プロローグ


 その家は何かを待っていた。

 街の外れにあるその家は、洞窟のように暗い色の壁に覆われていて、家の中は古いにおいがした。腐った木と埃のにおいだ。

 前の持ち主はすでにこの世を去った。

 家の壁には雨が染み込み、窓は風に叩かれて光を失った。

 新しい家主も見つからないまま時間だけが過ぎ、その家は取り壊される運命だと誰もが疑わなかった。

 その家に人が寄り付かなくなってから、いくつもの年月も過ぎた。

 その家は、ただひっそりと息をしながら何かを待っていた。

 巨大な工事車両や、老いた木柱など粉々になった廃材を処理場まで運ぶトラック、そして整地されたまっさらな広い土地。たとえばそういうことだ。

 しかし、その日が来ることはなかった。

 ついに庭の草木は枯れ果てた。焦げ色の硬いつたが蛇のように家の外壁に絡み付き、二階の屋根まで覆い尽くしたとき、その家は死んだ。

 そしてまたときが流れた。

 人が、その家の存在を忘れるくらいの、とても長い時間だ。

 すると春の恵みの風とともに、ひとりの男が現れた。

 錆びた音とともに玄関の扉が開き、三つの足音が床を歩いた。

 ひとりの青年が、杖をついて家に入ってきた。

 ひどくやつれた彼の顔は老人と見まがうほどだった。

 男が足を踏み出すたびに腐った木の床が悲鳴をあげた。

 外壁以外に壁はなく、家具もなく、空虚なほど高い天井を見上げながら、男は部屋の中央まで歩いた。そして杖の先で床をトントンと叩き、嬉しそうに笑った。

 そのわずかな震動で、家の天井から埃が舞い落ちた。まるで涙のように。

「ここにしよう」と男は言った。

「ここが、おれたちの始まりの場所だ」

 それからというもの、死んだはずのその家に人が集まってきた。

 トラックがひっきりなしにやってくると、作業服の男たちが新しい木材やダンボールの箱、それからとても大きくて分厚い銀色の冷蔵庫を家の中に運び入れた。

 杖の男はというと、彼は家の屋根に上り、何か独り言をつぶやきながら、傷み、ひしゃげ、朽ちた家の屋根に板を打ち付けた。屋根は虫に食われたように穴だらけだったが、男はくじけることなく、たったひとりで完璧に補修した。

 屋根が終わると、今度は壁を、ポーチを、そして屋根を白く塗った。

 その翌日から、家にいるのは男ひとりになった。

 男は足の痛みをぶつくさ言いながら家の隅々まできれいにすると、今度は、市場で買ってきた食材を冷蔵庫に詰め込みながら、

「何が食いたい? そうだ。秋鮭とキノコの耳たぶパスタにするか。鮭はちょうど旬だから脂が乗ってうまいぞ。ああ、わかっているよ、大盛りにするんだろう? デザートは金時芋のスイートポテトでいいか?」

 などと言いながら鍋を火にかけた。

 彼はまるで、その家に話しかけているかのようだった。

 すると見る見るうちに、キッチンからおいしいにおいがあふれ出した。

 家はおいしいにおいをいっぱいに吸い込んだ。

 壁や床にそのにおいが染み付き、誰かが窓の隙間からもれたそのにおいにつられてやってくるまで、そう長い時間はかからなかった。

 そしてその誰かがやってきたとき、一度死んだはずのその家は、立派なレストランへと生まれ変わった。

 男は白塗りの看板に『ELIXIR』と黒字で書くと、店の壁に打ち付けた。


『不老不死』という名に相応しい風変わりな客たちで、今日もこのレストランは賑わっている。




 女は他人の庭のウッドチェアに座り、コーヒーを飲んでいた。

 冬と春を行き来する冷たい空気の中にコーヒーの湯気が消えていき、女の白い足が短い芝生を優しくなぞる。

 女は裸足で、赤いヒールがそばに横たわっている。

 空は青一色に染まっていた。

 四月の朝八時、住宅地には穏やかな風が吹いている。

 街道の木々はさわさわと葉を揺らし、どこからか鳥のさえずりが聞こえた。

 女はそっと微笑んだ。

 彼女の名前は村上真央。どこにでもいる普通の女だった。

 好きなものは蝶の刺繍の赤いアルバム。中には二十八年と四か月と九日の思い出が詰まっていた。特に好きな写真は、弟と動物園で撮った一枚だった。アルバムを開くと、無邪気な小さな笑顔がどうしても見たくなるのだ。

 目立った好き嫌いもなく、なんでも食べて育った彼女だったが、どうしても耐えられないものがひとつだけあった。

 それは大声だった。特に人が怒るときの暴力的な声を、村上は心から嫌った。

 自分は決して人を叱責したりせず、怒りに手を上げることはしないと幼いながらに誓った。

 村上は厳格な両親のもとに生まれた。

 頭がよく、器用だった村上は、両親の愛情をめいっぱい浴びて成長した。二十一歳で運命の人と出会うと、大恋愛の末、村上は両親の反対を押し切ってその男と結婚した。そして二十二歳で子供を産んだ。

 それからの数年間、村上は幸せだった。

 彼女に死が訪れるまでは。

 こうして村上は今、優しい笑顔で一軒のアパートを見つめていた。

 しばらくして、村上が座る庭具の持ち主が民家から出てきた。

 日に日に頭が薄くなっていくその男は向かいのアパートの大家でもあった。

 彼はごみの集積場にごみ袋を置き、大きなあくびをひとつして家に戻った。

「そろそろね」と村上はつぶやいた。

 すると向かいのアパートの二階から子供が下りてきた。

 その少年は、軽快に階段を駆け下りて一階の部屋の窓から中の様子を覗くと、それからひとりで戦いごっこを始めた。

「じゃあくなセイント・ガイズめ! このダークディフェンダーがやっつけてやる!」

 少年はそう言いながらパンチやキックを繰り出している。

 村上は微笑ましそうにその光景を眺めた。

 彼女にとって、それが毎朝訪れる至福の時間だった。

 その数分後、二階から大柄の男が下りてきた。

 分厚い胸板に、大きな骨格の持ち主だった。

 男は作業服に半袖のベストを着込んでいた。仕事道具の詰まった腰袋を肩にかけ、顎ひげを撫でながら「修平、そんなことしてると学校に遅れるぞ」と彼は言った。

 男を見上げた少年の顔が、はらりとほころぶ。

「お父さん、ごみ」

「くそっ」

「十円ね」

 男は悔しそうな顔で階段を駆け上ると、ごみ袋だけを持って戻ってきた。

「道具は?」

「くそっ」

「十円ね」

 男はまた二階の部屋に戻り、仕事道具とごみの両方を持って下りてきた。

「悪い言葉を使ったら罰金なんてルールを決めるんじゃなかったよ、ちくしょう」

「はいまた十円」

 男は口を真一文字に結ぶと、少年に十円玉を三枚渡した。

「お菓子は一日一個までだぞ」

「わかってるよ。これはちょきんするの。もっと大きな家に引っ越すときのために」

 男は笑い飛ばした。

「お金ならたくさんある。お父さんは社長だからな」

「社員はおじさんしかいないじゃん」

「そのうちビッグな会社にしてやる」

「えー、いいよ。忙しくなるじゃん」

「お金持ちになれば、なんでも欲しいものを買ってやれるぞ」

「それならさ、お金持ちになって、おじさんにおいしいものをいっぱい食べさせてあげようよ。おじさん、ちゃんとご飯食べてないでしょ? 近頃は病気みたいにげっそりしちゃって、お酒ばっかり飲んでるせいだよね?」

 男は唇を噛むと、大きな手で子供の頭をごしごしとやった。

「そうだな。よく言っておくよ」

「元気出してって伝えておいて。ぼく、おじさんのこと大好きだから」

 男はとても寂しそうに笑い、村上は静かに泣いた。

 涙は彼女の唇をしっとりと濡らした。しょっぱい味が村上の口の中に広がる。

「じゃあ、行ってくるね」

 そう言って少年は歩き出した。

「そっちは学校じゃないぞ。どこに行くんだ?」

「友だちといっしょに行くんだ。あいつ、ねぼすけだから迎えに行かなきゃ」

「いってらっしゃい。気を付けてな」

 男は言った。そして村上も同じ言葉を口にした。

 朝日の中、ランドセルを揺らして走り去る少年の後ろ姿が、村上には眩しかった。

 少年を見送ると、男は一階の部屋のドアをノックした。

「おい。起きてるか」

 すると窓から若い男が顔を出した。

「修平くんは?」

「もう行ったよ」

「今出ます……」

 若い男は、酒のにおいをまき散らしてドアから出てきた。

 そして辛そうな顔で「すみません」と言う。

 彼にとっては、これが社長に対する日頃の挨拶だった。

 若い男は、ひどく痩せた体に、作業ズボンと長袖のトレーナーを着込んでいた。

 彼の名は島田茂。村上真央の弟だった。

 そしてひげの大男は村上大輔。真央の生前の夫であり、ひとり息子の修平を男手ひとつで育てる、小さな建設会社の社長である。

 茂は背中を丸めたまま、アパートの駐車場にあるワゴン車に乗った。

「忘れ物はないのか」と大輔が訊ねた。

「はい」

 茂は消え入りそうな声で答える。

「財布は持ったか? 仕事道具は? それと薬は?」

「全部大丈夫です」

「朝飯は食ったのか?」

「おれ、食欲ないんで」

「途中でコンビニに寄って何か買うか。おまえはゼリーのやつでも買うといい。名前は、えーっと、なんだっけな」

「ウイダーっすか」

「そう、それだ。さすがだな。おまえは賢いやつだ」

 大輔は笑顔でそう言い、車に乗った。

「元気出せ。何も心配いらない。すべて上手くいってるからな」

 車がエンジン音を響かせ、ゆっくりと走り出した。

 すると、大輔のワゴンと入れ違いで、一台の車が村上の方にやってきた。

 ちょうどアパートの目の前に停まったかと思うと、クラクションが短く鳴った。

 その途端、夢から覚めたように街から風が消え、鳥が鳴き止んだ。

 クラクションを鳴らした男は、古いキャデラックに乗っていた。

 スクラップ場から盗んできたような、ぼろい90年式のフリーウッド。

 トランクは半開きになっていて、人参の葉が馬の尻尾のように飛び出している。

 村上は右手を上げてその男に挨拶した。

 村上はコーヒーの水筒を片付けると、ヒールを引っかけてその車の助手席に乗った。

「半ドアだ」

 低い、不機嫌な声で男は言った。

「あら、ごめんなさいね」

 村上はドアを閉めなおした。

「でも、せっかく左ハンドルに乗るんだったら、もっといい車に乗ればいいのに」

「そうやって嫌味を言えるうちは大丈夫だな」

「何が?」

 男は馬鹿にするように笑った。

「泣いていたんだろう?」

「いいえ、コーヒーのおいしさに感動してただけよ」

「それはよかった。ジャマイカの人も喜ぶだろうな」

 そう言うと、男は小さな竹編みの箱を足元から取り出して膝の上に置いた。

 中には、手のひらくらいの大きさの、白いつるつるの包み紙にくるまれた丸い何かが入っていた。全部で四つあった。

 包み紙の中身が見えなくても、瞬く間に車内に広がった素敵な香りで、それが食べもの、しかもうんとおいしいものだということはすぐにわかる。

「朝ごはん? 今ここで?」と村上は訊ねた。

「安心しろ。きみのぶんもある」

「そうじゃなくて」と村上は言う。

「ここで食べなくてもいいじゃない」

「今日は月曜だ。休み明けは客も多いから仕入れも多い。おれは飯を食う暇なんてないくらい早い時間から走り回っていたんだよ」

「その足で?」

「いい冗談だ」

 男が包み紙の封を開けると、車内はたちまちおいしいにおいでいっぱいになった。

「グラハム・ベーグルのサンドウィッチだ」と男は自慢げに言った。

「具はクリームチーズとスモークチキン、それからバジルソースで和えた野菜だ」

 男の大きな口が、ベーグルにバクリとかぶりつく。

「この噛み応え……最高だぞ」と男は食べながら話す。

「やはりパンはこうでなければならない。噛めば噛むほど、その強い歯応えに思わず笑顔になる。ハード系のパンは、今まさにパンを食べているのだと実感できるんだ」

 村上は、ガツガツとベーグル・サンドウィッチを食べる男から目が離せなかった。

 ベーグルを噛み千切る音、口の中で咀嚼する音、そして飲み込む音。おまけに、たびたび上下するぼこっとでた喉仏。

 追い打ちをかけるように男は言う。

「クリームチーズはフレッシュタイプだ。スモークチキンは香辛料がピリっと効いて実にうまい。野菜も無農薬だぞ。知り合いの農家が送ってきたシャキシャキの新鮮野菜だ。ベーグルはGI値が低く油分がほとんどない。しかもグラハムだ。つまり、粗挽きされた小麦の表皮や胚芽も入っている。だから栄養満点だぞ。さらにおれが前日に作っておいたタネを今朝茹でて焼きあげたものだから抜群に鮮度がいい。噛むたびに麦の味が鼻を吹き抜けていく。それはまるでベーグルの発祥地、ポーランドのソスノビツァ草原を流れる春風のようで――」

「十分わかったから」と村上は言った。

「食べるわよ。食べればいいんでしょ」

「そうだ。それでいい。食欲には素直が一番だ」

 男はベーグル・サンドウィッチを村上に手渡した。

 仕方なく、といった表情を顔に張り付けて村上は包みを開けた。

 彼女の深みのある黒い瞳に、茶褐色のベーグルがはっきりと映った。

 具の野菜はたっぷり入っていた。ベーグルの上の断面にはマスタードの黄色が、下にはクリームチーズの白が彩りを華やかにしている。

 村上がベーグルにかぶりつくと、男がその顔を覗き込んだ。

「どうだ?」

「答えはわかってるんでしょ」と言って村上はもうひと口頬張る。

「当然だ」

「じゃあ聞かないでよ」

「おれはそのサンドウィッチを作った張本人だぞ。料理人を前にして、例のお決まりの台詞を言わないとはどういうことだ」

 村上はため息交じりに告げる。

「はいはい。おいしいですよ」

「そうだろう。おれは天才だからな」

 当然だ、と男はふんぞり返っていたが、子供のように嬉しそうな顔をしていた。

「そう言えば、みづきちゃんは一緒じゃないの?」

「寝ているか、掃除しているか、畑いじりをしているかだ」

「朝ごはん、一緒に食べなくてよかったの?」

「何年一緒にいると思っているんだ」と男は苦笑いで言う。

「それにあいつのぶんは厨房に置いてきた。食いものだけには鼻が利くから、すぐに気付くさ。あいつはうまいものを食わせておけばいつも機嫌がいい」

「相変わらず仲がいいことね」

「そんなことより、今朝は顔を見られたのか?」

「三人とも、いつも通りだった」

「それはよかったな」

「そうね」と村上は寂しそうに笑った。

「水筒の中身はまだ残っているか」と男が言う。

 村上は水筒を開け、カップにコーヒーを注いで男に渡した。

 すると男は不満げに顔をゆがめた。

「誰がコーヒーを注いでくれと頼んだ?」

「親切心でやったんだけど、いけない?」

「最悪だ」と男は答えた。

「おれがこの世で一番嫌いなものを知っているか?」

「ええ、食べ残しでしょ」

「じゃあ二番目は?」

「さあ」と村上は肩をすくめた。

「親切心だ」

 運転席の左側には、全開の窓にU字型の杖の持ち手がかけてある。

 握りから軸まで黒檀でできた、光沢のある一本杖だ。

 男は左の足が利かなかった。

 左足に大きな傷があり、男は満足に歩くことができないのである。

 男は苦い顔でコーヒーを飲み干して言う。

「きみはひどく驚くかもしれないが、おれはいたって健康体で、ひとりでコーヒーも注げるし、この通り一滴残さず飲むことだってできる。余計な優しさは迷惑だ」

「でも、あなたはわたしに優しいじゃない」

「おれがいつ、きみに優しくした」

「今も、昨日も、一昨日もここへ迎えにきた」

「これはついでだ」と男は眉をひそめた。

「もし店から市場までの通り道にきみの家やきみの家族のアパートがなければ、こんなことは絶対にしない」

「じゃあサンドウィッチは? わたしのぶんも作ったんでしょ?」

「これは作りすぎたんだ」

「あら、そうだったの?」

「おいしかっただろう?」

「だから何度言わせるの」

 苦笑いの村上とは反対に、男は満足そうにうなずく。

「ところで、きみがおれの店に顔を出すようになってどれくらいだ」

「三か月ってところね」

「まだまだだな」

「何が?」

「常連までの道さ」

「何様よ」

「シェフ様だ」

 村上は深いため息をついた。

「あなたと話してると、ますますみづきちゃんが可哀そうに思えるわね」

 男はふんと鼻で笑い、車を出した。

 やがて車は一軒の空き家の前で停まった。

 その家の玄関ドアには、不動産の広告が貼り付けられている。

 村上は車から降りて、運転席の男を覗き込んだ。

「ありがとうね。今日も送ってもらっちゃって」

「いつまでここに住むつもりだ」

「家具もアルバムも何もないけど、居心地は悪くないから」

「いずれ、ここも誰かの家になるぞ」

「もの好きでもない限り、ここを借りようとはしないわよ」

「夜は、店に来るのか?」

「さあ。気が向いたらね」

 そう言って立ち去ろうとした村上の表情が、途端に強張った。

 村上の視線の先には、学校に行ったはずの修平の姿があった。

「ねえ、あの子をここから連れ去って」

 彼女の言葉に、男は言葉を詰まらせた。

「聞こえなかったの? 今すぐあの子を車に乗せて、遠くへやって」

「おれに子供を誘拐しろって言うのか」

「そうよ!」

 村上の顔に普段の温厚な面影はまるでなかった。般若のように目尻を吊りあげて、彼女は車の後部座席に乗り込んできた。

「ここに来させないで! あの子をここから離して!」

「おいおい、馬鹿を言うなよ。きみは知らないかもしれないが、おれたちの世界ではそれを犯罪と言うんだ。刑務所でうまい飯を作ってやってもいいが、刑務所のまずい飯を食うのはごめんだ」

「燃やすわよ」

「なんだって?」

「言う通りにしないと、あなたの店を燃やすわよ」

「相変わらずきみたちは好き勝手言ってくれる」

 男は大きなため息をひとつして車をUターンさせると、そのままアクセルを踏み込み、少年の前で車を停めた。

 男は運転席から降りて、少年の前に立つ。

「やあ少年。いい天気だな」

 少年は目をぱちくりさせて言った。

「ダ、ダークディフェンダー!」

 男は首を傾げた。車内で村上が言う。

「ヒーローアニメよ。主人公があなたにそっくりなの」

「おれに? よほどの男前なのか」

「孤独な一匹狼で、悪人面なのよ」

 男は目を細めて少年を見た。少年は目をキラキラさせて、「サイン下さい!」とランドセルを開けた。筆箱からマジックを取り出し、男に差し出す。

「サインをやるから、車に乗ってくれるか?」

「乗るよ! 乗る乗る!」

 男はランドセルの裏に、可愛いまん丸の『羊』の絵を描いた。

 少年はその絵を見て、「何これ」と顔をゆがめる。

「おれのサインだ。なかなか洒落ているだろう。チョコレート細工の羊をデザートに飾るのが、おれの店では定番なんだ」

「ダ、ダークディフェンダーじゃないの?」

 すると突然、村上が少年の体を抱きかかえた。

 わっと声をあげて、少年は後部座席に吸い込まれる。

 村上は必死の形相で叫んだ。

「はやく車を出して!」

 男は諦めた様子で車に乗り込み、アクセルを踏んだ。



 大都会が遠くに見えるこの街は、のどかな住宅地として大勢の人が住んでいる。

 民家やマンションが立ち並び、道路はきちんと整備され、日が落ちても明かりが絶えることはない。安全で、平和な空気がこの街を包んでいる。

 だがときおり、こんな噂が風に乗って人々の耳に聞こえてくる。

「橋の向こうには悪魔が住んでいる」

 その噂は、ある日突然語られるようになった。

 川を渡った街の奥地、元は工場の集合地帯だった百メートル四方のいち区画から、突如として人が消えたのである。それもひとり残らず。

 その区画の建物は戦争跡地のように空っぽになり、破棄された古い家屋や所有者のいない工場が残るだけとなった。

 街の住人たちは、そこから忽然と人が消えた理由を知っていた。

 そしてもうひとつ。誰も口にしないが、人々はみな知っていた。

 その区域の奥、廃墟が立ち並ぶさらに奥地に一軒のレストランがあることを。

 またそのレストランは、夜の訪れとともにひっそりと明かりを灯すことも。

 物語は、いつだってそのレストランで始まる。


 この夜もまた、ひとりの客がレストランにやってきた。

 くたびれた背広姿のその男は、店の窓からそっと中を覗いた。

 男は目を細めた。彼には、店内の明かりが眩しく感じたのだ。

 男は観音開きのドアの片方に手をかけた。

 寂しげな鐘の音が鳴り、ドアが開く。

 光が男の顔に降り注ぐと、たくさんの音が彼に飛びかかってきた。

 まず聞こえたのは、客の話し声と笑い声だった。次にカトラリーや食器、そしてグラスの中でぶつかりあう氷の音。それから、鍋の中でジュウジュウと鳴る料理の音。

 男の目が光に慣れた頃、若いウェイトレスが彼のもとにやってきた。

 彼女はまるで日だまりのような笑顔をたたえていた。

「いらっしゃいませ」

 ウェイトレスは上下黒のユニフォームに、茶色い前掛けをしていた。肩までの髪は色がついていて艶がある。そしてどういうわけか、口元にご飯粒がひとつ。

「あのう……」

 男は自分の声の小ささに驚いた。誰かと話すのが随分と久しぶりだったのだ。

 男は自分の口元に人差し指をやった。

 するとウェイトレスはご飯粒に気付いた。

「あっ! ラッキー!」

 彼女はそう言ってそのご飯粒をつまみあげると、そのまま口に入れた。

 食べたのだ。ウェイトレスは動揺するどころか、口元にご飯粒がついていたことを喜んでいるようだった。

「どうかしましたか?」

 ウェイトレスは笑顔のまま言った。

「いや、なんでもないです」と男はかぶりを振る。

「それより、ここに来ればおいしいものが食べられると聞いてきたんです。お金はないんですけど……」

 男は唾を飲み込んだ。口の中がカラカラだった。

「大丈夫です。みなさんそうですから」

 ウェイトレスはにっこりしたまま、男を壁際の席に案内した。

 そこはふたり掛けの小さなウッドテーブルだった。椅子も木でできていて、ほどよい硬さのクッションに尻を付けると、男の口から安堵の息がもれた。

 それからすぐに、男はテーブルにメニューブックがないことに気付いた。

 壁をぐるりと見回しても、メニューの書かれた黒板や張り紙は見当たらない。

「お飲み物はいかがなさいますか?」とウェイトレスが訊ねた。

「じゃ、じゃあ生ビールで」と男は言った。

「いや、あるのかな?」

「ええ、もちろんです」

 ウェイトレスが厨房の方に向かう間、男は他のテーブルを見ていた。

 店内には大勢の客がいた。彼らはビールやワインなど、各々好きに楽しんでいた。中にはシャンパンを開けているテーブルもあった。

 ビールはすぐに運ばれてきた。ウェイトレスが縁の薄いグラスをテーブルに置くと、きめの細かい白い泡がふわりと揺れた。

「メニューはおまかせになります。でき次第お持ちいたしますが、特別お召し上がりになりたい料理がございましたらお申し付け下さい」

 ウェイトレスがそう言うと、グラスに伸びた男の手がピタリと止まった。

「なんでも作ってもらえるの?」

「はい。なんでもお作りしますよ」とウェイトレスは言った。

「うちのシェフは天才ですから。ご安心下さい、ナンチャッテ料理ではありません。レストラン『エリクシル』のオーナーシェフは、幼い頃から親の出張で世界各国を飛び回り、ホンモノの味を知り尽くした天才料理人です。ちなみに初めて作った料理はごく普通のホットケーキだと言ってました」

 そこでウェイトレスは悪い顔をすると、急に声をひそめて「真っ黒に焦がしたそうですけどね」と付けくわえた。

「今の話はここだけの話にして下さいね」

「わ、わかりました」

 苦笑いの男とは対照的に、ウェイトレスは満面の笑みだ。

 厨房はカウンター付きのオープンキッチンになっていて、中でひとりの男が料理を作っていた。

 寡黙そうなシェフだった。白のユニフォームは清潔感があり、袖は肘までまくっていて、白い肌に硬そうな筋が浮いていた。

 シェフは厨房の中を忙しそうに動き回っているが、歩き方がどこかぎこちない。

「それでは、ごゆっくりどうぞ」

 ウェイトレスはそう言って下がっていった。

 男はビールのグラスに触れた。グラスにはうっすらと霜がかかっていて、指先に触れた冷たさに男は身震いした。泡にはまだ張りがある。

 そしてとうとう、男はビールを飲んだ。ごく、ごく、ごくと音が鳴った。

 干からびた喉に、痛いほどの潤いが染みわたる。

 早々とグラスを空にした男は、どこか苦しそうで、幸せそうな顔をしていた。

 かつて彼は、健康のため、そして金のために酒を断った。長い間、大好きなビールを我慢してきた。だがそれも今日で終わりである。

 たちまち男は気分がよくなり、ウェイトレスにお代わりを頼んだ。

 彼女は素敵な笑顔で了解して、二杯目を持ってきた。

 男は壁に背をつけた。このレストランはいったいどんな料理を出すのだろう。そんな期待に濡れた目で店内を眺めた。

 この店は、ある一部の客にとってこの上ない天国だった。

 たったひとつだけ、その資格がある者はすべての飲み食いがタダになる。

 その条件とは、すでに死んでいること。

 実のところ、幽霊だって腹が減るのだ。

 レストラン『エリクシル』は、幽霊のためのレストランなのである。

 そしてこの夜もまた、レストランには大勢の客が来店した。

 賑やかな者、のどかな者、ひたすら食べる者、誰もが充実した時間を過ごしていた。

 みな生き生きとしていた。すでに死んでいるとは思えない、希望に満ちた明るい様子で食事を楽しんでいるのだ。

 この日初めてエリクシルを訪れた背広の男もそうだった。

 彼は二杯目のビールを、それが最後の一杯とでもいうように大事に飲んでいた。

 だがこのとき、男は店の客たちがちらちらと自分のことを見ていることに気付いた。

 男は前を向き直った。ビールの味が急に薄くなった。

 しばらくして厨房のシェフが言った。

「みづき」

 シェフの視線からして、ウェイトレスを呼んでいることは明らかだったが、彼女は接客の最中だった。接客といっても、注文を取っているのではなく、なんと客のテーブルに加わって料理を食べていた。

「これおいしい! あっ! これもおいしい! さすがうちのシェフです! 天才! チョー天才! 疲れもぶっ飛ぶくらい全部おいしい!」

 ひと口食べるごとに彼女は自分の店のシェフを褒めた。

 彼女の食べる姿はわんぱくな子供のようだった。誰よりもおいしそうに食べるからだ。まわりの客は、そんな彼女の姿を楽しげに眺めていた。

 食べてばかりのウェイトレスに、シェフは苛立った様子だった。

「おい、みづき。料理が出来上がっているぞ。取りにこないか」

 シェフがそう言っても、ウェイトレスは食べるのをやめなかった。

 それを見たシェフはため息をつくと、皿を持って厨房から出てきた。

 シェフは右手で杖をつきながら、男のテーブルまでやってくると、皿をテーブルに置いてこう言った。

「これは前菜『春雲丹のプリン。北海のスープ仕立て』だ」

 シェフの口調は少し乱暴で、顔には不機嫌の色が浮かんでいた。

「北海道で獲れた、この時期だけの若いエゾバフンウニを、ふんだんに使っている。スープは焼きあご、かつお節、真昆布で出汁を取り、シンプルに醤油だけで味付けしてある。スープの表面に浮いているのは北海道の糸もずく。食感を楽しんで欲しい」

 男は顔を皿に近づけた。

 艶やかな琥珀色のスープから出汁のいい香りが立ち上っている。

 きれいな黄色の雲丹のプリンは目にも美しい。上には刻んだ三つ葉が飾られていて、若緑の葉が湯気にひらひらと躍っている。

「おいしそうだ」

 そう言って男はスプーンを持つと、シェフにひとつ質問した。

 それはこの店を訪れた者なら誰でもしてしまう、禁断の質問だった。

「その杖、足が悪いんですか?」

 その瞬間、店内から音が消えた。

 笑い声も、話し声も、食器の音さえもすべて、客たちは動くのを止めた。

 男は何がなんだかわからないまま、息を呑んだ。

 するとシェフは今にも噛みつきそうな目でこう言った。

「まさか、障がい者の作った料理は食べられないとでも言うのか?」

 低い声だった。同時に重い言葉だった。

 男はすぐに立ちあがると、顔の前で手を振った。

「ち、違います。誤解です」

 シェフは背が高く、男は見下ろされる格好になった。

 男は泣きそうな顔で「本当にそんなつもりはなかったんです」と謝った。

 シェフは男の肩に手を乗せた。大きく、芸術家のように繊細な手だった。

 男は身震いし、恐る恐るシェフの顔を見上げた。

 するとシェフは狼のような険しい顔で「すまない。冗談だ」と男に告げた。

 そして何事もなかったように厨房に戻っていった。

 突然、店内で笑い声の爆発が起こった。

 キョトンとした男のもとに、大勢の客が波のように押し寄せる。

「悪かったなあ」と言いながらも、彼らはみな屈託のない笑顔だった。

 男はあっという間に他の客に囲まれてしまった。

 その様子を、ひとり冷静な目で眺めている客がいた。

 村上真央である。

 彼女はカウンターの端に座り、アーティーチョークのフリットをあてにワインを飲んでいた。ワインは二〇〇九年のメルロー。口当たりの爽やかな赤だ。

「あなたも人がいいのね。またくだらないお遊びに付き合っちゃって」

「ふざけるな。おれは被害者だ。だいたい足が悪いのがなんだって言うんだ。みんなそればかり気にして鬱陶しいことこの上ない。馬鹿にするやつも同情するやつもみんなまとめて料理にしてやるぞ」

 厨房の中で、シェフはぶつくさ言う。

「まったく……料理人の仕事は料理を作ることだ。どうして友達作りに協力しなくてはいけないんだ」

「何言ってんだか。乗り気なくせに」

「ドアホ。仕方なくやっているんだ」

 シェフはガスに火を点け調理を再開した。パチパチと音が鳴る。

 フライパンの上でニンニクが菜種油に弾かれる音だ。

 死は、ある日突然やってくる。

 そしてたいていの場合、人はひとりで寂しく死ぬ運命にある。

 充実した人生を送っていた人もそうでない人も、死ねば誰もが孤独になる。

 かつてこの店は孤独な客であふれ返っていた。

 店の雰囲気は最悪で、誰かのすすり泣く声が聞こえない日はなかった。

 そんなとき、レストランの常連客がある提案をした。

 その提案は、この夜の出来事のように、死者と死者を繋ぐ懸け橋となった。

 死んでいるという共通点が、彼らの強い絆だった。

 新しい客の男は、さっそく常連たちの輪に加わっていた。

「あんた、どうやって死んだんだい?」

「おれはビルの窓拭きの仕事中に転んで真っ逆さまさ」

「わしはトイレで踏ん張ってたら頭の血管がプッチン」

「ぼくは気付いたら死んでた。たぶん酔っぱらって道路で寝てたせいだね」

「あいつは今日きてないのか。プールに飛び込んで心臓が止まったやつだ」

「ねえ、この人はごみ収集車に引きずり込まれてペチャンコになったのよ」

 初めは作り笑いを振りまいていた男だったが、すぐにまわりの客に溶け込み、彼らと同じ楽しげな表情になった。

 その様子を眺める村上もまた、ワインをおいしく味わうことができた。

「ねえ。そういえばみづきちゃんはどこ?」と村上は訊ねた。

「そこだ」

 シェフが顎で指した場所は、厨房の奥だった。そこに、彼女はいた。

 ウェイトレスは春雲丹のプリンを食べていた。口をモグモグさせて、村上にスプーンを振る。

「あ、ろうも!」

「あなた、本当に食いしん坊ね」

「だってこれ、すごくおいしいんですよ!」と幸せそうにウェイトレスは言う。

「雲丹の味がとても濃厚で、上品な香りがワーって口の中いっぱいに広がるのです! それに薄口のお出汁がチョー最高ですね! 主役の雲丹をまったく邪魔しません! もずくもシャキシャキで、とてもいいアクセントになってますね! 目を瞑ると海にいるような気分! おいしい! おいしすぎます! 百二十点満点です!」

「当然だ」とシェフは冷たく言うが、満更でもなさそうだ。

 ウェイトレスはスープを一滴残さず飲み干すと、満面の笑みで訊ねた。

「シェフ! お代わりありますか?」

「今日の仕事が終わったらいくらでも食っていいぞ。だから精いっぱい働いてくれ」

「死ぬまで働きます!」

「それは助かるよ」

 シェフはかすかに笑ってそう言った。

 ちょうどその頃、シェフの手元で料理が完成しようとしていた。

 筍と真鱈の耳たぶパスタ。

 ホイルで包み焼きにした筍と、小麦粉をまぶしてカリっとソテーした真鱈、それに耳たぶの形に成形したモチモチのパスタを、濃厚なクリームソースで和えた一皿だ。

 パルミジャーノを贅沢に振って、最後に細かく刻んだシソを散らして完成である。

「おいしそう!」とウェイトレスが真っ先に皿に飛び付く。

「これわたしのですか? わたしのですよね? 頂きまあす!」

「待ち待て。それは客のだぞ」

「それなら、あとでわたしにも作って下さいね?」

 ウェイトレスは笑顔で舌を出すと、客のテーブルまで皿を運んでいった。

「ホント相変わらずね」

 村上は薄ら笑いで言った。

「あいつは昔からああだからな」

「あなたも変わらない。お客様を平気で『客』呼ばわりだものね」

「当然だ。全員タダ食いなんだからな。おれは別に、死んだ連中に対する慈悲の心でこの店をやっているわけじゃない」

「ならどうしてこの店を?」

 シェフは答えなかった。切れ味のよい包丁がみずみずしいセロリをスライスし、その音がふたりの間に絶え間なく響いている。

「だんまりね。男らしくない」

 村上は言った。このとき彼女は、ワインのボトルを三本開けたうえに、四本目の白ワインをグビグビとやっていた。ラ・セットの白ワインはほどよく冷えた、メキシコ産のフレッシュなソーヴィニヨンだ。

 村上の頬はほんのり上気している。

 あては車海老の真薯。車海老の身をすりつぶして、だし汁と山芋、卵白と混ぜ合わせて揚げたものだ。プリプリの食感に白ワインが進む。

「じゃあ、どうしてそんなにリッチなわけ?」

「さあ、どうしてだろうな」

「親が資産家なの? 遺産が入った? それとも宝くじがあたったとか?」

 シェフは答えようとしなかった。

 黙々と手を動かし、瞬く間にセロリとオレンジのシチリア風サラダが完成する。

「わかった」と村上が人差し指を立てた。

「人を殺して大金を奪ったんだ」

 シェフは村上をにらみつけた。

「話しかけないでくれ。気が散るんだ」

 村上はむっとして言い返す。

「あなた、絶対客商売に向いてないわよ」

「ご忠告どうも」

 料理は次々に完成し、次々に運ばれていく。

 蛍烏賊と菜の花のカプレーゼ。

 桜肉のパテ・ド・カンパーニュ。

 蚕豆と姫サザエのレモンソテー。

 アスパラソバージュのペペロンチーノ風。

 タピオカ入りのフルーツソルベの盛り合わせ。

 デザートには、『羊』のチョコレート細工のおまけつきだ。

 店の料理は、付け合わせのパンからベーコンやハム、そして当然スープに使うブイヨンやソースのためのフォンまで何もかもすべてシェフが作っている。

 食材は市場の新鮮なものを使い、料理はどれも手作りだ。

 厨房はいつも熱気が立ちこめているが、シェフは汗ひとつかかずに涼しい顔をしている。テキパキとした彼の動きには一切の無駄がない。

 ところがウェイトレスはというと、皿を運びながら手元の料理に釘づけになっていて、今にもよだれが皿にこぼれ落ちそうだ。

 それでも彼女が客のテーブルに皿を置き、料理の説明をしている姿は、誰が見ても最高の笑顔になる。

 レストラン・エリクシルは、このふたりが切り盛りをしている。

 シェフの方は、獣のようなおそろしい目付きをしているが、『日辻』という穏やかな名前の持ち主だった。

 顎のラインはすらりとシャープで、形のよい鼻は彼の自尊心と同じくらい高い。

 日辻の好きなことは、旬の食材を手に取ってどう料理するかイメージすること。

 そして実際に作ること。食べた人からおいしいと言ってもらうこと。

 料理以外では、杖を収集する趣味もある。

 今はお気に入りのステッキショップで、スネークウッド・ステッキを探してもらっている最中だ。価格は三百万を軽く超えるが、日辻はわけあって大金持ちである。

 また、日辻は褒められることも好きだ。

 おいしい、天才、あるいはかっこいい。そういう褒め言葉が彼の大好物である。

 嫌いなものは煙草の煙。レストラン・エリクシルは完全禁煙である。

 ウェイトレスの方は、みづきという名の小柄な女だ。

 好きなことは、おいしい料理を食べている自分をイメージすること。

 そして実際に食べること。彼女はとても幼い顔立ちをしているが、実は異次元の胃袋を持っている。ただし、おいしいものに限っての話だが。

 嫌いなものは食べ残しと、大好物を横取りされること。

 みづきは一番好きなものを最後にとっておくタイプだ。

 たとえば、ホイップクリームがたっぷりついたイチゴ、ミートボールパスタの肉団子、そしてみづきが考案した羊のチョコレート細工などなど。

 断りなくみづきの大好物を横取りしてしまったら最後、その後は日辻にも手に負えなくなるとの噂だ。みづきにとって、食べものの恨みはそれほど怖いのである。

 足が悪くても腕はいいオーナーシェフと、看板娘の食いしん坊なウェイトレス。

 幽霊の見えるこのふたりが、夜の寂しい街並みを温かい光で照らしていた。