第1章 桜色のシュシュ


 薄暗い部屋のどこかで、目覚まし時計が鳴っている。五月蠅いな、と呻きながら腕を伸ばして目覚ましを止め、起き上がろうとする。だが、遮光カーテンの隙間から差し込む朝日を目にした途端、頭に割れるような痛みが走り、再び体を布団に埋めさせる。

 明らかに二日酔いだった。昨晩の送別会で飲み過ぎてしまった。聡司は送られる側で、しかも意に沿わない出向ということもあり、半ばヤケ酒になってしまったせいだ。幹事役の後輩に対しては、なんでわざわざ出向先に出勤する前日に設定したのか、という恨みの感情しか湧いてこない。ついでに、後輩男子から手渡されたのは葬儀場からそのまま拝借してきたような真っ白な菊の花束だった。

 それでも初日から遅刻するわけにもいかず、よろめきながらも寝床から立ち上がり、洗面所に向かって顔を洗いはじめる。そして、ずきりと右の額に痛みを感じるのと同時に、不意に頭の中に、淡いモノトーンの光景が、まるでカメラの連写のようにフラッシュバックした。


 ――夕暮れどきの空の下。

 公園のブランコを漕いでいる、小学生くらいの男の子と女の子。

 彼女の顔は朧げだが、頭の両脇で括った長い艶やかな黒髪ははっきり像を結んでいる。モノトーンの映像の中、何故か、髪を結わえている二つのシュシュだけが、鮮やかな桜の色をつけていた。

 彼女がブランコを漕ぐ度に桜色のシュシュと、それにぶら下がった白い貝殻が小さく音を立てて揺れる。

 そして、次のシーン。

 幼い聡司はブランコから落ちて、地面に転がっていた。したたかにぶつけた頭を抱えて半べそをかいていると、少女が駆け寄ってきて、瞳にいっぱいの涙を溜め、頭に両手を翳して必死に叫び続けた。『イタイのイタイの飛んでいけ! イタイのイタイの飛んでいけ! イタイのイタイの飛んでいけ!』――


 気付くと水を出しっぱなしのまま呆けていた。

 今は昨晩の奇妙な夢なんて思い出している場合ではない。聡司は慌てて首を左右に振って雫を落とし、タオルで顔を乱暴に拭う。髪を三十秒で整えた後、下着の上にワイシャツを羽織ってネクタイを結び、掌で両頬を叩く。

 心做しか、頭の痛みが軽くなっていることに気付く。二日酔いもそれほど重症というわけではなさそうだ。夢見が悪かったのも、少しばかりアルコールを入れすぎたせいだろう。しかも幸いなことに今日は金曜日だ。この一日さえ乗り切れれば後は休みだ。もっとも、正直なところを言えば、異動日の六月一日が金曜日じゃなければ、宴会が平日に設定されることもなかったのだけれど。

 ふと壁の時計を見ると、ちょうど家を出る時間だった。聡司は鞄とスマホを手にすると、急いで玄関を出る。駅に向かって走りながら、スマホで乗り換え検索をして、この時間であれば十分前には現地に到着するとの表示に少しだけ安堵する。立場上、遅刻は心証が相当に悪くなる。しかも、行き先が民間企業ではなく、国の役所となるとなおさらだ。

 聡司が出向先として命じられたのは、自分にとって全く予想外の中央官庁――消費者省だった。消費者の安全を第一に考える行政を掲げて二年前に鳴り物入りで創設された行政機関で、企業が販売する各種工業製品の事故情報を収集し、場合によっては自主回収を促したり、不具合情報を把握しながら製品回収に踏み切らないような企業の不正行為を取り締まったりするところ――身も蓋もない言い方をすれば、企業活動を監視し、規制する役所とされている。

 正直、気が重い。


 渋谷で銀座線に乗り換え、出向先のある赤坂見附駅を目指す。昨日までは山手線での通勤だったこともあり、一回り小さいサイズの車両な上、車窓から外が見えないのはどこか奇妙な感覚だ。スマホでSNSのやりとりをチェックしつつ、心の中で大きく溜め息を吐く。

 出向の内示が出た際に上司から言われたのは、これは官民交流の一環の人事であり、聡司自身にとっても、今後のキャリアアップに繋がる経験が得られるだろうからしっかり勉強してこい、ということだったが、出向先の部署名――『事故調査室』を聞いた瞬間、要は役所の人質役にされているに過ぎないことに気付いた。

 国は消費者省設立のきっかけの一つとなる隠蔽事件を起こした東実電器に対して、官民交流という名のもとに、聡司のような出向者と交換で、お目付役の役人を送り込むことで、以前のような不正を未然に防止する意図(勿論、天下り先の確保、という意図も)があるのだ。もちろん、東実電器もそれがわかっているから、聡司のような社内評価の中途半端な若手を送り出しているに違いない。

 地下鉄が表参道駅に停車し、乗り換え客が一斉に乗り込んできて、車内はすし詰め状態になる。聡司の体は車両の奥の方へと運ばれていき、吊り革に手を伸ばそうとするものの、人が多すぎてそれも叶わない。山手線でここまでの混雑を経験することは滅多になく、辟易してしまう。列車はそのまま発車し、聡司は手元のスマホを見る余裕も無く、乗客達の隙間で顔を顰めつつ、揺れに身を任せるままになってしまう。

 そのときだった。

 視界の中に、どこかで見覚えのある桜色の布地が飛び込んできた。隅の方で小さな白い貝殻が揺れている。

 ――シュシュ?

 己の目を疑い、何度も瞬きをする。

 今朝方、夢の中に出てきた、小さな貝殻がアクセントとして付いた髪飾り。

 そんな、まさか、どうしてこんなところに……?

 気を落ち着かせるために、聡司は目を瞑り、深呼吸をする。

 いや考えすぎだ。そもそもあれは夢の中で見たものだし、単なる偶然に違いない。だいたい、シュシュなんてどこにでもあるものだし……。

 そのときだった。

 シュシュで髪を纏めた女性が、不意にこちらを向き、目が合った。鼻筋の通った顔に、ピーナッツ型の大きな瞳。聡司は慌てて視線を逸らそうとするが、自分の意図に反し、濡れた双眸から目を離すことは出来ない。その顔に、なぜか夢の中の少女のぼんやりとした面影が重ね合わされる。

 そうこうしているうちに、列車は次の外苑前に到着し、乗り降りする乗客に彼女の姿は紛れてしまう。必死に目で彼女の姿を捜す一方で、聡司の脳裏に再び昨晩の夢の光景が蘇ってくる。


 ――女の子が、不安そうな表情で自分の顔を見ている。

 さとくん、本当に大丈夫? お医者さん、行かなくていいの?

 自分は半べそをかいたまま、彼女に背を向けて家路についた。その下唇は強く噛み締められている。次第に足は速くなってくる。

 あの……! 待って……!

 少女の必死に喉の奥から絞り出したような掠れた声が背中に飛んでくる。

 それを振り切るように進む彼の腕を、小さな手が掴んでくる。

 驚いて振り向くと、大きな瞳に涙を浮かべた小さな顔と、風に揺れる桜色のシュシュ……。


 再び動き出した電車の中、車両の中程に彼女の姿を見つけた。吊り革につかまって、小さく折りたたんだ新聞を読んでいる。何かに突き動かされるようにして、自然と聡司の体は彼女に向かって動いていた。周囲からの無言の非難を感じながらも、人波を掻き分けていく。

 車両の中程まで来ると、そこに通勤客達に埋もれるようにして立つ小柄な女性の姿があった。白い横顔を俯かせ、首の後ろで、黒く長い髪を桜色のシュシュで纏めている。手元の新聞に向けられたピーナッツ型の瞳が瞬きをする度に、長い睫毛がさみしげに震える。

 その姿はどこか儚げで、そして夢現でもあった。なぜか、今すぐこの手でつかまえないと、幻として消え失せてしまうかのようなそんな恐怖さえ覚える。

 と、不意に電車が大きく左右に揺れた。慌てて吊り革に手を伸ばそうとした途端、再び車両がガタンと大きく揺れ、乗客達が先程とは反対側に一斉に傾き、聡司も大きくバランスを崩す。両足を踏ん張り、歯を食い縛ってなんとか転倒せずに済んだと思ったその瞬間、不意に誰かに右の手首を掴まれた。

 驚いて顔を向けると、そこには一人の女性が憤然とした顔で聡司を睨み付けていた。二色のアイシャドウに、アイライン、マスカラに赤のチークと、原色が目立つ厚化粧。耳元には大きな金色のイヤリングが揺れ、胸元は目の遣り場に困るくらい大きく開いている。OLなのか、それともお水系の仕事なのかわからない。

 唖然としていると、

「ちょっと、あんたなにしてるのよ!」

「……へ?」

「とぼけるな! さっきから人の体をあちこち、ずっと撫で回してきて!!」

「な、撫で……?」

「私のお尻、ずっと触っていたでしょ! ああ、汚らしい!!」

 そう言うと、白いパンツスーツに包まれたヒップを左右に揺らす。

 頭の中が混乱する。撫で回す、って、まさか自分は痴漢の疑いを掛けられているのだろうか。だとしたら、完全に人違いだ。

 異変に気付いた周囲の乗客の視線が自分に集中する。

 ――どうした?

 ――痴漢……?

 ――痴漢みたいよ、ほら、あそこ……!

 頭の中は次第にパニックに陥る。以前見た痴漢冤罪のニュースが頭の中を駆け巡る。

「い、いや、人違いです、僕はそんなこと……」

 女性の顔が憤怒に歪み、

「この期に及んで、言い訳する気!?」

 声を張り上げた。

「みなさーん、痴漢です! 痴漢! 警察呼んでください! 警察ー!」

 電車はスピードを緩め、駅へと進入しつつあった。プラットフォームの明かりが窓から差し込み、車内が明るくなる。そして青山一丁目への到着を告げるアナウンスとともに、扉が開き、一斉に乗客達が降り始める。

「こっち来なさいよ!」

 女性に手首を掴まれたまま、強引に電車から降ろされた。周囲の乗客達が興味深そうに眺めながら脇を通り過ぎていく。

「駅員のところに行って警察を呼んで貰いますから!」

「いや、だから! 違いますって! 僕じゃなくて他の誰かが!」

 そのうちに騒ぎを聞きつけたのか、あるいは誰かが呼んだのか、制服を着た駅員が二人、こちらに近付いてくるのが見えた。

 わめき立てる女性の隣に立った駅員が、容疑者を見るような目付きを聡司に向ける。

「すみませんが、事情をお伺いしたいので、事務室まで来て頂けますかね?」

「いや、それは……」

 痴漢を疑われた時は、なにがあっても、決して駅員事務室に行ってはいけない。そのまま警察が来て、やってもないことを無理矢理認めさせられてしまうから、というどこかのサイトに書いてあったことを思い出し、必死の形相で抵抗する。

「これから仕事ですから難しいです! それに本当になにもやっていませんし!」

「言い訳すんな! 痴漢は犯罪って、駅のポスターでもちゃんと言っているじゃない!」

 聞く耳も持たず、手首を掴んで駅員より先に事務室へ引っ張っていこうとする。

 と、そのときだった。

「その方は、関係ありませんよ」

 聡司の後ろから、やさしげな、しかし、凜とした女性の声が聞こえた。

「その方は何もやっていません。私が見ていましたので」

 驚いて振り向くと、そこにはあのシュシュの女性が立っていた。ミルクを溶かし込んだ白磁のような肌と、墨で描いたような細い眉、すっと通った目鼻立ち。まるで、血統書付きの猫を思わせる。

「な、なによ……、いきなり! あなたには関係無いでしょ!?」

 泡を食った『被害者女性』が裏返った声で叫ぶ。

「いいえ。無実の方が罪を着せられるのを黙って見過ごすわけにはいきませんから」

 彼女はそう言って、艶やかな黒い後ろ髪を右手で整え、相手に向き合った。

「貴女はどれくらいの間、痴漢行為を受けていたのでしょうか?」

「ずっとよ、ずっと! 渋谷を出てからすぐ! 五分以上!」

「なるほど。ですが、渋谷は始発駅ですよね。その間、貴女はずっと同じ場所に立っていらっしゃったのですか?」

「そうよ! 混んでいて身動きが取れなかったし、それに、こういう輩は捕まえてやらなくちゃ、と思っていたんだから!」

「そうですか。確かにそれは許し難い行為です。ですが、一方で、無関係の方を思い込みで犯人に仕立て上げることについては、筋違いだと思いますよ」

 そこで、彼女は聡司にちらりと視線を向け、微かな笑みを浮かべて見せた。その表情に、何故か胸が高鳴る。

「……そちらの男性の方は、一つ手前の駅でこちら側に移動されてきたんです。その前は車両の奥に立っていらっしゃったのを、私が見ていましたので」

「…………は?」

『被害者女性』が潰れたカエルのような奇妙な声で鳴いた。

 ……あのときだ。シュシュを見つめていた自分と、彼女の目が偶然合ったとき。

 そんな些細なことなのに、彼女はわざわざ自分を庇うためだけに来てくれたというのか。

「私どもはいいですかね?」

 あからさまに迷惑そうな顔をした駅員達が立ち去っていくと、『被害者女性』もバツが悪そうな顔をして、

「全く! 紛らわしいことしないでよ! 遅刻しちゃうじゃない!」

 責任を他人に転嫁すると、ヒールの音を立て、派手なイヤリングを揺らしながら立ち去っていく。

 聡司は膝に手を突き、肺の奥底から安堵の溜め息を吐き出した。助かった。もしこのまま痴漢として連れて行かれたら人生が詰むところだった。

「それでは、私はこれで」

 深く一礼し、次の列車の乗車列に向かって歩いて行こうとする恩人に、聡司は慌てて駆け寄り頭を下げる。

「あの、ありがとうございました! なんとお礼を言ったらいいのか……」

 彼女が真珠のような瞳を向ける。

 途端、聡司の脳裏に、再びあの少女の姿が思い浮かんだ。

 夕焼け空の下、柔らかな風に、シュシュで纏めた髪が揺れている。潤んだ瞳は自分をまっすぐに見つめていて……。

 彼女は、柔らかな口調で言った。

「お気になさらずに。当然のことをしたまでですから」

 小さく頭を下げると、再び歩き出した彼女を慌てて呼び止める。

「あの……、すいません!」

「……なんでしょう?」

 このまま別れることは出来ない。彼女は夢の中の少女に余りにも似すぎていた。

 訝しげな表情を向ける相手に、思わず考えてもいない言葉が口を突いて出た。

「れ……、連絡先を教えていただけないでしょうか……!」

 言ってから慌てた。

 これじゃ、単なるナンパだ。急いで言葉を付け足す。

「そ、そうじゃないですね。僕の連絡先をお伝えします。その、お礼がしたくて……」

 急いでジャケットの内ポケットから取り出した名刺入れから、相手に名刺を差し出す。記された社名は本籍のある東実電器のものだ。

「え、ええと、もしよろしければ、こちらにメールをいただけませんでしょうか。出向の身なので、電話は繋がらないんですが」

「は、はあ……」

 戸惑いがちに相手が名刺を受け取る。

「ですが、本当に気になさらなくても……」

 そう彼女が言い掛けたところで、不意に言葉が途切れ、なぜか驚いたように目を見開き、固まった。

 プラットホームに電車の接近を告げるアナウンスが繰り返し流れた後、次の電車が滑り込んできて、ホームに大量の乗客を吐き出していく。

 数十秒ほど沈黙が続いただろうか。

「あの……?」

 訝しげに彼女の顔を見ると、表情から先程までの笑みは消え失せ、代わりに怒りの表情が浮かんでいた。瞳は細められ、眉尻が微かに上がっている。

 そして、彼女は声のトーンを落とし、聡司の名刺を突き返してきて言った。

「偶然ということもあるんですね。……これはお返しします」

「……え?」

「それでは、また後で。東実電器さん」

 それだけ言うと強張った表情のまま踵を返し、シュシュで結わえた黒髪を揺らしながら、ちょうどやってきた電車へ乗り込んでいく。

 なにか怒らせるようなことをしただろうか? それに、また後で……、とは、どういう意味だろうか? どうしてわざわざ自分のことを社名で呼んだんだろうか。

 聡司はその姿を呆然と見ながら、走り去っていく電車を見送ることしか出来なかった。



 赤坂のオフィスタワーの二十三階にある、消費者省事故調査室の執務室に入ると、そこは今まで聡司が仕事で訪れてきた他の役所とは少し雰囲気が異なっていて戸惑いを覚えた。役所といえば沢山の書類がそこかしこに乱雑に山積みにされているイメージが強いが、ここでは壁際に鍵のかかるキャビネットが整然と並び、デスクにはPCと少しの書類が置かれているだけで、全体的に整理整頓が行き届いていた。クリーンデスクを徹底して呼びかける民間企業のオフィスのイメージに近いかも知れない。そんな部屋の中では、三十人ほどの職員がデスクに向かって黙々と業務をこなしており、空調の音に混じってキーボードを叩く音が大きく室内に響いている。

 出向前に渡された書類によれば、この事故調査室という部署は、世の中に出回っている各種製品について、大きな事故に繋がりかねない不具合情報の迅速な把握を行うことと、不具合品についての企業の自主回収を支援することを主な役割として持っているということだった。一方で、そういった人命に関わるような不具合情報を意図的に隠すなどの悪質な行為を行う企業に対しては、捜査権を行使し、実効性のある対応を取ることもあるのだという。

 聡司のような民間企業の、しかもメーカーに勤務する人間にとっては、管理監督者の根城に放り込まれたようなもので、実に居心地が悪い。しかも、自分は三年前に大規模な不具合隠しをやらかした東実電器の人間だ。それは、前科者が警察署の中に仕事場を持っているようなものだ。

「矢田さん、準備の方はよろしいですか?」

「は、はい」

 レクチャーをしてくれた山沢室長――髪をソバージュヘアーにしたやや大柄な女性で、この人も役所の中で大手を振って歩くキャリア官僚というよりは食堂のおばちゃんといった雰囲気の人だ――に促され、フロアの前に立つ。

「それじゃあ、みなさん、お仕事中すいません! 本日付で着任された矢田さんからご挨拶をいただきます!」

 とびきり大きな声を切っ掛けに、職員達がばらばらと立ち上がる。

 聡司は大学時代、演劇サークルに属していた。だから、人前に立つのは比較的慣れている方だと自分では思っている。挨拶なんて劇の台詞を言うようなもんだ。言うことなんていつも一緒なんだし……、そう考えながら顔を上げた途端、驚きに息を呑んだ。まさか、と思い数回瞬きをする。

 視界の隅に、彼女がいた。

 先程、地下鉄の中で自分を助けてくれた女性。彼女は一瞬、こちらを見るが、すぐに露骨に目を逸らす。さっきもそうだったが、どうしてこんな冷たい態度をとられなくてはいけないのか。頭の中が疑問で一杯になり、今から自分が言うべき台詞も綺麗に吹っ飛ぶ。

「どうしたのかな? 緊張しすぎで声が出ない?」

 職員達から笑いが漏れた。

「い……、いえ!」

 掠れた声を必死に振り絞る。

「と、東実電器工業株式会社から参りました、矢田聡司と申します。い、一日も早く皆様の戦力になれるよう頑張りますので、ご指導のほど宜しくお願いします」

 深々と頭を下げると、どこか気のない拍手が起こる。一方であの女性は手を下に降ろしたまま、静かな怒りを湛えた目で、こちらを見つめていた。どうして彼女はそんな目で自分を見るのだろう。居心地の悪さがますます増していく。

「ありがとうございました。それじゃあ、次に周知事項がある人?」

「はい」

「鏑木さん、どうぞ」

 そして、山沢の問い掛けに応じて静かに手を挙げたのは、その女性だった。鏑木という名前を頭の中で繰り返す。

 彼女は手帳を手に前に出てくると、室内の全員を見渡しながら静かに、しかし、良く通る声で言った。

「先月の中旬より調査対象になっている、カナコ金属加工のベビーカー強度不足の件ですが、現在の状況を共有していただけませんでしょうか」

 途端、奇妙なことに室内の空気が張り詰めた。誰も何も言葉を発することなく、視線を俯かせている。

「確か本件、野堀主任の担当だったかと思いますが」

 ややあって、大きな溜め息が部屋の隅から聞こえた。

「……またその話かよ?」

 声の主は、頭をモヒカンにそり上げた、五十代前後の男性職員。件の野堀主任と思われるその男性がやや怒りを含んだ口調で言い、恐ろしく鋭い視線で鏑木を見据えた。

「先週、教えたよな? その件は調査中だって。そんなすぐに結論が出る話じゃないんだよ」

 突然の険悪な空気に、聡司は思わずたじろぐ。

 一方で、他の職員達を見ると、皆うんざりした顔をしていて、中には立ったままパソコンに向かって朝礼そっちのけで自分の仕事を始める人もいる。

「あーあ、また始まっちゃったぁ」

 と、すぐ近くからどこか気の抜けた女の子の声が聞こえた。声の主は聡司のすぐ右斜め前に立った小柄な職員。何故か両手にタブレット端末を一台ずつ持っている。

「でもまあ、自由闊達な議論が出来るのはよいことですよねー」

 男性向けのジャケットを着ているものの、顔付きはどう見ても女性だ。思わずじっと見ていたら、不意に目があってしまい、にっこりと微笑まれてしまう。ついでにタブレットを持ったまま、軽く手を横に振られてしまい、聡司は、はあ、と軽く会釈をする。

 そんな中、鏑木は野堀主任へと詰め寄った。

「調査中ということですが、調査開始から既に三週間近くが経っています。いくらなんでも遅すぎるのではないでしょうか。その間、生活センターの方には新たに四件の申告が入っています。その内容もシャフトの破損という一歩間違えれば人命に関わるものであり、構造的な欠陥があるものと見なして、速やかな対応が必要と考えます」

「あのなあ、四件という申告数は、他のメーカーと比べて突出して多いとは言えないぞ。そもそも、この件はあんたがネットの書き込みから拾ってきたもんだ。裏付け無しに便所の書き込みを鵜呑みにするわけにいかねーだろ?」

 見た目通りの柄の悪いしゃべり方に寒気を覚える。もしかすると元はヤが付く職業の人とかそういう人なのかも知れない。

 はす向かいの女性がそっと囁いた。

「ちなみに、あの人、刑事さんです。警察からの出向だって」

「…………」

 聡司は思わず言葉を失う。いや、刑事も極道も紙一重とは言うが……。

 応援とばかりに、隣にいた男性職員が口添えをした。

「あのさ、僕たち役所が製品名を名指しで公表するっていうのは、企業にとってもダメージが大きいの。行政訴訟でも起こされたら目も当てられないよ? 鏑木さんもそんなことくらいわかっているでしょ」

「まだそんなことを言っているんですか? 消費者省は、普通の役所とは違います。製品事故が多発しても、どこの省庁が扱うか決まらずに放置されてきたような事案を無くすために作られたのが消費者省ですよね? そんな私達がお役所仕事をやるわけにはいきません」

 鏑木に鋭い目線を向けられた男性職員が口を噤み、代わりに野堀が続けた。

「それは理想論だな。第一、これよりも優先度の高い案件は山ほどあんだ。今日の午後だって、俺はあんたの案件に付き合うわけだ。四ツ葉自動車の件もそうだし、どんだけこっちが迷惑しているか、わかっているんか?」

「では、手を抜けとそうおっしゃるわけですか?」

「はいはい、そこまで!」

 そのとき、手を打ち鳴らして、山沢が割り込んできた。

「新しく来られた方の前でみっともないですよ。まあ、誰が間違っているというわけではないと思うんだよね。小さな事案だと思っていたものが、大きな事件に発展することもあるし、そうならないこともある。とりあえず、野堀さん、この件はこまめに進捗を報告してくれるかしら? 私も注意してウォッチするから。鏑木さんもそれでいいでしょう?」

 鏑木は明らかに納得していない様子だったが、不承不承という感じで頷く。野堀主任を筆頭とする他の職員たちはげんなりした様子で互いに顔を見合わせている。なんだかやる気だけはある新人が一人で空回りしているような、そんな雰囲気だ。

 正直、聡司からしてみても、組織として人的リソースが無限にあるわけでは無い状況では、野堀の言うことの方が現実的で、あの女性――鏑木の言うことはやや理想論に近いように思えなくもない。

 一方で、一連のやりとりでなんとなくわかったことは、欠陥品を世に出したまま事実を公表しないような企業に対して、彼女が厳しい感情を抱いているということだ。それを前提に考えると、今朝、彼女と地下鉄駅で会ったとき、過去にリコール隠しをした東実の名刺を突き返してきた理由もなんとなくわかるような気がする。

 とはいえ、少し極端過ぎるような気もしないではないけど……。

「それじゃあ、今週も今日でおしまい! 各人、タスク管理は着実に行い、進捗が遅れている業務はそれぞれの上長に報告しておくこと」

 山沢がそう言って朝礼を締めると、職員達がばらばらと席につく。鏑木は聡司に一瞥すら投げることなく、自席に戻っていく。

 と、はす向かいの女性が聡司の腕を突っついてきた。

「鏑木さんはボクも近寄りがたいかなあ。矢田くん、頑張ってね。……あ、ボクは草壁凜。矢田くんと同じく民間からの出向組です。よろしくね」

 そう言って、手を差し出して来たので思わず握り返す。ひんやりと小さな手はどう考えても女の子のものだ。なんだか変な気分がする一方、最後の言葉に引っ掛かった。

「民間からの出向?」

「そ。システム会社。NDDデータシステムってとこ。そこでシステムエンジニアやってます」

 名前を聞いて少し戸惑う。大手企業や金融機関、官公庁の案件を一手に担っており、システム構築のゼネコンと呼ばれている会社だ。なんでそこのSEがここに来ているのだろうか?

「ボクも同じ民間組だし、困ったことがあったらなんでも聞いてよ。あと、まあ、いきなりあんなやりとりを見てびっくりしたかも知れないけど、皆、根はいい人達だから、安心していいよ」

「あ、ありがとうございます……」

「そんなかしこまらなくて、タメ語でいいよ?」

「う……、うん。ありがとう」

 少しだけほっとした。完全に外様の環境だと思っていたから、同じような立場の人がいるというのは多少、気が楽になる。

 聡司は草壁に頭を下げ、自分の席に向かおうとして、そこで、はたと気付く。

「あ、席……」

 困って草壁の方を見ると、

「……席?」

 彼女は一瞬首を傾げた後、すぐに手をポンと打ち、

「ああ。矢田くんの席だね。そうだよね。ええと、今朝配られた新しい座席表は確かさっきこの中に入れたような……」

 そう言いながら、デスクの上に五、六台以上積まれたタブレットのうちの一台を取り上げると、指で画面を横にスワイプしはじめる。というか、何故、彼女のデスクにはそんなに沢山のタブレットがあるんだろうか。

「あった! おお、ボクの真後ろだねー」

 そう言ってディスプレイ上の座席表を指で示した途端、聡司は凍り付いた。

 そこは鏑木の隣。

 固まった聡司に気付いたのか、草壁は右手をパタパタと上下に振りながらもう一度、さっきと同じ台詞を言った。

「大丈夫。本当はいい人だから! 多分!」

 覚悟を決めて席に赴くと、仏頂面で手帳を捲っていた鏑木に頭を下げる。

「改めまして、矢田と申します。どうぞよろしくお願いします」

 彼女は聡司を一瞥すると、無言のまま、再び手帳に視線を落とす。

 そして、聡司が椅子に座ると、彼女はおもむろに袖机の引き出しを開け、中から一本の赤いビニルテープを取り出す。続いて、デスク上に、ビビビッと、垂直にテープを貼り、その上にゆるキャラであるクマックマのぬいぐるみを聡司の側に向けて置いた。どうやらこれは境界線――ここから先の陣地へは侵入禁止というやつらしい。さしあたってクマックマは衛兵といったところか。

「打ち合わせに行ってきます」

 彼女はそう言って立ち上がると、書類の束を脇に抱え、足早に部屋の外へと出て行ってしまった。

 自分の顔から血の気が引いていくのがわかる。

 いい人、なんだろうか……?

 と、そこに再び山沢がやってきた。

「あ、言い忘れていた。それで、矢田さんは鏑木さんとパートナーを組んでもらうね。でもって、いきなりで大変だけど、午後一で現場に出てもらうから」

「パ、パートナー……? そ、それに、いきなり現場って、どういうことですか?」

 声が裏返った。いくらなんでも唐突すぎて、理解が追いつかない。

「うーん、最近、色々とルールを守っているかどうか怪しい食品メーカーへの立ち入り監査。詳しいことはこの書類に書いてあるので、ざっと目を通しておいてね」

 そう言いながらホチキス留めされた十数枚の書類を聡司に渡してきた。何故か、まるで鉄板を持ったかのような重みを感じる。

「あ、そうそう。あと、もう一つとっても重要な任務を忘れるところだった」

 山沢がどこか嬉しそうな表情で両手を重ね合わせる。

「はい……?」

「もし、あの子が暴走しそうになったら、羽交い締めにしてでも止めること。それじゃ、よろしくね」

 そう言いながら、自分の席へと戻っていく。

 ふと気付くと、部屋中の職員達の哀れむような視線が自分に向けられていた。草壁に至っては合掌までしている。聡司がこちらを見ていることに気が付くと、皆、視線を手元のPCに落とし、黙々と仕事を再開する。

 女性に対して羽交い締めなんて出来るわけがないじゃないか。いや、そもそもあの鏑木という女性は、羽交い締めをしなければいけないような人なのだろうか。加えて、この業務のいろはさえわかっていないのに、初日からあんな気難しそうな女性と組め、などと言われても……。

 懸命に溜め息を押し殺しながら席に着き、山沢から渡された書類を手に取る。

 表紙には、関係者外秘のスタンプとともに、『一共食品工業株式会社に関する監査の実施について』というタイトルが記され、中段に担当者名として、聡司の名前と並んで鏑木の名前が記されている。

 鏑木彩佳。

 瞬間、その字面に目が釘付けになった。

 ……彩佳……。

 あやか……?

 不意に今朝の夢が、今度ははっきりと脳裏に蘇ってきた。