ガラスのカップに入ったハーブティーは、穏やかな夜空の色をしていた。

 手のひらで包むように持っていると、青い闇がほどけて深い紫色に変わっていく。色は淡い紫になり、それからバラ色へ、さらに明るいオレンジへと変化する。まるで手の中で朝焼けが生まれるようだ。

 驚いて顔を上げると、彼は得意げな顔をした。

「ほら、くよくよしないで。いつもの前向きさはどこにいったんだよ」

 元気出せ、と彼は明るく笑う。


 その笑顔にどれだけ救われたか、きっと彼は知らない。



 店の扉を開けた小野寺美久は太陽のまぶしさに目を細めた。

 八月下旬。暑さ寒さも彼岸までというとおり、日差しはまだ真夏のそれだ。木々の下に濃い影が揺れ、店から延びる小道が白く輝いている。晴れ渡った空に入道雲が立ち上り、そこここから蝉の声が降りそそぐ。夏の気配はなお色濃い。

 美久は店先に看板を出すと、植木の葉陰にならないように位置を整えた。〈珈琲 エメラルド〉と書かれた看板が日差しを受けてきらりと輝く。

 たったそれだけのことなのに綺麗なものを見つけた時のように胸が躍った。美久は看板を撫でて微笑んだ。

「今日もいい一日になりそう」

「失礼ですが」

 いきなり背後から声が響いて、美久は飛び上がりそうになった。

 振り向くと、大きな鞄を提げた女性が立っていた。

 ややきつめに整った顔立ちの美人で、黒のジャケットと揃いのフレアスカートを穿いている。襟元が少しよれていたが、上質な生地から一目でブランドものとわかった。髪は束ねただけで、そのシンプルさが彼女の美しさを引き立てている。

 店のまわりは森だ、スーツの客は珍しい。どんな用件だろうと思った時、女性が口を開いた。

「こちら珈琲エメラルドですね。探偵がいると伺いましたが、お目にかかれますか」

「えっ?」

 美久が目を丸くすると、彼女は顔をしかめた。

「ご不在ですか? それとも予約が必要ですか」

「あっ、いえ! どうぞこちらに」

 扉を開けて店内へ進むよう促すと、女性は「どうも」と無愛想に呟いて戸口をくぐった。カジュアルブランドの鞄を重そうに運ぶ背中が店内に消えていく。その背中を見送って美久はほっと息を吐いた。

「びっくりした……」

 開口一番に探偵のことを訊く人は珍しい。エメラルドはあくまで喫茶店として営業しており、探偵業については伏せている。唯一その存在を知る手がかりは、まことしやかに囁かれる都市伝説のような噂だけだ。今の女性もその噂を聞いてここへ来たのだろう。

 そこまで考えて美久ははっとした。

「そうだ、早く呼んで来なくちゃ!」

 探偵といえば一人しかいない。どんな不思議な出来事もたちどころに解決し、警察さえ協力を求めにくるという、魔法使いのような探偵。

 女性は、彼に会いに来たのだ。


 数分後、美久は店のテーブル席についた。テーブルを挟んだ向かいに女性、美久の隣には探偵がいる。

「あなたが責任者?」

 美久が探偵を紹介すると、女性は遠慮のない目でじろじろと探偵――上倉悠貴を見た。

 探偵と紹介したが、その服装はワイシャツに黒のパンツという喫茶店の制服だ。しかし女性が気にしたのはその点ではないだろう。

 少し癖のある柔らかな黒髪に、甘く柔和に整った顔立ち。すらりとした手足はのびやかで、その佇まいには品がある。眼鏡の奥にある瞳は理知的で、深い知性を窺わせた。まるでおとぎ話に出てくる王子様のような、たぐいまれな容姿と聡明さを持つ悠貴だが、年は十七歳。まだ高校二年生だった。

 一目で未成年とわかる美少年を前に、女性は落胆を隠さなかった。

「興信所として店を構えていないから訳ありだろうとは思っていたけど、まさか子どもとはね」

 女性は溜息を残して立ち上がった。注文したばかりのコーヒーに口もつけずに伝票に手を伸ばすのを見て、美久は慌てて腰を浮かせた。

「待ってください、まだ依頼のお話が」

「結構よ。噂しかない時点で疑うべきだった。『魔法使いはブリキのカカシと一緒にエメラルドにいる』なんてふざけた言い回し……いかにも子どものお遊びよね。真に受ける方がどうかしてた」

「そんなこと――」

 美久が言いかけた時、悠貴の声が響いた。

「法律の仕事をされている方が人を見た目で判断するのはいかがでしょうか」

 悠貴と女性が会って一分足らず。依頼どころか自己紹介もまだだ。にも関わらず、悠貴は全て承知しているように微笑んだ。

「ご依頼がプライベートな内容で話しづらいのもわかります。ご安心ください、契約前であっても依頼内容は口外しませんので」

 女性は凍りついたように動きを止めて悠貴を見つめた。

「どうして私が法律関係の仕事をしてると思うの?」

「ジャケットを見ればわかります。襟にピンの跡がありますね。複数跡があるので、バッジか何かをつけ外しされているとわかりました」

 美久は思わず女性のジャケットを見た。襟元がよれていたのはピンをつけ外ししていたせいなのか。しかしそれが職業とどう関係があるのだろう?

 まるで美久の疑問が聞こえたかのように悠貴は説明を続けた。

「アクセサリーを身につけていらっしゃらないので、ブローチではないと思いました。とすれば、仕事でつけられているのでしょう。記章をつける職業は多くありません。弁護士、司法書士、検察官、社会保険労務士、公認会計士……絞り込むには鞄が手がかりになりました」

 女性の鞄はカジュアルブランドのビジネスバッグだ。どこにでもあるもので珍しくもないが、悠貴が着目したのはまさにその点だった。

「服も腕時計も高価な物なのに、そちらだけナイロン製ですね。鞄だけカジュアルブランドなのは、持ち歩かなければならない物が多いせいでしょう。しかも重たい物だ。かさばるだけなら革製品やデザイン性の高い鞄を選ばれるはずですから。A4ほどのサイズで重量のある物といえば、紙です。大量の紙資料を持ち歩き、記章をつける職業といえば、法律関係しか考えられません」

「依頼がプライベートな内容だと思ったのはなぜ? 私が弁護士や司法書士だとしたら、扱っている事件の下調べに探偵を使おうとしているのかもしれない」

「それはありえません」

 悠貴が即答すると、すかさず女性も言った。

「根拠を説明して」

「あなたがTPOに合わせて記章をつけ外しされているからです。司法書士や弁護士にしても、業務に際して記章を着用する義務があります」

 釈迦に説法ですが、と悠貴は肩を竦めた。

「例えば弁護士記章です。昔こそ弁護士の身分を証明する唯一のものでしたが、今は日弁連の身分証明書の方がその実を担ってますよね。そのせいで記章を身につけない弁護士は少なくありません。司法書士や行政書士も似たような状態です。ですが、ジャケットを見ればあなたが会規を遵守されているのは一目瞭然です。あなたは規律に厳格だ。そんな人が素性の知れない人間に仕事の内容を口外するなんて考えられません。とすれば、依頼はプライベートな内容でしょう」

 悠貴君って、やっぱりすごい……。

 美久は感心した。同じものを見ているはずなのに、悠貴の目は人より多くの情報を捉える。こういう場面に何度も立ち会っているが、その度に驚かされる。

「……実力はわかったわ」

 女性はもとの席に腰を下ろすと、ジャケットから名刺を出して悠貴に差し出した。

「角田理花と申します。あなたの言う通り、法律事務所で弁護士をしています」

「ではご依頼についてお話しいただけますね」

 理花は頷いたが、すぐに切り出そうとしなかった。考え込むように目を伏せ、ややあってから口を開いた。

「先日、付き合っている人からプロポーズされたの」

「ご結婚されるんですか? おめでとうございます!」

 美久が顔を輝かせて祝福すると、女性は「ありがとう」と言った。しかしその表情は複雑だ。

「……そのプロポーズを受けるか決める前に、はっきりさせたいことがある」

 不穏な様子に美久は思わず眉根を寄せた。

「婚約者の方と何かあったんですか?」

「まさか。彼は良い人よ。貿易会社に勤めていて仕事熱心だけど、すごく家族を大切にしていて。辛いことがあっても優しさや思いやりに変えられる、すてきな人だわ」

 声には相手に対する尊敬が感じられた。理花も思いを寄せ、相手を慕っているのが伝わってくる。それなら何をためらうのだろう。

 美久がそう思って訊くと、理花は弱り切った表情になった。

「問題は、四年前まで付き合っていた人……。結婚するはずだった人がいる」

「その人と別れる時にトラブルに?」

「別れてない」

 理花はそう言い、声を低くした。

「亡くなったの」

 言葉が重たく店内に響いた。

 理花は鞄から財布を取ると、中から写真を取り出した。普通の半分ほどのサイズに切られた写真で、端の方はすり切れて丸くなっている。

 麦わら帽子をかぶった男性が写っていた。年齢は三十前後だろうか。斜面に生えた高山植物に顔を寄せ、嬉しそうに笑っている。

「笹塚肇。国立の科学館の研究員で、四年前に病気で亡くなった。ご両親は鬼籍の人で兄弟もいないから、彼の遺言で私は多すぎる遺産をもらったわ。……その遺言にメモが挟まっていたの。前半は家財を処分する手間を取らせることへの謝罪だったけれど、最後におかしなことが書かれていた」

 理花は息を吸い込むと、囁くように続けた。

「僕のことは忘れて、自分の人生を生きるんだ。でも、もし君が僕を忘れられなかったら、僕は夏にまた君に恋をする。また恋に落ちたら、その時君に渡したいものがあるんだ――そう書かれていた」

 不思議な言葉だった。夏に恋をする。それも亡くなっている人が。

 美久は考えながら訊いた。

「天国とか来世で……という意味でしょうか?」

「いいえ、そういうのは信じない人だった。それでも恋に落ちるなんて書いたのよ」

 軟弱なロマンチストなのよ、と切り捨てながら理花は眉を顰めた。

「渡したいものが何か気になって、彼の家を調べたわ。財産を整理する時、貸金庫や細かなお金の流れも全部確認した。でもそれらしいものは見つからなくて。……意味深な言葉を残された分、気になるのよ」

「形や大きさについて、何か伺っていませんか?」

 悠貴が訊くと理花は頭を振った。

「何も。ただ、笹塚が何か残すとしたら家の中しか考えられないの。皆には元気な自分を覚えていてほしいからって、病気の話は誰にもしてなくて。一時退院の時は家から一歩も出ていないし、誰かに物を預けたり、送ることもなかった。だから何かあるとしたら自宅しか考えられない」

「ではご依頼は故人の残した『何か』を見つけてほしいということですね。その『何か』はおそらく笹塚さんの家にあり、どういう形状かわからない、と」

 端的にまとめるとまるで実態のない依頼だ。

 理花は唇を噛みしめてうつむいた。

「無理難題を言っているのはわかってる。でも、今のままではプロポーズしてくれた人に答えられない。こんな気持ちでは、誠意ある答えが出せないのよ」

 その言葉で、美久は初めて理花の心に触れた気がした。

 好奇心でかつての恋人が残したものを探したいのではない。理花はそれを見届けないと先へ進めないと思うほど悩み、答えを求めている。それこそ、噂でしか語られない探偵を頼るほど切実に……。

 だがあまりにも手がかりがなかった。辛うじてわかるのは探す場所だけで、何を探すのか、本当にそれが存在しているのかも疑わしい。

 理花自身わかっているのだろう。彼女は諦めの滲んだ声で呟いた。

「……やっぱり無理よね、こんな漠然とした話。それも四年も前のことだもの」

「とんでもない」

 悠貴は爽やかに言って、名刺を手ににこやかに微笑んだ。

「この依頼、確かに承りました」


 理花がこれから仕事があると言うので、調査は日を改めて行うこととなった。日時を決めて理花を送り出した後、美久は隣に立つ悠貴に訊いた。

「依頼、引き受けちゃって大丈夫? 今わかってるのって、笹塚さんが不思議な言葉を残したってだけだよね。その言葉が本当かもわからないのに」

「バカ言え。自分の遺言にわざわざそんなメモをつけたんだ、笹塚は必ず何か残してる。それも角田が見つけられるところにな」

 言い切るのを聞いて、美久は目を輝かせた。

「すごい悠貴君、もう謎が解けてるんだ! それで、笹塚さんは何を残したの!」

「知るか」

「え……」

「あんな話でわかるか。だいたい死んでる人間がどうやって恋するんだよ」

「じゃあ、全然わかってないのに引き受けちゃったの……?」

 美久は呆れて悠貴を見た。

「理花さんすごく喜んでたのに……! 笹塚さんが残した物を見つけられなかったらどうするの、理花さんすごく悲しむよ!」

「何で見つけられない前提なんだよ。探す範囲はわかってるんだ、お前のように手当たり次第ひっくり返して探すような無様な真似をしなくても、俺の頭脳と洞察力があれば軽いね」

 うわあ、ふてぶてしい……。

 得意そうに微笑むその顔が絵になるところもまた腹立たしい。

 悠貴にかかれば、恋に落ちる死人の謎も形無しだ。



 調査の日。夏休みとあって都心へ向かう電車の車内は空いていた。朝七時という時刻も大いに関係しているだろう。

「朝早くから悪かったわね、今日しか休みが取れなくて」

 笹塚の家で待っていた理花は、そう言って美久と悠貴を出迎えた。理花は二人がスリッパを履くのを待って先導するように廊下を歩き出した。

 笹塚の家は洋風の二階家で、立派な邸宅だった。飴色のフローリングに、小さなステンドグラスのはまったドア。時代遅れの低い天井と漆喰の壁が、建築されてから長い歳月が過ぎていることを窺わせる。しかし古びた印象はない。家には大切に住まわれてきたぬくもりがあり、居心地が良かった。

 美久は前を歩く理花に訊いた。

「理花さんはここに一人で住んでるんですか?」

「住んでないわ。この家から私の仕事場まで一時間半かかるから」

「じゃあこのおうちは……」

「今は空き家よ。古い家だから売ろうにもなかなか買い手がつかなくて。維持費もばかにならないんだけど」

 言いながら理花がリビングに続くドアを開けた。広いフローリングの一室で、南側に大きな窓がある。奥の壁は造りつけの本棚で、天井まで隙間なく本が詰め込まれている。小説やビジネス書はなく、図鑑や植物に関する専門書ばかりだ。

 悠貴は物珍しそうに本棚を眺め、理花に目を向けた。

「笹塚さんは研究員だったとおっしゃっていましたね。ご専門は植物ですか?」

「ええ。フィールドワークで全国の野山を飛びまわってた。家に帰ると本ばかり読んで。お給料もほとんど書籍につぎ込んでいたから、ご両親から継いだこの家がなかったら彼はとっくに路頭に迷っていたでしょうね」

 美久は広いリビングを眺めて、なるほど、と思った。言われてみれば、籐のカウチやライティングビューローなど、独身男性の住まいには珍しい家具がある。一人で住むには広すぎると思ったが、ここは笹塚の生家なのだ。

「それで、どこから調べるの?」

 理花が訊くと、悠貴が言った。

「その前に。笹塚さんが角田さんに残した『何か』を探す手がかりは、今のところ笹塚さんの残した言葉しかありません。その言葉から思い出すことはありませんか? どんな些細なことでも構いません」

 理花は頭を振った。本当に思い当たる節がないのだろう。それがわかっていたらとっくに探し物を見つけている。

「では笹塚さんが最後にこちらで過ごされたのはいつ頃ですか? その時普段と違うことをされませんでしたか?」

「五月ね。ベッドかカウチで過ごすことが多かったけど、見張っていたわけじゃないから……確かなのは、彼がこの家から一歩も出てないということだけ」

「わかりました。では家の中を拝見させてください。笹塚さんの行動範囲がわかれば、手がかりになりますので」

 理花は頷いて、ふと不安そうに顔を曇らせた。

「頼んでおいて何だけど、あのメモには本当に意味はあったのかしら」

 小野寺にも話しましたが、と前置いて悠貴は続けた。

「笹塚さんが遺言に無意味な言葉を添えるとは思えません。僕に任せてください、必ず答えを見つけ出します」

 自信に満ちた態度に理花の表情が和らいだ。理花は気持ちを切り替えるように息を吐くと、窓の方へ顔を向けた。

「一時退院の時、彼はほとんどこの部屋で過ごしたわ。そのカウチのあたりよ。本を読んだり、天気が良ければ、食事もそこで取っていた」

 大きな掃き出し窓の前に籐のカウチがある。ガラスの向こうはテラスで、そこから庭へ下りられるようだ。

 窓の外に視線を向けて美久は驚きに目を見張った。

 庭は、一面の緑だった。白い花をつけた低木に、ツタの茂ったアーチ、萌葱色の柔らかな立木、たくさんの種類のハーブ――ゆるやかにカーブした芝の小道を挟んで、名前も知らない無数の植物が茂っていた。公園のように整形された庭ではない。様々な植物が渾然一体となり、今にも妖精が出てきそうな美しい風景を作り出している。

「イギリス式庭園ですね」

 いつの間にか美久の隣に悠貴がいた。悠貴は庭の方を向いたまま理花に訊いた。

「空き家にしては手入れがされていますね。お庭の管理はどなたが?」

「私よ。家の価値が下がらないように世話をしてるけど、毎日仕事帰りに水やりに寄るのがやっとで」

 謙遜かと思ったが、注意深く庭を見るとそうではないとわかった。

 うなだれるように頭を垂れた植物や、ツタに絡みつかれて枯れかけた木。咲く時期を間違えたのか真っ赤なバラまで咲いている。

「あっ、そこのって芙蓉ですか?」

 美久は知っている植物を見つけて、テラスに近い場所を指差した。

 公園や庭先で見かける植物だ。カエデを大きくしたような葉が特徴的で、見ればすぐそれとわかる。大きな葉の間からつぼみが顔を出して、今にも白い花びらが綻びそうだ。だが、他の植物同様に葉に張りがなく、くたびれた印象だ。

「なんだか元気ないですね」

 理花は溜息を吐き、冷めた口調で言った。

「これでも頑張った方よ。芙蓉の育て方なんて知らなかったし。最初の二年は今にも枯れそうで、三年目の去年、やっと持ち直して花芽がついたわ。他の植物に比べたら上出来ね。……知らない間に枯らした植物がどれだけあるか」

「でも木も草もちゃんと育ってますよね! 土の見えるところもないですし」

 美久は理花を元気づけようとした。庭は荒れているが地面がむき出しになっているところはない。管理は行き届かないにしても、きちんと世話をしているからではないか。そう思って言ったが、理花の答えは美久の想像と違った。

「そうね。枯れた場合は、必ずそこにあったものと同じものを植えているから」

「えっ?」

「植物によって生育条件がまったく違うのよ。土は酸性か弱アルカリ性が良いとか、日当たりはどうだとか。相性の悪い植物が近くにあると根が張れなくなったり、病気になったりする。それなら適当に植えるより、彼から育て方を聞いてる植物の方がまだマシでしょ? 本当に嫌になるわ。野菜ならまだしも、実りもないのに手間ばかりかかって……だから植物は嫌いなのよ」

 愚痴っぽくなったと気づいてか、理花はとにかく、と話題を変えた。

「早く笹塚の残したものを探しましょう。家を整理する前に撮った写真があるから持ってくる」

 適当に見てて、と言い置いて理花はリビングから出て行った。

 閉まるドアを眺めながら美久は悠貴に囁いた。

「理花さん、お庭のことあんまり好きじゃないみたい」

「手間がかかるわりに草木があんな状態だからな。やる気も失せるだろ。本人も言ってたが、素人にしては頑張った方じゃないのか」

 悠貴は興味なさそうに言って踵を返した。本棚へ向かうと、適当に本を引き出してぱらぱらと捲り始めた。

 あれ、部屋調べないのかな?

 美久は不思議に思った。さっきは室内を調べるようなことを言っていたのに、本を物色するばかりで動く様子がない。

「悠貴君、何探してるの? もしかして、もう何かわかったの?」

「まあな」

「えっ、本当!?」

 悠貴は手にした本から目を上げずに答えた。

「依頼を聞いた時からおかしいと思ったんだ。笹塚は自分の死期を悟り、渡したいものがあると遺言にメモを残した。わざわざそんなことをしたんだ、絶対に角田に何か残している。ここまではお前もわかるな」

「う、うん」

「じゃあそこまでして渡したいものがあるなら、なぜ笹塚は直接手渡さなかった? その方が確実だし、いくらでも機会があっただろ」

「あ、本当だ……!」

 言われてみればその通りだ。こんなまどろっこしいことをしなくても好きな時に手渡せばよかったのだ。それを、どうしてこんな不確かな手段を選んだのだろう。

「これが謎を解く鍵だ。いや、謎なんてどこにもないな、バカみたいに単純な話だ。考えるべきは生前の笹塚の行動じゃない。その死後に何が起きて、何が起きなかったかだ。笹塚が残した言葉の本当の意味はここにある」

 美久は顔をしかめた。あいかわらず、説明されたのに意味がさっぱりわからない。

 渡したいものがあってメモを残したのだから、注目すべきは笹塚がどこに何を隠したかだろう。それなのにその行動は問題ではないとは、どういうことなのか。

 美久が頭を悩ませていると、悠貴は本を閉じて顔を上げた。

「お前、しばらく角田を引きつけておけ」

「えっ、引きつけるって?」

「しっかりやれよ」

「ちょ、ちょっと悠貴君!」

 引き止める美久を無視して、悠貴はリビングから出て行ってしまった。

 取り残された美久は呆然とリビングのドアを見つめた。

 引きつけろと言われても、何をすればいいのだろう。悠貴はどこへ向かったのか。理花に内緒で別の部屋を調べるつもりだろうか。どちらにせよ理花にまともな説明ができない。

 その時、分厚いファイルを抱えて理花が戻ってきた。理花は室内を見回してから美久に言った。

「上倉さんは?」

 さっそく訊かれたくない質問をぶつけられ、美久は焦った。

「ええと、ちょ、調査、だと思います……! 大丈夫です、悠貴君は何考えてるかわからないけど、ちゃんと事件を解決しますから!」

 言いながら、美久は自分の言葉に励まされた。

 でも、そうだ。悠貴君は説明してくれなくてもちゃんと謎を解く。いつだって依頼人の頼みには応えてくれるのだ。それなら、私も自分にできることをしよう。

 美久は気持ちを切り替えて理花に提案した。

「理花さん、本を調べてみませんか?」

「本?」

「笹塚さんはよく本を読んでたんですよね? 私、考えてみたんです。笹塚さんが何か残したとしたら、家の中しか考えられない。だけどいくら探しても見つからないんですよね? ひょっとして『何か』はすごく小さいか、薄いものじゃないですか? たとえば本に挟めるような。本なら寝ながら読めるし、理花さんの目にもつきにくいですよね。そういうところに、手紙とかメモとか挟まってないかなって」

 悠貴が本棚に注目していたのも気になるところだった。部屋を探さずに本ばかり見ていたのは、笹塚のメモと関係があるからではないか。

 理花は考え込むように顎に手をやって頷いた。

「ありうるわね。彼、何でもメモして、栞代わりにする癖があったから。本ならいつも枕元にあったし……だけど、そうじゃないことを祈るわ。この家、一万冊くらい本があるから」

「えっ、そんなにですか!」

「二階は本だらけよ。彼が生きていたら今頃本の重みで家が潰れていたでしょうね」

 美久は思わず吐息を漏らした。

 一万冊。とんでもない数だ。本を全て確認するだけで数日がかりになるだろう。

 理花が一人で笹塚の残した物を探すのを諦めたのがわかるような気がした。この家に何かが隠されていても、大きさや形がわからなくては手のつけようがない。手当たり次第に探すにはこの家は広すぎる。そう思うと、疑問は最初の問いかけに戻っていた。

「……笹塚さんが理花さんに渡したいものって、なんでしょう」

 もし、明日自分が死ぬとしたら。

 大切な人に何を伝えたいだろう。自分のいない世界で生きていく最愛の人に、何を残せるだろう。――笹塚もそんな風に考えて理花の喜ぶものを残したのではないか。

「理花さんはなんだったらうれしいですか?」

 美久が訊くと、理花は即答した。

「通帳ね」

「え!?」

「お金が一番後腐れないでしょ。現金が一番だわ」

 理花さん、ドライだ……。

 理花が家の管理費がかかって大変だとぼやいたのを思い出した。買い手がつかないとも。遺産をもらったと言っていたが、今は維持や管理で出費がかさんで金銭に困っているのかもしれない。でも。

「あの、後腐れないってどんな意味ですか?」

 美久は思い切って訊いてみた。理花がわからなそうな表情を浮かべたので、言葉を探しながら続けた。

「ええと、後腐れがないって不思議な言い方だなって。お金がほしい、じゃないんですよね? お金がほしかったら、私ならそう言うなって」

 理花は目を丸くして美久を見つめ、ぶっと吹き出した。何がそんなに面白かったのか、肩を揺らして笑う。

「り、理花さん?」

「何でもないわ。本を探しましょう。あなたはそっちの端から始めて」

 理花は笑いをおさめると、隅の方から本を引き出した。

 本を捲り、何か挟まっていないか確かめる。単調な作業をこなしながら美久は理花に尋ねた。


「理花さんは弁護士になって長いんですか?」

「そうね。大学の時に司法試験を受けて、そのあとすぐ司法研修所に入ったから」

「じゃあ、今の私くらいの時に司法試験に受かったんですか? 司法試験って超難関の国家試験ですよね!」

 美久が目を輝かせると、理花は肩を竦めた。

「難しくても特別な才能はいらないわ。そういうあなたはどうして探偵に?」

「あっ、私は探偵じゃなくて助手というか。お会いしたときが本業というか、バイト中でして……」

 美久は今までの経緯をかいつまんで話した。内定が取れず苦労したこと、ようやくやりたいことが見つかったこと。話を聞き終えた理花は、半ば感心したように言った。

「ずいぶん見通しの暗い道を選んだわね」

 美久は思わず笑った。

「そう思います。だけど、私にはこれしかないってわかったから」