始球式


「ピエロがいる」と、その男子児童は言った。母と妹の三人で駐車場まで歩き、停めていた自家用車に乗り込んだところで、奇妙な格好の男を見つけたのだった。

 祭りの喧騒を離れてからも、母親は幼い妹の世話で忙しそうだ。クレープで汚れた妹の口回りを丁寧に拭いてやっている。こちらには目もくれない。

 今日に限ったことではなかった。母親はいつも妹ばかり相手している。面白くない気分だった。退屈そうに後部座席の窓から外を眺めていると、赤い影が視界の端をちらついた。

 赤い帽子に、派手な衣装。白塗りの顔。丸い鼻。――まさに、道化師だった。

「ママぁ、ピエロがいるよ」

 もう一度、母親に声をかける。

 道化師の格好をしたその男は、駐車場を通り過ぎ、細い路地へと消えていった。暗闇の中に吸い込まれるように。

「ピエロ?」母親がようやく反応を見せた。だが、その視線は妹に向いたままだ。クレープを食べている姿を、ポラロイドカメラに収めようとしている。

「ほら、あそこ」右手で窓の外を指差した。左手には、帰り道に買ってもらった林檎飴を握っている。

 母親が窓の外を一瞥した。

「いないじゃない」

 見間違えじゃないの、と母親は肩をすくめている。

 嘘を吐いて、自分の気を引こうとしているのだろう。子どもの戯言だ。彼女の言葉には、そんなニュアンスが含まれていた。

「いたもん」

 むきになって声を張り上げると、母親は面倒くさそうな顔をした。

 嘘じゃない。たしかに見たのだ、道化師を。

 どうしてわかってもらえないのだろうか。心に不満が募りはじめる。

「そうね。お祭りなんだし、ピエロもいるかもね」

 ステージに出てたんじゃない、と母親は等閑に返した。

 ますます不満が募る。

 そのとき、三歳年下の妹がぐずりはじめた。おしっこ、と今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。出発しようとした矢先のことだったので、母親も「なんで早く言わないの」と顔をしかめた。

「ちょっとトイレ行ってくるから」車を降り、母親が命じる。「ここで待ってなさい」

 妹を抱え上げ、母親が自分の元から離れていく。

 車の中にひとり残された彼は、退屈でたまらなかった。

 あの赤い男の姿が、ふと頭を過る。さっきのピエロは、どこに行ったのだろうか。

 純粋な好奇心が、彼の体を動かした。後部座席に置きっぱなしにしていたポラロイドカメラを片手に、彼は車を降りた。妹を撮影し、成長を綴るアルバムを作ることに熱心な母親の所有物。いつも「勝手に触らないで」と言われていたが、今はすっかり忘れていた。このカメラでピエロを撮影することだけが、彼の頭の中を占めていた。

 写真を撮れば、母親も認めざるを得なくなるだろう。ピエロがいたのだという事実を。自分が嘘を吐いたわけではないということを。

 自然と足が前に動き、赤い影が消えた方向へと進んでいく。

 そこは、人気のない路地で、その先に小さな空き地があった。黒い車が停まっている。

 彼は足を止めた。

 ――いた。

 道化師だ。

 空き地の前に、あの道化師が立っていた。赤い帽子に、赤い衣装。暗がりの中、街灯に照らし出されるその姿は、まるで舞台でスポットライトを浴びているかのようだった。

 ――写真を撮らなければ。

 彼はすぐにカメラを構えた。片目でレンズを覗き込む。小さな丸い視界の中で、道化師は躍るように動き回っていた。よく見れば、両腕になにかを持っている。大道芸の道具だ。それをくるくると器用に回しながら、高笑いをあげている。

 道化師の他に、空き地には男が三人いた。皆、道化師と向かい合っている。観客だろうか?

 シャッターを切るタイミングを窺っていたところ、いきなり道化師が動いた。それと同時に、男たちが喚きはじめる。

 道化師が、彼らに襲い掛かったのだ。

 道化師は薄笑いを浮かべたまま、手に持っている鈍器で次々と相手を殴りつけている。さらに、逃げ惑う男たちに向かって、ぎらりと光るものを投げつけた。――小さなナイフだ。

 それは男たちの腱に刺さり、彼らは足をとられて草むらの上に倒れ込んだ。

 身動きが取れず蹲っている男たちを、道化師が笑いながら殴りつける。

 幼い頭でも、なにが起こっているのかはわかった。

 ――ピエロが、人を殺している。

 彼の目には、その道化師は人ではなく、なにか化け物めいた得体の知れない存在のように映った。

 異常な光景を前にして、立ちすくむ。足が動かせない。体が震える。そのはずみで思わず人差し指に力が入り、カメラのシャッターを押してしまった。フラッシュが焚かれ、眩い光が辺り一面を照らし出した。

 道化師がこちらに気付いた。不気味な化粧をした白い顔が勢いよく振り返り、じっと自分を見つめている。

 ポラロイドカメラが、撮ったばかりの写真を吐き出していく。

「――やあ、」

 不意に、声が聞こえた。

 目と鼻の先に、道化師の白い顔があった。

 彼は驚き、すくみ上がった。カメラが地面に転がり落ち、割れたような音を立てた。

「――きみ、だれ?」

 返り血を浴びた道化師が長身を屈め、彼をじっと見つめている。逃げなければ、と思った。彼は踵を返した。

 背後から、赤い腕が伸びてきた。



1回表


 九月も中旬にさしかかり、厳しい残暑に見舞われていた福岡地方は、次第に過ごしやすい季節へと移り変わりつつあった。暑くもなく寒くもない気候に、澄んだ空気。頭上には、雲ひとつない秋晴れの空が広がっている。

 絶好の草野球日和だ。

 今日は毎週恒例の練習日で、ラーメンズは市内にある公共のグラウンドをレンタルしていた。最初に練習場に到着したのは、馬場善治と林憲明の二遊間コンビだ。

「……なんだよ」がらんとしたグラウンドを見渡し、林が言う。「誰もいねえじゃん」

「一番乗りやね」

 二人はベンチに荷物を置いた。軽く運動して肩を作ってから、キャッチボールを始める。他のメンバーが来るまでの暇つぶしだ。

「おっせえな、あいつら。試合がないからって、たるんでんじゃね?」

「まあまあ、そげん言いなさんな。道が混んどるのかもしれんよ」

 しばらくすると、練習着を身にまとった豚骨ナインが続々と現れた。センターの榎田にピッチャーの斉藤、ファーストのマルティネス。どうやら二人とも、マルティネスの車に同乗してきたようだ。

「あれ?」ベンチに座りながら、榎田が尋ねる。「キミたちだけ? 他の人は?」

「まだ来とらんよ」

 あとのメンバーは、キャッチャーの重松にサードの佐伯、外野の大和とジロー。それから、監督の源造だ。

「そうだ」マルティネスが口をはさむ。「ジローのやつ、今日は来れねえって」

「あら、仕事ね?」

 斉藤を除く豚骨ナインは皆、裏の仕事を営んでいる。いつ急な依頼が舞い込んでくるかわからない。

「いや。明日、ミサキの授業参観なんだ。授業で使う作文の宿題が、まだ終わらないんだってよ」

「作文?」

「ああ」マルティネスは頷いた。「『将来の夢』をお題に、作文を書くんだと」


   しょう来のゆめ     田中ミサキ 


 わたしのお父さんの名前は、ジローといいます。わたしのお父さんは、お父さんでもあり、お母さんでもあります。だからわたしは、ジローちゃんとよんでいます。

 ジローちゃんの仕事は、ふくしゅう屋さんです。ふくしゅう屋さんというのは、人にふくしゅうをします。悪い人をなぐったり、ころしたりします。

 ジローちゃんは、いつもお客さんのために、がんばって仕事をしています。とてもかっこいいです。わたしは、そんなジローちゃんが大好きです。だからわたしも、ジローちゃんのような、りっぱなふくしゅう屋さんになりたいと思います。人をなぐったり、ころしたりして、たくさんのお客さんの心をすくってあげたいです。



「まあ、ミサキったら……っ!」

 ようやく書き上がった宿題の作文を読み終えると、ジローは感極まったように目頭を押さえ、体を小刻みに震わせた。それから、ミサキの頬に口付ける。ブチュッという醜い音がした。

「アタシ、感動したわあ。んもう、なんてイイコなのかしら」ブチュッ、と反対側の頬にも口付けたジローの顔から、笑みが引いた。「でもね、これはダメよ。完全にアウト。書き直し」

「えー」新調した勉強机の前で、ミサキは口を尖らせている。

「えー、じゃない。ダメに決まってるでしょ。こんなの学校の先生に提出しちゃったら、アナタの元に児童相談所の職員が来て、大好きなジローちゃんは警察に連れて行かれるわ」

「せっかくうまく書けたのに」

 ミサキは不服そうだ。

「じゃあ、どんなことを書けばいいの?」

「そうねえ……」顎髭を摩りながら、ジローはミサキの自室を見渡した。部屋には最低限の家具しか置かれておらず、まるでビジネスホテルのような素っ気なさだ。「たとえば、お花屋さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか」

「復讐屋さんになりたい」

「ダメです」

 だって、とミサキは反論する。「別になりたいわけじゃないもん。お花屋さんもケーキ屋さんも」

「作文っていうのは、嘘を書き連ねるものなのよ」

 ミサキは興味がなさそうな顔で、「ふーん」と呟いた。

「それじゃあ、好きな人のお嫁さんになりたい、ってのはどうかしら?」

 提案してみたが、彼女の反応はあまりよくなかった。「なにそれ、馬鹿みたい」

「ロマンチックでいいじゃない。ミサちゃん、クラスにいないの? 好きな子とか、気になる子とか」

 気になる話題を振ってみると、ミサキは「いない」と一蹴した。

「小学生なんて、ただのガキじゃん。興味ない」

 彼女自身もまだ小学生で、ガキなのだが。

「あら、ミサちゃんは年上好きなのね」

「恋人にするなら」彼女の口から飛び出したのは、意外な男の名前だった。「わたし、善ちゃんみたいな人がいいなぁ。優しいし、かっこいいし」

 善ちゃん――馬場善治のことだ。前々から、ミサキは彼に懐いている。

「あの男はやめときなさい」

 つい、本気で答えてしまった。

「えー、なんで」

「ああいう男はね、付き合ったら苦労させられるタイプなのよ、絶対」

「なんでわかるの、そんなこと」

「人生経験が豊富だから。伊達に二十歳の頃からオカマやってないわよ」話が脱線してしまった。咳払いをしてから、話題を戻す。「――ねえ、ミサキ。なにかやりたいこと、ないの?」

 すると、ミサキは黙った。考え込んでいるようだ。

 しばらくして、

「……野球がしたい」

 ぼそりと呟いた。

「野球?」

「少年野球に入りたい」

 ミサキの表情は真剣だった。

 たしかに、少年野球のチームは女の子でも入れるだろうけど。

「なんでまた、野球なの?」

 習い事なら、野球以外にもいろいろ選択肢があるだろうに。ピアノとか、バレエとか。

「野球ができるようになったら、ラーメンズに入れるでしょ?」

 ミサキはそんなことを言った。


「……将来の夢、ねえ」馬場は懐かしそうに目を細めた。「俺、プロ野球選手になりたかったっちゃん」

「俺もだぜ」と、マルティネスが素振りをしながら頷く。噂によれば彼は十代の頃、母国ドミニカにあるメジャー球団のアカデミーに所属していたらしい。

「俺もですよ」斉藤も続いた。彼も高校球児だった過去をもつ。

 ミサキの作文の話から、いつの間にか話題は「自分たちの小さい頃の夢」に変わっていた。

「なんだよ、みんな野球選手かよ」

 自分に夢なんてなかったな、と林は昔を振り返る。幼い頃は、一日一日を生き延びることで必死だった。しいて言えば、立派な殺し屋になって家族を養うことが、唯一の夢だったのかもしれない。

「――あっ、そうそう」

 しばらくベンチで歓談していたところ、馬場がふと声をあげた。

「斉藤くんに頼みがあるっちゃけど」

 スパイクの紐を結び直しながら、斉藤が「何です?」と、顔を上げる。

「シンカー、投げれん?」

 馬場がボールを放り投げると、

「シンカーですか?」斉藤は球をキャッチし、握りを確認した。「まあ、前に何度か投げたことはあるんですが、どうも制球が定まらなかったので封印してました」

「シンカー打ちたいっちゃん。練習してくれたら助かる」

「いいですよ、もちろん」球種が多ければ、それだけ投球の幅も広がる。斉藤は快諾した。「肩作るんで、誰か受けてもらえますか」

「マルさん、キャッチャーやって」馬場がキャッチャーミットを手渡す。

「おう、いいぜ」

 重松の代わりにキャッチャーを務めるマルティネスが、プロテクターを身に着けた。ホームベースの後方に座り込み、斉藤の投げ込む球を受け止める。

 数十球ほどで肩を作ってから、斉藤はボールをシンカーの握りで投げた。変化も制球もまだまだ甘いが、練習あるのみだ。ミットめがけて、ひたすら球を放る。

 軌道がそれらしくなってきたところで、馬場が左のバッターボックスに入った。

 それを見て、マルティネスが首を傾げる。「……あ? お前、なんで左なんだ?」

 馬場は右投げ右打ちのはずだ。普段は右側のバッターボックスに入っている。

「両打ちに転向しようかと思って」

 馬場はにやりと笑った。

 即席のキャッチャーに向かって、斉藤がボールを投げる。マルティネスは無難にキャッチングをこなしていた。いつもは重松が相手だが、然程問題はなさそうだ。

「そういや、重松も来てねえな」林は呟くように言った。

「重松さん、事件の捜査で忙しいみたい」隣で、榎田が答えた。「殺人事件があったらしくてさ」


「……なんだ、こりゃあ」

 辺りに張り巡らされた黄色のバリケードテープを潜り抜け、殺人現場に足を踏み入れた重松は、その奇怪な光景に思わず顔をしかめた。

 目の前には、一本の電柱。そこに男の死体が吊るされている。それも、なぜか逆さまだ。両足をロープで拘束し、電柱の足場ボルトに結んで逆さ吊りにしている状態だった。

 数メートル先の別の電柱に、もう一体。さらにその先にも一体。死体は全部で三つある。どれも同じように、電柱に吊るされていた。

「重松さん」

 重松の姿を見つけると、一足先に到着していた課の後輩が駆け寄ってきた。手帳のメモを読み上げ、状況を説明する。「被害者は三人。乃万組のヤクザ二人、もうひとりはヤクの売人です」

 それから、後輩は近くの空き地を指差した。そこには一台の車が停まっている。

「あの空き地で、麻薬の取引をしている最中に襲われたようです。薬はどれも燃やされていました」

「そうか」

「暴力団絡みの事件でしょうかね、やっぱり」

 敵対する暴力団との間で、何らかのトラブルがあったのかもしれない。

「その可能性もあるが……まだわからんな」

 重松は煮え切らない言葉を返した。死体を見上げ、腕を組んで唸る。

 裏組織の人間ならば、死体を処分する方法はいくらでも知っているだろう。それなのに、わざとこうして死体を残すということは、理由があるはずだ。

「……見せしめか」

 この死体は、何者かに宛てたメッセージなのだろうか。

「死因は?」

「検死に回してみないことには、なんとも」後輩が答えた。「見ての通り出血が酷いですが、頭も殴られているようですし、どの傷が致命傷になったのかはわからないですね」

 一通り写真を撮り終えた鑑識が、二人がかりで死体を下ろした。

 地面に横たえられた死体の顔を見遣り、重松は気付いた。「顔が汚れてる」

 よく見ると、被害者の顔になにかが付いている。血のようだが、ただ失血している

わけじゃなさそうだ。作為的なものだ。ハートや星などのマークが、血で顔に描かれている。

 まるで、子どもに落書きされたかのように。

「……ヤクザの仕業にしては、ずいぶんとファンシーな死体だな」

 逆さ吊りにされた死体に、落書きされた顔――組織的な犯行の線が、重松の中で薄らいでいく。

 状況を整理しようと、重松は現場を見渡した。

 被害者は三人。薬の取引の最中に襲われた。車に積まれた商品は、無造作に燃やされている。

 犯人は? 裏稼業の人間か。彼らに恨みがあった?

 目的は何だ? 人か、それとも薬か。

 いや、人だ。彼ら三人を殺すことが目的だった。でなければ、こうした状態で放置はしないだろう。

 犯人は三人の男を殺し、わざわざ電柱に吊るした。顔に絵を描かれた上に、逆さ吊りという、滑稽な格好で。

「何のために、こんなことを――」

 殺された男たちの顔を眺め、重松は首を捻る。

 死体の意図が、いくら考えても見えてこなかった。



2回表


 小学校の校門付近は、子どもを迎えにきた母親たちで混み合っていた。いないこともないが、男親の姿は珍しい。人混みの中でもジローは目立っていた。

 スーツを着てきてよかったな、と安堵する。妙な格好で現れれば、よからぬ噂を立てられていたかもしれない。ミサキちゃんのお父さんはどんな仕事をしているのかしら、と他の親たちの噂話のネタにされ、余計な詮索をされないためにも、『会社を抜けて迎えにきた良い父親』を演じる必要があった。

 親に付き添われた児童たちが、次々と学校を去っていく。その傍に、笑顔で手を振る女性が立っていた。ミサキの担任教師だ。もちろん面識はある。向こうもジローの顔を覚えていたらしく、目が合うと会釈を寄こした。「田中さん、こんにちは」

「こんにちは、先生」ジローも笑顔を返した。「すみません、迎えが遅くなってしまって」

「いえ、とんでもない。お仕事中にもかかわらず来てくださって、助かります」

 昨日、この近辺で男子児童が失踪した。どうやら、何者かが子どもを誘拐したらしく、犯人はまだ捕まっていない。

 そのため、ミサキが通う小学校では、午後の授業が臨時休校となり、授業参観も中止になってしまった。しばらくの間は、親が送り迎えをしなければならない。

 先刻から探してはいるが、我が子の姿は見えなかった。「……それで、ミサキは今どこに?」

「ミサキちゃんなら、教室で待ってますよ」ご案内します、と担任教師がジローを促す。「私もちょうど、教室に戻るところでしたので」

 連れて行ってくれるらしい。助かった。学校の中は複雑な迷路のようで、何度来ても迷子になりそうになる。

 二人並んで校舎へと歩きはじめたところで、

「――実は」担任が、声をひそめて切り出した。「田中さんに、お話ししたいことがありまして」

 不意を突かれ、はあ、と気の抜けた声が出てしまった。

 言い辛そうな面持ちで、担任が続ける。「ミサキちゃん、あまり友達と打ち解けられていないような気がするんです」

 友達と打ち解けられていない。その言葉に、はっとする。まさか、とジローは目を丸くした。「あの子、いじめられてるんですか」

「いえいえ、そうではないんです。他の子とも話をしてますし、ちゃんと輪の中には入っていますよ」

 ひとまずほっとした。だが、担任の話は続く。

「ただ、たまに、すごく冷たい顔をするんです。笑っているときも、どこか冷めた目をしていて……」

 思い当たる節がありすぎる。

 ミサキはあまり笑わない。大きな声をあげたり、腹を抱えたりしながら笑う姿は見たことがない。表情の変化が乏しく、なにを考えているのかわからないことだってある。

「友達の輪の中にいても、心から笑えていないような感じで……感情表現が苦手というより、他人に合わせようとしているといいますか」

 休み時間、クラスの女子たちで集まって騒いでいる中で、ミサキも笑っている。けれども、その笑顔はどこか嘘くさい。打ち解けることができないから、打ち解けている小学生の自分を演じている。心の中で「馬鹿みたい」と同級生を嗤いながら。そんな我が子の姿が、容易に想像できる。ジローは肩を落とした。

「男手ひとつで育てているせいか、同性の子と接するのが苦手なのかもしれない。面目ないです」苦し紛れの言い訳にすぎないが、他に答えようがなかった。

 そうこうしているうちに、教室に辿り着いた。中を覗き込むと、熱心に机に向かうミサキの姿があった。ノートやドリルを広げている。どうやら、今日の宿題に励んでいたようだ。

「田中さん、お父様がお迎えに来たわよ」

 担任が声をかけると、ミサキが顔を上げた。ジローの顔を見るやいなや、いつもの冷たい表情が一瞬だけ和らいだような気がする。

「待たせてごめんな、ミサキ」ランドセルの中に荷物を詰め込むミサキに、ジローは微笑みかけた。

 駆け寄ってきた彼女の頭に、右手を乗せる。「さ、帰ろう」

 ミサキはこくりと頷いた。

「では、失礼します、先生」

 ジローが頭を下げると、

「先生、さようなら」ミサキも同じように、挨拶をした。



「――ねえ、ミサちゃん」

 学校を出たところで、ジローは隣を歩く少女に声をかけた。

「なに?」

「……学校、楽しい?」

 担任教師の言葉が、ずっと気になっていた。

 ミサキは黙り込んでしまった。馬鹿なことを訊いたな、と後悔する。楽しいはずがないのに。

 しばらくの沈黙のあとで、ミサキが口を開く。「楽しくないって言ったら、行かなくて済むの?」

「そういうわけじゃないけど……」

 改めて後悔する。やはり、この質問は失敗だった。

「わかってる」ミサキは前を向いたまま答えた。「つまらないけど、別にイヤじゃないよ。周りの子ともうまくやってるから、大丈夫」

 うまくやってるから、大丈夫――小学生の言葉とは思えない。

「それより、ジローちゃん」

「なあに?」

「なんでスーツなの?」

 ミサキはこちらを一瞥し、「普段通りでいいのに」と口を尖らせた。あまり機嫌がよくなさそうだ。

「たまにはいいでしょ、こういう格好も」

 似合ってないかしら、と訊けば、ミサキは首を振る。彼女の言いたいことは察しているが、こうしてはぐらかすしかなかった。

「ジローちゃん、学校に来るとき、いつもスーツだよね。喋り方も男っぽいし」

 彼女は、自分がこうして「普通の父親」を演じていることが気に入らないのだ。

「だって、『お前の父ちゃんオカマ』とか言われて、ミサキがイジメられたら嫌じゃない」

「ジローちゃんに我慢させる方がイヤ」

「我慢なんてしてないわよ?」

「してるよ」

 ミサキは珍しく強い口調で返した。

「ジローちゃんは、そうやってすぐわたしのために、自分を我慢しようとする」表情を曇らせ、視線を落とす。「あのときの、煙草だって――」

 そこまで言ってから、ミサキは口を噤んだ。

 煙草だって――彼女が言おうとしていたことは、わかっている。

 ジローもなにも言わなかった。その言葉の続きを求めることは、彼女の悲痛な記憶を呼び起こさせることになる。

 代わりに、「ケーキでも買って帰りましょうか」と甘い提案をした。


 馬場探偵事務所に来客はなく、馬場は普段通り、自由な時間を過ごしていた。上半身裸で姿見の前に立ち、素振りを繰り返す。バッティングフォームを確認しているようだ。

 そんな馬場を横目に、林は洗濯したばかりの練習着を畳んでいた。紺色のアンダーシャツを手に取ったところで、前回の練習日のことを思い出す。

「――そういえばさ」

 素振りを続ける馬場に、林は声をかけた。

「ん?」馬場が振り返る。

「急にどうしたんだよ、お前」

「なんが?」

「スイッチヒッターのことだよ。お前、右打ちだろ? なんでいきなり左打ちの練習はじめたんだ?」

 それだけじゃない。彼は斉藤に妙なことを頼んでいた。

「急に『シンカー打ちたい』とか言い出しやがって」

 林の質問に、馬場は頬を掻き、

「……ちょっとね」

 呟くように答えた。

 なにか隠してやがるな、と睨みつける。

 そんな林を余所に、再び馬場が素振りを始めた。最近は体が開きやすいことが悩みのようで、入念にフォームを修正している。この男は、野球のことに関してはいつも真剣だ。

「野球選手になりたかったってのは、本当だったんだな」

「そりゃあね」馬場が苦笑する。「憧れの職業やんか」

 野球少年ならば、誰もが抱く夢だ。だが、馬場の場合は、ただの夢ではなかったようだ。

「結構本気やったとよ。小学生の頃からクラブチームで練習しよったし、高校でも野球部に入った。ドラフトかからんでも、独立リーグとか社会人で力つけて、いつかはプロになれればいいって、思っとったっちゃけどね」

「へえ」珍しく昔話をする馬場に、林の中で好奇心が首を擡げる。「プロを目指す高校球児が、なんでまた殺し屋なんかに?」

 すると、馬場は小さく笑った。

「さあ」首を傾げ、曖昧に返す。「なんでやろうね」

 はぐらかされたというより、本人も今だにその答えがわかっていない、そんな口調だった。

「ラーメンでも、食い行こっか」と、上着を着た馬場が提案した。そろそろ晩飯の時間だった。

 向かうは、いつもの屋台だ。


 そういえば、とジローは思い返してみる。

 ミサキの口から友人の名前を聞いたことは、これまでに一度もなかった。『今日は誰々と遊んだ』とか、『誰々の家に遊びに行ってくる』などという小学生らしい報告を受けたことはないし、クラスの友達を家に連れてきたこともない。特定の、深い付き合いのクラスメイトがいないということには薄々勘付いてはいたが、思っていた以上に事態は深刻なのかもしれない。

 自身の小学生時代を思い出してみれば、ただ楽しいことだらけだったような気がする。窮屈さを感じることもなく、ひたすら自由で、休み時間に校庭でボールを追いかけ回していた。

 それに比べて今のミサキは、ただ淡々と義務教育をこなしているだけのように思えてならない。

「……難しいわね、子育てって」

 目の前に置かれたビールを呷り、ジローはため息をついた。これでもう三杯目だ。

 ミサキが眠りについたあとで、ジローは源造の屋台を訪れた。しんみりと飲みながら愚痴でも聞いてもらおうかと思っていたところに、マルティネスと榎田、さらには馬場善治と林憲明の二人まで現れ、いっきに騒がしくなってしまった。

「どげんしたとね、ジロー。辛気臭い顔してからくさ」源造が身を乗り出し、ビールを注ぎ足した。

 隣りに座っていた馬場も、「悩みがあるなら、聞くばい」と顔を寄せる。

 ため息をひとつこぼしてから、ジローは切り出した。「今日、ミサキの学校に行ったの」

「ああ、例の授業参観?」

「ううん、授業参観は中止になっちゃって。ほら、子どもの連れ去り事件があったじゃない? 犯人捕まってないし、危ないからしばらくは親が送り迎えするように決まったのよ」

「アメリカじゃ、親の送り迎えは当たり前らしいね」榎田が口をはさんだ。「ミーガン法で性犯罪者の情報が公開されている州もあるし、小児性愛者は刑務所でひどい扱いを受ける。他の受刑者から見下されてね」

「当然だな。ペド野郎は嫌われ者だ」マルティネスも頷いた。

「日本くらいだよ、平気で子どもを独りにさせるのは」

 たしかに、と頷いてから、ジローは話題を戻した。「それで、ミサキを迎えに行ったときに、担任の先生に言われたのよ。ミサキが周りに打ち解けられてない、たまに冷たい顔をする、って」

 ミサキの生い立ちは特殊だ。義父に虐待され、実の母親には見捨てられた。

 虐待を受けた子どもは、氷のように冷たい目をすることがあるそうだ。自分を守るべき人物から攻撃され、何度も裏切られ、感情が凍り付く。ミサキが時折見せる冷ややかな表情も、虐待を受けた子ども特有のものだと理解していた。

 だが、最近は、それだけが原因ではないように思えてならない。

 これまで何度かミサキに裏の仕事を手伝ってもらったが、今でもよく覚えていることがある。

「前に、殺された男の復讐を引き受けたとき、ミサキが手伝うって言い出したの。最初はアタシも反対したわ。でも、『相手が複数いたらジローちゃんが危ない。子どもだったら向こうも油断するから』って聞かなくて。無邪気な子どものフリをして相手に近付いて、筋弛緩剤を打つ、っていう計画だったんだけど」

「ああ」思い出し、マルティネスが頷いた。「あのときのか。うまくやってたな」

「そうなの……あの子、顔色ひとつ変えずにやってのけたのよ」

 ミサキは計画通りに動いてくれた。相手の男に怯えることも、緊張で震えることもなく、ただ冷静に、淡々と。

 だからこそ、危機感を覚えた。

「……怖いのよね」ジローは手元に視線を落とす。「アタシ、ミサキをとんでもない怪物に育て上げちゃうんじゃないか、って」

 こんなの、普通じゃない。確実に育て方を間違えている。

「だから、極力ミサキの前では仕事の話をしないように注意してきたし、危険な依頼には同行させないようにしてるんだけど」

「賢明だな」林が口を開いた。「ガキの頃に教えられたことってのは、大人になってもなかなか抜けねえぞ」

「……ええ、そういうものよね」

「犯罪を教えられて育ったら、犯罪に対して抵抗も罪悪感もなくなる」

 林は殺し屋を養成する施設で育ったらしい。身をもって体験した彼の言葉は、痛いほど胸に突き刺さった。

 たしかに、林は人を殺して生きてきた。ラーメンズの一員としてともにプレーするようになっても、最初の頃は人の言うことを聞こうとしなかった。ルールもサインも守らず、自分勝手で、他人を思いやることはなかった。

「お前があいつを大事にしてるのはわかるけど、今のままじゃマズいと思う。まともなガキに育ってほしいんなら、犯罪に触れさせないようにしねえとな」ラーメンを啜りながら、林は言った。

 彼は変わった。傍から見ていると余計にそう思う。今では野球の練習にも積極的に参加するし、最近は仕事を選ぶようになったと源造が愚痴をこぼしていた。環境の変化が、林を変えたのだ。人との付き合いが、彼に人の心を植え付けた。

「ちょっと馬場ちゃん、コツ教えなさいよ」ビールを呷っている隣の男を、ジローは肘でつついた。

「コツ?」

「子育てのコツ」

「はっ? お前、ガキいんの?」林が目を丸くする。「隠し子かよ」

「えー、おらんよ」

「大きな子どもがいるじゃない」林を一瞥してから、馬場に尋ねる。「どうやってここまで素直な子に育てたの?」

「いや、育てられてねえし」林が眉を顰めた。

 今度は榎田が口を開く。「普通の愛情を普通に向けていれば、子どもは健全に育つものだよ。愛されなかった子どもや、歪んだ愛情や過度な重圧をかけられた子どもは、だいたい捻くれて育つ」

「お、経験談か? 説得力あるな」マルティネスがからかうような口調で言った。

「今のままじゃマズいっていうのには、ボクも同意だね」色黒の大男を一瞬睨みつけてから、榎田が続ける。「ジローさんが傍にいる限り、ミサキちゃんはジローさんの姿を見て育つ。復讐は当たり前で、そのために犯罪を起こすことは致し方ない――ミサキちゃんはそういう風に考えてしまうわけだから、このままだと将来は、ボクらみたいな人生を送ることになるだろうね」

 やはり、自分と一緒に暮らすことは、彼女のためにならないのだろうか。「……どうすればいいと思う?」

「復讐屋の後継者にしたいなら、今のままでもいいと思うけど。普通の子どもに育ってほしいなら、普通の生活に戻すしかない」榎田が言った。「子どもの成長は恐ろしく早いからねぇ。手放すなら早い方がいい」

「本人の望み通りにさせればいいんじゃないか?」

 というマルティネスの言葉に、林が反論する。「そんなの、ジローと一緒にいたいって言うに決まってるだろ」

「他の選択肢を与えてやれば? 母親の元に返すか、新しい親を探すか」

「母親は無理よ」あの一件以来、ミサキの実母と連絡をとったことはない。当時、彼女の腹の中には別の男の子どもが宿っていた。今頃は新しい家庭を築き、第二の人生を歩んでいることだろう。

「じゃあ、里親だね。最近じゃ、すぐに対応してくれる里親業者もあるらしいよ」

「もしくは、ジローがこの業界から足を洗うか」

 源造のその一言に、ジローは言葉を失った。

 ――足を洗う。

 ミサキのためを思えば、それが最善の道だ。

 だが、復讐屋を辞めるわけにはいかない。

 ジローがこの仕事を始めたきっかけは、恋人の死だった。自分の恋人を殺した男への復讐、それが復讐屋の原点だ。

 恋人は、苦しめられて死んだ。それなのに、自分はなにもできなかった。ひたすら自分を憎み、恨んだ。ただのエゴかもしれない。だが、ジローはあの日、自分に罰を課した。復讐屋として生きる道を。

 いまさら、普通の生活に戻るなんて。自分だけがのうのうと幸せに生きていくなんて、耐えられない。恋人に合わせる顔がない。

「復讐屋なんて仕事しとったら、いろんな人間から恨みば買うやろう。仕事に巻き込まれて、ミサキが被害に遭うかもしれん。復讐屋を狙う輩が、今後現れんとも限らんけんね」

 源造の言うことは尤もだ。

 万が一、自分の仕事のせいでミサキになにかあったら――後悔してもしきれないだろう。恋人を失ったときのように。

 だが、ミサキと暮らしている限り、一緒に過ごしている限り、危険は常につきまとう。復讐屋に恨みをもつ何者かが現れたとき、自分ではなくミサキが標的にされる可能性もあるのだ。

「復讐屋が復讐されんごつ、気をつけないかんばい」

 ――復讐屋が復讐される。

 源造の忠告は、やけに耳に残った。

 いつか自分たちに矛先が向くかもしれない。復讐は連鎖するのだから。