導入講義 商談の夜



「我々、シルキー・バニーは確実にお約束します」

 親切顔の男はそう言って、ジェルで固めた自分の髪を触った。青みの強いネイビースーツと赤いネクタイが力強い印象である。他方、私の安いリネンのセットアップは、薄っぺらなくせに、一度濡れて乾いた紙のように硬く、みすぼらしかった。

 神与島第三街区の隅にある英国パブの二階席には、私と、私の向かいに座る男がいるだけだった。一階席では、キューブ・レスリングの衛星放送を見る酔客たちが数名エキサイトしているものの、会話の邪魔になるほど喧しくもない。

「ですから、あなたはもう少し大胆になるべきだ」

 男はパイントグラスのギネスを舐めるように飲んだ。私は自分のビールを一口も飲めずにいる。喉はひどく乾いているのに、目の前の男の接待を受ける気にはなれなかった。緊張を和らげるべく、上着の胸から煙草の箱をとり出す。若い頃から慣れ親しんだ、旧三級品の安物である。

「失礼。煙草はダメでして。ここのパブも先月、完全禁煙になったんですよ」

「そうですか。申しわけない」

「いや、ですからね、鷺沢さん。もう少し大胆にならなければ。私の制止など無視して、煙草に火をつけるぐらいのことをやってごらんなさい」

 不出来な子どもを笑うように、男は表情を和らげた。

「本当に買っていただけるのですか」

 私は煙草の箱を手の中で遊ばせながら訊いた。ライターはとり出せずにいた。禁煙の席に紫煙をくゆらせる度胸すら、私には備わっていないらしかった。

「競売会社シルキー・バニーがとり扱う商品については、先日お話ししたはずです」

「ええ……それは」

「我々がとり扱うのは、魔性の方石。かかわった人間のさだめを狂わせる魔石を、新しいオーナー様のもとへお届けするのが我々の使命です。その方石を魔石たらしめる物語とともにね」

「――物語」

「ええ。あえて外連味を利かせて申し上げるなら、そう。――魔石奇譚、とでも」

 つまり、魔石の悪用例を抱き合わせで売る、ということなのだろう。男はギネスのグラスを脇によけて続けた。

「あなたにお預かりいただいたあの方石には、まだ、お客様にお届けできるだけの物語が備わっていない。それを、鷺沢さん。あなたの方でご用意いただけるなら、相応の額で買いとりましょうと、私は先日申し上げました」

「……覚えています。もちろん」

「あなたのアトリエが一年で売り上げる額の三倍、お支払いします。それだけの資金があれば、十分、苦境を脱することができるはずです」

「考えは――あります」

 緊張のせいか、口腔が粘つく。

「本当は今日、お返事できればよかった。ただ、まだ話がまとまっていないのです」

「計画がおありだと?」

「あなたたちにとっても、悪い話じゃないはずだ。私なりに考えた。あの方石の使い方を――あの、」

 心臓が細かく震える。喉の渇きに耐えきれなくなってきた私は、抵抗感を押しのけて、ぐっとビールを呷った。鋭く冷えた黄金の苦味が、痛烈な癒しとなって、私を勇気づける。

「あの魔石の――」

 彼らから預かるよう頼まれた、あの、魔性の方石。

「梔子連作。θの方石」

 そのセリフを吐いたのは、私の唇ではなかった。

 視線を上げる。フロアの奥、夜に向かって開け放たれたパブの窓辺に、色白の優男が腰かけていた。柔らかに伸びた髪の色は淡い。華奢な体躯と相まって、海外の女性モデルのような姿だった。

「やめとき、やめとき。軽々しく手を出してええ代物やない。身、滅ぼしまっせ」

 優男の白いシャツが、宵闇に浮き上がって見える。

 いつからそこにいたのだ。焦りと疑念に、じっとりと手汗が滲む。彼はこちらの事情を見抜いている。

「そちらさんと同額とはいかんけど、θはボクらの方で引きとらせてもらいたいんですわ。――ね?」

「まあ、そうだ。ただ、悪党のような口ぶりはやめろ」

 私は弾かれたように振り返った。背後で誰かが階段を上ってくる。静かに姿を現したのは、白皙の美青年だった。優男とは対照的に黒いシャツをラフに着ている。

 硬そうな黒髪に、ぴたりと揺るがない視線。私は蛇に睨まれた蛙となって、ただ瞬きを繰り返すばかりだった。

「善人面よりは渋いと思うけど。悪役。うん、ええね」

 白い優男と黒い若者が歩み寄ってくる。私は動けない。だが、私の向かいに座る男は余裕の笑みで言った。

「困りますね、商談の邪魔立ては」

「ニッポンは自由競争の国です。交渉するんは自由や」

 優男はテーブルのすぐ脇に立って私を見た。

「鷺沢さん、悪いことは言いません。この連中とは手を切った方がええ」

「……私は、アトリエを失うわけにはいかない」

 犯罪に使われかねない方石を、そうと分かって売りさばく。そんなシルキー・バニーが真っ当な商売相手でないことなど百も承知だ。それでも、アトリエの逼迫した経営状況を打破するには、彼らと手を結ぶしかない。資金繰りの手段など、すでに尽きている。

「この店は落ち着きませんね。ちょっと場所変えませんか?」

 優男が私の肩に手を置く。そのときである。

「――ツモリさん」

 私の交渉相手が重い声で呼んだ。すぐ近くの窓が弾かれるように開く。

「バカ猿ッ!」

 突然、黒い若者が叫んで飛び出す。彼は白い優男を力いっぱい突き飛ばした。次の瞬間、

「カーミラの薔薇」

 窓の外から鋭く伸びた真紅の爪が、黒い若者の左胸を容赦なく刺し貫いたのである。

「シロくんッ!」

 白い優男が叫ぶ。黒い若者は口から血を吹いて、苦悶の表情を浮かべていた。私の袖にも若者の血のしずくが飛んで、赤い染みを作る。

「さ、いきますよ」

 交渉相手の男は私の腕をとると、そのまま勢いよく、私を引きずるように二階の窓から飛び降りた。窓のすぐ外では、若い女が宙に浮いていた。

 いや、その表現は正確ではない。彼女が両の五指に備えた真紅のネイル。右のネイルで看板につかまり、左のネイルで黒い若者を殺している。つけ爪の方石なのだ。

 店のすぐそばには屋根のない高級車が止められている。後部座席に放り出された私は、その衝撃に目を回した。だが私が回復する前に、車は勢いよく走り出す。

「いやあ、参りましたね」

 男の声に、私は座席から身を起こした。運転席には交渉相手の男。助手席には若者を殺した女。ダークスーツの暗さと、メガネをかけた無表情が冷たい印象である。

「ひ、人を殺すなんて」

 口の中で先ほどのビールが粘つき始めている。

「何を言っているのです。そのθも人の命を脅かす方石だ。あなたはそれを使って事を起こそうというのでしょう。……もう一度、申し上げます。大胆になってください。ひとりやふたり殺めたぐらいで、うろたえられては困ります。あなたはすでに車に乗って走り出してしまった。途中下車をなさると、大怪我をしますよ。転がった屍を車輪で踏みつぶしながら、あなたはただ前進するしかないのだ」

「……狂っている」

「よく言われます」

「これからどこにいく」

 私が問うと、運転中の男はゆっくりとハンドルを切りながら、不気味に笑った。

「このたびの本拠。珀耀教院の――あかつき講堂まで」

 車は夜の市街を抜けていく。すでにひとり、死人が出てしまった。顔も知らない若者だが、それでも、彼の死は私の心に重くのしかかっていた。



第一講 あかつきへの招待



     1


 黒須宵呼は一昨日、髪を少し切った。

 伸びた分を切り整えただけだけれど、塗り絵のはみ出したところを消しゴムできれいに消したあとのような、すっきりとした気分が心地よい。

 梅雨も盛りの六月二十二日、日曜日の朝である。昨日の夕暮れから降り始めた雨は、夜半には世界を溺れさせんばかりであったが、宵呼が目を覚ましたときにはもう、空に暗雲はなかった。部屋の窓から見上げた青色の鮮やかさは、深呼吸をして吸い込んでしまいたいくらいだった。

「うーん、雨上がり! いいにおい!」

 庭に出た宵呼は大きく伸びをする。他人の目もないので、チェリーピンクの半袖スウェットから、ちらりとへそが覗いてもお構いなしだ。雨に洗われた外の空気は、まっさらな清々しさを誇っている。宵呼は手に持ったひとつの方石に目を落とした。

 方石は、一辺一寸半の立方体の姿をした、本邦古伝の工芸品であり、同時に摩訶不思議な先端技術でもある。常態は立方体の姿をしているが、内包した組成式の作用によって、方石は様々な衣裳に変化し、着装される。今、宵呼の手の中にあるのは、黄色く塗られたヒノキの地に、茶色い格子模様の入った方石である。

「今日はこれひとつだし、さっさとやっちゃおう。それ!」

 方石を身につけるのに、暗号も呪文も必要ない。

 ただ意思によって、立方体の中にしまい込まれた衣裳を呼び出してやればいい。手の中にある方石について宵呼がそうしてやると、その石は無数の光の粒子となって弾けた。宙を流れた光粒たちは、スカイブルーのワンピースに変じ、今着ている衣服と入れ替わるように着装された。ワンピースには、いまだつぼみのままのヒマワリが描かれている。ヒマワリのつぼみを見るたびにふきのとうを思い出すのは、はたして自分だけだろうかと少しだけ思った。

 咲かないヒマワリのワンピースを身につけたまま、宵呼は庭を進み、日陰から日向に出た。変化はすぐに訪れた。今までつぼみだった絵柄のヒマワリたちが、滑らかなスローモーションで、一斉に花を開いたのである。このように方石の中には、通常の服飾品にはない特別な機能、紗印を宿すものがある。

「よし、ちゃんと咲いたね」

 その場でくるりと回ってみる。このヒマワリたちは昨日まで、日差しに当てても開かなかったのだ。

「ぶちぶち文句は言っても、仕事は失敗しないなあ、あの人」

 宵呼はひとしきり感心してから、方石の着装を解いた。光粒となって立方体に戻った方石を手に、宵呼は庭から渡り廊下へ上がった。

 アトリエ白幽堂は、方石の修繕を専門とする方石工房であり、宵呼の今のすみかでもある。東京の実家を離れた宵呼は今、相模灘沖に浮かぶ方石技術のメッカ、神与島で、やや風変わりな生活を送っていた。

 島には方石技術を深化、発展させるための技術特区であるところの、特令区が設置されており、法的にも行政的にも、特別な立場を与えられている。宵呼が神与島に渡ってきたのは、神与特令区立の方石実務家養成機関である珀耀教院へ進学することが決まったからだった。この珀耀教院には、インターンステイというカリキュラムがある。ありていに言えば、方石実務家のもとへ下宿して、現場でどのような仕事がされているのか、学習してきなさいという制度である。宵呼が白幽堂にやってきたのは、このカリキュラムに従ってのことだった。

 二百坪ほどの敷地に建つ白幽堂は、鮮烈なブルーの屋根瓦とアイボリーに塗られた木材部のコントラストが特徴的な擬洋風建築である。

 L字に折れた渡り廊下を抜けると、本館の裏玄関に入る。その先には、もうすっかり過ごし慣れたダイニングキッチンがある。

「あれ、いない。もう八時なのにな」

 さてはまた徹夜だったな、と宵呼はあっさりダイニングを出た。廊下を少しいくと二階へ続く階段がある。それを上がった右手が、アトリエ白幽堂の作業部屋だった。

 宵呼は慣れた手つきで扉をノックする。だが、返事はない。いないのだろうか。

「白堂さん、おはようございまーす」

 寝起きドッキリのように声を殺して、そっと扉を開く。隙間から覗き見ると、職人着を引っかけた背中が、両手の動きに合わせてかすかに揺れている。

 アトリエの主、白堂瑛介の背中だった。今年十六歳になる宵呼よりふたつ年上の彼だが、作業中の背姿にはえも言われぬ貫禄があった。

(……やっぱし寝なかったんだ。もう)

 宵呼はそっと部屋に身体を滑り込ませた。積み上げられた雑誌類は以前ほど溜まっていない。ただコルクボードには、たくさんの依頼書やら見積書やらが指名手配書のように貼りつけられ、近頃の彼の多忙ぶりを物語っていた。

「上手く直っていたか」

 やや鼻にかかったような、独特の声色である。

「えっ、あ、その」

 出し抜けに問われ、答えに詰まる。彼は日どり窓のそばに置かれた作業台についたまま、こちらを見ない。

「ダメならダメとはっきり言え、デコ娘」

 額を大きく出した前下がりのボブヘア。宵呼のそんな髪型から生まれたのが、このあだ名だった。出会った当初から、彼はこの呼び名を改めようとはしない。宵呼の方も少しずつ麻痺してきたのか、呼ばれ方を正そうという気が段々起こらなくなっていた。

「いえ、きちんと直っていました。綺麗に咲きましたよ、ヒマワリ」

「ならいい」

「じゃあ、これ、お預かりしていた方石です」

 宵呼は彼のそばに歩いていって、作業台にワンピースの方石を置いた。ついでに、作業中の彼の様子を窺う。

 硬そうな黒髪と白皙の面。端的に言って類まれな美形である。カットソーの首元から覗いた鎖骨は、百八十センチほどある彼の身長と比例するように、太くてたくましい。

「徹夜ですか」

 もうすっかり日が昇っているのに、作業台のランプには、明かりが灯ったままになっている。

「ああ」

「何かお手伝いしますか?」

「預かり証のバインダーをとってくれ。今月分のは青色だ。ツユクサみたいな」

 言いながら、彼はダブルクリップで留められたA4の紙束を熱心に読んでいる。その表情はどこか難しげだ。長い足をため息とともに組み替えている。

「いつもの棚ですか?」

 尋ねた宵呼はすでに、書架へ視線を走らせている。

「いや、分からん。どこかへ放り出してあるかもしれない」

「……えぇ」

 作業部屋に積み上がった雑誌の間には、いくつかバインダーが挟まっている。そのうちの数冊は、彼の指定に近い色をしていた。終盤にさしかかったジェンガゲームのような雑誌の塔たちには、できれば触りたくなかったので、宵呼は先に書架の中身を検めていく。すると意外にあっさり、彼の求めているバインダーが見つかった。

「これですよね、六月分」

 宵呼が手渡すと、瑛介は何も言わないまま、中身に目を通し始める。彼が見ているのは方石の組成式の内容が記された組成図である。

「やっぱりな。どうにもおかしいと思った」

「トラブルですか?」

「いいや。少なくともオレは何もしくじっていない」

 瑛介は作業台の上にある二種類のインク瓶を引き寄せた。ひとつにはグリーンの液体が、もうひとつには淡いブルーの液体が入っている。彼は試験管立てのようなスタンドから万年筆じみた道具を手にとった。

 方石の組成は、正方形の箱板にグリーンの式液で組成式を記載し、それを淡いブルーの箱液で接着しておこなう。いずれの液体を扱うときも、式筆という万年筆とスポイトを足して二で割ったような道具を使用する。この式筆は、古い時代においては毛筆だったそうなのだが、現代においては、硬筆の形態が一般的になっている。

 瑛介は太い一号の式筆で箱液を吸い上げる。問題があるらしい方石の各辺にそれを塗布すると、方石は接着のいましめを失って、内包する組成式をあらわにした。中にはグリーンの文字列で編み上げられた球体が浮かんでいる。これが方石の組成式である。衣裳化後のデザインも宿す紗印も、この組成式によって表現されている。よって衣裳化された方石が破損すると、それは組成式の乱れやほつれとなって反映されることになる。瑛介はそのような方石の修繕を生業としていた。

「……ああ。やっぱりか」

 組成式を眺め回しながら、瑛介がこぼした。

「この方石、中身はカチュームなんだ」

「あれですよね、頭にまくやつ」

 宵呼の答えに、瑛介は呆れたような顔を見せた。

「……まあ、いい。スパイゲーム用に組まれたイベントキューブでな。これを着装した参加者が一定距離に近づくと振動する仕組みになっている」

「スパイゲームってケイドロみたいな感じですか?」

「そんなところだな。ただ、使ってみると、近距離にいる間振動が止まらないせいで、気持ちが悪くなってくるという」

「頭がずっとぶるぶるしてるってことですか」

 それは確かに、気持ちが悪くなりそうだ。

「ああ。預かった組成図と照らしてみれば、やっぱり式に記載漏れがある。これは組成元のアトリエに文句を言うべき案件だ。オレが勝手に式をいじると、面倒なことになりそうだ。石を引きとりにくるよう、依頼者へ連絡しておいてくれ」

 バインダーに綴じられた修繕依頼書には、依頼人の連絡先がボールペンの青黒い文字で書かれている。

「……またあたしが電話するんですか。最近ずっとじゃないですか」

「依頼者の相手をするのはくたびれる。方石はどれだけいじくり回したって、面倒なことをぐだぐだ言わないから楽だ。諾々と、静かに、修繕されるのを待っている。いっそのこと、依頼は書面でだけ受けることにするか。方石の受け渡しは郵送で」

「ダメですよ。たまには人間と話をしないと、言葉の使い方を忘れてしまうっていいますからね」

「話し相手もゼロじゃない。妙な居候がひとりいるしな」

 素っ気ない声で言いながら、彼は開いた方石を元の姿に接着し直した。宵呼はというと、何となく悪くない気分で、彼の横顔を覗き見る。

「何だ」

 作業を終えた瑛介が、式筆をスタンドに戻す。

「ふふっ。いーえ、何でもありません。それより朝ご飯にしませんか? もうすぐ八時半ですけど」

「オレはとりあえずシャワーを浴びたい」

 つけっぱなしのランプを消し、瑛介は椅子から腰を上げた。

「じゃあ、その間に何か作ってしまいますね。それから、その職人着、そろそろ洗いたいので洗濯かごに入れておいてください。下の段ですよ、ほかのとは別で洗いますから」

「分かった、分かった」

 つきたての餅を引き伸ばすようなあくびをしながら、彼は職人着をぐるぐると丸めて抱え、重い足どりで作業部屋を出ていく。宵呼もそのあとについていくが、部屋を出る直前に、彼の作業台を振り返った。

 そこには道具類の陰に隠すようにして、写真立てがひとつ置かれている。

 飾られた写真の内容を、宵呼は以前に見て知っている。写っているのは、今よりやや髪の短い瑛介と、宵呼の知らない少女のふたりである。以前聞いたところによると、この写真は瑛介の友人である猿渡偲が、中学時代にふざけて撮ったものらしい。少女は猿渡と同じように瑛介の「友人」なのだそうだ。ただ、白幽堂にちょくちょく顔を出す猿渡と違って、宵呼はまだ写真の少女に直接会ったことがない。

 写真の中で、少女は親しげに瑛介の腕をとっている。瑛介の方は驚き半分、迷惑半分という顔だ。

(本当にただの友達なのかな)

 写真の少女は、天使のように可憐だった。そしてそんな彼女は、瑛介への好意を隠そうとしていない。むしろ向けられたカメラのレンズに対して、幸せな笑顔を誇っているかのようですらある。ただ、迷惑そうな瑛介の顔は、宵呼の知っている見慣れた渋面とあまり変わりがない。そのため、瑛介が彼女のことをどう思っているのかを、写真から読みとることはできなかった。

(今は、何をしている人なんだろう)

 ぼんやりと考えながら、宵呼は踵を返して階下に向かった。


 朝食は三種類のサンドイッチとコンソメスープにした。

 宵呼の料理のレパートリーは、祖父の好みに合わせた祖母のそれを受け継いでいるため、和食がほとんどなのだが、瑛介はコンソメスープが大好物であり、それに合わせるとなると、食事も洋食の方がいいように思えた。

 四月から始まったステイ生活も約三ヶ月となり、宵呼の洋食レパートリーも着実に増えつつある。和洋の比率は三対七程度で、中華は外食のとき以外には食べない。本当はもう少し和食の回数を増やしたいと宵呼は思っている。ただ、四月の末の一件を思い出すと、自分の好みを通すより、瑛介に好みの味を楽しんでほしいと思えてしまう。

 瑛介のドライヤーの音が、ダイニングにも届いた。宵呼は半分沸いたお湯を再び温め始め、用意してあったふたつのカップにスープの粉末を入れる。

 四月の末、私生児である宵呼は、この神与島で実の父親に初めて会った。父、兼坂東吾は、宵呼の通う珀耀教院で方石史を教える教授だった。その彼が実の父だと知れたのは、彼が宵呼に、別れた母朝薫の面影を見いだし、宵呼を手中に収めようとしたからである。

(……朝薫)

 絡みつくような実父の声が、たまに耳の後ろをかすめるときがある。初めて会った父は、けれども宵呼を娘として扱おうとはしなかった。宵呼の母、黒須朝薫の代わりに宵呼を求め、愛そうとした。そのとき、宵呼を守り、そして支えてくれたのが瑛介だった。

 瑛介は基本的に人間の相手が好きではないし、時間さえあれば作業部屋に引きこもって方石をいじっているオタク的な性質を持ってもいる。生活能力はなく、料理はできないし、掃除や洗濯もほとんどしない。ステイが始まってからというもの、依頼者の応対や家事作業は宵呼に丸投げで、方石オタク街道をまっしぐらに突き進んでいるように見える。

 一緒に生活していれば、反発心を抱くこともそれなりにあるし、歯に衣着せない彼の物言いに、こっそり傷つくこともある。それでも、食事のことを含め、彼の生活の手伝いをしたいと思えるのは、居候として世話になっているからだけではなく、四月の事件のとき、彼が宵呼のことを本気で守ろう、本気で支えようとしてくれたからだろう。

「でも……今夜は白いお米とお味噌汁がいいなあ、なんて」

「朝飯前から夕食の心配とは、食い意地の張ったことだ。デコ娘、百五十五センチ、四十七キロ」

 意地の悪い声にぎょっとする。黒いシャツにアッシュグレイのパンツ。徹夜明けなのに寝る気もないのか、瑛介は私服姿で現れた。手には白い紙を持っている。

「うわあ! ちょっと! それ!」

「レコーディングダイエットか。記録をつけるのはいいが、洗面所に落としていくのはやめろ。面白すぎるからな、あっはっは!」

 機嫌よくその紙をテーブルに滑らせた瑛介は、

「太ったのか」

 皮肉な笑みを浮かべて核心を突いてきた。

「……ちょっとだけ」

 宵呼は観念する。

「白堂さん、痩せる方石とかないですかね」

「あるぞ」

「えっ」

「過剰使用で入院患者をごろごろ出したようなやつだがな。伝手を頼れば手に入れられないこともない。ほしいのか?」

「……遠慮しておきます」

 瑛介は長く息をつきながら、カップに沸きすぎたお湯を注ぐ。

「ミスコンに出るわけでもなし、少々のことでピリピリするな」

 煮えたぎるようなオニオンコンソメを、瑛介は平気な顔ですすった。

「ミスコンですか? ああ、そう言えば、今月号の珀耀Walkerで特集されていたような……」

「おまえ、そんなもの読んでいるのか」

「いや、毎月教院から封筒が届くじゃないですか。珀耀Walkerも入ってるんですよ、そこに。見てないんですか?」

「見てない」

 白幽堂は一応ステイ生の受け入れアトリエになっているから、珀耀教院がどのような活動をしているのかを知らせる広報誌類が、月ごとに届くのである。件の珀耀Walkerは珀耀教院学生委員会の機関誌なのだ。

「確かここに挟んであったような……」

 電話台の下に置かれたラックから、宵呼は薄っぺらな雑誌を引っぱりだした。

「これこれ、この記事です。迫る秋の琥珀祭、ミス珀耀グランプリ特集」

 ページを捲ると、目当ての記事はすぐに見つかった。過去三年のグランプリストが特集されている。中でも目を引くのは、三年前のグランプリストだった。

 毛先にかすかな癖のあるセミロングと、くりっとした目が特徴的な、色白の美人である。

 鷺沢夕夏。

 それが彼女の名前だった。グランプリをとったとき彼女は一年生であったらしい。過年度生でないなら、宵呼より三つ、瑛介よりひとつ、年上になるはずだ。

 瑛介の顔色を窺うと、彼はカップに唇を添えたまま、鷺沢夕夏の写真に見入っているように見えた。

(……ふーん。こういう感じがタイプなのかな)

 大人びているのに、あどけなく。清らかなようで、どこか悩ましげ。男の人を虜にするのは、確かにこういうタイプの女性なのかもしれない。ちらちらと瑛介の様子を観察する宵呼は、何だかあまり面白くない気分を味わっていた。


 呼び鈴が鳴ったのは、食事を終えたそのすぐあとだった。

「……デコ娘」

 ダイニングテーブルに肘をつき、テレビのローカル番組を退屈そうに眺めながら、瑛介が続けた。

「客だとしたらアポなしだ。客でないなら何かの勧誘だろう。前者なら用向きだけ訊いて帰ってもらえ。後者なら、無言で扉を閉じていい」

「えぇ……あたしが応対するんですか?」

「約束をした客が相手なら、オレだってきちんと会うさ。そうじゃない相手のことは知らん」

「もう。仕方がないなあ。それじゃあ、お皿とかシンクにつけておいてください」

「分かったから、早くいけ」

 宵呼はコップの水を飲み干して、渋々ながら腰を上げる。そしてダイニングキッチンから出て、小走りに玄関へ向かう。

「はい、お待たせしました」

 愛想よく詫びながら、宵呼は玄関扉を開けた。

 外には若い女性が立っていた。

 セミロングの髪を雨上がりの風になびかせる、色白の美人である。身長は宵呼より少し高くて百六十センチくらいだろうか。真っ直ぐな眉とくりっとした目が印象的な綺麗な顔立ちだ。白いブラウスに紺のスカートが、よく似合っている。

「あら? えっと……瑛くんはいるかしら」

 穏やかな笑みで、彼女は言った。

(あれ、この人……)

 女性の容貌に、既視感を覚える。

 つい先ほど見た珀耀Walkerに載っていた、三年前のミス珀耀ではないだろうか。写真よりは少し大人びているが、それがむしろ、彼女を一層輝かせていた。彼女が町を歩けば男女問わず、誰もが振り返るに違いない。宵呼も思わず見とれる。名前は確か、

「鷺沢、夕夏さん」

 無意識のうちに声が漏れていた。

「そうだけど……私たち、どこかで会ったかしら」

「あ、すみません。その、珀耀Walkerで――」

「あなた、珀耀の学生さんなの?」

「はい、一年生です。今月号に、ミスコンの特集が」

「……そういうこと。やっぱり、失敗だったな、アレ」

 照れくさそうに目を細めて、鷺沢夕夏は肩をすくめた。

「罰ゲームだったのよ。父も不機嫌になってたし、よしておけばよかった」

「お父さん、ですか?」

「そ。ガンコオヤジ」

 憎々しげに顔を歪めた夕夏は、すぐに表情を変えて、宵呼の背後に視線を向けた。

「あ、瑛くん」

 夕夏が小さく手を振る。

「覚えのある声だと思ったら、おまえか」

 苦い表情で、瑛介が玄関に向かってくる。

「ユウ。どうして白幽堂にきた。用があるならオレの方が出向いたんだ」

 らしくない瑛介の言葉に、宵呼は目を丸くした。それよりも何よりも、瑛介と夕夏はいかにも旧知だという口ぶりで、お互いを親しげに呼び合っている。

 宵呼の視線が、ふたりの間を慌ただしくうろうろする。

「一度ね、見てみたかったの、瑛くんのアトリエ」

「見物するほどの場所でもない」

 答えながら瑛介はデッキシューズを突っかけ、下駄箱の上に投げ出してあった財布を尻ポケットへ突っ込んだ。

「こうなっては仕方がない。面倒だが少し出てくる。留守番をしておけ」

 ぶっきらぼうにそれだけ言う。

「え、あの」

「ふーん、私、アトリエには上げてもらえないんだ」

「仕事の依頼があるのか?」

「ないけど。……じゃあ、この子のことは、意地悪しないで紹介してほしいな」

 夕夏は宵呼を見てウィンクした。

「インターンステイでうちにきている居候だ」

「へえ……お名前は?」

「デコ娘」

「ちょっと!」

 脊髄反射で、宵呼は噛みついた。

「あたし、黒須宵呼っていいます」

「そう、黒須さん。改めて、鷺沢夕夏です。瑛くんとは……そうね、幼馴染?」

「大して馴染んでもいなかっただろうが」

「ひっどーい。本当、瑛くんはいつまで経ってもいい子にならないわねー」

「うるさい。まあ、何だ……とりあえずオレはこいつと少し出てくる。いつ戻れるか分からないから、飯は昼も夜もいらない」

「わあ。もしかして、何かおいしいものをごちそうして――むぐ」

 忌々しげな顔で瑛介が夕夏の口を塞ぐ。

「おまえは本当に少し黙っていろよな。それでだ、デコ娘。こいつが神与島にいることは誰にも言うな」

「……どうしてですか」

 別に言う気もないが、むくれて訊き返す。

「昔、ミスコンに出たとき、つきまといに遭ったことがある。別に今更妙なことにはならんだろうが、念のためだ」

「ぷはっ、大丈夫よ。瑛くんを連れて歩いてたらなんともなかったから。瑛くん、昔からおっきかったもんね」

「おかげでこっちは大迷惑だったがな」

「あら、偉そう。毎度、スープでつられてたくせに」

「……ふん。まあ、つまり、何だ。しっかり留守番をしておけよ、デコ娘」

 とり繕うような声で言い置くと、瑛介はこちらにくるりと背を向けて、いつもの大股で白幽堂の前庭を抜けていく。その彼に夕夏がするりと腕を絡ませた。

「近い、うざったい、離れろ」

「またまた、嬉しいくせにー」

 ふたりが門を抜けて姿を消したあとも、宵呼はしばらくの間、ぽつんと玄関に立ちつくしていた。

「……何あれ」

 釈然としない気分だった。胸に溜まったもやもやをため息ごと吐き出して、宵呼はバタンと扉を閉じた。

「別にどうでもいいけどさ」

 瑛介が誰と仲良くしようが、自分の関知するところではない。ただ、ダイニングに戻ると、シンクにつけられた食器がわけも分からず憎たらしくなった。今からあれをひとりで洗うのかと思うと、惨めな気持ちになる。

「何か食べよ。甘いやつ」

 最後の一個を求めて、宵呼は冷蔵庫を開いた。

『プッチリプリン』

 透明なケースの赤い印字が鮮やかだった。ふたをぺりぺりと剥がし、樹脂スプーンを構える。

(…………で、結局どういう関係なんだろ。白堂さんとミス珀耀)

 やはりそのことが気にかかる。だが、思考はすぐに、プリンの甘味に飲み込まれた。あるいは、深く考えたくなかったのかもしれなかった。