁。

 精悍な顔つきと、引き締まった痩躯が特徴的な黒髪の青年だ。

 昔は荒れていた時期もあったらしく、鋭い眼光にその名残りが認められるが、これでも腕の立つ和菓子職人で、両親を交通事故で失ってからは大黒柱として店を切り盛りしている栗丸堂の四代目主人である。

「勿体ぶってるとハードルが上がるだけだぞ」

「や、別にそういうわけじゃないんですけど」

 唇の間から白い歯を覗かせて答えたのは中之条。

 中学卒業と同時に栗丸堂に弟子入りした、栗田より二歳年下の和菓子職人だ。

 職人気質の栗田と違い、気楽で調子のいい性格だが――あるいはそれ故か、二人は妙に気が合い、喧嘩したことは殆どない。

「勿体つけてるんじゃなきゃ何なんだ?」

 栗田の問いに、中之条は小豆の入った竹かごを一瞥して答える。

「そうですね……。もう少し作業を進めてからの方が、よく鳴ると思うんです」

「鳴る?」

 どういう意味だ。栗田は眉を寄せる。

 発端は些細なことで、この作業を始める前に中之条がさりげなく言ったのだった。

 ――後で小豆を使った面白い技をお見せしますよ、と。

 製菓の知識には自信がある栗田だが、未知の技術には純粋に興味を引かれる。

 そして中之条もこう見えて職人歴は長い。これほど勿体ぶるのなら、密かに特訓して習得した特殊な技術でも見せてくれるのかもしれない。

 内心微かに焦れつつ、栗田は黙々と作業を進める。

 竹かごの中の小豆は順調に数を減らし、やがて底に疎らに残った状態となった。

「ん。まあ、これくらいでしょう」

 軽く顎を摘み、中之条は爽やかに微笑した。

「栗さんもお待ちかねのようですし、そろそろ披露しますか」

「はいはい、さっさとやれ」

 これ見よがしに目配せすると、中之条は竹かごを両手で持って慎重に傾けた。

 小豆が一斉に低い位置へと流れ、ザァッと音が鳴る。

「さあ栗さん、耳を澄ませてください。寄せては返す悠久の営みに――」

 ザァ、ザザァァ。

 右に左に中之条が傾ける竹かごの中で、流れる小豆が波に似た音を立てた。

 波ざる、と栗田は胸中で呟く。

 昔は映画や芝居などで使う波の効果音をこういった手法で作ったらしい。

 中之条の手並みは割と板についていた。波が打ち寄せる時と引く時で傾きの度合いを変え、緩急をつける演出が心憎い。

「……お前の見せたい技ってこれか」

 半眼で問う栗田に、中之条は小鼻を蠢かせて頷いた。

「こないだふと閃いて、密かに練習してたんです。意外と難しいんですよ? ちなみに、いつもより叙情的に鳴らしてます」

「いや、練習しなくていいから。叙情的にもやらなくていいから。つか、うちは効果音じゃなくて和菓子を作る店なんだけどよ」

「やだなあ、栗さん。だからこそです」

「何?」

「和菓子作りに携わる者だからこそ、素材の色んなことを知っておかないと。葵さんの蘊蓄なんてその最たるものでしょう? あの人みたいになれるよう、これでも僕なりに勉強してるんです」

 一理あるのかないのか、栗田は僅かに鼻白む。

 と、不意に中之条は人差し指を立てると、不自然な高い声で語り始めた。

「『やー、小豆って活躍の出番が多くて凄いですねー。ちなみに波の音を作るのに大豆でもえんどう豆でもなく、小豆が使われることが多いのはなぜでしょうかー?』」

 誰の真似をしているのかは一目瞭然。栗田は冷めた目で端的に答える。

「……湿気に強いからだろ。常に変わらない音が出るからだ」

 うっと中之条が驚いた顔になる。

 だが現在行っている作業の意味を踏まえれば、答えは明白なのだった。

 他の大抵の豆類は水に数時間漬けるだけで充分膨らむが、小豆やささげ豆は皮が硬く、臍にある吸水組織からしか水を吸わないので時間がかかる。

 それ故に良質の餡を作りたければ前日から小豆を水に浸し、素早く柔らかに煮える状態を整えておく必要があるのだ。

「『さすが栗田さん、正解ですー』」

 と、中之条が可愛くない拍手を始めた辺りで耐えきれなくなり、手が出た。

「――いで!」

「もういい……。大体、葵さんはそんな喋り方じゃねえんだよ。失礼だろ?」

 拳骨を見舞われた中之条は脳天を押さえてその場に屈み、すみませんと呻く。

 と、そんなほっこりする応酬をしていた時、暖簾をくぐってエプロン姿の赤木志保が作業場に入ってきた。

「おっ、何だ? また二人で仲良くじゃれてんのか?」

 目元を緩めて訊く志保に、栗田は若干口を尖らせて答える。

「……じゃれてねえし、仲良くもねえよ」

「いいねぇ。若いと何してても楽しいもんだよな」

「だから違うって。つか、志保さんだって充分若いだろ」

「まぁな。そりゃあ言われなくても当然の、世間の常識ってもんなんだけどよ」

 そう言って、からからと快活に笑う志保は二十代後半。生まれも育ちも浅草の、いなせな女性店員だ。

 束に分けて後頭部で結んだ茶色の髪。目鼻立ちのはっきりした勝ち気な風貌で、菓子の販売業務と甘味茶房の接客の二役をこなす、栗丸堂の顔的存在である。

「で、何? 急な注文でもあったのか?」

 栗田の質問に、いーや、と志保はかぶりを振る。

「あんたにお客さん。何だか知らないが、どうしても会いたいってさ」

「客? 俺に……?」

 誰だろう。特に誰とも約束していないが、と考えた直後、栗田の胸は密かに弾む。

 ――葵さんか?

 葵の行動は割と予測不能だ。浅草がお気に入りスポットらしく、時折唐突に遊びに来るから、今回もそのケースに違いない。

 栗田が無意味に襟元を正していると、見知った顔が暖簾を掻き分ける。

「ハロー。夜だけど」

 こいつか、と栗田は落胆した。

「もうすぐ店仕舞いだろ栗田? 話があるから、終わったらツラ貸してくんない?」

「……面倒臭えな。今ここで言え」

「いやぁ、そうするのが憚られる程度には大事な話でさぁ」

 涼しげに笑って前髪を掻き上げたのは昔からの腐れ縁の悪友、浅羽怜だった。


     *


 黒い川面に色とりどりの灯りが滲むように溶け込み、揺れている。

 ライトアップされたスカイツリーが隅田川越しに聳える、静かな夜の隅田公園内を栗田と浅羽は無言で歩いていた。

 先程店を閉めた後、ここで話すのも何だから少し歩こうと浅羽が促したのだった。

「この辺でいいだろ。話って何なんだよ?」

 栗田が立ち止まって訊くと、浅羽は夜の川面を背景に気怠く振り向いた。

「相変わらず栗田はクソせっかちだなぁ。ガサツなお前と違ってデリケートな俺には心の準備ってものが必要なのに」

「……はあ?」

「はあ、じゃないよ。見て分かるでしょ」

 わざとらしく肩を竦める浅羽の服装は、黒のパンツとミリタリーブルゾン姿の栗田と違ってかなりひらひらしており、ある意味、繊細に見えなくもない。

 少し長めの髪に、首から下げた派手なアクセサリー。ドレープカーディガンと光沢のあるスキニーパンツが比較的自然な雰囲気で似合っている。

 口は悪いが、容姿だけはいい男――それが浅羽である。

「まあ、デリケート云々はどうでもいいんだが、その繊細な浅羽様が心の準備までして俺に何を言いたいわけ? あぁ、あれか? 金でも借りたいとか?」

 どうせ新しい服でも欲しいのだろうと栗田は考える。

「言っとくけど、うちの店の売上……前よりは少し持ち直してきたけど、苦戦してることには変わりねえんだ。他を当たれ」

「誰もそんなこと頼んでないじゃん。別にお金には困ってないよ」

「うん?」

「これでも親父の工場の手伝いとかして、地味に小遣い稼いでるからね。最近は結構本格的な仕事も任されるようになったし」

「お、そうか」

 浅羽家が営む浅羽製作所は地味な町工場ながらも、精密な金属加工技術に定評がある。昔は大変な時期もあったようだが、最近は業績も安定していると小耳に挟んだ。

 そこの長男である浅羽怜は、実はいわゆる社長令息。

 遊び呆けて昔は父親を始終怒らせていた彼も、今は小遣い稼ぎという名目で家業や自分の将来と、案外真剣に向かい合っているのかもしれない。

「じゃ、何の用なんだ?」

 栗田が促すと、浅羽は少し思い詰めた顔で数秒沈黙し、妙に物静かに語り始めた。

「俺さぁ……。例の件、調べたんだ。葵さんのこと」

 栗田はつい息を呑んだ。

「何か珍しい苗字だったから、最初は軽い気持ちでさ……。でも調べていくうちに意外なことが分かってきちゃって」

「お前――」

 よく分からない感情の波が胸を駆け抜け、栗田は意味もなく拳を握り締める。

 葵は、鳳城という少し変わった苗字の持ち主だ。

 知ったのは先月。浅羽の妹の楓が大学受験に失敗したショックで摂食障害に陥ったのがきっかけ。

 食べ物を受け付けなくなった楓に、好物の桜餅を栗田たちは振る舞おうとしたが、満足のいく桜葉がどうしても入手できず、やがて見かねた葵が知り合いの業者を紹介してくれた。

 伊豆半島にある桜葉の漬元。そこで手に入れた材料を使って楓が満足する桜餅の作成に成功し、栗田たちは大過なく事態を解決することができたのだった。

 が、実のところ葵は、その漬元に顔を出したくなかったらしい。

 従業員から彼女は、鳳城のお嬢様と呼ばれており――それで苗字が発覚――丁重な待遇を受けていたが、過度に構わないでほしいという空気を濃厚に発していたし、彼らに対する笑顔は微かに曇っていた。

 葵が和菓子関係者なのは間違いなく、そして何らかの理由で詳細には触れてほしくないと思っている。

 だったら、と栗田はあえて追及せず、今までと同様に葵と接していた。

 誰にだって話したくないことも、心の準備に時間がかかることもあるだろう。葵が自分から言うまで気長に待つつもりだったのだが――。

「……まさかお前が調べるとはな」

 正直、思いきり舌打ちしたい。そんな栗田の気も知らずに浅羽は続ける。

「ネットで苗字を検索できるサービスがあってさぁ。全国の総世帯数とか、どの県のどの地域に、幾つ分布してるか分かるんだ」

「……鳳城はどうだった?」

「相当珍しい苗字で、数えるほどしかないね。東京には赤坂に一世帯あるだけ」

「一世帯?」

「そ。『赤坂鳳凰堂』って栗田も知ってるでしょ? CMとかでも有名な、日本最大の和菓子メーカー。あそこの当主の苗字が鳳城さんっていうんだ」

 衝撃で視界が揺れた。

 切れ長の目を満足そうに細めて浅羽は続ける。

「葵さんは、鳳城家の一人娘。要はあの人、赤坂鳳凰堂の社長令嬢ってわけ」

 予想外の事実に頭が白くなって思考力が働かない。掠れた声が口から洩れる。

「……マジかよ」

「マジ」

 ――確かにどこかで聞いた苗字だと思ったが、まさか鳳凰堂の関係者だったとは。

 ふと、栗田の脳裏に初めて葵と会った時のことが思い浮かぶ。

 馴染みの喫茶店のマスターに『和菓子のお嬢様』という異名で紹介されたが、あれは冗談でも洒落でもなく、全くの事実だったようだ。

「本店のスタッフにも訊いてみたから確かだよ。俺って格好いいから、女性店員の口がどうしても軽くなっちゃうんだよねぇ。まぁ、当の葵さんがそれを秘密にしてる理由までは分からなかったけど」

「……ったく、店まで行ったのかよ」

 不思議なくらい苛立ちが募る。苦虫を噛み潰した顔で栗田は一歩前に踏み出した。

「浅羽、お前どういうつもりだ」

「何が?」

「らしくもなく他人のこと嗅ぎ回りやがって。本人が言わずにいるんだから、そっとしとけばいいだろ。自称デリケートな男がすることか?」

「そうだね――」

 意外にも浅羽は瞼を閉じて静かに息を吐き出す。

「だけど……衝動が止められないんだ。理屈じゃないんだよ」

「何?」

「俺だって、どうでもいい相手のことなら知ろうと思わないさ。気になる人だから興味が掻き立てられるし、色々知りたいんだろ。たとえ本人が秘密にしておきたい、立ち入ったことでもね」

 刹那、栗田の心臓が一際強く打つ。

「浅羽、まさかお前――」

「実はさぁ……スイッチが入っちゃったみたいなんだ、俺の中で。あの日、楓のために伊豆まで案内してくれた葵さんの姿が頭から離れない。気づけばいつの間にか彼女のことを考えてる」

 栗田は絶句した。

 確かにそういう事情なら非難は的外れだが――だからと言って同意も応援もしたくない。相手は葵なのだから。

 栗田は本気で逡巡する。

 こんな時、何をどう対応すべきなのか。感情が乱れて円滑に処理できない。

 ひりつくような沈黙が満ち、乾いた風が夜の隅田公園を吹き抜けていく。

 切迫した息苦しさの中、栗田の頬には汗が浮き、対面の浅羽は驚くほど真剣な表情になっていた。

「栗田、お前はどう思ってるんだ」

「何を」

「その気あんの? ないの? 一応確認しときたいんだよね、腐れ縁の友人として」

「俺は――」

 だが続く言葉が出てこない。心の準備ができていなかった。今ここで即断できるような簡単な問題でもなく、栗田は無意識に下唇を強く噛む。

「まぁ、自分の感情に気づかないでいるうちは楽だけどさ。そろそろ真面目に考えた方がいいんじゃない? 俺は本気だから」

「……っ」

「言いたかったことはそれだけ。じゃーね、クソ栗田」

 浅羽は身を翻すと、軽薄に片手を振って公園の出口方向へ歩き始める。

「待てよ、おい!」

「待たないよ。どうせすぐには答えられないでしょ? せいぜい自分の気持ちをじっくり見つめ直しな」

 浅羽は振り返ることなく薄闇の中を歩き去った。


     *


 帰宅した栗田は、茶の間の天井を眺めながら先程の出来事を反芻した。

 混乱しきった今の状態で、迂闊な決断はできないと思う。

 ただ、客観的な事実だけを言うと、葵が赤坂鳳凰堂のお嬢様ということだけは確か。素人離れした和菓子の知識もそれならば頷ける。

 鳳凰堂と言えば全国に数多くの支店があり、パリとニューヨークにも販売拠点を持つ、言わずと知れた業界最大手の一つだ。知名度的にも、扱う品の内容的にも最高級で、和菓子に疎い者でも店名を知っている。

 確か、鳳凰堂グループ全体の売上高は年間二百億円に迫ると聞いた。

 ――その超大手和菓子メーカーの令嬢が、なぜ自社ではなく栗丸堂の相談に乗ってくれるのか? そんな葵を自分はどう思っている?

 葵には何かと力を借りているが、それに対する感謝以外の気持ちも当然ある。端的に言えば魅力的だ。あの利発さ、透明感溢れる笑顔、優しい性格――。

 だが他にも謎めいた部分は多く、地味に気になっている。

 脈絡なく、葵の右手首の裏に細長い傷痕があることを栗田は思い出した。

 あれは何だったのだろう……?

 夜が更けても一向に眠れない。思考と感情に翻弄されているうちに、いつしか窓の外が白み始めていた。


     *


 案の定、翌日は寝不足で、栗田は普段より二割増しの仏頂面で仕事をした。

 が、正午近くに馴染みの喫茶店のマスターから電話がかかってきたことで眉間の強張りは解けた。

「よう栗田、もうじき昼の休憩時間だろう? 今、葵くんが店に来ている。甘いケーキと苦いコーヒーのスペシャルセットでもどうだ?」

「……昼飯にケーキか」

「足りなければ、二つでも三つでも食べればいい。多かったら葵くんと半分こだ」

 育ちの良さ故か、葵は携帯もスマートフォンも持っていないため、マスターを伝言役に、いつも喫茶店で待ち合わせをしている。

「ケーキケーキ。なあ栗田、甘いものは身体にいいんだゾ」

「きもい言い方やめろ! でもまあ……たまにはいいか。今から行く」

 いかにも渋々言って電話を切ると、栗田は素早く愛用のミリタリーブルゾンに着替え、中之条と志保に店を任せて栗丸堂を出た。

 オレンジ通りにある喫茶店に入ると、ごつい体にV胸当てのカフェエプロンを身につけたマスターに手招きされる。

 軽佻浮薄な戯れ言を全て聞き流して、店の奥へ。

 彼女は壁際の席で、美味しそうにコーヒーを飲んでいた。

「ちっす、葵さん」

 栗田が片手を上げて挨拶すると、葵は綺麗な卵型の顔を上げた。

「こんにちはー、栗田さん。今ってお仕事の方、大丈夫でした?」

「ちょうど一息吐くところだったからな。メインの分は午前中に作っちまってるし、少しのんびりしていっても全然問題ねえよ」

「それは何よりですー」

 葵は白い頬を嬉しそうに緩める。

 その屈託のない笑顔を見た時点で、栗田の胸に渦巻いていた昨夜からの懸案は瞬間的にどこかに吹き飛んだ。

 今は葵と、この時間を味わうことに専念したい。

 葵は艶めく髪と、透明感のある瑞々しい顔立ちと、まろやかに伸びる語尾が特徴的な美人だ。

 去年の十一月にマスターの紹介で出会って、早五ヶ月。

 菓子の問題点の指摘や、新商品作成の協力など、何かと世話になることが多いので、お返しに栗田は葵をしばしば観光案内している。

 葵は浅草が大のお気に入りなのだ。

 地元民の栗田としては率直に嬉しい。

 そんな彼女の今日の装いは、ミディアム丈のスカートと品のいい襟付きのニット。春らしく華やかな魅力が発散されていて、油断するとつい見とれそうになる。

 そういう時、なぜか無意味に仏頂面になるのが昔からの栗田の癖だった。

 咳払いして席につくと、栗田は店員にコーヒーを注文。

 間もなく運ばれてきたそれを少し啜り、気分を落ち着けてから口を開く。

「ところで今日はどうしたんだ?」

「えーとですね。突然であれなんですけど、少々行ってみたい場所がありまして」

「ん、観光か。どこだ? 今ちょうど時間あるし、近場なら連れていくけど」

「よかった」

 葵は胸の前で、ほわっと嬉しそうに両手を合わせた。

「ほんとは栗田さんにお願いできないかなーって思ってたんです。一人で行くのは何だか怖くって」

 怖い? 可愛いことを言う人だなと思い、栗田は無意味に顔を擦る。

「浅草はどこも俺の庭だから心配ねえよ。どこ行きたいんだ?」

「はいー、実はですね。ラスベガスを彷彿とさせる、物凄く派手な建物があると小耳に挟みまして。この日本情緒溢れる町にベガスですよ? 何かもう、気になって気になって、それで今日は衝動の赴くがままにアポなしで来てしまったんです」

 まあいつもアポなしですけど、と付け加える葵の前で栗田はぽかんと惚ける。予想の斜め上を行く発言だった。

「ベガスか……。悪いけど、ちょっと思い当たらねえな。何て名前の建物なんだ?」

「ドン・キホーテ」

「何?」


 それから十分後、浅草にまつわる芸人の看板が道路の両脇に点々と並ぶ六区通りを抜けた先で、栗田と葵は目的の建物を見上げていた。

「ひゃー、ほんとにラスベガスみたいですね。これが噂のドン・キホーテ! 昼間から看板の文字が光ってます!」

「あ、ああ……。あの電飾、夜はもっと派手だぞ」

「クリスマスとかロマンティックそうで楽しみですねー。それにしても演芸ホールのすぐ近くだったなんて。浅草は町全体がいつもお祭りみたいだから不覚にも気づきませんでした」

「ん……。まあ、初めての人は演芸ホールの方に目がいくだろうからな」

 栗田と葵の眼前に屹立する巨大な建物は、全国展開している有名な総合ディスカウントストア。浅草店は建物の装飾がゴージャスで、言われてみればラスベガス感がないわけでもない。

 とはいえ、やはり葵は筋金入りのお嬢様なのだろう。まさかドン・キホーテを知らないとは。他にも案外身近なところを知らなかったりしそうだ。

 今度他の店も試してみようと思いながら、栗田は葵と共に建物に近づく。

 入口に飾られた熱帯魚の水槽――葵はクマノミとイソギンチャクが気になったらしく熱心に見入っていた――を通り過ぎて店内を二人で徘徊した。

「ははー、中はこういう感じだったんですか。カジノの面影はないですね」

「いや、ベガスだから。それだと本物のラスベガスだから。ここは色んなものをディスカウントして売る店なんだ。ほら、あそこに激安の殿堂って書いてるだろ?」

「ほんとだー。笑いの殿堂の近くに、激安の殿堂があるなんて何か面白いですね」

「そ、そうか?」

 横に顔を向けると、並んで歩く葵の笑顔が眩しく、疑念はどうでもよくなる。

「……ま、そうかもな」

 それから二人で店内を見て回りつつ、とりとめもなくお喋りした。

 栗田も普段はあまり足を運ばないため、品揃えの豊富さに内心驚く。葵は興味深そうにそれらを眺めていたが、ふと首を傾げた。

「それにしても栗田さん。この店、どうしてドン・キホーテっていうんでしょうね」

「え?」

「文豪、セルバンテスさんの小説と何か関係があるんでしょうか?」

「……いや、正直考えたこともなかった。全然関係ない気がするけど、社名って割と意表を衝く由来だったりするからな」

 栗田はスマートフォンを取り出すと、ネットで検索してみた。

 すると公式サイトに葵の発言通りのことが書いてあり、目を瞬く。

 社名の由来はセルバンテスの小説。既成の常識や権威に屈しないドン・キホーテのように新しい流通業態の創造を目指すということらしい。

「やー、大変勉強になりました。栗田さんのおかげで、また社交で役立ちそうな蘊蓄が増えてしまいましたよ」

「俺も中之条あたりに教えてみるか。ところで葵さん、そろそろ――」

 後ろ髪を引かれる思いで栗田は口にする。検索したタイミングで、昼休憩の時間がもうすぐ終わることに気づいたのだった。

 栗丸堂は和菓子職人が必ず一人は作業場に待機している方針だから、栗田が外出していると中之条が休憩を取れない。

 ともあれ、短い時間でも一緒に過ごせてよかったと栗田は思う。自分が間違いなく葵との時間を掛け替えのないものだと思っていることを改めて認識した。

「あ、ごめんなさい。少し長居しちゃいましたね」

 葵はすぐに察してくれた。二人で出口に向かう。

「今日はありがとうございました、栗田さん。わたし、おかげでまた一つこの町のことに詳しくなれました」

「おう……。まあ、ドンキは浅草以外にもあるけどな」

「午後からもお仕事、頑張ってくださいねー」

 仕事の邪魔をしたくないのか、葵は速やかに辞去しようとする。そんな彼女のさりげない気遣いは嬉しいが――。

「葵さん!」

「はい?」

 気づけば、なぜか衝動的に呼び止めていた。

 繊細な黒髪をさらりとなびかせて葵が振り返る。

 はっきりした目的はなく、純粋に只の衝動だったので栗田は言葉に迷った。

 降り注ぐ午後の陽光が目に眩しい。微かに首を傾げた葵の優しげな顔は、もともとの肌が白いこともあり、鮮烈な光の中に霞んで溶けていきそうだ。

 そんな彼女の微笑が急に儚いものに見えて、栗田は無意識にかぶりを振っていた。

「いや……。何でもない」

「そうなんですか?」

「ああ」

 不思議そうに両目を瞬く葵を眺めながら、まだ早いと栗田は思う。

 考えるべきことは多いが、一時の衝動で適当なことは言いたくない。もう少し時間が必要だと思った。

「それでは栗田さん、またあの店で!」

 葵は何度か振り返ると爽やかに手を振って、風のように駅方向へ歩き去った。


     *


「やっほー、久しぶり栗くん! 元気してた?」

「まあな。そっちも元気そうじゃねえか」

 栗丸堂に戻ると、甘味茶房でクリームあんみつを食べながら待っていた八神由加が陽気に声をかけてきた。

 爽やかな半袖ブラウスと、裾がリボン状に結ばれたクロップドパンツ姿。ミディアムの髪が風に吹かれたように緩く巻かれている。

 容姿がいかにも活発そうで、実際に活発な性格の由加は、栗田と同じ小中学校に通っていた幼馴染だ。今はグルメ雑誌のライターをしている。

 経費で美味しいものをじゃんじゃん食べられて超お得――と公言して憚らない安直な性格だが、根は情に厚い下町っ子なので近所の皆に好かれている。

「で、何だ? 今日はまた会社の金で飲み食いか?」

 栗田が訊くと、ぶーと由加は声に出して言った。

「ここではいつも自腹切ってるよ」

「お、流石」

「でしょ? そんな偉いあたしに栗くんはご褒美をくれてもいいと思うんだ。ちょっとお願い、きいてくれない?」

「また強引に切り出してきたな……。とりあえず待ってろ」

 栗田は白衣に着替えて作業場に戻ると、中之条と仕事を交替して必要な作業をチェックした。

 早急に着手すべき作業は特になかったので戻ると、他に客のいない茶房で、由加はお茶を飲みながらテーブルに置いたプリント用紙を眺めている。

「何だそれ?」

「これはねー、あたしが作った取材用の資料!」

 見れば、用紙には店の名前と地図が羅列されていた。一番上には太い書体で『あんみつ食べ歩き計画』というタイトルがある。

「あんみつの記事でも書くのか?」

「正解! で、お願いっていうのはその件なんだけどぉ」

 急に由加が身を乗り出してきたので栗田は少し仰け反る。

「今度うちの雑誌で『初夏に食べたい涼スイーツ特集』ってのをやることになって、あたしは和菓子担当になったの。で、涼しげな和菓子って言ったら夏の風物詩こと、あんみつでしょ?」

「他にも水羊羹とか葛饅頭とかあるけどな。でも確かにあんみつは分かりやすい」

「ん。栗くんの店のあんみつは食べ慣れてるせいか、やっぱり美味しいね。でもせっかくの機会だから、今回は根本的なところから調べてみようと思って」

「根本的……?」

 すると由加は指で拳銃に似た形を作って顎先へ添えた。

「実はあたし、昔から疑問に思ってたの。あんみつと似た名前の和菓子って色々あるでしょ? クリームあんみつとか、白玉あんみつとか、みつ豆とか。そういうのが各々どう違うのかなって――」

「クリームあんみつはクリームが入ったあんみつで、白玉あんみつは白玉を入れたあんみつで……」

「わー! 栗くん、ここで言っちゃ駄目!」

 由加は両手をばたつかせて栗田の言葉を封じた。

「何だよ?」

「もう! ここで簡単に教わったら取材の意味がないでしょ? 色んなお店を巡って店主さんと話しながら、謎を解明していく予定なんだから」

「ああ、色々とプランがあるわけか」

「というわけで栗くん。次の定休日、あたしの取材に付き合ってくれない?」

 どういうわけなのか全く不明だが、由加は自信たっぷりに胸をぽんと叩いた。

「ちゃんと栗くんの分も経費で落とすから。名店のあんみつ食べ放題だよ? もちろんついて来てくれるよね?」

「いや、俺は――」

「来てくれるでしょ……?」

 切実な様子で見つめられて栗田は断るのを躊躇する。

 子供の頃からの付き合いだ。由加とどこかに行くと振り回されるのが最初から分かっているのだが――。

「いいじゃないか。行っておやりよ」

 背後から志保が声をかけてきた。

「由加ちゃんは忙しそうな時でも、しょっちゅう店に来てくれるし、たまには付き合ったって罰は当たんないだろ」

「そうそう!」

「幼馴染の頼みは聞いとくもんさ」

「うんうん! それじゃ栗くん、今度の定休日は空けておいてね!」

 反論する間もなく、由加と志保、二人の合わせ技で強引に押し切られた。


 一緒に取材に行く約束を取り付けた後の由加は終始ご機嫌だったが、帰り際にレジで会計を済ませた後、ふと思い出したという風に口を開いた。

「ところで栗くん、最近喧嘩とかした?」

「喧嘩? 唐突だな」

 栗田は困惑気味にかぶりを振る。

「別にしてないが、何でそんなこと訊くんだ?」

「ん、ちょっと思い出したことがあって。あのね? 今日ここに来た時、ぼろぼろに汚れた服を着た変な人が、店の外をうろついてたの」

「変な人……? 何がどう変なんだよ」

「いや、それは説明しにくんだけど、妙に態度がこそこそしてたというか。服は凄く汚れてたけど、結構若い感じでね? たぶんあたしたちと同じか、少し下くらい。てっきり栗くんに喧嘩で負けた相手が、仕返しのために変装して店の様子を探ってたのかなと」

「いや、ないな。俺、そんな奴と喧嘩した覚えなんか全くねえし――」

 と、言い終える前に栗田は口を噤む。思いついた心当たりが一つだけあった。

「……そいつ浅羽じゃなかったか?」

「え、浅羽くん?」

 由加は驚いたように両目を見開き、それから苦笑して掌を横に振った。

「違う違う。それはないよ」

「そうなのか?」

「うん。だって浅羽くんって背、高いでしょ。その人は低かった。あたしが大声出したら速攻で逃げちゃったし、性格もヘタレ。何にせよ栗くんの相手じゃないね」

 それでも地味に気にはなる。今後は少し気をつけるかと目を鋭くする栗田に、仕方なさそうに笑って由加は訊いた。

「また喧嘩してるの? 浅羽くんと」

「……別に」

「まーいいけど。程々にね」

 由加は器用に片目を瞑ると、弾むような足どりで栗丸堂を出ていった。


     *


 あんみつを最初に作ったのは、銀座にある明治創業の老舗。

 当時は汁粉屋だったその店の二代目が、自慢の餡をより活かそうと工夫を重ね、昭和五年に考案したものだとされている。

 木曜――栗丸堂の定休日。そのあんみつ発祥の老舗甘味処に栗田と由加はいた。

 有名ビルの地下にあるレトロなその店の中で、独特の雰囲気に浸りながら二人が食べているのは、昔と同じ製法で作られているという元祖あんみつ。

 さいころ状に切られた半透明の寒天と、自然な黒さの赤えんどう豆をスプーンにたっぷり掬って頬張ると、由加は幸せそうなえびす顔になる。

「んー……まっ!」

 笑顔が弾けそうだ。寒天の上のサクランボと同じ色の由加の唇がにんまり綻ぶ。

「お前って、ほんと美味しそうに食べるよな」

「だって美味しいんだもん。甘くて酸っぱくて、しょっぱくて甘くて最高!」

「『甘くて』を二回言った……。でもまあ、確かにこれは旨い」

 栗田もスプーンにあんみつを掬って口に放り込む。

 心地いい硬さの赤えんどう豆と、甘くもちっとした求肥。

 こりこりした歯応えの角切り寒天と、ねっちりと濃厚な餡の柔らかさ。

 各々の食感が互いを引き立てていて味もバランスがいい。

 黒糖の風味が豊かな蜜の甘味は、蜜柑やパイナップルの酸味と不思議なほど相性がよく、こし餡の甘味は自然で素朴ながらも、しっかりと腰が入っている。

 そこに、たっぷり盛りつけられた赤えんどう豆の控えめな塩気が絶妙のアクセントになっていた。

 冷たい菓子に限らないが、塩味と甘味は合う。フルーツの酸味で更に深みが増す。

 その上で全体が品良く調和しており、控えめに後を引く甘さ。決して派手ではないが、いつまでも食べていたくなる匠の味だった。

「ところで栗くん、唐突な質問なんだけど」

「ん、何だ?」

「『あんみつ姫』って知ってる?」

「マジで唐突だな……。まあ分かるけど。昔のアニメだろ?」

 観たことはないが、死んだ母から聞いて一応知っている。主人公がどこかの城のお姫様で、名前があんみつ姫だということしか覚えていないが。

「あれってやっぱり江戸時代の話なのよね? 戦国時代ではなさそうだし」

 由加の質問に、栗田は側頭部を掻いて唸る。

「んー……。俺、タイトルは知ってるけど、実際に観たことはねえんだよ」

「そーなん? ま、あたしもCSで一回観ただけなんだけど」

「何だよ」

「でも、江戸時代だとしたら変じゃない? 当時あんみつってないわけでしょ。みつ豆に餡を入れたものがあんみつ。この店で昭和五年に考案されたものなんだから」

「お、そういやそうだな」

 その辺りの時代考証に拘る作品ではないのだろうと思いながら栗田は続ける。

「ただ、あんみつはなくても、みつ豆はあった。江戸時代の末には既に原形が屋台で売られてたらしいからな。だから正確にはたぶん、みつ豆姫なんだけど、あんみつ姫の方が語感が可愛いからそうしたんじゃないか?」

「へえ……! みつ豆って江戸時代からあったんだ?」

「まあ、江戸時代のみつ豆はこんなに豪華じゃなく、豆と蜜が主体の簡単なものだったらしいけど。今みたいに寒天とか果物が盛り沢山の形になったのは、明治時代に浅草の某老舗和菓子屋が大人向けの甘味として売り出したのが起源だとされている。だから江戸時代のみつ豆は、ある意味、豆かんよりシンプルだったのかもな」

「豆かん?」

 不思議そうに問う由加に、栗田は軽く眉を上げた。

「何だよ、取材の予定を入れてないのか? この手の記事に豆かんは必須だぞ。豆と寒天に黒蜜をかけただけのもので、『豆寒天』だから豆かんっていうんだが――」

 これも発祥は浅草で、豆と寒天だけのシンプルな甘味が食べたいと客に言われたのが端緒らしい。

 浅草寺を抜けた少し北西に、赤い庇が目印の元祖豆かんの店があり、地元の常連と観光客でいつもほのぼのした賑わいを見せている。

「ふーん……。ってことは順番的にはこんな感じ? まず江戸時代にみつ豆の原形があった。今みたいな形のみつ豆は明治時代に完成して、それを元に色んな人がアレンジを加えて、あんみつや豆かんができた」

「だな」

 栗田は首肯した。

「ただ、老舗の職人の間では異説もあって、ほんとの最初は心太だと主張する者もいる。心太は関西だと黒蜜をかけて食べるデザートだが、江戸時代にもおやつとして好まれていたからな。当時は醤油か砂糖をかけて食べていたらしい。それを黒蜜にして心太を四角い形に変えたのが、みつ豆の起源だという……まあ、その辺は店の個性付けって話かもしれないけど」

 海藻の一種であるテングサを原料に心太は作られる。

 その心太を凍らせ、乾燥させてできるのが寒天だから、根本的な材料は同じだ。もしかしたら、そこに豆を投入しようと考えた和菓子職人もいたかもしれない。

 真偽は定かでないが、歴史に埋もれた事実も多々あるだろう。安直に決め付けず、幅広く情報を集めて自分の頭で判断を下すことが大事だ――と栗田が言うと、

「さっすが栗くん、勉強になる!」

 由加は興奮気味に何度も頷き、それ以上に凄い勢いであんみつを食べた。

 と、不意に目まぐるしく動いていた由加のスプーンの動きがぴたりと止まる。

「あーっ!」

「うお、どうした突然?」

「その辺のこと、お店の人に聞く予定だったのに、全部栗くんに聞いちゃった!」

「……じゃ、今の話は聞かなかったことにするしかないな」

 それから由加は店の主人に同じ質問をして、似た答えを返してもらっていた。