居酒屋に入る前、僕と先輩は円陣を組んだ。

「いいか? 相手は強敵だが、積極的に攻めていけば必ずどこかに綻びが出る。個の力で劣っていても、コンビネーションで勝負すれば必ず成果をあげられるはずだ。互いに互いをカバーし合うんだ! 戦う意識を忘れんじゃねーぞ! 気持ちで負けんな! よし行くぞ! 1、2、3ファイ!」

 組んだというよりも、組まされたという方が正しい。説明もなしに呼び出されて、僕はこれから何をするのかすら、知らなかった。掛け声に合わせて反射的に右足を踏み込むと、地面に積もった落ち葉が、ぐしゃりと乾いた音をたてた。

 スポーツの秋とばかりに、テニスでも始めるのかと想像していたのだが、居酒屋の中で待っていたのは二人の女性だった。これが〝合コン〟と呼ばれる食事会だと、経験のない僕でもすぐに気が付いた。

「ジェームス・ディーンも言ってたぜ『急いで生きないと。死に追いつかれる前に』ってな。だから俺とも、迷う前に付き合ってみればいいんだって。なんならベッドインが先でもいい!」

 我妻先輩は僕の隣で生ビールのジョッキを鷲掴みにしている。十月の夜だというのに、彼はアロハシャツを一枚着ているだけだ。シャツの柄のハイビスカスと、メニュー表にある〈秋の味覚フェア!〉の文字が全く合っていない。

「最近寒くなってきたろ? ベッドを温めてくれる存在、欲してない?」

 彼が喋る度に、スチールウールのようにモサモサと膨らんだ髪の毛が揺れる。

 そんな先輩と対照的に、僕は机の端からぎこちない笑顔だけを送り続けていた。声を出したのは「杉野誠一です。え、映像学科です」と自己紹介した時だけだ。

「我妻さんって面白い人なんだね!」

「芸大は変わった人が多いってのは本当だわ」

 テーブルの向こう側に座った二人の女性が顔を見合わせて笑う。それぞれの前には梅酒のお湯割りと、カルーアミルクが置かれている。

「変人? 俺が? ちげーよ。あんたらが普通過ぎんだよ。揃いも揃って似たような服着てるしよ」

 出会ったばかりの女性に対して、そこには建前も遠慮も、そして決定的に気遣いもない。

「やだなー流行りなんですよ。今年の秋はこういうの」

「そんなぶかぶかワンピースがか? 確かにデブった脂肪を隠すにゃ便利なんだろうな。おかげで乳のラインが見えたもんじゃねぇや」

 我妻先輩が女性陣の胸を不躾に見比べる。

「やだも~我妻さんたらスケベなんだから~」

 女性陣は大げさに体をよじってみせた。テーブル上に笑い声が満ちる中、僕のウーロン茶を飲むスピードは上がっていく。

 手の平を濡らす液体が、結露なのか手汗なのか分からなくなるほどに、僕は怯えていた。

「我妻さん胸が大きい子が好きなんですか~?」

 頭の中に腐った木材のような〝焦茶色〟が浮かぶ。梅酒を頼んだ女性は、我妻先輩を軽蔑している。

「ユーモアがあって気さくな方ですね!」

 カルーアミルクを口にした女性からは〝緋色〟を感じた。それはまるで地中深くで煮えたぎるマグマのように禍々しかった。彼女は軽蔑を通り越して怒りを抱いている。

 いつこの合コンが破綻してもおかしくない感情を、彼女達は秘めていた。


 相手の声を聞いた時、波紋のように一瞬だけ、頭の中で色が浮かぶ。

 その〝声の色〟が発言主の感情を表しているのだと気が付いたのは、小学二年生の時だった。

「誠一くん! ちゃんと声出してよね!」

 音楽の授業中、クラスメイトの女の子が僕にそう叫ぶ度に、タバスコのような赤色が頭に浮かんだ。

「ごめん」「出してるつもりなんだけど」「音も聴いているんだけど」

 僕が一つ釈明する度に、彼女の〝声の色〟には、だんだんと群青色が混ざっていった。その割合が半々になったあたりで、「なんで分かってくれないの?」と彼女は泣き出した。

 そんな〝声の色〟という感覚が、あまり常識的なものではないと知ったのは、四年生の時だった。母はそれまで僕の〝声の色〟の話を、子供の妄想だと片づけていた。しかし、十歳になってもまだ僕がそんなことを言い続けるので、ついに母は僕を病院へつれて行った。

「昔から『あの人嘘ついてる』だなんて口走ったり、説教していても怒ってないことが見抜かれたりはしていたんですが」

 検査結果に異常がないことを確認してから、医者は説明を始めた。

「共感覚というものをご存知ですか?」

 母も僕も、同じように首を傾げた。

「実際に色はついてなくてもイメージが連想されるものってありますよね? 男は青で女は赤。みたいな。その極端なバージョンといいますか、受け取った情報からイメージされる他の感覚を、脳が自動で引き出すんですね」

 医者はペンで頭を掻きながら続けた。

「漢字を見ると味を想起したり、形に音を連想したりする例もあります。円周率を何百桁も暗記できる人は、数字に景色を感じる共感覚を持っているそうです」

「はぁ……それは治るんですか」

「いえ、治るというか、そもそも病気ではありませんし。稀有な事例で分かっていないことの方が多いので」

 母と医者はあれこれと話を重ねて、日常生活に差し支えないのであれば、放っておいて問題ないだろう。という結論を導き出した。

 当時の僕には難しい言葉もあったのだが、結局〝感じ方〟の話なのだと説明していることは理解できた。

 ただ相手が怒鳴っていようが、泣いていようが、その表情とは真逆の〝声の色〟が見えることもあった。きっと僕に見えているのは本音の色であり、それも共感覚で片づけていいものなのかと疑問を抱いたのだが、尋ねることはしなかった。

「困ったことがあったらなんでも相談してね」

 そう笑う医者の声を聞いた時、紫色が頭の中で見えたからだ。

 その紫色を猜疑心と表現すればいいのだと知ったのはまた後のことだったが、魔女が作るスープのような暗い紫を、子供ながらに不気味に感じた。


「あ、思い出したぜ! そうだ! そうだ!」

 我妻先輩がジョッキを持ったまま、梅酒を頼んだ女性を指差した。

「君の顔どっかで見たと思ったけどあれだ! この前みたAVだ! 魔法で時間を止められるようになった男優がいたずらするやつ!」

 先輩の声からは、記憶を掘り起こせた爽快感を示す、爽やかなレモン色を感じた。

「やだなぁ、そんなの出てないわよぉ。我妻さんそんなの見てるんだー」

 梅酒さんの声も表情も明るいままだ。しかし、彼女の声に込められた軽蔑の焦茶色は、さっきにもまして強く濁って僕の頭に浮かんだ。

「一番目じゃないぜ、二番目にいたずらされた方。似てるわー」

「いや、そういう問題じゃなくてさー」

 梅酒さんが話題を逸らそうと、手に持ったおしぼりをマイクに見立てて、僕に向けた。

「いやー、誠一くんも大変だね、こんな先輩と友達でさ。いろいろと苦労してるんじゃない?」

 場を和ませ、新たな話題を提供するような返事ができればよかったのだが、僕の頭の回転は、そんなことができるほど速くない。

「そ、そうですね……。苦労してます」

 絞り出した声は、隣のサラリーマンの会話にすら打ち勝てない小さなものだった。

「俺ら映像科だからさ、撮影の裏側とか興味あるんだよね。あの作品って本当に時間止めてるの?」

「だ、だからそれは私じゃないから!」

 梅酒さんはついに我慢できなくなったのか、乱暴にグラスを机に置いた。僕はその音に驚き、咄嗟にフォローしようと口を開く。

「で、でも先輩、あのDVD気に入ってましたもんね!」

 梅酒さんの〝声の色〟は腐った木材にさらに泥を塗りつけたかのように濁った。

 全くフォローになっていないその発言が、僕が今回の合コン内において最後に口にした言葉だった。


「合コンってのは、やっぱ最高だな!」

 我妻先輩は、まだビールの匂いが残る口に、コンビニで買ってきたチューハイを流し込む。半分ほど飲んだ缶を、勢いよく作業机の上に置いた。

「先輩、いつかセクハラで訴えられますよ……」

 床から自分が座れる空間をなんとか見つけて腰を下ろす。

 この我妻先輩が住む寮にやってくるまでの外の空気は冷たいものだった。カーゴパンツからはみ出た脛に、鳥肌が立つほどだ。しかし、我妻先輩の部屋の中はどこか暑苦しい。それは間違いなく、パズルのように詰め込まれた段ボールのせいだ。先輩の部屋にはよく分からないオブジェや、段ボール箱が所狭しと置かれている。ベッドの上にすら乱雑に物が置かれていて、普段どこで寝ているのか想像もつかない。積まれた箱が、高層ビル群のようにひしめき建ち、圧迫感を僕へと与える。

「それ今の撮影で使ってるやつだから、今日からはこれが机な」

 我妻先輩は椅子に座ったまま、足元の段ボール箱を僕の方へ蹴り出した。指示された通り、その上に自分のコーラと、脱いだパーカーを畳んで置く。

 この寮のすぐ裏には、猪土芸術大学のキャンパスが広がっている。僕と我妻先輩は、いくつも学科がある内の映像科に通っている。ただ先輩は滅多に授業には出席しないので、通っていると表現していいのかは分からないが。

「あれ? それコーラか。お前酒よえーの?」

「僕まだ未成年ですから」

 それにこの後、原付バイクで二駅離れた自分のアパートに戻らなくてはならない。

「酒もたばこも、二年になったらやっていいんだよ。二年になったら!」

 僕らは現在二年生である。にも拘わらず僕が彼のことを〝先輩〟と呼ぶのは、彼が見事に留年しているからだ。僕が入学した時から、我妻先輩は二年生のままだ。

 先輩は何度も留年しているようで、正確な彼の年齢を僕は知らない。

 ただ、無精ひげと手入れされていないモサモサ頭は、三十代後半だと説明されても驚かないほどの野暮ったさを醸し出している。

「なんでもやっとけよ。酒だって飲めよ。大学生活は八年間しかないんだぜ?」

 除籍まで居座る気満々のこの格言は、先輩の口癖だ。彼自身その言葉通り、芸大で映像作品をいくつも作ってきた。この倉庫のような部屋に置かれている段ボールの中身は、ほとんどがその撮影で使った小道具や資料が詰められたものだ。

 ただ、この部屋に置かれている物の中に、先輩が自らの手で作ったものはない。彼は裁縫針に糸を通している間に日が暮れてしまうほど、不器用なのだ。

 先輩は作るというより、「こんなのって面白くね?」と言い出し、企画し〝作らせる〟担当だ。

 言葉は悪く聞こえるが、芸術大学にそういった役割をする人間は意外と少なく、そして物を作りあげるには貴重な存在なのだと、この一年半で学んだ。

 もちろん、だからといって彼の無神経な人格が許容されるわけではない。去年の今頃、初対面の僕に向かって放った発言は、未だに忘れられない。


「どうせ暇だろうから俺を手伝わせてやるよ」

 感じた〝声の色〟は、曇りのない黄金色だった。彼の心は自信に満ちていて、自らの提案が、僕の為になると信じて疑っていなかった。

「これ作ったのお前だろ?」

 彼の手の中の携帯では、僕が課題として提出したはずの映像が再生されていた。どこからか入手したそれを見て、僕に声をかけに来たらしかった。

 当時まだ教室の場所さえうろ覚えだった僕は、突然やってきた先輩からのアプローチにひどく狼狽した。

「編集ソフト何使ってんだ?」「高校の時から映像いじってる? 他にやることなかったのかよ」「で、どれくらい暇なんだ?」

 自分のことを名乗りもせずに語り続ける先輩に、僕は内心で腹を立てていた。だが結局断ることもできず(なにより確かに暇だったので)当時、我妻先輩が企画していた作品の編集作業を手伝った。

 ちなみに完成した《講義中、目からビームを発射する教授と焼き尽くされる学生達》の映像は、動画サイトで今も地道に再生数を伸ばし続けている。

 いつ教授本人に見つかるかと思うと、僕は気が気ではない。「誰が編集した?」と問い詰められれば、我妻先輩はすぐに僕を売るだろう。

 映像編集の人手としてなのか、一応は仲のいい後輩としてなのか、我妻先輩が僕のことをどう認識しているのかは分からない。今日のように遊びの人数合わせで呼ばれたり、制作作業を行っている時しか付き合いはないのだが、それでも僕にとって、大学に入ってから一番長い時間を過ごしている相手だ。


 椅子の背もたれに体重を預けながら、我妻先輩が窓の外を意味ありげに眺める。

「にしても、今日も俺のトークは冴えわたっていたな。我ながら恐ろしいぜ」

 彼の言葉から、先ほどの合コンに対する反省の言葉は一切出ない。

「怒られなかったのが奇跡だったと思いますけど……」

 結局、先輩の失礼な態度と無口な僕に、女性陣が不満を爆発させるようなことはなかった。思いやりに溢れた人達である。感謝しかない。

「女の子達みんな笑ってただろうがよ」

「まぁ、そうですね……」

「なんだよ。あ、さては例の〝魔法の耳〟だな?」

「違いますって」

〝声の色〟が見えることは、両親以外誰にも話したことはない。しかし、以前我妻先輩に誘われ参加した麻雀の場で、僕は参加者のイカサマを〝声の色〟で見抜いてしまった。

 その場では「なんとなく声が震えていたので」と誤魔化したのだが、それ以来、我妻先輩は僕のことを「〝魔法の耳〟を持つ男」とからかい始めた。

「俺が合コンで女の子を困らせたことが一度でもあったか?」

「この前ビンタされたって、言ってたじゃないですか」

「アズサちゃんとジュンコちゃんどっちの話だ? あ、マナちゃんのことか?」

「そこで複数人の名前が出てくることが驚きなんですけど……」

「うるせ! それより問題なのはお前の方だろ。合コンの後ろ半分、ほぼ下向いてたじゃねーか!」

 手に持ったチューハイを掲げて、我妻先輩が僕に向き直る。

「まぁ、それはその通りですけど……」

 その原因は先輩にあるのだが反論はしない。

 相手の顔と声を同時に受け取らないと〝声の色〟は頭に浮かばない。向こうがこちらを直視している必要はないが、僕は相手の顔を視界に収めている必要がある。

 だからこそ、合コンでは軽蔑と怒りの色を必死で隠す女性陣を見ていられず、途中からは目を逸らし続けていた。

 ハッキリとしたことは自分でも分からないが、おそらく声だけでなく、表情や仕草や皺などの細かい情報が〝声の色〟を感じる為に必要なのだと思う。

 電話越しの会話ならば〝声の色〟は見えない。そして録画された映像などでも、細かい情報が削られるらしく、やはり〝声の色〟は浮かばない。

 今回の合コンも、テレビ電話越しに参加させてもらえれば気が楽だったのだが。

「せっかくきれいどころの音楽科と合コンセッティングしてやったのによ。まぁ、一名はあんま好みじゃなかったけど」

 どちらのことを評しているのか分からない。僕には二人共、きれいな肌と大きな目を持つ魅力的な女性に見えた。

「人数合わせで無理やりつれてったんじゃないですか」

「そりゃお前みたいな地味なやつ、好き好んではつれてかねーよ」

 歯に衣着せぬ。などという表現があるが、先輩の場合は発言が全て素っ裸である。変人率の多い芸術大学においても、彼の変人度は群を抜いている。

「お前次の合コンで敬語禁止な。最初の一歩でできるだけ懐に飛び込むのが鉄則だぜ?」

「はぁ……」

 次の合コン。それは次の惑星直列はいつだ。なんて話と同様に現実感がなかった。

 それ以上に、軽快な口調で女性と会話する自分の姿は想像がつかない。

「あ、でもお前は次の合コン、行く必要はねぇかもなぁ」

 我妻先輩がにたりと笑う。

「どういう意味ですか?」

「見てたぜ~。連絡先もらってたろ。水臭くて風上にも置けねーやつだな」

 比喩表現を二重に混ぜて、我妻先輩が僕を冷やかす。

「確かにもらいましたけど……」

「いーなー秋ってのは恋の季節だよなー」

「先輩、春も夏も同じこと言ってたでしょ……」

 ジーンズのポケットから、二つに折られた紙ナプキンを取り出す。居酒屋のロゴの下には、梅酒を頼んでいた女性の電話番号が書かれている。表面の凹凸で線はふらついているが、数字は充分に読み取れる。

「今度はあの先輩のいないところで飲めるといいね」という言葉と共に、別れ際に渡されたものだ。

「ほら、連絡してみろよ。今すぐに、俺の前で」

「なんでそんなことしなきゃならないんですか」

「面白い事件はな、俺の目の前で起こらなきゃ存在しないのと同じなんだよ」

 我妻先輩は人差し指と中指で楕円を作り、それを眼鏡に見立てて両目に当てる。新種の宇宙人のようだ。

「しませんよ。連絡は」

「なんでだよ。千載一隅のチャンスだろうが」

「多分脈はないですから」

 あの子に呼び止められた瞬間は、なるほどこの地域では僕のような顔がもてはやされ、黙っているだけで女の子が声をかけてくれるのか。などと都合のよい妄想をし、頬がだらしなく緩んだ。

 しかし、彼女の「次は二人で飲もう」という声に感じたのは、曇天のようなくすんだ鉛色。罪悪感だ。もし僕に好意を持ってくれていたとしたら、あんな色は見えない。「確かにあの子、彼氏いるからなー」

「あーそうなんですか。やっぱり。てゆうか、それ知ってたなら言ってくださいよ!」

 先輩は僕の文句を意に介さず続けた。

「なんでもあの子のサークル、人数不足で潰れそうなんだってよ。そんで入ってくれるやつを探してるらしい。合コンに来たのもその為だろうな」

 大学内を三歩進めば知り合いに当たる先輩は、噂話に関しても敏感だ。

「それは、大変そうですね」

 そういった事情があったからこそ、彼女達は穏便に合コンを終わらせてくれたのかもしれない。感じた罪悪感の灰色も、僕を騙していることに、良心の呵責があったということなのだろう。

「先輩は彼氏がいることも、サークルの事情も知ってて、合コンに参加したんですね」

 目的を完遂したことなどないのだが、我妻先輩にとって合コンは恋人を作る為のイベントだ。その可能性がないのに参加するのは不自然に感じた。

「出会いは出会いにちげぇねぇだろうが」

 我妻先輩は酔って体温が上がったのか、唯一着ていたアロハシャツを脱ぎ出した。

「一本の花が腐ってたって、花畑全部が汚ねぇとは限らねぇだろ。サークルの人数稼ぎだろうが、彼氏がいようが、出会ってなんぼだろ。もしかしたらそこでもっと可愛い女の子と出会えるかもしれねーし、そのうち彼氏と別れるかもしれねーし」

「出会ってなんぼ……」と僕はバカみたいに復唱する。

「お前の場合は恋愛以前の問題だしな。サークルに入って、彼氏持ちに恋してふられて。それすら貴重な体験になるだろうが」

 両手を大仰に広げながら先輩が提言する。立派な脇毛も同時に広がる。

「なんでふられるのが前提なんですか」

「逆になんでうまく行くと思えるんだよ。その性格で。あ、枝毛」

 先輩は脇から一本毛を抜き取ると、一瞬だけゴミ箱を探してすぐに諦め、自分の背中の方へと枝毛を投げ捨てた。

「バカみてーに学生の多い大学に来たんだしよ。もっと出会えよ、そんなんだから友達の一人もいねーんだよ。ここにも地元にも」

「ぼ、僕の地元のことなんて知らないじゃないですか……」

「分かるよ。お前一度も実家帰ってねーじゃんか。夏休みだってずっとこっちいたろ?」

 段ボールの上に置かれたコーラの缶がペコンと音をたてた。まるで先輩の指摘に賛同しているようだ。

「だって実家までの交通費だって馬鹿にならないんですもん。それに僕にだって恋愛経験くらいありますよ。好きだった子の一人や二人くらい……」

「行動してやっと恋愛経験っていうんだよ。告ってふられて、初めて失恋ポイント1だ」

「失恋ポイントってなんですか……」

「経験値だよ。溜めるといいことあるんだよ」

「先輩のそのポイントは、お米券と交換できるくらいに溜まってそうですね」

「馬鹿野郎。ハワイ旅行ぐらいはいくわ」

 なぜか先輩は胸を張った。

「どうせお前の恋愛なんて、壁とか木の陰から、女の子を覗いてただけだろ? 話しかけもしなかった。違うか?」

 図星だ。何も口答えできないまま、手に持った紙ナプキンをコーラの横に置く。缶から垂れた結露が、ゆっくりと繊維に染み込んだ。

「昔、子供の頃、好きな相手に聞いてみたんですよ。僕のことどう思ってるって?」

「根暗なやつだって言われたんだろ?」

「そこまであけすけに言うのは先輩だけですよ。普通に『好きだよ。問題ない』って」

「嘘だったろ?」

 我妻先輩の当たり前のことを説明するような返答に僕は押し黙る。彼が述べた通り、僕に向けられたその言葉は嘘だった。

「はい。その通りです」

 ただ、先輩に説明していない部分がある。質問をした相手というのは恋愛対象ではない。僕の両親だ。

〝声の色〟を打ち明けた後、僕は両親に尋ねたのだ。

 ――こんな力があるなんて、変かな……?

 父親はすぐに答えた。「変なもんか」「気にすることはない」と。それに母親も「そうそう。個性よ個性」と口を合わせた。

 しかしその時、僕は濁った緑を頭に感じた。今思い返すと、それは当時の通学路にあった溜め池の苔むした水と同じ色だった。子供の僕は、住宅街の中にある底の見えないその池が不気味で、毎日走って前を通り過ぎていた。

 その色は僕にとって、不安の象徴だった。

 僕はすぐに「そっか、分かった」と答えて、両親から目を逸らした。そこから先の〝声の色〟を見てはいけないと思った。

 もし両親の抱いた不安の色が勘違いでなかったら、もっと色濃く表れたら、そう考えると、話題を振ることすらできなくなった。

 それから一度も両親に〝声の色〟の話はしていない。成長し、今はもうその感覚すらなくなったのだと、思われていることだろう。

 その一件から両親に限らず、人と目を合わせること自体を避けるようになった。できるだけ他人の〝声の色〟を拾わない為にだ。

 相手との距離を保ち、当たり障りのない会話を心掛けた。

 安易に踏み込んで相手を傷つけてしまうことが怖い。相手の色を濁らせてはいけない。そして卑怯ながら、相手の心の内を知り、自分が傷つけられることも僕は怖かった。

 それでも、怒りの沸点や、悲しみの穴は突如として現れる。それを見つけた時、僕の体はカカシのように柔軟性を失い、恐怖でただ立ち尽くすことしかできなくなる。

 そのせいで高校生活はお世辞にも充実したものとはいえなかったし、形だけの友人が数人いるだけだった。それでも誰かをひどく傷つけたり、怒らせたりしなかったことには達成感を覚えていた。

〝声の色〟が見える。それは、決してヒーローのスーパーパワーではない。その力で事件を解決したこともなければ、誰かを救ったこともない。救ってきた人間がいるとすれば、それは臆病な自分自身だ。

「僕は苦手なんです。コミュニケーションとか、距離感を測るとか、そういうのが」

 コーラの結露を吸った紙ナプキンはくたりとしていた。丁寧に二つ折りにしてからゴミ箱へと捨てる。

「向き不向きってのがありますよね」

 返事がなかったので顔を上げると、先輩は空になったチューハイの缶を自分の胴に押し当てて遊んでいた。

「誠一、見ろよ。作品名《乳首とプルタブの跡でできた顔》」

「興味なかったんですね。僕の話に」

「うん。あ、やべ、消える。誠一! 写真撮れ写真!」


        ●


 パソコンのディスプレイから顔を背けると、窓の外はもう明るくなっていた。電気的な明かりとはまた別の、熱を持った光を受けて僕の眼球がうずく。

 こうして朝日を浴びる度、長い人生の中の一晩をやり過ごしたという、ほのかな達成感が心に生まれる。

 椅子から立ち上がり、テラス戸を開ける。秋特有のカラッとした空気が、部屋の中へと入ってきた。木枯らしに乗ってきたのであろう茶色い木の葉が、ベランダの中でカサリと動く。

「ほら。早く起きて支度なさい!」

「お姉ちゃんだってまだじゃん!」

「じゃあ、お姉ちゃんも急かしてきて! ほらほら早く!」

「分かったー!」

 隣の家から、起きたばかりとは思えない少女の声と足音が届く。快活な声によって、僕の体の気だるさが際立つ。同時に、以前我妻先輩にされた予言を思い出した。

 ――なんかお前ってさ。いつか会社のパソコンの前で死んでそうだよな。画面見たら割り振られてた仕事は終わってるもんだから、上司に「ま、いっか」なんて言われてよ。

 その時、我妻先輩の顔を見ていたのだが〝声の色〟は白色、無色だった。冗談でも嫌味でもなかったようで、いちいち腹は立てなかった。それどころか時が経つにつれ、自分でもその予言に現実味すら感じるようになっていた。

「七時かぁ……」

 我妻先輩に頼まれていた映像の編集作業は八割方終わっていた。最終的なデータの書き出し作業を一生懸命行っているパソコンは、マウスの動きすら愚鈍だった。

「寝るのは……危ないよなぁ」

 僕の住むアパートから大学までは、原付バイクで二十分ほどの距離がある。多少離れた位置にあるこの場所を選んだのは、通学の利便性より家賃の低さを優先した結果だ。県境の端っこにある大学周辺に比べて、この地域の方がスーパーやちょっとしたお店も多い。

 九時に授業、朝の渋滞を考慮しても、バイクならば八時半に家を出ればいい。だからその十分前までに……。

 授業が始まるまでの予定を頭の中で逆算する。短いながらも睡眠をとる余裕はあったが、そうした後で起きる自信は全く存在しなかった。

 高校の頃は決まった時刻に起き、毎日余裕を持って家を出ていた。にも拘わらず、大学で授業への出席が自己責任に委ねられた途端、睡魔に打ち勝つことができなくなった。

 布団は聖母のように僕を包み込み、誰かが寝ている僕を操って、自動でアラームを鳴らす携帯を止める。数回それを繰り返してから「なぜこの世にスヌーズ機能なんてあるんだ」と理不尽に怒りながらベッドから這い出る。

 もちろん、深夜に海外ドラマや映画で夜更かしする僕をたしなめる存在がいなくなったのが一因なのだろうが、早起きと同じくらい、早寝も難しい。

「行っておくか……」

 眠らないまま朝を迎えたことは、大学生にとって出席を一つもぎ取るチャンスである。

 椅子の形に固まった関節を鳴らしていると、埃を被った卓上扇風機の隣で、携帯が震えた。

 相手が誰であろうと、僕は携帯が鳴る瞬間というものが嫌いだった。それは誰かに話しかけられることと同義であり、コミュニケーションが始まってしまう合図だからだ。

 もちろん電話にもメールにも相手の顔が見えない以上〝声の色〟を感じることはない。それでも条件反射のように僕の心は構えをとってしまう。

 画面には〈我妻先輩〉と表示されていた。

「はい、もしもし。代返ですか?」

『第一声がそれかよ!』

 電話越しで先輩の顔は見えず、声の色も頭には浮かばない。しかし、先輩が不服そうなのはよく分かった。徹夜の疲れから思わずしてしまった決めつけを後悔する。

「ご、ごめんなさい。他の用事でしたか?」

『いや、代返の頼みなんだけどよ』

 真面目に謝った僕が馬鹿みたいである。

『どうせ代返だろうなって思ってるやつに頼むのと、そうじゃないのとじゃ、こっちの気分だって違ってくるじゃねーの』

 筋が通ったようで自分勝手な理屈だったが、とりあえず謝っておこう。

「すいません。授業は色彩と映特でしたっけ?」

『映像特論だけだ。色彩はとってねー』

 二限目の授業だ。頭の中にメモをする。

『それと例の課題の件だけどよ。今日打ち合わせするぞ。三時に第二学食で』

「あぁ、そうですね。そろそろ始めないと……」

『少人数アンド長期スパンでやる予定だかんな。スタートが早いに越したことはねぇ』

 例の課題とは、五分から十分間程度の映像作品を制作し提出する。という内容のものだ。その課題は進級に必須の単位を得る為に必要であり、先輩も今回ばかりはその重い腰を上げた。同じ授業を受けている僕に白羽の矢が立ち、二人で制作することになっていた。

『んで、金曜までにロケハンの資料を提出しろって指示されてんだ。それも適当に大学内で録っておいてくれるか?』

「撮影場所、大学の中なんですか?」

『打ち合わせもしてねぇのにそんなもん決まってるわけねぇだろ。資料提出なんて、サボってないか教授が確認するための途中報告なんだから、適当に出しときゃいいんだぁっ……て』

 我妻先輩が大きなあくびをする。

「じゃあ、先輩の家にカメラとりに寄りましょうか?」

『やめろよ。俺今から寝るんだから。携帯で適当にとっときゃいんだぁぁっ……。いいんだって』

 さらに大きなあくびをしてから、我妻先輩は『おやすみ』と言って電話を切った。


 一限目の色彩学では、作中で白黒とカラーを切り替える演出を用いた洋画が流された。〝声の色〟を映画から感じることはない。こうして映画を鑑賞することも授業なのだから、芸大という環境に感謝したくなる。

 高校の授業では、おしゃべりをする生徒にイラつく教師の〝声の色〟を見てハラハラし、勉強どころではない時もあった。

 ただ徹夜明けとあっては、魅力的な映画も意味をなさない。途中から眠りこけてしまい、気が付くと授業は終わっていた。


 そうしてチャイムとチャイムの間をやり過ごしているうちに、我妻先輩との約束の時間が近付いた。十分ほど授業を早く抜けて、僕は集合場所の学食へと足を向けた。

 歩く度、首にかけたヘッドホンが、カチカチとパーカーのチャックにぶつかる。

 普段は不要な〝声の色〟を拾わないよう、ヘッドホンで音楽を聴きながら歩くのだが、今日は先ほど頼まれた、ロケハン映像を撮影しなくてはならなかった。

 携帯のカメラアプリを起動し、長方形で視界の一部を切り取る。まるで日常の世界が作りものの映像世界になったかのような感覚を覚える。映像学科にいながらも、撮影よりも編集を主に行っている僕には、カメラを扱う機会は少ない。それでもこの瞬間が決して嫌いではなかった。

 進行方向に気を遣いながら、学食へと歩を進める。

 意味のない場所が映っていたとしても、我妻先輩がそれらしく説明を後付けしてくれるだろう。中間報告としてはそれで充分なものになるはずだ。

 郊外に敷かれたこの大学のキャンパスは広い。僕は駐輪場までやってきてから、教室までの距離を歩くのが億劫になり、そのまま帰宅したこともある。

 校舎間の道の左右には芝が敷かれている。その前では美術学科の学生がカラフルな斑点のついたツナギを着て、カンバスに筆を走らせていた。彼が視線を向ける先には、葉がだんだんと色づき始めた街路樹があった。それに対して、すれ違いざまに見た彼の絵の中には、青々と茂った街路樹が描かれている。

「葉の色が、変わっている……塗り直さねば……」

 彼がボソッとそう呟くのが聞こえた。

 何度も学生とすれ違うが、誰も僕へ注目はしない。この大学内で撮影しながら歩く人間は、さして珍しいものでもない。

 校舎に囲まれた中庭へと出る。先月の学園祭では、ここに大きなメインステージが立てられて、いくつも出店が並んだらしい。僕は一度も参加したことがないので、その光景がどんなものなのかはよく知らなかった。

 中庭の中心からぐるりとあたりを撮影していると、画面の中に悪魔を見つけた。

「なんだあれ?」

 携帯から目を離し、自分の目で直接確認する。校舎の三階の外廊下に、確かに黒い羽と角を生やした男が立っていた。

 目を擦ってから気が付く。確かあそこはデザイン学科の校舎だ。授業の一環で作ったものを着ているのだろう。または、月末のハロウィンに向けた衣装を作っているのかもしれない。

 携帯を操作しズームにする。画像は荒くなったが、背中の羽の根元に固定用のベルトがあるのが確認できた。通りすがりの女学生が、羽にぶつからないよう、かがみながら悪魔の後ろを通り過ぎる。

 悪魔の格好をした男子学生をしっかりと捉える為に、後ろへと下がる。

 すると画面の中で、さっき悪魔の後ろを通り過ぎた女学生が、ちらりと腕時計を見た。彼女から見て、その時計の延長線上に僕がいたのだろう、視線は流れるように僕へと移された。すると彼女は突然、勢いよくこちらを指差した。

 勝手に撮影していることを怒ったのだろうか。どきりとして、さらに後ずさりした瞬間、僕は踵を何かに打ち付けた。

 重力に背中を引っ張られながら、この中庭の通称が脳裏をかすめる。この大学の学生は、この中庭を〝噴水公園〟と呼ぶ――。

 ばちゃん! と鋭い音を聞いてから、耳の中が水で満たされる。視界もゆらゆらとゆれ、口から出た泡が上へとあがっていく。

「ぶふ!」

 口と鼻に入った水を吐き出しながら浮上し、円形の縁に手をついて這い出る。冷たさや痛みよりも、まず恥ずかしさで頭がいっぱいになった。

 撮影しながら校内を歩く学生は珍しくなくても、足を引っ掛けてそのまま噴水へと背面ダイブする学生はそうはいない。

「後方注意だぞー!」

 外廊下の悪魔が、手をメガホン代わりにして僕をからかった。周りを歩く学生から、失笑が漏れる。

 先にアドバイスして欲しかったが、天使ならばまだしも、悪魔にそれを求めるのは筋違いだろう。それに今回は僕があまりにもドジすぎる。

 噴水の縁に腰かけると、足元に携帯を見つけた。躓いた時に手から離れたらしく、運良く水には落ちていなかった。その代わりに鞄もその中のテキストも濡れてふやけ、首に掛けていたヘッドホンを持ち上げると、耳あてから水が滴った。

「――っくっし!」

 ふいに吹いた風が、濡れた体を冷たくなでる。反射的にくしゃみが出てしまう。そうしてから、目を開けた時だった。

〈大丈夫ですか?〉

 目の前に、そう書かれたメモ帳が掲げられている。顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。

 彼女の周りで、光が七色の結晶を作り出す。まるでオーロラの中にいるような錯覚に陥ってから、それが自分の前髪についた水滴が作り出したものだと気が付く。

 柔らかいクリーム色のカーディガンの襟を直して、彼女はもう一度〈大丈夫ですか?〉と書かれたメモ帳を胸の前で掲げた。

「えっと、全然です。平気、全然大丈夫です」

 彼女は上品な茶色の髪を、三つ編みで一つにまとめて、右肩に乗せていた。三つ編みは柔らかに編み込まれており、根元はふわりと空気を内包していた。

 特別に鼻が高いわけでもない。目が大きいわけでもない。それでも僕は彼女の顔から目が離せなかった。彼女の表情は柔らかく、まるで古くからの知り合いに向けるような親しみに満ちていた。

 速くなる鼓動とは逆に、まるで時間がゆっくりと進んでいるような錯覚を覚える。顔のことか、所作のことか、はたまた映画のワンシーンだと考えた場合のことなのか分からないが、思わず「きれいだ」と漏らしてしまいそうになった。

「あ、あなたはさっき……」

 彼女のカーディガンに白いワンピースという出で立ちに見覚えがあった。さっき外廊下で僕を指差していた女性だ。あそこからわざわざ降りてきてくれたらしい。

 彼女はメモ帳の裏に挟んでいたボールペンをくるりと回して持ち直すと、メモ帳の逆側でそれを走らせた。

〈間に合わなくて すみません〉

 その文字の後には、メールの絵文字のように、垂れた汗の絵が添えられていた。彼女は意志を声にはしない。ジェスチャーと表情、そして文字で僕へと伝えるだけだ。

「い、いえ、転んだのは僕がドジなだけですから……」

 いつも以上に頭が回らない。その原因は、文字によって質問が投げかけられているからだけではない。彼女の纏う空気感が透き通っていたからだ。純粋な視線に、必要以上に緊張してしまう。

「あ、ていうか、あの、授業、始まってますけど……」

 彼女は顔の横でオーケーサインを作った。

「あ、そ、そうですか……」

 義務のような相槌を打ちながら、彼女の顔を窺う。内心で僕を笑っていないだろうか、馬鹿にしていないだろうか。不安に思うが、声を発しない彼女の〝声の色〟は確かめようがなかった。

 彼女は鎖骨の上の三つ編みを指でなぞってから、新たに文字を綴った。

〈ふくもの ありますか?〉

「ふくもの? え、笛とか?」

 僕の返事に、彼女は目を見開いてから顔をほころばせた。もう一度メモにペンを走らせる。

〈拭くもの。です〉

「あ、そっか、拭くものですね! ごめんなさい。さっき笛の音が聞こえてたから、勘違いしたんです。わざわざ書き直させてしまってすいません。ていうか、えっと、大丈夫です。こんなのすぐに乾きますから」

 しどろもどろになりながら、ばたばたと立ち上がり、鞄の口を閉める。そんな僕に、彼女はメモを掲げた。

〈ゆっくりで、大丈夫ですよ〉

 きれいな字だ。細い線が、しっかりと止めと払いを主張している。

 それを見て無言になった僕を確認してから、彼女はまたペンを紙の上で躍らせた。

〈私も、話すの遅いですから!〉

 彼女はいたずらっぽく首を傾けて笑う。風が吹いて、膝の上でワンピースの裾がひらひらと躍った。

「えっと……、怪我もないので、平気です」

 彼女の言葉によって、頭の中がクリアになっているのが自分でも分かった。濡れた頭すら気持ちよく感じる。それでもなんだか頭だけはのぼせていた、暑いのか寒いのか分からない。そんな不思議な感覚に囚われる。

「購買にいけば、シャツもタオルも売っていますし、幸い携帯も無事なので」

 僕の説明を最後まで聞き終えると、彼女は無邪気に親指を立てた。彼女の頬にえくぼが浮かぶ。

 名前は――。そんな質問が喉まで出かかってから、違う台詞を選ぶ。

「じゃあ僕はこれで……」

「川澄ちゃん! 何やってんの!」

 投げかけられた声の主は我妻先輩だった。通りかかったカップルのど真ん中を突っ切って、こちらへと歩いてくる。

「ん? ていうか誠一じゃん。寒中水泳か? 楽しそうだな。俺もやろうかな」

「せ、先輩、この人知ってるんですか?」

 先輩の顔と、女性の顔を交互に見比べる。彼女は先輩に向けて、会釈をしていた。

「おう、この子は川澄真冬ちゃん。俺の彼女だ!」