青春ダストボックス | メディアワークス文庫 1PAGE

   プロローグ


 入道雲が立ち上る空に、セミの声が響きわたっている。本格的な夏が始まろうとしている七月のある日。一日が終わろうとしている帰りのホームルーム。二年二組の教室にいる全員が、目と口をポカンと開いて見つめる先で、夏の幻みたいに綺麗な女の子が笑っている。

「で、学校のゴミ箱にコンドームを捨てた事が、そんなに問題なんですか? 先生」

 女の子は、そう言って更に笑みを深めた。教壇に立つ、生徒指導部の斉藤の額に、一つ怒りの青筋が走った事に気づく人は、誰もいなかった。クラスにいる人全員が、先生に喧嘩を売る綺麗な女の子――マリアの不敵な笑みから、目を離す事ができなかったからだ。


:::


 私立伊原高等学校という高校があった。

 都内の片隅に位置する、歴史だけはやたらと古い男子校。立派な物と言えば、かつて千人近くが学んだとかいうバカみたいにでっかい敷地と、パンフレットの隅に書かれた創設者のお言葉くらい。大学進学の実績もパッとしなければ、部活動の目立った成績もなし。時代の流れに取り残され、生徒数は右肩下がり。今年の受験では結局、何度入試をやっても定員には満たなかった。やたら広い校舎が物悲しい。


 もう一つ、私立呂岳女子高等学校という高校もある。

 元を遡っていけば、伊原高等学校と同じ創設者に辿り着く同系列の女子高。系列だけではなく、実績がパッとしない事も、生徒数が減り続ける現状もまた同じ。もし、朝いきなり学校がポンッとなくなっても、昼ごろには誰もが忘れてしまいそうな、影の薄い学校。


 だが、あってもなくても同じような学校でも、資本主義の国で堂々と看板を掲げている以上必要経費は発生する。徐々に生徒数が減っていく中で積み重なった負債は、朝、ポンッ、と消えたりはしない。

 住田哲が、伊原高校、呂岳女子高を統括する学校法人の理事長として就任し、真っ先にした事と言えば、あまりの経営難に頭を抱える事だった。専門学校や介護部門、その他諸々のグループ企業の利益を食わしても尚も食欲が収まらない現状は、いかんともし難がった。

 御年七十。そろそろ余生を静かに、と思う頃に回ってきたトップの座はまさかの電気椅子。恨むべき杜撰な運営をしてきた先任者は、残念な事にそろって鬼籍に入っている。色んなしがらみに囚われ、逃げるに逃げられない状況の中、住田哲を中心にした経営者グループは、毎日毎日膝を突き合わせた。重苦しい雰囲気の中、

 そうだ。

 と思いつく。

 二つの学校を一つにまとめよう。

 生徒数は二倍になる。人件費は抑えられる。入学者数も少しは増えるだろう。

 今更な思いつきから二年後。諸々の手続きを済ませたそのアイディアは、本当に実行に移された。新学期の四月から、かつて千人が学んだ伊原高等学校に、呂岳女子高等学校の生徒全員が編入。学校名も伊呂原高等学校と改めて、男女共学の学校が誕生した。

 二年生に進級した女子生徒の中には、旧呂岳女子高等学校一年の、幸乃守マリアも含まれていた。


 初めてマリアを見た人のほとんどが『綺麗な人』という感想を抱く。同じクラスの一員として、一年を過ごした人なら『なんでもできる』という修飾がつくようになる。更に顔見知りとか、友達と言えるような間柄の人になってくれば『優しくて』とか、『気が利いて』とか、もしくは『言う事はしっかり言う』なんて印象も持つかもしれない。

 あと、図書室の隅で埃をかぶっているような小難しい本を読む人なら、『幸乃守』というマリアの名字を聞いただけで、ピンとくるものがあるかもしれない。マリアの祖父は小説家で、文学的な賞をいくつか受賞し、一昨年亡くなるまでその賞の審査員まで務めていた有名人だったから。

 実際マリアは綺麗で、なんでもできて、優しく気が利き、冗談も本音も含めて言いたい事はきっちりと言う、そんな女子生徒だった。生徒会で書記を務める優等生。髪は長く一本一本が風になびくほどにサラサラ。大きな二重の瞳と、日本人離れしたシャープな顔立ち。口を開けば、鼓膜に溶ける透き通った声。

 けれど、そんなマリアの口から、たまに結構な皮肉と舌打ちが飛び出る事を、ほとんどの人は知らない。

 男も女も憧れる素敵な人。

 それがマリア。

 少なくとも、マリアをよく知らない人にとっては。

 だから。

 七月の終わりに。

 しかも、あと一週間で夏休みが訪れる日の放課後に。

 マリアが、コンドーム事件の当事者として手を挙げた時、多くの人が口をポカンと開いて驚いた。


 伊呂原高等学校の図書室には、『閉架室』という名の部屋がある。

 図書室の奥の奥、誰も読まないような分厚い本が置かれた棚が立ち並ぶ最深部。壁に備え付けられた書架に挟まれる形で、ひっそりとたたずんでいるアルミ製の扉は、見ようによっては、不思議の世界へ通じるドアと思えなくもない。が、実際にドアノブを捻って中に入ってみても、天井まで届く本棚が所狭しと置かれているだけ。つまりは、図書室に入り切らなかった本を収める物置部屋だ。生徒も先生も、この部屋の存在を知る人は少ない。

 言い方を変えれば、校内で男女の『事』を済ませるには、もってこいの部屋と言えるかもしれない。


 閉架室のゴミ箱に捨てられたコンドームを見つけたのは、斉藤という体育教師で、おそらくこの高校にいる人の中で最も事態をややこしくする人物だった。

 理由は二つある。一つ目に、伊呂原高校は男女共学になりたてで、教師陣は生徒間で男女のトラブルがないか、神経を尖らせていたという事。

 そして二つ目。

 斉藤は、昔の学園ドラマに憧れて教師を目指した、生徒指導担当の教師だという事。

 掃除は人間性を高めると信じて止まないモアイ顔の斉藤は、その日も学校指定のダサい赤ジャージに身を包み、両手にそれぞれ燃えるゴミ、燃えないゴミのビニール袋を持って各教室のゴミを回収していた。

 図書室に差しかかったのは掃除時間終了の数分前で、その頃にはもう既に、担当の生徒たちは清掃用具をしまって、放課後の予定を話し合っていた。斉藤は、窓辺で世間話に花を咲かせる生徒たちを一喝し、掃除の美徳をネチネチ語りながら、ブリキ缶のゴミ箱を燃えるゴミの袋の上で逆さにし、

 ふっと顔を上げた。

 閉架室への扉に目が行ったのは、全くの偶然だった。

 あるいは、長年の教師生活で培った勘なのかもしれない。フレームはアルミで、上部の窓は擦りガラス。左右の棚には、置かれて以来誰の手にも触れられていなさそうな、ブリタニカ百科事典と芥川賞全集。

 斉藤が何気なくドアノブを捻ると、扉はあっけなく開いた。天井まで伸びる棚でいっぱいの狭い部屋。窓を通る光が、宙を舞う埃を白く光らせている。鼻につく古い臭いは、人の手が加わっていない事の表れで、斉藤はこういう普段使わない部屋にこそ日々の清掃が必要だと、眉を顰めながら思った。

 部屋の隅には、ビニール袋もかかっていないプラスチックのゴミ箱があって、物のついでと、斉藤は手に取って中のゴミを袋に落とした。窓辺で駄弁っていた生徒は、普段は鍵がかかっている筈の扉がなんで開くのだろうと不思議に思う者半分、さっさと斉藤どっか行かないかなと、時計を見上げ終了のチャイムを待つ者半分だった。

 斉藤は、ひっくり返したゴミ箱から、ひどく鮮やかな物が落ちるのを見た。

 ゴミ袋を広げて顔を突っこむ。それは薄いピンク色で、深海にすむ魚みたいに細長い。よく見れば、口を切った四角い銀の袋も一緒にある。

 斉藤は嫁も彼女もいないけど、いい年した男だから、それがなんなのか一目でわかった。

「……指導だ」

 斉藤は、小さな声で呟いた。

 獲物を見つけた獣の呻き声だった。


 犯人探しは、即座に行われた。

 黙って水面下で調べとけばいいものを、斉藤は、帰りのホームルームをしている各教室に怒鳴りこむ事を選んだ。赤いジャージはそのままに、額には青筋を立て、以前教頭から「今のご時世にそれはちょっと」と言われて以来封印していた、マイ竹刀を持ち出していた。

 バカなのだ。

 そして合併から間がなく、先生同士でもお互いの距離を見計らっていたこの学校では、そういう真っ直ぐなバカに逆らえる人間は一人もいなかった。

 斉藤は担任の先生に「ちょっとすみません」とだけ断りを入れ、閉架室からコンドームが見つかった、なにか知っている者は速やかに申し出ろ、という事を順々に繰り返していった。斉藤の声があまりにもバカでかかったから、怒鳴りこんだクラスの二つ先まで、なにが起きたか充分すぎるほどに伝わっていた。

 マリアのクラスに来た時も同じ調子だった。斉藤は教室を見渡し、

「閉架室でコンドームが見つかった。これはあってはいけない事であり、当事者の生徒には速やかに指導を行わなければならない」

 続けて、

「子供を作るという事は遊びではない。だと言うのにこういう行為に及んだ生徒がいる事が先生は非常に悲しい。もしこの事の意味を分かっていない愚か者が、一体どこの誰か知っていればすぐに教えるように!」

 斉藤は逆さに持った竹刀で床をゴツン! 大概の生徒が、事情を呑みこめない阿呆面か、どうでもいいから早く帰らせろ、と言いたげな不満げな顔をしていた。

 教室を威嚇するように見渡す斉藤は、とある一人の女子生徒と目が合った。女子生徒の事を、斉藤は知っていた。生徒会では書記を務め、立ち居振る舞いは品行方正そのもの。教師の間でも、綺麗で、なんでもできて、優しく気が利き、言いたい事はきっちりと言う、と評判の優等生。

 そんな幸乃守マリアが、じっと、斉藤を見ている。

「な、なんだ」

 思わず斉藤が口走ったのは、一向に目を離そうとしないマリアに、気圧されそうだったからだ。マリアの大きな瞳には、斉藤を射殺すような鋭さがある。虚勢でもなんでもいいから口ににしないと、斉藤の方から目を逸らしてしまいそうだった。生徒指導部の肩書がある以上、気合で生徒に負ける事は許されない、と斉藤は思っていた。野生動物の発想だった。

「言いたい事があるのなら言え!」

 誰もがマリアを見た。マリアは、一瞬首を横に振ろうとし、止めた。長い瞬きをした後のマリアの瞳は、斉藤や、その他の先生生徒が知っている、優等生マリアの目ではなかった。なんか吹っ切れたような黒々とした瞳は、言いたい事を残らず吐き出してしまおうとする、決意に満ちていた。

 美醜の差はあれど、マリアも斉藤も、本質的に似ていたのかもしれない。

 喰らい付いたら離さない、獣としての本質が。

「先生」

 椅子を床に引きずる音と共に、凜とした声が響く。マリアは、すっと息を吸いこみ、

「それ、私です」

 いったいなにを指して『それ』と言っているのか、当の斉藤も一瞬理解できなかった。教室にいる人は生徒も先生も、目も口も開けてマリアを見ていた。

「でも私は別に、子供を作る事を遊びだと思っているわけではありません。それに、そんな事を、竹刀片手にいきなり教室へ怒鳴りこむ非常識な人に、言われたくもありません」

 マリアは笑った。百人いれば九十九人が恋に落ち、残り一人が昇天する、完璧な笑みだった。みんな、マリアばかり見ていたから、斉藤の顔がみるみる赤くなるのに気づく人はいなかった。斉藤の頬に差す赤は、昇天の赤らみだった。昇天は昇天でも、恋に落ちたものではない。怒り心頭、怒髪天を突く赤。

「で」

 とマリアはそんな斉藤に、追い打ちをかける。

「学校のゴミ箱にコンドームを捨てた事が、そんなに問題なんですか? 先生」


 斉藤の怒鳴り声は、二つ先の教室を通り越して下の階にまで届いた。

 セミが鳴きやみ、入道雲はのんびり泳ぎ、マリアの顔には、柔らかな笑みが浮かんだままだった。


 その瞬間、


 未来を予知できた元神様な男――哀川仁は、欠伸をかましながら部活に向かっていた。

 十年前の一言を恨み続ける男――木怒川樹は、聞こえてきた斉藤の声のうるささに舌打ちをした。

 曜日ごとに女を替える男――宇喜多蓮は、妄想をかき立てながら階段を降りていた。

 小さな幸せを配るストーカー男――設楽慶は、マリアを気にかけながらも先生の用事をこなしていた。


 一年生の哀川仁が斉藤に連行されるマリアを見かけたのは、階段の踊り場だった。所属している陸上部に向かう途中だった仁は、斉藤の三歩後ろを歩くマリアを見た時、思わず「あ」と声をあげた。仁に気づかずに通り過ぎていくマリアを見ながら「あーあ」と口にした。そして、マリアが廊下の角を曲がって姿を消すと、「あらまぁ」と呟き、最後にこう言った。

「またなんかやっちゃったのかな?」


 二年生の木怒川樹が斉藤に連行されるマリアを見かけたのは、自分の教室だった。辺りの生徒の視線の先を見てみると、マリアが、顔を真っ赤にした斉藤の後ろを粛々と歩いているではないか。生徒指導部の斉藤が、コンドームがどうのこうのと言って、教室に怒鳴りこんできたのはつい先ほどの事。一体誰が犯人かと、クラスメイト共は騒いでいたが、まさかマリアが?

 ふんっ、と樹は鼻を鳴らす。

「どうせ自業自得だ」


 三年生の宇喜多蓮が斉藤に連行されるマリアを見かけたのは、昇降口だった。これから会う、新たに付き合い始めた彼女とのイヤらしい事を妄想しながら、上履きと靴を履き替えていると、周囲がふとざわめいたのだ。なんだ、と思い顔を向けると、なんとマリアが、あの悪名高い斉藤の後ろを、罪人のように歩いているではないか。

 その姿を見た生徒たちは、口々にあのマリアがなにをやらかしたのか、という話をしている。聞き耳を立てていると、一部のクラスには斉藤が怒鳴りこんで、学校にコンドームを捨てた犯人を捜していた、という話が聞えてくる。コンドーム? 学校? それにマリア?

 それを聞いた蓮は、呆然と呟く。

「エロい事なら俺としろよ」


 一年生の設楽慶が斉藤に連行されるマリアを見かけたのは、職員室の前だった。先生への書類を届けた慶が、帰宅の途につこうと昇降口に向かっていると、向かい側から、顔を真っ赤にした斉藤が歩いてきた。よく見てみれば、その後ろに、誰か生徒を連れているようだった。慶は斉藤とすれ違うその瞬間に、マリアを見て、ふっと息も足も止めてしまった。

 通り過ぎていったマリアと斉藤は、生徒指導室に消えていく。慶はマリアの凜とした横顔を思い出しながら、あぁ、と絶望したように呟く。

「やっぱボクじゃ無理ですよ、源さん」

 事の始まりは、学校が合併しマリアと四人の男たちが再会した、四月まで遡る。



 春の陽気って言うのかな。ほどよく暖かくて、葉桜が風に舞っちゃって。個人的に、春は秋なんかよりずっと運動には向いていると思う。特に今日みたく、時々雲が太陽を隠す晴れた放課後なんかは、走るのにはもってこいの日だね。

 短く切ったスポーツ刈りの頭。身長百七十五センチに体重六十五キロ、コンディションはばっちり、彼女はなし。そんな平々凡々の僕――哀川仁は、新しく買ったばかりのジャージを着て、グラウンドの片隅で一人、柔軟体操をしている。

 入学式が終わって一週間、普通に入試をパスして入ってきた人たちは、まだ部活の申請用紙ももらってないはずだ。けれど、陸上部のスポーツ推薦で入った僕は別。万年地区大会止まりのこの陸上部でも、スポーツ推薦の一年は即部活に参加、なんてルールがあるらしい。

 入部した他の一年の大半は『面倒くさい』とぼやいていたけど、僕にとってはそれもアリかなぁ、なんて思っていた。僕は高校入学を機に一人暮らしを始めていて、家賃が安いだけが取り柄のボロアパートには、未だに片づける気にならない引っ越し荷物が、段ボールにすやすやと眠っているんだから。そんなのを前にしたら、現実逃避に走りにいくってのが、人間らしい感情ってもんでしょ。どうせ走るんだったら、家の近所も、学校の外周も同じって事。

 柔軟体操も終わり。僕は先輩に一声かけて、ウォーミングアップの走りこみに出る。伊呂高は敷地面積だけはやたらと広くて、学校の外周だけでも結構な距離になる。あまり早く走りすぎるとバテちゃうから、適度に力を抜く。だけど、帰宅する生徒を何人も追い越すうちに、ついつい速度を上げてしまう。このまま風になってもいいかなぁ、イヤでもその前にレンタル中のCD返さないと延滞料金が、なんて考えながら、何気なく視線を動かすと、

 道路の向こうに、美少女の影を見た。

「げ」

 僕は、低い声を吐き出す。美少女は、新入生から早くもダサいと評判の、学校指定ショルダーバッグを肩にかけ、友達っぽい女子生徒とお話しながら歩いている。学校が始まってまだ一週間しかたっていないけど、その美少女が幸乃守マリアという名前だという事と、生徒会で書記をやっているという事を知らない奴はいない。

 入学式で会長を差し置いて挨拶した姿は、今でも覚えている。ぜぇったい猫かぶってるに違いない綺麗な声で、新入生歓迎の言葉を読む姿に、誰もが目を奪われてたんだから。

 僕は走りながら、首だけを動かしてマリアを見続ける。

「――おい」

 野太い声がした。前を見ると、歩道一杯に広がっていた上級生軍団と激突五秒前だった。僕は体を反らし、歩道と車道の間に引かれた白線を綱渡りしながら、上級生軍団を避ける。トラックが排煙をまき散らしながら、すぐ隣の国道を走り去る。僕は、反射的にマリアに目を向けた。

 うわ、こっち見てる。

 目が合った気がしたし、ちょっと笑っている気もした。後ろで、上級生軍団がなんか騒いでいる。僕は、顔を前に向け、スピードを速める。

 僕はふと思いついて、一瞬だけ目をギュッと瞑る。瞼の裏には映るのは、真っ暗な闇だけだった。

 当たり前か、と僕は思う。

 マリアに再会したからって『未来を視る力』が戻ってくるわけではないのだ。


:::


 マリアが覚えているかは知らないけれど、僕は昔マリアに会った事がある。

 その時僕は六歳で、学校に行かず、セラピー教室の皮をかぶった新興宗教の神様をやっていた。


 僕には昔、未来を視る力があったのだ。

 いわゆる超能力……みたいな奴だと思うたぶん。なにがどうなってそんな事ができるのか、さっぱり説明できない。でも、人が車の構造をろくに理解してなくたって時速百二十キロを出せるように、僕自身も理解できないこの力を当時は自由に使う事ができた。

 力の使い方は簡単。未来を視たい誰かの手を握る。僕とその誰かは目を瞑る。するとあら不思議、その人がこれから見る光景が、瞼の裏に流れこんでくる。

 それは丁度、録画した番組を早送りで見るのに似ていた。鮮明なテレビ画面に、音のない景色が次々と流れていく。リモコンで、二倍速、三倍速……と速さを上げる事はできるけど、見たいシーンまで一気に飛ぶ事はできない。そして、僕が見れる未来は、精々一週間先くらいまでだった。


 当たり前の話だけど、母は最初、僕の力をちっとも信じようとしなかった。だから、僕は力の証明のために、母の手を握って未来を視た。

 だけど、僕がその時に視た未来は、父が浮気をしているカラオケ屋に母が突撃する、というとんでもない内容だった。

 僕がその未来を伝えた時の、母の悲しげな笑みは未だに良く覚えている。


 その時父が家にいれば良かったんだけど、あいにくまだ会社から帰っていなかった。

 半信半疑な母は、不安を拭うために父の会社に電話した。けれど、父は既に退社したと言う。母の携帯電話には、残業するから遅くなる、と言うメールが入っていた。

 結果が出るまで、そう時間はかからなかった。僕が未来で視たカラオケ屋の店名を母が調べ、現場へ急行。受付をスルーして向かった先の部屋で、父は、当時流行っていたアイドルの歌を裏声で熱唱していた。部屋には、見た事のない茶髪の若い女の人もいた。皆が固まる中、僕は母の袖を引っ張って「メロンソーダ飲みたい」と訴えていた。


 僕は母に引き取られ家を出た。と同時に、母は僕にこんな事を言い出した。

「仁君、ちょっと神様になってみたくない?」

 なにを言ってるんだろうとは思った。でも当時の僕は子供で、母の言う事に首を横に振るなんて、地球が逆回転してもあり得なかった。僕の了解を取り付けた母は、父からの慰謝料を元に雑居ビルへ引っ越して、セラピー教室の看板を掲げた。アロマセラピー、アートセラピー、フラワーセラピー等々、ありとあらゆるセラピーを無料で体験できるというふれこみの、結局なにがやりたいか傍目からはよく分からない教室。

 でも、母の目的は明白で、人生になんかしら疲れや悩みを抱えている人を集める事だった。適当に花を並べたり、アロマの香りを漂わせたりするだけで、人の悩みなんて解消されるわけがない。そこに母が付けこみ、じゃあ良い場所があるわよと、ボクの元に連れてくる。後から考えると、母は相当えぐい事をしている。

 初めのうちこそ人集めに苦労していたようだが、なんせ僕の言葉が全部本当の事になるから、評判は次第に高まっていった。そのうちセラピー教室も本当に形だけになった。昔は花を並べ、アロマの香りを毒ガスのように充満させていた元セラピー教室の一室は、ただの待合室のようになってしまった。

 一年くらい経って、僕の仕事――という名の神様ごっこが軌道に乗ったある日、母へ、どうして僕を神様にしたの? と今更な疑問を口にした事がある。

 曰く、

「ほら、テレビでさ、ドラマをやってたじゃない? マジシャンと大学教授がさ、インチキ宗教のネタをばらしていく奴。あの中の宗教団体って、みんなすっごく儲かってたでしょ? インチキであれだけ儲かるんなら、本物の力を持った仁君は、もっと儲かるわよ。それに、力が本物なら、誰かにネタばらしされる心配もないしね」

 なんの事はない。母は単に、テレビっ子だっただけなのだ。


 という事で、当時の僕は毎日を子供ではなく、神様として生活していた。

 僕の一日は、信者……じゃなくてセラピー教室の生徒達の未来を視る事を中心に回った。朝昼晩と一日三回、当時僕が暮らしていた、雑居ビルの二階にある和室で、悩める子羊、と呼ぶには、少々陰気すぎる生徒達の未来を視る毎日を送っていた。

 僕は霊験あらたかな白装束を身にまとい、集会場の上座に設けられた、四方を簾に囲まれたスペースに座り、生徒と向かい合うのだ。時代劇に出てくるお殿様とひれ伏す家臣を想像してもらえば、分かりやすいと思う。お殿様の姿は簾で見えない、家来の人たちは皆そろって僕を神様だと思っている。ジャンルはコメディかな。


 生徒の人たちからのお布施で、母の財布は随分豊かになり、物に困る事はなかった。

 だけど、どうしても手に入れられないものもあった。

 友達だ。

 学校に行かず、毎日神様をやっていた僕にとって、友達とは、テレビの向こう側にだけ存在する手の届かない生き物でしかなかった。けれども、母にその思いを伝える事はしなかった。

 溺れる者は藁をも掴む。僕みたいなひょろひょろの藁にすがる人たちは、深い深い悩みの海に溺れている人ばかりだった。だから、そんな人を横目にワガママを言ってしまうと、罰が当たると思ったのだ。本物の神様から。


 ある日の事だった。僕はいつものように、朝のお勤めとして、生徒の未来を視続けていた。その日何人目だったか、とにかく若い男で、こう言っちゃなんだけど、あんまり女性と縁のなさそうな、もっさりした感じの人だったのは覚えている。髪の毛は年の割に薄くて、着ている服も洗濯物の山から適当に引っ張り出してきたような、よれよれのTシャツとジーパン。目の間隔が開いた顔は、どことなく、人類が魚だった頃の名残を感じさせた。

「あ、あの、自分、好きな人が、いるんですけど、その、あの、明後日、告白しようかと、思っていて、その、相手の人が、オッケーしてくれるか、すごく不安で」

 当時六歳の僕でさえ、無理だろうなぁ、と思った。だけど未来を視ずに、顔だけ見て「諦めなさい」と言うのも酷な話で、僕はその魚君の、汗でしっとり濡れている手を握り、瞼を閉じた。

 流れてきた未来の映像を早送りし、ようやく見えてきた魚君の意中の人は、黒髪に、大きな瞳が特徴的な、大和撫子を絵にかいたような美人だった。場所は、きっと奮発したに違いない、高級そうなレストラン。

 僕が視る未来に音はないから、魚君がなんと言っているかは分からない。だけど時間と共に、大和撫子の頬が笑みの形に緩むのを、僕は確かに視た。そして、笑いながら頷き、レストランから出て手をつなぎながら歩く、その映像も。

「ど、どうですか?」

 はっ、と目を開けた時、魚君は、平べったい顔をぐっと僕に寄せていた。思わずのけぞった僕は、半ば信じられない気持ちで、

「あの、高そうな、レストランで、告白すれば、たぶん、うまくいきます。笑いながら、頷いてくれると、思います」

 ホントですか!? と魚君は飛び上がらんばかりの勢いで立ち上がり、スキップしながら集会場を後にした。直後に僕は隣にたたずむ母に、あの人はどんな人? と訊ねた。母は、うーん、と顎に人差し指を当てて、

「確か、お父さんが、広告代理店の社長をしているんだって。玄関が大理石で、家にトイレが五つあるって、自慢してたわ」

 なるほど、と僕は思った。


 そして、なんだかすごく理不尽にも思えてきた。

 僕だって友達が欲しいのを我慢して、こうやって神様をしているっていうのに、なんだかすごく不公平じゃないか。あの人はなんの苦労もなく、綺麗な大和撫子と、一緒になるのだから。

 胸にもやもやを抱えたまま迎えた、とある平日の朝。僕は朝の集会前に、情報番組の占いを見ていた。血液型毎にキャラ分けされた四種類の動物が、ヨーイドンでかけっこを始める。

 一番にゴールテープを切ったのは、A型の狐だった。テレビの画面が変わり、今日一日の運勢が映る。A型のあなたは今日一日ハッピーデー。気になった事は迷わず行動するのが吉。ラッキーアイテムはアナログの時計、ラッキーカラーは赤。

 集会の時間が近づいていた。僕はテレビを消して、非常階段を降りた。生徒と鉢合わせるといけないから、いつもそうやって集会場のある二階まで降りているのだ。集会場へ通じる裏口の、ドアノブを握ったまま動きを止めた。

 頭の中で、一位を独走するA型の狐を、スキップで猛進する魚君が追い越していった。ゴールテープを切った先に待ち構えていた大和撫子と手をつなぐ魚君を、A型の僕は、スタートの白線の内側から眺めている。

 なるほど、と僕は唐突に納得した。迷わず行動するのが吉なのか、と。

 僕はドアノブから手を離し、そのまま非常階段を駆けおりた。考えてみれば、一人でこのビルを出るなんて初めてで、大通りに出た瞬間にどこへ行っていいのか分からなくなった。でも、目的地なんてどこでも良かった。とりあえず行動。ただそれだけ。

 僕は車道を斜めに横断して、ビルとビルに挟まれた細い道を駆けていった。幼心に不安もあったが、好奇心が勝った。もしこの時、違う道に行っていれば。もしくは、A型が一位にならなければ。魚君がフラれていれば。僕は高校生になっても神様を続けていたかもしれないし、少なくとも、マリアと出会う事はなかったんだと思う。

 マリアとは公園で出会った。住宅地の真ん中にある、砂場とブランコと滑り台がそれぞれ一個あるだけの、小さな公園だ。マリアは公園の片隅で、ランドセルをお尻の下に敷き、すごくつまらなそうな顔で砂場を睨み付けていた。何万回と同じ時間を繰り返して、同じ風景を監視するタイムトラベラーみたいだった。

「ねぇ」

 と声をかけると、マリアはこれでもかというほど、驚いた顔をした。今の今まで、僕の存在に気づいていなかったようだった。僕は、勇気を出してもう一声、

「なにしてるの?」

 マリアは、右、左と見て「私?」と小首を傾げながら、自分自身を指さした。うん、と僕が頷くと、

「えっと」

 とマリアは呟き、

「学校、さぼってる」

「なんで? いじめられてるの?」

 いじめられる子供は学校に行かなくなる。僕がテレビで仕入れた、学校に関しての数少ない知識の一つだった。だけどマリアは笑いながら、そんなんじゃないけど、と言った。

「ちょっと、お祖父ちゃんと喧嘩して、一昨日から家出中。学校に行くと、お祖父ちゃんが校門の前で、私を待ってて、だから行きたくないの」

「じゃ、ずっとこの公園にいるの?」

 ううん、とマリアは首を横に振った。

「昨日と一昨日は、友達の家に泊めてもらった。でも朝は、ほら、学校に行くふりしないと、友達のお母さんに、怪しまれるから」

 僕はふと、公園の真ん中に立っている、一本足の時計を見上げた。丁度、長針がゆれ動いて、八時三十分を差した。

「まだ本屋さんも、開いてないから。それまでは、ここで時間を潰してるの」

 へぇ、と僕は呟いた。砂場に降り立ったスズメが、ゼンマイ仕掛けのおもちゃのように、飛び跳ねている。僕はチラリとマリアを見た。マリアは、立てた両膝の上に肘をついて、両手を頬に当てている。お尻の下に敷くランドセルの赤がやたら気になって、そう言えば占いのラッキーカラーは赤だったような、と思い出す。

「何歳?」

 とマリアは訊ねた。六歳、と答えると、じゃあ私が一個上だ、と楽しそうに呟いた。

「そっちも、サボりなの?」

「サボり、というか学校に行ってない」

 意味が伝わらなかったようだったけど、当時の僕は、うまく説明する事ができなかった。どうして学校に行ってないの? 僕は神様だから。どうしてこの公園に来たの? A型が一位だったからさ。

 時計の長針が一回りして本屋も店を開ける時間になった。痺れを切らしたマリアが、じゃあ! と立ち上がり、お尻の下に敷いていた、赤々としたランドセルを、背負った。

「よく分かんないから、あなたのお家に連れていってよ」

 断言できる。マリアがこんな事を言い出したのは、本屋より面白そうと思ったからに違いない。


 自宅の雑居ビルに戻った僕は、真っ先に母に抱きしめられた。よほど心配していたらしい。てっきり怒られるかと思っていた僕は、少しラッキーに思った。でも、僕の後ろに続いて、恐る恐る雑居ビルに入ってくるマリアを視た途端「かわいい~~」と言って突き放されたから、怒られていた方がまだ愛情を感じたかもしれない。

 この子誰? 仁君の彼女? 質問攻めの後に、マリアが家出中と知った母は、迷わず、

「じゃあうちに好きなだけいればいいわ!」

 と大人失格な事を言い出した。


 マリアは、有り体に言えば、なんでもできる子だった。料理も洗濯も、『泊めてくれるお礼』として引き受けていた。僕も一年経てばなんでもできるようになるのか、という考えが甘いと気づくのは、また一年後の事になる。

 僕がマリアに家を与える代わりに、マリアは僕に家事を教えた。そして同時に、僕の神様としての一日を知ったマリアは、常識という概念も教えてくれた。

 曰く、子供が学校にも行かず神様をしているなんておかしい、と。

 晩御飯の片付けが終わった、夜の中にぽっかりと空いた時間だった。お母さんがソファで転寝する傍ら、僕はカーペットに座りこみ、テレビの中でクイズに答える芸能人を眺めていた。マリアは、洗い物を終えて湿った手を腰に当て、仁王立ちになり、僕を見下ろしていた。

「仁は、学校に行きたくないの?」

「行きたいよ、そりゃ」

「じゃあ、お母さんに行きたいって、言えばいいじゃない」

 と言って、ソファの上で寝返りを打つ母を見た。涎が口の端に垂れていた。

「でも、それじゃ生徒の人が……」

「ほっといてもいいじゃない。死にはしないわよ」

「いや、たぶん何人かは自分で死んじゃう」

「死んだら死んだで、その時よ。ゴメイフクをオイノリすれば、それでいいわ」

「マリアちゃんって、意外と鬼だよね」

「それに、そもそも、未来を視る力なんてあるわけがないわ」

 聞き捨てならなかった。僕には確かに力があるのだ。そして、それを証明する事は、ひどく簡単だった。

 僕は立ち上がり、マリアの手を握った。驚くマリアに「目を瞑って」と言った。続けて、「未来、視てあげるから」と。

 半信半疑な様子で目を瞑るマリアを見て、僕も瞳を閉じると、瞼の裏に、早送りでマリアの未来が流れる。居並ぶ生徒達の前で……火? 煙と、非常階段を駆けおり、振り返る、笑ってる僕。こんな顔で笑えたんだというくらい、幸せそうな笑みだった。もっと早送り。色んな光景がすっ飛んだ後に見えたのは、しわくちゃな顔に、涙を浮かべながら笑っている、知らない――いや、たぶんマリアのお祖父ちゃんの顔だ。お祖父ちゃんの顔の皺全てが、笑顔を形作っていた。

「ねぇ」

 はっ、と我に返ると僕は汗だくだった。痛いんだけど、と言うマリアの言葉で、ようやくマリアの手を離す。あまりにも力を入れすぎていたせいで、指が上手く動かせなかった。

 なんの話をしていていたか、忘れてしまった。母が、ふご、と一瞬息が止まり、また安らかな寝息を立てている。マリアは、で? と訊ねて、

「私の未来は幸せだった?」

 僕は返事に窮した。マリアが幸せかは分からないが、マリアのお祖父ちゃんは幸せだと、断言できた。