開店前のエメラルドの客席に、朝の透明な光が差していた。ステンドグラスの色がテーブルに映り、水差しや重ねたグラスに光が躍る。

 小野寺美久は陶器のシュガーポットを並べ終えるとカウンターに立って店内を見渡した。綺麗に整えたテーブルに塵一つない食器棚。小さな瓶に挿した花はどれも瑞々しく咲いている。準備万端、これでいつでもお客さんを迎えられる。

「しまったなあ」

 そう思った時、店の奥から声が響いた。美久がカウンターの戸口から厨房を覗くと店長の上倉真紘が冷蔵庫を開けたまま思案顔になっていた。

「どうかしました?」

「コーヒー用の生クリームを切らしそうなんだ。昨日買っておけば良かった」

「じゃあ買ってきますね。乳脂肪分二、三十パーセントのでいいですか?」

 サロンエプロンの紐を解きながら美久が尋ねると、真紘は目を瞬いた。

 一口に生クリームと言っても種類は様々だ。説明せずとも何が必要か理解している美久の言葉に真紘の顔は綻んだ。

「お願いします。いつものがなければ、高原牧場か清里乳業ので大丈夫だよ」

「わかりました。他に必要なものがあったら電話してくださいね」

 美久は買い物用の小さな財布を預かって厨房をあとにした。裏口を出たところで外階段を下りる靴音が聞こえた。

 建物は二階建てで上の階は上倉家の自宅だ。真紘は弟と二人暮らしなので、誰が下りてきたのかすぐにわかった。

 まもなく建物の角から予想した通りの人が現れた。すらりと背の高い高校生だ。

「おはよう、悠貴君」

 美久は声をかけてから、「あれ?」と目を瞬いた。店の手伝いに下りてきたとばかり思ったが、悠貴は半袖のワイシャツにネクタイを締め、濃紺のチェック柄のパンツを穿いていた。慧星学園の制服だ。

「めずらしいね、日曜日に学校?」

「ああ、生徒が問題を起こした。生徒会でも情報を集めてくれと教員から連絡があったんだ」

「そうなんだ」

「ランチタイムまでに戻るから、それまで真紘と店をまわしてくれ」

 井の頭恩賜公園のほとりに立つエメラルドは、その立地上、平日よりも週末や祝日に混雑が集中する。いつもは三人体制で店をまわすが、学校でトラブルがあったのでは仕方ない。

「わかった、お店は任せて」

 美久が胸を張ると、悠貴は眼鏡の奥の目をすっと細めた。

「そこまで頼んでない。お前が頑張ると碌なことがないからな」

「ちょっ、失礼だよ!?」

 びっくりして言い返すうちに、「キビキビ働けよ」と言い置いて悠貴は行ってしまった。振り返りもしない背中に美久は手にした財布をぶつけてやりたくなった。

「本当にもう!」

 いつまで経っても生意気だ。しかも悠貴は外面が良く、学校では今のような態度をおくびにも出さない。おかげで品行方正で優秀な生徒会副会長として生徒や教員から絶大な信頼を得ている。……確かに優秀ではあるけど。

 もうちょっと優しかったらいいのに、と胸に呟いて美久は買い物に向かった。

 お使いを済ませてスマートフォンで時刻を確認すると、店の営業開始まで十分ほど時間があった。のんびり歩いても間に合うが、公園を抜けて近道することにした。

 井の頭公園は桜で有名な弁天池周辺や競技場などは整備されているものの、少し外れると鬱蒼とした雑木林が広がっている。フェンスや柵で通り抜けできない場所もあるので注意がいるが、歩き慣れた美久には気持ちの良い散歩道だ。

 十月の東京は短くも美しい季節だ。日差しは熱く、落ち葉にはまだ早い。濃い緑の葉を透かして澄んだ青空が見える。爽やかな風がバラや金木犀の香りを運び、どこにいても甘く芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。

 緑の小道を歩きながら美久は胸一杯に空気を吸い込んだ。と、コツッ、と額に何かが当たった。

「いたっ」

 反射的に頭上を仰いだ時だった。バキッ、と枝の折れる音が響き、枝葉を巻き込んで巨大な影が落下してきた。

 え――――人っ!?

 驚く暇もなく衝突し、降ってきた人の下敷きになる。背中を強か打ちつけて息が詰まった。痛みのあまり声にもならない。

 美久がうめくと、重なるように倒れた人が上体を起こした。

「ダイジョブ?」

 気遣わしげな声に応えようと薄く目を開け、美久は呆気に取られた。目にしている光景が現実なのかわからなかった。

 光を背に、青い目をした青年が美久の顔を覗き込んでいた。

 湖面を思わせる澄んだ水色の大きな瞳。彫りの深い端整な顔立ちにほつれた金の巻き毛がかかっている。光に縁取られた肌が白く輝いて、まるで青年自身が光を放っているようだ。

 天使みたい――

 自然とそんな言葉が浮かんだ時、青年が道の先に目を向けて、ぎょっとした表情になった。小声で悪態をついたかと思うと、美久の手を掴んで起き上がった。

「Come on」

「えっ……あ、あの!?」

 青年は美久を道の脇に引っ張り込んだ。ほとんど引きずるようにして美久を茂みの陰に座らせると、青年は自分の口元に人差し指を当てて目配せした。それから視線で小道の先を示す。

 美久は困惑しながら青年の視線の先に目を向けた。草木の向こうに男が見える。

 中背のがっしりした体躯の中年で、誰かを探すようにあたりを見回している。そこへ別の男が合流し、短く言葉を交わして大通りの方へ駆けていった。

 あの人たちは一体……?

 青年が男たちの去った方向を睨みながら小道へ戻った。美久も茂みから出て、道に落としたレジ袋を拾った。生クリームの容器が少しへこんでいたが、中身は漏れていないようだ。

 よかった。胸をなで下ろした時、ふと地面に落ちているものが目にとまった。

 マッチ箱だ。

 拾い上げると、箱は驚くほど軽かった。中身が入っていないようだ。先ほど額に直撃したのはこれだろう。

 手のひらにすっぽり収まる小さな箱は、色褪せて黄色ともクリーム色ともつかない色をしていた。赤と茶の二色刷りで店名らしきロゴと電話番号が印刷されている。その表面にはなぜか定規で引いたような大きな×印があった。

 だけど、どうしてこんなところにマッチ箱が?

「Get your hands off」

 不意に声が響き、青年が美久の手からマッチ箱を取った。

 青年はパーカーのポケットにマッチ箱を押し込むと、にっこりと微笑んだ。

「アリガト」

 屈託のない笑顔にまわりの空気まで華やぐようだった。

 高校生くらいだろうか。子どもではないが、大人と言うにはまだ早い。ほわほわした金の巻き毛と水色の瞳があいまって、まるで本物の天使のようだ。

 どこの国の人だろう? 急に隠れたり、男の人たちを気にしたり……ていうか、どうして木の上に??

 考えれば考えるほど謎めいている。美久は少し考えてから、男たちが去った方向を指差した。

「あの人たちは誰ですか?」

「アノ人たちは、ボクをさがすデス。ボク、にげマス」

「えっ、追われてるの!」

「ハイ!」

 元気いっぱいの笑顔に追われている緊張感はなかった。

 日本語わかってるのかな……?

 心配になって英語で聞き直そうとした時、それより早く青年が口を開いた。

「ボクはemeraldさがしマス。しってマスか? Let me see……キサテン」

 キサテン――――喫茶店。

 片言の日本語を理解した瞬間、発音が良すぎて聞き流していた言葉と結びついた。

「喫茶店エメラルド?」

 目を丸くする美久に、青年はぱっと顔を輝かせた。


「へえー、不思議な出会い方をしたね」

 十数分後。カウンターに立つ真紘がコーヒーを淹れながら美久の話に頷いた。件の青年はテーブル席に座り、きょろきょろと店内を見回している。

 店へ戻る道すがら、どうしてエメラルドを探しているのか訊いたのだが、「チョトねー」と青年にはぐらかされてしまった。そうこうするうちに店に着き、詳しい話は聞けず終いだ。

 美久は首を傾げた。

「エメラルドを探してたということは、やっぱり依頼人でしょうか?」

「もしそうなら探偵業も忙しくなるね」

 世界展開かあ、と真紘は朗らかだ。

 美久は青年から詳しい話を訊きたかったが、店内が混雑してきてその余裕はなくなった。接客と調理に追われ、一段落着いた時には一時間ほど過ぎていた。

 客席に目を向けると、青年は変わらずテーブル席にいた。すっかり冷めたティーカップを前に、何をするでもなく退屈そうにしている。

 こんなに長い時間お店にいるなんて、やっぱり依頼人かな?

 美久が考えていると、青年が顔を上げた。目が合うと青年は嬉しそうに頬を緩め、美久と距離があるのも構わずに話しかけてきた。

「こうちゃ、おいしいデスネ」

「ありがとうございます」

 もっと話がしたいのか青年は期待に満ちた目で次の言葉を待っている。

 話を訊くチャンスかも。美久は他の客席の状況を見極めてから、水差しを手に青年の席へ向かった。青年がどのくらい日本語を話せるのかわからないので、聞き取りやすい発音を心がける。

「どこから来たんですか?」

 グラスに水を注ぎながら尋ねると、青年は微笑んだ。

「イングランド、ロンドンから来マス」

「旅行ですか?」

「ノー。アー……ボクはリューガクセイ。ニホンゴ、べんきょしマス」

 舌足らずに言ってから、青年は困ったように眉根を寄せた。

「ボクのニホンゴ、へたデスネ」

 シッパイ、と恥ずかしそうにはにかむ姿があまりに可愛らしくて、美久は自然と笑顔になっていた。人懐っこい性格の青年には人を和ませる魅力がある。

 その時、チリリン、とドアベルの涼やかな音色が響いた。

 いらっしゃいませ、と美久は言いかけて、入って来たのが悠貴だと気づいた。

「お帰りなさい。学校どう? 問題は解決した?」

 カウンター席に来た悠貴に声をかけると、悠貴は溜息を漏らした。

「解決もへったくれもない。情報は集まらないし、問題を起こした生徒は相変わらず行方知れずだ」

「そうなんだ……」

「コニチハ」

 美久の友だちだと思ったのだろう、青年がフレンドリーに悠貴に笑いかけた。

 そのとたん、悠貴の表情が一変した。

「お前……! どうしてここにいるんだ!」

「えっ、悠貴君の友だち?」

「違う。今話しただろ、問題を起こした生徒がいると」

「じゃあ――」

「正確には慧星の生徒じゃなくて留学生だがな。ホームステイ先の家からダニエルが昨晩から戻らないと連絡があって、手分けして探してたんだ」

「ハイ、ボクはダニエル・キャンティいいマス」

 自分の名前だけ聞き取れて、美久に自分を紹介していると勘違いしたのだろう。ダニエルの的外れな合いの手に悠貴は頭の痛そうな顔になった。

 悠貴は顔を上げてダニエルの向かいに座ると、英語で話し始めた。流暢な英語にダニエルも英語で返す。

 美久が二人のやりとりを見守っていると、悠貴に横目で睨まれた。

「何見てるんだ、時給減らすぞ」

「わ、戻りますっ」

 美久は飛び上がって、水差しを抱えてカウンターへ逃げ込んだ。

 危なかった……! 悠貴君、すぐオーナー権限振りかざすんだから。

 それにしても、と美久はテーブル席に視線を戻した。

 悠貴は相変わらず英語で話していた。流暢な英語に舌を巻いた。いくら学校の英語の成績が良くても、実際に喋れる人は少ない。物怖じせずコミュニケーションを取れるのも才能だ。

 まだまだ知らない悠貴の一面に新鮮な驚きを覚えながら、美久は仕事に戻った。

 悠貴が厨房に姿を現したのは、それから二十分ほど過ぎてからだ。食器を洗っていた美久は手を止めずに訊いた。

「ダニエル君はどういう用事だったの? エメラルドを探してたみたいだけど」

「俺に会いに来たんだ。生徒会が留学生の歓迎会を取り仕切っていて、そこで俺の顔を覚えたらしい。助けてもらおうと住所を聞いて来たと言っていた」

 依頼人じゃなかったんだ。そうわかった一方、悠貴の話が気になった。

「助けてもらおうって?」

「慧星学園には交換留学制度があるんだ。海外のいくつかの学校と姉妹校提携していて、今はロンドンの学校から六人留学している。ステイ先は一般生徒から募るが、留学生のサポートは国際交流部と生徒会の担当だ」

「じゃあ、ダニエル君もその制度で?」

「ああ。それでステイ先と問題を起こした。典型的なミスマッチだな。留学生同士で助けあったりするんだが、ダニエルは一年生で、あとは全員二年なんだ。どうも意思の疎通が上手くいってないらしくて、そのあたりも原因だろうな。毎年問題が起きるが、無断外泊なんて初めてだ。しかも教員を振り切って逃げるとは」

 もしかしてダニエル君を追いかけてたのって……!

 美久の脳裏に先ほど見た光景が過ぎった。あの二人の男は教員だったのだ。ダニエルが追われているという話は本当だったらしい。同情はまったくできないが。

「ダニエルのステイ先は剣道の道場があって、生活が息苦しかったそうだ。早朝練習や道場の掃除、食事も辛いと言ってたな。すき焼き、刺身、食事もショックの連続だったみたいだ」

「生魚はわからなくないけど、あとは普通じゃない?」

「すき焼きの生卵に拒否反応が出たらしい」

「あ、そうなんだ……」

「ダニエルからすれば刺身のウニやタコはゲテモノだろ。来日早々、そういうもてなしに感激する奴もいれば、ストレスに感じる奴もいる。それにロンドンだと掃除は清掃員の仕事で、子どもがすることじゃないからな。道場の雑巾がけにしても気持ちの面でも負担があったらしい」

 まあ、と悠貴は肩を竦めた。

「結局は相性の問題だ。ダニエルのホストファミリーは去年も二人預かったが、評判が良かった。その留学生たちとは今も連絡を取ってるはずだ」

「ダニエル君はこれからどうしたいって?」

「戻りたくないと言っている。ホストファミリーも無断外泊で憤慨してる。戻すのは一苦労だろうな。とはいえ他の滞在先はないんだ、少しすればダニエルの頭も冷えるだろうから教員を交えて話をさせて、ステイ先に引き取りに――」

「イヤです!」

 鋭く響いた声に美久と悠貴はぎょっとして振り返った。

 客席と厨房を隔てるウエスタンドアのところにダニエルが立っていた。真紘がカウンターを離れた隙に入り込んだようだ。

「ここは立入禁止だ、勝手に入るな」

「ボク、かえりません」

 悠貴は顔をしかめ、英語に切り替えた。

「Hang on, Don't be ridiculous. You――」

「I will never go there again!」

 ダニエルが鋭く叫び、感情をぶちまけるように英語で早口にたたみかけた。悠貴も英語で言い返す。言い合いはしばらく続いたが、ダニエルは唇を引き結び、声を押し出すようにして言った。

「ユーキは、わからない」

 ダニエルは前髪を掻き上げた。顕わになった額に痣があった。それもひとつではない。コブになり、赤く腫れているものがいくつもある。

「ボク、いたい。ホームステイ……いたい」

 悲痛な告白に、美久は口元に手をやった。

「ま、まさか――」

「違う、鴨居に頭をぶつけたんだ」

「えっ?」

 悠貴の言葉に美久が目を瞬くと、ダニエルが力説した。

「ホームステイのおうち、古いだから小さいデス! あたまゴチゴチしマス! ゲンカン、ダイニング、おへや、ゴチゴチ、ゴチゴチ、いつもゴチゴチ!」

「稽古場に寝泊まりさせてもらえばいいだろ」

 ぼそっと悠貴が呟くと、ダニエルは目を剥いた。

「ドージョーダメ、ケンドーきけん、イチバンあぶない!」

「練習中にいろとは言ってない」

「ノー! イチバンあぶないはケンドーアーマーのにおい、息できナイ!」

「……いいから帰れ」

「じゃあユーキも着てみマス、ケンドーアーマー! コテもする!」

「必然性がない」

 冷たい反応にダニエルは頬をふくらませ、つんと顎を反らせてそっぽを向いた。

「ボク、ヤです」

「ダニエル、そういう態度だからホストファミリーが怒るんだ」

「ボク、ゼッタイかえらない」

「いい加減に――」

 悠貴が言いかけた時だった。

 ダニエルの目からぽろっと涙がこぼれ落ちた。

 突然の涙に悠貴は声を呑んだ。

 ダニエルは乱暴に涙を拭うと、頑なな表情で遠くを睨んだ。

 誰も言葉を発せず、あたりに沈黙が広がった。

 ふざけて見えたが、ダニエルは決してふざけた気持ちで言ったわけではないのだ。

 ダニエルは傷ついていた。本気でステイ先には戻りたくないのだ。

「ダニエル君は人と話すのは好きかな」

 その声はダニエルの後ろから響いた。

 食器を下げに来た真紘がダニエルに微笑んだ。

「日本にはあとどれくらいいる予定?」

「……さんしゅうかん?」

 怪訝な顔でダニエルが答えると、真紘はおっとりと言った。

「じゃあ、うちに来る?」

「何言ってるんだ、真紘!」

 悠貴が声を荒らげると、真紘は朗らかに笑った。

「この頃外国からのお客さんが多くて、英語のできる人がいると助かるなあ、と思っていたんだ」

「そういう問題じゃないだろ」

「うん。だけど選択肢があってもいいんじゃないかな」

 食器をシンクに置きながら真紘は言葉を続けた。

「家族と暮らしていても問題は起きる。外国の知らない家にいるなら問題が起こらない方がおかしいよ。わかり合うのには時間がいる。だけどダニエル君には三週間しかないんだろう? その間にわかり合えなかったら、ダニエル君もホストファミリーも辛いままだ。お互い逃げ道がないんだから」

 他人の子を預かる家と、その家に置いてもらう居候。どちらの立場にも責任と遠慮がつきまとう。ダニエルが問題を起こした今、その関係は一層難しいものとなった。

 真紘はダニエルの前に立つと、ゆっくりと語りかけた。

「ホストファミリーと話しておいで。本音をぶつけてしっかり話し合って、それでも一緒にいるのが難しいと感じたら、うちに来てもいいよ。逃げてもいいんだ。だからまずはきちんとホストファミリーと向き合ってきなさい」

「ア……」

 ダニエルは言いかけ、悠貴を振り返った。

「おにーさん、なにをいいマスか?」

 悠貴は答えず、険しい顔つきで真紘を見た。

「本気で言ってるのか」

「だめかな?」

 悠貴が嫌だと言えば真紘は取り下げるだろう。だが、そう言わないことを真紘も美久も知っている。

 どこまでも朗らかな兄に、悠貴は「はあ」と深い溜息をこぼしてダニエルを見た。それから真紘の言葉を英語で伝えた。

「だけどうちは厳しいよ。店を手伝ってもらうし、生活は規則正しく、約束は守ること。代わりに俺たちもダニエル君との約束を守るよ」

 真紘に少し遅れて悠貴が通訳する。その間にもダニエルの表情は明るくなった。

「ボク、はなしあいマス!」

 ダニエルが目を輝かせると、悠貴が遮った。

「待て。まだ話は終わってない。俺から条件が二つある」

「ジョーケン?」

「ダニエルがうちに来る場合、今のホストファミリーの同意を得ること。向こうだって相当迷惑しているんだ。話し合いが決裂しても最悪別の引き取り手がいると知った上で今後を考えてもらうべきだ」

 真紘が頷いた。

「どういう結果になるにしろ、円満解決がいいね。それでもう一つの条件は?」

「日本語がわからないふりはやめろ」

 悠貴の言葉に一瞬沈黙が広がった。

「「えっ!?」」

 真紘と美久はダニエルを見た。悠貴はダニエルに視線を固めたまま繰り返した。

「日本語わかってるだろ。不便だからちゃんと話せ」

 ダニエルは薄青い大きな瞳で悠貴を見つめ、小首を傾げた。そして、

「いいよ」

 けろっとした顔で答えた。

「ええええっ!? ど、どういう……」

 二の句が継げない美久をよそに、ダニエルは両手を頭の後ろで組んで宙を仰いだ。

「んー、英語のほうが楽なんだけどなー。ばれちゃったらいいや。けどユーキ、なんでボクがニホン語わかるってわかったの?」

「さっき俺の話を遮っただろ。日本語がわからなければ『イヤです』なんて発言にはならない。『稽古場』と言ったのにすぐ道場だと理解したり、さっきの真紘の話にしてもそうだ。慌てて俺に通訳を振ったが、その前に理解してるのが顔に出てたぞ」

「すごいね、ユーキはシャーロック・ホームズみたい!」

「いいから支度しろ。担当教諭に連絡するから話し合ってこい」

「はーい!」

 元気の良い返事に美久はひたすら驚いていた。日本語が上手く話せずはにかんだり、言葉がわからなくて困惑したりしたのも、あれはつまり――

 ダニエルは呆然とする美久に気づくと、にっこりと微笑んだ。

「これからお世話になるかもね。よろしく、おねーさん」

 リトル悠貴君だ……!

 覚えのある猫かぶりの笑顔に、美久は背筋が寒くなった。




 喫茶店エメラルドの店内はいつもと少し様子が違った。束ねたハーブにカボチャの置物、十月末のハロウィンに向けて内装が変わったせいもあるが、変化の一番の要因は彼だろう。

「スプーン、あたらしのドーゾ」

 テーブル席の女性客がカトラリーを落とすと、すかさず金髪の店員が代わりのものを運んだ。女性客の手を取って品良く渡す姿は何とも絵になる。

「す、すみません……!」

 客が恐縮して落としたスプーンを拾おうとすると、店員は優しく止めた。

「アリガト。でも、ボクのシゴト。手がよごれるよ?」

 ふわふわとカールした髪を揺らして微笑む顔はまさに天使だ。

 同じテーブルにいた別の女性客が感嘆の声を漏らした。

「ダニエルってほんと優しいよね。そんなに優しいとモテるでしょ?」

「モテ?」

「彼女いるでしょってこと、ガールフレンド。もうキスした?」

 キス、と聞いたとたん、ダニエルは目をまんまるにして、うろたえた。

「そ、そういうの、わかりまセン。だってガールフレンド、いない……」

 恥ずかしそうに目を伏せるダニエルに、「かわいいー」と女性客たちが黄色い声を上げる。

 そんな客の反応にダニエルはますます恥ずかしそうにうつむくのだった。

「ニホン人って可愛いよねー、単純で」

 もちろん、全部演技だが。

 客足が引いたところで、ダニエルはあっけらかんと言った。

 ダニエル君、今日も生き生きしてる……。

 美久は輝くような笑顔を前に思った。天使のような顔立ちから、こんな腹黒い発言をするとは想像もつかない。いや、腹黒いわけではないのだ。本人はサービス精神でやっていることで、人をたぶらかしている自覚もないだろう。

 しかしその笑顔にハートを射貫かれた女性は数知れない。「絵本とおんなじ王子さま!」とはしゃいだり、ダニエルにぽおっと見惚れたり、頬を赤らめたり、孫を見るように目を細めたり――子どもからご年配まで、見事にダニエルの虜だ。

「ダニエル君、日本語上手なんだから日本語で接客したらいいのに」

「それじゃ完璧すぎてワビサビがないよ。欠点があるくらいがニホンのジョセイは好きでしょ? ニホン語ペラペラってばれたら、デートの誘いを断るのも大変だしね」

 すごい策士だ。想像を超えた計算高さに美久は苦笑いした。

「そういえば気になってたんだけど、どうしてそんなに日本語が上手なの?」

「ニホンに住んでたことがあるんだ。子どもの時ね」

「そうなんだ」

「だから話すのは得意だけど、漢字は全然書けないんだよね。あっ、お客さんだ」

 店の入り口に女性らしき人影が差すと、ダニエルは扉へ飛んでいった。「イラシャイマセ!」と瞬時に片言の日本語に切り替えるところはさすがだ。

 厨房から出てきた真紘がその様子をおかしそうに眺めた。

「ダニエルは今日も絶好調だね」

「すごいですよね、女性のお客さんが前より増えた気がします」

「リピーターが増えたんじゃないかな。ダニエル効果だね」

 エメラルドにダニエルがやってきたのは三日前だ。

 無断外泊を深く反省したダニエルはホストファミリーに謝罪を尽くした。