プロローグ


 イルザの濡れた瞳に恋をする。

 静謐な夜のしじまに、無色透明な未来が滲んでいた。


「優雅! 戻って来い! 円陣を組むぞ!」

 ゴール前のグラウンド状態を確認していたら、僕を呼ぶ声が聞こえた。

 ベンチ前に集まる仲間たちの中心に、キャプテンマークを巻いた背番号5、桐原伊織が立っている。夏休み前の身長測定で、伊織は百九十二センチを計測していた。チーム最高身長ではあるものの、レッドスワンには長身選手が多いため、伊織ですら高さでは目立たない。

 監督、マネージャー、そして、アシスタントコーチである僕、高槻優雅を含めた二十四人全員で肩を組んでいく。

「もう一度、胸に刻むぞ。高校選手権に出場出来なければレッドスワンは廃部になる」

 円陣を組んだチームメイトに、伊織が檄を飛ばす。

「これからの三ヶ月でレッドスワンの未来が決まる。練習試合とはいえ、今日の敵はインターハイで美波高校が倒したチームだ。俺たちにとっても倒さなきゃならないレベルの相手で間違いない。勝利を重ね、レッドスワンの誇りを取り戻す。行くぞ!」

 全員の発声が重なり、先発メンバーがフィールドに散っていく。

 監督である舞原世怜奈の指示を受け、初戦は僕がテクニカルエリアに立つことになっていた。

「優雅、コーチングは頼んだからな!」

「ああ。任せろ」

 僕と拳を突き合わせてから、最後に伊織がフィールドに入っていった。


 私立赤羽高等学校サッカー部、通称『レッドスワン』の存続を賭けて戦ったインターハイ予選。

 今でも夢に見る、あの痛恨の敗北から、既に二ヶ月という時が過ぎていた。

『新潟県の高校サッカーを二強が支配する時代は、今大会で終わりです。美波高校も、偕成学園も、私が指揮するチームの敵じゃない。選手権予選でまた会いましょう』

 偕成学園に敗戦した直後の監督インタビューで、世怜奈先生がありったけの大言壮語を吐き、SNSを介してその動画が拡散されて以来、レッドスワンに集まる注目は全国規模のものになった。結果的にそれが功を奏して、部を存続させるためのチャンスがもう一度だけ与えられたわけだが、突き付けられた危機的状況に変わりはない。

 一月を中心に開催される、冬の全国高校サッカー選手権大会。言わずと知れた高校サッカー界最大の祭典に出場出来なければ、レッドスワンは廃部となる。

 七月上旬、選手権予選の組み合わせが発表になり、第一シードに組み込まれたレッドスワンは、八月末の一回戦と二回戦を飛ばして、十月末の三回戦から登場することが決まった。

 チームに多くの経験を積ませたがっていた世怜奈先生は、シード枠に入ったことを残念がっていたけれど、組み合わせ抽選の結果が出た以上、あとはチーム力を上げていくしかない。

 チーム強化の一環として、先生は八月二十日から、避暑地の軽井沢で三校による合同合宿を組んでいた。残りの参加校はインターハイに出場した長野県と山梨県の代表校である。八月上旬に激闘を終えたばかりの強豪校が合宿に応じてくれたのも、ひとえに一連の騒動でレッドスワンが有名になっていたからだろう。

 今年のインターハイで、新潟県の絶対王者、美波高校はベスト4という好成績を収めている。その美波高校を倒さない限り、サッカー部の存続は叶わない。長野代表、山梨代表と言えど、僕らは打ち倒さねばならなかった。


 世怜奈先生や僕に全国規模の注目が集まっているからだろう。たかだか高校生の練習試合であるにも関わらず、三泊四日の合同合宿は観戦者が発生する事態となっていた。

「おい、ゴミ! ちゃんとコースを切れよ! 愚民どもが俺の負担を増やすな!」

 長野県代表、深和高校のシュートを横っ跳びでキャッチングしたGK、榊原楓が叫ぶ。

 指の骨折を完治させ、楓が正GKの座に復帰したのは、六月末のことだ。それから二ヶ月弱、身長を百八十九センチまで伸ばした楓は……。

「手がつけられなくなってきましたね。集中している時は、本当に失点する気がしない」

「上達したのは技術だけじゃないけどね。口も態度も目に余る」

 感情に任せて怒鳴り散らす楓を見つめながら、世怜奈先生は困ったように呟いた。

 レッドスワンはトーナメントで勝利するために、攻撃ではなく守備に重きを置いて作られたチームである。ノックアウト方式のトーナメントでは、失点しない限り絶対に負けることはない。PK戦でもGKがゴールを守り切れば、必ず勝利することが出来る。

 初日に行われた深和高校戦は、〇対〇の引き分けに終わったものの、チームが目標とする無失点のクリーンシートを実現出来ていた。


 二日目の午後に行われた山梨県代表、河口黎明高校との練習試合は、後半頭に伊織がセットプレーからゴールを叩き込み、一対〇で先行する展開となっていた。

 合宿で対戦する両校は、インターハイ予選で苦渋を舐めさせられた偕成学園に、勝るとも劣らない攻撃力を誇っている。しかも、敵の戦力をまったく分析出来ていない状態での戦いだ。敵のキープレイヤーに自慢のDF陣が突破され、何度か決定機を作られていたが、ことごとく守護神の楓が最後の壁として立ちはだかっていた。

「てめえら眠ってんのか! まぬけ面で突破されてんじゃねえよ! 両目を潰すぞ!」

 レッドスワンの四枚のDFは、三人の三年生と二年生ながらキャプテンを務める伊織である。度重なる罵詈雑言に、伊織と副キャプテンの鬼武先輩は切れる寸前だったけれど、最後の最後で楓が守り切ってしまうせいで言い返せない。

 チームメイトとの連携はともかく、楓は守護神として完全に覚醒の時を迎えていた。

 そのままチームは河口黎明に対し、一対〇で勝利する。

 合宿に参加してくれた両校は、共にインターハイでベスト16の成績を収めている。そんな二校に一勝一分けというのは、間違いなく自信を持って良い結果だろう。最大の立役者は、誰がどう見てもGKの楓で間違いなかった。


 とはいえ、敵はどちらも県代表にまで昇りつめた強豪である。

 軽井沢合宿では三日目に再び、両校との練習試合が午前と午後に組まれていた。そこで、レッドスワンは厳しい現実を突き付けられることになる。

 二度目の対戦は、互いの長所と短所を把握した状態で行われる。そして、今回の対戦では、それらの要素が二試合とも僕らに不利に働いてしまった。

 レッドスワンは最終ラインのDFに、選手を四人並べる4バックを採用している。その上で、守備力を強化するため、攻撃の主軸だった鬼武先輩と葉月先輩を左右のSBに、FW志望だった伊織を中央のCBにコンバートしている。伊織、鬼武先輩、葉月先輩の三人は、県代表レベルのチームと対峙しても引けを取らない。しかし、問題は伊織のパートナーだった。

 現在、伊織と共にCBを務めるのは、三年生の森越将也先輩である。

 約一年前、監督交代時に多くの生徒が部を去ったため、チームには三人しか三年生が在籍していない。鬼武先輩と葉月先輩は五十人以上が入部した学年のナンバーワンとナンバーツーであり、一年次からレギュラーの座を掴んでいた選手である。一方、森越先輩は世怜奈先生が監督に就任するまで、ベンチ入りすら果たせていなかった選手だった。

 受験生としての夏を捨てて部に残ったせいで成績を落としてしまったものの、森越先輩は三年生の頭まで文系首席だった秀才だ。抜群の戦術理解度を拠り所にレギュラーに指名されたわけだが、このレベルが相手になると、知性だけでは防ぎ切れない破壊力に晒されることになる。

 合宿三日目に行われた二戦目、深和高校、河口黎明高校は、共に徹底して森越先輩が守るスペースへと攻撃を仕掛けてきた。露骨なまでに森越先輩が狙われ続けてしまったのだ。

 深和との二戦目は一対一という結果に終わったし、河口黎明との二戦目は、一対二というスコアでリベンジを果たされてしまう。

「ちゃんと走れよ! そんなスピードでよく俺の前に立とうと思ったな!」

「ふざけんな! 足をもぎとるぞ! たまには突破を止めろよ!」

「おい! このCBを代えてくれ! 何回セーブしても意味ねえよ!」

 森越先輩が敵の突破を許す度に、楓は激怒して怒鳴り散らす。実力者からの罵倒は心に突き刺さる。陥った悪循環で森越先輩にはミスが増え、楓の暴言は激しさを増す。

「いい加減にしろ! 自分だけが特別だと思ってんじゃねえよ!」

 あまりと言えばあまりの発言を連発する楓に対し、とうとうキャプテンの伊織がぶち切れ、そのゲームではサッカーには本来存在しないタイムアウトが取られることになってしまった。


「やってられるか! もっと、まともなCBを用意しろよ!」

 指を骨折していた楓は、五月の県総体に出場していない。GKとして楓が敗戦を喫したのは、二月以来のことだった。離脱していた時期もあるとはいえ、実に半年間、負けていなかったのだ。

「先生。選手権予選でもあいつをCBに使うつもりなのか?」

 久しぶりに経験した敗戦に、楓はタイムアップの後も激怒していた。

「あいつじゃないでしょ。先輩には敬意を払いなさい」

「フィールドに先輩も後輩もあるかよ。優勝出来なきゃ廃部なんだろ? どうせ、ほかのチームも同じことをやってくるぞ。どう見たって、あいつがうちの穴だからな!」

 感情を隠さずにまくしたてる楓の話を、森越先輩は真っ青な顔で聞いていた。このレベルの敵を相手に、自分がまったく通用しなかったことは、先輩自身が一番理解しているはずだ。

 時にスポーツは残酷である。

 森越先輩は三年生だ。受験勉強を犠牲にして、誰よりも熱心に居残り練習も行っている。

 一方、同じ三年生でも、葉月先輩は居残り練習なんて一切やらないし、普段の練習でも、いかに手を抜いて楽をするかばかり考えている。しかし、試合になれば、最初から最後まで攻撃でも守備でも輝きを放ち続ける。どうしても悪い意味で森越先輩ばかりが目立ってしまうのだ。

「三年だろうが何だろうが関係ねえ。俺は二度と負けたくねえんだ。いつまでも同情で下手くそをレギュラーに使ってんじゃねえよ!」

 努力と成果は等号で結ばれない。楓の言葉は酷いけれど、僕らは本当に考えなければならないのかもしれなかった。森越先輩がどんなに努力を積み重ねていようと、守り切れるチームを作って勝つというのであれば、伊織のパートナーには別の誰かを……。

 インターハイでは終了後に優秀選手が発表される。県予選で戦うライバルの美波高校からは三名が選出されており、その三名全員が超攻撃的と言われる自慢のFW陣だった。

 美波高校の攻撃力が、合宿で戦った二校を上回ることは間違いない。

 三泊四日の夏合宿は、否応なく新たな課題をレッドスワンに突きつけていた。




 軽井沢合宿に用意された練習メニューは三日目までである。

 四日目、最終日は夕方まで自由時間となっており、観光地で個別に過ごすことが許されていた。

 練習試合が一分一敗に終わった三日目の夜。

 一人、合宿施設内の温泉で汗を流すことにする。

 考えたいことは山ほどあった。チームを作るために下すべき決断は無数にある。そして、すべての決断の正解と不正解は、結果という蓋を開けてみるまで分からない。解答が保証されていない問題集を前に、あがけばあがくほど深みにはまってしまうような気がしていた。

「優雅。ちょっと良いか」

 考えもまとまらないまま湯船から上がり、更衣室を出たところで呼び止められる。

 振り返った先にいたのは、決め顔で鏡を見つめる葉月先輩だった。

 ホストのような容姿の葉月先輩は重度のナルシストであり、部内でも一、二を争う変わり者である。楓とは異なり、基本的には無害なため、部員たちは一貫してその奇行を無視しているが、よくよく考えてみれば、本当に頭のおかしな先輩だ。

「何でしょうか?」

「お前、やっぱりフィールドに復帰するのは難しそうなのか?」

「はい。ドクターストップがかかってますから」

「先生も三年になるまで、ボールを蹴らせないって言ってたもんな」

 何故、この人は鏡で自分を見つめたまま、会話を続けるのだろう……。

「今日も将也が楓に色々と言われていただろ。仲間が責められるのを見るのは気分の良い話じゃない。お前が復帰して、もっと点が取れるようになりゃ、解決するかなって思ったんだけどな」

 葉月先輩は自分にしか興味がない人間なのだと思っていたが、チームを心配することも時にはあるらしい。意外な一面を見たような気がした。

「そういやさ、お前ら二年って毎晩、映画を観てるんだろ?」

「はい。皆で集まって、伊織が持ってきた映画を観るのが恒例行事になってますね」

「今日は『カサブランカ』を観るって聞いたんだけど、俺も行って良いか?」

「構いませんけど、先輩も映画が好きなんですか?」

「いや、普段は観ないよ。でも、その映画は前から気になってたんだ。ほら、有名な台詞があっただろ。『君の瞳に映った俺に乾杯』って奴。あの台詞が使われている映画だよな。凄く共感出来るぜって昔から思ってたんだよ」

 台詞の理解に重大な齟齬を感じるのだが、僕も初見の映画なので確信を持って訂正出来ない。

 恋人の瞳に映った自分に乾杯してどうしようというのだろうか……。


 三日目の映画鑑賞会には葉月先輩が現れ、代わりに三馬鹿トリオが姿を見せなかった。

 夕食時にも楓は怒りを引きずっていた。映画を観るようなテンションではない楓に、穂高とリオも付き合ったのだろう。あの三人は意味不明なくらいに仲が良く、いつも一緒に行動している。

 成長に逆行するように、三馬鹿トリオの問題行動には拍車がかかる一方だ。合宿期間中は珍しく大人しくしていたけれど、明日は自由行動である。あの三人の生態は、檻に入っていない野生の猿と相違ない。油断大敵だ。


『カサブランカ』は第二次世界大戦中のモロッコを舞台にした恋愛映画である。

 映画の中で何度か繰り返された『君の瞳に乾杯』というかの有名な台詞を聞く度に、葉月先輩は納得がいかないというように首を捻っていたが、理解出来ないのはむしろこっちの方だった。


 夏の終わりは、夜風の匂いで分かる。

 映画を観終わった後、余韻を噛み締めるため、伊織と圭士朗さんと共に月光が差す中庭に出た。

「何であんな結末になっちまったんだろうな」

 ラストシーンでヒロインのイルザが流した涙に心を打たれた伊織は、深夜のテンションで無駄に気持ちを昂らせていた。

「嫌いじゃないけどな。僕はあの結末」

「俺だって嫌いじゃねえよ。でもさ、好きな女にあんな顔をさせちまった時点で、やっぱり過程の何処かが間違ってたってことなんだろうな」

 中庭のベンチに腰掛け、伊織は夜空を見上げて深い溜息をつく。

「……だとすると、俺がやってることも間違いだったりすんのかな」

「何の話だ?」

 ポケットに手を突っ込んだまま圭士朗さんが問う。背番号7、中盤の底でボランチを務める九条圭士朗は、チームの司令塔である。眼鏡の下には今日も知性的な双眸が覗いていた。

「華代に渡したラブレターの話。選手権予選が終わった後で返事を聞かせてくれって伝えてあるけど、もしかしたら華代が寂しいのは今かもしれないんだよな」

 伊織は現在、マネージャーの楠井華代に片想い中である。

 ラブレターによって伝えた想いへの回答は、当初、インターハイ予選の準決勝後に聞く予定となっていた。しかし、痛恨の敗戦を経て、選手権予選の後へと持ち越されている。

 以前、華代は告白を断るつもりだと言っていたが、当の伊織は自分が振られる可能性など微塵も考えていない。残りの三ヶ月で華代に心変わりが生じることは有り得るだろうか。

「よし、決めた。俺は明日、華代をデートに誘う」

「……今から誘うのか? さすがに明日の予定は、もう決まってる気がするけど」

「どうせ華代は世怜奈先生と一緒だろ。幾ら仲が良くても、教師と四日間もずっと一緒にいたんじゃ息もつまる。俺たちで解放してやろう」

「……お前、断りもなく俺と優雅を巻き込もうとしていることに気付いているか?」

「やっぱりデートで歩くなら旧市街かな。それとも普通にアウトレットの方が……」

 映画を観るまで楓の傍若無人な言動に憤っていたくせに、伊織の頭の中は、すっかり明日のデートへと切り替わっていた。

 サッカー部には女子が華代と世怜奈先生しかいない。二人は宿舎の部屋も一緒である。

 果たして明日、伊織は華代を先生から引き離せるのだろうか。



 移ろいやすい季節の狭間に、心は揺れる。

 多分、大抵の十七歳にとって、恋は勝利と同じだけ大切だった。



第1話 天泣の恋心




 僕にはサッカー部に二人の親友がいる。一人は同じ団地に住む幼馴染の桐原伊織であり、もう一人は一年生の時にクラスメイトだった九条圭士朗だ。二年に進級する際、理系に進んだ二人とは別のクラスとなったけれど、代わりに二人がそれぞれに片想いをする相手が同級生となった。

 伊織の想い人は、サッカー部でマネージャーを務める楠井華代だ。小柄で華奢な少女であり、よく膝小僧に傷を作っている。寡黙ながらも勤勉な彼女の姿に、いつしか伊織は惹かれていった。

 一年生の夏に家庭の事情で新潟市に引っ越してきた華代は、編入生だったこともあり、去年はクラスでも孤立していたらしい。しかし、二年生になるとクラスに友人が出来た。その相手こそ、圭士朗さんが小学生の頃から想いを寄せている藤咲真扶由である。

 吹奏楽部に所属する真扶由さんは、地に足のついた佇まいを見せるクラスの委員長だ。聡明な彼女は理知的な圭士朗さんが焦がれるに相応しい少女であると感じるし、幼馴染に近い関係性を踏まえても、お似合いの二人だと思う。

 二人の親友がそれぞれに想いを寄せる少女と同じ教室で、僕は四ヶ月を過ごしてきた。


 夏合宿の地として選ばれた軽井沢は、江戸時代に五街道の一つ、中山道が通っていた街である。新潟市から車で三時間ほどの距離にあり、豊かな地理風土は多くの文化人に愛されてきたと聞く。

 観光スポットは多岐にわたるが、若者を引き付ける中心は、駅の南側に作られた巨大なアウトレットモールだろう。スポーツショップも点在するため、部員の大多数は四日目をそこで過ごすことに決めていた。

 昨晩『カサブランカ』を観た影響で、伊織は華代をデートに誘うと息巻いている。しかし、三泊四日の合宿中、華代は自由時間になると必ず世怜奈先生と行動を共にしていた。本日も例外であるとは思えない。まずは華代を世怜奈先生から引き離すこと。それが最初のミッションになると考えていたのだけれど、事態は意外なところから進展を見せることになった。


 合宿最終日、午前八時半。

 宿泊施設のレストランでそれは発覚する。

 その日の朝、ビュッフェ形式の朝食に、榊原楓、時任穂高、リオ・ハーバート、問題児の三馬鹿トリオが現れなかった。そして、やがて想像を絶する真相が判明する。近隣のレンタサイクルの店で自転車を借り、三人は海を目指し始めていたのだ。

 夏休みには連日、練習が詰まっていた。久々に与えられた丸一日の休みを使い、彼らは海に遊びに行くという計画を立てていたらしい。昨晩、映画鑑賞会に来なかったのも、早朝から動き出すために早々に眠りについていたからだったのだろう。

 用意周到と言えば用意周到だが、残念ながら彼らの知性には致命的な欠陥がある。軽井沢は内陸県の長野に位置しており、海など存在しないのだ。

 北を目指せばいつかは海に到着するだろう。しかし、山を越えなければならないし、集合時間を考えれば、往復など出来るはずもない。

 日本海で泳いでくるとの書き置きと、レンタサイクルの貸出履歴から、彼らの行動が明らかになり、唯一の引率教諭である世怜奈先生は頬を引きつらせていた。

 三馬鹿トリオは決行を止められないよう、全員が携帯電話の電源を落としている。世怜奈先生は彼らを捕まえるため、舞原家お抱えの運転手、一本槍さんと共に、朝食もそこそこに宿泊施設を飛び出すはめになっていた。


 不逞の輩が奇行に及んだ結果、図らずも華代が世怜奈先生から引き離され、事は実にスムーズに進むことになる。真扶由さんへの想いを伝える覚悟を固めていた圭士朗さんが、伊織のために一肌脱いでくれたのだ。

『俺は伝えるべき時には自分の口で伝えるよ』

 春先に彼はそんな風に言っていたけれど、ついにその時がやってきたのだろう。

 圭士朗さんは合宿のお土産として購入したプレゼントを真扶由さんに渡し、それから、告白するつもりであるという。事前に下調べも行っており、本日の自由行動では、アウトレットのある軽井沢駅周辺ではなく、北上した場所にある旧軽井沢を散策する予定らしい。

 華代にとって真扶由さんは数少ない友人の一人である。少なくとも僕らよりは、彼女の好みを把握しているに違いない。

 圭士朗さんは入学時より首席の座に君臨し続ける俊才だが、さすがの彼でも女子へのプレゼントには当意即妙な回答を弾き出せない。より適切なプレゼントを用意するため、自らの恋心を明かし、圭士朗さんは華代に散策の同行を求める。

 そんな風にして、その日、僕たちは四人で旧軽井沢へと出掛けることになった。




 軽井沢駅から徒歩で三十分ほど北上すると、旧軽井沢のメインストリートに到着する。

 旧軽井沢は明治時代にカナダ人の宣教師が別荘を開設して以来、別荘族御用達の商店街として発展してきた観光地だ。五百メートルほどの区間に様々な商店が立ち並び、避暑地の繁忙期らしく、多くの客で賑わっていた。

 真扶由さんへのプレゼントを買うために、彼女と仲の良い華代にアドバイスをもらう。それがこの散策の表向きの目的であるものの、大人しい華代に能動的な働きは期待出来ない。圭士朗さんと僕が先を歩き、華代は伊織と並んで、のんびりとした足取りで後をついてきていた。

 周囲にきょろきょろと目を向けているあたり、それなりに楽しんではいるのだろうか。

 女の子にプレゼントを購入した経験なんて僕にはない。伊織だって同様だろう。真扶由さんの好みも分からないし、こうやって付き合うくらいしか出来ることはない。

 ぼんやりとしながら圭士朗さんの隣を歩いていたら、

「優雅、朝から元気がないな。何か悩みでもあるのか?」

 テニスコート通りなる路地にさしかかったところで、圭士朗さんが立ち止まる。

 後方では伊織と華代が、桃のジェラートを販売する店先に並ぼうとしていた。歩き始めた頃は、ほとんど会話のなかった二人だが、何だかんだで今は楽しそうにしている。知らない人が見れば、きっと立派なカップルだろう。

「悩みってほどじゃないんだけどさ。森越先輩のことがずっと引っかかってる」

 きっかけは昨日の楓の罵詈雑言だった。

 GKが守備陣の不甲斐無さに憤るのは無理のないことである。実際、楓はDF陣に文句を吐いてしかるべきレベルで、何度も危機を防いでいる。だが、ことはそんなに単純ではない。楓は四人のDF陣に対してではなく、実力が劣る森越先輩に対してのみ激怒しているからだ。ゲームの後半には、監督にCBの交代さえ要求していた。

 後輩にあれだけの不満をぶちまけられたのだ。先輩自身のメンタルも心配だし、何より性質が悪いのは、今回の件が単に楓の性格の悪さだけに起因するものではないことだろう。

 楓が述べた不満は、チームに巣食う問題の核心を突いている。春に戦ったインターハイ予選でも兆候はあった。同格以下の相手であれば、戦術理解に長ける森越先輩はその力を十分に発揮出来る。ところが、偕成学園のように高いレベルの敵を相手にすると、途端に脆さが露呈してしまう。知性だけではどうにもならない身体能力や技術の差が、如実に現れてしまうからだ。

 チームが潜在的に抱えていた懸念は、長野と山梨の県代表と戦うことで顕在化してしまった。

「確かに一日で忘れられる話ではないな」

「先輩の気持ちを考えたら憂鬱にもなるよ」

「河口黎明は一試合目で負けたことが、よっぽど悔しかったんだろうな。九十分間、徹底的に森越先輩しか狙ってこなかった。強豪が練習試合で取るべき戦術じゃない。ただ、俺たちにとっては貴重な示唆でもある。本番が始まれば作戦に綺麗も汚いもないんだ。同じ狙いを持ったチームは必ず出てくる。前回の成績もあるし、監督の言動のせいで、うちはもう研究される側のチームだ」

 世怜奈先生はテレビ中継のインタビューで、県内ではもう二度と負けないと宣言している。あれだけ目立ってしまった以上、敵に対策を立てられないと期待するのは愚かだろう。

「世怜奈先生が何を考えているか分からないが、対策方法は三つだろうな」

「三つ?」

「森越先輩を信じ続ける。別の選手と入れ替える。最終ラインを3バックに変更する。単純に考えれば、その三つしかない。心情的にも三年生をレギュラーから外すのは難しいが……」

「現状維持は賭けだよね」

「選手を入れ替えても、伊織との実力差が浮き彫りになって、集中的に狙われてしまうなら意味がない。誰かをコンバートでもしない限り、抜本的な解決にはならないさ」

 しかし、適任者がいるなら、とっくに世怜奈先生が実行に移しているはずだ。

「残る案は3バックへのシステム変更か」

 現在、チームが採用しているのは、守備の選手を四人並べる4バックである。3バックになればDFの人数が減るが、それがすなわち守備力の低下に繋がるというわけではない。

 4バックにおける両翼の選手は、大抵、攻撃にも積極的に参加するSBである。中央に位置し、常に守備に集中するCBは二人しかいない。一方、3バックでは最終ラインにCBの選手を三人並べる場合が多いため、実際にはより守備的なフォーメーションと言えるのだ。

「鬼武先輩と葉月先輩ならCBだってこなせるだろうけど……」

「問題は二人の攻撃力を生かせなくなることだろうな」

「まあ、そうなるよね」

 鬼武先輩と葉月先輩の攻め上がりは、レッドスワンの大きな武器である。だが、システムを3バックに変更した場合、バランスの問題によって前線への攻め上がりが格段に難しくなる。

「先輩たちが攻撃に参加しなくなれば、確実にサイドからの攻撃力は半減する。3バックに移行するなら、そこをどう補填するかも考えなきゃならないはずだ」

「お待たせ。圭士朗さんは3バックを試したいのか?」

 コーンに乗った桃のジェラートを手に、伊織と華代がやって来る。

「お前がもうちょっと平凡な選手だったなら、今のフォーメーションで問題ないんだがな」

「何の話だ?」

「世怜奈先生の選定眼は正しかった。伊織、お前はもう県でナンバーワンのCBだよ。だからこそパートナーの粗が目立ってしまう」

 圧倒的な高さとパワーを誇るだけでなく、俊足でスピード勝負にも負けない。伊織は楓と同様、その才能を完全に覚醒させ始めている。

「俺のことを褒めてたのか? そういうことは聞こえるようにやってくれよ」

「そんな単純な話でもないんだけどな。お喋りはそのくらいにした方が良い。溶け始めているぞ」

 圭士朗さんの忠告を受け、伊織は慌ててジェラートを口に運び始めた。


 裏路地を進んだところに、小さなジュエリーショップがあった。

 立ち入るだけで勇気が必要な空間だったけれど、こんな風にこぢんまりとした店なら、気圧されずに足を踏み入れることが出来る。女子の華代がいてくれて本当に良かったと思った。

「繊細で綺麗な物が好き」

 それが、真扶由さんの好みを聞かれた時に、華代が述べた答えだった。大和撫子的な真扶由さんの印象とも相違ない。

 店内に並ぶイヤリングやネックレスは、どれも繊細な印象を受ける物ばかりで、ごてごてとした迫力は感じない。真扶由さんが好きな色は、圭士朗さんが把握している。最終的に圭士朗さんが選んだプレゼントは、美しい小細工が施されたスワロフスキーのブレスレットだった。

 吹奏楽部が演奏時にアクセサリーを身に着けて良いのかは分からない。真扶由さんがそういった物を身に着けることに対して、どう考えているのかも分からない。それでも、プレゼントとしては背伸びをし過ぎているわけでもなく、適切な頃合いの品物だという気がした。


 本日は夕方四時に、宿泊施設のロビーへと集合することになっていた。

 集合時刻の一時間ほど前に戻ると、丁度、世怜奈先生から県境近辺で三馬鹿トリオを捕獲したとの連絡が入ったところだった。海に辿り着けず、貯水池で暴れていたところを捕まったらしい。

 借りていた自転車を返すため、三人は軽井沢まで戻って来なければならない。マイクロバスで三人を探しに出掛けるという先生の選択は正しかったようだ。

 世怜奈先生たちの帰還を待つため、結局、新潟への出発は一時間遅れることになった。


 市営住宅に一人きりで暮らす僕には、お土産を渡す相手がいない。

 旧軽井沢に出向いた散策でも、自分の物は何も購入していなかった。

 皆より簡素な三泊四日分の荷物をまとめてロビーに出向くと、先に華代が待っていた。マネージャーとしての責任感がそうさせるのか、華代はこういう場面で、大抵、誰よりも早く行動する。

「今日は付き合ってくれてありがとう」

「別に。私もやることなんてなかったもの」

 それは、実に華代らしい返答だったけれど。

「プレゼント選びを手伝ってくれたこと、感謝してる。これ、今日のお礼」

 立ち寄った店で購入していた紙袋を彼女に手渡す。

「開けてみて」

 怪訝な眼差しで紙袋を受け取った華代に促す。

「よく転んで膝を擦り剥いているでしょ。それ、林檎の香りがするらしいよ」

 僕が買ったのは匂いつきの絆創膏だった。付き合ってくれた華代にお礼がしたくて、色々と考えながら一日を過ごし、ようやく見つけたプレゼントだった。

「良かったら、使ってみて」

「……ありがと」

 僕にお礼を渡されるなんて思ってもみなかったのだろう。戸惑いの表情を隠せないまま、華代は取り出した絆創膏の箱を見つめていた。

「本当は使用機会なんてない方が良いんだけどね」

 僕の声が聞こえているのか、いないのか。華代は曖昧に頷くだけだった。

 ロビーへの集合時間には、まだ間がある。ソファーに腰を下ろすと華代も対面に座った。

「……ねえ、優雅。圭士朗さん、本気で真扶由に告白するつもりなのかな」

「そうじゃなかったらアクセサリーなんてプレゼントに選ばないと思うよ。ジャムでも、お菓子でも、お土産になりそうな物は幾らでもあったじゃないか」

 圭士朗さんの想いを知っているのは僕らだけだ。ロビーにはまだ誰の姿もなかったが、他人に聞こえては困る。小声で答えた。

「……そっか。それは、そうだよね」

 含みを持たせた彼女の言葉に首を傾げる。

「何か問題でもあるの? もしかして僕らが知らないだけで、真扶由さんには恋人がいるとか?」

「そんな話は聞いたことがないけど」

 じゃあ、何だというのだろう。

「……華代、今日、楽しそうだったよね。伊織と打ち解けてきたんじゃない?」

 本日、僕は親友の想いを慮って、極力、圭士朗さんの隣にいるようにしていた。結果的に伊織と華代は多くの時間を並んで過ごしている。それなりに会話も弾んでいたようだし、何だかんだで華代も楽しそうに過ごしていたように思う。

「別に。前からこんなものだよ」

 相変わらず華代は表情も抑揚も乏しく、その心の内は分からなかった。

 一体、彼女は何を言いたかったんだろう。他の部員たちがやって来たため、結局、曖昧なまま会話は終わってしまったのだけれど、その日の華代の言葉の意味を、僕はすぐに知ることになる。




 二〇一五年、八月二十七日、木曜日。

 夏休み明けの授業が再開してから、早いものでもう四日が経っていた。

 放課後、掃除を終えて教室を出たところで、真扶由さんに呼び止められた。

「優雅君、これから部活だよね? 急いでる?」

 時計に目をやると、ウォームアップ開始の時刻が迫っていた。とはいえ膝に異常を抱える僕はどんな練習にも参加しない。世怜奈先生とのミーティングも本日は練習終了後だ。

「急いでるってことはないかな。何か用事があった?」

「じゃあ、少しだけ時間をもらえないかな。話したいことがあるの。出来れば人がいないところに行きたいんだけど……」

 一体何だろう。圭士朗さんについて相談したいことでもあるのだろうか。夏休みが終わったら告白すると聞いていたが、Xデーまでは知らされていない。昨日までの圭士朗さんに普段と変わった様子は見られなかったし、まだ告白はしていないような気もするのだけれど……。


 真扶由さんに先導されて屋上に出ると、蒸した熱風に晒され、背中に一筋の汗が伝った。

 貯水タンクが作る日陰を見つけ、彼女と共にそこへ移動する。

「それで話っていうのは?」

 いつの間にか、真扶由さんの顔から困ったような微笑が消えていた。こんな風に半ば引きつった表情の彼女は見たことがない。言いにくい話なのだろうか。

「どんな言葉を使っても正確には伝えられない気がするから、正直に話すね」

 彼女の張りつめたような眼差しが、さらに歪む。

 真扶由さんは一度、小さく息を飲み込み、それから……。


「優雅君のことが好きです。出会った頃から大好きでした。私と付き合って欲しいです」


 彼女の唇から零れたのは、そんな言葉だった。

 あまりにも虚を突かれてしまったせいで、告げられた言葉を、ありのままの事実として捉えることにさえ、随分な時間を要してしまった。

「……どうして? それ、本当に?」

 表情もろくに作れないまま、そんな風に聞き返すことしか出来なかった。

 真摯な想いを伝えられて、それを問い返すことは、もしかしたらとても失礼なことなのかもしれない。しかし、そうすることしか出来なかったのだ。

 十七年の人生で、何度か女の子には告白されてきた。だけど、真扶由さんは過去に相対してきたどんな女の子とも違う関係性の相手であるように思う。

 去年、僕は大会で授業を欠席する度に、ノートを見せてもらっていた。もちろん、彼女が最初にノートを貸したのは、小学校からの友人である圭士朗さんだったけれど、おまけで僕も助けてもらうようになり、そんな習慣は圭士朗さんが別のクラスになった今年も続いていた。中学生までの僕なら、そんな風に女子に頼ることは考えられないことだったはずである。

 真扶由さんと喋るのは、用事がある時に限った話ではない。

 曇り空を見つめていたら「雨の日と晴れの日、どっちが好き?」なんて聞かれてみたり、代表戦の前に「明日の先発FWって誰だと思う?」なんて尋ねられてみたり、そういう雑談みたいな会話を交わす機会だって頻繁にあった。

 多分、真扶由さんは僕にとって初めて出来た異性の友達だったのだ。何より親友の圭士朗さんが焦がれる少女でもある。告白されると同時に、反射的に断り文句を考え始めてしまうような、何度も経験してきた一風景と同じだなんて思えるはずがなかった。

「こんなことで嘘はつかないよ。こんなことじゃなくても嘘はつきたくないけど」

「ごめん。疑っているわけじゃないんだけど、圭士朗さんが……」

 唇を動かしてから、口を滑らせてしまったことに気付いた。それは僕が告げて良い話じゃない。他人が告げることを許されるような軽い想いじゃないのだ。

 自らの失言に気付き、取り繕う術もないまま動揺を見せると、真扶由さんの顔に微笑が戻った。

「大丈夫。知ってるよ。もう、全部、知ってるの」

「……どういう意味?」

「三日前に告白されたから。プレゼントを渡されて、その時に聞いたの。長野で優雅君たちと一緒に選んだんだって。だから、優雅君が私にそういう感情を抱いていないことは分かってる」

 困ったように告げた真扶由さんの両目に、涙が浮かび上がっていた。

 彼女の腕を確認する。長袖の下にブレスレットは……。

「プレゼントは受け取らなかったよ。受け取るわけにはいかないって思ったから」

 僕の視線に気付き、真扶由さんはそう言った。

「ごめんね。叶わないって知っているのに、こんなことを言うなんて自己満足でしかないって、そう思ったんだけど。三日間考えて、考えて、考えて、やっぱり伝えなきゃって思ったの。優雅君に伝えない限り、スタートラインにさえ立たせてもらえないって分かったから」

 真扶由さんの聡明な瞳から、一筋の雫が零れ落ちる。

「私は入学してすぐに優雅君に惹かれてしまった。君の儚い声がたまらなく好きだったの。もう隠し事をしたくないから正直に話すね。サッカー部だった優雅君と圭士朗さんが仲良くなったことを、私は打算的に喜んでいた。圭士朗さんとは小学生の頃から友達だったから、二人が一緒にいる時なら話しかけることが出来た。優雅君の声を聞くことが出来た。でも、その裏でこんなことになっているなんて夢にも思っていなかった」

 真扶由さんは圭士朗さんの想いに気付いていなかったのか……。

 僕らが当たり前のようにベクトルを感じ取っていたのは、圭士朗さんから直接、話を聞いていたからなのだろう。よくよく考えてみれば、感情の起伏を見せない彼の淡い想いを悟るなんて、他人に出来るはずがない。それは想いの矛先である真扶由さんも例外ではなかったのだ。

「プレゼント選びを手伝っていた優雅君が、私に好意を抱いているはずがない。そう理解していたけど、だからって諦められるような想いじゃなかったの。私だって軽い気持ちで優雅君のことを一年以上、好きだったわけじゃないから。ごめんね。優雅君はとても優しい人だから、こんなことを言われても困ってしまうって分かってる。でもさ……」

 真扶由さんの両の瞳から涙が溢れ出した。

「せめてスタートラインに立たせてもらえないかな。私は卒業するまで君のことを想い続けると思うから。ううん。卒業してからも、きっと好きでいてしまうと思うから。だから、少しだけで良いから考えてもらえないかな。私のことを恋人に出来ないか考えて欲しいの」


『圭士朗さん、本気で真扶由に告白するつもりなのかな』


 今更ながら、合宿最終日に華代が言っていた言葉の意味を理解する。

「華代はこのこと、知ってたんだよね」

 真扶由さんは小さく頷いた。

「うん。優雅君のことを相談出来るのは華代だけだったから」

 男子が男子の完結した世界の中でそうしていたように、少女たちもまた、一つの恋を前に、空想や推測を繰り広げていたのだろう。

「……ごめん。ちょっと混乱してて。今は何も言えそうにない」

「うん。分かる気がする。三日前に圭士朗さんに話を聞いた時は、私も同じだったから」

 圭士朗さんは真扶由さんに想いを伝えたが、その恋は叶うことがなかった。

「一つ聞いても良いかな。僕のことを好きだって、それは圭士朗さんにも?」

「やっぱり優雅君は友達想いだよね。そういう優しいところが、私はとても好きだよ」

 照れたように告げてから、

「ごめんなさい。どうして良いか分からなくて、それも素直に話してしまったの。だから、圭士朗さんも理解してる」

 だとすれば、圭士朗さんは一体どんな気持ちで昨日までの練習に臨んでいたんだろう。どんな感情を噛み殺しながら、平生の表情を見せようと努めていたんだろう。

 ままならない世界に、胸が張り裂けんばかりに痛んでいた。




 恐らくこれが俗に三角関係と呼ばれるものなのだろう。

 練習後のミーティングで、ようやくそんな当たり前のことに気付く。

 僕はレッドスワンでアシスタントコーチを務めているが、今日が監督とのミーティングがある木曜日で良かった。伊織には先に帰ってくれと伝えてある。平静を保てる自信もないし、一緒に帰っていたら、絶対に何かあったと勘付かれてしまうだろう。

 まだ何を話せば良いかも分からない。とにかく今は一人で頭の中を整理したかった。


 校舎を出ると、既に日が暮れていた。

 八月も終わりに近付き、撫ぜていく風は心とは裏腹に少しだけ穏やかになった。

「顔が死んでるぞ」

 正門を出たところで不意に話しかけられ、同時に頬に冷たい何かが当てられた。

 反射的にのけぞると、圭士朗さんの顔が目に入った。

「悪い。驚かせてしまったか?」

 正門脇の壁から背中を剥がし、圭士朗さんは清涼飲料水のボトルを差し出す。

「やるよ。驚かせた詫びだ」

「……ありがと。でも、どうして……」

「優雅が出て来るのを待ってたんだよ。まだバスの時間は大丈夫だよな。少し話さないか?」


 促されるまま近所の公園まで移動し、並んでブランコに腰掛けた。

 僕や伊織が暮らす団地の敷地内には、幾つもの公園が設置されており、子どもの頃、僕らにとってブランコはフリーキックの良い練習道具だった。椅子を落下点に設定したり、カーブをかけて鎖の間を通したりと、様々な練習の的にしていた。

 時代が変わり、今は『球技禁止』の看板を掲げている公園も多い。

「優雅、今日、真扶由さんに告白されただろ」

 ブランコに腰掛けると、枕詞もなしに圭士朗さんは口を開いた。

「……どうして分かるの?」

「お前が優しい奴だからさ」

 圭士朗さんは棘のない眼差しで、真っ直ぐに前を見据えている。

「俺を見る目が昨日までと違ったからな。何があったかくらい推測がつく。俺のことを心配してたんだろ? 気落ちしてるんじゃないか。練習に集中出来ないんじゃないか。本当は……自分に怒りを抱いているんじゃないか。色んな考えが頭の中を巡っていた。違うか?」

 圭士朗さんが告げた言葉は、どれもまったくその通りだった。

「お前の目から見て、俺には何か変化があったか?」

「……いや、なかったよ。僕は今日まで、そんなことがあったなんて夢にも思っていなかった。それを聞いた後でも、圭士朗さんは普段とまったく変わらないように見えた」

「これでも結構、動揺していたんだけどな。ここ何日かは凡ミスも多かった」

「分からなかったよ。全然」

「それなら多少は自信を持って良いのかもしれないな。お前の目を欺けるなら、全国レベルの敵が相手でも問題なさそうだ」

 眼鏡の下に覗く利発な彼の目は、時に厳しく見えることもある。けれど、その本質が本当はとても穏やかなものであることを僕は既に知っている。

「優雅は真扶由さんの告白に何て答えたんだ?」

「答えるも何も混乱でそれどころじゃなかったよ」

 圭士朗さんの気持ちを考えても、真扶由さんの気持ちを考えても、戸惑いでどうにかなってしまいそうだった。比較構文や仮定法も良いけれど、もっと、こういう心の根幹に関わるような問題の定理を、授業で教えて欲しかった。

「少しで良いから考えて欲しいって言われて、答えも何もないまま話は終わった」

「そうか。二人らしいな」

 圭士朗さんはブランコから立ち上がる。

「優雅、俺はお前の決定に異を挟まない。そんな資格もないし、こんなことをお前に頼めた立場じゃないのも理解はしてる。ただ、一つだけ我儘を言わせてくれ」

「……そういう風に前置きされると、何だか怖いね」

「俺が自意識過剰な推測をしているだけなら、何の問題もないんだけどな。お前、俺のことばかり心配してるだろ? 振られた俺の気持ちを考えて、それで、どうして良いか分からなくなってる。でも、恋愛ってそういうことじゃないはずだ。他人のことは頭から外して考えるべきなんだよ。彼女に対しての答えに、俺を足したり引いたりしないでくれ」

 自嘲と共に圭士朗さんは言葉を続ける。

「俺を傷つけたくなくて、そういう理由で彼女の想いが叶わないのだとしたら、俺にとってそれ以上の罰はない。彼女が傍にいたいと願う相手がお前で、お前がそれを受け入れるのだとしたら、それはそれで正解なんだよ。その相手が優雅なら反対する理由もない」

「でも、僕にはよく分からないけど、自分の好きな人が別の男と笑ってるなんて……」

「祝福するよ。祝福したいと思う。今はまだ何を言っても強がりにしかならないけどな。彼女が笑ってくれるなら、それで構わない」


 陽が落ちた後の公園で別れて。

 圭士朗さんの推測がいかに的を射ていたのか、帰宅後、明晰に思い知る。

 公園で彼の話を聞くまで、確かに僕の心は藤咲真扶由と向き合っていなかった。

 バスルームでぬるま湯につかりながら、ようやく心は彼女に焦点を合わせ始める。

 これまでも度々、異性から告白される機会はあった。しかし、どんな風に真情を披瀝されても、一度だって心が動いたことはない。

 いつだってサッカーに夢中だったこともあるだろう。だが、最大の要因は、告白してきたその少女たちのことを、よく知らなかったからなのだと思う。そういう意味では、藤咲真扶由はこれまでに出会ってきたどんな少女たちとも違う立ち位置にいる。圭士朗さんを介してではあるものの、こんなにも親しくなった女子はいなかったからだ。

 彼女は僕にとって、確実に他の少女たちとは異なる存在だった。


 真扶由さんには大和撫子という言葉がよく似合う。肩の下まで伸びた漆黒の髪も、長い睫毛も、日焼けを知らない白皙も、実に彼女に似つかわしい。

 僕の身長は春に測った時点で百七十七センチだったが、もう完全に止まってしまっている。真扶由さんは百六十センチに届いたと言っていた。女子の背はいつまで伸びるものなんだろう。二人が並んだ光景は、それなりにバランスの取れたものだろうか。

 斜め下から微笑む彼女を想像してみる。

 真扶由さんは僕の声が好きだと言っていた。そんなことは初めて言われたけど、嫌な気分でもなかった。いつだって彼女との会話は穏やかで温かなものだ。僕らが纏う空気は、きっと、ある程度、近しい温度なのだろう。


 心は自分だけのものなのに。

 きっと、生まれた時から、自分の味方でいてくれたはずなのに。

 どうして向かいたい方向さえ、容易く教えてはくれないんだろう。


 あるがままの心で大切な人と向き合いたい。

 こんなにも、そう願っているのに。

 たったそれだけのことが、欠陥人間の僕にはとても難しかった。