プロローグ


 日本海、北信越地方に浮かぶ離島、翡翠島。

 過疎により人口が三百名を切ったその小さな島には、特異な歴史が存在する。

 隔絶性に端を発する情報不足から、天皇の崩御を知らずに新年拝賀式を行ったという伝承さえ残っているのだが、そういった本土との希薄な交流は、第二次世界大戦末期、島民にとって戦火を対岸の火事にしていた。

 そんな折、一人の敵兵が戦闘機の故障で不時着し、島民は戸惑いながらも彼を保護する。そして、その時受けた恩が兵士の中の何かを変えたのだろう。戦後も彼は島に残り、翡翠島で暮らすことになった。

 男の名はアンドレアス・リルヴェット。後代に名を残す建築家だった。

 数十年という時を翡翠島で過ごし、アンドレアスは幾つもの著名な建造物を残す。彼の影響は島の隅々にまで及び、やがて翡翠島は『異人島』という異名で呼ばれるようになる。点在する和洋折衷の建物、本来、存在するはずのない南洋の植物。アンドレアスの生きた証は、確かな形となって島に刻まれていったのだ。


 翡翠島は争いや揉め事とは無縁の島であり、長い間、事件らしい事件は起きたことがなかった。しかし、ある時、不意に恐怖と混沌が生まれる。

 老齢のアンドレアスが島を去った後、彼の残した建造物を標的とする連続放火事件が発生したのだ。次々と建物が燃やされていき、最後には殺人事件まで起こってしまう。被害者となったのは、僕たちの親友、坂都乃亜の父親だった。

 唯一の家族を失った十五歳のノアは、誰にも別れを告げずに島を去る。それ以来、彼は一度も帰って来なかったし、誰かに連絡を取るということもしなかった。

 多分、あの連続放火事件が分水嶺だったのだろう。若者たちは次々と島を出て行き、今や同世代は僕と姫を残すのみとなってしまった。


 凄惨な事件から十年という歳月が流れたが、今もなお事件の真相は闇の中にある。

 僕たちはまだ、誰一人として救われてなどいなかった。




 季節が何度巡っても、夏の匂いと太陽の光は褪せない。

 潮風が撫ぜる葉月の海岸通りを、年代物のカブで走っていた。


 斜めに飛翔するウミネコを横目に、汽船乗り場に連なる倉庫の脇へと駐車する。

 午前九時。フェリーの到着まではまだ間があるが、最近はいつもこんな時間に着いてしまう。翡翠島と本土を繋ぐフェリーは、観光の繁忙期でも一日に三往復しかしない。一本目の便が到着するのは午前九時四十五分。仕事が始まるのはそれからだ。

 フェリー到着までの時間を潰すため、桟橋から続く位置に設置された切符売り場へと向かう。裏口から冷房の効いた室内に入ると、いつも通りのシルエットが車椅子に腰掛け、朝の報道番組を眺めていた。

「夏澄さん。おはようございます」

「おはよ。真翔は今日も早いね。船の到着までまだ三十分以上あるよ」

 差し出されたパイプ椅子に腰を掛けると、肩の下まで伸びる彼女のブラウンの髪から、バニラのような匂いが香った。

 柏瀬夏澄さんは、島の玄関口となる切符売り場で働く、隣の家に住む七歳年上の女性だ。狭い島だし、ほとんどの島民が知り合いではあるけれど、生まれた時から家族ぐるみの付き合いをしていた夏澄さんは、姉のような存在でもある。

「はい。珈琲。インスタントだけど」

 車椅子を機敏に動かして、夏澄さんはカップを差し出してくる。

「毎日すみません。何だかご馳走になりに来ているみたいで恐縮です」

「良いの。どうせフェリーの到着まで暇だもの。テレビばかり観ていても仕方ないし、話し相手がいてくれた方が私も嬉しい」

 既に主要なニュースは終わったのだろう。流れているのは芸能人の下世話な不倫と離婚のニュース。心の底からどうでも良い話題だった。

「つい最近まで新婚を売り文句にして、テレビに出ていたのにね。芸能界ってどうなっているんだろう。真翔はどう思う?」

「屑だと思います。こいつら皆、愛も結婚もお遊戯程度にしか考えてないんだ。だから数年で離婚なんて厚顔無恥な真似をする。カトリックとプロテスタントの違いも分からないような奴らが、十字架の前で永遠を誓うなんて滑稽に過ぎます」

「相変わらず手厳しいね」

「だって結婚ってそんな簡単なものじゃないでしょ。恋人もいない人間が吠えても格好がつかないけど、こいつらは覚悟がないんだ。誓約は命を懸けることと同義なはずなのに、婚姻届ですらシュレッダーにかけられると思ってやがる」

「真翔は真面目だね。それはとても良いことだけど、深刻に考え過ぎると動けなくなるかもしれないよ」

 夏澄さんに笑顔で見つめられると、不思議と胸が詰まる。

「こんなことを言ったら軽蔑されるかな。私ね、少しだけ羨ましい気持ちもあるの」

「羨ましい……ですか?」

「結婚生活は失敗に終わってしまったかもしれないけど、少なくともこの人たちは結婚出来たわけでしょ。選んで、選ばれて、一度は愛した人と結ばれることが出来た。私はこんな身体だし、もう三十二歳だからさ。花嫁には最期までなれないかもしれないなって、そんなことを思ったりもするよ」

 夏澄さんの両足は完全に動かない。彼女が障害者となったのは大学生の時である。夏休みの帰省中に原因不明の病に倒れ、後遺症で両足の機能を失ってしまったのだ。決まっていた就職がご破算になり、大学も退学し、すべての選択肢を奪われて夏澄さんは帰島している。

 過疎化の進む翡翠島では、若者が絶滅危惧種だ。夏澄さんと釣り合う年齢の独身男性なんて、片手で数えても指が余るだろう。

 港の切符売り場で働く彼女は、入島する人間と確実に顔を合わせることになる。観光客にナンパのような形で声をかけられることもあるようだけれど、誰も本気にはならない。彼女が身体障害者であることは一目で分かるからだ。

 車椅子の上で憂いを浮かべ、自分は結婚出来ないかもしれないと語る夏澄さんに、返す言葉が見つからなかった。


 白波をかき分け、フラッグを海風になびかせながら、フェリーが入港する。

 僕にとっても仕事の始まる時間だ。

「それじゃ、そろそろ行きます。ご馳走様でした」

「あ、真翔」

 扉を開けたところで呼び止められた。

「さっきの話なんだけど」

「はい。何でしょうか」

「結婚が羨ましいって話。正確に伝わってない気がするから、噛み砕いて言うけど、あれ、愚痴じゃないからね。どっちかって言うと忠告だったの」

「忠告ですか?」

「そう。自分からは、なかなかアプローチ出来ないのよ。こういう障害があるとね。それは姫も一緒だと思う」

 夏澄さんの言わんとすることに気付き、思わず目を細めてしまった。

「姫は待ってるんじゃないかな。ずっと真翔の言葉を待ってるんだと思う」

「……そんな殊勝な感覚がありますかね。あいつは檻に入ってないだけで猿ですよ。夏澄さんと一緒だとは、さすがに思えないですけど」

「姫の立場を一番理解出来るのは私だもの。幾らあの子でも自分からは言えないよ。たとえ彼女がどれだけ馬鹿でも」

「最後にさらっと酷い本音が零れましたね」

「二十五年も一緒に生きてきたんだもの。そろそろゴールテープを切っても良いんじゃないかな。お姉さんはそう思うよ」

「……そろそろ僕は行きます。忠告も一応、胸に刻みました。それじゃ」

 夏澄さんとのやり取りは楽しいけれど、これ以上、姫との関係を追及されるのは御免だった。切符売り場を出て、船荷の受け取り口へと向かうことにした。




 翡翠島は北信越地方の沖合に浮かぶ小さな島だ。正確に言えば、浮かんでいるのではなく海上に突き出ているわけだが、本土から遠く離れた地で暮らしていれば、精神的な意味では浮島にいるのと大差がない。

 海岸線の長さは約二十キロ。車があればそれほど時間もかからずに一周出来てしまう。島民の流出は若者に限った話ではなく、過疎化の波は止まるところを知らない。気付けば、いつしか人口も三百名を切っていた。

 人口の半分以上が六十五歳以上の高齢者となった地域を『限界集落』と呼ぶ。翡翠島がその定義に当てはまる日も、そう遠くはないだろう。

 地震や津波、海岸浸食に土砂崩れ、災害への対策も兼ねて、自治体は施設の充実化に力を入れている。ゴミ処理場、火力発電所、簡易浄水場などの設備投資に資金を惜しんでいないし、生活環境の整備が進んでいるため、住民の暮らしは快適なものだ。

 それでも根本の問題は解決の兆しを見せない。住民は一線を退いた高齢者世代が最も多く、この島で暮らす二十代は、二十五歳になった僕と姫を入れても、わずかに四人だけだ。看護師の凜乃さんも、安住庵に勤務する女性も、本土出身である。

 翡翠島を故郷とする僕や姫のような若者は、稀有な存在だった。


 かつて島の産業は、半農半漁だったという。しかし、戦後、本土との定期船による行き来が確立され、次第に観光業にも力が入れられるようになってきた。

 時代の変遷により、島民の職業には幅が生まれる。通信制高校を卒業した十八歳の春、僕は引退を希望していた前任者から現在の仕事を引き継いだ。朝刊と夕刊、加えて、本土の運送業者から請け負う荷物の配達である。

 本土を午前九時に出発したフェリーは、約四十五分で翡翠島へ到着する。載せられてきた朝刊と荷物を受け取り、自前のカブで島中に届けていく。

 雨が降れば悲惨だが、快晴であれば夏は気持ちの良い仕事と言えなくもなかった。

 島で唯一の警官、『ピグモン』こと六輔さんは交通法規に甘い。ヘルメットも被らずに夏風を切り、単身世帯の高齢者が今日も生存しているか確認しつつ、島中を巡っていく。

 集落を離れて暮らす者もいるが、そういう変わり者は、そもそも新聞なんて必要としない。七割を超える世帯が新聞を取っているものの、荷物を共に届けても、大抵は三時間ほどで配達が終わった。


 翡翠島には高校がないため、ほとんどの若者は中学卒業を機に本土へと進学し、卒業後も帰って来ない。中学卒業時、僕が選んだのは月に二回だけ校舎へ通う必要のある、通信制高校への進学だった。

 勉強は嫌いではなかったし、母集団が小さいとはいえ、小学生の頃も、中学生になってからも、成績はトップだった。そんな背景からくる期待もあったのだろう。通信制高校に進学すると決めた時、母には随分と反対された。卒業後にこの仕事を選んだ時にも深く失望されている。けれど、僕は自分が選んだ道を後悔していない。

 どんな小さな島で生きていたって、目を凝らせば社会の趨勢くらい理解出来る。人間はその命の大半を社会人として過ごすのだ。多くの人々にとって、人生の不幸の大部分が職場に集約されるのも必然だろう。

 無能な上司に振り回されながら、その歯車から外れることが出来ない。

 腹が立っても、義憤が山積しても、雇われという立場に甘んじるしかない。

 だが、真に不幸なのは、上司が無能と陰口を叩く自分自身もまた無能であるということを、多くの人間たちが自覚すら出来ていないということだ。鏡を見て絶望するような、そんなみじめな人生を送りたくはない。

 新聞配達という職の最大の利点は、人々との社会的な意味での交流が希薄な点だ。誰に失望することも、失望されることもない。僕はこの仕事に、孤独という観点からのみ満足していた。


 午後一時過ぎ。配達の最後に訪れるのが、昼間はカフェとして、夜はバーとしてオープンする『カレイドスコープ』である。

 汽船乗り場から海岸沿いを南下すること十分。アンドレアスの白亜灯台を背景に、煉瓦造りのカレイドスコープは、今日も色彩豊かなフラッグを風になびかせていた。島に残る唯一の同世代、備前織姫がたった一人で経営するお店である。

 扉に取りつけられたドアベルを鳴らしながら、店内へ足を踏み入れる。

 頭上の古いスピーカーから『青春の輝き』が流れていた。

 懐かしい曲を聴いて感傷的になるような年齢ではないが、子どもの頃から、僕らの周囲にはいつもカーペンターズの曲があったような気がする。カレン・アン・カーペンターの声は、鼓膜をすり抜け、心の砂地へと滑り落ちていく。

 島内の飲食店や旅館は、汽船乗り場付近に集中している。観光客がまったく訪れないわけではないが、カレイドスコープの客は大半が島民だった。

 彼女は少なくとも容姿だけならば、その名の通り、お姫様然とした女である。すらりとした長身と瀟洒な容貌。子どもの頃は男子にも負けない抜群の運動神経を誇っていたし、翡翠中学の陸上記録も持っている。

 容姿端麗、スポーツ万能、島中の人間に『姫』と呼ばれる彼女だが、天は公平なのだろう。小学校の低学年で学業に挫折する程度には、彼女は頭が悪かった。

「今日の日替わりは何?」

 カウンター越しに姫に声をかける。

「毎日それを聞いてくるけど意味あるの?」

 サラダを盛りつけながら、姫は顔も上げずに答えた。

「あんた、メニューが何でも絶対に日替わりを頼むじゃん」

「この店は客にメニューも教えないのか?」

「……まぐろとアボカドの冷製パスタ。それに、タコと夏野菜のバジルサラダ。分かったら黙っていつもの席に座ってて」

「タコは嫌いだから抜いて欲しいかな。あと、食後に紅茶も」

「知ってるよ。ミルクポットと角砂糖を三つでしょ。舌が壊れてるよね」

 代わり映えのしないやり取りを終え、直射日光の差し込まない一番奥の席に着く。

 夕刊を載せたフェリー最終便の到着は、まだ随分と先だ。持参した文庫本を広げ、しばし自分の時間に没頭することにした。


 異人島とも呼ばれる翡翠島には、異国の風土が根付いているが、それは第二次世界大戦の末期、この島に不時着し、そのまま定住するようになったアンドレアス・リルヴェットの存在に起因する。建築家だった彼の影響は、建造物以外にも島内に多く残っており、その中の一つがバスケットボールだった。

 翡翠島では大人数を要するサッカーや野球のような部活動が成立しない。小学校と中学校は同じ敷地内にあるが、何十年も前から部活動は、どちらにもバスケ部一つしかなかった。この島の子どもたちにとって選択肢は二つに一つ。バスケ部に所属するか、無所属を選ぶかなのである。

 姫は小学生の頃から大人を蹴散らすほどの実力者だった。中学に入学するやいなやエースナンバーの四番を背負い、一年生を入れなければ五人にも満たないバスケ部で、快進撃を続けていた。

 ガード、フォワード、センター、あらゆるポジションをこなし、たった一人で百点近い得点を公式戦であげたこともあったという。昔から馬鹿みたいに食べる女だったが、その栄養はすべて、脳ではなく身体能力へと回ったのだろう。

 そして中学三年生、バスケ部最後の大会で、姫は島中を歓喜に包み込む。

 地域が所属する市内大会、地区大会、県大会を次々に突破していき、ついには悲願だった北信越大会への出場切符を手に入れたのだ。それは、一年生を入れても七名しかいない女子バスケ部が起こした奇跡の進撃だった。


 姫には早い段階から、全国各地の強豪高校スカウトの目が集まっており、大会後、推薦入学打診の件数は実に二桁に及んだという。そんな中で姫が最終的に選んだのは、インターハイの常連校でもある新潟県の私立、美波高等学校だった。

 あの頃、誰もが羽ばたいていく姫の活躍を夢に見ていたように思う。彼女なら、いつかはプロにだってなれるかもしれない。物心がつく前から共に育った僕も、そんな未来を願っていたし、離れ離れになるのは寂しかったが、彼女は世界の舞台にだって立てる逸材だと信じていた。

 しかし、十五歳だったあの年の晩秋。ある悲劇が起きてしまった。


 僕の座るテーブルへと向かって来る姫の動きはぎこちない。

 スカートの下に覗く彼女の痩せた左足には、サポーターが膝と足首に装着されている。ステッキなしでも日常生活は送れるが、下肢に障害を抱える姫は、左足を自分の意思で満足に動かすことが出来ない。

「はい。午後の紅茶」

「それ、キリンが商標登録しているから、事実として午後に淹れた紅茶であっても、名称として使ったら商標権侵害になるからな。観光客に出す時は気をつけろよ」

「そんなこと誰がチェックするの?」

 店内を見回すと、既に僕以外の客はすべて去っていた。読書に夢中で気付かなかったが、時刻は午後三時を回っている。

 向かいの席に腰を掛け、姫は盛大にあくびをした。

「疲れが溜まってるんじゃないのか? 今日も忙しそうだった」

「たまにね、客が全滅しないかなって思うことがあるよ。そうすれば毎日、遊んで暮らせるもの」

「生活出来なくなるよ」

「誰にも縛られたくないんだよね。楽して大金持ちになれないかなー」

 あっけらかんと言い放ち、姫は客に出したはずの紅茶を、目の前で飲み干した。


 窓から海を眺めたまま、彼女は席を立とうとしない。

 カレイドスコープは夜になるとカフェからバーに変わる。観光客をターゲットにした居酒屋は港近くにも何軒かあるし、リゾート旅館である安住庵にもバーはある。だが、どうせ飲むなら美人に注いでもらいたいという客も多い。店は夜も賑わいを見せるが、怠惰な姫が仕事を始めるのは日が暮れてからだ。普段は昼の営業が終われば、すぐに控室で昼寝をしてしまうのに、何故か今日は戻ろうとしない。

「何か話したいことでもあるのか?」

「……分かる?」

 彼女の髪型は子どもの頃からほとんど変わっていない。ミディアムショートと表現すれば良いのだろうか。もう二度と走ることは出来ないのに、運動をする時に邪魔にならない髪型を維持している。

「姫より分かりやすい奴なんて、この島にはいないからな」

「また、そうやって私が馬鹿だと思って」

「愚痴るなよ。そこが姫の良いところだろ」

「何で馬鹿が良いところなの? 私もあんたみたいに賢く生まれたかった。そうすれば、こんな風に悩むこともなかったのかなって思うし。でも……」

 よほど言いづらいことなのだろうか。姫が口ごもるのは珍しい。

「……今日って何曜日だっけ」

「金曜日だよ。カレンダーを見れば分かるだろ」

「分かんないよ。だって今日がいつかなんて印ついてないもん。何を基準に判断すれば良いの? それに金曜日じゃジャンプが発売されないじゃん。何の恨みがあって今日を金曜日だなんて言ったのよ。ちょっとは人の気持ちも考えて」

「そんな話がしたかったのか?」

「違うけど」

 本当にどうしたのだろう。ここまで回りくどい彼女は見たことがない。

「……『熊男』に聞いたんだけどね」

 熊男というのは、安住庵の従業員、山村勝司さんのことだ。まだギリギリ四十代の独身で、僕が知っているだけでも姫に十回は振られている。山村さんは昔馴染みだが、熊みたいな容姿の彼は、残念ながら姫の恋愛対象ではないらしい。

「自衛隊って金曜日がカレーの日なんだって。どうして金曜日だとカレーなのかな。何か国を守るための意味でもあるの?」

 真剣な眼差しで姫は尋ねてきたが、溜息しか零れてこなかった。

「カレーが国防に影響を及ぼすわけないだろ。そんなことが聞きたかったのか? 下らない上にどうでも良い話題だ」

「どうでも良くなんてないよ。地震の時、お世話になったことを忘れたの?」

「分かったよ。調べりゃ良いんだろ」

「……うん。ありがと。あんたは頼りになるね」

 姫は今日が金曜日であると知らなかった。それなのに聞きたかったことが、自衛隊のカレーの日では辻褄が合わない。彼女は今の質問で誤魔化せたと思っているようだし、言いたくないことを無理して聞き出そうとまでは思わないが……。


 文庫本から顔を上げると、掛け時計が午後四時を示していた。

 奥の控室では、だらけた格好で姫がドラマの再放送を観ている。

「そろそろ夕刊の配達に行くよ」

 返事も待たずに店を出て、カブのエンジンをかける。すると、

「真翔、待って」

 躊躇いがちな声が届き、振り返ると姫が店から出て来ていた。

「何? やっぱりほかにまだ話があった?」

「熊男に聞いた話なんだけど」

「自衛隊にはシチューの日もあるのか?」

「と言うより、本当はカレーの日なんて別にどうでも良くて」

 何かの決意でも飲み込むように、姫は大きく息を吸い込む。それから……。


「ノアが帰って来るみたいなの」


 一瞬、告げられた言葉の意味が理解出来なかった。

「坂都乃亜の名前で安住庵に予約が入ったんだって。ねえ、どうしよう。ノアが帰って来るんだよ。私たち、どうしたら……」

 戸惑う姫の輪郭に、期待みたいな淡い感情が見え隠れしていた。

 本土で生まれ育ったノアが家庭の事情で翡翠島へとやって来たのは、十年前、中学三年生の春のことだ。一年もしない内に去ってしまったけれど、彼は僕らの親友だった。誰よりも強い絆で結ばれた親友だったのだ。

 ノアは僕たちのヒーローですらあったように思う。女子と男子の違いがあるとはいえ、姫にバスケットボールで勝てる唯一の人間だったし、成績も抜群に良かった。あの頃、後輩たちは誰もがノアに憧れていた。優しくて、公平で、頼りになって、僕たちは皆、ノアが大好きだったのに、彼は誰にも別れを告げずに島を去った。

 あの年の晩秋、連続放火事件で父親を殺され、理由も告げずに去ってしまった。


 彼の転校後、僕と姫は必死にノアと連絡を取ろうとした。

 先生に本土の引っ越し先を聞き、何通も手紙を送ったし、ことあるごとに電話だってかけた。姫と共に通信制高校へと進学してから、本土でスクーリングがある時に、ノアの住所を訪ねてみたこともあった。

 しかし、一度として再会することは出来ず、連絡がつくことすらなかった。だから悟ったのだ。彼は僕らとの絆を断ち切った。親友だと信じていたのに、分かりあえたとさえ思っていたのに、彼は僕らのことなんてどうとも思っていなかった。そういうことなのだと今日まで無理やり納得していたのに……。

「ねえ、今更どうしてノアが帰って来るの?」

 坂都家はこの島の出身だが、ノアの父の死後、その土地は完全に処分されたと聞いている。家がないからこそ旅館に宿を取ったのだろうし、翡翠島に経済的な何かの処理を残しているとも考えづらい。

 十年も経ってから、父親を殺された島を懐かしんで帰って来るなんて有り得るだろうか。そんな気持ちがあるなら、僕らを無視し続けることなんてなかったはずだ。

「予約をしたのって本当にノアなのかな? 誰かが悪戯とかで」

「名前を偽ることに何の意味があるんだよ」

「そうだよね。どうしよう。私……」

 僕は知っている。物心がつく前から共に育ってきたのだ。二十五年間、ずっと姫の隣にいた。だからこそ嫌になるほどに理解している。

 あの頃、姫は確かにノアに片想いをしていた。

 そして、十年という歳月が流れてもなお、彼女の心にはノアが強く居座っている。




 最終のフェリーで届いた夕刊の配達は、朝刊の半分ほどの時間で終わる。

 インターネットが普及した影響もあるのだろう。年々、新聞を取らない家庭が増えているし、夕刊は取っている世帯の方が少ない。

 配達を終えて帰宅すると、すっかり日も暮れていた。

 翡翠島は南北それぞれに、中途半端なサイズの山がそびえている。瑠璃山北側の裾野を切り拓いて作られた住宅街の最奥、長い坂道の行き止まりに、僕の自宅はある。窓から香る夕食の匂いから推測するに、今日は煮物だろうか。軒下では三つの風鈴が不規則な音色を奏でていた。

 今年で五十歳になる母は、未婚で僕を出産している。

 高校進学を機に母は本土へと引っ越したが、二十四歳の時に僕を妊娠し、その後の種々の揉め事がきっかけとなって故郷へと戻ることになった。

 翡翠島は竹が豊富な島であり、代表的な真竹と篠竹の売買は、明治時代から漁業と並ぶ島の貴重な収入源だった。健在な祖父母は林業と農業に従事しており、故郷に戻ってからは母もその仕事を手伝っている。だが、未婚での出産という後ろめたさがあったのだろう。

 母は実家には戻らず、この平屋を買い取って、息子との二人暮らしを選んだ。

 祖父母ももう若くはない。戻って来るよう勧められているようだが、今のところ母は実家に住居を移すつもりはないようだった。


 六畳の居間で、筑前煮に箸を伸ばしていたら、

「私は今の真翔の年齢で、あんたを産んだのよ」

 卓袱台の向こうから母が疲れたような声で漏らした。

 夏バテでもしているのだろうか。最近、母はやつれたような気がする。

「それ、ただの独り言? それとも言わんとする裏の意図でもあるわけ?」

「市場で山村さん家の息子に会ってね。聞いたのよ」

 再び耳にした男の名で、その先の言葉に推測がついた。

「ノア君が帰って来るみたいじゃない。あんた、何か知ってたの?」

「あの人は本当に噂話が好きみたいだね。節操がないし守秘義務違反だ」

「やっぱり知ってたんじゃない。どうして言わないの?」

「大前提で伝えなかったことを責められる理由が理解出来ないんだけど、そもそも僕だって日中、姫に聞いたばかりだ」