プロローグ


 紺碧の空には、白い積乱雲が悠然と伸びている。

 穂香は文机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を眺めた。今すぐあの大空に逃げ出したい――そう強く願いながら、ため息を一つ吐く。

「穂香さん。よそ見しいひんで、集中してください」

 気を抜いた途端に、後ろから声が飛んできた。声の主は、穂香に背を向け難しげな本を開いている昂季だった。こちらを見ていたわけでもないのにどうしてよそ見をしているのがばれたのだろうと、穂香は軽い恐怖心を覚える。

「昂季さん……。頭の後ろに、目でもついてるんですか?」

 恐る恐るそう問えば、昂季は本から顔を上げ訝しげに眉をひそめた。またアホなことを言っているな、という彼の心の声が透過して聞こえてくるようだった。

 透き通るような栗色の髪に、切れ長のやや鋭い瞳。形の良い鼻に薄い唇。この男はたいてい穂香といる時は、持って生まれた美顔が台なしになるほど表情が険しい。

「見なくても、気配で分かるんですよ。特に、穂香さんの行動は分かりやすいですから」

「この部屋、死ぬほど暑くて勉強に集中出来ないんですよ……」

「自分の部屋やったら気が散るから、僕の部屋で勉強したい言いはったんは穂香さんやないですか」

「昂季さんがいたら怖くてサボれないし、勉強がはかどるかなって思ったんです。だけど、昂季さんの存在を忘れるほどの暑さで朦朧としてしまって」

 言いながら穂香は、額の汗を腕で拭う。ただでさえ盆地である京都の夏は暑いのに、クーラーのないこの六畳間はサウナ並に蒸し暑く、いるだけで全身の筋力が萎えていく。背後から時折扇風機の風が当たりはするが、気休め程度でたいした効果はもたらさない。加えて庭から鳴り響くやかましい蝉の声が、暑さに拍車をかけているように思えた。

 呆れたように目を細めた昂季は、それ以上何も言ってはこなかった。おおかた、穂香のことを相手にする気力すら失せたのだろう。手にした本を閉じ畳の上に置くと、読む本を代えるのか、部屋中に積み重ねられた書物の山を物色し始める。この蒸し暑さの中にいても飄々として涼しげな彼の体は、一体どんなメカニズムをしているのか不思議でならない。


 ここは京都府京都市、下京区は花屋梅小路上ル。路地裏のそのまた路地裏にある町屋造りの小さな下宿、京極荘の二階の一室だ。外壁は緑の蔦でびっしりと覆われているため〝京極荘〟と書かれた看板は通行人の目に入りにくく、ここが下宿だと知る人は少ない。

 大学進学のため穂香がここ京極荘に住みついてから、およそ三ヶ月が過ぎた。住人は今のところ、穂香と隣の部屋の昂季、世話人のおばあさんである絹子の三人だけだ。絹子の作る昔ながらの手料理は絶品で、大学からも徒歩圏内であるため、穂香は京極荘での暮らしに大体満足している。だが一つだけ、ここには穂香の悩みの種があった。

 それは、今後ろにいる昂季の存在である。


「そういや最近、うた猫を歌仙絵に戻してないですね」

 ぱらり、と新たに手にした本の頁を捲りながら、昂季が言った。

 扇風機の風にノートがはためく様をぼうっと眺めていた穂香は、瞬時に槍で突かれたように背筋を伸ばす。

「そ、そうでしたっけ……?」

「一ヶ月に最低二匹っていう約束なんやから、そろそろ見つけてもらわんと困るんですけど」

「でも、そんなこと言われても、どこをどう探せばいいのか全く分からないんですよ……」

 実際、そのことがいつも胸に突っかかっているせいで、勉強が手に付かないと言っても過言ではない。

 こんなはずじゃなかったのに、と思う。大学入学当初の予定では、毎日こつこつと予習復習をして、試験も楽々こなすはずだったのに。不甲斐なさから、愚痴が口を突いてこぼれ出す。

「でも、私思うんです。こうやって授業に遅れを取ってしまったのは、勉強そっちのけでうた猫探しに夢中になっていたせいじゃないかと……」

「それとこれとは、別問題やないですか? 例えばバイトと勉強を両立させている人なんか、なんぼでもいはるでしょ。穂香さんのけじめが足りひんだけです」

「それは、ごもっともなんですけど……。でも、この二ヶ月うた猫のことばかり考えて、本当に疲れたんですよ。――そうだ!」

 名案を思いついた穂香は、弾けるように後ろにいる昂季を振り返った。

「今度の試験、無事に全部クリア出来たら、夏休みはうた猫探しをお休みして愛媛に帰ってもいい、ってことにしませんか?」

 いけずな昂季がこの申し出を受けるとは考えにくいが、ものは試しだ。精一杯の笑顔を浮かべれば、本から顔を上げた昂季は露骨なしかめ面を向けて来た。負けるものか、と穂香は語気を強める。

「それぐらいのご褒美があれば、勉強も頑張れると思うんです! それにまだ見つけていないうた猫はたくさんいるのに、たまには休まないと体が持ちませんし……」

「充分、休んではるような気がするんですが」

「そんなことないですよ! 最近、うた猫のことばかり考えてるせいか体がしんどくて……」

 体調不良をアピールするために穂香は軽く咳込んで見せたが、昂季の眉間がよりぐっと狭まったのに気づき、すぐに演技をやめた。じりじりと威圧感を放つ昂季の空気に怯え、慌てて姿勢を正す。すると。

「――わかりました」

 唐突に、落ち着いた声が返って来た。

 いい返事を期待していなかった穂香は、「へ?」と頓狂な声を上げる。

「でも逆に、もしも一つでも単位を落としたら、愛媛には一切戻らずにうた猫探しを継続してもらいますから」

 それから昂季は整った顔を緩め、にっこりと微笑んだ。極上の笑顔だが、目の奥が笑っていない。昂季がこの顔を見せるのは、穂香の前でだけである。

 昂季は万人に親切で優しいが、穂香にだけはいけずでどこまでも冷たい態度をとる。その原因が二人の幼少の頃の出来事にあるのを穂香が知ってから、まだ日は浅い。

「わ、わかりました……!」

 穂香は、勇んで返事をした。

 それからシャーペンを握り直し、よし、と気合いを入れて文机に向かう。

 こうなれば、暑さなどにかまってられない。身を粉にしてでも勉強しなければ、一生に一度しか訪れない十八歳の夏が幻になってしまう。

 気持ちを新たに問題集に向かう穂香の膝の先、文机の真下では、一際存在感のある生成り色の古書が今日も大事そうに仕舞われていた。



 百人一首の『幻の歌仙絵』。

 世にも不思議なその本を、昂季はそう呼んだ。

 大昔、藤原定家という歌人が、友人の入道蓮生に頼まれ古今の和歌の中から百首を選りすぐった。色紙にしたためられたその和歌は、嵯峨にある入道蓮生の山荘の襖に飾られた。それが世に知られている、百人一首の起こりである。

 だが和歌の色紙と同時に歌人の姿を描いた絵――歌仙絵も飾られていたことは、あまり知られていない。山荘の持ち主亡き後、その歌仙絵は纏められ、とある連歌師が極秘に受け継いだ。そして千年近い時を経て、連歌師の子孫に当たる昂季のもとに伝えられる。

 ある日ひょんなことから、穂香は昂季が大切にしていたその本を手にしてしまう。すると描かれた歌仙絵の大部分が姿を消し、なぜか全体が無数の猫の足跡で汚れてしまったのだ。

 信じられないことに、歌仙絵が滅茶苦茶になってしまったのは、百人一首の歌人達が和歌に詠んだ想いが猫に姿を変え抜け出してしまったかららしい。その猫が二人が呼ぶところの〝うた猫〟である。

 うた猫は、和歌に込められた想いに似た想いを抱えている人に懐いている。そして懐かれている人の想いを紐解いてあげれば、絵の中に帰り、歌仙絵はもとの美しさを取り戻すのだという。

 まるで狐に化かされたような話で、最初穂香は昂季が冗談を言っているとしか思えなかった。だがこの二ヶ月、昂季と共に悪戦苦闘しながらも、うた猫に懐かれている人達の想いをどうにか紐解いてきた。うた猫が消える様を幾度か目の当たりにした今は、この不思議な一連の流れを受け止めざるを得ない状況だ。



 再び文机に向かったはいいが、ものの数分で穂香の気は散り始めていた。

 窓の外に目をやれば、京極荘の庭先にある緑の蔦に覆われた塀が見えた。テイカカズラという名のそのつる性植物は、小さなプロペラ型の白い花を今日もあちらこちらに咲かせている。

「ねえ、昂季さん」

 今更のような疑問が、ふと湧き起こる。

「考えてみれば、どうして百人一首の歌人の絵は猫に姿を変えちゃったんでしょう……? 一体、何のために?」

 俯いたままの昂季は、顔を上げる気配がない。

「……昂季さん?」

 穂香は畳に膝を滑らし、恐る恐る昂季の傍に寄った。

 爆薬にでも近づくような気持ちで、下からその顔をそうっと覗き込む。伏せられた、色素の薄いまつ毛が見えた。微かな寝息が、薄い唇から漏れている。

「――あれ? 寝てる?」

 拍子抜けした気分になって、穂香の体からほっと力が抜けていった。

 本を手にしたまま器用に寝入っている昂季の顔は、いつものしかめ面が嘘のように穏やかであどけない。間近でよく見れば、その額には汗が浮かんでいた。暑さなど微塵も感じていないような素振りを見せていたが、本当は我慢していたらしい。

 穂香は自分だけに向けられていた扇風機を、そっと昂季の方に向け直した。扇風機の風に煽られ、栗色の前髪がさらりと揺れる。こうやって無防備に眠っている姿だけを見れば、まるで無垢な子供のようだ。

 普段もこんなかわいい姿を見せてくれたらいいのに、と思う。

 昂季の寝顔をしばらく眺めた後で穂香は前に向き直り、気を引き締めて問題集に取りかかることにした。




 それから、わずか数日後の夕食時のことだった。

「祇園祭も、もう終わる頃やねえ」

 やんわり口調で言いながら、絹子が襖の向こうから姿を現した。手にした盆には、こんもりとご飯の盛られた茶碗が載せられている。

「もう、そんな時期ですか。早いもんですね」

 胡坐を組んで座っている昂季が、顔を上げた。

 円卓には、今宵も色彩豊かな料理が所狭しと並んでいた。なす味噌田楽にあまだいのかぶら蒸し、それから数種類の自家製の漬け物。中でも絹子の漬ける少し黄みがかったかぶらの千枚漬けは、歯ごたえといい甘みと酸味のさじ加減といい、他に類を見ないほどに絶品だ。

「夏休みで暇しとる小学生が、そろそろ家の前なんかで遊び始めるんやろなあ」

 丸眼鏡の奥で目を細めながら、よっこらしょ、と絹子は畳の上に腰を降ろす。いつものように白い割烹着を身に着け白髪を頭上できっちり結い上げている絹子は、齢八十前後と思われるが正確な年齢を穂香は知らない。

「そうですね……」

 茶碗を配りながら、穂香は浮かない返事をした。

 すんなりと夏休みを手にすることの出来る小学生が、今は心底羨ましい。試験という難関をクリアしないことには、穂香の夏休みは訪れないのだから。連日試験勉強に勤しんではいるが、気が散ったりぼんやりしてばかりで思うように勉強がはかどらず、穂香は焦っていた。

「そやけど最近の小学生は、忙しいみたいですよ。夏休みの宿題やら塾やらで」

 意気消沈している穂香の隣で、昂季が呑気に言う。

「まあ、そうやの。そういや最近は、近所で遊んどる子を見かけることが、少なくなった気がするなあ」

「子供の数自体、減りましたしね」

 昂季と絹子の会話をまるで他人事のように聞き流しながら、穂香は黙々とご飯を口に運んでいた。翌日の試験のことで、今は頭がいっぱいだ。そんな穂香に、昂季が茶々を入れてくる。

「穂香さんは、絶対に夏休みの宿題を貯め込むタイプやったでしょ」

「そんなこと……」

 反論しようとしたが、すぐに言葉が途切れてしまう。考えてみれば、夏休みの宿題など八月の終わりに泣きながらやった思い出しかない。そしてその計画性のなさは、いまだに直っていないようだ。日頃からきちんと勉強していれば、こうやって試験前に鬼気迫る状況にはならなかっただろう。

 だが意地悪顔の昂季を前に、あっさりと認めてしまうのは抵抗があった。どうにか平常を保ち、精一杯の虚勢を張る。

「そうでもなかったですよ。まあ、絵の課題なんかはなかなか出来ずに苦労したこともありましたけど」

「穂香さんの絵、下手くそですしね」

「……悪かったですね」

 横目で睨んだが、昂季は何食わぬ顔でかりこりと漬け物を噛み砕いている。「絹子さん、これ美味しいです」と、穂香の精一杯の睨みは完全に無視だ。

「そういえば、」

 ずずず……と茶を啜った後で、絹子が思い出したように口を開いた。

「裏の久保田さんとこのひ孫さん、すごく絵が上手らしいで。毎年決まって賞をもらっとる言うて、久保田さんが自慢してはったわ」

 それはすごいですね、と昂季が相槌を打った。

 穂香は裏の久保田のおばあさんと話をしたことはないが、見かけたことはある。絹子よりも更に高齢と思われる小柄なおばあさんで、出会う度に古風な着物に身を包んでいた。先日家の前を通りかかった際に、青々と実った冬瓜をハサミで摘んでいる姿を目にしたばかりだ。ひ孫がいたとは知らなかったが、いてもおかしくはないような年の頃ではある。

「確か、女の子でしたよね。ランドセルを背負ってこの家の前を通るのを、時々見ますよ。そやけど毎年入賞なんて、たいしたもんや」

 なす味噌田楽に手を伸ばしながら、昂季がしみじみと言った。京極荘の家主である彼は、ご近所情報を一応は把握しているのだろう。

「絵が上手なんて、いいなあ」

 毎年入賞ともなると、相当な才能の持ち主だ。絵心というのは努力もあるとは思うが、八割方が才能の上に成り立っている気がする。コンクールで入賞どころか、一度も描いた絵を誰かに褒めてもらったことのない穂香は、会ったこともない久保田のおばあさんのひ孫さんを羨ましいと思った。もしも自分に絵の才能があったら、夏休みの絵の課題がさぞや楽しかっただろうに。

「穂香さん。ところで、勉強の方は順調ですか?」

 遠い子供の頃に想いを馳せていた穂香は、昂季の声で我に返る。

 箸を止めた昂季は、不自然なほどににっこりと微笑みながらこちらを見ていた。穂香の勉強が全くはかどっていないことなど、すっかりお見通しのようだ。

「順調に、決まってるじゃないですか」

 どうしてこの男は、こんなに勘が良いのだろう。そして、意地悪なのだろう。

 軽い苛立ちを覚えた穂香は、大急ぎでご飯を喉にかき込むと逃げるように立ち上がる。夏休みも昂季の監視下でうた猫探しに励むなど、考えただけで胃が痛くなりそうだ。こうなったら、一夜漬けで勉強を頑張るしかない。

「ごちそうさまでした!」

「おやまあ、もう食べたん? あんまり早よ食べたら体にようないから、気ぃつけよし」

 絹子の声を背中で聞きながら、穂香は二階にある自分の部屋へ向け急いで階段を駆け昇った。



 翌日の昼過ぎ。

 穂香は、汗だくになりながら大学から帰宅していた。

 西本願寺に隣接している京極荘から大学までは、歩いて通える範囲だ。乾いたアスファルトからは、煮えたぎるような熱気がむんと上がっている。暑さと試験中のストレスとで、穂香の体力は限界だった。

「はあ、疲れた……」

 あれほど頑張ったのに、完全にヤマを外した試験の出来はさんざんだった。だが落ち込んでいる暇はなかった。帰るなり、明日の試験に備えてまた勉強しなければいけない。

 参考書を詰め込んだトートバッグを肩にかけ直し、ため息を吐きながら京極荘へと続く細い路地に差しかかる。

 角を曲がった時のことだった。

 ドン、と顔面に衝撃を受け、穂香の視界が瞬時に暗転した。

「痛ったあ~!」

 鼻を抑えながら声を上げれば、「しっ!」と耳もとで囁かれ口を手で覆われる。目の前には、思いがけず昂季の顔があった。

 どうやら、電柱の陰に身を潜めていた彼にぶつかってしまったようだ。商店街に買い物にでも行った帰りなのか、その肘では大根の突き出たビニール袋が揺れている。口を覆われているため、なにするんですか、と穂香は声にならない声をごにょごにょと出す。

「あれを見てください」

 穂香ごと再び電柱に身を隠した昂季が、真剣な眼差しを道の先に向けた。

 そこには、二人の住処である京極荘が佇んでいた。

 昭和初期に建てられた木造りの町屋風の建物は、いつ見てもそこだけ時の流れを止めているかのように厳かだった。周囲をぐるりと取り囲んだ緑の蔦の塀が、よりいっそう趣を引き立てている。

 ランドセルを背負った小学校高学年ぐらいの男の子と女の子が、京極荘の塀の前で向かい合うようにして立ち止まっていた。絵の具セットらしき長方形のバッグやぱんぱんに膨らんだ手提げなど、両手は荷物で溢れ返っている。きっと明日から夏休みに入るため、学校に置いていたものをひとしきり持ち帰っているのだろう。

「怪し過ぎやわ。みんな噂してるで。お前が、自分でしてへんって」

「そんなんデマや」

「嘘くせ。そんなこと言うても、誰も信じひんからな」

「ひどい……」

 二人の声は、この距離からでも充分聞き取れた。

 何があったのかは知らないが、どうやら男の子が一方的に女の子を責め立てているようだ。肩下までのお下げに眼鏡をかけた大人しそうな女の子は、への字に曲げた口を震わせ今にも泣きそうだった。

「え? あれって……」

 穂香は息を止め、みるみる目を見開いた。

 浮かない表情を浮かべている女の子の水色のスニーカーの足もと、京極荘の塀の影を映したアスファルトの上に、大仰な着物姿の猫がいたのだ。薄黄色の生地に桃色の小花を散らした艶やかな十二単、襟からは朱色の着物が覗いている。

 大きさからして、まだ仔猫のようだった。体毛は艶やかな灰色の虎模様で、女の子をきょとんと見上げる琥珀色の瞳は大きく、滴を落としたように潤んでいる。

 もごもごと口を動かしながらを昂季を見れば、やっと口もとから手が離された。

「絹子さんが話してはった、裏の久保田さんのひ孫さんです」

「あの子が、あの絵が上手いって評判の……」

 ひそひそと、昂季と穂香は言葉を交わす。

 その間に、女の子と男の子の諍いはますます白熱していた。

「ちゃんと自分で描いてるのに、なんでそんなこと言われなあかんの?」

「大人が描いたって、バレバレやからや。絶対に、先生もドン引きしてるで」

「だから、自分で描いてるって! どうして、信じてくれへんの?」

 口もとを震わせた女の子が、ついに鼻を啜りはじめた。男の子は狼狽えるどころか、へへん、と意地の悪い笑みを浮かべている。

 短髪で、バランスの取れた顔立ちをした少年だった。肌はこんがりと日焼けしていて体型はひょろ長く、女の子より頭一つ分背が高い。こんな状況下なのに無遠慮ににやつく目もとからは、性格の悪さが窺える。

「……昂季さん。あのうた猫は、どの歌人が変化したものなんですか?」

「うーん。よくある感じの十二単やから、はっきりとは分かりません。大体の目星はつかんこともないけど、見かけだけでは何とも言えへん」

 男の子の悪態は尽きる様子がなく、「お前、泣き顔めっちゃブサイク」「嘘がばれたから泣いてるんやろ? わかりやす~」といったひやかし声が、穂香の耳に絶え間なく届いてくる。

 次第に穂香は、一方的にいじめられているようにしか見えない女の子が不憫で仕方がなくなる。どれだけ言い返しても相手に太刀打ちできない時の悔しさを、穂香は痛いほどに知っていた。昂季に虐げられている自分の姿が女の子に重なり、居ても立ってもいられなくなる。

「なんか他人事には思えなくて、ものすごくむかつくんですけど……。あの女の子にうた猫が懐いている原因は、間違いなくあの小生意気な少年ですね!」

 気づけば穂香は、昂季の傍を離れ子供達の方へ歩んでいた。

 穂香が大股で近づくなり、男の子はようやく女の子に意地悪を言うのをやめ、怪訝そうにこちらを見た。ひっくひっくとしきりにしゃくり上げていた女の子も、喉の動きを止めて潤んだ瞳を穂香に向ける。ちょこんと道路に座ったままのうた猫は、首を傾げてそんな二人を見比べていた。

「ねえ、あなた達。さっきから見てたんだけど、何をそんなに揉めてるの?」

 精一杯の大人の貫録を装って二人を見下ろした穂香を、男の子が鬱陶しそうに睨んだ。

「なんや、このオバハン」

「お、オバハン!?」

 穂香の眉間が、ひくひくと痙攣する。

「あの……、私まだ十八歳なんですけど。未成年なんですけど……」

「十一歳の俺にしてみれば、充分なオバハンや」

 平然としている男の子は、七歳も年上の見ず知らずの人間を前にしても、全く怯む気配がない。飄々とした目で口もとにだけ意地の悪い笑みを含んでいる顔は、昂季が穂香に見せる表情によく似ていた。くうっと、穂香は唇を噛む。

「とにかく……。何をそんなに言い争ってるの?」

「そんなん、赤の他人に言う必要はないやん」

「ここ、私の家なの。家の前でああだこうだ言う声が聞こえたら、気になるじゃない」

「え、オバハンここに住んどんの? お化け屋敷かと思うてた」

「……ここはね、京極荘っていう下宿なの。そして私はね、まだピチピチの女子大生なの」

「ピチピチって、完全なる死語やわ。やっぱりオバハンはオバハンやな」

「くう~……っ!」

 どうにか怒りを鎮めようと大きく深呼吸をしていると、値踏みするようにじっと穂香を観察していたお下げの女の子が、ぽつりと言った。

「奏太くんがね、美羽のことインチキって言うから、嘘やって言い返しててん」

「……インチキ?」

 美羽と名乗った女の子は小さく頷いて、哀しげな瞳で穂香を見上げた。まだあどけなさの残るその顔は見るからに傷心していて、穂香の胸はずしりと痛む。それから美羽ちゃんは、肩にかけた手提げ袋の中から丸まった画用紙を取り出した。

「これな、夏休みの宿題やねん。ガス会社の絵画コンクールで、毎年決められたテーマを出されるんやけど……」

 言い終えた後で、美羽ちゃんは瞳を伏せる。

「ミャア」

 小さく鳴いた十二単姿のうた猫が、まるで彼女を慰めるようにその足もとに擦り寄った。

「奏太くんがな、美羽の絵は毎年お父さんに描いてもらってるんやろ、って言うねん。美羽、ちゃんと自分で描いてるのに……」

「嘘つけ」

 美羽ちゃんが言い終えるなり、奏太くんらしき男の子がとどめの一言を放った。

 美羽ちゃんは、ますますしゅんと落ち込む。

「どうしてそんなことを言うの? 美羽ちゃんは、ちゃんと自分で描いてるって言ってるのに」

「だって上手過ぎなんやで? 小学生が描いたようには絶対に見えへんし、毎年入賞って普通に考えておかしいやん。それにこいつのお父さん漫画家やし、どう考えても描いてもらってるやろ」

「そんなの、証拠もないのに言い切れないじゃない」

「証拠なんか、必要ないって」

 奏太くんは、自信満々な顔を浮かべる。

 何を言っても聞く耳を持たない奏太くんに、どうしたものかと穂香は眉根を寄せた。すると。

「なるほどな」

 そんな声が耳もとで聞こえ、驚いた穂香は飛ぶように後ろを振り返った。電柱の陰にいたはずの昂季が、いつの間にかすぐそこにいる。顎先に手を当てがい、しげしげと美羽ちゃんと奏太くんを観察した後で、昂季はなぜかうっすらと微笑む。

「どうにかして、二人ともっと親しくなってくださいね」

 そして無責任な言葉を小声で残すと、子供たちの前を通過してさっさと京極荘の中に入ってしまった。気まぐれな彼は今のところ、身をもってこの騒動に関わるつもりはないらしい。

 昂季の背中が見えなくなったところで、穂香は我に返る。

「そんなに言うなら……」

 意を決した穂香は、奏太くんを真正面から見据えた。

「私の部屋を使っていいから、今から目の前で美羽ちゃんに絵を描いてもらわない?ちょうど絵の具を持ってるみたいだし、大丈夫でしょ? 奏太くんは美羽ちゃんが絵を描く様子を見て、美羽ちゃんが言ってることが嘘かどうか確かめたらいいわ。いいでしょ、美羽ちゃん?」

 美羽ちゃんは驚いた顔を見せながらも、こっくりと頷き同意してくれた。

 穂香がこの案を持ち出したのは、美羽ちゃんが本当のことを言っているという自信があったからだ。穂香を見上げる潤んだ瞳はどこまでも真っ直ぐで、一寸の濁りもなかった。そんな目をした子供が、嘘をついているはずがない。

 奏太くんはしばらくの間無言で穂香を見ていたが、

「嫌や」

 やがて断ち切るように返事をして、そっぽを向く。

「お化け屋敷に入るんなんか、絶対に嫌や。お化けに食われるやん」

「奏太くん、どうしてそんなこと言うん? ここがお化け屋敷とちゃうことぐらい、奏太くん知ってるやん。だってここのおばあさんに、小さい頃よく……」

 美羽ちゃんが、戸惑うように口を挟んだその時。

「おや? 奏ちゃんにみっちゃんか?」

 京極荘の庭から、如雨露を手にした絹子がひょいと姿を現した。草木に水をあげていたのだろう、湿った地面には小さな虹が出来ている。

「久しぶりやなあ。しばらく見いひんうちに、大きくなって」

 こんにちは、と美羽ちゃんがぺこりと頭を下げた。

「奏ちゃんとみっちゃんは、何年生になったん?」

「六年生です」

 美羽ちゃんの答えに、絹子はにこにこと目を細める。

「おやまあ、もうそないになったんか。この間までよちよち歩きの赤ん坊やったのに、早いもんやなあ」

 笑顔を浮かべている美羽ちゃんに対し、奏太くんは膨れ面のままだった。だがさすがに絹子の前で生意気な態度は取れないのか、気まずそうに下を向いている。

「みっちゃん達は、明日から夏休みなん?」

「はい」

「そりゃ、ええことや。ささ、暑いし、よかったらみんなして中に入り。ところてんしたるさかいに」

 ちょいちょいと手招きをすると、絹子は如雨露を地面に置いて中に戻り始めた。穂香と美羽ちゃんがその後に続けば、しぶしぶといった様子で奏太くんも数歩遅れてついて来る。

「……ええか。ところてん、食べるだけやで」

 玄関先で、穂香は奏太くんにむっつりと耳打ちされる。とん、と土間から飛び上がったうた猫は、美羽ちゃんの足もとを落ち着かない様子でうろつきながら、怯えたようにそんな奏太くんを見上げていた。