一年に一回ずつ、夏は訪れる。

 普通に生きていれば、僕たちは年齢の数だけ夏を経験することになる。百回も夏を迎えられる人はそういない。日本人の平均寿命から考えれば、僕たちは死ぬまでにおよそ八十回の夏を経験するということになる。

 八十という数字が多いのか少ないのか、僕にはよくわからない。人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、何事かをなすにはあまりにも短い――これは中島敦の言葉だ。八十回の夏は、夏を楽しめない者にとっては多過ぎるし、夏を楽しめる者にとっては少な過ぎる。きっとそんなところだろう。

 僕がこれまでに過ごした夏は、まだ二十回にも満たない。そして、その中に同じ夏は一つとしてない。それぞれの夏が、それぞれに違う輝きを持っている。どれが優れていてどれが劣っているということはない。雲の形に優劣がないのと同じだ。

 僕は手持ちの夏を、おはじきみたいにずらりと目の前に並べてみる。するとその中に二つ、異質な色をした夏があることに気づかされる。一九九四年の夏と、一九八八年の夏。前者は僕の人生でもっとも暑かった夏で、後者は僕の人生でもっとも寒かった夏だ。一方は空と海の青をぎゅっと押し込めたみたいに深い紺色をしていて、もう一方は琥珀みたいに淡い夕焼けの色をしている。


     *


 これから僕は、僕の人生でもっとも暑かった夏の話をしようと思う。


     *


 とはいえ、物事には順番というものがある。まずはその夏に至るまでの経緯から説明していかなければならないだろう。

 季節は一九九四年の夏から少し遡って、同年の三月二十日。美渚南中学校の卒業式に当たる日だ。

 話は、そこから始まる。


     *


 冷水で顔を洗い終えると、鏡で怪我の具合を確認した。目の上に一センチほどの切り傷ができて血が滲んでいた。それ以外に目立つ怪我はなかった。顔の右側に大きな痣があったが、こちらは切り傷の方と違って今しがたできたものではない。生まれつき、そこにあるものだ。

 最後に鏡を見たのは一ヶ月以上前だったが、痣はそのときよりも濃くなっているように感じられた。もちろん、あくまでそんな気がするというだけだ。普段鏡と長時間向き合うのを避けているため、たまにこうやってあらためて自分の顔を観察すると、痣の存在感に圧倒されてしまう。しかし、実際は何も変わっていないのだろう。

 しばらく鏡を眺め続ける。痣はぞっとするくらい青黒く、そこだけ皮膚が死んでいるように見える。煤を塗りたくったようでもあるし、黴が発生したようでもあるし、さらに近寄って見ると魚の鱗のようでもある。

 不気味な痣だと、自分でも思う。

 濡れた顔を制服の袖で拭い、棚に置いていた角筒を手に取って手洗いを出た。きついアンモニア臭の中にいたせいか、外の空気はほのかに甘く感じられた。駅前の広場には僕と同じように卒業証書の入った角筒を脇に抱えた学生が数人おり、ベンチに並んでぽつぽつと何事かを語り合っていた。

 駅舎のドアを開けると、ストーブの熱が温かく迎えてくれた。到着時刻直前までそこで列車を待つつもりでいたが、ただでさえ狭い構内は卒業式を終えて遅くまで遊び回っていた学生で溢れ返っており、ひどく騒がしく居心地が悪かった。僕は温かさと静けさを秤にかけ、結局、一足早くホームに出ることにした。

 三月中旬の夜は、まだまだ寒い。上着のボタンを締めようとして胸元に手をやると、第二ボタンがなくなっていた。後輩の女の子にせがまれた、という記憶はない。大方、取っ組み合いの最中に?ぎ取られたのだろう。

 喧嘩の理由は忘れてしまった。思い出したところで、自分に呆れるだけだ。

 卒業式が終わった後、友人たちと打ち上げをしていたのだが、ただでさえ血の気の多い不良連中の集まりだったというのに、そこにアルコール類を持ち込んだのがまずかった。くだらない話をしていたはずが、いつしか口論になり、四対三の大喧嘩に発展した。四の方は就職組で、三の方は進学組だった。そういうものだ。

 僕らにとって喧嘩は珍しいことではなかった。いやそれどころか、振り返ってみると、僕たちは季節の変わり目を迎えるたび、発情期の猫みたいに大立ち回りを演じていた気がする。そうすることで、田舎町特有の閉塞感だとか未来に対する漠然とした不安だとかを吹き飛ばそうとしていたのかもしれない。

 この面子でやる喧嘩は、これが最後になるんだろうな。殴り合いが終わった後、僕はふとそんなことを考えて、いやにしんみりとした気分になった。結局、決着らしい決着はつかず、痛み分けという形で喧嘩は終わった。別れ際、就職組の四人は進学組の三人に罵声を浴びせかけた。特に散々に痛めつけられた一人は、絶対に仕返ししてやるからなと叫んでいた。実に僕たちの関係に相応しい最後だった。そんな風にして、僕の中学生活は終わりを告げた。


 ようやく到着した列車に乗り込み座席に腰を下ろすと、斜向かいのドアのそばに立っている二十代前半くらいの女二人が僕を指さしているのが視界の端に映った。背が高くて痩せている方はレンズの入っていない伊達眼鏡をかけていて、背が低くて太り気味の方はマスクをしていた。

 二人は後ろめたい話をするとき特有のアクセントでぼそぼそと囁き合っていた。もちろん、話題は僕の痣だろう。いつものことだ。それくらいに僕の痣は目立つのだ。

 踵で椅子を蹴りつけて「何か文句でもあるのか」という目で睨みつけてやると、二人は気まずそうに目を逸らした。周囲の客が何かいいたげにこちらを見たが、文句をいってくる者はいなかった。

 僕は目を閉じて情報を遮断する。やれやれ、来月には高校生だというのに、僕はいつまでこういう馬鹿みたいなふるまいを続けるつもりだ? 少し気に入らないというだけでいちいち喧嘩腰で対応するのは体力と時間と信用の浪費だ。これからは徐々に、我慢したり受け流したりする術を学んでいかなければならない。

 死に物狂いで勉強した甲斐があって、先日僕のもとに、美渚第一高校からの合格通知が届いた。美渚第一高校といえば、県内有数の進学校だ。その高校で、僕はすべてをやり直すつもりだった。僕の通っていた美渚南中学校から美渚第一高校に進学する者はごくわずかだ。つまり、そこには中学時代の僕を知っている人間はほとんどいない。僕という人間を一から作り直すには、絶好の機会といえるだろう。

 中学での三年間、僕はこの喧嘩っ早い性格が原因で、実に多くの喧嘩や諍いに巻き込まれてきた。そしてそれに勝とうが負けようが、必ず何かしらの形で不利益を被った。もうたくさんだった。高校からは、揉めごととは無縁の、慎ましく穏やかな学生生活を送りたかった。

 美渚第一高校を志望したのは、学力偏差値の高い学校ほど揉めごとは少ないだろうと思ったからだ。学力と人間性は必ずしも比例しないが、失うものが多い人間ほどトラブルを嫌うのは確かだろう。

 噂によると、美渚一高は高校というよりは予備校のような場所で、寝ても覚めても課題や予習に追われ、部活や遊びにかまけている暇はなく、ろくな青春が送れないという。だが僕はそれで一向に構わなかった。もとより自分が人並みの青春を謳歌できるとは思っていなかった。クラスメイトと良好な関係を築いたり、素敵な恋人を作ったりといった生活は、僕とは無縁のものなのだ。

 この醜い痣がある限り、人々が本当の意味で僕を受け入れることはないのだから。

 小さく溜め息をつく。

 それにしても、と僕は思う。先ほど指をさしてきた女たちは運がいい。何せ、顔の下半分に自信のない人間にはマスクがある。顔の上半分に自信のない人間には眼鏡がある。だが、顔の右半分に自信のない人間には何もない。不公平な話だ。


 列車が耳障りな音を立てて停まった。プラットホームに降り立つと、かすかに春の夜の匂いがした。

 改札前で待機していた四十代の白髪交じりの駅員は、切符を受け取りながら僕の痣をじろじろと無遠慮に見つめてきた。ここ最近入った駅員らしいが、僕が改札を通るときはいつもこうなのだ。今日こそは文句をいってやろうと思い立ち止まったが、後ろに人がつかえていることに気づき、思い直してそのまま駅を出た。

 駅前の商店街は閑散としていた。辺りには人一人おらず、僕の足音だけが響いていた。ほとんどの店はシャッターを降ろしていたが、それは夜に限った話ではない。二年前に町外れにできたショッピングセンターに根こそぎ客を奪われた商店街は、瞬く間に中心街としての機能を失ってシャッター通りと化してしまっていた。スポーツ用品店、喫茶店、電器店、精肉店、写真店、呉服屋、銀行、美容室……僕は一つ一つの店の色褪せた看板を眺め、シャッターの向こう側を想像しながら歩いた。商店街の真ん中に設置された人魚の石像はぼろぼろに傷んでおり、物憂げに故郷の方角を見つめていた。

 そうして、洋品店と和菓子屋に挟まれた煙草屋の前を通りかかったときのことだ。

 突然、店頭の公衆電話が鳴り出した。

 まるで何十年も僕を待ち受けていたかのような運命的なタイミングで、ベルは鳴った。

 僕は足を止めて、暗闇の中で淡い光を放つ電話機の液晶画面を眺めた。端末の収められたキャビネットは古い型のものらしく、扉も照明もついていなかった。

 稀ではあるものの、公衆電話に電話がかかってくることがあるのを僕は知っていた。小学校時代、友人が公衆電話から一一〇番に悪戯電話をしたとき、即座に折り返しの電話がかかってきて驚いた記憶がある。気になって調べてみると、どうやら公衆電話にもそれぞれの端末ごとに電話番号が設定されているらしかった。

 ベルはいつまでも鳴り止まなかった。お前がそこにいるのはわかっているんだぞ、と主張するように強い意志を持ってしつこく鳴り続けた。

 理容室の看板時計は、九時三十八分をさしていた。

 いつもの僕であれば、無視して通り過ぎたはずだ。しかし、そのベルの響き方には「この電話は他でもない僕に向けてかけられたものなのだ」と思わせるだけの何かがあった。辺りを見回してみたが、やはりそこにいるのは僕一人だった。

 おそるおそる、僕は電話に出た。

「一つ、提案があります」

 何の前置きもなく、受話器の向こうの人物がそういった。

 女の声だった。二十代から三十代といったところか。一音一音を大切にするような、落ちついた喋り方だった。自動音声ではなく、受話器の向こうに生身の人間がいるのが息遣いからわかる。屋外からかけてきているのか、声の後ろでごうごうと風の音が聞こえた。

 何かの偶然で公衆電話の番号を知った女が、通行人を驚かせて遊んでいるのかもしれないな、と僕は思った。電話に出た人物をどこかから観察して、突飛な発言に対する反応を楽しんでいるということもあり得る。

 僕は質問には答えず、向こうの出方を窺った。

 すると女は内緒話でもするみたいな囁き声でいった。

「諦め切れない恋が、あなたにはあるはずです。違いますか?」

 やれやれ、つきあっていられるか、と僕は溜め息をついた。受話器をいささか乱暴に戻すと、僕は再び歩き始めた。背後でまたベルが鳴っていたが、目もくれなかった。


     *


 男子高校生が三人、道を塞ぐようにしゃがみ込んで缶ビールを飲んでいた。美渚町では珍しくない光景だ。海辺の長閑な田舎町といえば聞こえはいいが、居酒屋やスナックばかりで娯楽施設の一つもないために、若者は皆死ぬほど退屈している。刺激に飢えた連中が手っ取り早く退屈を紛らそうとして手を出すのが酒と煙草なのだ。幸か不幸か、この町では未成年がそういった嗜好品を購入する手段だけは豊富にあった。

 迂回するのは癪だったので脇を通り抜けようとしたが、そのときちょうど立ち上がろうとした一人の背中に僕の足が当たった。男はそれに大袈裟に反応し、僕の肩を掴んで引き止めた。今日は既に一度大きな喧嘩をしていたのでことを荒立てるつもりはなかったのだが、男が僕の痣を揶揄するような言葉を口にしたのが頭にきて、気づけば手が出ていた。

 運の悪いことに、僕が殴った相手は格闘技の経験者だったらしく、殴り返されると思った次の瞬間には僕は地面に伸びていた。彼らは僕を見下ろして口汚く罵声を浴びせていたようだが、意識が朦朧としていたせいでプールの中みたいにぼんやりとしか聞こえなかった。

 起き上がれるようになる頃には三人とも姿を消しており、残っているのはビールの空き缶だけだった。膝に手をついて立ち上がろうとすると、殴られた眉間が剣山を押し込まれているかのように痛み、僕は思わず呻き声をあげた。

 仰向けに寝転び、しばらく夜空を見上げていた。星は見えなかったが、時折雲の切れ間から月が見えた。後ろポケットを探ると予想通り財布がなくなっていたが、内ポケットの煙草は無事だった。くしゃくしゃの箱から曲がった煙草を取り出し、ライターで火をつけた。

 ふと、初鹿野唯のことを思い出した。

 小学四年生から六年生までの三年間を、僕は彼女と同じ教室で過ごした。あの頃、僕が今みたいに喧嘩をして傷を作るたびに、初鹿野は自分のことのように心配してくれた。僕より二十センチ近く身長が低いくせに、わざわざ背伸びして僕の頭を優しく撫で、「もう喧嘩しちゃ駄目だよ」と諭したものだった。

 それから小指を立てて、指切りを強要してくるのが初鹿野のやり方だった。僕が不承不承小指をさし出して応じると、彼女は満足気に微笑んだ。約束を守ったことは一度もなく、指切りした数日後にはまた新しい傷を作るのが常だったが、それでも彼女は辛抱強く僕を説得しようとしてくれた。

 振り返ると、当時周りにいた人間の中で、僕とまともに接してくれたのは初鹿野だけだったように思う。

 綺麗な女の子だった。僕も初鹿野も人目を引く子供だったが、その理由は正反対だった。僕が人目を引くのはその醜さのせいだったが、彼女が人目を引くのはその美しさのせいだった。

 ぱっとしない子供が多い僻地の小学校において、完璧な容姿と能力を持ち合わせている初鹿野唯という少女は、ある意味で残酷な存在だった。多くの女の子は集合写真を撮るとき初鹿野の隣に並ぶのを避けていたし、多くの男の子は初鹿野に対して一方的な恋心を抱き、自己完結的な失恋をした。

 初鹿野は、ただそこにいるだけで人々に色々なものを諦めさせた。彼女と同じ教室で過ごした子供たちは、世の中にはどう足掻いても覆せない絶対的な差があるのだということを身をもって知ることになった。たいていの人間が中学生になって本格的に勉強や部活や恋愛に打ち込むにつれて徐々に気づいていく理不尽の存在を、彼女はただそこにいるだけで一瞬で皆に気づかせてしまった。それは小学生が知るには早過ぎる無情な真実だった――もっとも、僕は痣のおかげで一足早くそれに気づいていたが。

 それほど圧倒的な存在である初鹿野が僕のような男と親しくしていることを、周りの人々は不思議がっていた。誰がどう見たって、初鹿野と僕は対極の存在だった。しかし当事者からいわせてもらえば、僕にせよ初鹿野にせよ、理由は正反対でも、人間扱いされていないという点では同じだったのだ。その疎外感こそが僕たちを結びつける糸だった。

 二人で過ごしているとき、何を話していたのかはさっぱり覚えていない。くだらない話ばかりしていた気がする。いや、話などせずに二人でぼうっとする時間が大半だったかもしれない。初鹿野と二人でいるときの沈黙は不思議と気まずさがなく、こっそりと親密さを確かめ合っているような感じがして心地がよかった。彼女が黙って遠くを眺めているときなど、僕は彼女の横顔をいつまでも見つめていたものだった。

 一つだけ、はっきりと覚えている会話がある。

「深町くんのその痣、私は素敵だと思う」

 痣について何か自嘲的なことをいった僕に、初鹿野が返した言葉だった。そう――確か、何気なく僕の口から漏れた、「よく僕なんかと一緒にいられるよな」に対しての言葉だったと思う。

「素敵?」と僕は訊き返した。「皮肉にしか聞こえないな。よく見てみろよ。びっくりするくらい不気味だから」

 初鹿野は顔を近づけてきて、至近距離から僕の痣をじっと観察した。

 馬鹿みたいに真剣な顔で、何十秒もそうしていた。

 そして不意に、僕の痣にそっと唇をつけた。

 ほんの少しのためらいもなかった。

「びっくりしたでしょう?」

 彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべていった。

 その通りだった。死ぬほど驚いた。

 どう反応したらいいものか、さっぱりわからなかった。初鹿野の方もすぐに何事もなかったかのように話題を移したため、彼女の行動の意味について知る機会は与えられなかった。あるいは意味なんてなかったのかもしれない。いずれにせよ、この事件が原因で二人の関係が変化するということはなく、その後も僕たちは変わらずよき友人であり続けた。

 別に、僕という人間が彼女に好かれていたというわけではないと思う。単に、あの頃の初鹿野は、善意や好意といった感情を持て余していたというだけだ。安易にそれらを誰かにわけ与えると相手が必要以上に舞い上がってしまったり大袈裟に感謝してきたりするので、なるべく打っても響かなさそうな相手を選んでその手の感情を発散させていたのだろう。

 初鹿野は知らない。彼女の一挙一動に、僕がどれだけ心を揺さぶられていたかを。

 小学校を卒業すると、僕は多くの同級生と同じように美渚町内の公立中学に進学した。美渚南中学校。廊下をオートバイが走り、教師がベランダから突き落とされ、体育館中がスプレーで落書きされるような学校だった。まともな神経をしていたら二週間で気が狂うだろう。僕はまともな神経をしていなかったから平気だった。

 初鹿野は遠くの私立の女子中学校に進学した。參葉中学校――いわゆるお嬢様学校だ。そこで彼女がどのような日々を過ごしたのかはわからない。噂話も聞かなかったし、知りたいとも思わなかった。帰するところ、僕と彼女とは別世界の住人なのだから。

 以後、初鹿野とは一度も会っていない。

 なるほど、と僕は得心する。

 仮に、公衆電話の女のいう通り、僕に諦め切れない恋があるのだとしたら。

 それはきっと、初鹿野のことなのだろう。


     *


 煙草を吸い終えた僕は、感傷的な回想を打ち切って立ち上がった。体中がぎしぎしと軋んだ。喉にかすかな痛みがあった。ひょっとしたら風邪をひいてしまったかもしれない。

 ひどい一日だった、と僕は思った。

 だが、僕の不運な一日はまだ終わっていなかった。

 再び家に向けて歩き出し、解体工事中の――もっともそのときは夜間ということで作業員は一人もいなかった――ユースホステルのそばを歩いていたとき、事故は起きた。

 建物には高さ二メートル近くのフラットパネルによる仮囲いが施してあった。その内側から、ぱらぱらと不吉な予兆めいた音がした。不審に思いつつもそのまま歩き続けていると、仮囲いの中で何かが崩れ落ちるような轟音が起き、直後、フラットパネルの一枚が僕に向かって勢いよく倒れてきた。

 ついていない日は、とことんついていないものだ。

 どうして全身を押し潰されずに済んだのか、誰が一一九番に電話してくれたのか、救急車がくるまでどうしていたのか、その辺りはまったく記憶にない。とにかく目を覚ますとそこは病室で、両足がギプスで固定されていた。ややあって、叫び出したくなるような痛みが全身を襲った。視界が再び暗くなりかけ、冷汗がだらだらと流れた。

 窓の外で、朝の鳥が爽やかな声でさえずっていた。

 そのようにして、僕は高校入学を前にして全治十四週間の大怪我を負った。両足共に複雑骨折だったらしい。目覚めて間もなく手術台に運ばれ、脚にボルトとプレートを入れられた。後にレントゲン写真を見せられたが、教科書に載せてもいいくらい見事な骨折だった。命に別状はなく、後遺症の心配もないそうだったが、この事故によって僕の高校生活のスタートはかなり遅れることとなった。

 まあいい、と僕は思った。僕が怪我で入院するのは珍しいことではない。登校できるのは早くても六月末からで、それまでにはクラスの人間関係はほぼ固定化してしまうだろうが、もともと高校生活できちんとした友人を作る気はなかったから大した問題ではない。それに、考えようによっては、教室より病室の方が勉強に集中できるかもしれない。

 実際、その三ヶ月、僕はおそろしく真面目に勉学に励んだ。ウォークマンで好きな音楽を聴きながら繰り返し教科書を読み、それに疲れると潔く眠る、という生活を愚直に続けた。病室はミニマルアートの展示場みたいに真っ白で、窓の外にも取り立てて見るべき価値のあるものはなく、それらと比べれば数式や英文の方がまだ刺激的だったのだ。

 何事も自分のペースで進めるのが好きな僕にとって、そこは見方によっては理想的な環境だった。学校で眠気を堪えながら必死に黒板の文字や数式を写すよりは、こちらの方がよほど効率的に思えた。

 五月の末、同室に左腕を骨折した六十代半ばの羽柴さんという男が加わった。彼は黙々と勉学に取り組む僕を気に入ったらしく、顔を合わせるたびに「わからないことがあったらなんでも訊いてくれよ」といって顔をくしゃくしゃにして笑った。英文法に関しては不安なところも多かったので幾度か質問にいったが、羽柴さんはそこら辺の塾講師とは比べものにならないほどわかりやすい説明をしてくれた。話を聞くと、もともと教師をしていた人らしい。ベッドの脇には分厚い洋書が何冊も積んであった。

 ある雨の午後、羽柴さんは何気なく僕に訊いた。

「君にとって、その痣はどのようなものなんだ?」

 そういう角度からの質問は初めてだったので、答えを思いつくまでにかなりの時間を要した。

「諸悪の根源ですね」と僕はいった。「この痣がなくなりさえすれば、僕が今抱えている問題の八割は解決したことになると思います。他人に偏見を持たれたり気味悪がられたりするのもそうですが、何よりの問題は、この痣のせいで僕自身が僕を好きになれないということです。人間、好きでもない相手のためにがんばることはできません。自分が好きになれないということは、自分のためにがんばれないということに繋がります」

「ふむ」と羽柴さんは相槌を打った。

「その一方で、僕はすべての責任をこの痣に押しつけることで、見たくないものを見ずに済んでいるという風にも感じます。僕は努力次第で解決できる問題の多くを痣のせいにしてごまかしてしまっているのかもしれません。……いずれにせよ、僕にとって痣が悪影響をもたらす存在であることは間違いありません」

 羽柴さんはゆっくり頷いた。「なるほど。他には?」

「それだけです。いいことなんてありません。僕は劣等感が人を成長させるとは思っていません。たいていはその人の歪みの起点となるだけです。劣等感をバネにして成功する人間もいますが、そういう人は皆、成功を収めた後も劣等感に悩まされ続けています」

「君のいうことはもっともだ」と羽柴さんはいった。「しかし、君を見ているとこう思わずにはいられないんだ。ある深刻な欠点が、その持ち主を思慮深い人間に育ててくれるというのも確かだとね。もっとも、欠点から目を逸らさなかった者に限った話ではあるが」

「思慮深いではなく、僻みっぽいの間違いでは?」

「それも、間違いではない」

 羽柴さんは顔をくしゃくしゃにして笑った。

 退院際、彼は僕に一冊の本をくれた。チャールズ・ブコウスキーの『ハム・オン・ライ』の原書だ。以後、僕は辞書を片手にその本を毎日五ページずつ読むようになった。

 結局、僕の高校生活が始まるのは七月上旬となった。生徒は皆期末試験を終えて重圧から解放され、徐々に近づいてくる夏休みの気配に心を躍らせる時期だ。

 高校生として過ごす夏。それを人生で最良の時間と呼ぶ人も少なくない。しかし、夏の放つ輝きは春からの積み重ねがあってこそのものだ。消毒液の香りと白い壁の世界から突然夏の真只中に放り出された僕は、赤の他人の誕生会に紛れ込んでしまった人みたいに場違いな気持ちでいた。

 僕はこの世界についていけるのだろうか?


 退院した日曜日の夜、僕は町外れの海岸を訪れた。午後十時頃に布団に潜り込んだが妙に目が冴えてしまい、杖を掴んで勝手口から家を抜け出してきたのだ。翌朝から始まる高校生活に、僕も人並みに緊張しているようだった。

 途中で商店に寄り、自動販売機で煙草を買った。海に着くと防潮堤に座り、三日月がほのかに照らす海面を一時間ほど眺めていた。久しぶりの海だったが、大した発見はなかった。潮の香りがいつもより強く感じられたという程度だ。

 帰り道、静まり返った住宅街を歩いていると、遠くからかすかに電話のベルが聞こえた。

 初め、ベルはどこかの家で鳴っているものだと思った。

 しかし、歩を進めるにつれて音は大きくなってくる。

 バス停脇の電話ボックスの前で、僕は足を止めた。

 ベルの音はそこから聞こえていた。

 以前にも、似たようなことがあった。

 あのときは、誰かのいたずらだろうと気にも留めなかった。

 しかし電話を受け取った日から一日また一日とときが過ぎるにつれ、あの女が口にした言葉は次第に僕の中で重みを増していた。


 諦め切れない恋が、あなたにはあるはずです。


 あれは本当にただのいたずら電話だったのだろうか?

 そうでなかったとしたら、あの女は僕に何をいおうとしていたのか?

 ――思えば、あれからずっと、僕は彼女からの電話を待ち続けていた気がする。

 受話器を取ると、聞き覚えのある女の声がした。

「いたずらではないと、わかってくれたようですね」

 僕は三ヶ月前の問いに答えを返した。「認めるよ。諦め切れない恋が、僕にはある」

「ええ、そうです」女が満足げにいった。「初鹿野唯さん。彼女のことを、あなたはまだ諦め切れずにいます」

 女が初鹿野の名前を口にしても、僕はさして驚かなかった。僕の居場所を特定して公衆電話を鳴らせるくらいなのだ。僕の初恋の相手を知っていてもそれほど不思議ではない。

「それで、あのときいっていた『提案』というのは?」と僕は訊いた。

「ほう」女は感心した様子だった。「三ヶ月も前の話を、よく覚えていましたね」

「たまたまさ」

「まあ、そういうことにしておきましょう。さて、前回しそびれた提案ですが……私と、賭けをしませんか?」

「賭け?」と僕は訊き返した。

「深町さん」女はごく自然に僕の名を呼んだ。「十歳の夏、あなたは初鹿野さんに恋をしました。あらゆる偏見に慣れ切った深町さんにとって、痣を気にせず対等に接してくれる初鹿野さんは、女神のような存在でした。彼女を自分のものにしたいと思ったことは、一度や二度ではなかったはずです」

 そこで女は一旦言葉を区切った。

「……しかし、当時の深町さんにとって、初鹿野さんはあまりに遠い存在でした。『自分には、彼女に恋をする資格はない』。そう考えることで、あなたは初鹿野さんへの想いを抑えつけていたのです」

 否定はしなかった。「それで?」と続きを促す。

「『自分には彼女に恋をする資格はない』。ですが、あなたは同時にこうも考えていました。『この痣さえなければ、僕と初鹿野の関係は、もう少し違ったものになっていたかもしれない』と」

「ああ、思ったよ」と僕は正直に認めた。やはり痣のことまでお見通しのようだ。「でも、誰だってそうさ。もう少し背が高ければ、もう少し目が大きければ、もう少し歯並びがよければ。考えない方がおかしい」

「では、実際に痣を消してみましょう」と女が遮るようにいった。「その結果、初鹿野さんの心を射止めることができれば、賭けはあなたの勝ちです。痣はあなたの顔から永久に姿を消します。逆に、初鹿野さんの気持ちに変化が起きなければ、賭けは私の勝ちです」

 僕は眉間を押さえて瞼を閉じた。

 この女は何をいっているのだろう?

「この痣は消えないよ」と僕は苛立たしげにいった。「これまでにも色々な治療を受けた。でも、どれもまったく効果がなかった。特殊な痣なんだ。だから、賭けは成立しない。そもそも、初鹿野とは小学校を卒業して離ればなれになって以来、もう三年も会っていないんだ。今どんな風に生きているかも知らない」

「では、痣が消えて、初鹿野さんと偶然再会できたそのときは、賭けに応じるということでよろしいですね?」

「ああ。そんな奇跡が起きれば、の話だが」

 女は鼻で笑った。「さて、期限は……そうですね。五十日、あなたに与えましょう。あと数時間で日付が変わり七月十三日になりますから、そこを賭けの始まりとすると、八月三十一日が期限ですね。それまでに、初鹿野さんと両想いになってください」

 唐突に通話が途切れた。僕は公衆電話の前でしばし立ち尽くした。

 ひょっとしたらと思い、街路灯の下に停められていた自動車のサイドミラーを覗き込んでみたが、痣は依然として僕の顔に残っていた。薄まった気配も、縮まった気配もない。

 やはりただのいたずらだったのだ。僕の事情を熟知している誰かが、異様な情熱と病的に凝った手法で僕の気持ちを弄ぼうとしただけだったのだろう。にわかには信じがたいが、それ以外に解釈のしようがない。僕を恨んでいそうな人間などいくらでもいるし、退屈という言葉では表せないほど刺激に欠けたこの町では、束の間の興奮のために常軌を逸した行動に出る若者が少なくない。皆、とにかくすることがないのだ。僕を嘲笑うためだけに町中の公衆電話の番号を調べ出す者がいても、それほどおかしくはない。

 溜め息をついて、膝に手をつく。入院中に体力が落ちたためか、疲れがどっと襲ってきた。

 少なからず落胆している自分に驚いた。わざわざ鏡を覗き込んで確認をしてしまったことに、今さら自己嫌悪の感情が湧いてきた。

 まだ、諦め切れずにいるのか。

 帰宅すると、熱いシャワーを浴びてから布団に潜り込んだ。枕元の時計は午前の三時を指していた。この分だと、登校初日から居眠りする羽目になりそうだ。

 瞼を閉じて、一秒でも早く意識が途切れるのを待つ。こういうときに限って秒針の音はメトロノームみたいに強く自己主張し、僕の呼吸は段々とそれに同期するように加速し始める。手を伸ばして時計の角度を変えてみたが効果はない。窓を開け放しているにもかかわらず部屋は異様な蒸し暑さで、喉が渇いてくる。

 ようやく眠りについたのは、空が白み始め、早朝の烏やひぐらしが鳴き始めた頃だった。

 ほんの数十分の睡眠。けれどもそのわずかな意識の空白を通じて、僕の人生に重大な変化が生じる。

 奇跡は、人の目を盗んで起きるものだ。