0‐0



     凸


 サメ先輩のフォアハンドがネットにかかった瞬間、相手の選手が拳を振り上げ勝利の雄叫びをあげた。山吹色の応援団がどっと湧き、Dコートは割れるような大歓声に包まれる。藤ヶ丘高校対山吹台高校、S1の決着――両チームの雌雄はすでに決していたが、その敗北はやはり痛かった。ベスト8。それがその年の都立団体戦における、藤ヶ丘高校の順位となった。


 ダブルス2を制したものの、ダブルス1とシングルス三本を取られトータル1‐4で敗北。シングルス1で敗北が決まった瞬間、サメ先輩はラケットを取り落とし崩れ落ちた。泣かない人だと思っていた。でも結果的には、今年で引退するどの三年生よりも、二年生で来年があるサメ先輩が泣いていた。たぶんそれでみんなスイッチが入ってしまって、無愛想が人の皮被って歩いているようなあの曲野すら、目元を覆ってうつむいていた。

「やっぱ強いな、山吹台は」

 引退が決まったソラ先輩の声は湿っていたが、顔は笑っていた。無理して笑わなくてもいいのに、と思う。こんなときくらい……でもそれがソラ先輩だ。笑って去っていくのがソラ先輩らしかった。だから駆も顔を上げて、無理矢理笑おうとして――結局くしゃくしゃに歪めるしかできなかった顔を三年生に笑われた。

「三年ってのは短いよ」

 と、ソラ先輩は言った。駆と、曲野を見ていた。

「あっというまだ。ついこないだ入部したと思ったら、いつのまにか部長になってて、気づいたらもう引退しちまってる。俺、いつ三回も夏を通り過ぎたんだよって。まだ一回目の夏が終わった気すらしないのにな」

 ポン、と頭に手を乗せられる。

「おまえら、来年になったらもうチームの中心だぞ。後輩入ってくんだからな。わかってんだろうな」

「うっす」

 曲野が掠れた声で返事した。情けない声だと思ったけど、駆のハイという返事も大概しわくちゃだった。

「わかってなさそうだなー、おまえら」

 ソラ先輩は顔をくしゃくしゃにして笑って――それから最後に、ちょっとだけ泣いた。ソラ先輩は楽しかったとは言わなかった。楽しかった以上に、きっと悔しかった。そんなこと、みんなわかっている……。

 新部長はサメ先輩になる。副部長は獅子田先輩。これから夏合宿があって、二学期が始まって、新人戦があって……そうして季節は巡って、また夏がやってくる。新体制は今日から始まるのだ。明日から、なんて言ってられない。時間は待ってくれない。

 それでも今この瞬間、部長が引き継がれるこの隙間の時間だけは、どことなく宙に浮いてしまった、中途半端な時間なのかもしれなかった。前に踏み出すことも、後ろを振り返ることもできない、宙ぶらりんの時間なのかもしれなかった。

 駆はぼんやりと、ほんの少し前まで自分が立っていたはずの、緑色のコートに目をやった。夏の日差しに照らされた山吹台のオムニコートは、砂が陽光にキラキラときらめいてなんだか神聖な感じがした。テニスの聖地は、ウィンブルドンだ。イギリス、ロンドン、天然芝のセンターコート。でも日本の公立の高校生に過ぎない自分たちにとっては、このたった四面の、ろくに観客も入らない、都立高校のオムニコートが聖地なのだと思った。ここがオレたちの、ウィンブルドン。

「また来んぞ」

 隣で曲野がぽつりとつぶやいた。ふっと、宙ぶらりんの時間が終わるのを感じた。

「オウ」

 駆は短く応じた。

 真夏の太陽が、さっさと泣き止めと言わんばかりに、涙で濡れた頬を乾かしていった。



   0‐1



     凸


〈九月一日、七時五十五分〉


 七、八月とほぼ毎日のように通っていたから、夏休み明けの学校に新鮮味なんてないだろうと思っていた。

 駆は軽快に自転車を漕ぐ。自宅前の急な坂道は、以前よりも一つ重いギアで上れる。狭い道を、車と車の間を縫うようにして抜けるのも慣れた。緩く長い下り坂で復路の上りを考えることも、最近はあまりない。――それでも、制服姿の生徒たちがわらわらと校門を潜り抜けていくのを見ると、ふっと二学期なんだなあという実感が湧いてくるから不思議だった。四十日ぶりに着る制服は、新品でもないのに〝袖を通す〟という感じがする。九月の空気は、どこか新品のにおいがする。

 学校の近くの呉服屋の前で少し自転車を止めた。ショーウィンドーに映った自分を見て髪をいじる。春先に染めた茶髪は夏の間に色が抜けて明るくなった分、旋毛周りが前から見ても黒く目立つ。染め直すか、黒に戻すかなあ。ぼんやり考えながらペダルを漕ぐうちに前輪が学校の敷地をまたぐ。

 明らかに密度の違う駐輪場に自転車を滑り込ませながら、夏休みの間はめんどくさがってかけなかったチェーンをきっちりかけ、コートへ向かった。朝のテニスコートは閑散としている。一学期の間は、自分より早く朝練に来るのはソラ先輩しかいなかったし、そのソラ先輩はもう引退してしまった。あの人はもう、選手としてこのコートには来ないのだ……。

 それでもテニスコートの前に人影があるのを見つけたとき、「ソラ先輩?」と声をかけてしまったのは、まだその事実を実感できずにいたからなのかもしれない。

「ん?」

 振り向いたのは、知らない顔だった。途端に気まずさがぶわっと全身の毛穴から噴き出して、駆は慌てて視線を泳がせた。

「あっ、すいません、人違いでした……」

 逃げるようにその場を去ろうとするが、「ねえ、キミ」と、呼び止められる。振り返ると、そいつが駆の背中を指していた。

「テニス部?」

 ラケットバッグを見て言ったのだろう。うなずくと、「硬式?」と確かめられる。

「そうだけど……」

「この学校に、曲野琢磨クンがいるってホント?」

 と、そいつはなんでもないふうに曲野の名前を出してきた。そこで駆は初めて、そいつの顔をまじまじと見た。

 日に焼けた肌は、運動部であることを匂わせていた。どこか人を食ったような態度に見えるのは、緩んだ笑顔のせいか。黒い髪は天パーなのか少し巻き気味で、けれどそれが人懐っこそうな顔つきによく似合っていた。なんとなく、森に似ていると思った。お隣の四組で同じテニス部の森も、人懐っこく笑う少年だ。

「だったら、なに?」

 それでも少し、食ってかかるような口調になってしまったのは、そいつの笑みが森のそれとは別種の――一種の嘲笑に感じたからだろう。あと、どことなく曲野の名前の出し方が気に食わない。

「いるっつったら、どうするわけ?」

「別にどうもしないけど」

 と、少年は朗らかに笑った。

「ただ、いるって聞いたから。朝練出てるのかなーって思って」

 中学時代それなりに有名だった(らしい)曲野のウワサを、コイツもどっかで聞いてきたのだろう。

「あいつは来ねえよ。朝超弱ぇんだ」

 つい言ってしまってから、失敗したと思った。少年がしたり顔をしている。

「へえ。じゃあ、ついでに訊くけど、その曲野クンと組んでるシンドークンって知ってる?」

 シンドークン。

 今度は明らかに、言い方に含みがあった。

 駆は顔をしかめながら、

「オレだけど」

 と、不機嫌に言い放つ。

「えっ」

 さすがに驚いたようだった。少年は駆をじろじろと見て、それからなにか勝手に納得したみたいに肩をすくめた。

「……なるほど」

 なにがなるほどなんだ。

「おまえ、誰だよ」

 そのまま歩いていこうとする背中に、乱暴に問いかける。少年は一度立ち止まって、それから駆を振り返ると含みありげにニヤリと笑った。

「新海。新海涼。よろしくネ、シンドークン」

 そのとき初めて、駆はそいつが肩からしゃもじ形をした黒い袋をかけていることに気がついた。あの形は、ラケットだ。


 ハードな夏休みを経て、こんがり小麦色に焼けた手足は、リストバンドと靴下のところだけが白いままで、夏の勲章みたいに輝いている。誇るべきは焼けた肌の方なんだろうけれど、目立つのは白い部分だ。まだ真夏の余韻を帯びている九月の教室で、靴と靴下を脱いで足をぷらぷらさせていたら、裸足なのに靴下を履いてるみたいだ、と四十日ぶりに会うクラスメイトに笑われた。焼けたねー、海でも行ったの? えっ部活? 何部だっけ? テニス? 夏の子だねー。なんだかだんだん、ガキって言われてるのと大差なくなってくる。

「二学期といえばさ」

 いつのまにか話に混じっていた宙見光(女子テニス部も夏場はみっちり練習していたので、こいつもこんがり焼けている)が、ニヤと話題を振った。

「くるかな、転校生」

「なんで二学期といえば転校生なんだよ」

「だって新学期だし。大概新学期じゃない? 転校生くるタイミングって」

「転校生の前に曲野が来てねえけどな」

 駆はぼんやりとつぶやいた。時計の針はすでに八時二十四分をさしているが、曲野琢磨の席は空席のままだった。初日から遅刻とはいい度胸だ。オレだって初日から遅刻はしないように、朝練を早めに切り上げてきたっていうのに……ふっと、朝出逢った奇妙な少年のことを思い出して、少し顔をしかめる。

「さっき来てたよ。日直で一緒だった。職員室出たら消えてたけど」

 宙見が少し怒ったように言った。学校には来てるのか。なにしてんだか……。

 結局曲野は先生とほぼ同時に教室にやってきた。なんだかぼんやりした顔をしている。ぼんやり、というのも一種の無表情な気がするが、一人だと基本無表情な曲野だと、それすらも珍しい表情の変化だった。ま、別にどうでもいいけど。

 転校生はやはり、こなかった。――少なくとも、三組には。


「なにはともあれ新人戦だよ」

 と森は言う。

「二週間もしたらすぐ始まるだろ。おまえらウチのダブルス1なんだから、藤ヶ丘の顔に泥塗るんじゃねーぞ」

 昼休みの一年三組で、テニス部の一年男子三人が額を寄せて弁当を食うのは見慣れた光景だ。

「えっらそうに」

 と曲野が眉をひそめた。

「だいたい、新人戦なんて勝ったって別になんにもないだろ」

「これだから素人は」

 芝居じみた仕草でチッチッチと指を振ると、森はペラペラといつもの調子でしゃべり出す。

「新人戦の先に総体みたいなデカイ大会があるわけじゃないけど、その結果次第でポイントがつくんだよ。ポイントを多く稼いだ順に、十一月に行われる都選抜の出場権が与えられる。さらに都選抜を勝ち抜いた上位二校は関東選抜に出場、ここで勝ち上がれば三月の全国選抜に出場できる。つまり、新人戦は全国選抜の予選みたいなもんなのさ。そう言われると、冬のインハイって感じがしてくるだろ?」

 駆は全国選抜に出場する自分の姿を想像してそわそわと身じろぎしたが、曲野の反応はドライだった。

「全国選抜なんてムリムリ。山吹台くらい化け物なら別だけど、ウチはあくまで一介の公立高校なんだぜ、分不相応ってもんだ」

「山吹台だって公立じゃねーかよ」

 と、駆は思わず口を挟んだが、曲野は鼻で笑った。

「だから言っただろ、山吹台は化け物なんだって。インハイ出てるってことは、私立含めても東京で二本の指ってことだ。その山吹台に都立戦でボコボコにされた俺たちが、いったいぜんたいどうやったら全国選抜に出られるんだよ。強豪だったっていう昔ならともかく……おまえだってわかってるだろ、山吹台の強さは」

「まあ……そりゃ……」

 駆はしゅんとなる。都立戦の惨敗は記憶に新しい。

「そのダブルス2に勝ったお二人がなにを弱気な」

 と森がおどけて言った。確かに都立戦で唯一山吹台から奪い取った白星は、駆と曲野のダブルス2だったが……。

「あれは奇跡だった」

 曲野がけろっと言った。

「都立戦仕様だったんだろ、山神・尾関ペアは。確かに尾関は黒井さんに勝ってるらしいけど、そのとき黒井さん怪我してたって噂もあるし。今年の山吹台はかつてなく強い代だったと思うけど、層が厚くないんだよ。そういうとこは公立っぽいな……」

「層が厚くない、ねえ……あれでかよ」

 駆はぼやいて、少しだけ夏の試合を思い出した。あの、特別な、真夏の一戦。山吹台高校は都立の強豪で、インターハイにも出場している怪物高校だ。一年で準エースを張る山神仁、同じく一年で駆にとっては少なからず因縁のある尾関浩太、二年生で実力者の黒井陽平など、粒ぞろいの選手がその名を連ねる。今夏の都立団体戦、山神・尾関ペア相手に、苦戦に次ぐ苦戦の果て、かろうじて勝利をもぎ取ったのは記憶に新しい。

 思えば、公式戦はあれ以来一度もしていないのか。夏合宿以降、曲野は手首の怪我でずっと練習に参加させてもらえていなかったし、そもそもインハイを予選で敗退してしまった藤ヶ丘には公式試合そのものがなかったのだ。

「……試合してえな」

 駆はぼやいた。窓の外に、青空が広がっている。九月だけど、まだ夏の空だと思った。青く澄んだ、どこまでも透き通るような夏の空。思いきり汗をかきたくなるような、高い空。

「だから、新人戦だろ」

 森がニヤとして言った。

 今度は曲野もなにも言わなかった。怪我の間、一番フラストレーションを溜めていたのはなんだかんだ言ってコイツなんだろう。口に出さないときは、だいたい同意だということは最近わかってきた。


「しゅーごーう」

 サメ先輩の号令は、未だになんだか慣れない。マイペースで飄々として、周囲でなにが起きても我関せずって感じのサメ先輩がきちんと部長をやっているのは不思議な感じがする。

「夏休み明け一発目なんで、とりあえず怪我とかないようにー。怪我明けのやつは特に! いいな曲野ー」

「はい」

 曲野が気のない返事をしている。気のないように見えるだけで、実際はちゃんとわかってるんだろうが、一ヶ月近くテニスを目の前にしてお預けを食らい続けたその表情は、話を聞いているようにはとても見えなかった。都立戦で無理をして手首を悪化させた曲野は、以降の合宿はもちろん夏の間もろくに練習をさせてもらえていなかったので、同じコートに立つこと自体がほとんどひと月ぶりだ。ボールが打ちたくてうずうずしている相方の姿は、なんだか心強くもあるし一方で無性に不安でもある。

「アップちゃんと取れよ、病み上がり」

 声をかけた。曲野がゴミでも見るような目でこっちを見た。

「怪我のときは病み上がりって言わないんじゃね」

 森が余計な揚げ足を取る。

「まあ、でも確かに、お大事に」

「バカがバレるぞ、おまえら」

 曲野がため息をついたとき、ガシャン、とコートの扉が開く音がした。

「遅れてすんませーん」

 妙に緊迫感のない声だった。全員の視線がぱっとそちらを向いた。「ア、忘れてた」とサメ先輩がぼやくのが聞こえた気がする。なにを、と問い返す間もなく駆も「アッ!?」とうめき声をあげた。

「今日は新入部員がいます。はい、挨拶」

 サメ先輩が「初日から遅刻してんじゃねーぞ」と小突いたのは、今朝コートのところで見かけたニイミリョウと名乗った少年だった。

「ども。新海涼っす」

「朝の!」

 アサノ? と曲野と森が首をかしげたが、駆の目は新海しか見ていなかった。毛先の巻いたくせっ毛。日に焼けた肌。人を食ったような緩んだ笑み。間違いない、今朝テニスコートのところにいた、あの少年だ。

 新海涼は駆と琢磨を見つけると、なにか楽しいいたずらでも思いついた悪ガキのようにニヤリと笑った。


 両手でフォアハンドを打つ男子選手はあまりいないらしい。

 体の利き手側で打つショットのことをフォアハンドというが――基本的に片手の方が可動範囲が広くリーチも長いため、利き手一本で打てるならそれに越したことはない、というのが一般的な理由だ。両手打ちのフォアは、稀にパワー不足の女子で見られる程度だという。

 逆にバックハンドの方は、圧倒的に両手打ちが多い。事実、藤ヶ丘でバックが片手打ちなのは、駆と同じくソフトテニス上がりの獅子田先輩くらいだ。バックは利き手の反対側で打つため、利き手を使って打とうとするとどうしてもフォアに比べて動きがぎこちなくなる。そのため、動かしやすい反利き手のフォアを打つイメージで、それを支えるように利き手を添えて打つのが両手バックハンドというショットで(利き手メインで打つ人もいるそうだが)、多くの人はこちらの方が打ちやすいと感じるようだ。もちろん片手の方がリーチは伸びるので、片手で打つ選手も少なからずいる。だがその割合は、比較的片手が多い男子でも競技人口の三割、ないし二割くらいではないかと言われている。

 しかし、両手フォアハンドの少なさは片手バックハンドの比ではない。とくに男子は片手で十分パワーショットが打てるので、女子ではちらほら見られる両手打ちフォアハンドもほとんど見られないのだ、と森は言う。割合的にはおそらく余裕で一割を切る。実際、藤ヶ丘にも両手でフォアを打つ選手はいなかった――少なくとも、今日までは。

 新海涼は、両手フォアハンドのテニスプレーヤーだ。

 そのキレのあるショットは山神を彷彿とさせる。両手であるメリットを最大限生かしたコンパクトながらパワフルなスイングは、インパクトの瞬間にジャリッ、とガットでボールを削るように順回転をかけ、伸びのあるパワーボールを生み出す。

 だが、真に驚くべきはその両手フォアハンドのデメリットともいえるリーチの短さ――それをカバーするフットワークの軽さだ。

「はえーな、あいつ。足もけっこう長えよな」

 一緒にラリーを見ていた森が、ぼそっとつぶやいた。手足が長い、といえばまっさきに曲野が思いつくが、やつはその手足のわりに体力も脚力もないので実のところフットワークがそこまでいいわけではない。一方の新海は、さすがに曲野ほどのウィングスパンがあるわけではなかったが、決して小柄ではないその体躯で軽快にコートの上を駆ける。新海の足元ではオムニの砂が波立つように跳ね、やつがラケットを振るたびにバチィンとラケットの芯をとらえたいい音がする。

「ちょっとお前に似てるな」

 森がぼそりと言ったので、駆は顔をしかめた。

「どこが」

「いや、フォアが得意で足が速いって」

「そんな選手いくらでもいるだろ」

 山吹台の山神だって。森は首をひねった。

「んー、なんつーかな、あと空気が。なんとなく」

「……似てねーだろ」

 少なくともあんなへらへらした空気は出してない。

「そうか? まあ、どっちでもいいけどさ――お?」

 不意に森が声をあげたので、駆もコートに目を戻した。新海と曲野がラリーをしているところだった。

「どした?」

 駆が問うと、森は首をかしげた。

「いや、今新海が片手で打った気が……」

 見れば、ボールを打ち返した曲野も変な顔をしている。

「へ? バック?」

 新海はバックも両手打ちだが。

「いや、フォア」

 駆は新海をまじまじと見た。今度は普通に両手で打った。

「……スライスじゃなく?」

 スライス――いわゆる逆回転のショットは、相手から強烈な一発をもらったときそれをしのぐように使うことがある。スライスは両手フォアの選手であっても片手で打つことが多い――そういう意味で訊いたのだが、森は首を横に振った。

「そういう感じじゃなかったぞ」

 それからふと、苦笑いした。

「っつか曲野が練習のラリーで強打しないの、知ってるだろ」

「確かに」

 もともと曲野は、あまり強打を使わない選手だ。ウォーミングアップのストレートラリーならなおさら、新海がスライスでしのぐような状況は起こり得ない。じゃあなんで、新海は急に片手でフォアハンドを打ったのだろう……。

 それから何度か新海のラリーをチラ見したが、結局彼が片手でフォアハンドを打つことは一度もなかった。それでも、曲野が新海を見る目が、少し戸惑いを含んだものになっているようなのが少し気になった。


 練習ではコートで打つだけでなく、トレーニングもやる。藤ヶ丘ではラダーとメディシンボールをよくやる。

 ラダーというのは文字通り梯子(紐でできている)を使ったトレーニング。ラダーを地面に伸ばし、梯子の一マス一マスに足を入れたり出したりしながら、ラダーに沿って横向きに移動していく、フットワーク強化の練習だ。

 ソフトテニス時代から駆はこれが得意で、今も部では一番速い。なので順番にラダーに入っていくとき、後ろに入るといつも嫌がられる。「だっておまえすぐ追い上げてくるんだもん」と森なんかは心底嫌そうな顔をする。唯一嫌がらないサメ先輩はいつもゆるゆるとやっている。「速ければいいってもんじゃないよ」と言いながらのろのろやりすぎて獅子田先輩に怒られる。こういうときは副部長の獅子田先輩の方が、もっぱら部長っぽい。新海はフットワークがいいだけあってやはり速かった。

 その後はメディシンボール。メディシンボール・トレーニングというのは、重さ三キロくらい、バスケットボール大くらいの球を二人一組になって投げ合うトレーニングだ。もちろんドッヂボールのように軽々とは投げられないので、両手で、体全体を使って体幹をひねるようにしながら投げる。動きとしては、ハンマー投げのリリースの瞬間なんかが近いのかもしれない。これを、フォア側とバック側、両方から交互にやる。体幹の動きはフォアバックともにストロークのときと同じなので、上手に遠くに飛ばせる人ほど、ストロークでも体を使えていることになる。

 駆は新海と組むことになった。ひゅっと腰を沈ませて、ぐんっと高く放る。駆の投げたボールは山なりに飛び、三メートルほど離れた新海の前で一度バウンドして彼の手元に収まる。

「ナイスボール」

 新海がニヤとして言った。なにヘラヘラしてんだよ。

 早く投げろ、と駆はジェスチャーで示す。新海の体がひねられ、腰が深く沈み――それから体がぐんっとしなって両手の砲台からメディシンボールを打ち出す。高く飛んだボールはほとんどノーバウンドで駆の足元に届いた。オムニの砂が弾けるように跳ね、駆のすねにパラパラと当たった。駆は片眉を吊り上げる。

「……ふんっ!」

 今度はバック側から投げる。駆はフォアよりもバックの方が苦手だ。それはシングルバックだからとか、フォアの方が武器だとか、そういうことよりも根本的に、バックは体を使って上手く打てていないのだ。手打ち、というか、ほとんど腕の力だけで強引にボールを飛ばしている。だからメディシンボールを放るときのイメージを、もっと強く体に刻まなければいけない。

 ボールは新海に届くまでにツーバウンドした。思わず舌打ちする。すぐさま新海がバック側からボールを放ってくる。ばむっ、とバウンドする前に駆は思わず一歩後ずさっていた。完全にノーバウンドで届いていた。寸前まで自分が立っていた場所に落ちたボールをキャッチしながらじろ、と前を睨む。新海は相変わらず、人を食ったような緩い笑みを浮かべている。

「おまえ、片手でもフォア打てるの?」

 思わず、そんなことを訊いてしまった。これだけ体幹が使えるなら、基本さえ押さえていれば片手でも相当打てるはずだ。

「打てるよ」

 新海はさらっと肯定した。

「でも両手に慣れてるから、基本は両手かな」

 そう付け加える。ボールを投げるように手招きしてくる。

 駆はフォア側から思いっきりボールを放ったが、やはり新海に届くまでに地面についてしまった。

「ナイスボール」

 新海がまた言った。それから、思い出したようにつぶやいた。

「そうだ、シンドークン」

 ぐっと体が沈み込み、背中が見えるほどに体がひねられる。

「次、琢磨と組むから」

 ボールがぐんっと高く飛んだ。駆は二歩下がってそれをキャッチしながら、首をひねった。メディシンボールのペアのことかと思ったのだ。曲野はサメ先輩と組んで病み上がりよろしくへろへろとボールを飛ばしている。今のあいつと組みたいなんてもの好きだな。

 ――だがそのすぐ後のダブルス練習で、駆は自分が思い違いをしていたことに気がつくことになる。


 新人戦のメンバーは、八月中に決まっていた。シングルスにサメ先輩、曲野、獅子田先輩、進藤。ダブルスに曲野・進藤ペア、獅子田先輩・手嶋先輩ペア、西先輩・森ペア。すべて個人戦で単複重複可。シングルス四枠、ダブルス三枠もあると、うちのような人数の少ない学校は全員出場できてしまう。すでに申込みは終わっていて、ダブルスは曲野が復帰する二学期から練習することが決まっていた。

 ――はずだったのだが。

「今日のダブルス練、曲野は新海と組め。進藤はシングルス練入れ」

 サメ先輩がそう言って、しばし部内を騒然とさせた。新人戦のメンバーは、すでに決まっていたはずじゃ?

 当事者の視線を感じたのか、サメ先輩が駆と曲野を交互に見る。

「新人戦のダブルスは、曲野・新海でいく。進藤はシングルスに集中しろ」

 駆は一瞬曲野と顔を見合わせ、それから二人そろってまじまじとサメ先輩の顔を見た。

「「……はい?」」