おいらが覚えている一番古い記憶、それは、くるんと丸まったふさふさの大きな尻尾だ。

 茶色い毛並みに、大きな足――江戸の町を歩くおっかさんの後ろ姿を、おいらは見上げながら追いかけた。今思えばおっかさんはそれほど大きな犬じゃなかったのかもしれない。でもその頃、まだ小さかったおいらにとってはとても大きく見えたんだ。

 おっかさんはずんずんと前に進んでゆく。それを必死で追うのだけれど、おいらはなかなか追いつかない。そしてそんなおいらを追い抜いて行くきょうだいたち。彼らはみんなおっかさんと同じ茶色い毛並みで、たった一匹、おいらだけが真っ白い毛だ。なんだか一匹だけ仲間外れみたいで、おいらは自分の白い毛が嫌だった。その上、悔しいことにおいらは一番のちびで、足がとても遅かった。だから、どんなに頑張っても、みんなに追い抜かされてしまうんだ。

 そうして、おっかさんたちに続いて、狭い路地に積み重なった木材を懸命に上った、そのときだった。おいらの足が急に動かなくなった。木材の隙間に足が引っかかって抜けなくなってしまったんだ。いくら足を動かしてもびくともしない。

 おいらは焦った。怖くなって、何度も大声で叫んだ。

 待って! おっかさん! みんな! おいらを置いて行かないで!

 けれども、いくら待っても誰も引き返して来てくれなかった。

 おまけに雪まで降りだしてきて、寒さでおいらの体はぶるぶる震えた。白い毛の上に、真っ白い雪が積もっていく。

 突然、おいらの頭上を、大きな影が覆った。

 おいらより、おっかさんより――犬よりも大きな、人間の影だ。

「どうしたの?」

 人影の正体は、女の子だった。おいらは怖くなって、目を瞑った。

「足が挟まってしまったのね」

 女の子はそう言って引っかかっていたおいらの足をはずしてくれた。そして、白くて温かい手がおいらを抱き上げる。おいらの頭の上から、雪がぱらぱらと落ちた。

「これで、もう大丈夫よ」

 恐る恐る目を開ける。可愛らしい女の子と目が合った。すると女の子のまん丸だった目が細められ、優しげな笑顔になる。

「きれいな真っ白な毛並みね。雪みたいに真っ白だわ」

 女の子はおいらを抱いて、住んでいる長屋に連れ帰った。本当は女の子の手からぴょんと飛び降り、おっかさんたちを追いかけたかった。でも、雪のせいでみんなのにおいはすっかり消えてしまっていたし、みんながおいらを探しに来る気配もない。しかも、いつもよりも高いところからの景色と、足が地面に付いていない不安で、おいらは怖くて怖くて動けなかった。逃げ出すなんてことまで、頭が回らなかった。

 けれど、女の子の腕の温かさに包まれているうちに心地よさを感じるようになって、そんな気持ちもだんだんと消えていったんだ。

 そしてその日を境に、おいらはきょうだいの中で仲間外れのちびではなく、「真白」という名前の犬になり、女の子――お春ちゃんの家族になった。



 正確には、おっかさんについて江戸の町中を放浪するのではなく、お春ちゃんが住んでいた神田松永町にある裏店に住むようになった。

 住む、といっても誤解しないで欲しい。人間と住むとなると、首に縄をかけられて繋がれてしまうって想像するかもしれないけれど、そんなのは大きなお屋敷に住んでいる一部の犬だけだ。おいらはそんなことお春ちゃんにされたこともないし、柵で囲われたところに閉じ込められたこともない。気の向くまま、好きなときに好きなところに行くことができる。江戸の町に住んでいる犬は、そういう犬が多い。

 裏店というのは細い路地を挟んで、とても間口の狭い細長い建物が向かい合うように並んでいるところだ。表の広い通りに面しているのが表店、裏通りにあるのが裏店なんだ。その細長い建物が長屋だ。とても狭い部屋に、一人暮らしの人は勿論、夫婦や家族で暮らしている。

 お春ちゃんの長屋に一緒に住んでいたのは、お春ちゃんのおとっつあん、おっかさん、そして弟の松吉だ。

 おとっつあんは大工っていういろんな建物を作る職人だ。無口で怖そうな顔をしているけれど、大きな手でおいらの頭を優しく撫でてくれる。おっかさんは、顔立ちはお春ちゃんに似ているんだけれど、おっとりしているお春ちゃんと違い、いつも動き回っている働き者だ。近くの料亭に奉公に上がっている。会えば「真白」って声をかけてくれたりおいしいものをくれたりするんだ。

 そして弟の松吉って奴が――あえて奴と呼ばせてもらうけど――本当にお春ちゃんの弟なのかと疑ってしまうくらい嫌な奴なんだ。耳や尻尾を引っ張ってきたり、遠くの町に連れていかれて置いてけぼりにされたこともある。おいらの体が小さい時分は特に酷くて、首根っこを掴まれて、ぽんっと投げられたことだってあるんだ。この前なんか、お春ちゃんがおいらにくれようとした大福餅を、おいらの目の前で食べたんだ。しかもおいらに見せびらかすようにして。これにはおいらも腹が立った。大福餅はおいらの大好物なのに!

 どうして松吉はおいらに意地悪をするのだろう。

「姉さんをお前にとられたような気がして、寂しいのさ」

 という答えをくれたのは、お隣の相生町に住んでいたクマじいさんだった。

 クマじいさんは所謂ムク犬というやつで、全身を黒くてふわふわとした長い毛で覆われている。目もほとんど毛で隠れていて、おいらはじいさんの目を一度も見たことがない。夏になるとあまりの暑さに「今年こそ儂は死ぬかもしれん」とばてているらしい。このあたりじゃ一番の古株で、犬のことも人間のことも何でも知っている。この世の酸いも甘いも全部味わってきたという、すごい犬だ。

「松吉は今年いくつになった?」

「十だって」

「それじゃあ、お前さんのほうが大人になってやらにゃいかんよ」

「そうなの?」

「そうさ。儂ら犬よりも人の方がずっと大人になるのが遅いからの」

 そうなんだ。おいらのほうが生まれたのはずっと後だけれど、あいつのほうが子供なんだな。じゃあ、ここはひとつおいらが大人になってやらなくちゃ。そのときはクマじいさんの言葉に納得したけれど、すぐにまた嫌がらせをされ、今でも松吉とおいらの攻防は続いている。

 かといって、松吉の気持ちもわからなくもない。奉公に上がっているおっかさんの代わりに、ずっとお春ちゃんが松吉の世話をしてきたからなかなか姉さん離れできないんだ。

 それなら、お春ちゃんが奉公にあがればいいんじゃないかとも思うんだけど、そうはいかない事情があった。お春ちゃんは小さなときから体が弱く、急に具合が悪くなってしまうことが多かったんだ。確かにお春ちゃんは同じ年頃の女の子と比べても、細くて色も白い。何度も大病をして、生死の境を彷徨ったこともあるらしい。今日は調子がよさそうだと思っても、急に頭が痛くなったり、熱が出たりしてすぐに床に寝付いてしまう。だからおっかさんが外へ仕事に行き、お春ちゃんが長屋で松吉の面倒を見ていたんだ。

 それでも、おいらがお春ちゃんと出会った頃には、気分が優れないからってずっと長屋にこもることもなくなっていた。大きくなるにつれて、お春ちゃんの体も丈夫になっていった。みんなそう思って――いや、そう願っていたんだ。



 みんなの願いに反するようなことが起こってしまったのは、おいらがこの裏店に住むようになって、一年と少しが過ぎた頃、厳しい寒さがほんの少し緩み、どこからか梅の花の香りが漂ってくるようになってきた、そんなときだった。

 急にお春ちゃんが体調を崩したんだ。咳き込むことが多くなり、顔色も優れない。立ちくらみが起こってその場にうずくまってしまう。おいらが心配になって近づくと「平気よ、真白。すぐに治るわ」と言ってお春ちゃんは笑った。

 確かに少し休むと咳も止まり、動けるようになる。長い間床についてしまうような大病ではない。でも、そんな様子が日に日に多くなり、ただの病ではないとみんな思うようになった。あまりにも長引いているので、お医者の先生を呼んで見てもらったんだけど、何の病なのかもわからなかった。それが余計にみんなの不安を煽った。

「あいつ、絶対藪医者だぜ。だから姉ちゃんの病のことがわからないんだ」

 お医者さんが帰ると、松吉はそう腹を立てた。おいらも同じ気持ちだった。

「松吉」とお春ちゃんが窘めた。

「きっと大したことない病なのよ。少し休めばよくなるわ。これまでもずっとそうだったもの。だから大丈夫よ」

 お春ちゃん本人は、あまり大袈裟にしたくないみたいだった。

 でも、その言葉とは裏腹に、細い腕は更に細くなり、ふっくらとしていた頬もこけていくのがわかった。おいらだけでなく家族も、長屋の人たちもみんなお春ちゃんを心配していた。

 そうして、お春ちゃんが長屋から出られなくなって、しばらく経ったある日の朝。

「真白」

 長屋の軒先に寝そべっていたおいらに、松吉が声をかけてきた。その顔はどことなく神妙だ。

「これから神田明神にお参りに行くんだ」

 神田明神はこの辺りの氏神様で、すぐ近所にある。おいらもお春ちゃんに付いて何度も行ったことがあった。

 お参りに行くことを何でおいらにわざわざ言うんだよ。一人で行ってくればいいのに。

 そう思ったけど、松吉のいつもと違うただならぬ雰囲気をおいらの鼻はかぎ取った。おいらは体を起こし、松吉の正面に立つ。

 人は時々こんなときがある。誰にも言えない悩みや秘密を抱えていて、でも一人じゃ抱えきれなくて声に出してしまいたいとき、こっそりとおいらたち犬に話したりする。

 お隣の長屋のお慶さんは「旦那が博打好きで困っちまうよ。ああ、長坊にはそういうところは似て欲しくないんだけどねえ」とよく呟いているし、その旦那さんは夜遅く木戸が締まる直前にこっそり帰ってきては「ああ、今日も博打ですっちまった。嬶に怒られる」と嘆き「真白。俺はどうしたらいい?」なんて聞いてくる。また、同じ長屋に住んでいる新九郎さんっていう若い浪人もしばしば「本当は故郷に帰らないといけないんだが……しかしなあ……弟もいるしなあ」とぼそぼそと悩みをこぼしてくる。そして仕舞いには「ああ、どうして私は武士の家に生まれたのだろう」とまで言い出す始末だ。

 おそらくみんな、犬は人の言葉を解しないと思っている。だから、気兼ねなく話せるんだろう。おいらたちはちゃんとわかっているんだけど。人は犬の言葉がわからないみたいだから聞き役に徹しているだけなんだ。

 でも言葉でははっきりとわからなくても、何となくお互いの気持ちが伝わるときがある。今がまさにそうかもしれない。

 松吉は何も言わずに歩き出す。おいらも黙って後に続いた。

 長屋のある細くて暗い路地を抜け、表の広い道に出る。そこには多くの人が行き交っていた。青物を売り歩く棒手振り、駕籠かきがその傍を勢いよく通り過ぎてゆく。彼らの巻き上げた埃に混じって、魚のにおいもしてきた。きっと日本橋の魚河岸から仕入れてきた魚売りが近くにいるんだろう。

 お春ちゃんの具合が悪くなってからというもの、松吉はいろんな神社仏閣にお参りに行っている。そこにいる神様や仏様に、お春ちゃんの病が治るようお願いしているんだ。

「姉ちゃんの病は治らないのかな」

 松吉はそう小さく零した。いつもはぴんと伸びた背筋が猫のように丸まっている。

 これまで、松吉がおいらに弱音を吐いたことなんて一度もなかった。それだけ参っているということだ。

「せっかく大家さんが縁談を持って来てくれて、それが纏まりかけていたっていうのに……」

 裏店の大家である徳兵衛さんが、にこにことしながら訪ねてきたのはもう随分前のことだ。そのとき、おとっつあんとおっかさんは大喜びだった。幼い頃に何度も大病をして、その度にここまでの命かもしれないと覚悟した。そんな娘が年頃になるまで成長し、お嫁に出すことができるんだ。嬉しくないはずがない。

 相手方もお春ちゃんのことをとても気に入ってくれた。体の弱ささえなければ、お春ちゃんは可愛らしくて働き者のいい娘なんだ。それなのに、今のような状態だと、縁談の話が無くなってしまう。

 松吉は更に続けた。

「昨日、お慶おばさんに聞いたんだ。親戚のおばあさんに、階段から落ちて腰を痛めた人がいるんだって。もう年だから、治ることはないって医者にも言われたらしいんだ。それが、一生に一度は行ってみたいってお伊勢さんに行ったら、すっかり治っちまったんだってさ」

 お伊勢さん? 初めて聞く言葉だ。お伊勢さんってなんだい?

「伊勢という場所に、とても有名な大神宮があるんだ。この国にいる八百万の神様の中で一番大きな力を持つ神様がいる。その神様にお願いすると、なんでも叶えてくれるんだ。その大神宮をみんなお伊勢さんって呼んでる」

 じゃあ、お春ちゃんもお伊勢さんに行けば、病を治してもらえるんじゃないだろうか。それって、すごいことだ。すぐにお春ちゃんをお伊勢さんに連れて行こうよ。

 でも、松吉の表情は暗いままだ。

「あの様子じゃ、姉ちゃんを連れてはいけない。お伊勢さんはすごく遠いんだ。たどり着く前に、何かあったら……」

 松吉が歩く速度を上げた。

「俺が代参できればいいんだけどさ。でも、俺も奉公に上がることが決まってる。折角大家さんに口を利いて貰ったんだ。今更断ることなんてできないよ」

 松吉は徳兵衛さんの口利きで、木綿問屋に奉公に行くことになっているんだ。

 そこで、松吉はぴたりと足を止め、おいらを見下ろした。

「お前が犬じゃあなかったらなあ……」

 そんなこと言われても、おいら困るよ。犬じゃあなかったらどうしたっていうんだろう。

「こんなことお前に言っても仕方がないよな」

 ちょっと失礼なことを言って、松吉は神田明神の鳥居を潜った。

 参道を進んで、大きな拝殿の前に立つ。

 松吉はぎゅっと目を瞑り、長い間手を合わせていた。おいらは神様がいるっていう建物を見上げる。

 おいらは神様に会ったことがない。以前お春ちゃんに神様は目には見えないんだと教えられたんだ。でも、確かにそこにいて、みんなの願いを聞いているらしい。犬になら見えるんじゃないかと思って、ここに来る度に鼻先に集中して神様のにおいを探るけれど、いつもよく分からない。気配も感じない。神様ってどんな人だろう。人々の願いを叶えてくれるんだからきっといい人なんだろう。一度でいいから、会ってみたいなあ。

 目を開けた松吉が、拝殿に向かって一礼する。そしてくるりと振り返り、来た道を戻って行く。おいらはそんな松吉を追いかけ、そして追い抜いた。さっきからおいらの鼻の周りを、とても香ばしい香りが漂っていて落ち着かなかったんだ。

 おいらは一目散に、そのにおいを発しているもとに駆け寄った。門前にある団子屋だ。

 松吉。団子があるよ。持って帰れば、お春ちゃん、喜ぶと思うな。病なんてどこかに行ってしまうよ!

 おいらが団子屋の周りをうろうろすると、松吉は小さく溜息をついた。

「帰るぞ、真白」

 松吉はおいらに背を向けると、さっさと歩いて行ってしまった。

 どうしても諦めきれなくて、おいらはその場に留まった。だって、こんなにいい香りなんだもの。きっとすごくおいしい団子のはず。

 おいらがじいっと団子屋のお兄さんを見上げていると、一人のおじさんがおいらの前を遮るようにして立った。

「この団子を二十本」

 とすごい量を注文した。二十本も一人で食べるんだろうか。一本ぐらいおいらにくれないかなあと見つめていると、おじさんがじろりとおいらを見た。これは、見込みがありそうだ。

 おいらは期待を胸に、団子を受け取ったおじさんの後を付けて行った。おじさんの足は思いの外速く、道行く人を追い抜くようにして進んでゆく。あっという間に松永町を通り過ぎ、橋を渡る。

 やがておじさんが立ち止まったのは、とある長屋の前だった。

「邪魔をする」

 おじさんが張りのある声で呼びかけると、十四歳ぐらいの快活そうな女の子が中から出てきた。

「馬琴先生。いらっしゃい」

 馬琴先生と呼ばれたおじさんは、持っていた団子を女の子に差し出す。女の子は「お団子だわ!」と笑顔になった。

「お栄ちゃん、親父殿はいるかね?」

「ええ。今、絵を描いていますよ」

「……今日は引っ越しの日だと聞いているんだが」

「そのはずなんですけどね。朝起きてすぐ筆を持ったまま、今までずっと放そうとしないんです。困った親父さまだわ」

 お栄ちゃんと呼ばれた女の子は呆れたように言った。馬琴先生は難しげな顔を更に顰めて、長屋の中を覗き込んだ。おいらもつられて、覗き見る。

 部屋の中には大小さまざまな紙があちらこちらに散らばっている。正直片付いているとは言い難い部屋だ。これから引っ越しするとなるととっても大変だろう。

「あら、犬」

 とそこで、お栄ちゃんがおいらに気付いた。

「そうなのだ。団子屋からずっとついて来ている。この団子を狙っているらしい」

「何! 犬だと!」

 大声とともに、皺くちゃの襤褸のような着物を着た、馬琴先生より年上のおじさんが、長屋の中から飛び出してきた。その手には墨が付いた筆と紙が握られている。おじさんはぎょろりとした目をおいらに向けた。そしておいらを凝視したかと思うと、さらさらと紙に描き付けてゆく。どうやらおいらの姿を描いているようだ。

「あんた、今度犬が出てくる読本の挿絵でも描くことになったのか?」

「お前さんがいつか犬が出てくる話を書くかもしれねえだろ」

「そりゃあ、準備が宜しいようだな。葛飾北斎先生」

 二人とも名前に先生って付くのだから、きっと立派な人なんだろう。前にお春ちゃんが、そんなことをおいらに教えてくれたんだ。北斎先生が描いているのは文字じゃなくて絵のようだ。ということは絵師って人なのかもしれない。

「こんなところに来る暇があるなら、さっさと新しい読本を書いたらどうだ?」

「そっちこそ、犬なんか描いていないで、さっさと水滸伝の挿絵を描いて欲しいものだ」

 馬琴先生に言われても、北斎先生は気にしていないようで手を止めない。

 北斎先生のぎょろりとした目で睨まれ、おいらは怖くなった。団子は諦めて帰ろうとすると「動くんじゃねえ!」と怒鳴られた。どうしよう。帰りたいけど帰れない。進退窮まる。

 おいらを見ていた馬琴先生が何かを思い出したようで、お栄ちゃんに向き直った。

「そういえば、最近面白い話を聞いたぞ」

「どんな話だ?」

「私はお栄ちゃんに話しているんだがね」

 馬琴先生が平然と言うと、北斎先生は鼻を鳴らした。この二人、仲がいいのか悪いのかわからない。

「馬琴先生、どんな話です?」

 おじさん二人を見ていたお栄ちゃんが、先を促す。馬琴先生は一つこほんと咳ばらいをした。

「伊勢参りは知っているだろう? 最近は、犬も伊勢参りに行くのだそうだ」

「犬も?」

「飼っていた犬が急に姿を見せなくなった。心配していると、ある日ふらりと戻ってくる。その首には伊勢のお祓が括りつけてあり、それで主人の代わりに伊勢詣に行っていたことがわかったんだそうだ」

「へええ」

「それから、自分が病で動けないために犬に代参させたら、ちゃんと一匹で伊勢まで行って参拝してきたという話もある」

「馬琴先生は少し前に、伊勢に行ったことがありましたよね? そのとき、そういう犬は見なかったんですか?」

「見なかったな。だが、伊勢に行く犬は何故か吠えないらしく、それ故気付かなかっただけかもしれんがね。そして、伊勢に行く犬は、みんなこの犬のように白い犬なのだそうだ」

 北斎先生だけでなく、馬琴先生も、そしてお栄ちゃんにまで注目され、おいらはちょっと恥ずかしくなった。

「じゃあ、この犬も伊勢に行ったりして」

 そう言ってお栄ちゃんがおいらの前にしゃがみ込んだときだった。

「あの! 今の話は本当ですか?」

 いきなり話に割り込んできたのは松吉だった。てっきりおいらのことなんか放っておいて帰ってしまったと思っていたのに、律儀にもおいらのことを追って来たようだった。息が切れ、顔も真っ赤だ。おそらくここまで走ってきたんだろう。

「その、犬が一匹で伊勢に代参してくるって話は……」

「ああ。参宮と書いた木札を付け、少しの銭を持たせて送り出せば、不思議と犬は伊勢を目指して歩き出すのだそうだ」

「もしかして、この白い犬はあなたの犬?」

 お栄ちゃんが尋ねると、松吉は少し迷うような素振りを見せてから、こくりと頷く。

「大人しくて賢い犬ね。この犬なら、きっとお伊勢参りに行けるよ」

 それっきり、松吉は何も答えず黙り込んでしまった。

 やっと口を開いたのは、北斎先生の長屋を後にし、松永町に向かって歩いているときだった。急に口を閉ざしてしまった松吉に何か思うところがあったのか、馬琴先生は持っていた団子を分けてくれた。もちろんおいらにも。おかげで帰り道、おいらは上機嫌だった。

「犬でも代参できるのか……」

 松吉はそう呟くと、おいらの前に立った。

 そして、真剣な顔で「真白」とおいらを呼んだ。

「お前、姉ちゃんのために伊勢参りに行って来てくれないか?」

 おいらが、お伊勢参りに?

 松吉からの申し出に、おいらは正直面食らってしまった。でも、すぐにお春ちゃんの姿を思い出し、ふたつ返事で引き受けた。

 いいよ。おいら、お伊勢さんに行ってくるよ。なかなかない弟分からの頼みだし、何より大好きなお春ちゃんのためだもの。

 承諾の意味を込めて、おいらは一声吠えた。