前章――世界で一番のサニーサイドアップ


 この世で一番美しい目玉焼きを作ろうとしたのは、ぼくが七歳のとき。


 きっかけは、夏休みの家族旅行だった。

 行き先は長野県松本市美ヶ原高原で、宿泊先は父の友人が経営する寂れたペンション。ウッドデッキから、朝もやに包まれた深緑の山々が見下ろせた。

 そこで出された朝食は、自家製のライ麦パンとサラダと、まん丸い目玉焼き。

 素朴でなんの変哲もないメニュー。だけど眺めのいいウッドデッキに座って、夏の早朝の爽やかな空気の中、まばゆいお日様みたいな目玉焼きを家族で食べるのは、大人になったいまでも忘れられない想い出だ。

 いつもぼくは独りぼっちの食卓だった。

 仕事で多忙な父と母だから、ぼくが起きる前に出ていくか寝ているかのどちらかで、朝食も夕食も用意されていたけれど、テーブルの向かいにはいつも誰もいない。

 それが不満だったわけじゃない。

 小さいころからの習慣で、それが当たり前の生活なら、次第に慣れていく。

 でもやっぱり、ぼくにはあの旅行が、三人で囲んだ食卓が嬉しかった。

 真っ白な皿に草原の緑のようなサラダを添えた、黄金の太陽を思わせる目玉焼きが、幼いぼくにとって理想の朝食になった。


 帰宅した翌日から、目玉焼きを練習し始めた。

 フライパンの熱し加減、卵を落とす高さ、焼き時間に火加減、半熟かそうでないか、かけるのはソースか醤油か塩胡椒か。焼くときも皿に載せるときも、黄身がどうしたら綺麗に真ん中にくるかどうかも研究した。

 三人の食卓に、世界一美しい目玉焼きを載せよう。

 朝の空にふさわしい、輝くような目玉焼きを白く大きな皿に載せよう。

 そう願って毎日毎朝毎晩、一人きりで練習した。

 何百個もの卵を使い、つぶれたり焦げたりした失敗作を自分で食べ続けたあげく、冬のとある朝にやっと理想に近い目玉焼きがたった一つだけ、できた。

 ドキドキしつつ食パンを焼き、ちぎったパリパリのレタスと一緒に皿に載せたあと、寝ていた父と母を一生懸命起こして、寝ぼけ眼の二人を導いた。

 ぽつんと中央に、目玉焼きとトーストのお皿だけが載ったテーブルに。

 いま考えると滑稽な眺めだと思う。でも父と母は、それを見てふわっと顔をほころばせてこういってくれた。

『綺麗なサニーサイドアップね』

『あのペンションで食べたのとそっくりだな』

 分かってもらえるだろうか。

 そのときのぼくの、胸が破裂しそうな嬉しさを。


 いまではあのペンションはなくなってしまったと聞いた。

 もう二度と、見晴らしのいいウッドデッキから朝もやに包まれた山々を眺めることも、あんな風に森の匂いがする空気を胸いっぱいに吸うことも、美しく輝く目玉焼きを父と母と一緒に食べることも、叶わなくなってしまった。

 旅先の眺めも、旅先のおいしさも、一期一会。だからこそ、だれかと一緒においしさと楽しさを分かち合う喜びが大切で、得がたいものだと知った。

 すべてが二度とない、忘れられない巡り合わせ。

 それが、ぼくが抱く〝旅〟と〝食卓〟のテーマだ。



 第一章 とろける金色の甘煮……東京都練馬区



 玄関を開けるとすぐそこに、ジャージ女子が立っていた。

「風来軒さん、お休みなんですか」

 失礼ながら、ぼくはしげしげと目の前の見知らぬ女子を眺めてしまう。

 童顔のボブカット。着ているのは埃っぽいエンジ色のジャージ。

 両手に泥付きのさつま芋が入ったビニール袋を下げ、背中の登山用リュックにも、芋を満載している。ジャージといい、ビニール袋といい、若い女子には無骨なリュックといい、どれもが垢抜けなさに拍車をかけていた。

「すみません、風来軒は事情があって休業中です。このまま、閉めるかと」

 ぼく、こと早坂颯汰は頭をかいて答えた。

「えっ。そんな、ど、どういう理由で? だって、だってあの」

 ジャージ女子はつぶらな瞳を大きく開くと、いきなりわっとしゃべり始めた。

「わたし、桜ノ宮ひよりっていいます。この近くに住んでる大学生で、風来軒さんのご飯が大好きなんです。おいしいものを食べるのと旅行が趣味で、月に一度はおいしいご飯を食べに旅へ、っていま関係ないですよね、それで最近、九州のほうへ旅行に行ってて、メインの目的がさつま芋掘りだったんですけれど」

 見ればわかるよ、との言葉を呑み込む。しかしよくしゃべる子だなあ。

「マスターに約束したんです。おいしいさつま芋持って帰ってきますから、ぜひそれを使ったメニューを出してくださいって。だから掘れるだけ掘ってきたんです」

 桜ノ宮ひよりと名乗った女子は、ぼくの背後をうかがうように尋ねた。

「それで、マスターはどちらですか」

「マスター、というか父は……早坂源太は」

 一瞬、言葉が舌の上で止まる。

「……心筋梗塞で亡くなりました。告別式は昨日でした」

 ばさり、と彼女の手からビニール袋が落ちて、地面に芋がばらまかれる。背中のリュックからも、ころんとひとつ芋が落ちて転がった。それがあまりにいいタイミングでとても滑稽で、だけどそんなコミカルさが逆にもの悲しくもなった。

「よかったら、焼香してやってください」


   ★


 春には満開の桜がつづく石神井川沿いに、風来軒はある。

 小さな古い木造民家を改造した、ささやかな佇まい。緑の葉が茂る桜の木陰で、昭和年代の建造物らしい低い軒先に「風来軒」と染め抜いた赤い暖簾を掲げ、入り口は曇りガラスの木の引き戸。いかにも街の食堂な外見だ。

 からからと引き戸を開ければ、こぢんまりした店内が現れる。客席は、四人掛けの古い木製テーブル三つと、飴色に磨かれた木材のカウンターのみ。

 そして、煤けた板壁に貼られたメニューはわずか三つ。

「日替わり定食」「季節の定食」「酒のつまみ」

 そんなそっけなさとは裏腹に、安さと日毎に変わる定食に惹かれてか、暇を持て余した近所の老人たちが常連として毎日たむろして、小さな住宅街の小さな食堂は、ささやかながらも繁盛していたようだ。

 けれど、ぼくはその光景を知らない。

 十年前に両親が離婚して以来、父とはほぼ音信不通だったから。


「すみません、勝手に裏口へ回ってしまって」

 薄暗い居間の父の遺影の前で、ぼくとジャージ女子は向き合っていた。

 線香の匂いがふわふわと頼りなく辺りにただよっている。真新しい仏壇と、生真面目な表情の父の遺影と、部屋の隅っこに置かれたさつま芋を満載した袋とリュックが珍妙な取り合わせだった。

 桜ノ宮ひよりさんは、ぼんやりとした声と瞳で、ぽつぽつと語った。

「今日はお休みの日じゃないのに閉まってるから、おかしいなと思ったんです」

 突然の父の死から告別式まで間がなくて、準備中の札を下げて放っておいたのだ。「店主急逝につき、当面休業」とでも貼り紙しておけばよかっただろうか。

 でも、近所の常連はみな父の死を知っている。よそ者のぼくよりも、店に入り浸っていた彼らのほうがずっと父のすべてにくわしかった。葬儀の手配も、家の片づけや客の応対もしてくれて、ぼくは喪主としてのあいさつくらいしかしていない。

 だからそんな気を回す必要もないかと思ったのだ。

「わたし、すぐ裏手の道に入って三つ目の角を通り過ぎたところにあるコーポで一人暮らししてるんです。いま大学三年で、……って、さっきいいましたけど」

「実は、この界隈に来たのは初めてなんですよ。スマホの地図アプリを使っても迷ったくらいです。わざわざ来てくれてありがとう、桜ノ宮さん」

「ひよりでいいです。マスターも、ひよりちゃんって呼んでくれまし……」

 ふいに、はた、という小さな音がした。

 見ればひよりさんは深くうなだれて、肩をふるわせている。

「すみ、ません。わたし、わたし、ほんとにマスターのご飯が大好きだっ……ぅ」

 膝に置いた彼女の手の甲に、はたり、と涙が落ちた。

 そのまま、ひよりさんは静かに泣いた。身をふるわせて、ひく、ひく、と。静かだけれど、まるで子どものように。さつま芋で衝撃を受けたし、奔流みたいなしゃべり方にも驚いたけれど、彼女の誠実さと純粋さは、そんな泣き方に表れている。

 ぼくはちゃぶ台に載っていたティッシュの箱を差し出し、腰を浮かせた。

「お茶でも淹れます」

「え、いえ、おかまいなく」

 ず、と鼻をすすりながらひよりさんは引き留めるが、ぼくは「いいから」といって居間の隣の台所へと向かった。

 綺麗に片付いた台所は簡素で狭かった。コンロは一台、流しも小さい。

 冷蔵庫はぼくの胸元までの高さしかない。食器棚も冷蔵庫の上に載せたガラス引き戸の小さなものだけ。電子レンジやトースターもなかった。一階部分が店で、生活空間は二階しかないから、すべてをコンパクトに押し込めたようだ。

 ミニ食器棚からひとつしかない湯呑みを取り出す。模様もなにもない小ぶりの湯呑みは、手に取るとひやりとしていた。それから茶の葉を探して、ぼくの目はさまよう。離れて暮らしていれば父といえど他人に思えて、こうして勝手に探るのはプライバシーに踏み込むようでためらわれた。

 たとえ、もういない人だとしても。

 ぼくは冷たいのだろうか。常連の老人たちや、ひよりさんのように、他人なのに親身になって、その死に涙することもないなんて。

 目に付く場所に茶の葉はなくて、ぼくは流しの上の棚を開ける。

「わっ?」

 扉を開けたとたんヤカンが転がり落ちて、床でガランガランと派手な音を立てた。ついでに開封済みのお茶の袋も落ちたかと思うと、口が開いて茶の葉がばらまかれ、床はたちまち緑に染まる。

「だっ、だいじょうぶですか?」

 ひよりさんが涙で濡れた顔を出す。

「ごめん、この家の台所には足を踏み入れたことなくて」

「掃くもの、どこかにあるか探してきます」

 ひよりさんは顔を引っ込めた。ぱたぱたという足音がたちまち遠ざかる。

「玄関脇の棚にありました」

 すぐにひよりさんは戻ってきて、ぼくに箒とチリトリを差し出す。

「ありがとう。お客様に雑用をさせて申し訳ない」

「そんなこと。マスターって、ほんとに綺麗に片づけてたんですね。無駄な物はなにもないし、お店も古いですけど、きちんと掃除してらしたし。あれ」

 ひよりさんは台所を見回したかと思うと、つと目を止めた。

「マスター、亡くなる前になにか作ってらしたんでしょうか」

「ん? なぜ」

「鍋と菜箸だけ、水切りカゴに入ったままですから」

 ぼくは流しの横に目をやる。たしかにプラスチックの水切りカゴに、ぽつんと片手鍋と菜箸だけが入っていた。木製の落とし蓋も、一緒に。

「こんなに片付いているのに、鍋だけ出ているの、不思議ですね」

「本当だ」

 たしかに違和感があった。

「店じゃなくてこの台所で、父は自分の食事を作っていたのかな」

「一緒に暮らしてなかったんですか。早坂……さんは」

「ぼくのことも颯汰でいいよ。まあ、色々あってね。父は、ぼく……家族や身内のことはなにも話さなかった?」

「はい。マスターはみんなの話を聞いてくれるけれど、ご自分のことはまったく」

 寂しい気持ちが湧き上がる。身勝手な話だった。ぼくのほうこそ、この八年間まったく父と連絡を取り合うことなく暮らしてきたのに。

「ひよりさんは、ご家族と?」

「いえ、実家は静岡です。進学で帰京して一人暮らしです。田舎の大家族の農家で、親戚もよく来てて、いつも誰かしらわいわい人がいて、だからいまワンルームなのにすごく広く感じちゃって」

「それは寂しいね」

「でも、大学のみんなもそうしてますから。泣き言いってちゃ、ダメですよね」

 なんだかぼくはおかしくなってきた。

 初対面の女の子と、狭い台所で茶の葉を片づけつつ身の上話なんて。

「やっぱり、変ですよねえ」

 ひよりさんは、チリトリに集めた茶の葉をゴミ袋に空けながらつぶやいた。

「マスターが最期にここで作ったものが、どこにもないのが」

「冷蔵庫に入ってるんじゃないかな」

 変なことを気にするんだな、とぼくは冷蔵庫を開けてみる。

 ところが故障しているらしく庫内は暗かった。そういえば駆動音もしていない。もちろん中には目ぼしい食材も、料理らしいものもない。

「故障中か。だったら、もう食べてしまったのかもしれないよ」

「でも、この台所の綺麗さとマスターの性格からして、洗ったお鍋を水切りカゴに入れっぱなしにしておくとも思えなくて。それに食べたあとの食器もありませんし、鍋がそのままなら食器だって洗ったままじゃないでしょうか」

「なるほど。たしかに生ゴミも出てないみたいだ」

 父の几帳面さにぼくは少なからず驚く。ここまで徹底的に綺麗にしているのは、体の不調の予兆があったのだろうか。一人暮らしで、すぐに手を差し伸べる家族がいないから、なにかあっても迷惑をかけないようにしていたのかもしれない。

「こんなことおうかがいするのも、申し訳ないんですけど」

 遠慮がちにひよりさんは尋ねてきた。

「マスターはどんな風に亡くなられたんですか。自宅で倒れてらしたんですか」

「いや、店の前で倒れてたんだ」

 病院から連絡があったのは、四日前の深夜。父の胸ポケットに入っていた携帯電話からだった。緊急時のために番号と住所は教えておいたものの、これまで連絡は皆無だった。だから画面に表示された着信相手の名前に少なからず驚いたのだ。

 もちろん、もっと驚いて途方に暮れることを告げられたのだが。

「十月にしては急な冷え込みの夜だった。店は川沿いの道に面しているから、通行人が見つけてくれたそうだけど、倒れて少し時間が経っていたらしい」

 わずかでも、救命が間に合わなくなるには充分な時間が。

「じゃあ、料理を終えてから外に出られたんですね。ううーん、だったらマスターが作ったものはいったいどこにいってしまったんでしょう」

「よっぽど父の最期の料理に興味があるみたいだね」

「え、あの、いやしんぼで恥ずかしいんですけど」

 頬を真っ赤にして、ひよりさんは答えた。

「マスターの作るご飯、大好きだったんです。旅先でもおいしいものはいっぱい食べましたけど、おいしければおいしいほど、風来軒を思い出してしまって。東京に戻ったら、真っ先に風来軒に行こうって……。だから、もう二度とマスターのご飯が食べられないなんて、って思ったら……」

 ひよりさんはうつむく。髪留めで留めていた前髪が一房、はらりと落ちた。

 そういう姿にまた言葉が出ない。哀しみすら覚えない息子のぼくよりも、ずっと父の死を悼んでくれて、惜しんでくれるひとがいるのだ。

「じゃあ、探そう」

「えっ」

「そこまでいってくれる人に、きっと父は自分の作ったものを食べて欲しかったはずだ。この店を開くのがずっと夢だった人だから」

 ひよりさんはぼくをじっと見つめる。

「笑われそうですけど、わたし、変な特技があるんです」

「どんな?」

「一度食べた味は、ぜったいに忘れないんですよ。あっ、もちろん、覚えておこう! って決めた味だけですけどね。あとは群を抜いておいしかったとか」

「群を抜いて、不味かったとかも?」

「はい。でも、たいがいのものはおいしく食べられる自信があります。だから」

 ひよりさんの瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。

「……もし叶うなら、マスターの最期の味を覚えておきたいんです」


 階下に降りて、店の業務用冷蔵庫を調べた。

 冷蔵室には目に付くものはなく、調味料が大半だった。残り物があるかと思ったけれど、よく考えたらそういうものは食中毒対策で毎日廃棄するはずだ。

 下段の野菜室には下処理をほどこした野菜類のみ。冷凍室にもいくらかの肉や魚が入っているだけだ。調理済みの料理は見あたらない。水切りカゴの片手鍋の大きさからすれば、できあがった料理の量はさほどではない。なにかに入れて保存するにしても、容器自体はきっと大きいものではない。

 ぼくは困惑して、狭い店内をぐるりと見回す。

 すると、壁に貼られた簡素なメニュー表が目に付いた。

「ずいぶんシンプルなメニューだなあ。三つだけなんて」

「そうですね。マスター、旬の新鮮な食材しか使わなかったから」

 ひよりさんがぼくの隣に立って壁を見上げる。

「この辺りってまだ畑をやってる農家が多くて、そこと契約して新鮮な野菜を買い付けてたそうなんです。肉や魚は毎朝早く車で市場に行って仕入れて、その日のうちに使い切るんだとか。だから無駄なメニューは作らなかったみたいですね」

「そういえば店の外で倒れていたのは、店の戸締まりのためかな」

「亡くなられたのは、何曜日ですか」

「今日が金曜日……月曜日だね」

「月曜はお休みです。臨時に開けていなければ、ですけれど」

「じゃあ、どこかへ出かけようとしていたのかな」

「あるいは、帰ってきたところかも」

 ぼくらはそろって顔を見合わせる。

「やっぱり、風来軒の常連さんに訊いてみませんか」

「というと?」

「常連さんたちのほうが、マスターの生活ぶりにくわしいかと思って。ご近所の方ばかりですし、毎日の行動パターンもご存じかも」

 なるほど、とぼくはうなずく。

 葬儀のときはあわただしくて、話もろくにできなかった。落ち着いてから改めてお礼のあいさつをしに行こうと思っていたけれど、いい機会かもしれない。

「ひよりさんは、その常連さんの家がすぐわかる?」

「はい。頻繁に通ってらした五、六名の方なら」

 善は急げ。というか、これが善かどうかは定かじゃなかったけれど、少なくともひよりさんにとっては善いことだといい。

「あいさつ用の手土産を買ってくるよ。待っててくれるかな」

「でしたら、わたしが採ってきたさつま芋を、ぜひ!」

 たしかに、ぼく一人じゃ消化できない量だ。

 というわけでありがたくさつま芋を受け取り、常連さんたちを訪ねることにする。ぼくがリュックを背負い、ひよりさんは両手にビニール袋。これじゃいまどき、資料写真で見た戦時中の買い出しみたいだ。

 家の戸締まりをして、外へ出る。十月の秋風は少し肌寒かった。九月の残暑がうそみたいに、桜並木の梢を通して降ってくる日差しはやわらかかった。

「まず一番近い、増岡さんにしましょうか」

 増岡さん、というお宅は店の裏手にあった。まだ真新しい家だった。

「うちのお祖母ちゃんに?」

 出迎えてくれたのはその家の奥さんだった。家の中は新しく明るかったが、ごたごたした生活感もあって、なにもないほど片づいた父の家とつい比較してしまう。

「はい。葬儀のときにお世話になったので、ごあいさつと……あと、お話が」

「ああ、そう。お祖母ちゃん、すっかり気落ちしててねえ。ほとんど毎晩のように風来軒さんに通っていたから」

「誰が気落ちしてるんだい」

 いきなりガラガラ声が背後から響いた。

 振り返ると、泥のついた野良着姿のお婆さんが立っている。陽に焼けた顔は厳つくて一瞬たじろぐが、そういえば葬儀で言葉をかわした人だと思い出した。

「お義母さん。風来軒のマスターの息子さんですって」

「葬儀で会ったから知ってるよ。おや、ひよりちゃん」

 厳つい顔が少し和らぐ。ひよりさんがぺこりと頭を下げた。

「帰ってたのかい。それじゃ源太さんのことは」

「はい、藤乃さん。さっき、ご焼香させていただいたばかりです」

「急なことだったからね、アタシたちも驚いた……それでなんの用だね」

「実は、風来軒の常連さんにおうかがいしたいことがあって」

 と、ひよりさんがいったところで奥さんが口を挟む。

「お義母さん、玄関先じゃなんですから上がっていただきますか。でも、もうすぐ子どもたちが学校から帰ってきますけど」

「ああ、いいよいいよ。風来軒の常連に話が聞きたいってんなら、拓蔵さんとこへ行くさ。ちょっとスマホ取ってくるよ。よっこらしょ」

「お義母さん、何度もいいますけど泥の付いた野良着で上がらないでください」

「はいはい、悪いけど拭いといとくれ」

 地下足袋を無造作に脱ぎ捨て、綺麗に磨かれた廊下に砂埃を落としながら、藤乃さんはどかどかと足音高く奥へ歩いていく。それを見送る奥さんが吐息した。

 ぼくとひよりさんが戸惑うあいだに、またドタドタと足音がして藤乃さんが戻ってきた。やっぱり廊下に白い足跡をつけて。

「ほら、行くよ」

 汚れた地下足袋に無理矢理足を押し込めて、藤乃さんはさっさと玄関を出ていく。あわててぼくとひよりさんも奥さんに頭を下げて外に出た。

 後ろから盛大なため息が追いかけてきた。


「悪いね。家でもてなせなくて」

「いえ、押しかけたのはこちらですから」

 ぼくとひよりさんは藤乃さんについていく。高齢に見えるが、話しぶりといい動作といいきびきびしていて、衰えなんかまったく見えなかった。

「拓蔵さん、告別式であいさつした覚えがありますけど、どんな方です」

「アタシが借りてる畑を管理してる農家のじじいさ」

「豪快で面白い方ですよ。あっ、しまった」

 ひよりさんは芋の袋を見下ろした。

「手土産、奥さんにお渡しするの忘れちゃいました。どうしよう」

「ハハハ、芋ならアタシの畑でも採れるのに。まあ、はるばる九州まで行って掘ってきたんなら、ありがたくもらおうかね」

「じゃあ、拓蔵さんのところで山分けしましょう」

 慣れ親しんだ口調で二人は会話をかわす。手持ちぶさた気味に、ぼくはリュックをよいしょと揺すり上げた。

 拓蔵さんの家は石神井川沿いを少し下った場所だった。

 大きな敷地をぐるりと淡い色の壁が取り巻いている。ちょっとしたアパート並みの広さだ。セコムのシールが貼られた屋根付き門の表札の名前は『斎藤拓蔵』。

「農家のじじい……そうか、地主さんか」

 ぼくが呆然とつぶやくと、ひよりさんがさらっと答える。

「斎藤家ってこの辺り一帯の大地主さんなんですよ。たくさんの賃貸マンションやアパートを経営されてるんです」

「アタシだよ。IM(インスタントメッセンジャー)で連絡しただろ、開けとくれ」

 藤乃さんがインターホンに呼びかけると、

『アタシじゃわからん』

 渋い大きな声が返ってきて、門を閉ざす格子戸がすっと横に開いた。

 堂々と中へ進む藤乃さんと、軽い足取りでつづくひよりさんの後ろから、ぼくはおっかなびっくり足を踏み入れた。そして……目を剥いた。

 まず目につくのが、真っ白な壁の三階建て近代住宅。

 その邸宅の前には枯山水庭園。敷き詰めた真っ白な砂に見事な模様を描き、水面を表す作りだ。ところが近くには、橋のかかった緑の池。ちょっとのぞいたら案の定鯉が泳いでいる。枯山水に池ってどういうことだろう。

 邸宅の脇には大きな納屋。シャッターは開いていて、巨大トラクターと軽トラックと耕運機が駐車しているのが見えた。こういうところばかりは農家らしいが、庭の風情とはやっぱりそぐわない。全体的にちぐはぐな構成過ぎて、いかにも金にあかせて建てました、といったデザインである。

「相変わらず趣味の悪い家だねえ」

 藤乃さんは一言でいってのけて、玄関の頑丈そうな金属ドアのノブを引いた。

「上がるよ」

「相変わらず『ごめんください』もいわんのだな」

 開けた先には、偉そうに腕組みをした白髪の老人が立っていた。

 渋い風合いの作務衣を着て、太い白眉を厳しく吊り上げている。佇まいも眼光も貫禄があった。どうやらこの老人が斎藤拓蔵さんのようだ。

「ごめんください、をいいたくなるような家じゃないからねえ」

 藤乃さんは悪びれもせずにいうと、自分の家のようにずかずかと上がり込む。その後ろで、ぼくは呆然と玄関先で邸宅内を見回した。

 外観以上に、内部は混沌としていた。入ってすぐの壁際に、見上げるほどの信楽焼の狸。その隣の飾り棚には、お約束の木彫りの熊。

 熊以外にも、こけし、しゃもじ、さるぼぼ……日本全国の民芸品が一堂に並んで、観光地の土産物屋のようだ。いや、土産物屋のほうがもっと秩序立っている。

 とりあえずこれだけあって、埃は溜まっていないのを見ると、掃除はきちんとしているらしい。この渋い老人が、熊やしゃもじやこけしをひとつひとつ手にとって拭いているのかと思うと、厳つさが和らぐ気がした。

 奥に目をやると、大きな廊下が真正面を貫くように走っている。

 行き止まりは、緑の裏庭を臨む枯山水の小さな坪庭。長い廊下の両側には襖が並んでいて、部屋数はどれだけなのか見当もつかない。

「拓蔵さん、普段からいってるけどね、がらくたはとっとと片付けな」

 藤乃さんが容赦なくいった。

「火葬のときにこの全部を一緒に燃やしてもらうつもりかい」

「うるっせえ。みんな、死んだあれの形見なんだよ」

「かーっ、墓に入るまで惚気が止まらないようだね」

 などとやっていると、ふいに手前の部屋の襖が開いた。

「ええっ!?」

 襖のあいだから、ずらっと縦にご老人方の顔が一斉に並んだ。

「おお、源太さんとこの息子さんだったかね」

「ひよりちゃんの彼氏かと思ったよ」

「このたびはご愁傷様なことでした」

 ぼくとひよりさんを交互に見比べて、ご老人方はさんざめいた。

「とっとと上がれや」

 源太さんがぼくたちに向かって乱暴に手を振る。

 あわててお辞儀もそこそこに、ぼくとひよりさんは靴をそろえて上がった。

 招かれた座敷は十畳ほどもあって、ぼくが住むワンルームよりずっと広い。老人方は座卓を囲み、分厚い座布団に腰を下ろして、ぼくらに注目している。

「なんだかね、風来軒の常連に話が聞きたいんだとさ」

 藤乃さんが腰を下ろしつつ、座卓の上の上用饅頭をつかんだ。

「式の最中はごたごたしとったから、顔も名前もろくに覚えておらんだろう。ここにいる六人が、風来軒の一番の常連だった。ひととおり教えてやろう」

 といって拓蔵さんは、藤乃さん以外を紹介してくれた。

 最初に田中義之さん。貫禄ある体つきで、豆腐屋を営んでいるとか。

 次に大村敬二さん。痩せぎすで背が高くて自転車屋とのこと。

 井辻信一さん。好々爺という形容がぴったりなご隠居。

 松山豊子さん。おっとりして小柄な、一人暮らしのご老人。

 ぼくは正座し、皆さんに葬儀に来てくれたことへの礼を述べると、父の最期の料理を探していると話を切り出した。ぼくが説明するあいだ、ひよりさんは拓蔵さんから新聞紙をもらってさつま芋を分ける。乾いた土の匂いが座敷に広がった。

「というわけで、亡くなった日の、父の行動を知りたいんです」

「源太さんの一日の行動ねえ」

 ご老人一同、首をひねる。まず拓蔵さんが口を開いた。

「その日は休業日だったな。前々日の朝にはおれんとこに野菜を取りに来たが」

「どんな野菜を?」

 ぼくの問いに、拓蔵さんは節くれ立った指を折る。

「蕪だろ、里芋。山椒は終わりかけだからぜんぶ渡した。ツルムラサキもだ。カボチャは今年はやっとらんから……ああ、あとはさつま芋だな」

「え……マスター、さつま芋を仕入れていかれたんですか」

 心なしか、ひよりさんは肩を落とす。なんとなく気になって声をかけようとしたとき、藤乃さんが話をかぶせた。

「風来軒が開くのは昼から。閉まるのは常連の入りでまちまちだったけど、だいたいは夜中の十時くらいだったよ。だから店がある日の昼から夜までの源太さんの行動はわかるがね、休みの日のことはわからないねえ」

「昼から、夜の十時まで、ですか」

 それでは寝る時間はほとんどなかったのではないだろうか。早朝に仕入れ、昼までに仕込み、客が来てからは調理に後片付け、掃除だって必要なはずだ。どう考えても一日中、昼も夜もなく働きづめだったにちがいない。

「風来軒さんは居心地がよかったなあ」

 恰幅のいい老人、田中義之さんがつぶやいた。

「うん、うん。なにをするわけでもなかったがね」

 痩せた大村敬二さんが、大きくうなずく。

「源太さんが出してくれる季節の美味いものつまんで、だらだらと話をしてな」

 好々爺そのものの井辻信一さんが、優しい笑みで語る。

「もう、風来軒のご飯が食べられないなんてねえ」

 おっとりした松山豊子さんが、ぼそぼそとしゃべった。

「源太さんの料理はさ……〝人〟として生きていくためのご飯だったよ」

 藤乃さんがしみじみとした声でいうと、拓蔵さんがあとをついだ。

「スーパーでもコンビニでも、金さえ出しゃあいくらだって食い物は手に入る。出来合いを買うのは悪いことじゃない。経済はそれで回ってんだからさ。ただな、そんな風にただ生命をつなぐだけじゃあ、人間は乾いていっちまうんだ」

「乾いて……」

「そうさ。人間の暮らしってなぁ、そうそう代わり映えはせん。毎日同じことを繰り返して、あくせく働いて、疲れ果てて寝る。そういう、判で押したみたいに単調な日々を支えてくれるなにかが、必要なんだ」

「贅沢とか、余裕とか、娯楽とか、ですか」

「一言でいっちまえばな。だが一言じゃ足りない色々がある」

 拓蔵さんは座椅子にもたれ、膝の上に置いた指を握り合わせる。

「おれなんざ家じゃあ話す相手もいない。テレビをつけてもどこかに出かけても、目にするもの耳にするもの、みんな上っ面を通りすぎていく。風来軒の料理は……そんなおれの毎日を支えてくれる糧だったよ」

 遠い声音に、ぼくは沈黙する。

「源太さん手作りのひりょうずは、よかったなあ」

 豆腐屋の義之さんが、ぽつんといった。ぼくは訊き返す。

「ひりょうず?」

「がんもどきさあ。わしんとこの豆腐を使ってな、裏ごししてひじきや人参を混ぜて揚げるんだ。不思議なコクがあって、滑らかな舌触りでなあ」

「わしは茄子のしぎ焼きだねえ」

 自転車屋の敬二さんがほうと息をつく。

「義之さんとこの豆腐を丸茄子に詰めてな、味噌を載せて焼く逸品だ。とろとろになった茄子と熱々の豆腐に、甘い味噌が絡んでね。出来立てをふうふうしながら食べたときは、こんな贅沢はないと思ったさ」

「ぼくは金目鯛の淡煮でしたよ」

 信一さんが手にした湯呑みを見つめる。

「魚の煮付けといったら濃い味付けが定番なのに、淡白であっさりしていて、それなのに物足りなくない。丁寧な下味をつけてあったんでしょう。箸でつまんで口に入れると、身がほろりと崩れましてね」

「アタシは厚焼き玉子だねえ」

 藤乃さんが舌なめずりせんばかりにいった。

「分厚いのに、ふんわりふっくらしててさ。ほんのりついた淡い焼き色が、綺麗な層になって重なって、見た目からしておいしそうだった。そうして不思議な甘さがあるんだよ。砂糖とはちがう、舌に優しい甘さだったねえ」

「わたしはえび芋とトコブシの炊き合わせね。でも……どんな味だったかしら」

 豊子さんがそういって首をかしげると、藤乃さんが突っ込んだ。

「なんだい。しっかりしな、豊子さん」

「駄目ねえ、すっかり物覚えが悪くなってしまって。老人に優しい薄味で、口にしたときなぜか懐かしい気がしたのは覚えてますよ」

「そうなんです、懐かしい味がするんです」

 ひよりさんが勢い込んで身を乗り出した。

「わたしは、ご飯ものがとっても好きでした。春先の油揚げと竹の子がいっぱい入ったご飯や、旬の香りいっぱいの豆ご飯。刻んだ水菜の浅漬けとほぐした蟹の身を入れた水菜と蟹の炊き込みご飯や、色んな種類のキノコを入れたキノコご飯。それと、アサリとネギの味噌汁をかけた深川飯!」

 胃の辺りが小さくぐうと鳴って、ぼくはあわてて腹に力を込める。

 なんだなんだ、思わぬところで飯テロじゃないか。

「本当に、家で食べるご飯みたいで懐かしい気がしました。いえ、家であんなおいしいものとか珍しいものとか、食べてたわけじゃないんですけど」

 ふいにひよりさんの勢いがしぼんだ。彼女は両手を広げ、差し出し、目の前の見えない食卓を指し示すみたいにして、想いを込めた声音で語った。

「お客に出す料理というより、家族に出すご飯みたいな気がしたんです。〝わたしたち〟自身に向けてのご飯だって」

 その場はまた静まる。亡き父の味を思い返しての、親密さに満ちた悼みだった。

「風来軒にはね、アタシらの居場所があったよ」

 藤乃さんの声が静けさに響く。

「べつに家に居場所がないわけじゃないさ。だれかに冷たく当たられてるわけじゃないし、そこそこ上手くやれてるよ。けどね、もうあそこはアタシの家じゃない気がしてしまうんだよ。寝るためだけの場所というのかさ」

 ぼくは先ほど見た、藤乃さんのお宅での光景を思い返した。

 廊下に砂をまき散らす姑さんへのため息。自分を訪れた客をもてなすのもままならない生活。かいま見えた一瞬で、色々な想像が浮かぶ。

 といって、双方に思いやりがないのではない。

 ただ、ちょっとしたすれ違いとぎこちなさと、思うがままにならないためのわずかな苛立ちがあるだけなのだ。そんな積もり積もったものを逃すための時間や場所が、人間には必要なのかもしれない。

 もしかしたら、父もそうだったのだろうか。

 多忙で、家族とろくに顔を合わせないまま日々が過ぎていって、といって仕事だけに生き甲斐を求めるのでは足りず、積もりゆくなにかが。それをなぜ、ぼくや母でなく外に求めたのか。すでに亡い人のことだから怒りよりもやるせなさが募った。

「颯太さん、だったかね」

 拓蔵さんが目を上げた。

「あんたにとって、源太さんはどんな人だったんだい」

「どんな……」

「離れて暮らしていたようだが」

 答えられなかった。ぼくが知る父の姿は、拓蔵さんたちのように、敬愛と懐かしさと、慕わしさで語られるものではない。追悼の場にふさわしいものでもない。

 だから黙っていた。黙っているしかなかった。

〝血縁〟の意味、〝家族〟の意味を、考えながら。


「結局、よくわかりませんでしたね」

 拓蔵さんの邸宅を辞して、ぼくとひよりさんは並んで歩いていた。

「マスターの作った料理、どこに行っちゃったのかなあ」

 空はやや翳り始めていた。秋の陽は突き落とすみたいにすぐにも落っこちてしまう。そう思うあいだも、夕闇は足元からゆっくりと深まっていく。

「実は……ぼくは、父の作った料理を食べた覚えがないんだ」

「え!? ど、どうしてですか」

「そうだね……まず、両親はとにかく仕事で多忙だったんだ」

 驚くひよりさんに、ぼくは語り出す。語るつもりなんかぜんぜんなかったのに。

 朝が早い母が食事を用意してくれて、それを一人で食べた。だが父はいつも帰宅が深夜を回り、顔を合わせるのも少なかった。だから料理を作る姿など見たこともなかった。父がひそかに抱く望みなど、知るすべもなかったことを……。

「高校合格が決まったのをきっかけにして、父と母が離婚したんだ。母に引き取られて、父が家を出て、それからまったく会っていなかった」

「どうして離婚を……と訊いたらいけないでしょうか」

「父が、どうしても食堂を開きたいといったからだよ」

 ひよりさんが鋭く息を吸う音がした。

 ぼくはかまわず淡々とつづけた。語り出せば止まらなかった。

「そのとき父は四十二歳だった。ぼくらの前で土下座して、いまでなきゃ駄目だ、このままなら夢を腐らせたまま人生が終わってしまう、仕事をやめて店を開くのを許してくれと頼んできた。そんな姿をいままで見せたことがなかったのに」

「そう……だったんですか」

「もちろん、母は大反対した。一人息子のぼくはまだ高校入学前だ。それなのに親としての責任も果たさず、先の見えない客商売を始めるのかと。だけど結局、父はどんなに反対されても店を持つ夢は譲らなかった。母は身勝手さに巻き込まれるのはごめんだと離婚の意志を示して、父もそれを受け入れた」

 思い出すと鼻の奥が痛くなる。八年も経つのに、やはりまだ辛いのだ。

 父が――ぼくたちを選ばなかったことを。

「そのときぼくは十五歳だった。自分で自分の行き先を選べる歳でもなかった。父の夢を理解できる力も、母の心情をうまく酌む力もなにもなかった。ただ、父に捨てられたんだなと思っただけだった」

 寡黙な父だった。質素でなにも欲しがらない人だった。

 メーカー勤務で、それほど高収入でもなかったのに、ぼくを養いつつどうやって開店資金を貯めたのか。おそらく店を持つ夢以外のすべてを犠牲にしたのだ。

「家族として見ていた父と、ひよりさんたちの口から語られる料理人の父とは、やっぱり違うんだな。家族に出すようにご飯を出すなんて」

 ぼくと母にはそうしてくれなかったのに、という情けない言葉を呑み込む。

 まるでただの子どもだ。父に去られた十五のときからちっとも成長していない。とっくに成人して社会人になったのに。

 ……きっと、ぼくが挫折して、ここにいるからかもしれない。

「あの、でも、家族に出すようにっていうのは、わたしがそう感じただけで」

 ひよりさんがおずおずといった。ぼくは優しく笑って答える。

「いいんだ。父は満足だったはずだ。自分の料理で人を幸せにしていた。いい人生だったと思う。願わくば、最期の料理をひよりさんたちに食べてほしかったけど」

「颯太さん……」

 ぼくらは店の前に着く。そこかしこで明かりが灯り始めたが、風来軒の前は暗く静まり返り、周囲の光で二つの影がぼんやりとアスファルトに落ちている。

「明日もまた探そうか」

「いいえ。だってもう四日も経ってます。たとえ見つかっても、きっと悪くなってますよ。これ以上、わたしのわがままでご迷惑をおかけできません」

 ひよりさんは丁寧にぺこりと頭を下げる。

「じゃあ、これで。振り回してしまってすみませんでした」

「こちらこそ、力になれなくて申し訳なかった」

「そんなこと。そうだ、これ」

 ひよりさんはビニール袋にいくらか残ったさつま芋を差し出す。

「ぜひもらってください」

「ありがとう。いただくよ。……そういえば、さっき」

 ぼくはふと思いついて尋ねる。

「拓蔵さんが渡した野菜の内訳を聞いたとき、ひよりさん、ちょっとがっかりしたような顔をしてなかったか。たしか、さつま芋のところで」

「ああ、あれは……最初にいいましたけど、さつま芋いっぱいお土産にしますって約束したのに、拓蔵さんから分けてもらってたから、どうしてかなって」

 ひよりさんは、寂しそうに眉尻を下げてそういった。

 たしかに納得のいかない話だった。律儀な父だから、ひよりさんとの約束をおろそかにするとも思えない。

 ビニール袋を広げると、弱い明かりの中で、乾いた泥付き芋が見えた。

 今日の一連の光景を思い返す。狭くてなにもない、片付いた台所。ひよりさんに聞かされた父の話。拓蔵さんの家で聞いた、常連のみんなの会話……。

 その瞬間、脳裏で断片がつながって、なにかが閃いた。

「ひよりさん。拓蔵さんの自宅の電話番号、知ってるかな」

「わたしは知りませんけど、藤乃さんの番号なら」

 ぼくは逸る気持ちを抑え、ひよりさんと藤乃さん経由で拓蔵さんの家に電話をかけ、とあることを尋ねた。そして通話を切ると、

「もしかしたら」

 確信を声にこめ、ひよりさんに告げた。

「……父の料理の行方が、わかったかもしれない」