一


 京都という神社仏閣に恵まれた歴史ある街に生まれ育ちながら、良彦が寺と神社の区別を明確に認識したのは、高校に入ってからのことだった。

「一応小学生くらいのときに習ってるはずだけど、お前覚えてないの?」

 高校一年の時に同じクラスになった藤波孝太郎は、若干の驚きを持って説明してくれた。

「寺は仏教、神社は神道。祀ってあるのも、寺は仏、神社は神様。仏っていうのは、ややこしいんだけど、すごくあっさり言うとブッダのことを指すことが多くて、日本の神様とは全然違うもんだよ」

 府内にあるわりと大きな神社の跡取り息子である彼は、良彦によくそんな話をしてくれた。お祀りされている神様のことはもちろん、歴史ある建物のこと、境内に敷き詰められた砂利の意味、巫女の穿く緋袴に実はスカートタイプがあること。

「あとな、大きな神社で、賽銭箱付近が大掛かりに囲われてる場合とかは、下にベルトコンベアーが通ってて、自動的にお賽銭を集められるようになってる可能性が高い」

 神前に立てば誰よりも真摯に手を合わせるのに、跡取りらしい超現実的思考も持ち合わせている彼の話は、良彦にとって知らない世界を覗くようで面白かった。

 高校卒業後、良彦は小学生の時からやっていた野球を続けるために、そこそこ名の知れた野球部のある地元の大学に進学したが、孝太郎は神職の資格を取るために専門学部のある東京の大学へ進んだ。しかし、彼が帰ってくれば一緒に食事をしたり、長期休暇には一緒に出かけたりする関係は続き、それは二十代半ばになった今でも変わらない。大学卒業後、無事に神職の資格を取った孝太郎は、実家の神社へは戻らず、良彦の自宅近所にある大主神社へ出仕(神職見習い)として奉職に来ており、二人は高校時代と同じように、ほぼ毎日顔を合わせていた。

 

 九月上旬。その日の午前中、バイトの行きがけに大主神社に立ち寄った良彦は、何人かの参拝客がいる本宮を避け、敷地内の急な坂道をまわり込んだ先にある、大天宮と呼ばれる社の前で手を合わせた。

 本宮から離れた場所のためあまり人が来ず、なおかつ祀られている神様が、天神地祇八百萬神という、なんだかすごそうなものだったので、お参りするときにはここと決めているだけで特に意味はない。元々は祖父がここによくお参りに来ていたので、良彦も何となくそれに倣っている。だが良彦自身は氏子でもなく、家に神棚があるわけでもなく、手を合わせるのは孝太郎や祖父に影響された習慣に近かった。初詣や、受験前、誰かが病気になったりしたときなどには神頼みをすることもあるが、超現実志向とはいえ真摯に奉職している孝太郎と違い、良彦にとって神様とは、気休め程度の存在に近い。

「……あの時は、勝手なお願いをしてすいませんでした……」

 祖父に教えられた二拝二拍手一拝とともに、自分でも半ば馬鹿なことをしているのではないかと思いつつその言葉を口にし、良彦は一仕事終えたように息をついた。だがそれでも、きちんと謝罪することが礼儀のような気がしたのだ。例えそこに、神様という存在がいなかったとしても。

「おー、出仕さん、精がでますねー」

 大天宮でのお参りを済ませたあと、未だ夏の様相を残す空の下、蝉の声に囲まれながら参道へと続く長い階段を下ってくると、手水舎の傍で、来るときには見かけなかったはずの孝太郎が、掃き掃除をしているのを見つけた。

「……お前さぁ、今日のオレを見て何とも思わないわけ?」

 ふざけて声をかけた良彦に、孝太郎が竹箒を持ったまま不満そうに振り返る。

「え、何か思わないとだめなの? ときめきとか?」

「オレの服装を見て、何か言うことないのかって言ってんの」

 両脇に朱色の灯籠が並ぶ長い階段を、観光客らしき一団が写真を撮りつつゆっくりと下ってくる。その一行に見つからぬよう、良彦は孝太郎に引きずられるようにして手水舎の奥へと移動した。

 もともと大主山と呼ばれていた場所の西麓に築かれた大主神社は、平安時代中期を起源とする古い社だ。朱塗りの中門や回廊は美しく、敷地内にいくつかの摂末社が点在する。本宮に祭られる神は、奈良の春日大社から勧請されたものだと聞いた。観光名所としてガイドブックにも掲載されており、平日でも参拝客は少なくない。

「服装って、別にいつもとおんなじ……」

 そう言いかけた良彦は、改めて孝太郎の姿を見直して言葉を切った。

 目の前の友人は、普段通り神社で奉職する人間らしく白衣と差袴の装束を身に着けているが、今日は袴の色が違うような気がする。昨日までは白衣と同じ白だったと思ったが、今日は浅葱色とでも呼ぶべき水色の袴だ。

 良彦の反応に、孝太郎はようやく気付いたかと満足げに笑った。

「オレは出仕から権禰宜になったんだよ。もう見習いじゃなくて、立派な神社職員。神職さん。わかる?」

「……それって、…………出世したってこと?」

 良彦が恐る恐る尋ねると、孝太郎はそういうことだと頷いた。

 百七十五センチを超える身体に装束をまとい、黒髪を清潔感あるよう短く刈り上げ、どんな相手にも愛想よく微笑みかける上に口達者な彼は、ここに奉職して間もない頃から、ご近所のおばちゃんや氏子の奥様方に爆発的人気を得ている。宮司をはじめ、先輩神職やバイトの巫女からも評判は良く、期待の新人として受け入れられているのだと聞く。百七十センチに届かない身長と、孝太郎と並べば引き立て役と称される平凡な顔立ち、野球以外はいたって平均点である良彦と違い、生まれ持った才能からして恵まれているような彼が、さらに出世したとは聞き捨てならない。

「な、なんで? どうやって? コネ的なあれ?」

 市内とはいえ、街の中心部からは離れているため喧噪は遠いが、今はまだ衰え知らずの蝉の声が敷地内に響いている。吹き抜けていく風に周囲の木々が葉音と木漏れ日を落とす中、妙な焦りを感じて、良彦は孝太郎の袖を掴んだ。こちらといえば、昨年新卒で入社した会社をわずか半年で辞め、この春からようやくつなぎのバイト生活を始めたところだ。自分が家族からの冷たい視線を浴びつつ、日々求人雑誌を眺めては頭を抱えている間に、出世とはどういうことか。

「人聞きが悪いこと言うな。オレはちゃんと大学を出たから、もともと権禰宜になれる階位は持ってたんだよ。今までが見習い期間だっただけ」

 良彦の手を引きはがし、孝太郎は襟元を整える。思えば、最初の頃は着崩れして仕方がないとぼやいていたこの装束姿も、随分様になってきた。

「だ、だってこの間まで、太鼓叩いたり笛吹いたりしてるだけだったじゃねぇか!」

「あれは神楽の練習」

「空き地で砂山作ってたり……」

「地鎮祭な」

「昼下がりに熟女と楽しげに話してたり!」

「あれは営業」

 しれっと返ってくる答えに、良彦は胡乱な目を向ける。

「なんで神職が、熟女の機嫌を取る必要があるんだよ?」

 不審そうに問い返した良彦に、孝太郎が深々と息をついた。

「あのなぁ、神社で働く人間がいる以上、そこに給与ってもんが発生するだろ? それに社殿の補修や、お守りやお札の仕入れ、年に何回もある祭事の準備、そのどれも、元手になるものがないとやっていけないんだよ」

「も、元手……」

 指で銭を表す輪っかを作って見せる孝太郎を、良彦は神妙に見返した。目の前にいるのは神職のはずだが、取り立て屋にも見えてくる。

「そのために、寄付をくれる氏子の確保も、スポンサーになる企業への挨拶も、神社で働く以上大事な仕事だ」

 腕を組み、渋い顔で語る孝太郎を、良彦は呆然と見つめた。知り合った頃から超現実志向だとは思っていたが、なんだか最近磨きがかかったかもしれない。

「良彦、神様は敬い畏れられるべき存在だ。祀ることがおろそかになってはいけない。でもそれと同じくらい大事なことがある」

 初夏の太陽を背負う友人がやけに眩しい。なんだか現実以上の後光を感じながら、目の前に手をかざす良彦に、孝太郎は告げる。

「神社経営は、ビジネスだ」

 ついに眩暈を覚えて、良彦は目を閉じた。

「……お前と知り合ってから、オレの中の神職さんのイメージがどんどんおかしくなっていく……」

「神職だって人間だぞ。霞食って生きてるわけじゃないんだからな」

「そうだけどさー……」

 どこでも内情とはこんなものなのだろうか。外から見ているだけの人間には、わからない世界だ。

「それよりお前、何しに来たの? 今日法事じゃなかったっけ?」

 竹箒を動かす手を止めて、思い出したように孝太郎が振り返る。まさか彼が覚えていたとは思わず、良彦は虚を突かれて一瞬口ごもった。

「あ、ああ、それ昨日な。なんか坊さんが忙しいらしくて、前倒しになったんだよ」

 一年前に他界した祖父の一周忌は、昨日滞りなく終わった。実家は熱心な仏教徒なわけではないのだが、日本の大半の家庭がそうであるように、良彦の家でも仏式での供養を行っている。

「今日は………、今からバイトだから寄っただけ」

 先程大天宮で手を合わせたことには触れず、良彦は孝太郎から視線を逸らした。目をやった先の手水舎では、青銅製の龍の口から吐き出された水が、ちょろちょろと音を立てて流れている。石をくり抜いて造られた水盤に、際限なく生み出される波紋。

「あ、そ」

 この暇人め、とでも言いたげにつぶやいた孝太郎が、再び掃き掃除に戻る。そして新たにやってきた参拝客に気付いて、ようこそお参りくださいました、と愛想よく声をかけた。

          

 シフトどおりの勤務を終え、ビルの出口で良彦はひとつ盛大なため息をついた。その後ろを、年下の同僚がオツカレサマデースと言いながらすり抜けていく。

「……おつかれさまー」

 溌剌と駆け出していく背中に、良彦はぼそぼそと答えておく。時刻は午後六時前。確か大学生だという彼は、今から遊びに行くのかもしれない。着替えるのが面倒で、作業着である白のつなぎを着たまま外に出てきた良彦は、もう一度ため息をついて歩き出した。盆地である京都らしい、体が溶け出しそうなほどの密度の濃い暑さは、九月に入ってもまだ衰えることはない。

 働かざる者食うべからずという母の言葉の元、正式に就職するまでのつなぎとしてとりあえず始めた清掃業のバイトは、病院や商業施設、企業ビルなど、その日によって派遣される場所が違う。最初こそ右往左往したものの、慣れてしまえば、黙々とポリッシャーを動かしているだけでいい仕事は、ここのところ人と話すのが億劫になっている良彦にとって気が楽だった。

「……出世かぁ」

 履きつぶしたスニーカーの底を引きずるように歩きながら、良彦はぼやく。まともに再就職すらできていない自分にとっては、夢のまた夢のような話だ。

 小学校から続けてきた野球は、高校時代に一度だけサード一番のポジションで甲子園出場の夢が叶ったものの、結局一回戦で敗退した。その後野球部のある大学へ推薦で進み、大学では強豪の社会人野球のチームをもつ企業から運よく声がかかった。ここまでは、劇的な展開はないにしろ、それなりに順調な人生だったのだ。

 だが入社後すぐ、練習中にチームメイトと接触したことで右膝の半月板を痛め、良彦は手術を余儀なくされた。しかも時を同じくして、会社の経営悪化により、無情にも今期での野球部の廃止が決定することとなったのだ。

「不幸って重なるよな……」

 当時を思い出して、良彦は右膝に疼くような鈍痛を覚える。

 手術を含む三日間の入院を経て、松葉杖をついて戻って来たところで、そこにあった良彦の居場所は、安寧のものではなくなっていた。

 しかも術後は膝に負担をかけないよう無理をしないことが求められ、外回りの営業にも行けず、立ちっぱなしの倉庫作業もできず、次第に周囲の社員も良彦をお荷物のように扱うようになった。元々野球の名目を背負っての入社だったこともあり、その活躍の場を失った良彦は、会社にいることに息苦しさを感じ、結局入社半年で自ら辞表を提出してしまったのだ。以降、この春にバイトを始めるまでは、ほとんど引きこもりのような生活を送っていた。

「孝太郎に、病気平癒祈願でも頼んどくべきかなー……」

 良彦は自虐的につぶやく。この半年、目標を見失って無気力だったこともあるが、医師からはもう問題ないと言われている右膝が、ふとした拍子に思い出したように痛むのだ。そのせいで、きちんとした就職も考えてはいるが、まだ青写真は描けていなかった。


 電車を乗り継いで最寄駅へと戻ってきた良彦は、自宅方面への横断歩道を渡ろうとして、歩道から地下へと降りる階段の脇に、一人の老人がうずくまっていることに気付いた。紺色の着流しをまとい、足元は今どき滅多に見かけなくなった二枚歯の下駄だ。その傍には濃紫の風呂敷包みが転がっている。禿げあがった頭には薄茶色の染みが目立ち、伸ばした白い顎鬚を震わせて苦しそうに呻き声をあげていた。

 その光景が、不意に良彦の辛い記憶と重なる。

「大丈夫ですか!?」

 最悪の事態が頭をよぎり、良彦は弾かれたように駆け寄った。それに伴って思い出すのは、鈍い胸の痛み。もう会えない祖父の、穏やかな微笑み。

「救急車呼びましょうか? 何か持病がありますか?」

 大学の野球部時代、部の方針で強制的に市民救命士の講習を受けさせられたことがある。その時のことを記憶の片隅から引っ張り出しながら、良彦は老人を抱き起し、意識と呼吸を確認した。元々この辺りは駅前の賑やかな場所なのだが、ちょうど今は車が走り去るばかりで人通りが途絶えており、老人の連れらしき人も見当たらない。

「胸が痛むんですか?」

 骨ばった老人の身体は、思いのほか軽かった。幸い意識はあるようだが、顔は真っ赤になり、喉元を掻き毟っている。胸が痛いわけではなく、呼吸ができていないようだ。

「なんか詰まってんのか……!」

 だとしたら、一刻を争う。良彦はそうつぶやくと同時に、言いようのない不安が胸を這い上がるのを感じた。確か窒息による呼吸停止から四分経つと、蘇生の確率は五十パーセントまで下がると聞いたことがある。

 良彦はすぐさま、抱き起していた老人の身体を自分の膝を支えにしてうつ伏せにし、肩甲骨の間あたりを平手で強く叩いた。悠長に救急車を呼んでいる時間はない。今ここで救わねば、体力もないこの老人の命は、燃え尽きてしまうかもしれない。

「がんばってください!」

 老人の背中を叩きながら、良彦は呼びかける。

「こんなとこで行き倒れたら、絶対家族が悲しみます……! お孫さんとか、いるんでしょう!?」

 良彦が好きだった祖父は、もう帰って来ない。その辛さを考えると、この老人を救わないわけにはいかなかった。彼にだって、帰りを待っている家族がいるはずだ。

「オレも、あきらめません、から!」

 そう言って、何度目かの平手を背中に打ったとき、体を硬直させていた老人の口元から、拳より少し小さい、何か白いものが地面へと転がり出た。

「出た!」

 良彦が叫ぶと同時に、老人が盛大に咳き込んだ。今度はその背中をさすりながら、良彦は安堵の息を吐く。先程までは咳も言葉も出なかったのだから、とりあえず合格点だろう。

「大丈夫ですか?」

 咳が収まるとともに、顔色も戻ってきた老人は、良彦の呼びかけに片手をあげて応えた。そしてゆるゆると体を起こすと、口元を手で拭い、空を仰ぐ。

「あー、死ぬかと思うたわ!」

 老人は清々しくもそんな言葉を吐いた。

「こちらへ出てきたついでに、久しぶりに『わかば』の豆餅を買ってみたんじゃが、いささか急いで食いすぎた」

 禿げた頭をぺちんと叩いて、老人は良彦に向き直る。

「隠居した年寄りが、調子に乗って立ち食いなどするもんではないのぅ。おまえさんが通りかかってくれなんだら、ぽっくりいっとったかもしれん。本当に助かったよ、ありがとう」

 良彦の手を握って、老人は深々と頭を下げる。対面してみると、小柄だが愛嬌のある顔つきをしていた。目じりの笑い皺が、なんとなく親しみを覚えさせる。

「あ、いえ……、大事にならなくてなによりです」

 うずくまっていたときと、今の軽快な口調のギャップに戸惑いつつ、良彦は頭を掻いた。とにかく危機を脱したことは喜ばしい。偶然出会っただけの見知らぬ老人だが、その彼を救えたことに、心からほっとしていた。それにしても豆餅を喉に詰まらせていたとは、どれだけ急いで飲み込んだのだろう。

「餅は、喉に引っかかりやすいですからね……」

「そうよのぅ。今回のこれは、完全に儂の失態じゃ。許しておくれ」

 再び老人に頭を下げられ、良彦は慌てて言い直す。

「ああいや、許すとか許さないとかじゃないんです! 次から気を付けて食べてくださいねっていうだけで。……きっと御家族も、心配しますし……」

 若造の余計なおせっかいだろうか。そんなことを思って、言葉の途中で徐々にトーンダウンする良彦を眺めながら、老人はふとその目元を和ませた。

「敏益は、いい孫を持ったもんじゃの」

 その老人のつぶやきに、良彦はふと顔をあげる。

「え、じいちゃんのこと知ってるんですか?」

 それは確かに、一年前に亡くなった祖父の名前だ。

「ああ、よく知っておる」

「友達……ですか?」

「まぁそんなもんじゃな。古い付き合いじゃ」

 老人は懐かしそうに頷いて、おもむろに地面に転がっていた風呂敷包みを拾い上げ、その中から文庫本より少し大きいサイズの、緑色の冊子を取り出した。

「今日はおまえさんに用があったんじゃ。これを渡そうと思うての」

 そう言って差し出された冊子は、和紙が屏風折になって綴られているタイプのもので、新品とは言い難く、表紙に多少の汚れがあるのが目についた。

「……これは?」

 良彦が怪訝に問い返すと、老人は穏やかな視線をその冊子に注ぐ。

「敏益から預かったものじゃ。ちょいといろいろあったんじゃが、結局孫のおまえさんに渡すことで総意となった」

 なんだかよく意味が分からない。預かった物ということは、元々祖父の物だったということだろうか。

「おまえさんなら、立派に役目を果たせるだろうよ。あとのことは狐に聞いてくれ」

 咄嗟に受け取ってしまった良彦が戸惑っている間に、老人はどこか晴れやかな顔でそう告げ、それじゃあな、と、そのまま踵を返して歩き始める。

「え、あ、あの!」

 良彦は慌てて着流しの背中に呼びかけてみたが、老人は思った以上に軽やかな足取りで、振り返ることなく歩いていく。

「ま、待ってください! せめてお名前とか教えて……」

 老人の背中を追って路地の角を曲がった良彦は、呆気にとられるようにしてその場に立ち尽くした。

「え……」

 先程まで追いかけていた着流しの背中が、瞬きの間に忽然と消え失せている。目の前には、両脇に住宅の並ぶ見慣れた路地が続いているだけだ。どこか脇道に逸れたのだろうか。

「……じいちゃんの同級生、かな?」

 年齢的にみるとその可能性が高そうだが、結局何者だったのだろう。

 良彦はしばらくの間迷っていたが、結局冊子を返すことをあきらめて短く息をついた。返したくても、持ち主の姿が消えてしまったのだからしょうがない。

 手にした冊子の表紙には、角度によって緑青にも若葉色にも見える布が張られており、なかなか手の込んだ美しいものだ。一応中を確かめると、全体の三分の一ほどはすでにページが埋まっている。

「……なんだこれ」

 一ページにつき一文が、毛筆の同じ書体で黒々と描かれており、様々な工夫を凝らした形の朱印が押されていた。だがそれらは良彦にとってはまったく馴染がなく、志那都比古神、天之久比奢母智神、日名照額田毘道男伊許知邇神など、もはや暗号にしか見えない。

「……ぜ、全然読めねぇ……」

 当てずっぽうで読むにしても、迷ってしまう漢字の並びだ。これが何かの名称なのか、それとも漢文のような文章なのかもわからない。渋い顔のままパラパラとページをめくると、三分の一以降は真っ白なままで、和紙の白さが眩しかった。

 良彦は冊子を閉じてひとつ息をつく。難しい漢字の羅列を見ても、自分には何のことだかさっぱりわからない。一体祖父は、何の目的でこれを持っていたのだろう。

「とりあえず帰るか……」

 家族の誰かに訊けば、覚えのある者もいるだろう。そんなことを思いながら、良彦は家路を急ぐ人々に紛れて再び歩き始めた。


          二


 良彦の家では、両親と妹とともに、一年前まで父方の祖父が同居していた。祖母は良彦が高校生のときに心臓の病で急逝し、以降独りになった祖父を父が引き取る形で同居が始まったのだ。元々穏やかで物静かだった祖父とは、どことなく言葉にしなくても通じ合えている部分があり、良彦にとってはとても安らげる存在だった。祖父もまた良彦と似たような想いを抱いていたらしく、あれこれと口は出さないものの、運動会や遠足の前にはてるてる坊主を作ってくれたり、風邪を引けば特製の卵酒を作ってくれたりする、優しい人だった。神社に参拝することを日課としており、良彦を連れて大主神社に行くこともあれば、一人でふらりと参拝旅行に行ったりもしていた。

 その祖父が、脳幹出血で倒れたという連絡を受けたのは、良彦が野球という拠り所を失ったのとちょうど同じ頃だった。

 なかなか意識が戻らず、担当医にも、年齢が年齢だけに覚悟してくださいと言われ、良彦は野球に続き、昨日まで当たり前のように傍にあったものが、突然なくなるかもしれない現実を、再び突き付けられたのだ。

 その祖父の死を電話で知らされたあの日の空は、皮肉なほど晴れ渡っていた。

 針の莚のような会社にいることがたまらず、昼休み、一人逃げるように出てきた公園で、コンビニのおにぎりを無理矢理口に押し込んでいたときのことだった。

 携帯を耳に押し当てたまま見上げた、果てしない青の空。

 その残酷な美しさは、良彦の中に残っていたわずかな意地と、張りつめていた我慢の糸を、あっけなく切断した。



 いってきまーす、という妹の声が、階下からかすかに聞こえた気がして、良彦は薄っすらと目を開いた。一瞬夢と現実が混同して、三回瞬きをする間に、見慣れた自室の風景を自覚する。

 時刻は午前八時半。まだ大学生の妹が、一限のために学校に向かう時間帯だ。野球しか取り柄のなかった兄と違い、彼女は生徒会などの役員もしていたせいで教師や保護者の覚えもいい。家でも家事を手伝ったりするできた妹なのだが、いささか気が強く、兄に対する扱いがぞんざいだ。

「良彦ー、起きてるのー?」

 今日はバイトが休みのため、もう一度寝直そうと寝返りを打った良彦の耳に、ベランダに洗濯物を干しに来たらしい母親の声が届く。

「起きてるんならさっさと朝ごはん食べちゃってくれる? 母さん今日パートだから、早く片付けたいのー」

 マイペースの母親は、基本的にこちらの都合などお構いなしだ。もっとも、半年で仕事を辞めてきた息子を追い出さず、食事を作ってくれるだけありがたいのだが。

 無視して二度寝を決め込もうかと思ったものの、良彦は結局のっそりと体を起こした。六畳の自室は、決して整理整頓が行き届いているとは言い難い。今まで野球に使っていた時間を、近頃はオンラインゲームに費やすことも多くなった。床に積み上げた雑誌を避けてベッドから降りようとして、良彦はふと散らかったままの机の上に目を留める。

「……あれ?」

 昨日見知らぬ老人からもらった冊子が、なぜだかページが開いた状態になっている。確かに昨日は、閉じた状態でここに置いたはずなのだ。風のいたずらという可能性も考えてみたが、窓は換気のために細く開けているだけで、とてもページをめくるほどの強風が入り込んだとは思えない。

 良彦はあくびをかみ殺しながら、机へと近寄る。昨日、両親にそれとなく冊子のことを訊いてみたが、二人ともまったく心当たりはないとのことだった。ただ、祖父は全国各地の神社を参拝していたこともあり、その時に使っていた記録帳のようなものではないかということだ。冊子の中にあった一文をパソコンに打ち込み、検索をかけてみたところ、どうやらそこに描かれているのは神様の名前らしいということはわかった。しかし結局、それ以上のことはわからないままだ。

「ん?」

 開かれた冊子を覗き込んだ良彦は、そこに何やら文字があることに気付いた。三分の一ほど埋まっていたページの最後、相変わらず何と読めばいいかわからない神名の次に、薄い墨で描かれた筆の跡がある。

「こんなのあったっけ……?」

 まだ寝ぼけているのかと思って目をこすってみたが、どうやら現実のようだ。昨日確認した時は、見逃していたのだろうか。

「……方、位、神……?」

 冊子を手に取って、良彦は書かれた文字をひとつずつ読み上げる。三つを並べて何と読むのかさえよくわからない。ほういじん、だろうか。それまでのページと同じ書体の、慣れた筆遣いで描かれた文字は、はねやとめが柔らかな美しいものだ。ただ使われているのは、お香典の表書きに使うようなごく薄い墨で、すでに埋まっている他のページの文字のような、黒々とした力強さはない。

「……なんだこれ」

 その三文字以外には何の記載もなく、良彦は首を捻った。寝起きの気だるさも手伝って、ぼんやりとそれを眺める。どう解釈すればいいのかよくわからない。とりあえず、この三文字を検索してみようとパソコンを立ち上げかけた良彦の耳に、再び母の声が届く。

「良彦ー! ごはん食べるの? 食べないの!?」

「あ、食べる、食べますー!」

 ドアの前で再び叫ぶ母親にそう言い返しておいて、良彦は慌てて朝食を摂りに階下へと向かった。

          

 良彦の自宅から徒歩十分ほどのところに、大主神社を抱える大主山はある。山という名はついているものの、丘とも呼べる小山であり、その麓は大学の広大なキャンパスに隣接している。

 サークルの勧誘看板がずらりと並ぶ歩道を歩き、時計台のある正門沿いの道を突き当たったところに、朱色の鮮やかな一の鳥居はそびえている。そこから始まる砂利道の表参道を抜ければ、手水舎と二の鳥居、そして本宮へと続く長い階段が見えてくる。

「方位神?」

 授与所の窓口に顔を出した孝太郎は、良彦が持ってきた冊子をしげしげと眺めた。

 神様のことなら、いちいち自分で検索するより、孝太郎に訊くのが手っ取り早い。ただそれだけの理由で大主神社を訪れた良彦は、冊子を持つ孝太郎の手元を覗き込む。

「その名前も謎なんだけど、そもそもこの冊子が何かわかんねぇ。じいちゃんの知り合いっぽい人にもらったんだけど。預かってたからって」

 いろいろあったが、孫である良彦に渡すことで総意になった、などと、何やら意味深なことも言われたが、あれは一体どういう意味だったのだろうか。そして確か、狐に訊いてくれとも言われた気がする。お稲荷さんとでも関係があるものなのか。

「見た感じ御朱印帳っぽいけど、なんか違う気もする……」

「御朱印帳?」

 冊子を前に唸る孝太郎に問い返すと、孝太郎は手元の棚から見本として置かれている御朱印帳を取って、良彦に差し出した。少し灰がかった白地に、大主山に生える木々が水墨画のように描かれ、その隣に朱の鳥居が並んでいる表紙だ。

「神社を参拝した記念に、神社名や日付、それにその神社独特の印章を、こういうご朱印帳にもらうんだ。今は参拝のたびに集めてまわってる人も多いけど……」

 そこで言葉を切って、孝太郎は再び唸る。

「でもここにあるのって、全部神名なんだよなぁ。しかも結構マイナーな、久久紀若室葛根神なんて、オレですら何の神だったかちゃんと思い出せない……。並んでる神名に別に規則性もなさそうだし……あ、日名照額田毘道男伊許知邇神もある」

 これ読み方覚えるのに苦労した、と感想を挟みつつ、孝太郎は続けた。

「御朱印は、普通神様の名前じゃなくて神社名を書くものなんだよ。それに、なんで方位神だけ墨が薄いんだろう。これじゃ弔事みたいだ」

 孝太郎が不思議そうに首を捻る中、良彦は、授与所にお守りなどと共に並べてある御朱印の見本に目を留めた。そこには、『参拝 大主神社』と、濃い墨で黒々と書かれた文字と、左端にこれを記した年月日、そして神社名の上にかぶせるようにして、大主神社の朱印と、社殿の図柄の朱印、それに『大主山鎮座』という朱印が押されている。単に神名と朱印だけしかない冊子のものとは、少し違うようだ。

「方位神を祀る末社はうちにもあるけど、そのご祭神名をわざわざ書かないし……」

「え、方位神いるんだ?」

 孝太郎の言葉に、良彦は顔をあげる。神様の名前など気にしたこともなかったが、意外と身近なところにいたものだ。

「そもそも方位神って、神道の神様じゃなくて陰陽道の神様なんだよ。陰陽道自体は明治時代に廃止されたんだけど、うちにある四石社は、方位神を祀ってる」

「……陰陽道って、安倍晴明とかのアレ?」

 尋ねる良彦に、孝太郎は頷く。

「そう。昔は、仏教も道教も、神道も陰陽道もごちゃまぜで、なんでもありだったからな。廃止された以上堂々と祀れなくなって、一時はご祭神の名前を変えたらしいけど、昭和の初めに方位神に戻したって聞いた。そこまでして末社として残すくらいだから、よっぽど信仰があったんだろうな」 

 冊子に目をやったまま、孝太郎はさらりと説明した。

「……ていうか、末社って何?」

 ほぼ毎日のように通っている割に、良彦の神社に対する知識は深くない。

 孝太郎は参拝者に配っている『大主神社略記』と書かれた一色刷りの紙を取り出して、良彦の前に広げた。

「末社っていうのは、本宮以外の小さな社のことで、摂社って呼ばれるものもある。だいたい、本社の御神祭にゆかりのある神様が祀られてることが多いんだ。その神様の妃だったり、子どもだったり」

 紙に描かれた境内図を指しながら、孝太郎は続ける。

「大主神社には二つの摂社と、七つの末社、それに敷地内に飲食なんかの祖神を祀る神社もあって、わりと大所帯なんだよ」

「あの小さいやつって、そういうもんだったんだ……」

 良彦は思わずその場でぐるりと境内を見回した。なにやら小さなお社があることには気付いていたが、それが何かというところまでは、あまり考えたことがなかった。良彦が勝手に参拝場所に決め込んでいる大天宮も、末社と呼ばれるものらしい。

「あんまり気にしなくていいんじゃないの? お前のじいちゃん神社好きだったし、個人的に書いてたものかもよ? 方位神の字は、試し書きだったのかもしれないし。形見だと思って、素直にもらっとけば?」

 特に興味もないようにそう結論付け、孝太郎は冊子を良彦に手渡した。

「……うん。そうだな」

 良彦は、気が抜けたように息をつく。もう一度あの老人に話を聞ければいいのだが、そもそもあの人がどこの誰なのかもわからない。祖父の知り合いということだけは確かだが、再会できる可能性は限りなく低いだろう。

「あ、ちなみにこの方位神って、どこにいんの?」

 孝太郎に礼を言って帰ろうとした良彦は、ふと気になって尋ねた。

「二の鳥居をくぐってすぐだよ。境内から階段下りて、右手側」

 授与所の窓口から身を乗り出すようにして、孝太郎が指をさして説明した。


 大主山全体が鳴っているのかと思うほどの蝉時雨を浴びながら、良彦は孝太郎に教えられたとおり、参道へと続く長い階段を降りた。頭上でさわさわと風を受ける木々の枝葉を抜けて、石段に木漏れ日が落ちる。途中年配の参拝客とすれ違って、お互いに小さく頭を下げた。見ず知らずの人間同士だが、言葉は交わさなくても、同じ神様の元に集まる人たちの気遣いが垣間見える。こういう場面に遭遇するたび、良彦は複雑な思いに囚われてしまう。普段道端で出会う人にはやらない行為を、氏子でもない、信仰心が篤いわけでもない、そんな自分でも自然とやってしまうことが、なんだか不思議だった。

「ここかぁ……」

 砂利で靴底を鳴らしながら、良彦は二の鳥居の内側にある石造りの鳥居をくぐった。その先にある朱色の小さな社は、本殿ほど鮮やかに塗り直されてはおらず、やや色あせている印象だ。内部に人が一人入れるかどうかという小ささではあるが、造りなどはしっかりとしており、本宮のミニチュア版といった感じだった。正面には賽銭箱もあり、本宮に上がる前にお参りしていく人も見かけたような気がする。

「知らなかったなぁ、方位神とか……」

 社の前にある鳥居の脇に由緒が書かれた立札があり、それによると、ここは四石社といい、詳しい鎮座の年代は詳らかではないが、平安時代の書物にはすでにその名前があったらしい。敷地の四隅には一抱えもある石が埋められており、それぞれ方角を表すものだという。

 良彦は手にした冊子を開いて、薄墨の文字と、立札の文字とを確認する。

「確かに、方位神……」

 一致はしたが、だからなんだというのだろう。良彦は周囲をぐるりと見回してみたが、この冊子の謎の手がかりになりそうなものはない。ひとつ息をついて、帰ろうとした矢先。

「お前が御用人か」

 不意に耳へと届いた声に、良彦は振り返った。だが背後には誰もおらず、ただ盛夏を乗り越えた木々が風に揺れているだけだ。

「……なんだ、今の……」

 空耳にしてははっきりと聞こえた気がする。不思議に思って再度周囲を見渡した良彦は、社の石段を上がった賽銭箱の向こうに、一匹の犬が座っていることに気付いた。

 先程まで気配もなかったが、一体どこから迷い込んだのだろう。近くの家の飼い犬かと、首輪を確認しようとして視線を動かした良彦は、それが犬にしては妙な姿をしていることに眉をひそめた。

「……犬……じゃ、ない……?」

 少し大きめの柴犬かと思っていたが、よく見れば全身は艶やかな黄金色の毛に覆われ、四足の先の方がグラデーションのように銀毛になっている。犬にしては細いマズルと、大きな立耳。そして思わず触れたくなるような、胴体と同じくらいの長さがある、ふさふさとした太い尻尾。そして、しっかりとこちらを見つめ返してくる、吸い込まれそうなほど鮮やかな萌黄色の瞳。

「え……」

 そうつぶやいたきり、良彦は言葉を失う。

 そこにいるのは犬などではなく、一匹の美しい狐だった。

「わしを犬と見紛うとは無礼千万。この地に都があり、方違えなどが行われていた頃には、随分重用されたものだがな」

 再度聞こえてきた声は、間違いなくその狐の口から発せられている。

 しばらくその光景を眺めたまま立ち尽くしていた良彦は、おもむろに目頭のあたりを押さえてうつむいた。睡眠はたくさんとったはずだが、疲れが残っているのだろうか。狐を目撃し、なおかつそれがしゃべっているなど。

「……そうか、ついにその書がお前の手に渡ったか」

 狐が、まるで念を押すように口にする。恐る恐る顔をあげた良彦は、改めてその姿を目にして、背中を妙な汗が滑るのを感じた。

「……狐がしゃべってる……」

「その書を持つ限りは、その役目を果たしにきたのであろう?」

「すげぇマジか……」

「ならばさっそくだが、お前に申し付けたい議が……」

「ホログラム……?」

 思わず歩み寄り、その柔らかな毛並みを撫でた良彦の右手を、狐が慌てて振り払った。

「や、やめろ! 許可もなく撫でるな!」

 前足で引っ掻かれ、良彦の手の甲に赤く爪痕が残る。それを見て、良彦は密かに息を呑んだ。やはりこの毛の感触といい、引っ掻かれた痛さといい、これは幻覚などではないらしい。

「宣之言書を持っているからといって、何でも許されると思うなよ!?」

 狐はイライラと右の前足をあげて、良彦が手にした緑色の冊子を指した。意外と気は短いらしい。

「これってそういう名前なんだ……」

 宣之言書とは、あまり聞いたことがない言葉だ。もっとも、人の言葉をしゃべっている狐が目の前にいる以上、もう何も珍しくはないのかもしれないが。

「昨日知らないじいさんにもらったんすけど……。うちのじいちゃんから預かってたからって……」

 もしかしてデスノート的なアレだろうか。

 良彦がなにやら不穏な事情を思う中、狐は気を取り直すように、軽く喉を鳴らして口を開いた。

「お前がどのような方法でそれを手に入れたのかは、どうでもよい。重要なのは、お前がわしの御用を聞き届けるということだ」

「……御用を、聞き届ける……?」

 意味が呑み込めずに、良彦は眉をひそめた。その表情に、狐が小首を傾げる。

「なんだその顔は。まさかここに来てお役目を放り出す気か?」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。御用とかお役目とか言われても、オレには何のことかさっぱり……」

 いきなり現れたしゃべる狐だけでも受け入れ難いというのに、この上さらになんだというのだ。

 唖然としている良彦に、狐は呆れたように短く息をついた。

「お前、まさか何も知らされておらんのか?」

 その言葉にすら首を傾げそうになった良彦は、すんでのところであの老人の言葉を思い出す。

「あっ! そういえば、あとのことは狐に訊いてくれって言ってた……」 

 あの老人は、こうなることを見越して告げて行ったのだろうか。

 良彦の言葉に、狐があからさまにマズルに皺を寄せた。

「……どうりで、わしの名を最初に記すなど珍しいと思えば……あのクソジジイ……」

 ぼそぼそと小声でつぶやき、狐はひとつ息をつくと、咳払いするように喉を鳴らす。

「お前が持っているそれは、宣之言書、別名御用帳というのだ」

 良彦は、手にした冊子の艶やかな表紙に目を落とした。

「それを手にした人間は、浮き出る神名に従って社を訪ね、そこに坐す神の御用を聞かねばならない。つまり、神の御用聞きだ」

 萌黄色の双眼が語った事情に、良彦は脳みその情報処理が追い付かず、しばらくの間その場に立ち尽くした。だいたい狐がしゃべるとか、そのあたりから反則だと思っていたのだが。

「……………神の、御用聞き………?」

 その言葉を繰り返して、徐々に良彦の中のいろいろな回路が繋がり始める。

「…………なんでオレが?」

 それがまず最初の疑問だった。

「ていうか、神様なら自分でどうにかできないんすか……?」

 なんだか意味がわからない。そもそも、神様の御用聞きならば、その神様よりも神様的な力を持っていないとできないのではないだろうか。半年前まで引きこもりで、再就職もせずにふらふらしている自分に、そんな力があるとはとても思えないが。

 ちらりと見える口元の牙の隙間から、狐はふぅと細く息を吐く。

「現代において、八百萬のすべての神が万能だと思うな」

 狐は萌黄色の目を細めながら、良彦を吟味するように眺めた。

「昔は神祭りという行為により、人から感謝の心を奉納されることで神の力は補われていたのだ。そして人は、その神から恩恵を受けていた。神と人は、お互いがお互いを生かしめる、そんな関係であったのだ」

「そ、そうなんすか……」

 良彦は呆気にとられるようにしてつぶやいた。神と人が持ちつ持たれつの関係であったなど、聞いたこともない。そもそも、人が敵わない存在であるからこそ、神様だと思っていたのだが。

「正しい神祭りが続けられているのは、日本でもごくわずか。お前が知らんでも無理はない。厚い神祭りを受けていた当時、神々は威に満ち溢れ、わざわざ御用聞きを走らせずとも事足りていた。だが今はどうだ?」

「ど、どうだと言われましても……」

 困惑する良彦に、狐は嘆くように首を振る。

「わしもこの社で、祀ることもしない人間が気まぐれにやって来ては、勝手な願い事を唱えて去っていくのを何度見送ったか。これでは神の力は弱まるばかり……」

 いくつかの心当たりに、良彦は苦い顔をする。だが今の時代、神社に行けば願い事をするというのは、セオリーではないのか。それに、願い事を聞いてくれる以外の神様の役目というものが、これといって思いつかない。

「宣之言書を手にした者は、力を削がれた神に代わって、その御用を聞き届けるのが役目だ」

 狐は、その萌黄色の双眼で再び良彦を捉えた。

「本来であれば、この御用人は代々神と縁の深い家の人間が務めるのだが、お前の祖父は、謙虚な感謝の参拝と慈悲心が認められ、大神より特別にお役目を授かった」

 狐の口から語られる祖父の話に、良彦は顔をあげる。

 狐は当時を思い出すように、どこか穏やかな眼差しで続けた。

「異例の抜擢ではあったが、北から南まで神のために奔走する、良い人の子であった」

 祖父のことを褒められて嬉しく思う反面、良彦はその言葉に、妙な汗が背中を伝うのを感じた。確かに祖父は、全国各地の神社を参拝することを趣味としていた。狐の言葉を信じるなら、それはただの趣味などではなく、御用聞きに走っていたということになる。

「だが、彼も人間だ。寿命は分け隔てなく訪れる。お前の祖父が幽冥へ向かった後は、再び神々の間で議論がなされ、ふさわしい御用人が選ばれた。代々とある神に仕える古い社家として、その名を残す一族の子だ」

「え、じゃあなんでオレのところに……?」

 そもそもおかしいと思っていたのだ。自分で言うのもなんだが、萩原良彦は決して神様に見初められるようなできた人間ではない。優秀な妹とは違い、何をやっても平均点で、唯一の取り柄だった野球もできなくなってしまった。

 良彦にちらりと目をやって、狐が苦々しく息をつく。

「通常、選ばれた御用人と宣之言書は、緒と呼ばれるもので繋がるのだが……」

 そう言って、狐が右の前足を持ち上げ、空中に何か複雑な模様を描くように動かした。そして、鼻先で良彦の首のあたりを指す。

「これでお前にも見えるだろう。首の後ろから出ているのが緒だ」

 良彦が慌てて目をやると、先程までは見えていなかった緑色の『線』がぼんやりと浮かび上がり、宣之言書から出たそれが、自分の首の後ろあたりに繋がっているのが見える。

「なんだこれ!?」

「だから緒だと言うておろう」

 自分の首の後ろを確認しようと、ぐるぐる回っている良彦を呆れたように眺め、狐は続ける。

「お前の前に選ばれた御用人は、諸事情あってその緒が切れてしまったのだ。よって、急遽代わりの御用人が必要となった」

「切れた……?」

 良彦は、宣之言書から伸びた緑の緒を改めて眺めた。触ってみても感触はなく、掴もうとしても実体がない、レーザー光線のような感じだ。

「……そ、それ、もう一回繋ぎ直せば……」

 切れたのなら、また結んでしまえばいいのではないだろうか。

 良彦の言葉に、狐がやれやれと呆れたように息を吐いた。

「そのような簡単なものではない。緒とは、いわば神と御用人を繋ぐもの。おいそれと触れるものではないのだ」

 そうなんすか……とつぶやきながら、良彦はもう一度緒に目をやる。先程まではっきり見えていたそれは、時間の経過とともに薄くなり、やがて見えなくなった。

 萌黄色の目を細めながら、狐は続ける。

「代わりの御用人とはいえ、誰もが務められるわけではない。全国を飛び回れるよう、できるだけ若く、謙虚で、慈悲心に溢れ、神を身近に思い、また明浄正直を満たす者が全国から探された。しかしそうそう条件の揃う者はおらず、これという優秀な人材はだいたい重要な役職を担っている、またはそのために教育されていることが多い。御用聞きに時間を割けるほど、暇ではないのだ。そこで、選別にあたった高位の神々も、どんどん条件を下げていったのだが……」

 ちらり、とこちらに目をやる狐に、良彦は嫌な予感を覚える。なんだかその続きを聞いて、幸せになる気がしない。

「……もしかしてオレが、消去法で選ばれた……とか……?」

 良彦は恐る恐る尋ねる。

「それだけではない。お前が敏益の孫であることも大いに関係している」

 消去法のところは否定せず、狐はさらりと答えた。

「……元御用人の孫だってこと以外の理由は?」

「それは……」

 良彦の問いに、淀みなくしゃべっていた狐が、急に目を逸らして口ごもった。

「確かにお前は……無気力で、自分には甘く、そのくせ他人からは理解を求めたがる、いけずの頑固者で、勤めも続かず、引きこもり……ろくでもない……なぜ大神が許可したのか……わしも反対したのだが……」

「え、え、ちょっと待って、オレ悪口聞きたいわけじゃねぇんだけど」

 なぜ初対面の狐にここまで言われねばならないのか。しかもそのどれもが当たっているために、何も言い返せないところが妙に悲しい。

 ぼそぼそとつぶやいていた狐が、気を取り直したように良彦に向き直る。

「とにかく、いつまでも御用人の席を空にしておくわけにもいかず、これは御用人代理という急遽の処置なのだ。代わりが見つかれば、お前はすぐに解放されよう。それまでは、宣之言書に従ってお役目に励め」

 なんだかいろいろと腑に落ちない。良彦は目の前の狐を胡乱な目で眺める。どうしても自分にと頼まれればまだ納得できそうなものを、ここまで言われてお役目に励めとは、素直に頷くのも癪に障る。そもそもこれは本当の話なのだろうか。自分が夢を見ているだけ、というオチが待っていたりはしないのか。

「……あんた、一体何者?」

 足元にくるりと尻尾を巻きつけて座る狐に、良彦はそもそもの疑問を投げかけた。「今頃になってそれを問うか?」

 若干呆れたように息をついて、狐は告げる。

「わしはこの社に鎮まる、方角を司る方位神だ。この毛色から、他の神々には黄金と呼ばれている」

 その美しい毛並みが、より一層の輝きを纏ったようで、良彦は眩しさに目を細めた。

「……神様……?」

 にわかには信じられず、良彦は問い返す。今まで何度も神社には足を運び、手を合わせてきたが、いまいち神様の存在を信じてはいなかった、そんな自分が。

「……マジで?」

 モフモフと手触りのいい、少々短気な狐の神様をこの目で見ることになるなど。

「宣之言書に浮き出た印は、我が神名、方位神ではなかったか?」

 尋ねられ、良彦は戸惑いつつも頷いた。

 それを見て、黄金は満足そうに微笑む。

「ならば聞け。わしの御用を」