猫が股間に戻ってきた。

 なにを言っているかわからないと思うが、こういうことだ。

 俺は上半身を起こして掛け布団を捲る。俺の股で眠っている二つの灰色の毛玉をつまむと、ぽろりと手足、しっぽがこぼれて仔猫に変化する。

「おい、布団に潜るなら足下にという約束だっただろ」

 つまんだ仔猫たちをブラブラと揺らしながら睨みつける。小さな灰色の猫たちは大きくあくびをしてから前足で顔を洗い、緑色の目で俺を睨み返す。

 俺は仔猫たちを布団の外に放り出すと立ち上がり、顔を洗いに台所へ向かう。

 なんちゃって神社生活も約半年。秋も深まる十月。朝晩は肌寒くなってきた。もう少ししたら神社を囲む紅葉樹が色を変え始めるだろう。紅葉はちょっと楽しみだけど、落葉し始めたら掃除が面倒だな。

 夏はさすがに布団を避けていた仔猫たちも、今では布団を敷いたとたん潜り込んでくる。しかも、さらなる暖を求めて俺の股で丸くなる始末。

 顔を洗って戻ってくると、仔猫から幼児の姿になった双子の化け猫、グレイシーとグレイヒーが仲良く布団にくるまっていた。

 俺はガムテープでスウェットの内股についた猫の毛を取りながら文句を言う。

「許可したのは足下だぞ。それ以外の場所に潜り込むな」

「確かに足下には隙間があるな、人間」

「背が低いからな、人間」

 こいつら人のコンプレックスを。

 ホント、口を開くと可愛さ一〇〇%OFF!

「そんなことよりそろそろ炬燵を用意するがいい、人間」

「炬燵を用意するがいい、人間」

 相変わらずの上から目線で物を言う。

「そんなことよりじゃねーよ。それに炬燵なんか持ってねーよ」

 ヒーとシーが大きな目をつり上げる。

「炬燵を持っていない人間など、なんの存在価値があるのか」

「炬燵を持っていない人間など、滅びればよいのだ」

 お前らどんだけ炬燵ラブ。

「炬燵だ、炬燵」

「炬燵のない冬など」

 ギャーギャー騒ぐ子どもたちから布団を奪い、畳んで押し入れにしまうと、パソコンの前に座りメールチェックを始める。

 炬燵か……。

 築百年近いこの家には防寒対策などない。エアコンを付けるのは建築的にも予算的にも難しい。断熱性も低いだろうからストーブだけだと心許ないな。確かに炬燵は欲しいが……。

 メールチェックを終えたので、ネットショップで炬燵を検索してみる。

 一人用の炬燵なら一万円以下のものが結構あるぞ。

「買うか」

 仔猫たちの言いなりになる気がして悔しいが、ここで一冬越すには確かに必要だ。

 購入ボタンを押すかどうしようか、マウスをあてて考え込んでいると、背後の襖をガリガリと引っ掻く音がした。上半身をねじって腕を伸ばし襖を開けてやると、するりと音もなくでっかい虎猫が冷たい朝の空気を纏って部屋に入ってきた。

「最近、朝帰りが多いな」

 虎猫から長身の美丈夫に姿を変え、愛用の藍色の着物を身につけた虎がギロリと俺を睨む。

「なんか文句あるか?」

「べつにありません」

 パソコンに視線を戻し、並ぶ炬燵の写真を前にもう一度迷い出す。同程度の価格なら機能はほぼ同じ。あとはデザインと多少のサイズの違い。

 背後から逞しい腕が伸びてきて、古くさい、もといなんとなく懐かしさを感じる炬燵を指さした。

 大きな鞠柄の絵が入った赤い炬燵布団に、いかにも合板といった安っぽい本体。

 同じような値段で北欧デザインのシンプルでスタイリッシュなものや、リバーシブルデザインの機能的なものもある。

「……これがいいのか?」

 虎がうなずく。

 うわー、だっせー。イケメンでもセンス皆無。確かにコイツの頭の中、大正時代あたりで止まっているわ。

 こういうのはド田舎の古くさい家なら……、ってここも似たようなものか。

 前に住んでいた麻布のデザイナーズマンションならあり得ないが、築約百年の平屋ならむしろこれぐらい野暮ったい炬燵のほうが似合うな。虎に逆らって蹴りが飛んできてもイヤだし、他の炬燵より千円ほど安いし。

 俺は購入ボタンを押した。

「炬燵か」

「炬燵が来るのか」

 金魚柄の着物を着たシーとヒーが四つん這いで近づいてきて、パソコンをのぞき込み裾からはみ出たしっぽで畳を叩いて興奮を表す。

 俺の前ではすっかり変化を怠けるようになった。

「ところで最近、神社のまわりをうろついてる輩がいる。心当たりはあるか?」

 虎が若干のイラつきを見せる。歪めた口の端から、ちらりと牙に似た犬歯が覗く。

「へ?」

 俺に尋ねるということは、猫ではなく人間なんだな。

 うーむ、と腕を組んで記憶を引っかき回す。俺に会いに来る人間がいるとは思えないし、ストーカーされるようなイケメンではないと自覚している。

 となると考えられるのは二つ。

 一つ。賽銭泥棒が下見に来ている。

 夏祭り以降若干参拝者が増えたが、一日平均〇・一人だったところが、〇・三人になった程度。つまり参拝者のいない日のほうが多いし、賽銭なんて五円や十円。盗まれたところでダメージはない。賽銭よりも賽銭箱を盗まれたほうが辛いな。賽銭箱のない神社って、気の抜けたコーラみたいじゃないか。なんちゃって神社が言うことでもないが。

 しかし神社を数日見張っていたなら、賽銭なんてほとんどないことがわかるだろう。

 俺はひとつ目の案を却下する。

 二つ目。虎に対するストーカー。悔しいが、猫の時は不細工なくせに、人間になると恐ろしい美形で男性フェロモン垂れ流し。

 人の姿を近所の人に目撃されているようだしな。ていうか本人もあまり気にしないで、女子中学生とかと話しちゃうし。妖怪って自覚あるのか? 妖怪が簡単に人前に出ちゃっていいの?

「俺にはない。むしろ、お前のほうにはないのか?」

 批難も込めて答えると、虎は意味不明といったように首を傾げる。

「そいつの顔とか背丈とかわからないのか?」

「気配とにおいだけだ。まあ、いい」

 虎はすでに興味を失ったようで、ごろりと畳の上に寝転がる。

 ヤツにしてみれば、自分の縄張りに小蠅が飛んでいてちょっとウザイ程度だろう。

 相手がどんな人間だろうと、虎の敵ではないのだから。

 虎は乱暴で暴力的だが、自宅警備員としてはこれ以上頼りになるヤツはいないと最近はポジティブに考えるようになった。

 境内に唾を吐いたチンピラ詐欺師を再起不能なぐらいボコボコにしたのも記憶に新しい。

 三匹もの化け猫が棲まう神社は無敵だ。

 お陰で夏はクーラーがないために窓という窓を全開にして寝ていたが、まったく不安はなかった。時々、蚊に食われて辟易したが。

 蚊に対して、化け猫はなんの効力も発揮しなかったことを追記しておこう。

 気がつけば子どもたちも小さな寝息を立てている。

 やれやれ、静かになったな。

 さて、虎に蹴られる前に境内の掃除でもするか。

 腕時計を見れは七時半。いつもより三十分ほど早いので、賽銭箱の中身でも確認しようと鍵をポケットに入れて境内に下りる。

 夏は青葉のにおいが強かったが、今は乾いた葉と土のにおいが強い。

 季節ににおいがあることをここに来て知った。

 顔を上げると秋晴れの澄んだ青空が広がっている。

 久しぶりに賽銭箱を開けると、折りたたまれた画用紙が入っていた。開いてみると、ネズミの絵と五円玉。

『友だちができますように』

 ネズミを奉納すると願いが叶うという噂はまだ健在らしい。

 色鉛筆で描かれた拙すぎる絵とバランスの悪い文字から推測するに、この願いの主は子どもだな。

 画用紙を畳んで五円玉と一緒にズボンの後ろポケットにしまうと、箒で石畳を掃き始める。

 本殿から鳥居に向かってゆっくりとゴミを掃いていると、ガタガタガタとおもちゃ箱でも揺らしているような音が近づいてきた。同時にチリンチリンと弾むような鈴の音。

 顔を上げると、ちょうど階段を上り切って鳥居の下にやって来た小学生の男の子と目が合った。

 ガタガタ鳴っていたのはランドセルの中身だったのかと納得する。ちなみにチリンチリンの音はランドセルに取り付けられていた鈴付の御守りからだ。

 男の子は鳥居の下でランドセルのショルダーベルトを掴んだまま立ち竦んでいる。

 無人と思っていた神社に俺がいて驚いたのだろう。

 朝晩は障子もガラス戸も閉め切っているし、俺が掃除をするのはもう少し後の時間だしな。

「お参り? どうぞ」

 道を譲るように石畳の端によると、男の子は小さく頭を下げて本殿へ進む。

 ふむ。幼いながら礼儀正しい子だ。小学二、三年ってところだろうか。パンパンと手を叩く音が響く。

 男の子は帰りも俺に小さく頭を下げ、少し気まずそうに神社を去っていった。

 もしかして「友だちができますように」って賽銭箱に入れたの、彼かな?

 ま、どうでもいいけど。

 俺はゴミを石階段の下まで掃ききって集めると、ちりとりの中に追い込む。よし、朝の掃除終わり、と屈めた背を伸ばして手を腰に当て体を反らす。

「さて、家に戻って仕事だ、仕事」

 最近はちょっと顧客獲得が目標数に達していない。ので、気合いを入れなければ。




 会社が倒産し、貯金を失った俺が家賃無料に飛びついた物件には三匹の化け猫が棲んでいた。

 はじめこそ対立もしたし、反発もした。が、結局なんやかんだで今に至る。

 化け猫たちとの同居は居心地がよいわけではないが、そんなに悪くもないといったところで、季節は春から夏を通り越し、秋を迎えた。

 十月中旬、縁側からだいぶ高くなった空を見上げて、小さく息を吐く。

「都心生活に帰りたいな」

 決して悪くはない生活だからこそ、このまま郊外の生温い雰囲気に慣れてしまってはいけないと思う。

 この程度でいいか、と思った時点で人は堕落し、自分に負ける。

 当初の目的、三十歳になる前に業績を立て直して元の生活に戻るという野望は変わらない。

 都心の快適で刺激的な生活。

 俺はこんな郊外でこぢんまりと在宅ワークをしている人間じゃない。もっと、世の中心に出たいのだ。

 実は少し焦っている。

 予想よりも上がらない業績、収入。

「くそっ!」

 立ち上がり、なんとなしに境内に出る。

 秋晴れのうららかな昼下がり、グレイシーとグレイヒーが鳥居の下で灰色団子になって眠っていた。

 気分転換にラジオ体操の真似事などして体をほぐす。

「気持ちのいい日差しだな」

 シーとヒーに倣って鳥居の下に腰掛けた。

 もっと秋が深まれば、昼間でも寒くてこんなふうに日光浴などできなくなるだろう。

 ポカポカとお日様が気持ちいい。夏とは違った、落ち着いた木々のにおいも心を落ち着かせる。

 なんとなくいい気分でそっと手を伸ばし、シーとヒーの毛を撫でる。

 小さなしっぽが、俺の手をピシッと叩く。

 俺に撫でられるのはイヤらしい。

 仔猫から手を離してぼーっと街を見下ろしていると、聞き覚えのある黄色い声の集団がやって来た。

「あー、和兄」

「和己兄さんいたー」

「いたいたぁ」

 いたいたって、もう珍獣扱いにも慣れた。

 元ダンスチームのG7(ガールズ・セブン改め、ジンジャー・セブン)の面々が階段を駆け上ってくる。

 波のように押し寄せる彼女らからとっさに逃げることもできず、六人の女子中学生に包囲される。

「今日はお願いがあって」

「あ、仔猫、カワイー」

「ヤバイ」

「猫、触っていい?」

「和兄に頼みが」

「仔猫だぁ」

 俺は聖徳太子じゃないんで、六人がいっぺんにしゃべったら聞き取れんわ。

 シーとヒーは我関せずと眠り続けていたが、彼女たちが手を伸ばすと、触れられる直前にひらりと身をかわして近くの木に登ってしまった。

「あーあ」

「人に慣れていないんだ」

 残念そうに木を見上げる彼女たち。

 仔猫たちは太い枝の上にアメーバのようにへばりつき、しっぽを絡ませて再び緑色の瞳を閉じてしまう。

「もう帰宅? 早いんだな。みんな部活動とかしていないわけ?」

 六人がブンブンと首を振る。

「来週は文化祭だから、授業後はみんな文化祭の準備」

「で、今日はクラスの出し物でも、部活の出し物でもなく、G7の準備をするんだ」

「G7? 解散していないの? もう七人いないじゃん」

 七人だったダンスチームは、夏休み明けに北海道に引っ越してしまった梨子が抜けて六人になったはず。

 四天王なのに三人しかいない……みたいな?

 芹花が胸を反らし断言する。

「たとえ梨子がここにいなくとも、彼女はいつもあたしたちと一緒にいるの!」

「……それって、解釈によってはホラーだな」

 俺の感想に芹花たちはムキになって言い返す。

「私たちの友情は距離なんて関係ないってこと!」

「そう、例え離れていても永遠に繋がっているの!」

「はい、はい、はい」

 もう面倒なので適当にうなずく。

「で、話は逸れたけど、夏祭りにあたしたちの踊りを見てくれた友だちがね、文化祭の催し物として推薦してくれたの。また、みんなの前で踊れるんだ」

「というわけで、今日は朱音の家で衣装を作るの」

「ちょっと改造して、もっと派手にしようと思って」

「で、これパンフレットとチラシ。チラシ、どこかに貼ってくれない?」

「和兄も暇なら来てよ」

 押しつけるように差し出されたパンフレットとチラシを受け取る。

「チラシを貼るのはいいけど、そもそも参詣者なんかいないぞ」

 松川さんでさえ、最近は寒いせいか仔猫たちの世話に忙しいのか、一週間に一度顔を出すかどうかだ。

「いいの、いいの。貼ってくれているってことが嬉しいの」

「和兄さんも来てくれたら、うちのクラスでやる喫茶店のコーヒー一杯奢るよ」

「美術部で売る絵はがき、一枚ただであげる」

「……ありがとう。時間があったらいくよ。あくまで時間があったら」

 ふと、視線を感じた。

 俺はミーアキャットのように背筋を伸ばして周囲を見回す。

「和兄?」

「なに?」

 彼女たちも俺に釣られてキョロキョロと目と首を動かす。

「あ、いや、なんでもない」

 誰かが神社の周りをうろついている気配がするなんて虎が言うから、つい神経質になってしまったんだな。

 たとえ誰かが悪意を持って周りを徘徊していようとも、うちには最強の自宅警備員に、人類に敵意を持っているチビセ○ムがいるのだ。コイツらが境内にいるかぎりは、たぶん安全だ。

 うん、神社は安全だ。

 その安全の中に俺が含まれているかは疑問だが。

 六人になったG7が去っていって、境内に静寂が訪れる。

 そろそろ仕事に戻るか、と立ち上がろうとした時、いつの間にか階段下に立っていた小学生と目が合った。

 ――ショウガクセイガ、仲間ニナリタソウナ目デ、コチラヲ見テイル。

 某RPGゲームのBGMが脳内再生されちゃったよ。

 なにか言いたげにこっちを見ている男の子には見覚えがあった。数日前の朝に参拝した子だ。

 間違いない。水色に黄色の縁取りがついたランドセルにも覚えがある。

「参拝ならどうぞ」

 道を譲るように尻をずらして階段脇に身を寄せれば、男の子は少し躊躇った後にゆっくりとこちらに近づいてきた。

 そのまま通り過ぎて本殿に向かうのかと思ったら、彼は俺の前で立ち止まる。

 最近のランドセルはオシャレだなと感心していると、男の子がふいに口を開く。

「お兄さん、どうしたら友だちって作れますか?」

「え?」

 いきなり話しかけられ、しかも友だちの作り方なんて聞かれて狼狽える。

 な、なんなんだ。

「え、えと……」

 答えあぐねていると、男の子は俺と同じ段にストンと腰を下ろし膝を抱え、膝小僧に顔を埋める。

 ランドセルについた御守りの鈴がチリンと小さな音を立てる。

 男の子が膝を抱えたまま俺を見上げる。

「お兄さん、神社の人だったんですね。僕、この神社に人がいるとは思わなかった」

 だろうな。

 夏と違って、今はガラス戸も障子も閉め切っている時間が長いからな。

 それに土地も本殿もちっぽけだし。

「友だちができますように、って願いを書いたのキミ?」

 男の子が無言でうなずく。

「僕、羽村小学校三年一組、鈴木史也です。お兄さんはお友だちがいっぱいいます。どうしたらそうなれるのか教えてください」

「友だち?」

「たくさんの中学生に囲まれていました」

「……友だちじゃねーよ」

 男の子、史也くんは目を丸くする。

「でも、とても仲良くおしゃべりしてました」

 そういえばあいつら、一回り以上も年上の俺にタメ口だな。出会った当初からそうだったから、今さらなにか言ったところで変わらないだろうな。

「友だちがいないって、ひとりも? 学校で誰とも話したりしないの?」

 史也は膝小僧の上に顎を乗せてしばし考え込む。

「挨拶とか、少しはするけど……でも、放課後に遊んだり、マンガの貸し借りをしたり、家に呼んだり呼ばれたり、そういうのはないです。お兄さんは僕ぐらいの時、お友だちとどんな話や遊びをしたの?」

「俺の時は……」

 あれ? 俺にもないぞ、そんな思い出。

 小学生の時、俺にはどんな友だちがいたっけ。中学生の時には?

 木の葉の香りがツンと鼻の奥に染みる。


 基本的に他人は信用しない。

 それは親とて同じこと。

 いやむしろ親に教えられたんだ。

 人間関係なんて所詮利害の一致で成り立つもの。親子でさえ。

 そう学習したのは国立大付属小学校受験に落ちた時だった。

 とことん落胆した両親は、俺のことを異質な物体を見るような目をしていた。

 ――お兄ちゃんにはできたのに。

 ――同じ遺伝子を持つあんたはなんでできないの?

 ――本当に私たちの子?

 期待に応えられない人間は幽霊になる。

 俺は親に無視された。

 でもネグレクトじゃない。

 ちゃんと学費も出してくれたし、食事も与えてくれた。

 ただ、なにも期待されなかった。

 透明人間になった。

 そして、人との関わり方がわからなくなった。

 理想の親、理想の子、お互いに利害が一致して温かい家庭が生まれる。

 親の期待に沿えない子どもは、理想の家族の汚点として排除される。

 相手と付き合うメリットとデメリット、それを無意識に計算するようになった。

 だけど俺はバカじゃなかった。

 いつも親の顔色を見ていた俺は、幼いながらも処世術をいつの間にか身につけていた。

 あたりさわりのない会話。相手の話に興味を持つふり。

 クラスメイトたちとはつかず離れず表面的には穏やかに、先生ともうまくやっていた。

 イジメに遭ったこともないし、クラス委員長になったりもした。

 でも……、席が離れれば、クラスが変われば、学校を卒業すれば、簡単に消える人間関係。

 べつに構わない。

 次の人間関係が生まれるだけだ。


「お兄さん?」

 ずっと沈黙しっぱなしの俺を不審に思ったのか、史也くんが膝から顔を上げて不安そうな目をしている。

 我に返った俺はコホンとひとつ咳払い。

「そういうのは自然にできるものだから肩の力を抜いて気楽にしていればいいんだよ。イジメに遭っているわけじゃないんだろ。小説やマンガに出てくるような友情なんて都市伝説みたいなもんだ。それに一人のほうがいいこともあるぞ」

「どんな!?」

「勉強に集中できる」

「……勉強」

 史也くんがあからさまにがっかりする。

「一番大事だぞ。勉強さえできれば、人生一発逆転ができる。今、友だちができなくても、将来優秀な人材と出会うことができる」

 しかし、まだ幼い史也くんにはわからない。彼はつるんとしたゆで卵のような額の下、眉間にしわを寄せるばかりだ。

「たわいもない話をする相手がいるだけで十分。小説やマンガみたいに一生友だちでいるとか、友情のためなら命をかけるとかなんてのはファンタジーだ」

「子どもの頃のお兄さんにはお友だちがいなかったんですか?」

「まあ……なにを基準に友だちというのかは人それぞれだと思うけど。俺にとっての友だちは確かにいたよ」

 例えば、小学校の時に一緒に図書委員をした吉山くんとは、好きな本についてよく話し合った。

 中学の時はずっと同じクラスだった藤本くんと、休み時間に当時流行っていたゲームを一緒にやった。

 高校の時は英語研究部の部員たちと、ハリウッド映画について語り合っていた。

 大学の時は広告研究サークルの仲間たちと、よく飲みに行った。

 今では交流はなく、どうしているかまったくわからない友だち。

 その場限りの、それでも確かに友人だった。

 そして、一番新しい友だちは……。いや、友だちといっていいのか迷うが……。

 俺は一人の男を思い浮かべる。

 社会人になって心の内を話せる相手、将来の夢を語れる、そんな誰かが現れるなんて。

 俺は……、本当は俺は。

 って、え!?

 頭に浮かんだ彼の顔が、今まさに視界に飛び込んできた。

「お兄さん?」

 史也くんの声も聞こえないほど、俺は混乱していた。

 回想が現実になった?

 いや、そんなはずは……。

 社会人になり、独立を考えるようになり、将来を語る相手と意気投合し、それなら一緒にやってみるかと肩を組んだ相手……。

 俺はゆらりと立ち上がった。

「な……なんでお前がいるんだよ」

 ネイビーのスーツを着た男が道から鳥居を見上げていた。

 一番会いたくない人間が、信じられないといった表情でこちらを見ていた。

 篠原恭介。

 二年前に一緒に会社を立ち上げ、その一年半後に俺を裏切った男。

 そいつがB4サイズの茶封筒を小脇に抱えて、俺を見つめている。

「住所を見て来たんだけど、まさか神社で暮らしているなんて思わなかった」

「なんだよ、俺を笑いに来たのかよ。この境遇はお前が作ったんだからな!」

「まさか」

 篠原が胸の前で大きく手を振りながら階段を上ってくる。

「なっ、なっ、なにしに来た!」

 近寄ってくる篠原に俺は戦き威嚇する。ここなら絶対に会わないと思っていたのに。

 最後の友だち、パートナーと思っていた男がゆっくりと近づいてくる。

 中肉中背の、人の良さそうな微笑みを浮かべた、いかにもできる営業マン的な清潔感のある男。

 かつてのパートナーで、裏切り者。

 そいつが今、俺の目の前にいる。

 握った拳に熱が籠もる。

「お兄さんのお友だちですか?」

 史也くんが小首を傾げる。

「そう。お友だち。篠原恭介っていうんだ」

「僕は鈴木史也です」

「史也くんか。ちゃんと挨拶ができるなんていい子だな」

「違う。友だちなんかじゃない」

 俺は史也くんに訂正すると、篠原のヤツがヘラヘラと付け加える。

「うん、そうだな。昔、友だちだった。ケンカして、今は友だちじゃなくなったけど、仲直りして、もう一度友だちになりたいと思っているんだ」

 なにが仲直りだ、ふざけんな。

「お兄さん、ケンカしているんですか? 仲直りしたほうがいいです」

 事情をまったく知らない史也くんが無邪気に言う。

「そうだよねぇ」

 篠原、お前も小学生を味方につけようとか卑怯な真似すんなっ!

 ってか、なんで俺の居場所を? 俺は誰にも転居を伝えていない。

「岩倉の講演会を見つけて、主催者に尋ねたんだ。そしたらここの住所が。といっても、寂れた神社で誰かが住んでいるとは思えなくて、何日かこの周りをウロウロしていたけど。今日、岩倉の姿を確認できてよかった」

 虎が感じていた気配は史也くんではなく、篠原のものか? そんなことはどうでもいい!

「周りをウロウロって暇なのか。俺から奪っていった仕事を誰かに奪われたのか」

 因果応報、そうであってくれという願望がついぽろりと口から零れる。

「いや、仕事は順調に大きくなっている」

 なんだと、くそっ。

「この辺りには二軒大きなクライアントがあって、ついでに様子を見に来ていたんだ」

 ついでかよ。ついでにストーカーかよ。

「よかった。連絡取りたかったけど、電話番号変えただろ。以前の家に訪ねたけど、もう違う人が居住していて。その……元気だったか?」

 元気だったかだとっ!?

 お前のせいで、こっちは寂れた街で化け猫と同居するはめになったんだぞ。毎日、掃除三昧で筋肉痛……は、もう慣れたから大丈夫だけど、ちょっとでも手抜きしたら化け猫の蹴りが飛んでくる生活なんだからなっ!

 と、言えるはずもなく、俺はできうるかぎりの険しい顔で睨みつける。

 篠原は弱ったような困ったような顔をして、やや躊躇いがちに封筒を俺に差し出した。