始球式


 八木はこの仕事に誇りをもっている。使用人として――食事の世話から家の警備まで――あらゆる雑務をこなし、ときには殺し屋として家名を脅かす邪魔者を始末することもある。昼夜問わず身を捧げ、家主の地位と名誉を守ることが八木の務めだ。長年この松田家に仕え、彼は主を表と裏から支え続けてきた。

 政治家というものは多忙極まりない。それも、次期閣僚入り確実と評される衆議院議員・松田和夫ともなれば、日々寝る間を惜しんで働き通しである。疲れた顔で自室に入っていく和夫を横目にとらえた八木は、さっそく眠気覚ましのコーヒーを淹れる準備にとりかかった。

 祖父は元首相、父親は元大臣という政治家一家の長男に生まれた和夫も、今年で五十五歳。八木がこの家の使用人として働きはじめた頃、和夫はまだ十歳の少年だった。早いものであれから数十年の月日が経ち、和夫の顔には皺が目立つようになり、八木の髪もすっかり白くなっていた。

 都内某所、高級住宅街の一角にある三階建ての古い洋館――その一階の南側が、和夫の書斎である。カップを載せたトレイを片手に、八木は優しく扉を叩いた。「旦那様、コーヒーをお持ちいたしました」

「ああ」やはり疲れた声が返ってきた。「ありがとう、八木」

 ドアを開け、中へ入る。和夫は黒革の椅子に腰を下ろし、仕事に取り掛かろうとしているところだった。机の上にノート型パソコンを広げ、タイピングを始める。

 その途端、なにやら和夫の顔色が変わった。

「――な」両目を大きく見開き、顔を強張らせている。

 いったい何事だろうか。ひどく驚いているようすの和夫に、八木は首を傾げて尋ねた。「どうなさいました?」

「これを見てくれ」

 言われるまま、八木も画面を覗き込む。

 パソコンは完全にフリーズしてしまっていた。どのキーを押しても反応がない。

 それだけではなかった。突然、画面が真っ暗になり、中央に白い文字が浮かび上がってきた。


  ――松田 和夫 様


 唐突に表示された、主の名前。

 ウイルスにでも感染してしまったのだろうか。制御不能となった不気味な四角い塊を前に、和夫も八木もただ唖然とするしかなかった。

 すると、画面に動きがあった。名前のあとに、さらに文章が続く。


  ――松田 和夫 様

  ――私はあなたの裏の顔を知っています。

  ――世間に知られたくなければ

  ――速やかに一千万円を送金してください。


「何なんだ、これは……」

 隣で呟くように言った和夫に、八木は無言で首を捻った。

 裏の顔――思い当たることが多すぎる。彼は政治家として生き残るために、都合の悪いものをあらゆる手で握り潰してきた男だ。

 この家に仕えて早数十年。これまでも、和夫の秘密をネタに金を揺すってきた者は少なくはなかった。この脅迫文の送り主も、そんな連中の類だろう。

 だが、なにかが引っかかる。いつもの、よくある脅しとは違っている。パソコンをウイルスに感染させる、という手の込んだやり口は、これが初めてだ。

 今までいくつもの修羅場をかいくぐってきた八木だが、今回ばかりは妙に胸騒ぎがした。大きく拗れそうな予感がする。早めに手を打っておかなければ。

 こういう事態が発生したときのために、自分は存在するのだ。

「――旦那様」力強い口調で八木は告げた。「この一件、わたくしにお任せください」

 八木の働きを、主は信頼してくれている。「頼んだぞ」と和夫は頷いた。

 しかし、いくら八木が有能な使用人兼殺し屋だろうと、パソコンのことに関しては素人同然だ。こればかりは専門家を頼るほかない。

 幸い、こういうことに詳しい人物をひとり知っている。あの男ならば解決できるかもしれない。生意気で、可愛げのないあのハッカーならば。

 ただ問題は、あの男が今どこにいるのか探し出さなければならない、ということだ。


1回表


 福岡市中央区大名の通りは、今日も若者で溢れ返っている。その一角にある小さなイタリア料理店で、榎田は知り合いと落ち合い、昼食をとっていた。

 円形のテーブルを挟んだ向かい側の席には、スーツ姿の地味な男が座っている。狩村という名の、サイバー犯罪対策課の捜査官だ。まだ若く、見るからに堅物で真面目そうな男だが、話の通じない相手ではない。この街の情報屋で、有能なハッカーでもある榎田と裏で通じている捜査官は少なくなかった。榎田はこうして定期的に彼らと顔を合わせ、情報を共有し合うようにしている。事件の捜査に協力する代わりに、多少の悪戯には目を瞑ってもらうこともあった。

「ニュース見たよ。政治家の殺害予告の次は、国会の爆破予告だって?」口元に笑みを浮かべながら、からかうような調子で榎田は言った。「キミたちも大変だねぇ」

「まあ、仕事ですから」狩村は苦笑を返した。

 ここ最近、インターネットを利用した犯行予告が立て続けに報道されていた。昨夜の一件にいたっては、爆発物処理班が出動する騒ぎにまで発展している。結局、危険物らしきものはなにひとつ発見されなかったわけだが。

「わざわざ予告なんてしないで、さっさとやっちゃえばいいのにねぇ。ネットに書き込むような奴なんて、十中八九ただの悪戯でしょ」

 そんな悪戯に付き合って、犯人を逐一特定しなければならないのだから、サイバー犯罪対策課の仕事は大変なものだ。

「中には本気の人間もいるかもしれませんからね。今回は違いましたけど」狩村は犯人を知っているような口ぶりだった。

「あ、もう身元割れてんだ? ライト方向の人?」

「いえ、犯人はただのニートでした。就職活動中の青年ですから、人生がうまくいかずにムシャクシャしているところで、つい魔が差してしまったんでしょうね。今ちょうど、本人から詳しい事情を聞いているところです」

「ホント、迷惑な奴だよねぇ」

 榎田は肩をすくめながら、フォークに巻き付けたパスタを口の中に放り込んだ。この店の料理はなかなか美味い。ネットの掲示板や口コミサイトでの評判は散々だったが、当てにならないものである。

「――迷惑といえば」榎田は話題を変えた。「【.mmm】のことなんだけど」

【.mmm】というのは、自由参加型のサイバーテロ組織だ。名前の由来はWorld Wide Webの頭文字を逆さにしたもので、『インターネットのない世界を』をスローガンに掲げている。世界中のサイトを無差別に攻撃し、閲覧不能状態に陥れる迷惑なクラッカー集団だ。組織の規模は数千人とも言われている。最近、日本のいくつかの企業サイトも被害を受けたばかりだった。

 日本在住のある技術者が【.mmm】に関与しているらしく、狩村からの依頼で、榎田はその男を調べていた。「なかなか骨の折れる仕事だったよ。専門家相手となると、壁が頑丈でさ」

「侵入できたのでしょう?」

「当然」

 と、榎田はUSBメモリをテーブルの上に置いた。

「これは?」

「奴が持ってた極秘データ。厳重に保管してあったから、かなりやましいものなんだろうね。キミたちの役に立つと思うよ」榎田は口の端を上げた。「これで、先週ボクがクレジット会社のサーバーをハッキングした件は、見逃してもらえるかな?」

 狩村は目を細めた。「いつも見逃してるようなものじゃないですか。隠す気もないくせに」

 再び話題を戻す。「そのデータ、なにかのリストみたいなんだけど、暗号化されてるんだよね。こういうのはキミたちの方が得意でしょ」

 狩村は頷いた。「うちの課で解読してみます」

「健闘を祈るよ」

 狩村はUSBメモリを懐にしまい込みながら、「いつもご協力ありがとうございます」と応えた。

 昼食を平らげてから、狩村とは店先で別れた。これで今日の仕事は終わりだ。特にすることもないので、榎田は住処にしているネットカフェへ戻ることにした。

 天神から中洲へと向かう。国体道路沿いを歩いていたところで、電話がかかってきた。

「もしもしー?」

 電話の相手は重松だった。

「――は?」聞こえてきた言葉に、思わずぴたりと足が止まる。どういうことだ、と目を丸めながら、榎田は訊き返した。「斉藤くんが逮捕されたぁ?」



「逮捕じゃないです! 任意同行ですってば!」斉藤は慌てて否定した。「勝手に犯罪者にしないでください!」

 屋台『源ちゃん』は開店準備の真っ最中だ。目の前には忙しく働いている店主の源造、隣の席にはニヤニヤした表情を浮かべているマルティネスがいる。

 斉藤も席に腰掛け、彼らに昼間の出来事を説明した。「アパートに警察が来たんです。サイバー犯罪対策課の人が」

「サイバー犯罪って」隣の大男が目を丸くして尋ねる。「お前、何の罪でしょっぴかれたんだよ」

「脅迫と威力業務妨害と、児童ポルノ法違反ですけど……」

 政治家への殺害予告と、国会の爆破予告、それから少女や幼女の裸の画像を大量に所有していた罪で、斉藤は危うく逮捕されるところだった。

「節操ねえなぁ、おい」マルティネスが大きな体を震わせて笑った。

「俺のパソコンから、政治家の殺人予告やら建物の爆破予告やらが、ネットの掲示板に書き込まれてたらしいんです」

 当然、斉藤にとってみれば、まったく身に覚えのないことだった。書き込むどころか、その掲示板を開いたことすらないというのに。

「それで、警察の調べを受けたんですけど、俺のパソコンの中に小さい女の子の裸の写真がいっぱい見つかって――」

「……お前、そういう趣味があったのか」

「違いますよ!」汚いものを見るような目で睨んできたマルティネスに、斉藤は声を張って否定した。

「なんでも、遠隔操作ウイルスの仕業らしいばい」作業の手を止め、源造が口を挟んだ。

「遠隔操作ウイルス?」

「そう。ウイルスに感染したせいで、斉藤くんのパソコンが勝手にネットに書き込んだとげな」榎田の話によると、と源造は付け加えた。

「たぶん、あのメールが原因だと思います」斉藤には思い当たることがあった。「俺、今ちょうど転職活動中なんで、よくリクルートサイトからメールが届くんです。その中に一通、変なメールがあって……」

 それは、応募したわけでもない企業からの返信だった。おかしいな、とは思いつつも、見逃しがあってはならないと無警戒で添付ファイルをダウンロードしてしまったのだ。「どこぞのハッカーがそのファイルにウイルスを仕込んでたんだろうって、榎田さんが言ってました」

「なんだ、榎田の仕業じゃないのかよ」

「違うごたぁよ」源造が答える。「『ボクがそんな可愛げのない悪戯するわけないじゃん』って言いよったばい」

「何者かが俺の情報を盗み見ていたらしいんです。パソコン自体をボット化して、勝手に操作してたとかなんとか……しかも、パソコンだけじゃなくて、スマホまで」

 無料通話アプリやSNSのアカウントまで乗っ取られ、犯罪に使われていたというのだから、恐ろしくて震えてしまう。

「その犯人、俺のアカウントを乗っ取って、女子中学生に裸の写真を送るよう強要してたんですよ。それがたまたま事情聴取を受けている最中だったので、乗っ取りが判明したんですが……」

 おかげで助かった。だが、犯人の目的はいったい何だったのだろうか。斉藤は眉をひそめた。自分の知らないところで他人に支配されているような感覚に襲われ、薄ら寒くなる。

「つまり、その犯人のせいで、お前はやってもいない罪を着せられそうになった、ってことか?」

 マルティネスの言葉に、斉藤は「そうなんですよぉ」と涙声で返した。

「……そういや、ジェフリー・ディーヴァーの小説にそんな話があったな」マルティネスが顎を摩りながら、呟くように言う。「『全てを知る男』って奴が、個人情報のデータを悪用して、無実の人間を犯罪者に仕立て上げるんだ」

「ネットは怖かねえ」源造がしみじみと呟いた。

「捜査官の方が榎田さんと知り合いだったみたいで、本当に助かりました」榎田が口を利いてくれたおかげもあり、斉藤の身の潔白は無事に証明されたのだった。「もつべきものはハッカーの情報屋ですね」

「それにしても」ふと、源造が口を開く。「なして斉藤くんを狙ったとかいな?」

「怨恨か、単なる悪戯か」マルティネスが続ける。

「どっちにしたって嫌ですけどね……もう懲り懲りです」

「災難やったねえ」源造はそう言いながら、作り立てのラーメンを斉藤の目の前に置いた。「ほら、俺の奢りたい。しっかり食べて元気出しんしゃい」

 源造の優しさが身に沁みる。礼を言い、斉藤は麺に口をつけた。

「――さてと」その隣で、マルティネスがゆっくりと立ち上がった。「そろそろ行くかな」

「あら、仕事ね? 忙しかやん」

「いや」彼は両手を広げ、肩をすくめた。「最近また暇なんだよ。ジローのとこでも行って、仕事もらってこようかと思ってさ」



 同居人の男――馬場善治は、今日もテレビに齧りつくようにしてプロ野球中継を見守っている。選手の一投一打に一喜一憂する彼を冷めた目で眺めながら、林憲明は声をかけた。

「おい、馬場」

 もちろん返事はない。馬場は試合に夢中である。

「早くジイさんとこ行こうぜ。腹減ったんだけど」

 今晩九時に源造の屋台で晩飯を食べ、ついでに殺しの仕事をもらう予定だというのに、馬場はなかなか腰を上げようとしなかった。試合は延長戦に入り、約束の時間はとうに過ぎてしまっている。

「ちょっと待って、今いいとこやけん」馬場は視線をテレビに向けたまま、切羽詰まったような声で返した。

 延長12回裏のホークスの攻撃。2点ビハインド、1アウト満塁のチャンスだ。バッターボックスには打率三割超えの4番打者。カウントは1ボール2ストライク。追い込まれている。四球目、ピッチャーの投げた球はツーシームだった。それをフルスイングで打ち返す。打球はボテボテだ。

『ああっと、ピッチャーゴロ、ゲッツーコースだ! 二塁アウト! さらに一塁もアウト! ダブルプレー! スリーアウト、試合終了!』

 悲鳴にも似た実況アナウンサーの声が、テレビの中から聞こえてきた。

『反撃及ばず……ホークスはこれで七連敗となってしまいました』

「あああぁぁ」

 次いで、馬場の悲鳴が事務所に虚しく響き渡った。

 テレビの中では、リードを守り切った相手チームの選手たちが、マウンド付近で勝利のハイタッチを交わしていた。足取り軽く、溌剌とした表情でベンチへと戻っていく。次いで、逆転タイムリーを打った殊勲選手のヒーローインタビューが始まった。

 馬場は項垂れ、頭を抱えている。

『それでは、ハイライトで今日の試合を振り返っていきましょう』

 と実況が告げたところで、馬場がテレビの電源を消した。そのままリモコンを投げ捨てると、無言のままベッドに潜り込み、頭から布団をかぶってしまった。

「……このバンバカが」ため息をひとつこぼしてから、林は再び声をかけた。「なにやってんだよ、早く準備しろ」

 いくら促しても、馬場は動こうとしない。

「聞いてんのかよ」語気を強めて言う。

 すると、馬場からはすすり泣くような声が返ってきた。「うう、七連敗……もう駄目やん、終わりやん……」

 九月初頭――プロ野球のペナントレースもいよいよ終盤に差し掛かったところだが、この大一番で馬場の応援するチームは低調期を迎えているようだ。

「今日は……今日こそは、勝てそうやったのに……」

 大差で勝っていたにもかかわらず、逆転負け。試合序盤から10点ものリードがあったので、勝ちパターンを出し惜しみした。余裕のある継投が裏目に出た。連打と本塁打で徐々に点差を詰められ、慌ててリリーフエースを投入するも、相手の打線の勢いは止められず。土壇場9回表に追いつかれ、試合は延長戦へ。悪い流れを断ち切れないまま迎えた12回表、エラーも絡んでついに逆転を許してしまった。10点ものリードがあった戦況は、いつの間にやら2点のビハインドになっていた。

「しょうがねえなあ、ったく」やれやれ、と林は肩をすくめ、馬場から布団を剥ぎ取る。「早く行こうぜ。今日は俺が奢ってやるからさ」

 蓑虫のように丸くなっていた男は、渋々といったようすで起き上がった。



「――学級発表会?」

 中洲にあるバー『Babylon』にて、ジローはグラスを拭きながら、ミサキの言葉を反芻した。

「そう」カウンターに腰掛け、両足をぶらつかせながら、ミサキは今日一日の学校での出来事を話してくれている。「クラスごとに出し物をすることになったの。全校生徒の前で。劇とか歌とか、合奏とか」

 ミサキの通っている小学校で、今年から新しい行事が始まったらしい。

「面白そうじゃない。ミサちゃんのクラスはなにをするの?」

「劇だよ。『タケノコ王国とキノコ王国』ってやつ」

「あら、聞いたことのないお話ね」てっきり桃太郎や白雪姫といった有名どころがくるかと思っていたのだが。

「先生のオリジナル脚本だから」と言って、ミサキはランドセルの中から一冊の冊子を取り出した。「これが台本」

 ジローは受け取り、ざっと目を通してみた。

 内容はどうやら、タケノコ王国の王子・タケ彦とキノコ王国の姫・キノ美の、悲劇のラブストーリーのようだ。二人は愛し合っている。だが、両国は戦争中で結ばれない運命にあるという。小学生が演じるにしては、なかなか大人な話だ。

「それで、ミサちゃんは何の役なの?」

「キノ美」

「あらやだ、ヒロインじゃない」ジローは声を弾ませた。「やったわね」

 ミサキは「くじ引きで決まっただけだよ」と素っ気なく返した。あまり嬉しくはなさそうだ。行事自体に興味がないのか、それとも照れているだけなのか。

「だとしても、すごいことよ。クラスでたったひとりだけのお姫様なんだもの。頑張らなきゃね」

 うん、とミサキは控えめに頷いてから、上目遣いでジローを見つめた。頼みがあるときに見せる彼女の癖だ。「それでね、衣装は各自で用意しないといけないの」

「衣装って、キノコのお姫様の?」

「うん」

 なるほど、そういうことか。彼女の頼みはおおよそ理解した。

「わかったわ」ジローは胸を張る。「アタシに任せといて」

 大事な娘の晴れ舞台だ。とびきりの衣装を用意してあげなければ。元美容師の腕にかけて。

「ミサちゃんを、素敵なプリンセスに変身させてみせるわ」

 そう自信満々に告げたはいいが、正直なところちょっと悩んでしまう。キノコ王国のお姫様――いったいどんな格好をさせればいいのだろうか?

 キノコか、と心の中で呟く。ふと頭の中に、あのマッシュルームヘアの男の顔が浮かんだ。



「――斉藤が逮捕されたぁ?」

 源造から思いもよらないニュースを聞き、林は声を張りあげて驚いた。

「逮捕やなくて、任意同行よ」注文のラーメンを作りながら、源造が訂正する。

「どっちにしたって、警察に連れてかれたワケだろ?」

「まあ、それはそうなんやけどね」

 と言いながら、源造が二人分の豚骨ラーメンを差し出した。林と馬場は並んで座り、「いただきます」と両手を合わせる。

「んで?」固めの麺をすすりながら、林は話の続きを促した。「なにをやらかしたんだよ、斉藤は」

 源造が指折り数えていく。「脅迫、威力業務妨害、それと児童ポルノ法違反」

「うわぁ……」思っていたより酷かった。「救いようのないクズ野郎じゃねえか」

「まあ、斉藤くんは無実なっちゃけどね。なんでも、遠隔操作ウイルスの仕業らしいっちゃん」

 源造によると、コンピュータウイルスに感染したせいで、何者かによって斉藤のパソコンが勝手に操作され、犯罪に使われてしまったらしい。背筋の凍る話である。

「それより」ふと、源造が馬場に視線を向けた。「どげんしたとね、馬場。なんか元気なかやんね」

 馬場はこの世の終わりを迎えたかのような顔で、さっきからため息ばかりついている。食も進んでいない。

「七連敗したから落ち込んでんだよ」林は代わりに答えてやった。

「たかだが七連敗がなんね。南海時代は十五連敗したこともあったっちゃけん」源造が笑い飛ばす。「負けが込んどるときこそしっかり応援せんね。それがファンってもんやろうもん」

「……うん、そうやね」馬場は力なく頷いた。気分を切り替え、話題も変える。「おやっさん、なんか仕事ちょうだい」

「あ、俺にも」林も身を乗り出した。

「はいはい、仕事ね。ちょうど今日、二つ入ってきたっちゃけど、どっちがよか?」

「別にどっちでもいいよ」

「んなら、くじ引きで決めよっかね」

 源造はペンと割り箸を取り出した。箸の先になにかを書き記している。

「ほら、好きな方を引きんしゃい」二人分の割り箸を握った拳を、林たちの前に差し出してきた。「箸の先に、依頼人の連絡先ば書いとるけん」

 林は右側の割り箸に手を伸ばした。「じゃあ、俺こっち」

 馬場は残った方を引き抜いた。「残り物には福があるとよ」

 源造は「どっちがアタリかいなねえ」と、おどけた調子で言った。


1回裏


 博多口駅前広場は、今日も多くの人で賑わっていた。銅像やモニュメントの前で写真を撮る観光客に、汗を拭いながら木陰で休憩するサラリーマン。子ども連れの家族も見受けられる。

 広場のいたるところにケヤキの植栽が青々と茂り、木製ベンチがいくつも並んでいる。その中のひとつに、チェガルは腰を下ろした。忙しく行き交う人々の姿を眺めながら、いつもの男が現れるのを待っていた。陽の眩しさに顔をしかめ、駅ビルの外壁を見上げる。JR博多シティの大時計はちょうど昼の十二時を指していた。約束の時間だ。

 しばらくすると、隣のベンチに男が座った。待ち人が来たようだ。中肉中背で、黒い髪。自分と同じく背広姿で、どこにでもいそうな目立たない中年の男。

 前を向いたまま、その男は口を開く。「――仕事だ」

 彼の名前は知らない。同じ組織の幹部であるということしか、チェガルには知らされていなかった。自分はただ【.mmm】に所属する海外駐在工作員として、その命令に従順に従うだけだ。

「標的は?」チェガルは尋ねた。

「macro-hardというハッカーだ。この街にいる」男が告げる。「我々を支援している政治家を嗅ぎ回っているらしい」

 マクロハード、とチェガルは頭の中で反芻した。聞いたことのないハッカーの名前だ。「さっそく、シヴァに調べさせましょう」

 その言葉に、相手の表情が曇る。

「まだ、あのサイコパスを使うつもりなのか」険しい声色が返ってきた。

 チェガルはフリーランスの殺し屋を二人雇い、自身の手足として利用している。その殺し屋たち――シヴァと井良沢が、この男はどうも気に入らないようだった。

「お前の雇っている殺し屋は、どちらも頭がイカれている」

 というのが、彼の言い分だ。

 たしかに、そうかもしれない。彼らは普通の人間とは違う。病質的で、社会の外れ者だ。だが、うまく扱えば役に立つ。

「シヴァのクラッキング技術は、世界一ですよ」

「人格的に問題がある」

「殺し屋なんぞに人格もなにもないでしょう」チェガルはため息を飲み込んだ。「それに、敵に回すよりかはマシです」

「あのボクサー崩れだって」男はなおも反論する。「いつボロが出るかわからないぞ」

 ボクサー崩れ――井良沢のことだ。

「カウンセリングを受けさせた方がいいんじゃないか?」

 という男の言葉に、チェガルは少しばかり苛立った。「そんな予算がどこにあります?」

 精鋭ハッカー集団で構成されるサイバー部隊や、ハッカー育成機関ばかりが優遇され、国の外で働く工作員は二の次である。組織からの支援が手薄だからこそ、人材の確保にこうして苦労しているのだ。金を渋られたら、金のかからない殺し屋を雇うしかないじゃないか。恨み言がつい口から零れ出そうになる。

 男はそれ以上なにも言わなかった。「しくじるなよ」と一言だけ残して、人ごみの中へと姿を消す。

 それを見届けると、チェガルはさっそく二人の殺し屋に連絡を入れた。



 チェガル自身も、元はといえば【.mmm】のサイバー部隊に所属していた。

 世界を相手にクラッキングによるテロ行為を繰り返していたが、次第に時代の流れと進歩する技術に取り残されるようになり、五年ほど前に部隊の裏方へ回るよう命じられた。事実上の戦力外通告だった。

 上には上がいる。それはどんな世界でも同じことだ。自分より優れた人間はごまんといる。天才的なハッキング技術をもつ人間が、毎年のように湧いて出てくる。そんな彼らと張り合わずに生き残る道を、チェガルは選んだ。世界中を飛び回り、組織の邪魔になる人物を始末する、工作員としての道を。

 とはいえ、チェガル自身が手を汚すことはない。自分が存在したという痕跡をなるべく残さないよう、現地で適当な人間を雇い、代わりに働かせている。いつでも切り捨てることのできる人材を。この国では、それがシヴァと井良沢だというだけだ。ここでの仕事が終われば、彼らを始末してまた次の手足を見つけるまでである。

 チェガルは博多駅から地下鉄に乗り、シヴァの店へと向かった。彼が営む店は西新の商店街の一角にあり、クリーニング屋と文房具屋の間に挟まれている。店の表には『PCドクター工房』と書かれた看板を掲げ、壁には『パソコン修理・データ復旧・ウイルス駆除承ります』という剥がれかけの文字が貼り付けられている。小ぢんまりとした古い店だ。

 中を覗き込むと、老人がいた。客のようだ。

「キーボードを新しいのに交換すれば、すぐに直りますよ。二、三日預からせてもらいますね」店名の入った青いエプロンを身に着けた若者が対応している。いかにも接客業向きの、物腰のやわらかい痩身の男だ。「なにかまた困ったことがあったら、遠慮なく訊いてください」

 老人が礼を言い、外へ出た。それと入れ替わるようにして、チェガルは店に足を踏み入れる。「忙しそうだな」

「あ、チェガルさん。こんにちは」シヴァがこちらに笑顔を向け、会釈した。「井良沢さんも来てますよ」

「そうか」

 仕事の際は、いつもこの店に集まるようにしている。

「店閉めてきますから、奥で待っててください」

 言われた通り、チェガルはカウンターの中に入り、奥の部屋へと進んだ。そこは十畳ほどの広さの一室で、シヴァの仕事部屋だ。長いテーブルの上にPCが五台、壁にはディスプレイが十台設置されている。

 部屋の片隅にあるソファに、ジャージ姿の男が座っていた。大柄で、金髪の髪を肩まで伸ばしている。この男が井良沢だ。

 井良沢はチェガルに見向きもせず、ただスマートフォンを食い入るように見つめていた。時折、にやついている。気味が悪い。

「井良沢」チェガルは彼に声をかけた。「なにを見てるんだ?」

 ようやく井良沢がこちらを向いた。その目はどこか虚ろで、頬はこけている。おまけに血色も悪い。薬物中毒者を思わせる顔つきだが、彼が溺れているのは薬ではなく人殺しだ。

「この前の試合だよ」

 ほら、と井良沢は端末を投げて寄こした。

 片手で受け取り、小さな画面を見遣る。動画の再生中だ。金網で囲まれた特設リングの中に、小汚い格好の男が映っている。ホームレスだろう。撮影者は井良沢本人。左手にカメラを持ったまま相手の体をメッタ刺しにしているようで、悲鳴をあげる被害者の表情が大きく映し出されている。相手の体から血が噴き出し、カメラのレンズに跳ね返ってきた。

「もういい」ため息交じりに、チェガルは端末を投げ返した。「見たくない」

 昔、井良沢はボクサーだった。しかし、試合中に対戦相手を殴り殺したことをきっかけに、彼の精神は崩壊した。人の命を奪った瞬間の感覚が忘れられなくなり、彼は表舞台から姿を消した。裏ボクシングで相手を痛めつけて小銭を稼ぐ生活をしばらく続けていたが、それだけでは満足できず、殺人を求めるようになった。今ではこうしてホームレスを誘拐し、相手に一方的な試合を強いている。わざわざ自宅のガレージに会場を作って。

「動画を撮れって言ったのは、アンタなんだぜ?」

「四六時中眺めろとは言ってないぞ」

 この男は病気だ。犯罪中毒は治らない。井良沢は定期的に人を殺さなければ気が済まない性質だった。しばらく時間が経つと、この男は人を殺したくてたまらなくなってしまう。

 いくら相手がホームレスとはいえ、あちこちで頻繁に殺して回っていれば、そのうち誰かに尻尾を掴まれてしまうだろう。だからチェガルは、「殺しのようすを動画に撮り、人を殺したくなったときはそれを眺めて気分を紛らわせるようにしろ」と命じた。少しは効果があったようで、動画の撮影を始めてからというもの、井良沢の殺人の間隔は空いた。

 あの組織幹部の男が言うように、井良沢はたしかにイカれている。だが、悪いことばかりではない。彼にとって、殺人は趣味だ。殺しを依頼すれば、無償で引き受けてくれるのだ。

 シヴァほどの腕を持つハッカーを味方につけておくには、相当の金が必要になってくる。だが、予算は苦しい。無償で殺しから死体の処理まで請け負ってくれる井良沢は、チェガルにとってこの上なく都合のいい存在だった。多少性格に問題はあれど、不満はない。目を瞑れる範囲だ。

 チェガルの顔を見つめ、井良沢は「やっと人が殺せるのか」と口の端を上げた。チェガル自身がこの店に足を運ぶのは、二人の殺し屋に仕事を頼むときだけだ。

「いつも殺してるじゃないか」

「ホームレスは人じゃねえよ」井良沢は嗤った。「ゴミだ」

「いいか、井良沢」チェガルは厳しい声で告げた。「これは仕事だ。お前が普段やっている遊びとは違うんだからな」

「わかってるよ」

 どうだか、とチェガルは肩をすくめた。それから、シヴァのPCのひとつに視線を向ける。電源はついたままだ。チェガルはその画面を覗き込んだ。若い男の画像が表示されている。

 ちょうどそのとき、店の戸締りを終えたシヴァが部屋に入ってきた。「お待たせしました」

 画面を指差し、尋ねる。「誰なんだ、この男は」

「さあ?」シヴァは微笑み、首を傾げた。「ただのニートですよ」

 椅子に腰掛け、言葉を続ける。

「この男の人生を弄ってたんですけど、ちょっとしくじっちゃって。女子中学生の裸にこだわりすぎたことは反省ですね」

 女子中学生の裸――何の話かは知らないが、どうせまたくだらない悪さをして遊んでいるのだろう。

「就職したけどすぐに会社を辞めて、転職活動をするもうまくいかず、これもすべて社会のせいだと絶望して、殺人予告を書き込む――って筋書きだったんですけどね」

 このシヴァという男は、井良沢よりも性質が悪いかもしれない。彼ほど裏表のある人間はいないだろう。いつも爽やかな笑みを浮かべている、誠実そうで穏やかな見た目に反して、性格は捻くれていて最悪だ。仮面の下に隠された本性は誰にも見抜けない。パソコンの修理屋を営む裏で、この男は他人の人生を壊す作業を愉しんでいる。

「この前の山中議員の失墜も、お前の仕業か?」先日、ある議員が出馬を取り消した報道を思い出した。

「対立候補からの依頼でね」シヴァは得意げに語る。「収賄と不倫、曝露してやりましたよ。事実かどうかなんて関係ない。一度噂になってしまえば終わりなんです、彼らの人生は」

 このシヴァという男――コードネーム:s_i_v_a_はハッカーであり、殺し屋でもある。だが、彼のやり口は変わっていた。普通の殺し屋とは違う。人を社会的に抹殺することを得意とし、陰では壊し屋と呼ばれていた。犯罪や醜聞をでっち上げ、世間の信頼を落とし、仕舞いには自殺に追い込むこともある。

 対立候補を消したい政治家、邪魔な会社を倒産させたい企業の重役、ライバルを蹴落としたい女優――権力者や有名人の中にも、シヴァは常連客をもっている。

「でも、お偉いさんや有名人ばかりが相手じゃ飽きるんですよ。奴らって、俺がでっち上げなくても後ろ暗いことやってるから」

 チェガルは画面の中の男を一瞥した。「だからこうして、善良な一般市民の人生を狂わせているのか?」

「そういうことです」シヴァは笑顔のまま頷いた。「ただの真面目なサラリーマンを性犯罪者に仕立て上げたり、正義感溢れる警察官を麻薬中毒者にしたり、ね。他人の人生をどうにでもできるって、素晴らしいことじゃないですか。この前も、会社員を退職に追いやってやりましたよ。あれは楽しかったなぁ」

「まるで神様気取りだな」

「うらやましいでしょう?」

 チェガルは心の中で舌打ちした。これほどの技術を、神様ごっこなんぞに利用しているこの男が、少しばかり憎たらしく思えた。くだらないことに使うくらいなら、その才能を俺にくれればいい。国のため、大義のために役立ててやるというのに。

「遊びはそれくらいにして、ひとつ仕事を頼みたいんだが」

 チェガルの言葉に、シヴァの瞳が光った。「今度は誰を殺るんです?」

「macro-hardだ」

「マクロハード?」ぷっ、とシヴァが吹き出した。「ふざけた名前ですね」

「うちの組織の情報を掴んでいるらしい。居場所を探してくれ」

「はいはい」シヴァは細長い両腕をしきりに動かし、キーボードを叩きはじめた。