東京、浅草。

 下町の人々が行き交うオレンジ通りのどこかに、密やかに佇む和菓子屋がある。

 唐茶色の暖簾に達筆で書かれた文字は、『甘味処栗丸堂』――。

 明治から四代続く老舗で、小規模な甘味茶房も兼ねている。

 中に入れば、ショーケースに並んだ数々の和菓子があなたを迎えるだろう。

 素朴ながらも多様な形と上品な色合いは、あなたの口元をきっと緩ませる。

 だが品揃えはそれだけではない。

 予想もしないものが時折持ち込まれることがある。

 あなたはこの店で心和む幸せな一時を過ごすかもしれないし、驚くような出来事に遭遇するかもしれない。



豆大福


 帯状の雲がたなびく十一月の青空の下、午後のオレンジ通りを歩く男がいる。

 栗田仁――端整な顔をした黒髪の青年だ。

 細面だが目つきは鋭く、毛足の長いファー付きのミリタリージャケットを着て、パンツのポケットに両手を入れている。

 たまに前方から柄の悪い者が歩いてくる。栗田と目が合うと皆なぜか会釈する。

「栗田さん、お疲れ様です!」

「お疲れっす!」

「ん」

 町の風景にそぐわない挨拶を適当にやり過ごして、栗田は歩き続ける。

 ここは浅草。下町独特の情緒が漂う、古き良き伝統の街――。

 江戸時代に大きく発展し、昔の面影を今もなお色濃く残した、東京を代表する繁華街だ。

 町並みには風格があり、賑やかで多様。電気ブランで有名な日本初のバーや、文豪の通った蕎麦屋など、歴史ある老舗が多々点在する。

 とはいえ、そこの住民に気取ったところはない。

 むしろ昔ながらの人情と温かさがあり、例えば観光客に道を訊かれると、ある者は親切丁寧に、ある者は手早くちゃきちゃきと教えてくれるだろう。

 栗田は観光客ではないが、雨を凌ぐために入ったコンビニで、初対面の店員に傘を貸してもらったこともあるほどだ。

 ともすれば失われがちな人の温もりが、今も確かに息づく場所――。

 その浅草、オレンジ通りに、栗田の切り盛りする店はある。彼は遅めの昼休憩を取り、ちょうど仕事に戻るところだった。

 道の先に、瓦屋根と渋い唐茶色の暖簾が見えてくる。

 和菓子屋兼甘味処、『栗丸堂』と看板を掲げたそこは、明治時代から続く老舗だ。

 栗田は裏に回ると、店の横手に吊り下げられた干し柿を一瞥し、従業員用の勝手口から中に入った。

 昔ながらの小さな作業場だ。歩き回れる人数はせいぜい数名。豆独特の甘い香りが微かに鼻孔をくすぐり、心地良い。

 周囲の棚には年代物の鍋や各種ふるいがずらりと並び、壁際に年季の入った二槽式の流し台、部屋の隅には業務用の餅つき機が置かれている。

 室内中央には大きなステンレスの台が設置され、その前で年下の職人――中之条が作業をしていた。

 台の上には、製菓用バサミや三角ベラといった細工道具が散らばっている。

「ふう……。栗さん、ずいぶん早かったですね」

「昼飯食うのにそんなに時間かからねえよ」

 作業に一段落ついたらしい中之条に、栗田は無愛想な口調で訊く。

「で、調子は?」

「いいですね。自分で言うのも何ですが、かなりの出来ではないかと」

「そうか」

 中之条は三年前からこの店で働いている和菓子職人だ。

 中学卒業後、すぐに弟子入りしたので今年で十八歳。栗田より一つ年下だが、無邪気な性格なのでもっと下に見える。

 服装はいつもの調理用白衣と白い和帽子。弟子入り当初は頭を五分刈りにしていたが、栗田が店を継いでからは髪を伸ばしてパーマをかけ、明るい茶色に染めていた。

 根は真面目だが、軽い部分も多く、付き合いやすい性格である。

「どれ」

 自信作の出来を見ようと思った栗田は、中之条に近づくと眉を寄せた。

「あ? 何だこれ」

「やだな栗さん、見れば分かるでしょう?」

「フジツボ?」

「いやー……冬の風物詩にそれはないと思いますが」

 中之条が昼前から取り組んでいたのは、練り切りの寒椿を作る練習だった。

 練り切りとは、こし餡に求肥などを加えて練ったものに細工を施し、四季の風物を表現する生菓子のことだ。茶席の主菓子などによく使われる。

 味と外観の両面から楽しめるが、造形には美的感性を伴う技術が必要だ。

 この季節の練り切りは、雪や春の到来を連想させるもの――例えば雪を被った松、寒椿、紅梅などをモチーフにすることが多い。

 中之条はその辺の総合的な技量が未熟なため、よく自主的に練習しているのだが、現状成果は芳しくなかった。

 彼の作った練り切りは花弁の形状が歪んで不格好。

 努力の後が如実に見受けられるが、それ故に美しくない。

「この手の造形にはコツがあんだよ。貸してみろ」

 栗田は流しで手を洗い、三角ベラを受け取ると、練り切りを整形し始めた。

「あれ、急に感じが変わった」

 中之条が目を瞠る。

「花びらの先端はもっと滑らかじゃないとな。仕事は力まず速くやれ。手の熱が生地に移れば、それだけ形が崩れやすくなる」

 栗田は和菓子職人として卓越した腕を持つ。技術には自分でも自信があった。

 中之条は、栗田が手を加えた練り切りを食い入るように眺めて呟く。

「そうか、この中央部分をくりっと滑らかにすれば……。んー、流石は栗さんだ。栗丸堂四代目主人が繰り出す助言は、いつだってクリアでクリティカルですね」

「いや、そういうのいいから。面倒臭えから。ていうか、あんまくりくり連呼するなよこの野郎。喧嘩売ってんのかテメエ」

「滅相もない!」

 中之条が爽やかな笑顔を返した時、店の方から声がした。

「何だい栗、帰ってたのかい栗?」

「だからくりくり言うなって」

 部屋入口の暖簾を掻き分けて、赤木志保が作業場に入ってきた。

 志保は二十代後半、造作のはっきりした強気な風貌の女性だ。濃い茶色に染めた長い髪を複数の束に分け、後頭部で緩く編んでまとめている。

 彼女は接客要員として、栗田が半年前に雇ったアルバイトだった。

 接客、レジ打ち、その他諸々、時には菓子作りの助手もこなすので、店に不可欠の存在である。

 栗丸堂は店頭で和菓子を販売する他に、甘味茶房も兼ねている。

 メニューは店の売り物と同じで、総席数も二十と大規模なものではないが、それでも栗田と中之条の二人だけでは切り回せない。

 茶房と菓子の販売業務を志保がこなし、職人二人が作業場で菓子を作るのが、今の栗丸堂における役割分担だった。

 もっとも最近は客足が減り、店はいつも閑古鳥が鳴いているのだが。

 志保は明るく笑って、唇の間から八重歯を覗かせた。

「まあいいじゃないかい。それより栗、あんたに会いたいってお客が来てるよ」

「俺に?」

「さっきから店の方でお待ちさ。早く行ってやんな」

「ったく、アポなしで来るなんて非常識な奴だな……」

 栗田は首の後ろを掻いて作業場を出る。


     *


 栗田の両親は、浅草でも指折りの和菓子職人だった。

 彼らは息子が幼い頃から技術を教え、将来は跡を継いでくれるものと期待した。

 栗田自身、自分がそうなるものだと漠然と認識していたが、中学時代――いわゆる反抗期の頃に意味もなく、それが押しつけがましい義務に思えてきた。

 他にやりたいことがあるわけではないが、自分の道は自分で選びたい。

 栗田がそのように伝えると、両親は意外にも反対しなかった。

 高校と大学を出て、社会の波に揉まれてからでも遅くないと言ってくれた。

 物分かりの良い両親になぜか淡い苛立ちを覚えつつ、栗田は和菓子から一端距離を置いた。

 その苛立ちを地元の不良連中に軽くぶつけたり、結果的に派手な抗争に巻き込まれたり、最終的には彼らの仕切り役を頼まれてトップに君臨してみたりもしたが、それは今や知る人ぞ知る昔話。

 受験前に彼らとはすっぱり縁を切って、栗田はどうにか大学に滑り込んだ。最高というほどではないが、それなりに快適なキャンパスライフが始まる。

 だが今から約一年前のこと。

 突然、両親が交通事故で他界した。

 ワゴン同士の衝突で全員即死だったという。

 しばらく栗田は途方に暮れた。胸に穴が開いたような感覚を味わい、眠れぬ夜をいくつも過ごしたが、一ヶ月後にはこの先どうするか心を決めた。

 両親のためにもこの店は潰せない――再び和菓子の道に戻り、栗丸堂の四代目として努力していこうと。

 栗田は大学に休学届けを出し、製菓技術の専門学校に通った。

 幸い、幼い頃に仕込まれたおかげで、技術的には講師より上。しばらく様子を見た後で通信教育に切り替え、後は中之条から仕事の流れを教わった。

 当面必要ではないが、職人としての高い技術力を証明する、菓子製造技能士の資格はいずれ取るつもりでいる。

 ずっと休業中だった店を再び開けたのは半年前だ。

 浅草の町は近所付き合いが濃い。親の代から付き合いがある常連客がこぞって祝福してくれた。

 だが売上は現状厳しく、帳簿を比較したところ、全盛期の半分にも満たない数字だ。蓄えがあるから当分は何とかなるが、ジリ貧以外の何物でもない。

 どうすれば状況を打開できるのか?

 ともかく今は地道に技術を磨くしかないだろう――焦る心を静めつつ、栗田は日々自分にそう言い聞かせていた。


     *


「やっ、栗くん! 久しぶり」

 作業場を出て、アポ無しで来た相手に会いに行った栗田は目を瞬いた。

 甘味茶房の窓際の席で彼を待っていたのは、八神由加とその連れだった。

 由加はテーブルに肘をつき、両手で湯呑みを持って焙じ茶を飲んでいる。

「……んだよ。来客ってお前か」

 呟いた後に舌打ちすると、由加は拗ねたように下唇を突き出した。

「舌打ちするなー。せっかく来てあげたんだから、もっと喜べー」

「あ? 何で俺が喜ばなきゃならねえの」

「だって……。まあいいけど。それより栗くん、元気してた?」

「それなりにな」

「相変わらず素っ気ないね、栗くん。でも変わりがないのは何よりかも」

 そういう由加も変わりはなさそうだった。

 彼女は十九歳で、今日はシックな黒のスーツ姿。活発そうな吊り目と、ふわりと柔らかく巻いた髪が面白い取り合わせだ。

 栗田と由加は同じ小中学校に通っていた。腐れ縁だ。

 小学生の頃、給食費の盗難騒ぎがあり、疑いが由加に向けられたことがあった。

 犯人は実際に由加だったのだが――知らずにかばって以来、何かと付きまとわれている。

 高校中退後、由加は出版社でアルバイトをしていたが、生来の要領の良さで最近グルメ雑誌のライターに転身したらしい。

 彼女の企画と文章はそれなりに評判が良いとのことで、たまに店を訪れては自分の記事が掲載された雑誌をこれ見よがしに忘れていく。

 おそらく今日もその関係だろう。由加の足元には、取材用とおぼしき大型のカメラバッグが置かれていた。

 栗田は由加に顔を近づけて訊く。

「で、今日は仕事の打ち合わせか?」

 由加の対面には、恰幅の良い背広姿の男性が座っていた。

 年齢は五十代半ばというところか。日焼けした肌がいかにも精力的で貫禄がある。

 由加は笑った。

「違う違う、仕事じゃないし。この人はあたしの遠縁の親戚。今日は栗くんに相談があってきたの」

「……相談?」

 戸惑う栗田に、眼前の男が名刺を差し出してくる。

「初めまして。私、こういう者です」

 渡されたのは外国語の名刺だった。何語かは不明だが、英語ではない。

 栗田の怪訝な表情に気づいてか、男は慌てて名刺をもう一枚取り出す。今度は日本語だった。

「田邊公夫……サンパウロフーズ株式会社、取締役?」

 栗田は名刺から顔を上げると、相手をじっと見据えて訊いた。

「経緯がよく分からないんですが、相談ってのは?」

「実はですね――」

 ともあれ、ここでする話ではないことに栗田は気づく。店内は現状がらがらだが、観光客が集団で入店する可能性もなくはない。

 栗田は二人を奥の客間に案内した。

 畳敷きのこぢんまりした和室で、店とは関係ない完全な居住空間だ。中之条や志保も必要がなければ入ってこない。

 栗田と由加と田邊は、座布団に腰を下ろして座卓を囲んだ。

「わあ、干し柿。今年もそんな季節かぁ……」

 由加が窓の方向を見て懐かしそうに呟く。

 軒から下がった干し柿は青空との対比で、浮かび上がるように鮮烈な橙色だ。

「この時期、昔からずっとだよね。あれって今は栗くんが作ってるの?」

「俺以外の誰が作るんだ?」

「ごもっとも」

「まあ、せっかく柿の木があるんだし、代々の伝統だからな。そういう部分も地味に受け継いでいかねえとよ」

「ふふ、栗くんって見かけによらず律儀なんだよね」

「気持ち悪い笑い方すんな。それより――」

 栗田が水を向けると、田邊は軽く咳払いして語り始めた。


「私は今までブラジルにいました」

 ブラジル、と栗田は呟く。

「二十年ぶりに帰国したので、由加さんに日本案内を頼んだんです。彼女は仕事の関係で、東京の地理に詳しいと聞いたものですから」

「田邊さんは、あたしの叔父の奥さんの父親に当たるの」

 由加と田邊は顔を見合わせて頷く。

 ややこしい話になりそうだと栗田は考えた。

「あれは二十年前の冬、ちょうどバブルが弾けた頃でした――」

 田邊はふっと遠い目になる。

「信頼していた者に騙されて、親が借金の肩代わりをさせられましてね。私も職を探したんですが、不況でいい仕事なんか全然なくて、サンパウロにいる知人を頼ることになったんです」

 それでブラジルか、と栗田は得心する。

「もう戻ってくることもないと思って、その日、私は東京の見納めに名所巡りをしていました。身近な人の裏切りで、当時の私はいささか人間不信に陥ってましてね。傷心を癒やす意味でも、少し一人になりたかったんですが――」

 弱り目に祟り目と言うべきか、ここ浅草で暴漢に襲われたんです、と田邊は言う。

「暴漢?」

「ええ、花やしきのそばの路地裏を歩いていた時です。いきなり柄の悪い集団に囲まれて、滅茶苦茶に殴られて……。気づけば道に倒れていました。慌てて懐を探ると財布がありません。盗まれたんです」

 おそらく観光客を狙っていたんでしょう、と田邊は溜め息を吐いた。

「海外だとよくあることなんです。旅行者は懐が裕福なことが多いし、周辺事情にも疎いですから」

「そりゃあ……災難でしたね」

 この辺の不良事情には詳しい栗田だが、二十年前の話は流石にさっぱりだ。

 田邊は物憂げに首を振って続ける。

「あまりのことに頭が真っ白になってしまった私は、痛む身体を引き摺って彼らを捜しました。もちろん簡単には見つかりません。かといって帰りの電車賃もない。闇雲に歩いているうちに日が暮れて、私の心も真っ暗になっていきました。空腹で今にも倒れてしまいそうで――その時、偶然通りかかったのがこの店だったんです」

 田邊は眩しいものでも見るような目を窓辺に向けた。

「そう言えば、あの時もこんな風だったなあ……。軒先に沢山の干し柿がぶら下がっていたっけ」

「ああ」

 栗田の口から意図せず声が洩れる。感慨深いとはこういう気分か。

「それは俺の親父が作っていたものです」

「そうなんでしょうね。空腹で心が荒んでいたので、気づけば塀を乗り越えて、一つ失敬していた次第です」

 田邊は視線を下に落として首の後ろを掻いた。

「いや、お恥ずかしい。でも懐かしいなあ……。干し柿の味そのものは淡泊で印象に残っていないが――きっとその後のことが味わい深過ぎたんでしょう。盗み食いしている私のそばに、突然あなたのお父さんが立っていました。そして私をじっと見て、怪我してるようだが平気か、って言ってくれたんです」

 栗田の父は干し柿泥棒の田邊を邪険に扱うことはなく、真剣に話を訊いてくれた。

 事情を訊くと大いに憤慨し、財布が盗まれた件を警察に連絡してくれたという。

「その時、あなたのお父さんに御馳走になったのが、この店の豆大福でしてね。あれは本当に美味しかった……。頬が溶けるほど甘い餡の味は、二十年経った今も忘れられません」

 豆大福は創業以来この店の名物で、最も売れ行きのいい看板商品だ。味と製法は昔から変わらない。

 田邊は思いを噛み締めるように両目を閉じる。

「あの体験があったから、今の私があると言っても過言じゃないんですよ……。凍えていた心と身体が温かくなって、下町の人の優しさが身に沁みて、世の中も捨てたものじゃないなって、腹の底から思えたんです……。あの豆大福がもう一度食べたい! それで今日は浅草まで足を運びました」

「そういうことだったんですか」

 成程な、と栗田は思う。

 その後ブラジルで取締役になるまで仕事に打ち込んだ彼は、二十年ぶりに帰国して思い出の味を確かめたくなったのだろう。

 本来は当事者である栗田の父が振る舞うのが筋だろうが――その辺の事情は由加が説明済みのようだ。

 いない者は仕方ない。息子として代役を務めさせてもらう。

「では持ってきます」

「お願いね、栗くん」

 由加の猫撫で声を聞き流して栗田は店に向かう。

 その日作った豆大福は、まだ充分残っていた。

 豆大福は分類的には朝生菓子であり、朝作って当日中に食べることが推奨される。

 栗丸堂の豆大福も同様だ。

 作りたての餅生地はほっとするほど柔らかく、詰まった餡は清新で爽やかな甘さ。

 二、三口で食べきれる程良い大きさと、豆が水玉状にころころと浮き出している外観は愛らしくて心が和む。

 栗田は見た目が良いのを三つほど選んで、長方形の和菓子皿に載せた。お茶と共に客間へと持っていく。

 座卓の上に置くと、田邊は日に焼けた顔を嬉しげに綻ばせた。

「うわあ、これだ! ありがとうございます、栗田さん」

「どうぞ、遠慮なく召し上がってください」

 箸も用意したが、田邊は使わなかった。手掴みで口に放り込み、ほくほくと勢いよく咀嚼する。

 ところが田邊の顔から次第に表情が消えていった。咀嚼も止まる。

「これは……」

「どうしたの、田邊さん?」

 隣の由加にきょとんとした顔で訊かれ、田邊は低い声で呟いた。

「違う」

「はい?」

「これは――あの時に食べた豆大福じゃありません。別物です」

「ええー?」

 由加が頓狂な声を上げた。

「ちょっと田邊さん! 何よそれ! せっかく連れてきたのに何てこと言うの!」

 田邊が我に返ったように口元を押さえた。

「あ……。す、すまない由加ちゃん。楽しみにしていたから、つい本音が。どうしても我慢できなくて」

「どういうことなのよ、もぉー!」

 由加は膨れ面で両拳を握り、胸の前で激しく上下させる。

「だって仕方ないじゃないか。この餡は違うんだから……」

 顔を赤くして憤慨する由加と裏腹に、栗田の顔からは血の気が引いていた。

 やはり分かる者には分かるのだ――。

 栗田自身、気づいてはいた。

 豆大福の味が僅かに落ちている。両親の味を完全には再現できていないことに。

 作り方自体は難しいものではない。豆大福の製法は極めてシンプル。

 だが同じはずなのに、どこか風味が違うのだ。

 日々試行錯誤しているが、未だ原因は掴めておらず、中之条も首を傾げている。

 思わぬ来客のおかげで、些細ながらもずっと心に引っ掛かっていた問題を直截に突きつけられた形となった。

「あの味はもう味わえないんですね……。栗田さん、失礼なことを言って申し訳なかった。今日は本当にありがとうございました」

「……いえ、こちらこそ」

 栗田は絞り出すように言った。

「田邊さん! 何なのよあの態度は!」

 悄然と肩を落とす田邊に、カメラバッグを背負った由加がむくれて捲し立てるが、耳に入っていない様子。よほど田邊は今日の豆大福を楽しみにしていたのだろう。

 栗田は店を去る二人の背中を唇を噛んで見送った。


     *


 それから三日後の昼の休憩時間――栗田は近所にある馴染みの喫茶店に向かっていた。

 たまには顔を出せとマスターから連絡が来たからだ。

 先日の件以来、栗田の頭の中は豆大福のことばかりだった。

 毎晩遅くまで試作を繰り返し、味の再現に勤しむ。昨夜は寝床に入っても眠れず、つい夜を徹して作業した。

 だがそういう時ほど望む結果は出ないもので、今は焦らない方が良いのだろう。気分転換が必要だと考えた。

 マスターの店の珈琲は水出し形式で、ダッチコーヒーと呼ばれる絶品だ。香りは深くて味は芳醇――考えていると飲みたくて堪らなくなる。

「ちーす」

 喫茶店のドアを開けると、温かな照明で満たされた広い欧風空間が出迎えた。

 レトロな内装は瀟洒で落ち着きがあり、老舗ならではの風格である。

 栗田がいつものカウンター席に座ると、マスターが珈琲を持って近づいてきた。

「よう栗田、ご無沙汰だったな」

「色々あってな」

 マスターは今年三十四歳になる野性的な雰囲気の男だ。

 長身で胸板が厚く、髪はオールバックで、顎に無精髭を生やしている。

 V胸当てのカフェエプロンが妙に似合う強面だが、性格は飄々として軽く、交友関係も広い。著名な知識人から、ヤのつく稼業人まで多くの知り合いがいる。

 趣味はバイクだ。栗田が昔荒れていた頃は、共に峠を攻めたこともある。

 マスターは無意味に不敵な笑みを栗田に向けた。

「聞いたぞ。最近だいぶ煮詰まってるそうじゃないか? 仕事も珈琲と同じで煮詰め過ぎてはいかんな」

「……誰だよ、余計な告げ口しやがったのは」

「中之条と志保と由加」

「関係者全員じゃねえか!」

 舌打ちが洩れる。

 心配してくれるのは分かるが、努力を吹聴しないでほしい。これでも慎み深い性格なのだ。

「昨日は徹夜で作業か? 目の下に隈ができているぞ。鬼の栗田の迫力が倍増だな」

「いつの話をしてんだよ。単に眠れなかっただけだっつの」

「さて、そんなお悩みの栗田氏に朗報がある!」

「人の話を聞け」

「実は今この店に『和菓子のお嬢様』と呼ばれる方がいらっしゃっていてな。お前の話をしたところ、ぜひ力になりたいそうなんだ」

 栗田は一瞬呆気に取られた。

「何だって? 和菓子の……?」

「気品溢れる美しき令嬢。もっとも俺がそう呼んでいるだけだが」

「張っ倒すぞ、この野郎。一体どこの誰なんだよ?」

 栗田の質問に、マスターは意味深に目を閉じて無精髭を撫でた。

「それがな。わけあって俺の口からは言えんのだ」

「あ?」

「まあ親しくなったら自分で訊いてみろ。訊き出すのは骨が折れると思うが……ともかく、彼女には鋭敏な感覚と深い和菓子の知識があって、先刻からお前をお待ちなんだ。カモン、葵くん!」

 マスターは奥のカウンター席に手招きする。

 何だか知らないが、要は苦境を見かねて助っ人を呼んでくれたらしい。

 流石はマスター、情に厚い生粋の浅草人――と栗田が苦笑していると、その女性が近づいてきて栗田の前に立った。

「は、初めましてー……」

 おずおずと会釈する彼女を前に、栗田は一瞬息を呑む。凄い美人だった。

 小柄で、年齢は栗田より少し下に見える。

 長く綺麗な黒髪と、さっぱりした明るい顔立ち。くどくない、バランスの取れた美形から優しげな透明感が溢れていた。清楚なニットワンピースを上品に着こなし、確かにどこかの令嬢という雰囲気である。

 とはいえ、プロの和菓子職人の力になれそうにはとても見えない。

 これだから素人さんは、と密かに溜め息を吐いて栗田は挨拶する。

「ども、栗田です」

 すると彼女は慌ただしく二回連続でお辞儀した。

「は、はいー、葵ですー」

 緊張しているのか、かなり挙動不審だった。

 更に言えば、上品な外見に語尾を伸ばす喋り方が若干ミスマッチだ。

「わたしは基本、甘味に詳しいだけの平和主義者ですが、よろしくお願いしますー」

「平和主義者って……俺もそうだけど」

 何をびくついているのかと栗田は訝しむ。

 すかさずマスターが横からフォローを入れた。

「おいおい栗田、いくら葵くんが魅力的だからって、そんなにギラギラした目で凝視するんじゃない。怖がってるじゃないか」

「誰がギラギラしてるって? あ……。ていうか、そうなのか?」

 徹夜による目の下の隈が原因だと気づき、栗田は掌で顔を擦る。

「い、いえー。全然怖くなんかないですよー」

 葵は困ったような笑顔で両手を横に振った。言葉とは裏腹に相当浮き足立っている彼女を見ながら、マスターが取りなす。

「とりあえず栗田、葵くんと二人で散歩でもしてきたらどうだろう?」

「何がどう『とりあえず』なんだ? 適当なことばかり言いやがって。大体、俺はこんなこと頼んだ覚えはねえぞ」

「そりゃそうだ。俺はお前が口に出せない、あえかな心の声を聴き取って……」

「きもい言い方すんな!」

 自分は老舗の和菓子職人。素人の女に教わることなどないと思いつつ、栗田がマスターと睨み合っていると、か細い声がする。

「あ、ああぁ……」

 顔を横に向ければ、葵が青ざめた顔で震えていた。

「どうしよう。わたしのせいで男たちの友情に罅が……。愛憎入り混じる肉弾戦が始まってしまうなんて……」

 動転しているらしく、意味不明なことを呟いている。

 おかげで栗田も頭が冷えた。

 教わることはないにしろ、彼女に悪気はないのだし、せっかく来てくれたのに追い返すのもどうかと思う。

 マスターが短く咳払いした。

「いや、葵くんは人見知りするタイプでな。我々と違って、非常に繊細な感性の持ち主なんだ。慣れれば自然な態度になるから、変な子だと思わないように」

「思ってねえ。つか、俺だって繊細な方だ」

「今日は暖かいし、散歩には絶好の日和だなあ」

 マスターは栗田の主張を棒読みで流した。

「葵くんは今日が初めての浅草だということだ。軽く観光案内でもして、打ち解けてからでも本題に入るのは遅くあるまい」

 本題ねえ、と栗田は呟く。

 先程彼女は甘味に詳しいと自己紹介していた。何だかんだ言っても、マスターが紹介するくらいだから素人ではないのだろう。少しは参考になるかもしれない。

 顔を向けると、葵はあたふたと髪を手櫛で整えて頷いた。

「名所とか色々見たいです。できれば案内して頂けると嬉しいんですけど……」

「どこが見たい?」

「そうですねー。ここはやはり有名どころで、浅草寺とか?」

「近いぞ」

 栗田はミリタリージャケットを、葵は薄手のケープコートを羽織って外に出た。


     *


 最初は態度が固かった葵だが、町を歩くうちに口が滑らかになってきた。

 ぎこちなかった表情は柔らかな微笑に変わり、栗田の隣で辺りを見回しながら嬉しげにはしゃぐようになる。

「こういう歴史ある町並みっていいですよねー。わたし、好きです。風情があるお店がいっぱいありますし、看板とかの文字にも活気がありますし」

 全国チェーンの回転寿司の看板を見ながら、そんなことを言う葵。かなりの天然ぶりだ。

「いや、あれは……」

「あー、風情がある八百屋さん発見!」

 栗田が突っ込みを入れる前に、葵の興味は次に移っていた。

 脈絡がない――というより落ち着きに欠ける。感情の赴くままに言葉を溢れさせているようで、和菓子のことは全く話題にのぼらない。

「果物も売ってますよ。あ、八百屋じゃなくて青果店ですねー。この林檎とか凄く美味しそうです」

 葵が指差した店頭の林檎には糖度シールが貼られていた。

 表示は十三度。この店ではよく見かけるが。きっと甘い林檎なのだろう。

「食べるか?」

「あ、いえー。さっき喫茶でお昼を済ませたので、お腹はいっぱいです」

「じゃ、俺の分だけ」

 栗田は林檎を買い、昼食代わりに囓りながらオレンジ通りを南下して左折する。

 葵は楽しげにお喋りしながら。栗田も楽しくないわけではないが――彼女に和菓子のことが本当に分かるのか? と若干の不安を覚えながら歩き続けた。

 有名な芋羊羹の店や、元祖雷おこしの店を通り過ぎ、やがて雷門に出る。

「わー! らいもんー!」

 葵が一際嬉しそうな声を上げたので、栗田は思わず脱力した。

「らいもん違う……。ありゃ雷門って読むんだよ」

「あ、そうなんですか?」

 葵は頬を淡く染め、勉強になりますと恥ずかしそうな小声で言った。

 その後、羞恥心を吹き飛ばすように屈託のない笑顔になる。

「それにしても大きいですねー。雷門の提灯、超大きいです! ネットで見た画像と全く同じ! 昔の人の力って凄いですねー」

 どういう反応だ、と対応に困りながら栗田は言う。

「ま、まあな。昔の人というか、松下幸之助さんだけどな」

「はい?」

「見てみ。提灯の下の金色のところに書いてあるだろ」

「あー、ほんとだー」

 提灯の下加輪に『松下電器』の文字が刻まれているのを見て、葵は両目を瞠る。

「昔、松下氏が病気の時に浅草寺を参拝して、治ったお礼に寄贈したものだそうだ。今じゃ立派な浅草の象徴だけどな」

「やー、流石に地元の方は物知りですねー」

 そんな緩い会話をしながら、門をくぐって仲見世通りへ。

 風情のある様々な店が、道の両脇に軒を連ねる参道を二人はゆっくり進んだ。

 このまま二百メートルほど歩けば宝蔵門があり、浅草寺はその先だ。

 平日だが、周辺は観光客で溢れ返っており、小規模なお祭り騒ぎ。ここでは日常的な風景ではあるが。

「そこの角の店が粟ぜんざいで有名でな。食べたことあるか? 創業の安政元年から味が変わってないらしい。御馳走してもいいんだが……」

「ありがとうございます。でも今はお腹いっぱいなのでー」

「だよな」

「でもわたし、美味しい店を色々知ってる男性は素敵だと思いますー。素直に尊敬してしまいますね」

「いや……俺の場合は仕事が仕事だから」

 なぜか無愛想な口調になってしまう。昔からそういう性格なのだ。

 伝法院前を通り過ぎて、五重塔を横目に宝蔵門をくぐると、目的地に着いた。

 浅草寺――都内最古の寺であり、日本有数の参拝スポットである。

 地元民の栗田にしてみれば今更だが、葵に付き合い、鈴を鳴らして瞑目した。

 さて、彼女は満足しただろうか?

 瞼を開けて隣を見ると、彼女はいつの間にか爪先立ちで遠くを見ている。

「どうした?」

「あのー、あちらにも何かあるんですか?」

「浅草神社。ここは寺で向こうは神社だな。行ってみるか?」

「はいー」

 葵の返事はいい具合に伸びやかで、この頃には既に栗田の肩の力もすっかり抜けていた。

 ――マスターは俺に息抜きをさせるため、あんな下手な嘘を吐いて彼女を紹介したんだろう。肩すかしな結末だが、最後まで付き合うのも悪くない。

 そんなことを思いながら、石段を駆け下りる葵を追って鳥居をくぐる。

 浅草寺と比べて、浅草神社の参拝客は疎らだった。

 手水舎で軽く手と口を浄め、賽銭箱に硬貨を放って両手を合わせる。

 浅草神社は東京の神社で最も格が低いという説がある。祀られた御神体が元は人間であるためだ。

 来歴としては、推古天皇の時代、二人の漁師が川で漁をしていたところ、網で観音像を引き上げ、それを祀るように助言した人物との三者で興したのが起源とされる。

 よって『三社様』。

 情報の正確性はさておき、面白い逸話だと栗田は思うが、そんな蘊蓄は満足そうに祈っている者にはあえて聞かせなくてもいいだろう。

 やがて葵は両目を開けると、長い息を吐き出した。

「はーっ……満喫しました。見たいと思っていた名所を全部見られて、わたし、大満足です! 栗田さん、今日はありがとうございましたー」

「いや、俺の方こそ」

 久しぶりに息抜きができたし、掴みづらかった彼女の性格も大体把握できたように思う。

 多少人見知りするが、慣れた相手には奔放な性格を惜しみなく披露する、一種の天然系お嬢様というところだろう。清楚な外見とのギャップもあって、不思議な魅力を醸し出している。語尾を伸ばす喋り方も味があって、今では好ましく思えた。

 気づけば追加の提案をしている。

「でもよ、このくらいで満足するのは少し早いんじゃねえか? 浅草には他にも面白い場所が色々ある。かっぱ橋の道具街とか、アサヒビールの本社ビルとか」

「アサヒビールのビル? それは何か駄洒落的な?」

「ちげーよ! 面白い形のオブジェがビルのそばにあってな。あんたの性格からして、たぶん気に入るよ。良かったら案内するけど、どうだ?」

「いえー、やめときます」

「そうか……」

「もちろん興味はあるんですけどね。ただ、あまり遅くなっても何ですし、わたし、これから栗田さんのお店に行こうと思ってますから」

「……何だって?」

「そのー、だって今日の本来の目的がまだですし。色々と案内してもらって、わたしは凄く楽しみましたけど、それで解散ってわけにもいかないじゃないですか」

「いや、俺は別に解散でも構わないが」

 本業の話題になった途端、言葉に険が籠もる。

 老舗の四代目として、自分より未熟な者に教わることには内心抵抗があった。

 だが葵は頓着せず、両目を閉じて悪戯っぽく白い人差し指を振る。

「構うんですね、わたしの方はー」

 態度はともかく、意外に義理堅い性格のようだった。

「実はマスターから話を伺って、既に仮説は考えてあるんです。ただ、いくつか疑問点がありまして、やはり実際に作り方を見てみないことには」

「あ、話自体はもう聞いてたのか」

「はいー。何も知らない渦中に飛び込んでいくほど、わたしは冒険野郎じゃないもので。どちらかと言えば、石橋を叩いて割るタイプです」

「割ってどうすんだ」

「それくらい事前調査を入念にやるということですねー。とにかく浅草案内のお礼はちゃんとしておきたいんです。個人的にも興味が湧いたところですし、栗田さんのお店の作業場、どうか見せてください!」

 曇りのない澄んだ瞳で見上げられ、栗田は無意味に頭を掻く。

「ったく……。分かったよ」

 特に期待はしていないが、好きなようにさせてやろうと思った。


     *


 予想通りと言うべきか、栗丸堂に葵を連れていくと、中之条と志保が凄い勢いで食い付いてきた。

「ちょっ……ちょっと栗さん! そのいかにも良家のお嬢さん風な女性は一体!」

「何だい、見損なったよ、栗。年端もいかない嬢ちゃんを騙して昼間から家に連れ込むなんざぁ、お天道様が許しても、この志保が許さねぇ!」

「すんな。変な邪推すんな。この娘はマスターに紹介された純然たる助っ人だ」

「は、はいー。純然たる助っ人の葵ですー」

 緊張気味に葵は自己紹介し、続けて意外な情報を開示する。

「わたし、そのー……これでも年端は結構いっておりまして。最近二十歳の誕生日を迎えたばかりですから、もう立派な大人の女なんですねー」

「何っ?」

 これには栗田が驚かされる。まさかの年上だった。

「あれ? どうしたんです、栗田さん。急に酸っぱいものでも食べたような顔して」

「い、いや別に。とりあえず作業場に来てくれるか? あー……その、葵さん」

「ひゃ! いきなり名前で呼ばれるなんて恥ずかしいー」

 葵は素早く両手で顔を覆い、何がどこまで本気なのか栗田は迷う。

「……自分でそう名乗っただろ。ていうか、苗字じゃなかったのか」

 葵なんとかさん、ではなく、なんとか葵さんだったらしい。

「ご、ごめんなさい。人様の家にあがるのは久しぶりなもので、今わたし、かなり舞い上がっちゃってるようですね。気にせず行きましょう」

 大丈夫なのか、この人――?

 と口には出さないが、一抹の不安を覚えつつ、栗田は葵を奥に連れて行く。


 志保と中之条に事情を説明して、作業場には栗田と葵だけにしてもらった。

 栗田は当然のこと、今は葵も白衣と和帽子姿だ。

 ――素人じゃねえな。明らかに着慣れてる。

 彼女の素性に若干の興味を覚えつつも、栗田はポーカーフェイスを保って訊く。

「話はもうマスターから聞いてるんだよな?」

「あ、できれば栗田さんの口からもう一度詳しく聞きたいです。何か聞き逃していることがあるかもしれませんし」

「まあ、そんなに複雑な話でもないんだが」

 栗田は改めて詳細を葵に説明した。

 八神由加と遠縁の親戚である田邊が、二十年前の浅草で暴漢に襲われ、栗田の父親に介抱してもらったこと。

 その時、食べさせて貰った豆大福が忘れられずに来店したが、記憶の中の味とは違っていたこと。

『だって仕方ないじゃないか。この餡は違うんだから……』

 田邊のその台詞に話が至ると、葵は細い顎を摘んで数秒黙った。

「んー、単純そうに見えて、案外複雑な事件の香りがしますね。何というか、行動の整合性が……。とりあえず栗田さん、餡の作り方を見せてもらえますー?」

「俺の餡に問題があるってのか」

 一瞬かちんと来た。

「ずいぶん上から目線じゃねえか、葵さん?」

「やー、身長的に今わたし、明らかに見下ろされてますけど、和菓子のことに関しては妥協できない性格でー」

 意外にも葵は動じず、余裕で切り返してくる。この自信がどこから来るのか微かに興味を引かれた。

 それに、と栗田は思う。冷静に考えれば的外れな主張ではない。

 栗丸堂の豆大福の製法は、主に二つのパートに分けられる。

 一・つぶし餡を作る。

 二・えんどう豆を散りばめた薄い餅生地でそれを包む。

 餅生地は栗田の父親と同様、業務用の餅つき機を使って作っている。そこに混ぜ込む塩茹での赤えんどう豆は、北海道の十勝産。――器具や材料面での違いはない。

 とすれば、やはり問題は餡作りの技だろう。

 それは和菓子の基本であり、店独自の味を出すポイントであり、職人の腕が如実に反映される核心部分でもあるからだ。

 ――何だよ、少しは分かってるみたいだな。

 彼女への見方が内心変わるのを感じつつ、栗田は無愛想に告げる。

「……じゃ、いつもの手順からいく」

「お願いしますー」

 栗田は、十勝小豆が大量に入った竹かごをステンレスの作業台に載せた。

 虫食い小豆を一粒ずつ手作業で取り除き、選別したものを井戸から汲んだ水に漬ける。吸水によって豆の皮は柔らかくなり、豊かに膨らむのだが――

 栗田は顔を上げると、隣で作業を観察している葵を見た。可憐な容姿に変わりはないが、先程とは一味違う真剣な表情だ。

 何かに集中して取り組んでいる時、人は力強く見える。目が綺麗だ。

 僅かに呑まれつつ、軽く咳払いして栗田は訊いた。

「今の季節、うちの店では一晩水に漬ける風習だ。夏場は六時間程度だが……どうする、葵さん?」

「流石に十二時間待つわけにはいきませんね。そこは端折りましょう。今日は作り方を見るだけですから」

「了解」

 栗田は、小豆と水をぼうず鍋に入れて火にかけた。

 これは丸底鍋とも言い、底が半球形なので餡が焦げにくい。一般家庭で使われることは少ないが、熱回りの良い便利な調理器具だ。

 ひとまず強火で沸騰させると、小豆がぷちぷちと音を立てて躍り、表面に浮いてくる。そこにびっくり水――温度を下げるための差し水――を入れて再び沈める。

 その後は時間をかけて丁寧に煮るのが、栗丸堂の伝統だ。小豆の皺が伸び、むらなく均一に熱を通すことができる。

 やがて小豆の煮える芳ばしい香りが作業場に漂い始めた。

 煮汁の表面に白い灰汁が噴き出てくるのを一瞥して、葵が訊く。

「栗田さん、渋切りは?」

「当然する」

 渋切りとは文字通り、渋み成分と灰汁を取り除くことで、これをしないと餡の味が濁り、爽やかな風味にならない。

 栗田は沸騰した湯を捨てて鍋を洗うと、小豆をざるで素早く水洗いした。

 再び鍋で小豆を煮て、びっくり水を入れるという作業を地道に繰り返す。

「んー、鮮やかなお手際。栗田さんって仕事が丁寧ですね」

「こういうことには手を抜かない性分でな」

「立派です」

 栗田は微かに顎を引く。

 素人に毛が生えた程度の者に上から物を言われたら、普段なら癇に障るところだが、先程からの真剣な様子の葵にはなぜかそう感じない。

 やがて彼女は唐突に妙な質問をする。

「でも栗田さん、どうしてこの件にそんな一生懸命になるんですか?」

「え?」

「あー……すみません。マスターに少しだけ伺ったんですけど、この店の経営状態って今思わしくないんでしょう? それなのに一文の得にもならない人助けなんて」

「ああ、そういう意味か。ずいぶんずけずけと言ってくれるな?」

「ごめんなさいー。でも、たまたま里帰りした方なら、お得意様にもなってくれないでしょうし」

 謝りながらも更にずけずけ言う葵に、栗田は軽く息を吐いて答える。

「まあな。でもいいんだよ」

 栗丸堂の味を二十年も忘れずにいてくれた人がいる――その事実が嬉しいし、自分が父親の味を再現できていない悔しさもある。

 何とかできるのは栗田一人だけなのだから、これに背を向けたら男ではない。

「何が得だとか損だとか、今は関係ない。やりたいからやる。それじゃ駄目か?」

「――いいと思います」

 葵の声が一際弾む。

「わたしもやる気が湧きました。気合いを入れてお手伝いします!」

「おう、何だかよく分からないが、頼む」

 無邪気とも言える天然ぶりに気抜けしたのか、いつの間にか彼女の笑顔を自然に受け入れていた。