プロポーズの言葉は決めていた。

 問題は場所だ。どこでしよう。今日一日、彼女とデートする前からずっと考えていた。雰囲気的には夜の方がいいので、まだ時間に余裕はあるけれど、このまま夜景の綺麗なところまで車を飛ばすか、それとも今この瞬間にでも言ってしまおうか……ずっと迷っていた。

 プロポーズの仕方でこんなに悩むのもどうかなと、自分でも思う。場所なんかに拘らず、さっさと男らしく言ってしまえばいいのだ。けれども、プロポーズの時くらいは恰好をつけたいという思いが強かった。

 ふと、断られたらどうしようという考えが浮かんできた。

 今まで、そんなことはただの一度も考えたことはなかった。絶対に成功すると思っているし、すでにそのあとの展開、ハネムーンはどこに行こうかとか、どの街に住もうかとか、そんなところまで考えているのだ。

 これでもしプロポーズを拒否されたら相当に恰好悪いな。僕は自嘲気味に笑った。

「何か面白いことあった?」

 助手席に座っている瞳が話しかけてくる。

 僕は瞳を一瞥して、

「思い出し笑いだよ」

 前方の信号機が青から黄色に変わった。僕はブレーキ・ペダルを踏んで車を止める。

「それにしても、今日は人が多過ぎて厭になったな。まあ、それは周りの人間も同じだろうけど」

「宗一さん、ほんとに人混みは苦手だもんね」

「瞳もそういうの苦手そうなのに、全然平気なんだよな」

「一人だと息苦しくなる時もあるわよ。宗一さんや友達が隣にいる時は大丈夫だけど」

「僕も瞳といる時はまだマシな方だけど、やっぱり途中で頭がクラッときたな。人混みの中だと、自分のところだけ酸素が不足しているみたいだ」

 信号が青に変わった。アクセル・ペダルを踏む。

 僕たちの乗った車は、海沿いの道路を走り続けている。九月の下旬。三連休の初日。時刻は午後七時半。この時間ならいつもはさほどでもないのだけれども、やはり道路は混んでいて、あまりスピードは出せなかった。今のうちに決めなければいけない。あと少し進むと三方向に分かれる道の、いずれに進むか。直進すれば繁華街へ、左に行けば夜景が綺麗だと評判の場所へ、右に折れれば僕と瞳の自宅へと繋がる。

 僕は左の道を起点にして、《どこへ行こうかな天の神様の言うとおり》をした。

 結果は右の道へ進めと出た。つまり帰宅しろということだ。自分でやっておいて、果たしてこれでいいのかな、なんて考えている。

 やがて交差点に差し掛かる。僕は一つ息を吐いてから、ハンドルを右に切った。瞳も特に何か言ってくることはなかった。今日は朝から一日中遊び回ったので、疲れているのかもしれない。ちらりと瞳を横目で見ると、少し細めた目で流れゆく夜景を眺めていた。

「今日観た映画、どうだった? あの男がやったプロポーズの仕方で、これはいいなと思うもの、何かあった?」

 僕の問いに、瞳は考え込む仕種をつくった。

 今日プロポーズしようと決めていた僕は、ある映画を瞳と一緒に観た。平凡な主人公が、猛アタックの末に超のつく美人と交際することができたのだが、結婚する段になると、心の琴線に触れるようなプロポーズをしてくれないと結婚に応じないと女は言うのだ。別に失敗しても別れないから、とにかく私を感動させてと女は言う。これだけだと凄く我儘な女のようだが――まあ実際に我儘なのだが、悪女ではない――、男は純粋にプロポーズをし続ける。その数、実に二十回以上。綺麗な夜景の見える場所で求愛すればありきたりだと断られ、真夜中の海上で、女をボートの上に乗せたまま海中から顔を出してプロポーズすると、真っ暗で顔も見えないから不気味なだけと言われ断られる。そんな感じで延々と進んでいくのだが、万策尽きたかと思われた時、男と女の乗った飛行機が墜落する。男は、まるでその時を待っていたかのように、落ちていく飛行機の中でプロポーズをする。決めの言葉は、『死んでもきみを愛し続ける。だから天国で一緒に暮らそう』だった。こんなに感動するプロポーズはないと、女は満面の笑みで受け入れた。

 映画自体は、何じゃそりゃと思う内容だったのだけれども、色々なプロポーズのやり方があるのだなぁと、今の僕には参考になったのも事実だった。

「そうね、キスしたあとに言う何気ないプロポーズが良かったかな」と、瞳は答えた。

「シンプル・イズ・ベスト?」

「うん。心が籠もっていれば、私はどんな形でも嬉しい」

 なるほど。シンプルなものがいいのか。僕は内心ホッとする。もっと濃密な方法で求愛されたいと言われたら困り果てるところだった。しかしどこでプロポーズしようか決まらないまま、車は瞳の自宅へと一直線に進んでいる。

「明日は、何か予定あるの?」と、瞳は訊ねてきた。「友達と遊ぶとか?」

 明日の予定は、ある。今夜瞳にプロポーズしてOKを貰う。そうすると、恋人同士から婚約者同士になるのだから、どこか高級なレストランにでも行って、より濃密に未来に関する話をする。それが僕の明日の予定だった。

「いや、友達と遊ぶ予定はないよ。僕の友達はほとんど既婚者だから、ここぞとばかりに家族サービスに努める連中で一杯だよ」

「家族サービスかぁ」瞳は遠くを見つめるような目になる。「結婚してるお友達は、みんな子供がいるの?」

「うん。全員いるね。僕の一番仲のいい友達の奥さんは、五人目をお腹の中に宿してる」

「その奥さんは何歳なの?」

「奥さんはそいつより二つ上だよ。だから、三十二歳だね」

「三十二歳で五人目を産もうとしているなんて、凄い。色々大変だろうけど、それ以上に子供が好きなんでしょうね」

「そうだろうね。奥さんは保育士だし、その友達も、子供の喜ぶ顔が見たいからという理由で玩具メーカーに就職したくらいだから」

「……ねえ」

「うん?」

「宗一さんも、子供、そのくらい欲しい?」

 一瞬、ドキリとする。これはある意味、プロポーズするための理想的な流れではないのか。僕は右手でズボンのポケットを触る。この数ヵ月、節約して貯めた給料三ヵ月分の指輪がここに入っている。

 このまま指輪を出したい衝動に駆られたけれど、生憎運転中だ。とりあえず話題を変えないように、話し続けることにした。

「そうだなぁ。産むのは僕じゃないけど、三人は欲しいかな」

「私のところと同じだ」

「瞳のところは全部女だからな。一人くらい『仲間』が欲しいよ」と、僕は笑って言った。

「女ばかりは厭?」

「小さい頃はパパに懐いてくれても、大きくなったら邪険にされるだろう。それがきつそうだと思ってね。息子がいれば、愚痴を聞いてくれるかもしれないし」

「私はお父さんを邪険にしたことは一度もないわよ。反抗期はあったけど」

 それは瞳が特別なんだよ。心の中で呟く。

「瞳のような性格だったら三人全員女の子でもいいけど、サッカーしたいからなぁ。まあ、今は女の子でもサッカーをやる子は多いけど……全力でぶつかり合いたいんだ」

「サッカーかぁ。そうね、思い切りやるなら、男の子の方が良さそうね」

 いい流れの会話だと思った。プロポーズするための雰囲気として、最高だと言っていい。

 よし、次に信号で車が止まったらプロポーズしよう。躊躇はなしだ。絶対にやる。

 心の中で、プロポーズの言葉を反芻する。そんなに難しいものではない。手垢のついた表現だろうけれども、この世界で唯一、僕から瞳に送れる言葉。

 二十メートルほど先にある信号機が、黄色に変わった。加速すればつかまらずに通過することもできたけれど、ゆっくりとブレーキ・ペダルを踏んだ。

 僕はポケットに手を入れて、指輪の入った箱を掴む。そのまま瞳の方に顔を向けて、

「瞳、大事な話が――」

 とそこまで言った時、着信音が車内に鳴り響いた。

「ごめんなさい。頼子から」

 瞳はバッグの中からスマートフォンを取り出して話し始めた。

 あるある。僕は瞳にわからないように苦笑して、半分出していた指輪を引っ込めた。

 やがて信号がゴー・サインを出す。僕はアクセル・ペダルを踏む。

 瞳が今話している頼子という相手は、瞳の同僚であり、僕の後輩でもある。長谷川頼子は、名前から受ける印象と違って――人によっては印象そのままかもしれないけれど――、受け身の人間ではなく、常に積極的に動くテキパキとした女だった。だから反対に受け身の瞳とは馬が合うのかもしれない。職場でもプライベートでも、二人は仲のいい友達だ。

 聞き耳を立てなくても、こんな狭い車中では耳を塞がない限り厭でも会話が耳に入ってくる。どうやら長谷川頼子は、片想い中の男とデートをしたらしく、その結果を報告しているようだった。感触はなかなかいいようである。

「ごめんなさい。長話しちゃった」

「どう、長谷川さんの恋は、うまく行きそう?」

「好感触だって言ってたわ。舞い上がっちゃって、いくつか失敗してしまったこともあるみたいだけど、頼子ならうまくやるでしょう」

 気が強そうなのに、やはり彼女も女なのだなと僕は思った。リング上ではノーガードで打ち合うファイター、しかしリングを下りると気が小さくなるボクサーの話を思い出した。

「ねえ、明日行きたいところがあるんだけど、いいかな?」と、瞳が訊ねてくる。

「いいよ。どこにでも行くよ」

「本当? イタリアでも?」

 その容姿からは想像できないのだけれども、瞳はたまにおっさんが言うような言葉を発する時がある。

「イタリア? イタリアはちょっと……カナダならいいけどね。イタリアよりは近いし」

 そして僕も、こういう下らない言葉を返す。

 元はといえば、僕がおっさん臭いことばかり言っていたのだ。それが瞳に伝染してしまったのだろう。僕に合わせているだけで、さすがに友達の前では言ってないだろうけれど……。

「ふむ。カナダの方が近いのね」

 などと瞳は言っている。

 そんな会話をしていると、なぜか僕の脳裏に最良だと思えるプロポーズの場所が鮮明に浮かんできた。僕は心の中で頷く。確かに、あそこがベストかもしれない。僕にとっても、瞳にとっても。なぜ今まで思いつかなかったのだろうか。

 僕はウインカーを出してハンドルを左に切った。

 瞳が少し首を傾げて、

「あれ、こっちから行くの? 遠回りにならない?」

「デートの締めに、ちょっと寄りたいところがあるんだ」

「どこ?」

「瞳が一番お気に入りの場所」

 瞳の顔がぱっと明るくなって、

「あそこに寄ってくれるんだ。さすが宗一さん。気が利くのね」

 その言葉に、僕はただ微笑みを浮かべた。

 それから二十分ほどして、目的地に着く。パーキングメーターの前に停めて、僕たちは車を降りた。

 少し歩いたところに、約七百メートルの遊歩道がある。両端には喬木が立ち並んでいて、季節になれば鮮やかな葉を繁らせる。夜になるとアスファルトに固定されている様々な色のライトが木々を照らし、幻想的な雰囲気を醸し出すことになる。木製の洒落た形のベンチは、端から端まで等間隔で設置してあり、時間帯を問わず恋人たちが座って愛を語り合っている。今も半分以上のベンチが恋人たちに占領されていた。誰が付けたかは知らないけれども、この場所はだいぶ前から《ハピネス・ロード》という俗称で呼ばれている。好きな人と手を繋いでこの道を端から端まで歩けば幸福になれるという、よく見聞きする類の迷信がここにも存在している。ただ、多くの恋人たちはその手の迷信を有り難がっている。僕たちもそうだ。僕と瞳は手を繋いで《ハピネス・ロード》を歩き始める。

「ねえ宗一さん、新しく生まれたここの噂を知ってる?」

「新しい噂? いや、知らないな」

「昔からある噂は、手を繋いでこの道を端から端まで歩けば幸せになれるというものだけど、その回数が多くなるほど、比例して幸福度も増していくんだって。一日に複数回歩いちゃダメとか、毎日歩くのもダメとか、いくつかの制約はあるみたいなんだけどね」

 ふむ。この手の迷信に追加され易そうな噂ではある。

「私たち、この道を何回歩いたかな? わかる?」

 そう訊かれ、僕は記憶の箱を突く。

 ここは僕たちの職場である市役所から近いところにあるので、仕事が終わってご飯を食べたり飲んだりしたあとに寄ることが多かった。二週間に一回くらいは歩いているのではないだろうか。僕と瞳が付き合い始めて三年だから……。

「うーん……六十回以上は歩いてると思うけど……七十回前後かなぁ」

「そうね。そのくらいよね。噂では、回数が百回に到達すると二人は永遠に幸せになれるんだって」

 僕は無闇に迷信を信じる性格ではないけれど、その気になって好きな人と一緒に行動するのは好きだったりする。踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々というのに似ているかもしれない。

「ここを歩く回数は、今までは二週間に一回くらいだったと思うけど、もう少し頻度を増やそうか?」

 僕の言葉に、瞳はにこりと笑って頷いた。

 遊歩道の半分くらいまで来た時、空いているベンチが目に留まった。

 僕が前進を止めると、瞳も足を止めた。

「どうしたの?」

「ちょっとベンチに座ろうか」

 瞳が頷き進行方向を変えようとする。僕は握っている手に力を籠めて、瞳を制止した。

「宗一さん?」瞳は首を傾げている。

「瞳、今から僕がいいと言うまで、目を瞑っていて欲しいんだけど、いいかな?」

 五秒くらいのあいだ、瞳は言葉の意味がわからないといったような表情をしていた。それから徐々に、好奇心旺盛な子供の笑みのように口角を上げていった。

「えっ、何? 何をしようとしてるの?」

「とにかく、僕がいいと言うまで目を閉じていて欲しい。いい?」

「……わかった。でも、脅かすとかは厭よ。約束ね」

 僕は目を瞑った瞳の手を握り、ベンチの前まで優しく引っ張って行く。瞳に身体の向きを変えるように言い、ベンチに腰を下ろさせる。瞳の左手を握ったまま、僕は彼女の前に跪き、ポケットの中から指輪を取り出した。決心の深呼吸をし、口を開く。

「瞳、目を開けていいよ」

 瞳はゆっくりと目を開く。僕に合わせられていた視線が、差し出されている指輪へと移動する。

「僕はずっと瞳のそばにいるから、瞳にもずっと僕のそばにいて欲しい。僕の目が永遠に閉じるその瞬間まで、誰よりも瞳を見て愛し続けることを誓う。結婚しよう」

 瞳が口を開くまで四、五秒しか経っていないはずだけれど、その僅かな時間が悠久のようにも感じられた。僕と指輪を交互に見ていた瞳の顔が、今まで見たこともない表情へと変わっていく。

 この顔を悲しみに暮れさせることがあってはいけない。何度でも、こんな素敵な顔にさせてみせる。僕は固く誓った。

 瞳は僕の目を真っ直ぐに見つめて、口を開いた。

「はい。一生あなたに付いていきます」



 連休明けはいつだって身体が重い。朝のミーティング前。多くの者が、遊び疲れや家族サービス疲れといった顔をして立っている。そんな中にあって、瞳は生気に満ちた表情をしていた。いつもとは少し感じが違うと気付いたのだろう。瞳の明るい表情を見た先輩の女性が、「高橋さん、何かいいことでもあったの?」と笑って訊ねていた。

 課長の挨拶が終わると、皆自席へと戻っていき、パソコンのキーボードを打鍵したり書類を作成したりといった作業を始める。

 僕は市役所の住民福祉課に勤めている。老人や生活に困窮している人たちの話を窓口で聞いたり、こちらから電話したり、時には対象者の自宅まで足を運ぶこともある。生活保護を受けられずに亡くなってしまった人の話などを聞くと、自分のせいではないとはいえ、とても胸が痛んだ。本当に生活に困っている人がここにやって来たら、人間らしい対応をしようと常に心に念じている。親身になって話を聞くだけではなく、できる限り未来に光が射すように手助けをしようと。

 作業が一段落した時、僕の視線は自然と斜向かいに座っている瞳へと移る。瞳は真剣な眼差しを書類の上に落としている。

 あのプロポーズのあと、二人で僕の自宅へ帰り、ベッドで愛し合った。今までとは違う感覚が僕を包んでいたけれど、たぶん瞳も同じだったと思う。翌日はちょっと値の張るレストランで未来の展望を語り合った。その中で、いつ双方の両親に挨拶をしに行くかという話になる。話し合いの結果、来週の日曜日に瞳の両親のところへ、再来週の日曜日に僕の両親に挨拶をしに行くことになった。僕は瞳の両親には会ったことがあるけれど――街でデートしている時に、買い物をしていた瞳の両親にたまたま会った形――、瞳は僕の両親には会ったことがないので、会いに行くことが決まった時点で相当緊張していた。互いの両親には、会わせたい人がいるから時間を空けておいてくれとだけ伝えることにした。

 午前の業務が終わり、昼食の時間となる。僕は財布をポケットに入れて瞳の元に足を運んだ。瞳のそばには、長谷川頼子が財布を持って立っていた。

「お昼、ご一緒してもいいですか?」と、長谷川頼子が訊ねてくる。

「うん。いいよ」

「結婚に関する話を、色々聞きたいなぁと思って」

 僕はまだ友達にも同僚にも瞳にプロポーズしたことは話していなかったけれど、瞳は何人かの友達には話しているようだった。

「別にいいけど、聞いてもそんなに面白い話じゃないと思うよ」と、僕は笑って言った。

「今の私は、恋愛に関する全ての話が楽しく聞ける時期なんです。……それに、男の人に訊きたいこともあるし」

「なるほど。僕でお役に立てればいいけどね。それじゃ、どこで食べようか」

「裏のお蕎麦屋さんなんてどうでしょうか」

 長谷川頼子の提案に、僕と瞳は同時に頷いた。

 市役所の真裏にある蕎麦屋の客の大半は、昼食時に限れば市役所の人間で占められている。同僚の中にはラーメン派から蕎麦派に変わった者もいるほど、味には定評があった。今日は三人とも蕎麦定食を注文した。

「相原さん、なかなか粋なプロポーズの仕方をするじゃないですか」と、長谷川頼子は少しにやけた顔で言った。

「あっ、プロポーズの言葉は言ってないから。どこで言われたか、状況だけ教えたの」と、瞳は慌てて補足する。

 僕は頷いて、

「そんなに粋かな?」

「とても素敵だと思いますよ、そういう風に工夫をしてくれる男の人って。最近は多いんですかね、そういう人?」

 僕は笑って、

「僕より長谷川さんの方が若いんだから、その質問の仕方はおかしいだろう」

「でも、四歳しか違わないじゃないですか」

「いや、四歳差は結構大きいよ。三十四歳と三十歳なら、たった四歳差と思えるかもしれないけど、三十歳と二十六歳だと、世代的に大きな隔たりがあるように思わない?」

「うーん、そう言われてみれば、そうかもしれないですね」

 僕は苦笑して、

「いや、本当は否定してくれた方が嬉しいんだけどね」

「私はそうは思わないわよ」と、瞳が否定的に口を開いた。「宗一さんとは話も合うし、四歳差なんて同世代と変わらないわよ。――まあ、女子高生と二十代前半の四、五歳差だと、かなりの壁があると思うけどね」

 長谷川頼子はうんうんと頷きながら、

「わかるわかる。おじさんたちから見ると女子高生は宇宙人みたいって言うけど、私から見てもそういう風に見える時があるし」

「私も同じよ。たまに妹と話すけど、流行言葉を使われたら、話の内容が全然わからない時があるもん」と、瞳は肩を竦めて言う。

「この前テレビを観ていたら、高校三年生の女の子が、高校一年生の話についていけないと言ってたよ。話が若過ぎるんだって」と、僕は思い出したことを言ってみた。

「時代の流れが速過ぎるわね」

 長谷川頼子の言葉に、瞳も重々しく頷いて溜息を吐いていた。

 何だか中年のおじさんとおばさんみたいな会話になっているなと思っていると、注文した品が運ばれて来た。さしあたって、僕たちは食べることに集中した。いつもどおり、すこぶる美味な蕎麦だ。三分の二ほど食べた時、長谷川頼子が話題に立ち戻る。

「相原さん、是非男心について教えていただきたいのですが……」

「ああ、彼氏のことか」

 長谷川頼子は照れ笑いを浮かべ、顔の前で手を振った。

「いやだ、まだ彼氏じゃないですよ」

「でも、だいぶいい感触を掴んでるんだろう?」

「まあ、少しは……。ただ、その人、誰にでも優しいタイプだから、よくわからないところもあるんです」

「ふむ。僕で役に立つのかわからないけど、何を訊きたいのかな?」

 長谷川頼子は僕にいくつかの質問をした。メールを頻繁に送ってくる女を鬱陶しく思うかとか、相手は黒髪が好きらしいので黒髪に戻したいが、彼女でもないのにそういうことをされたら男はどう思うのかとか、すぐ家に呼ぶ女は軽いと思うかとか、まあよくある類の質問だ。

 それらのことについてどう思うかは人それぞれなので、一般的な男はたぶんこう思うだろうね、という注釈付きで僕は答えた。そんな曖昧な答えでも参考になるのか、長谷川頼子は真剣な眼差しで耳を傾けていた。

「でも、あんまり考え過ぎない方がいいんじゃない?」と、黙って会話を聞いていた瞳が口を開いた。「駆け引きよりも、素直に自分らしさを出して勝負した方がいいと思うけど……」

「そりゃそれが一番いいんだけどさ、そこまで自分に自信がないと言うか……。瞳は駆け引きしたことないの?」

 瞳はその問いにはすぐに答えずに、僕と長谷川頼子の顔を二度交互に見た。そして言い難そうに、

「それは、ちょっとはあるけど……」

 へえ、あるのか。少しの驚き。まあ、僕もあるけど。

「ほら、あるじゃん。みんな大なり小なりやってるのよ、恋の駆け引きを」

 その言葉に同意した上で、一応自分なりのアドバイスを伝えておくことにした。

「駆け引きもいいけど、やっぱり気にし過ぎはよくないと思うよ。素の自分を気に入ってもらわないと、長続きしないわけだし。あんまり駆け引きをし過ぎると、それが演技に見えちゃう時があるかもしれない。男も鈍感なようで、そういうところは案外見ているものだからね」

「そうなんですか?」

「うん。今まで黙ってたけどね」と、僕は真顔で答えた。

 瞳が笑いながら、

「もっと早く言って欲しかった」

「男は思ってるだけで、口にしないからね」

「それはよくわかります」と、長谷川頼子は深く頷いた。

 僕たちの食べ終わった器を、店員が下げて行く。それを合図にするかのように、長谷川頼子は僕と瞳に関しての質問を開始した。

「相原さん、結婚式はジューン・ブライドにするんですか?」

「瞳が六月がいいと言うならそうするけど……」

 僕は瞳を見る。瞳は僕と長谷川頼子を交互に見て、

「私はそういうのに拘りがないから、何月でもいいわ」

 これは僕にとって朗報だった。今九月なので、もし瞳が結婚式は絶対に六月じゃないと厭だと言ったなら、年内はかなり慌ただしく動かなければいけないところだった。僕としては来年の九月か十月なら余裕を持って物事を進めていけるので、好都合と思っている。

「挙式の場所は海外と国内、どちらが理想ですか?」

 この質問に、僕と瞳は顔を見合わせた。

「今は海外での挙式も流行ってるから、瞳がハワイで挙式したいと言うのであれば、僕はそれに従うよ。結婚式は、女性が主役だからね」

「私は、普通に国内の式場がいいかな。派手なのは合わないと思うし」

 その瞳の答えに、長谷川頼子は否定的な表情をつくった。

「えぇっ、そうかな。瞳は美人なんだから、たとえばハワイの綺麗な海をバックにしてウエディングドレスを着ている姿が、かなり映えると思うけど。私の友達が去年ハワイで挙式したんだけど、人生で最高の思い出ができたって感涙してたわ。あれを見ると、海外での挙式もアリなのかなって思うようになってるのよね。今じゃハワイで挙式する日本人って年間二万組以上って言われてるし、ハネムーンも兼ねてるから費用もそんなにかからなかったって、その友達は言ってたわ」

 僕は横目で瞳を見る。

 長谷川頼子の言葉に瞳がはにかんでいるところを見ると、満更でもない、ということか。

 まあ、確かに、瞳のウエディングドレス姿とハワイの真っ青な海は、写真に美麗に収まるだろう。目を瞑ってその光景を想像してみると、それを生で見てみたいという思いが生まれた。家に帰ったら、ハワイを含めた海外での挙式のプランもネットで調べておいた方が良さそうである。

 店を出て市役所へ戻る途中、ちょうど定食屋から出てきた後輩と顔を合わせた。

「あれ、今日は三人で食べたんですか?」と、進藤は爽やかな笑みを浮かべて訊ねてきた。

 僕より二つ下の後輩で、男の中ではかなり気配りのできる人間、というのが僕の進藤評だった。

 進藤は瞳に好意を寄せている、という噂を聞いたことがある。その噂話は僕と瞳が付き合い始めたあとに耳にしたものなので、特に気に留めることはなかった。だけどもしその噂を瞳と付き合う前に聞いていたら、僕の精神は無駄に疲弊していたかもしれない。何せ進藤の容姿はモデルと言っても通用するもので、おまけに性格も良く、当然女性陣の人気も高かった。そんな男を恋敵として戦うとなると、正直僕の戦力では心許ないというのが本音だった。まあ、所詮噂なので、本当のところはどうかわからないのだけれども。

「恋に関する話を色々と聞かせてもらったんです」と、長谷川頼子が言った。「あとは、相原さんが瞳にプロポーズしたんで、その辺の話も少し」

「えっ、そうなんですか。おめでとうございます」進藤は笑顔を浮かべて、ぺこりと頭を下げた。

 祝福してくれた進藤の笑みが少し寂しそうに見えたのは、僕の錯覚だっただろうか。変な噂話を思い出してしまったから、そういう風に見えたのだと思うことにした。

 僕と瞳も礼を言って頭を下げ返す。

「それで、挙式はいつなんですか?」

「いやいや、まだ早いですよ。プロポーズしたのは数日前なんですから」と、長谷川頼子が僕たちの代わりに答えた。

「女性の中には、ジューン・ブライドに拘る人もいますよね。高橋さんはそういうのあるんですか?」

「いや、瞳は特にそういう拘りはないんです。挙式の場所もどこでもいいみたいなんですけど、私はハワイを推してます」と、また長谷川頼子が代わりに答える。

 それから市役所に戻るまでのあいだ、進藤が僕たちに関する質問をする度に長谷川頼子が答え続けた。まるで親戚の世話焼きおばさんのような長谷川頼子を見て、僕と瞳は顔を合わせて笑っていた。



 バスを降りると、小走りで自宅アパートに向かった。降水確率十パーセントの天気予報を信じたらこのザマだ。歩道の凹んだところに思いっ切り足を突っ込み、跳ね返った雨水がズボンの裾を濡らしたけれど、もうどうでもよかった。三分ほど走り続けて自宅アパートに着く。全く、散々だなと舌打ちして郵便受けから郵便物を取り出し階段を上っていく。自宅玄関の前には、濡れた服の男が立っていた。弟の恵太だ。

 恵太は僕を見ると軽く手を上げて、

「兄貴も気象予報士に騙されたのか」

 と言って笑い声を上げた。

 僕はポケットから鍵を取り出し鍵穴に差し込む。