前日から降り続いていた雨は、午後になってようやく止んだ。あちこちに水溜まりのできた道路を慎重に歩いていると、自転車に乗った子供たちが次々と後ろからやってきて僕を追い越していった。一人が何事かを叫びながら指さす先には、くっきりとした大きな虹があった。僕は立ち止まってその虹を数秒間眺めた。再び歩き出そうとして視線を下ろすと、既に子供たちの姿はなかった。

 ひょっとすると、あの子供たちは虹の端を探しにいったのかもしれないな、と僕は思った。

 虹の端には黄金が一杯につまった壺がある、という迷信がある。僕はこの話があまり好きではない。美しいものの下には美しいものが埋まっているという考え方が気に入らない。僕もまた、桜の樹の下には屍体が埋まっていてほしいと考える人間の一人なのだ。

 ただ美しいだけのものは、僕を不安にさせる。その美しさの帳尻を合わせるために、世界のどこかで割を食っている人がいるんじゃないかと不安になる。虹の根元には墓地があるといいな、と僕は思う。あの鮮やかな七色は、数十数百の骨壺によってもたらされているということにしてほしい。そうすれば、僕も少しは虹の美しさを無邪気に受け入れられるかもしれないから。


 町立の図書館を訪れた僕は、そこで幽霊を探している女の子と再会した。僕が百円玉を手にして自販機の前に立ちジュースを選んでいると、もう一台の自販機の前に日傘をさした女の子がいるのが目に入った。彼女は僕と同じように百円玉を手にしたまま、人生の重大な選択を迫られているかのような顔で自販機を眺めていた。僕の視線に気づいた彼女は、傘を上げて僕の顔を見た。

「あら、おにいさん」女の子は目を見開き、それから小さく頭を下げた。「こんにちは。こんなところで会うなんて意外ね」

「君も、一日中幽霊を探しているっていうわけではないんだな」

「ところが、そうでもないのよ」彼女は小脇に抱えていた鞄を掲げていった。「今日借りた二冊は、どちらも幽霊に関する本なの」

「素晴らしい」と僕は賞賛した。

「馬鹿みたいだと思ってるんでしょう?」彼女は口を曲げた。「いいのよ。私、事実馬鹿だから。学校の成績もよくないし」

「皮肉をいったつもりはないよ。本当に素晴らしいと思ったんだ。卑屈にならないでくれ」

 女の子はしばらく無言で僕を睨んでいたが、ふっと表情を緩め、図書館に面した歩道のベンチを指さした。

「よかったら、少し、お話ししていかない?」

 僕たちは自販機でジュースを買い、ベンチに並んで腰かけてそれをゆっくりと飲んだ。図書館の裏の林からは耳が痛くなるくらいの蝉の鳴き声が聞こえた。

「ところで、君は幽霊をどんな存在だと考えているんだ?」と僕は訊いた。「人それぞれ、幽霊観みたいなものがあるじゃないか。近くで見守ってくれる存在だという人もいれば、恨みを持って人を呪い殺す存在だという人もいる。生きている人間には干渉しない、ただそこにいるだけの存在だという人もいる。君の幽霊観が知りたいな」

「いったでしょう、もともと幽霊なんて信じていないわ。UFOでもUMAでも、なんだっていいのよ」彼女は澄ました顔でいった。「ただ……美渚町って、幽霊に関する話が豊富じゃない? だからさしあたり、幽霊を探すことにしてるのよ」

「じゃあ、質問の仕方を変えよう。君は、幽霊がどんな存在だったらいいと思ってる?」

 女の子はジュースを一口飲んで空を仰いだ。濡れた唇が、陽光で白くきらめいた。

「そうね……私としては、幽霊には、ひどく苦しんでいて、生者を憎悪していて、自分の境遇を嘆き悲しんでいる、そんな存在であってほしいわ」

「なぜ?」

「もしそうだったら、生きていることが、ちょっとはましに思えるでしょう?」彼女は空を見上げたままいった。「幽霊が皆、安らかな顔で生者を見守るような存在だったら、私は彼らが羨ましくて幽霊の仲間入りをしたくなっちゃうでしょうね」

「なるほど。一理あるな」

 僕の同意が嬉しかったのか、女の子はベンチの下で足を揺らした。

「私が年を取ったら、今とは正反対のことをいうようになるのかもしれないけれど」

「間近に迫りつつある死を肯定するために?」

「そういうこと」彼女は日傘の下で微笑んだ。「おにいさんは、私みたいな変人の話をきちんと理解しようとしてくれるのね」

「僕は自然に話してるつもりだ。話が合うということは、君は変人じゃないということだろう。もしくは僕も変人ということだ」

「後者よ。間違いないわ」

 彼女はくすくす笑った。

「そういえば」と僕はいった。「一ついい忘れてたけど、僕は〝おにいさん〟なんて年じゃない。君と同い年だ」

 女の子は僕の顔を覗き込んだ。

「二つか三つは年上だと思ってたわ」彼女は目を泳がせながらぼそぼそといった。「……でも、年上ということにしておいてくれないかしら?」

「別にいいけれど、なぜ?」

 女の子は僕から目を逸らした。「同い年の男の子と話していると思うと、緊張して朝食べたものを戻しそうになるのよ」

 僕は思わず噴き出した。「わかったよ。年上ということにしておこう」

「ええ、そうしてくれると助かるわ」彼女は瞼を閉じて溜め息をついた。それから気を取り直したように明るくいった。「ねえ、私、おにいさんの話も聞いてみたい」

「僕の話?」

「私ばかり話すのは不公平だわ。おにいさんも、何か話して」

 僕は考え込んだ。自分のことを話すのは苦手だ。自分に関心を持っている人間などいないという前提のもとに生きているから、常人と比べて「自分の話」のストックが極端に少ないのだ。

 結局、他に話題らしい話題もなかったので、僕は目下の関心事について開け広げに話すことにした。

「最近、よく、夜中に星を見にいくんだ」

「あら、素敵ね。おにいさんにそんな趣味があったなんて」

「いや、僕の趣味じゃない。僕はあくまで付き添いなんだ」

「ふうん。楽しそうね」彼女は拗ねたような顔でいった。「どうせ女の子と一緒なんでしょう?」

「女の子もいるし、男もいる」

「やっぱり友達が多いのね」彼女は肩を落とした。「裏切られた気分だわ」

「いっておくけど、僕の友達は君を含めても全部で五人くらいだよ」と僕は苦笑いしていった。「寄せ集めの集団でね。メンバー全員と知り合いなのは僕だけで、仲を取り持つのにいつも苦労してる」

 彼女は僕の顔をじっと見つめた。

「そういうの、おにいさんには向いてなさそう。疲れるでしょう?」

「ああ。死ぬほど疲れる」

 彼女は途端に頬を緩めた。「慣れないことに手を出すからよ。いい気味だわ」

「まったくだ」と僕は同意した。


 帰宅後はラジオを音楽番組に合わせ、図書館で借りた本を読み続けた。窓を開け放して扇風機を回してもシャツに汗染みができるくらいの暑さだった。夕食を終えて風呂に入ると、すぐに布団に入った。午前一時、枕元の時計のアラームが鳴った。僕はむくりと起き上がり、手早く支度をして家を出た。

 夜中だというのに、道中のあちこちで蝉が鳴いていた。街路灯の明かりといつまで経っても抜け切らない暑さのせいで今を昼間と勘違いしているのかもしれない。あるいは、日中に鳴くことができなかった蝉たちが夜になって遅れを取り戻そうとがんばっているのかもしれない。最近は暑さのピークの時間帯になると蝉が一斉に鳴き止むという現象がよく見られる。当たり前といえば当たり前だが、蝉もあまり極端に暑いのは苦手なのだろう。

 今年の夏の暑さは、はっきりいって異常だ。ニュースは連日のように最高気温の更新を報じ、大人たちもこんなに暑い夏は生まれて初めてだと口々にいっている。梅雨時期の降雨量が平年の半分以下だったせいもあって、全国各地で渇水が起きており、いくつかの地域では夜間断水を行っているという。近頃救急車のサイレンを聞くことが多いのは、熱中症で倒れる人が増えているせいかもしれない。

 時折どこからともなくまとわりついてくる蜘蛛の巣を手で払いながら歩き続けているうちに、初鹿野唯の家に着いた。予想通り、既に荻上千草が門の脇で待機していて、僕に気づくと小さく手を振ってきた。外出時はいつも律儀に制服を着ていた千草だが、この時間に制服姿ではかえって怪しいと思ったのだろう、今日は細いストライプの入ったシャツワンピースを着ていた。

「今日は私服なんだな」

 僕が指摘すると、千草はワンピースの裾を摘んで困ったような顔で訊いた。「変じゃありませんか?」

「変じゃない。よく似合ってる」

「そうですか。似合ってますか」

 千草は体を左右に小さく揺らして笑った。

 連日の暑さについて千草と話していると、勝手口が音もなく開き、初鹿野が姿を現した。初鹿野は僕の顔を見て、それから千草の顔に視線を移した。千草が「こんばんは、初鹿野さん」と微笑みかけると、初鹿野は無言で小さく頭を下げた。

 三人が揃ったところで、僕たちは鱒川旅館に向かった。屋上に通じる扉を開くと、一足先に到着していた檜原裕也が天体望遠鏡の組み立てを行っていた。彼は僕たちがやってきたのを見ると「おう」とだけ挨拶をし、それから初鹿野に手招きをした。「初鹿野、早く手伝え」

 初鹿野が望遠鏡の脇に立つと、檜原は指示を始めた。「さあ、ファインダーの調整の仕方は前回教えた通りだ。今日こそ一人でできるよな?」

 初鹿野は無言でこくりと頷いた。

 黙々と天体望遠鏡の調整をする初鹿野とそれを見守る檜原を、僕と千草はやや離れたところから眺めていた。千草はちらちらと僕の横顔を覗き見て、複雑そうな笑みを浮かべた。

「どうしてこんなことになったんでしょうね?」

 そう、どうしてこんなことになってしまったのか?

 僕は記憶を辿り、発端となったあの日に思いを巡らせた。


     *


 時間は初鹿野と電話が繋がった日にまで遡る。初鹿野のいた無人駅の公衆電話と僕の自宅の固定電話のベルが同時に鳴った、あの日だ。

 やっとのことで初鹿野とまともに会話をする機会を得た僕は、この数年間ずっと胸に抱いていた想いを彼女に打ち明けた。それに対する彼女の返答を聞く前に電話は切れてしまったけれど、ひとまず、二人の間にあった擦れ違いはある程度解消されたようだった。初鹿野が僕を嫌っているわけではないことがわかったし、僕が初鹿野を憐れんでいるわけではないことをわかってもらえた。それだけでも、大きな前進だった。

 その夜、午前二時ちょうどに、僕は初鹿野の家を訪れた。

 五分とせずに勝手口から出てきた初鹿野は、僕の姿を認めて足を止めた。

 僕が軽く右手を上げて挨拶をすると、彼女はものいいたげな表情で僕をじっと睨んだ。しかしその表情に、以前のような敵意や嫌悪感はなかった。見方によってはただの照れ隠しにさえ見えた。

「さあ、今日も一緒に星を見にいこう」と僕はいった。「あの流れ星の晩みたいに」

 初鹿野は呆れ顔で小さく肩を竦め、「いいよ」とも「嫌だ」ともいわず無言で歩き出した。僕はここにきて初めて、彼女の後ろを尾けるのではなく、彼女の隣を歩いて廃墟にいくという経験をした。

 屋上の椅子に腰かけて空を仰いでいる初鹿野に、僕は何気なく訊いた。

「こんなに星を見るのが好きなのに、天体望遠鏡は使わないのか?」

「使いたいよ」と彼女は素直に答えた。「でも、あれは高価なものだから」

「なるほど」僕は頷いた。それから、ふと思いついていった。「そういえば、僕の知人に、そこそこ値が張る天体望遠鏡を持っているやつがいたな」

 案の定、初鹿野はこれに食いついた。「……ほんと?」

「ああ。よかったら借りてこようか?」

 彼女は押し黙った。しかし初鹿野が即座に否定しないというのは承諾と同義だろう、と僕は思った。沈黙は彼女なりの精一杯の抵抗なのだ。

「よし、任せてくれ。明日の晩までには用意する」

 反応らしい反応は期待していなかったが、二つばかりの流れ星を見送った後、初鹿野はほとんど聞き取れないような小声でいった。

「……ありがとう」

「どういたしまして」僕は大袈裟に頭を下げた。「礼をいってもらえるとは思わなかった。今のは、帰ったら日記に書いておこう」

「そう」

 初鹿野は不機嫌そうにそっぽを向いた。


 翌朝、僕は眠い目を擦りながら炎天下を歩いていき、檜原の家を訪れた。

 店の軒下にいくつも並んだ植木鉢の花は、もれなく無惨に枯れていた。窓の面格子に巻きついた朝顔だけが、元気よく青や紫の花を咲かせていた。薄香色のモルタル壁はもう何年も塗り替えられていないらしく、ところどころ黒ずみひび割れている。入り口には「居酒屋」と書かれた提灯が垂れ下がり、表に出ている白い電飾看板には紺色の字で「しおさい」と店名が記されている。二階の出窓の下に取りつけられた室外機が、からからと異音を立てていた。

 まだ十時前ということもあって、蝉の鳴き声は控えめだった。僕は軋む門扉を開けて住居側の玄関に回り、呼び鈴を鳴らした。三十秒数えてからもう一度呼び鈴を押したが、返事はなかった。

 家の裏手から聞き慣れたエンジン音がした。様子を見にいくと、狭くごちゃごちゃとしたガレージの中で檜原がスクーターを弄っていた。オイル交換をするのだろう、スクーターの脇にはオイルジョッキやボックスレンチ、カットしたペットボトルなどの道具が散らかっていた。

「手伝おうか?」と僕は声をかけた。

 檜原は振り返り、僕の姿を見ると「おお、深町か」と目を丸くした。「お前が訪ねてくるなんて珍しいな。……ああ、もしかして、三日前の仕返しにきたのか?」

「それも悪くないな」僕は倉庫の隅に落ちていたモンキーレンチを拾い上げ、先端で手のひらを叩いた。「でも、今日は別の用があってきた。檜原、確かお前、天体望遠鏡を持ってたよな?」

「ああ、持ってる。それがどうかしたのか?」

「ちょっとの間、僕に貸してほしいんだ」

 彼は腕で額の汗を拭った。

「藪から棒だな。なんだ、あれだけ俺の趣味を馬鹿にしてたくせに、今になって天体に興味が出てきたのか?」

「馬鹿にした覚えはないよ。それと、天体に興味があるのは僕じゃない。知人に、星を見るのが好きなやつがいるんだ」

 檜原は口を半開きにして僕をじっくりと眺めた。

「悪いが、貸す気はない。大事なものだからな、何も知らない素人には触らせたくないんだ」

 そういうと、檜原は作業に戻った。温まったエンジンを止めてビニール手袋を着け、ドレンボルトを外し、垂れてきたオイルをペットボトルで受ける。古いオイルを出し尽くすと再びボルトを締め、オイルフィラーキャップを外してジョッキから新しいオイルを注ぎ込む。キャップを閉めるとエンジンをかけ、またしばらく放置する。中学時代に何度も手伝いをしたせいで、僕もその作業工程をすっかり覚えてしまっていた。

「どうしても必要なんだ。相応の礼はする。先日の件にも目をつむる。壊さないように細心の注意を払って取り扱う」

「使い方がわかるのか?」

「今から勉強する」

「勉強してからこい」

「急を要するんだ。頼む、真剣なお願いだ」

「お前がそんな風に人に頼みごとをするなんて、らしくないな」檜原は意外そうにいった。「もしかして、女絡みか?」

「見方によっては」と僕は答えを濁した。

「じゃあ、なおさら貸すわけにはいかないな。俺の大切な望遠鏡を、女の気を引くためなんかに使ってほしくない」

 僕は小さく肩をすぼめた。「昔、世話になった女の子がひどく落ち込んでるんだ。普段はずっと部屋にこもってるんだけど、星を見るためだけに夜中外出する。星空を見上げている間だけは、安らかな気持ちになれるみたいなんだ。僕は彼女の手助けをしてやりたい」

 檜原はスクーターのエンジンを止め、オイルフィラーキャップを外してウエスで拭き取り、再びそれを差し込んでオイルの残量を確かめた。十分な量が補充されたことを確認すると、彼はキャップをきつく締めてビニール手袋を外した。

 スクーターをガレージの奥に寄せて停めた後、檜原は壁に立てかけられた折り畳み式のテーブルを持ってきて僕の前で組み立てた。傷だらけの木製のテーブルの前で膝をつくと、彼は袖をまくって肩を出した。

「いいか? ルールは単純だ」と檜原はいった。「これから腕相撲をする。何回再挑戦してもいい。一回でもお前が勝ったら、そのときは望遠鏡を貸してやる」

「腕相撲?」と僕は訊き返した。「そんなの、僕に勝ち目があるわけないじゃないか」

「望遠鏡を貸すのは俺だ。俺が有利じゃなきゃ意味がないだろう?」

「僕に分がなさすぎる。中学の卒業式から先月中旬までずっと入院してたんだ。体中、すっかり鈍ってる」

「じゃあ諦めろ。俺は条件を変えるつもりはない」

 僕は不承不承テーブルの前に膝をついた。そしてあらためて、彼の肩回り、上腕、前腕を順に眺めた。トレーニングが趣味の男だけあって、どの箇所も万遍なく鍛え上げられている。運動部でもないのに体力テストのいくつかの項目で学年トップを取るような男だ。僕に勝機があるはずがない。

 だが、それでも端から諦めるわけにはいかない。僕はテーブルに肘をつき、檜原の手を握る。左手でテーブルの端を掴む。

「準備はいいな?」と檜原が訊く。僕は頷く。

 檜原の合図と共に、右腕に全身全霊の力を込める。びくともしない。誇張なしに、一ミリも動かない。まるで彼の腕が空間にねじで固定されているかのように。檜原が余裕の笑みを見せる。彼が軽く手首に力を入れると、たちまち僕の手首が反る。そのまま一気に最後まで持っていかれる。「一勝目」と彼がカウントする。右腕全体が痺れ、全身から汗が噴き出てくる。「それじゃあ、二戦目といこうか」と檜原がいう。

 十戦目を終える頃には右手が意思に逆らって震え、指先に上手く力が入らなくなっていた。肘の内側が炎症を起こしたように痛み、肩から先がものすごい熱を持っていた。

 腕の痺れが少し引くと、僕は懲りずにテーブルに肘を置いた。完全に勝ちを確信している檜原は、勝負の最中に涼しい顔で僕に話しかけてきた。

「お前、あの子とどこで知り合ったんだ?」

「あの子?」顔を上げて僕は訊き返した。額から垂れた汗が頬を伝い首筋を流れた。

「三日前の夜、乃木山たちとの諍いに巻き込まれそうになった、あの子だよ」

 喋っている瞬間を狙って奇襲をかけようとしたが、向こうはそれもお見通しで、こちらが腕の力を強めた瞬間にそれ以上の力で押し返された。僕は舌打ちをして、それから彼の質問に答えた。「荻上のことか。あの子はただのクラスメイトだよ。席が隣なんだ」

「ただのクラスメイトと真夜中に星を見にいくのか?」

「星?」僕は首を捻った。「ああ、ひょっとして檜原、僕が荻上と星を見にいくと勘違いしてるのか? あの子は今回の話には関係ないよ。星を見たがってるのは別の女の子で……」

 そこまで僕がいいかけたとき、不意に、檜原の腕の力が弱まった。何が起きたのかわからなかったが、とにかく僕はその一瞬を見逃さず、残った力のすべてを注ぎ込んで一気に彼の腕を押し倒した。

 しばらくの間、檜原は勝負の最中に突然機能不全に陥った自分の腕を不思議そうに眺めていた。

「……約束は、約束だからな」と檜原は首の後ろを掻いていった。「仕方ない。不本意だが、望遠鏡は貸してやるよ」

「ありがとう」僕は顔の汗を拭い、左手で右腕のあちこちを揉み解しながら礼をいった。

「ただ、条件がある。それを聞けないなら、この話は白紙に戻す」

「大抵の要求は呑むつもりでいるよ」と僕はいった。「どんな条件だ?」

「望遠鏡を使う際は、常に俺を同行させること」

「……いや、待ってくれ。それは困る」僕は慌てて首を振った。「使い方ならちゃんと勉強するから、ついてくるのは勘弁してくれ」

「駄目だ。これだけは譲れない」

「檜原みたいなやつがいると、その子が怖がるんだよ」

「深町と仲よくなれるようなやつなら、俺とだって仲よくなれるだろう」

「僕は彼女と古い知り合いなんだ。お前は違う」

 押し問答が正午まで続いたが、檜原はその点だけはどうしても譲れないようだった。そこで僕は檜原の家の電話を借りて、初鹿野の家に電話をかけることにした。

 電話に応じたのは初鹿野の姉、綾さんだった。

「唯さんに代わってもらえますか? 望遠鏡の件、といえば部屋から出てくるはずです」

「望遠鏡?」と綾さんはぴんとこない様子で繰り返した。「まあいいや。よくわからないけど、陽ちゃんがそういうならやってみるよ。ちょっと待ってて」

 それから一分とせずに、初鹿野が電話に出た。「……代わったよ」

「まず、良い知らせの方から」と僕はいった。「交渉の末、なんとか望遠鏡を貸してもらえることになった。……そして悪い知らせの方だが、持ち主の男が、望遠鏡を使うのは自分の同伴のもとでないと許さないといっている。別に悪いやつじゃないとは思うが、初鹿野が嫌なら断るつもりだ。君はどうしたい?」

「望遠鏡を貸してもらえるなら、なんだっていいよ」と初鹿野は簡潔に答えた。

「本当にいいのか?」と僕は念を押した。「あそこは君にとって、特別な場所なんだろう? 部外者に知られたら嫌じゃないか?」

「別になんとも思わない。そもそも、既に陽介くんに知られてる」

「……まあ、それもそうか」

 予期していたよりもずっと初鹿野の物腰が柔らかなことに戸惑いつつ、僕はふとした思いつきを口にした。

「よかったら、他にもう一人女の子を連れていこうか? 男二人と一緒だと居心地が悪いだろう?」

 初鹿野は肯定とも否定ともつかない沈黙を返した。

「參葉中学で、荻上千草って女の子とクラスメイトだっただろう?」と僕は訊いた。

「多分」と初鹿野は答えた。

「あの子を連れていこうと思う。初鹿野はそれで構わないか?」

 再び長い間を置いた後、初鹿野はいった。「どうでもいいよ」

「じゃあ、これから荻上を誘ってみる。今夜の二時、迎えにいくから待っていてくれ。それじゃあ」

 最後に、ぼそりと初鹿野が呟いた。「……ありがとう」

「どういたしまして」といって僕は電話を切った。

「決まりだな」僕が通話を終えたのを見計らって檜原がいった。「さて、場所はどうする?」

「鱒川旅館を覚えてるだろう? いつもはあそこの屋上で星を見てる」

「ああ、『赤い部屋』の廃墟か。中学時代によく遊んだな」檜原が懐かしげに頷いた。「しかし、どうしてわざわざあんな危なっかしい場所で?」

「初鹿野がそこを気に入っているらしいんだ」

「なんだそりゃ。変な女だな」彼は首を傾げた。「まあいい、午前二時過ぎに鱒川旅館の屋上にいればいいんだな?」

「ああ。よろしく頼む」

「おう、約束は約束だからな」と彼はいった。

 檜原と別れた後、僕は最寄りの公衆電話から千草に電話をかけた。腕相撲のせいで右手が上がらなかったので、左手でボタンを一つ一つ慎重に押した。

「もしもし?」と電話口から千草の声が聞こえた。

「今、時間は大丈夫か?」と僕は訊いた。

「深町くん? 深町くんなんですね?」千草の声がにわかに色づいた。「もちろん時間は大丈夫です。なんのご用でしょうか?」

「荻上に、また一つ頼みがあるんだ」

「頼み、ですか。……どうせ、初鹿野さんのことでしょう?」

「その通り、初鹿野のことだ」下手にごまかそうとするとかえって逆効果だろうと思い、僕は率直に状況説明をした。「今晩、僕は初鹿野と星を見にいくつもりなんだが、色んな事情があって、檜原という男もついてくることになった。しかし、元不良の男二人に挟まれるとなると、初鹿野も居心地が悪いだろう。荻上みたいな女の子がいれば、それが緩和されるかもしれない。そう思って声をかけた」

「つまり私は、初鹿野さんと親しくなるための出汁ということですね?」

「そう受け取られても仕方ないとは思う。でも、他に頼れる人がいないんだ。もちろん、嫌なら断ってもいい」

 千草は深く溜め息をついた。「……まあ、〝協力できることがあったら、なんでもいってください〟といったのは私の方ですからね。いいでしょう。手伝いますよ」

「ありがとう。恩に着るよ」

「人の恋心を弄ぶとは、やっぱり深町くんは生粋の悪人ですね」おどけた口調で千草はいった。「でもね、深町くん。これだけは忘れないでくださいね。私もまた、深町くんと同じ、悪人なんです。油断したら、初鹿野さんから深町くんを奪い取ってしまうかもしれません」

「その危険性は十分承知してる。気をつけるよ」

「駄目です。油断してください」そういって千草はくすくすと笑った。「待ち合わせはどうします?」

「午前二時過ぎ、家の前で待っていてくれ。迎えにいく」

「わかりました。楽しみにしてます」

「親にばれずに抜け出せそうか?」

「大丈夫です。父も母も、私が夜中に外出するなんて夢にも思わないでしょうから」

 受話器を戻すと、僕は町立の小さな図書館へ向かい、天体望遠鏡の入門用の書籍を借りて全体に目を通した。最初の二時間ほどは懸命に文字を追っていたものの、初めて目にする天文学用語の数々や接眼レンズの各形式の断面図などを眺めているうちにすさまじい眠気に襲われ、自分でも知らないうちに眠りに落ちてしまった。目を覚ますと窓の外が薄暗くなっていた。家に戻って母親と夕食をとり、自室で布団に寝転んで再度本に目を通した。軽く仮眠を取って布団から起き上がると、家を出るのにちょうどよい時刻だった。


 不安の種だった初鹿野と千草の対面は、思ったよりもずっとすんなりといった。僕の背後に隠れようとする初鹿野に、千草は実に自然な調子で話しかけた。

「久しぶりですね、初鹿野さん」

 初鹿野は唇を真一文字に結んだまま小さく頷いた。渋々といった感じではなく、緊張しつつも千草の挨拶にきちんと応じたという類の頷きだった。

「まさかこんな形で初鹿野さんとの接点ができるとは思いませんでした。人の縁というのはわからないものですね」

 考えてみれば、僕が入院していた三ヶ月間、千草と初鹿野は前後の席同士ということでそれなりに関わる機会も多かったのだろう。二人のやり取りを見る限り、初鹿野は千草に対して悪い感情を持ってはいないようだった。千草の側も、初鹿野に対して苦手意識はなさそうだ。程度に差こそあれ、基本的にクラスメイトと仲よくすることのない者同士、少なからず共鳴するところがあったのかもしれない。

 檜原は望遠鏡の組み立てのために一足先に廃墟に向かっていたので、彼と初鹿野の対面まで少し猶予があった。彼の話によると、天体望遠鏡のレンズや反射鏡は夜の冷たい空気に馴染みにくく、観測の一、二時間前から野外で温度に馴染ませておかないとシーイングに乱れが生じるそうだ。ファインダーの調整も明るい時間の方がやりやすいらしい。鱒川旅館は檜原にとって勝手を知った場所だから、一人で先にいかせておいても問題はないだろう。

 最大の懸案事項は、この檜原に対して二人が拒否反応を起こさないかという点だった。檜原は初対面の相手にも平気で失礼なことをいったりひどい綽名をつけたりすることがままあり、人の顰蹙を買うことにかけては天才的といっていいほどの能力を持っていた。初鹿野や千草を檜原の無邪気な悪意から守るには、僕が彼を上手くコントロールする必要がある。廃墟に到着すると、僕は気を引き締めて三人の対面に備えた。何事もなければ、それに越したことはないのだが。

 廃墟に不慣れな千草を連れていることもあり、この日は懐中電灯を使って床を照らしながら慎重に廃墟内を進んだ。屋上に着くと電灯を消し、天体望遠鏡の組み立てを終えて一服していた檜原に声をかけた。「悪い、待たせた」

「おお、きたか」檜原は煙草を消して空き缶の中に捨て、足下に置いてあった電池式のランタンを手に取って立ち上がり、歩み寄ってきて僕ら三人の顔を照らした。目を極力光に慣らさないためだろう、ランタンの明かりは電池切れ直前のように薄暗かった。

 檜原はまず千草の顔をしげしげと覗き込んだ。数秒後、彼の表情から薄笑いが消えた。彼は目を丸くして、そこに何か貴重なメッセージでも書かれているかのように千草の顔を隅から隅まで眺め回した。

「檜原裕也だ」彼は妙にかしこまった態度で右手を差し出した。