「おはよう。気分はどうかな?」

 目を開けると、興味津々に私を覗き込んでいる老人がいた。

「……気分?」

 頭痛がするから調子がいいとは言えない。それよりこんな知り合いいたっけ?

 よく思い出せない。いや、〝よく〟どころか何も……。

「何も思い出せない……」

 開け放たれた窓から流れてくる波音を聞きながら、私は自分の両手のひらを愕然と見つめた。

 目を覚ました私は、「私」を失っていた――。





「記憶をなくす前の最近の事で、何か覚えている事はあるかい?」

「いいえ」

「じゃあずっと前の事は?」

「いいえ」

「自分の名前と年齢、住所は? その他何でもいい、分かる事は?」

「……いいえ」

 聞き取りやすいようにと相手がゆっくり喋ってくれている事は分かるけど、投げかけられた質問を脳に刷り込んでもよい答えを見つける事が出来ない。申し訳なさに喉の奥がグッと詰まる。

「まいったな」

 老人が毛が一本もない頭を中指で掻く。

「記憶喪失だね」

「まさか……冗談ですよね?」

「じゃあ君は、自分自身の事で何か説明出来る事はあるかい?」

 言われて私は口を噤んだ。ない。思い当たらない。

 手元にある真白いシーツを握る。これがシーツだという事は分かるのに、どうして自分の事は分からないんだろう。

「見つけた時に頭部を打っているみたいだったからのう。頭に手を触れてみ。おお、優しくだぞ?」

 言われるままに自分の頭に触れてみれば、包帯が巻かれているようだった。急に傷口が痒くなった気がして包帯越しに指を動かす。確かに頭がどんより重い。

「脳にダメージを受けて、それが原因で記憶がぶっとんだんじゃな」

「ぶっとんだって……」

 記憶喪失なんてどう治療すればいいんだろう。

 考えようとしたくても、頭に靄が垂れ込んで、上手く思い出せない。目を覚ましてからはずっと、海中を漂うクラゲみたいに体中がふわふわ弛緩しているような感覚だった。

「とりあえず無理をしないで、もう一度寝なさい。あとで豆さんを呼んでくるから」

「豆さん?」

 枕に頭を沈ませたまま首をほんの少し傾ける。

「私の助手だよ。君が寝ている間、彼女がずっと世話をしてくれていたんだ」

 老人はそう言うと、私を置いてさっさと部屋を出て行ってしまった。

 ……どうやらかなり妙な事になったみたい。記憶喪失なんて全くもってまともじゃない。

 せめて名前だけでも思い出せないだろうかと両瞼を固く閉じて神経を集中させてみたけど、思い出せるものは何一つなく、そのまま眠ってしまった。

「目が覚めた? 気分はどう? 疲れてまた眠っちゃったのね」

 部屋の隅に大柄な看護師さんがいた。どうやら私は記憶を思い出すと意気込んでおいて、そのまま眠りこけていたみたい。

 二度寝して頭がスッキリしたせいか、さっきよりも周囲を見る余裕が生まれてきた。

 予感はしていたけれど案の定、ここは病室のようだ。四方八方壁は白い。ベッド脇に置かれている木製の小さな棚、これも真白い。木枠の窓からはエメラルドブルーの海が見えた。……なんて綺麗な青だろう。

「ここは日本ですか?」

 海に目を奪われながら彼女に訊いてみる。彼女は海なんて日頃見飽きているとでもいうように、窓に視線もやらず、私に体温計を差し出して笑った。10年に一度の大嵐を連想させる豪快な笑い方だった。

「日本だけど、ある意味日本じゃないかもね。ここは島だから」

「島?」

「本島の町まで船で50分。この島の大きな船着き場とお店のあるところまでは山道を通って1時間ちょっとかかるぐらいかしら。で、あなたが今いるこの場所はこの島唯一の診療所なのよ。大した設備もない、何もなーい小さな診療所」

「何もない、ですか」

「本島の病院と比べたらって事よ。先生の方針でテレビも置いていないし。見えるのは海ぐらいのなーんにもないところよ。私は豆さんって呼ばれてるの。さっきの人は堺先生。何かあったら私か先生を呼んでちょうだいね」

「よろしくお願いします…それで私はどうしてこんな事になったんでしょうか」

「3日前だったかしら。あなたが診療所の近くで倒れているところを見つけたんだけど。その時の事覚えてる?」

「診療所の近くで?」

 どういう事だろう。

「頭を打ったとは聞いたんですけど……。この島に住んでいる、とかじゃないんでしょうか私?」

「この島の人口ってとても少ないのよ。老人ばっかりで、若い人なんて数えるほどしかいないの。それに、島の人が3日も行方不明になっていたら、こっちにも何かしら連絡が入るはずよ」

「じゃあ……」

「この島であなたを知ってる人はいないのよ」

 私は布団を顎まで引き上げてじっと黙った。

 ……私を知っている人間は、誰一人いない。

「頭の傷は大した事ないから、数日中に包帯は取れるからいいとして。大丈夫、幸い日常生活の記憶は忘れていないみたいだし、失語症もないわ。とりあえず今は記憶を取り戻す事から始めましょうって、先生が言ってたわ」

 私がひどく落ち込んでいると思ったんだろう。豆さんのぷっくり分厚い手のひらが私の手を包み込む。豆さんの穏やかな口調のせいか、切羽詰まるほどの不安を抱えていない自分に少し驚いた。

「……じゃあ、ちょっと立ってみていいですか? 足、なんだかなまってるみたいで」

「もちろんよ。しばらく歩いてないものね」

 豆さんの視線を感じながら、ベッドから下りて踏みしめるように病室内を歩き回った。頼りないスリッパの音が響く。そうして、黄昏の下に広がる蒼海を一望出来る窓の前で立ち止まった。

 そこでふと、窓枠に真ん中が黄色く色づいている白い花が置かれているのに気がついた。花だ。

 気になって窓から外を覗いてみたけど、むっとした風に髪を攫われるばかりで誰の気配も感じ取れない。

「それはプルメリアの花よ」

「プルメリア?」

「そう。ここら辺はあったかいから、すくすく育つのよ。堺先生が置いていったのかしらね」

 相槌を打ちつつ小振りで甘い香りのするその花を見つめる。花は多分……嫌いじゃなかったと思う。見てると落ち着くし。

「歩くのは大丈夫そうね。もしよかったら診療所を案内するわ」


 診療所の中は狭く、3分あれば1階の部屋を全部見てまわる事が出来そうなほどだった。

「小屋みたいな病院ですね」

「まあね。人口がまず少ないし、たまに出る本島行きの船に乗れば大きな病院にも行けるしね。それにここの島の人達って、みんな滅多に体壊さないのよ。サイボーグよ、サイボーグ」

 診療所探索に付き添ってくれている豆さんは、なぜか合間合間にボウリングを投げるポーズをしながら私を見た。豆さんだけに見えている透明なピンは全て横倒しになったに違いない。

 1階は医療施設として機能しているようで、トイレ、浴室、待合室に診察室があった。テレビの類は本当に置いていなかった。2階は豆さんと堺先生の居住スペースらしい。二人はどんな関係なんだろう。親子かな。夫婦かな。訊きたいけど、気安く踏み込んでいい話題か躊躇われたので控えておいた。

 豆さんの診療所案内は懇切丁寧だったが10分足らずで終わってしまったため、私達二人はどちらからともなく、待合室の椅子に腰かけて雑談を開始した。女性という事もあって、堺先生より豆さんの方が話しやすかった。

「本島の大きな病院で検査を受ける手配をするって先生が言っていたわよ」

「それはいつなんでしょうか」

「少し落ち着いてからで大丈夫よ」

「すみません、私何も出来なくて…費用とかも……」

「それも落ち着いてからで。とりあえずこっちで記録してるから」

 ここまで親切にされながら、何も返せずに狼狽する私を見て、豆さんはまたもや豪快に笑った。

 よく笑うんだな。以前の私は大声で笑う人に対して好感を抱く人間だったように思う。

 するとその時、診療所の廊下の奥を、眩しい何かがサッと横切っていった。

 なんだろう今のは。

 豆さんの肩を叩く。

「豆さん、今何か、廊下の奥に見えたんですけど」

「見えたって何が? ネズミならいないから大丈夫よ」

「ネズミじゃなくて。やけにキラキラしたものが」

 何か眩いものが確かに見えた。

 輝く粒子の残滓が消えないようで、目がチラチラする。そのまま豆さんを見下ろせば、診療所の白衣の天使は、ゲジ眉を横に引き伸ばすようにして笑った。

「ああ、キラキラね! そういえばあの子の事もきちんと説明しなくちゃダメよね。堺先生、説明してくれてないんでしょ? 先生の適当さ加減にも困ったもんだわ。今連れてきてあげる。ここで待ってて」

 連れてくる? 今の、得体のしれないキラキラを?

「ここには、あなたの他にもう一人患者さんがいるのよ」

 重量感ある足音をズッタズッタ響かせながら、豆さんは廊下の奥へ出陣していった。かと思えば、誰かの腕をがっしりと掴んで瞬く間に私がいる待合室に帰還した。

「さっきのキラキラ、この子の髪の色じゃないかしら?」

 おそらく、豆さんに強制連行させられてきたんだろう。

 彼女の隣には、ぶすっと口をへの字に曲げている美女……いや、青年が立っていた。彼は不機嫌そうに豆さんを睨め付けている。態度の悪さも中々だけど、まずその外見に驚いた。

 色素の薄い金の髪はキラキラと輝き、ほっそりした腰の辺りをゆらゆら彷徨っている。肌は病室から見える砂浜のように白い。私と同じ患者服を着ているのに、遥かに値が張りそうに見える。

 そしてなにより、窓から差し込む日の光にあたる彼の瞳は青かった。





「ジロジロ見ないでくれる? 人に見られるのって嫌いなんだよ」

 儚げなその見た目に反して、あまりの粗雑な口調に驚いた。

 かけられた辛辣な言葉に浮かべていた笑顔は引っ込んだ。

 尻込みした私を、豆さんの隣に並ぶ髪の長い青年は鼻先で笑い飛ばした。ふん。

「ジロジロ見るなってば」

 それについては謝るけれど、

「初対面相手にそんな言い方は、さすがに失礼だと思います……」

「俺達初対面じゃないらしいけど。……あ、枝毛あった」

 彼はマナーの悪い若者のように、自分の髪を人差し指でくるくる弄び口を尖らせる。

 枝毛などどうでもいいけど!

「ど、どうして? 初対面のはずだと思いますけど」

「だって俺ら、二人揃って診療所の近くに倒れていたらしいからな」

 一緒に倒れていた?

「どういう事?」

 いや、それよりも、私って記憶をなくす前はこの人と知り合いだったのかもしれない。それなら私がどういった人間なのか、彼は知っているはずだ。胸に希望が湧く。

 けれど期待は、彼の次の言葉で呆気なく潰えた。

「期待しているようで悪いけど、俺、アンタの事知らねえよ。俺も自分の事覚えてないから」

「え?」

「俺も記憶、どっかに落っことしたんだって」

「まさか!! 二人揃ってそんな事あるの?」

「あるから今現に困ってるんだろ! アンタは何も思い出してないの? 俺と一緒に倒れてたんだろ? 俺の名前とかさ、年とか、出身地とか」

「そんな事言われても……」

 彼の顔を見て引っかかる事は何もない。

「そっちは? 私の素性について何か知らないの? どんな些細な事でもかまわないから」

「分からない」

 彼は苛立ったような顔でそっぽを向いた。私は頭を抱える。記憶を同時になくすなんて荒唐無稽にも程がある。……けど。

 この人も不安なんだろう。この生意気さは、自分の抱える不安を相手に気づかれまいと虚勢を張っているだけなのかもしれない。

「あの」

 恐る恐る声をかければ、警戒した瞳がこちらを向いた。ひるみそうになるのをぐっと堪えて、

「私も記憶がないから、不安になる気持ち分かります。だけど一緒に頑張りましょう。二人で倒れてたって事は、知り合いだったのかもしれないし」

 へらりと笑みを浮かべた私は、友好関係を築く握手のつもりで彼に手を差し伸べる。

「ごめん。俺、自分好みの女以外とは握手はしないって決めたから」

「………」

 ダメだこの人。優しさの欠片もない。

「もういいだろ。俺行くから」

「あらあら、もうお話はいいの?」

 元々豆さんに強制連行されてきたのだから、私と顔を合わせるのは乗り気じゃなかったんだろう。彼は振り返る事もなければ、別れの言葉も口にしないまま、白い廊下の奥へと退散してしまった。

 せっかく同じ境遇の人に会えたのに……。拒否された手が寂しい。

「……あんなんだけど、多分悪い子じゃないのよ?」

 それでも握手くらいはしてほしかった。


 その夜、夢を見た。

 私は街のネオンが光る中を独り、安穏とした面持ちで突っ立っていた。両脇を車が何台もすり抜けていく。

 急に、世界が暗転する。

『逃げろ』

 誰かが叫んで、足の動かない私の手を取り、ネオンの途切れた街中を走り始めた。背後に気配を感じて振り向けば、何メートルもある長い腕が無数にわらわらと追いかけてきている。

 あの腕は逃げる私達を――「私」を、どこまでも追い攻めてくる気だろう。

 捕まればきっと逃げられない。静かに朽ちていくしかない。

 見下ろせば足元一面に、瑠璃色の蝶々の羽が敷き詰められていた。

 地面を蹴る度に瑠璃色の羽が舞って、真綿のように簡単に千切れる。

 一体なんだっていうのよ。果てなぞ見えない、思い浮かべる事の出来ない未来を予感して絶望する。

 私の腕を引く誰かの声が、その時より一層大きくなった。

『逃げるぞ、アミ』

 夢はそこで、ぷつっと呆気なく終わった。