日本国憲法 第十五条 2

 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。


地方公務員法 第三十条

 すべて職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当つては、全力を挙げてこれに専念しなければならない。






「……っ!」

 食いしばった歯の隙間から、かすれた悲鳴が短く漏れた。

 危機感と恐怖が募る中、首筋に滲んだ冷や汗がおろしたてのスーツの襟元に染み込んでいくのが分かる。激しい悪寒に耐えながら後ずさりすると、右手が何かにぶつかった。石造りの橋の欄干だ。「戻橋」と刻まれた銘が、視界の端にちらりと映った。

 人は、本当に危ない時でも、目に映った文字をつい読んでしまうものらしい。

 そんなことを思いながら、火乃宮祈理は橋の上をさらに後退した。できれば回れ右して走って逃げたいところだが、脚が――いや、全身が震えてじりじり下がるのが精一杯だ。それに、背中を向けるのも危ないし……。

 瞬間、ぐきりと祈理の足首に衝撃が走った。バランスが崩れ、小柄な体が橋の上に転がる。慣れないパンプスのせいだと気付いた時にはもう、祈理は橋に尻餅を突いていた。タイトスカートの尻に冷たく堅い感触が伝わり、じいんと鈍い痛みが広がる。

 これだからヒールの高い靴は! 今日からの仕事用に買ったスーツなんだから、汚さないよう気を付けてたのに……! 思わず内心で悪態を吐くのと同時に、荒っぽい息遣いが再び耳に届いた。

 血に飢えた猛獣の呼気か重機のアイドリングを思わせる音に、一際ぞくりと背筋が冷える。立ち上がろうとしたが腰と足とが動かない。腰が抜けるというのはこれか。怯える意識の隅で理解しながら、祈理は眼鏡越しの視線を前に向けた。

 春とは言えまだ四月になったばかりなので、日が落ちるのは早く、この時間でもう薄暗い。目の前に左右に広がる大きな通り――確か「堀川通」――を行き交う車はそろそろヘッドライトを灯し始めており、コンビニやビルからも灯りが漏れている。そんな当たり前の街中の風景の手前に、それは確かに立っていた。

 依然、それの姿は見えない。いくら目を瞬いても細めても、ぼんやりとした人型の輪郭が見えるような気がするだけだ。声や呼吸音だって、実際に聞こえているわけでは――即ち、空気が振動しているわけではなさそうだ。

 だが、目と鼻の先にそれが存在していることは、もう疑いようのない事実だった。理屈ではないがそう感じられるのだから仕方ない、と祈理は思った。

 気配だけで構成されるそれの形は人間に似ていたが、大きさは三メートル近くあるようだ。ゴリラじみた両手は異様に大きく、頭の上には角が生えている……ような気もする。つい冷静に観察してしまった祈理の前で、それは意識に直接伝わる声で吠えると、巨大で透明で実体を持たない右手を振り上げた。

 やばい。と言うかこれはもう駄目だ。

 全身の毛がぞわああっと逆立つ中、本能的な恐怖と覚悟、そして深い悔恨が、祈理の心中に湧き上がる。この就職難の時代に、念願叶って公務員になれたのに。

 なのに、こんなところで訳も分からず終わるのか……!

 と、そう思ってしまったのと同時に、小さな問いがふと浮かぶ。

 そもそも、だ。

 わたしは、どうしてこんなことになっているんだっけか。


☆☆☆


 京都市の中心地、御池通と寺町通が交差する位置に、京都市役所の本館はある。

 灰白色のレトロな外観が特徴の左右対称の巨大施設は、グラウンドほどもある広々とした前庭と相まって、近代的なビルの立ち並ぶ一角では一際目立つ。建造時のまま保持されている外観に対し、中は幾分か改築されてはいるが、ものが昭和初期の建物なので、やはり柱は大きく窓は小さく廊下は狭く薄暗い。

 そんなノスタルジックでやや非機能的な建物の三階、環境福祉局局長室で、祈理は目の前の机に座った男性から手渡された辞令書を訝りながら読み上げていた。

「『京都市環境福祉局 生活福祉部 いきいき生活安全課勤務を命じる』……?」

 時刻は四月一日の午後三時五十六分。祈理が戻橋で不可視の気配に襲われる約一時間前のことである。祈理を含めた新採職員の出勤初日である今日は、まず朝から市長の訓示を聞く入庁式、法に基づいて真摯に働くことを誓う宣誓式があり、その後、公務員としての心構えや市民への応対についての基礎をざっくり学ぶ一斉研修を受講させられた。で、研修が終わった後、各自の配属先へ分かれる段になって、祈理はここ局長室へと呼ばれ、手元の辞令書を示されたのだ。

 一緒に渡された首かけ式の名札にも「いきいき生活安全課 主事補 火乃宮祈理」とある。それらを見比べ、祈理は軽く困惑した。聞いていた話と違うな、と思いながら顔を上げると、正面の窓ガラスに映る自分と目が合った。

 身長百五十三センチ。小柄で痩せた体に着慣れない感のあるスーツを纏い、アップにしてまとめた髪に青のフレームの小ぶりな眼鏡、やや太い眉と大きめの目。あまり面白くもない、そしていかにも新社会人らしい出で立ちを確認すると、祈理は眼前の机に座る男性、即ちこの部屋の主に向き直った。

「あの。質問よろしいでしょうか」

「何だね」

 先ほど祈理に辞令書を渡した男が、抑揚のない声で応じる。四十代半ばのがっしりとした長身の男性で、髪をぴったりと後ろに撫で付けている。面長の顔は彫りが深く、細長く小さな目が印象的だ。グレーのスーツの襟には、円の中に菱形が三つ交差するデザインの京都市の市章が輝き、胸元に下がった名札には「環境福祉局局長 磐蔵立彦」と記されていた。

「三月にいただいた連絡では、わたしの配属先は総務課と聞いていたのですが」

「事情が変わってね」

 祈理が言い終えるより先に、磐蔵が曖昧な答を発した。デスクに広げていたファイルを閉じながら、環境福祉局の局長は一本調子な声で「よくあることだ」と言葉を重ねる。みんながみんな京都弁を話すわけではないんだな、と祈理はふと思った。

「役所の仕事というものは、常に臨機応変でなくてはならない。自治体はいわば巨大で気まぐれな生き物で、この京都市のように歴史のある街の場合はなおさらだ。想定外の事態で予定が狂うことは日常茶飯事だ。異論もあろうが、火乃宮君にも慣れていって貰いたい。不満かね?」

 祈理を見上げた磐蔵が淡々と語る。漠然とした話し方だったが、要するに、年度末に急に誰かが辞めたりして人手が必要になったとか、そういうことなのだろうと祈理は理解した。予想外の事態ではあったけど、念願の公務員として働けることには変わりないわけで、異論などは全くなかった。

 ――私は、国民全体の奉仕者として公共の利益のために勤務すべき責務を深く自覚し、日本国憲法を遵守し、並びに法令及び上司の職務上の命令に従い、不偏不党かつ公正に職務の遂行に当たることを固く誓います。

 数時間前の宣誓式で唱和した文言が思い起こされる。ああ言った手前、いきなり配属に反論することはできないし、あの信念に則った仕事であるなら文句もない。自分を納得させると、祈理はこくりとうなずいた。

「分かりました。公務員として働けるのであれば、どこでも構いません」

「明快な返事をありがとう。ところで、今『公務員として』と言ったが、君がこの職を志した理由は聞いてもいいかね。今後は私が上司になるわけだから」

「はい。明文化された規則に基づき、私情に依って便宜を図ることなく、あくまで公平に行動するという在り方に魅力を感じたためです」

 最終面接でも口にしたフレーズを、祈理は淀みなく繰り返してみせる。それを聞いた磐蔵は、良い答だ、と言いたげにうなずいた。

「では、実際に採用された立場としての抱負などは? 面接のようになってしまって申し訳ないが、部下には必ず聞くようにしているものでね」

「一日も早く、全体の奉仕者という表現に相応しい職員となることです。憲法第十五条および地方公務員法の第三十条に謳われた『全体の奉仕者』という概念は、社会を構成するあらゆる存在のために平等に働く、公務員という職を象徴した言葉だと考えています。市の職員として採用いただいたからには、このフレーズを常に胸に抱き、法に則って市民に平等に接することをいつでも心がけ――」

「なるほど、よく分かった」

 ヒートアップし始めていた祈理の長い口上を、磐蔵の乾いた声が遮る。話の腰を折られてきょとんと目を瞬いた祈理に、磐蔵は細い目を向けた。

「一言二言で良かったんだがね。まあ、その意気でよろしく頼むよ。他に質問は」

「はい。いきいき生活安全課というのは、具体的に何を担当する課で、どこにあるんでしょうか? 環境福祉局の中に――いえ、京都市の八局百三十一課の中に、そんな名前はなかったように思うのですが……。新設された部署ですか?」

「……組織図を全部覚えているのか?」

「自分の働く場所のことですから、一通りは。それが何か?」

「失敬。感心しただけだ。面接で基本構想や市民憲章を暗唱したと人事課から聞いた時は、話を盛っているだろうと決めつけてしまったが、あれも本当なのかね」

「は、はい……。途中で止められましたけど」

 自分を凝視する視線に居心地の悪さを覚えながら、祈理は小さく首肯した。一緒に面接を受けた就活生達にも奇矯な目で見られたことを思い出し、少し顔が赤くなる。

 短大とは言え法学部出身なので条文暗記には慣れているし、そもそも、そこで働こうというのであれば規則を覚えるのは当然だと思うのだが、そこまで説明すべきなのかどうなのか。辞令書を手にしたまま祈理が逡巡していると、磐蔵は「なるほど」と独り言ち、A5サイズの簡略な地図をデスクから取り出して祈理に示した。

「いきいき生活安全課は別館にある小さな課だ。少々特殊な部署なので一般向けの組織図には明記されていないが、歴史の長い課だよ。出勤は明日からだが、今日中に顔だけは出しておくように。地下鉄を使えば、二十分ほどで着くだろう」

「分かりました」

「仕事の内容も説明しておくべきところだが、この後年度初めの管理職会議があって時間が取れない。向こうで聞いてくれたまえ。あと、名札は別館に着いてから付けること。市役所の職員が街中をぶらぶらしていると思われると、クレームに繋がりかねないのでね。この類の配慮は面倒だろうが、慣れて貰うしかない」

「あっ、はい。了解です」

 首に提げようとしていた名札を戻し、祈理は地図に目を通した。丸太町駅や今出川駅、京都御苑などが並ぶ中に、矢印で市役所別館の位置と電話番号が示されている。

 試験や面接の時に市役所周りはリサーチ済みだが、このあたりは初めてだ。と言うか、どのあたりなのかもよく分からない。でもまあ、京都は観光地だけあって案内板が多いし、市の建物だったら行けばすぐ分かるだろう。何とかなるはず、と自分に言い聞かせ、祈理は再度顔を上げた。

「それと、もう一つだけ質問よろしいですか? 寮のことなのですが」

「寮? ああ、職員寮のことかね」

「はい。わたし、そこに入居させていただくことになっているんです。家具付きの独身寮があるんですよね? 最低限の荷物だけ送っておけばいい、一日にならないと入れないから初日の研修の後に案内すると通知をいただいたんですが」

「そのことなら聞いている。荷物も届いているはずだ。幸い、寮は別館の近くだから、向こうで案内して貰うといい」

 落ち着いた声で回答すると、磐蔵は小さくうなずき、閉じていたファイルをまた開いた。話は終わりだ、行っていいと言いたいらしい。というわけで祈理は「失礼します」と一礼し、書類をバッグに入れて局長室を出た。現在時刻は十六時八分。別館には二、三十分で行けるらしいから、今からだったら五時前には着けるはずだ。


☆☆☆


「五時前には着けるはず……だったんだけど……」

 局長室を出て小一時間後。上京区の一角、京都市を南北に貫く堀川通の片隅で、祈理はおろおろしていた。手元の携帯が示す時刻は十七時二分。役所の窓口はもう閉まる時間だというのに、未だ市役所別館は見つかっていなかった。

 右手には小さな川が流れ、逆を見れば車の行き交う四車線の大きな通り。川と歩道を隔てる柵の手前で、祈理は完全に迷ったことをようやく認めた。

 思えば、地下鉄を降りたところで外国人観光客に道を聞かれて応じたのがそもそも失敗だった。一緒に地図を見たり不慣れな英語で話したりしているうちに時間はどんどん経ってしまい、結局相手は業を煮やしてどこかへ行ってしまった。地元の者じゃないんです、こっちも急いでるんですと言えば向こうも納得してくれただろうに、「今日からはこの街の職員なのだから」などと思って頑張ってしまったのがまずかった。自分は優先順位の付け方が下手であることを、祈理は改めて痛感した。

 しかも、そのタイムロスに加えて現在地まで見失ってしまったのだから始末が悪い。元来、祈理は文章を覚えるのは得意だが、図面を読んだり位置関係を把握したりするのは苦手なのだ。平たく言えば酷い方向音痴であり、シンプルな地図だけで迷路のような京都の裏通りに挑むのははっきり言って無謀だった。

 そもそも京都の市街は難しいのだ、と祈理は思った。平安時代以来の伝統に基づき、碁盤の目状に大きな通りが走っているという構造からしてややこしい。地図で見ている分には明快に思えるが、実際に現地に立つと縦にも横にも似たような道が走っているため、東西南北が分からなくなり、すぐに現在位置を見失う。どこに行っても観光客がいるので、うろうろしていても怪しまれないのはありがたいけれど……。

「ええと、この川が堀川で、道の向こうにあるのが晴明神社だから……」

 磐蔵局長から貰った地図と携帯に表示した地図を見比べ、今いる場所を確認する。道の向かいには大きな鳥居がそびえ、五芒星の記された提灯が掲げられていた。平安時代の陰陽師、安倍晴明を祀った晴明神社である。

 祈理はオカルトや伝説には明るくないが、テレビで見た映画のおかげで安倍晴明の名前くらいは知っていた。お札で悪霊と戦ったり、式神とか言う妖怪を使役したりする人だ。こんな街中に祀られているのは意外だったが、観光している時間はない。

「行き過ぎた? でも、それっぽい建物なんかなかったし……」

 困惑のあまり独り言が漏れていたが、気にしている余裕はなかった。地図で示されたはずの一帯にあったのは、狭い間口の木造の町屋や煙草屋、古い学校や病院、あとは喫茶店やバーの入った煉瓦造りの細いビルくらいだ。しかも気が付けばあたりは徐々に暗さを増しており、不安と焦りがさらに募る。

 そもそも別館なんて本当にあるのだろうか。そんな疑問がふとよぎる。ネットの地図や道端の案内板には市役所別館の記載はなかったし、地図の電話番号には何度掛けても誰も出ない。留守かとも思ったが、公共施設が新年度の初日から無人になるだろうか……?

「って、悩んでても仕方ないでしょう。探さないと!」

 諦めつつあった自分をどやし、祈理は携帯をバッグに戻した。雑な地図を見る限り、別館はここから南東に――そのあたりに役所らしき建物は絶対になかったと思うのだけど――あるようだ。行き過ぎたのは間違いないし、ひとまず戻るべきだろう。

 というわけで東に折れる道を探しながら川と通りに沿って南下していくと、大きな柳の木に隠れるように石造りの橋が東へと伸びていた。二車線分の幅があるかないかの小さな橋だ。地図を信用するなら、この先の一帯のどこかに別館があるはず。

 そう判断した祈理が、何気なく橋を渡り始めた――その数秒後。

「……え」

 ふいに、祈理の背筋がぞくりと冷えた。

 春先では有り得ない寒気に、不可解な声が思わず漏れる。同時に、後ろから生臭い風が漂い、祈理は思わず橋の中程で足を止めていた。

 何、これ。後ろに何かいる……?

 困惑の声が心中で響き、心拍数が上がっていく。冷や汗が額や首筋に滲むのを感じながら、祈理はおそるおそる振り返り――そして思わず息を呑んだ。

「な……何?」

 実体のない凶暴で危険な人型の気配が、祈理の目の前に立っていた。

 輪郭はおぼろげで全身は透明で、物理的に存在しているのかどうかさえ定かではない透明な何か。それが何かは祈理には分からなかったが、とんでもなく危険なものだということは、直感的に理解できた。できてしまった。

 ――これは、とても怖いものだ。見てはいけない、会ってはいけないものだ。

 本能が伝えるそのメッセージとともに、冷や汗の量と心拍数がさらに上昇し、祈理の体が一瞬固まる。そしてその直後、祈理が一歩後ずさったのと同時に、それは声にならない怒号を放ち、襲いかかってきたのだった。


☆☆☆


 つい冷静に観察してしまった祈理の前で、それは意識に直接伝わる声で吠えると、巨大で透明で実体を持たない右手を振り上げた。

「ひいっ……!」

 カチカチと震える歯の隙間から、悲鳴にならない声が漏れる。逃げなければとは思うが、へたりこんだ腰は抜けたまま動かない。

 何これ。何こいつ!

 心の中で声が響き続けているが、無論その疑問に答える者は誰もなく、それは構えた右手を勢いよく振り下ろす。依然姿は見えないが、グローブか熊手のような大きな手の先に鋭い爪があるのはなぜか分かってしまった。そして眼前に迫る狂気に祈理が半ば死を覚悟した――その時だった。

「おい、そこの! ぼさっとしてるんじゃねえ!」

 ガラの悪い男の声が後ろから届き、祈理はハッと我に返った。

 誰、と問うより早く、祈理の腰にしなやかな腕が巻き付き、へたりこんでいた体を一気に肩に担ぎ上げる。目と鼻の先をそれの不可視の鉤爪が通過していく中、いきなり二メートル近い高さにまで吊り上げられ、祈理は今度こそ甲高い悲鳴をあげた。

「きゃ、きゃああああっ!」

「うるせえぞ! 黙ってろ!」

 担がれた姿勢で叫ぶ祈理に、至近距離から棘のある罵声が投げつけられる。その声に引かれるようにそちらを向けば、初めて見る顔がすぐそこにあった。

 ここでようやく祈理は、割り込んできた青年が自分を軽々と担ぎ上げてバックステップを踏み、あの透明な何かから助けてくれたことを理解した。

「ど、どなたか存じませんが……ありがとうございます」

「黙ってろっつったろ」

「は、はい……!」

 鋭い命令に、担がれた体がぶるっと震える。米俵のように持ち上げられたまま、祈理は目の前にある青年の横顔をまじまじと見た。

 おそらく歳は自分より少し上、つまり二十代の半ばだろう。ぴんぴんと撥ねた短い髪は白に近い銀色に染められている。少年らしさの残った顔立ちは整っており、色白の肌のきめは細かく透き通るようだ。そこまでは神秘的で綺麗なのだが、目つきが恐ろしく悪いな、と祈理は失礼なことを思った。

 ついでに言えば、口元に覗く歯が妙に尖っているのも怖いし、黒地にストライプの入ったスーツはともかく、真っ赤なシャツと白のネクタイの取り合わせはちょっと品がないのではないかしら。助けて貰ってこんなことを思うのも何だけど。

「って、そんなことより! あれが来ますよ!」

「あれじゃねえ。穏仁だ」

「え? お、おにって――きゃああっごべっ」

 問い返そうとした祈理の声が悲鳴に変わる。青年が祈理をぞんざいに後方へ投げ下ろしたのだ。腰を打ってのたうつ祈理に、青年はふと興味深げな視線を向けた。肉食獣を思わせる鋭い視線に、祈理は思わずびくっと震える。

「な、何でしょう……?」

「お前。あれが――穏仁が見えてるのか?」

「え? いや、まあ、はい……。ぼんやりとですが」

「それで上等だ。つうことはお前、見鬼か。最近では珍しいが――って、話は後だな。邪魔だ、下がってろ!」

「はっ、はいっ……!」

 何で命令されてるんだという疑問を感じる前に、祈理は反射的に即答していた。手首に引っ掛かっていたバッグを手繰り寄せてしっかり抱え、震える脚で立ち上がって青年の背に隠れる。

 一方、青年はそんな祈理に見向きもしないまま、橋の上のそれを睨んでいた。この人、わたし以上にそれが――青年の言葉を借りるなら、「おに」が、はっきり見えているようだ。そんな風に思った祈理の前で、青年は細身の割に大きな肩をすくめてみせた。

「懐かしい場所に出やがって……。通報を聞いた時は嘘吐けと思ったが、二十一世紀の世の中にこんな古式ゆかしいモノが出るとはな。一条戻橋の穏仁は女から化けるはずだろうに、女を襲ってどうすんだ。平家物語を読んでねえのか? つか、お前はどこの誰だ? どこかで解放されたのか、それとも勝手に目覚めたか? そもそも言葉は分かるのか、え?」

 特に身構えもしないまま、ぶっきらぼうな口調で青年がそれに語りかける。だが、それは、狩りを邪魔されて怒ったのか、あるいは単に目の前のものに襲いかかる習性があるだけなのか、声にならない咆哮を放つと、青年に向かって巨体を躍らせた。

「あっ、危ない!」

「オラァッ!」

 祈理の悲鳴とほぼ同時に、青年は短い気合とともに右手を構えていた。

 青年のまっすぐ立った人差し指と中指が、眼前に五画の図形を描く。五芒星を描いたんだと祈理が察した瞬間、電気が弾けるような音が響き、青年に飛びかかっていたそれの巨体が後方へと吹き飛んだ。

「……なるほどな。単なる暴力性の塊で、知性は一切ないってわけだ。実力行使は趣味じゃねえが、そういうことなら仕方ねえか……。ったく、こんなことなら厭鬼の札でも作っときゃ良かった」

 慌てて身を起こす透明な猛獣を前に、青年があからさまに溜息を吐く。銀色の短い髪をがりがりと掻きながら、青年はそれにずかずかと近づき、「すまねえな」と小声で詫びて目を閉じた。

「――東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良、南海の神、名は巨乗、北海の神、名は禺強……」

 さっきまでとはトーンの変わった厳かな声が、橋の上に静かに響く。ふいに始まった謎の行為を、祈理は立ちすくんだままぽかんと眺めていた。

 そいつは結局何なんですか、貴方は誰で今何をなさってるんですか……? 聞くべきことは山ほどあったが、なぜか今は口を挟んではいけない気がした。そして祈理が固唾を飲んで見つめる先で、青年はふいにカッと目を見開き、よく通る声を発した。

「四海の大神の御名の下に、百鬼を退け、凶災を蕩え! 急々如律令!」

 どこか少年じみた若々しい声が、凜と橋の上に響き渡る。

 瞬間、ばすん、と何かが破裂する音が祈理の意識へと直に伝わった。透明な怪物が大きく膨れあがって弾けて消える様を前に、祈理はハッと息を呑んだ。

 どうやら透明で危険なあの巨人は、青年のシャウトによって消滅し、とりあえず自分は助かったらしい。らしいのだけど……でも、これは一体? わたしは何に巻き込まれたの?

 喜びよりも疑問が勝り、素直に安堵することができない。深呼吸で無理矢理自分を落ち着かせながら眼鏡のずれやスカートの裾を直していると、青年は祈理を無視したまま、こくりと小さくうなずいた。

「よし。こんなもんか」

 一仕事終えたぞと言いたげな呼気が漏れ、男性にしては綺麗な手がネクタイを緩める。そのまま祈理が見つめる先で、青年はスーツの内ポケットから携帯を取り出し、どこかへ電話を掛けた。すぐに相手が出たようで、ぶっきらぼうな声が響く。

「あー、もしもし、五行だ。角隠の爺さんか? いや、通報のあったのは退治したから、一応報告をな。まさかとは思ったが確かに穏仁だった。え? いや、だから、街中にいるあんたらのお仲間じゃねえよ。隠れる仁って書く方の、実体も知性もなくて暴れるだけの、古式ゆかしいデカブツだ。あんなものが今さら自然発生するとは思えないが……何? よく聞こえない? だからな、古い方の穏仁だったって言ってんだよ」

 橋の欄干にもたれかかりながら、青年はぞんざいな口調で話し続ける。一瞬、銀髪の下の鋭い目が祈理を向いたので、祈理は慌てて頭を下げ、感謝を示した。

 いつの間にか日は完全に落ちている。市役所別館を早く探さなければいけないわけで、こんなところで油を売っている場合ではないのだが、電話中の彼にはちゃんとお礼を言わねばならないし、事情も聞きたい。なので、早くこの人の電話が終わりますように。祈理が念じながら待つ傍らで、青年は徐々に声量を上げていた。電話の相手はどうやら耳が遠いらしい。

「え? 穏仁くらい自分達で退治したかった? 分かってるくせにそういうことを言うんじゃねえよ。あんたらの実力行使はこの街じゃ一律厳禁で、だから実働役の俺らがいるんだろうが。こういう汚れ仕事は、俺ら『陰陽課』の担当――何? 聞こえなかった? ああもう、そっちに耳のいいのはいねえのかよ……。『陰陽課』って言ったんだ。陰と陽とで陰陽課! 正式名称は『いきいき生活安全課』!」

 欄干に体重を預けたまま、青年が苛立たしげに電話に怒鳴る。そのガラの悪い声を聞いた瞬間、バッグを持って待っていた祈理はぎょっと目を丸くしていた。

 ……今、この人、「いきいき生活安全課」って言った……?

 まさかその名をここで聞くとは思っておらず、眼鏡の奥の瞳が、驚きのあまり激しく瞬く。その発言を信じるならば、目の前の銀髪の青年は自分の配属先の先輩ということになるのだろうが、しかし、街をうろつく透明な怪物を退治するのが仕事って、どんな部署なんですか。それ以前に、この人が公務員? この銀髪で偉そうで乱暴な人が、市役所の職員……? そもそも「陰陽課」って何?

 不安と困惑が再び波で押し寄せる。その間に青年は話を終えており、「じゃあな」と告げて電話を切った。青年は携帯をポケットに放り込んで立ち去ろうとしたが、傍らで呆気にとられている祈理が気になったのか、足を止めてじろりと睨んだ。

「何だその顔は。喧嘩売ってんのか」

 顰めた顔とガラの悪い声に、祈理の背筋がまた冷える。祈理はもともと度胸のある方ではないし、不良やヤンキーは大の苦手だ。すみませんでした、と頭を下げて逃げ去りたいのは言うまでもなかったが、ぐっとこらえて口を開く。まずはお礼だ。そして質問だ。

「あ、あの……助けていただいてありがとうございました」

「仕事だからな。気にしなくていいからとっとと帰れ」

「それが、そうもいかなくてですね……。さっき、『いきいき生活安全課』って名乗られてましたよね? そこの職員の方なんですか……?」

「あん? だったらどうした?」

 祈理の反応が予想外のものだったのだろう、ただでさえ悪い目つきをさらに悪化させながら、青年が祈理に一歩近づく。百八十センチ強の長身に見下ろされると、威圧感が凄まじい。祈理は悲鳴を漏らしそうな自分を制し、改めて目の前の青年に目を向けた。さっきまでは気付かなかったが、黒地にストライプの入ったスーツの襟には、磐蔵局長の付けていたものと同じ市章が光っている。それに気付いた祈理は慌てて姿勢を正し、名札を取り出して示した。

「あ、改めまして、初めまして! 本日付で入庁させていただき、いきいき生活安全課に配属されました、火乃宮祈理と申します! よろしくお願いいたします!」

 名札を名刺のように掲げたまま、深く一礼。数秒経って頭を上げれば、橋の袂の街灯に照らされた青年の顔には深い困惑が浮かんでいた。そのまま祈理が静止し、次の言葉を待っていると、青年はこの上なく不審げに祈理を見返した。

「そういや、新人が来るって話、今朝になって聞かされたが……それがお前か?」

「はっ、はい! よろしくお願いいたします、火乃宮祈理で」

「それはもう聞いた。で、何でその新人がこんな時間にこんな場所にいやがったんだ? 新入りだったら、今日は本庁で入庁式と研修だろ」

「ですけど、今日中に別館のいきいき生活安全課に顔を出して、説明くらいは聞いておけって言われましたから……」

 ですが、地下鉄を降りた後、別館を探している間に迷ってしまって、さっきのあれに襲われたのです。かいつまんで事情を説明すれば、青年はあからさまに呆れながら名札を取り出し、心底嫌そうに名を名乗ったのだった。

「五行春明。いきいき生活安全課の主任で、京都市の公認陰陽師だ」