ハチヤ・アカネはごちそうさまでしたと手を合わせる。

 正面に座った叔母のトシコは、うんうんとニコニコ顔で頷いた。彼女はアカネが食事をしているのを見るのが大好きだった。アカネが本当においしそうに食べるからだ。腹を減らした小犬と並んでがっついていても何ら不自然でないぐらい、それはもう心からおいしそうに懸命に必死になって食べるのだ。食事を作る者にしたら、これ以上の褒美はない。だからトシコは、忙しい朝もできる限りアカネの前に陣取って食事する彼女の顔を眺めるのだ。

 おいしかった? とも訊かない。おいしいと全身で表現している人に、改めてそんなことを訊く気にはならない。

 脂ののった鰺の干物の欠片を、一口分だけ残しておいた白米に載せてまとめて口の中に投げ入れる。そして愛おしそうに噛みしめ十二分に味わってから呑み込むと、水面に顔を出した海女のように大きく息をついた。これでアカネの朝食はすべてきれいに彼女の腹の中に収まった。オリンピック記録を更新した者のように満足な顔でごちそうさまと云うのと同時に、椅子を引いて立ち上がる。立ち上がってからお茶を飲み干す。そして壁掛け時計を見て、今更のように慌て出した。これもいつものことだ。

 ジーンズに横縞のTシャツと、清潔で実用本位の仕事着だ。長い髪は後ろで無造作に括っている。女らしくないだの地味だのと周囲の男性には不評だが、似合っていることは間違いない。

「叔父さんは道場?」

「そうよ」

「挨拶して、そのまま行くね。行ってきます」

「行ってらっしゃい。忘れ物ない? ハンカチ持った?」

「持ってる!」

 云いながらリュックを掴んで食堂を出た。いったん玄関で靴を持って、長い廊下を渡って道場へと抜ける。

 そこは道場と云う言葉からは想像できない場所だ。何しろ四方を廊下に囲まれた広い池が、屋内に造られているのだ。

 一礼して中へと入ると、道場中に響く良く通る声で呼びかけた。

「叔父さん」

「おう、アカネちゃん」

 水鎚流の特別な道着姿になった中年男が嬉しそうに手を振る。アカネの叔父、ハチヤ・マツタロウだ。

「祭、頑張ってね」

「おう、ありがとうな」

 笑顔で答えると、いきなり型を始めた。道場は足首まで水が満たされてある。そこを蹴り、殴りながら移動するのだが、ほとんど水飛沫が上がらない。水音ひとつない。マツタロウは、ここをこうこうでこう、と何事か呟きながらもすでに一心不乱だ。若い頃はガソリンのマツと呼ばれていた。すぐに火がつき燃え上がる。彼の父親、つまりアカネの祖父は彼と似て、ぱっと燃え上がり集中する男だった。それがアカネへと隔世遺伝しているのだろうか。ちょっとしたきっかけでぱっと火がつき盛大に燃え上がる。

 集中したときのエネルギーが人並み外れて強大だから、急激に上昇し急激に下降して見えるだけ、というのがマツタロウの持論だ。そして同じ血を明らかに引き継いでいる姪が大好きだった。

 アカネは道場に一礼して、廊下をぐるりと回ってから縁側に出る。そこに道場用のタマリ(個人用の小さな船着き場)があるのだ。道場内への水もここから引いてある。

 縁側につけて停められた小さなシノブネに乗り込み、舫いを解いた。市内の川で使われる小舟はどれもシノブネと呼ばれる。大きいものも小さいものもエンジンを積んだものも積んでいないものもすべてシノブネだ。

 梅雨の入りは間近だが、今日は晴天だ。アカネには晴天が似合う。ただし本人は日差しが苦手だった。陽の下に出ると起き抜けの猿のように目がしょぼつき始める。

 今も眩しさに目をしばたきながら櫂を手にする。両側に水かきのある比較的短い櫂だ。

 ゆっくりと左右に水をかき、タマリから水路へと出て行く。川幅三十フィートに足らぬほどの小川だ。

「よっしゃ、行くぞおおお!」

 都会であれば通報されるほどの大声で叫び、シノブネを漕ぎ始めた。

 船首は川上へと向いている。流れは緩やかだがそれでも流れに逆らうにはそれなりの力を必要とする。普段使われるシノブネがたいていそうであるように、この舟にも小さなエンジンが積まれている。ちょっと流れが速くなると前に進めなくなる力の小さなエンジンだが、それでも使うと使わないとでは大違いだ。

 それをアカネは櫂で漕ぐ。必死になって漕ぐ。

 同じような速度で川上へと進むシノブネはすべてエンジン音をたてていた。

 彼女が働いている退役婦人養生院までエンジンを使っても十五分あまりかかる。だがアカネはエンジンを使うことなくひたすら全力で漕ぎ、同じ十五分足らずでたどり着く事ができた。

 別に節約を考えたわけではない。

 身体を鍛えたいわけでもない。

 これを十四分で到着することが今のところの目標だ。到着したから何かがあるというわけではないのだが。

 二つ目の橋を越える。もう一つ橋を越えると養生院が見えてくるはずだ。

 逢坂府河洲市に、彼女の住む町があった。奈良に隣接し三方を山に囲まれた河洲市は、水郷の町として知られていた。市内を大小十三の川が流れている。そのうち最も大きな川が、市を南北に分断し、やがて大和川に合流して逢坂湾に流れる龍神川だ。その最も東側に、アカネの住む竜頭町があった。

 竜頭町にもたくさんの川と橋がある。夢の超特急が誕生して十年が経とうとするこの時代にも、河洲市ではシノブネと呼ばれる小型の運搬船が生き残っていた。そしてアカネのように通学や通勤にこのシノブネを使う者も、この時代にはまだまだ大勢いた。

 最後の橋が近づいた。ここから退役婦人養生院は目と鼻の先だ。

 アカネは櫂を持つ手に力を込めた。

 ほとんど速度を緩めることもなく敷地前のタマリに進入する。

 ぎりぎりで速度を緩め、職員の船にぶつからぬよう岸に着けると、シノブネから飛び降りた。

 腕時計を見る。

 ちょうど十五分を経過したところだった。

「調子よかったのにな」

 一人で呟き、玄関へと向かう。

 戦前は大きな葡萄農園だったが、日中戦争のさなかに陸軍が没収。下士官の兵舎が建てられた。戦後は国営地としてしばらく放置されていたが、十五年前に退役婦人養生院として作り直された。

 大きく広いガラス戸は開いたままだ。一年を通じ、鍵を掛けるどころか、戸が閉じていることの方が珍しい。中に入ると面会室と呼ばれている広間だ。ここまでは土足で入れる。

 背の高い女性が床を箒で掃いていた。

「おはようございます」

 晴天の空よりも明るい声でアカネは挨拶をした。

 女は顔を上げ微笑んだ。目も鼻も口も大きく、しかも整っている。よくハーフと間違われた。身長も高くスタイルからして日本人離れしている。が、彼女の両親も、親族にも西洋人はいない。

 太い眉が、少し彼女を男性的に見せていた。

 彼女はイチノセ・トーコ。養生院の職員でありアカネの先輩だ。まだ三十歳にもなっていないが、この竜頭町退役婦人養生院の運営をすべて任されていた。名義上の院長は河洲市議会の議員なのだが、年に数回院を訪問するだけで、実質的にはトーコが院長だと云っても間違いではない。

「おはよ、ってか今日もいきなり汗まみれだね」

「がんがん飛ばしてきましたから」

 トーコに云われて、アカネは腰に手を当て背筋を伸ばす。ちょっと威張って見せたつもりだが、へらへら笑っていては威厳も何もない。それ以前に「汗まみれだね」は褒め言葉ではない。

「そろそろみんなが起きてくるから、アリーを手伝って朝食の準備をしてちょうだい。ここの掃除はもう終わりました。私はもう帰ります」

「はい、夜勤、お疲れ様でした」

 アカネはふざけて敬礼をすると、靴を脱いで奥の板間へと上がった。面会室はかつての土間で、もともとはここに玄関があった。

 アカネの名が書かれた靴箱から上履きを出して、履いてきた靴を入れる。白い上履きを履いて、板張りの廊下をロッカー室へ向かう。アカネは家から仕事着なので着替えはしない。ロッカーに荷物を投げ入れすぐに厨房へと向かう。他の職員と出会うたびに遠くから良く通る声で挨拶をした。

 アカネが来た。

 おそらく養生院の人間すべてがそのことに気がついているだろう。

 厨房に入ると同時に、奥からおはようございますの声が掛かった。

「あっ、おはようございます」

「アカネちゃんが来ると、遠くから『おはようございます』って声がどんどん近づいてくるのよね」

 そう云って微笑んだのは小さな少女だ。幼い顔に浮かんだ笑顔が愛らしい。彼女はアリタ・マユミ、通称アリーだ。

 そう背が高いとは云えないアカネよりも彼女はさらに小さい。小学校六年の時に着ていた服が今も着られるらしい。しかも童顔なので、彼女がアカネと同級生だと知った人はたいてい驚く。

「だからハチヤさんより先に挨拶をしようって、さっき二人で相談したんですよ」

 いたずらを告白する子供の顔で、アリーの隣の青年がそう云った。

 小さなアリーの隣にいると、巨人としか思えない大柄な青年だ。背も高いが胸板も厚く肩幅も広く首も太い。圧倒される肉体の上に乗っかっているのは、予想外の笑顔だ。笑い皺でくしゃくしゃになった顔に糸のような目が埋もれてしまっている。彼はニヘイ・コマジロウ。みんなからはコンマと呼ばれていた。

 喋りながらも二人は朝の準備に忙しい。

 コンマは釜で炊きあがったばかりの大量のご飯を、大きなしゃもじで切っている。下から現れたお焦げが香ばしいにおいを漂わせる。

 洗い場でざっと手を洗うと、アカネはアリーの横に並んだ。

「ネギを切ってくれる? 切り終わったら食堂の方を準備してください」

「はい」

 優等生の返事をしてネギを切り始めた。関西でよく使う青ネギだ。包丁の使い方が手慣れている。その間に出汁を取り終わった大鍋に、アリーが味噌を溶かし始めた。

 ネギがざる一杯に仕上がるとちらりと壁掛け時計を見、アカネは布巾で手を拭って食堂に入った。テーブルに載せられていた椅子を下ろし終えると、テーブルの上を布巾で拭いていく。昨晩のうちに掃除は終えているので、それほど汚れてはいない。

「おはようさん」

 後ろから声を掛けられた。

「おはようございます」

 振り返って笑顔とともに挨拶をする。

「おはよう、アカネちゃん」

 杖をついている中年女性が云った。優しい口調に柔らかな笑み。何よりも彼女を際立たせているのはその姿勢の良さだ。アカネも姿勢がいいが、そう云ったものとは根本的に違うところで背筋が伸びている。正しい行いをしてきたものだけが持てる佇まいだとアカネは思う。その横に似たような印象の女性が立っていた。最初にアカネに挨拶をした女性だ。彼女も物腰は柔らかいのだが、その目に人を刺すような力がある。だが険があると云うわけでもない。菩薩像にも似て、何もかも見通す厳しさを持ちながらも、それを赦す視線だ。彼女を見ていると、アカネは幼いときに一度だけ出会って、鮮烈な印象を与えた少女のことを思い出すのだった。あの少女はもっとずっと攻撃的な、文字通り人を刺す視線の持ち主だったが。

「いつも元気そうやなあ、アカネちゃん」

 杖をついた女性、星野逸子が云った。府条例では禁止されている、逢坂地方の方言だ。

「元気ですよ。あふれる元気が抑えられませもん」

 アカネがそう云うと、鋭い眼光の女性、池田千種がクスクスと笑った。笑うと切れ長の目がへの字になって、それこそ菩薩のように柔らかな笑顔になる。

「アカネちゃんはほんまええ子やなあ」

 彼女も使っているのは逢坂の方言だ。条例など気にもしていない。

「えっ、そうですかねえ」

 云ってアカネはでへへへとだらしなく笑った。

「すぐ調子に乗るけどね」

 千種はそう云うと、逸子と顔を見合わせて笑った。そうしていると、顔かたちはまったく違うのに、双子の姉妹のように見えた。

 彼女たちに続いて、同年代の女性がぞろぞろと食堂に入ってきた。逸子と同様に杖をついた女性や、車椅子の女性もたくさんいる。

「おはようございます。おはようございます」

 アカネはひとりひとりに挨拶をしながら厨房に戻った。できあがった料理を、コンマが装った茶碗山盛りのご飯と一緒にトレイの上に載せていく。

「君の勘違いだって」

 廊下から声が聞こえた。英語だ。ここでは普段から英語を使う人間が少ないから、それだけでも人目を引く。

 男は怒鳴っていた。

「俺は何もしてない。あの女が話しかけてきたから話をしていただけだ。信じてくれよ」

 トレイを持って食堂へと出ると、その声の主を見つけた。

 廊下側の窓から、歩いてくる男が見える。

 若くたくましい男だ。整った顔立ちをしているが、必死で弁解しながら少女の後ろをついていくのを見たら何もかも台無しだ。

 男を無視して歩いている少女は、金色に染めた長い髪を耳の上で束ねて垂らしている。派手な顔立ちに濃いアイメーク。いかにもきつい性格に見える。そしてその容貌を裏切ることなく、彼女は立ち止まると振り向きその男を睨んだ。

「ここに入らないで」

 彼女もまた英語だ。

 彼へと一歩近づく。

「ここに入らないで」

 少女は繰り返した。繰り返し、さらに男に近づいた。男は後退りながら云った。

「頼むよ。信じてくれよ、エリザ」

 エリザと呼ばれた少女は拳を固めた。

 男が彼女の本気を悟った時には遅かった。

 エリザは真正面から男の顔を殴った。

 ぺちゃ、と今ひとつ冴えない音がした。

 うっ、と声を上げて拳をさすったのはエリザの方だ。

 それでも男は顔を押さえて黙り込んだ。

 痛みよりも、女にゲンコツで殴られたのがショックだったのかもしれない。すがりつくような目でエリザを見ていた。

「もう二度と近寄らないで」

 さらに男に近づき、男はさらに後退る。

 そして諦めたのか、とうとう踵を返し、肩を落として去って行った。

 エリザは何もなかったかのように男に背を向け、食堂へと入ってきた。

 みんなの視線が集中する中、エリザは鷹揚に挨拶をしながら厨房へと向かった。退役婦人という者を見下しているのは明らかな態度だった。だから養生院に住む人間の大半が彼女を嫌っていたが、そんなことを小指の先ほども気にしてはいなかった。

「ハーイ、アカネ」

「おはよう、エリザ」

 オオワダ・エリザは河州市でも有数の資産家であり現役の市議会議員として当院の統括責任者、つまりは院長でもあるオオワダ・タツキの一人娘だ。仕事ではアカネよりも半年ほど先輩だが、同い年だった。

 厨房のカウンターでトレイを受け取り、二人で着席した女性たちのところへどんどん昼食を運んでいく。

 誰かがテレビをつけた。中東での緊迫した状況を伝えるニュースの途中でチャンネルが変えられ、サクラダ・ジュンコの陽気な歌声が聞こえてきた。

 湯気の中に出汁のにおいと会話と歌声が混ざり、雲霞のような塊となって部屋の中を占拠していく。

 いつものように忙しい一日が始まったのだ



「寝返りしましょうね」

 ベッドの横に立ったアカネは、痩せ細った中年女性の身体の下に手を回し、そこに置かれた大きな枕を握る。

「ウチダさん、少しでも力を入れて右側を向いてくださいね。いきますよ。いち、にの、さんっ!」

 身体を少し持ち上げ枕を抜き取る。

 ウチダと呼ばれた女性は真上を向いた。何も喋らない。その目はぼんやりと天井を見つめているだけだ。

 アカネはベッドの反対側に回った。

 そこでまた背中に手を差し込む。

「今度は左を向きますよ。一緒に力をいれてくださいね」

 再び一、二、三と声を掛けてウチダの身体を持ち上げ、隙間に枕を突っ込んだ。

「どうですか。痛くありませんか」

 体位は四時間に一回、変える。

 それでも床擦れを無くすことは難しい。

 ウチダが咳をし始めた。肺から絞りだすような咳だ。痩せた身体にはかなり辛そうだ。

 アカネはウチダの背を撫でながら云った。

「風邪かもしれませんね。後で熱を測りましょうか」

 額に手を当てる。

 熱い。

 寝たきりのウチダは、軍人恩給に年金を足しても生活費でほとんどが消えてしまう。彼女には家族もない。年に数回見舞いに来ていた叔母も、昨年亡くしている。病気になっても薬局で市販薬を買って与えるぐらいのことしかできない。病院で診てもらうことは彼女にとって贅沢なのだ。

 アカネは風邪薬を持ってきてウチダに与えた。

「風邪、流行ってるみたいね」

 後ろから声を掛けたのはトーコだ。

「みたいですね。注意しないと」

「うちには不死身の婦人兵が揃っているけど、ウチダさんみたいに、抵抗力のない人もいるからね」

「はい、気をつけます」

 直立不動でそう言った。

 一九四五年、大正三十四年。八月十五日にポツダム宣言が受諾され、太平洋戦争に於ける日本の敗北は決定する。同年九月二日に日本は米戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書にサインした。

 米国の占領軍に統治されることとなったこの時、日本は米国領日本列島自治区となり、正式な国ではなくなった。

 そしてその翌年に大正天皇が崩御。年号は廃止された。

 アカネが勤める退役婦人養生院はその太平洋戦争で兵役につき、心身ともに傷つき戻った婦人兵のために作られた公的施設だった。

 トーコは腕時計を見て、云った。

「みんなを事務所の方に集めてもらえるかな」

「事務所に、ですか」

「新しい人が来るの。だからみんなに紹介したくて」

「はい、じゃあ、声掛けてきますね」

 小走りでアカネは玄関へと向かう。エリザを面会室で、厨房でアリーとコンマを見つけ、食堂から廊下に出たところで、少女と出会った。

 ぶつかりそうになって、息を呑んだ。

 少女が口を開く。

 訊ねられたことはわかったのだが、何を云っているのかわからない。

 埃とワックスの入り交じった懐かしいにおいが鼻を掠める。

 子供たちの喧噪が遠くから聞こえた。

 あの瞬間が鮮明に蘇る。

 その時アカネは教室へと急いでいた。

 始業のベルが鳴っていた。

 そしてアカネは廊下でその少女と出会った。

 少女の首には『私は方言を使いました』と書かれたプラカードが提げられていた。

 彼女は教諭に叱られ、罰としてそこにいた。しかし少女は表彰台に立っているかのように誇らしげだった。

 アカネは彼女を見つめ、彼女もアカネを見た。

 彼女の視線に押され、アカネは後退った。

 アカネとさして身長が変わらない小柄な少女だったが、その目は目映いほどの力を放っていた。

 少女はひとり高みに立っていた。

 それを尊大と感じ、見下されていると思う者がいるかもしれない。

 だが梅が香るように、彼女はただ気高かった。それだけのことだ。

 そのときに感じた何かを、幼いアカネは言葉にすることができなかった。そして言葉にできなかったからこそ、そのとき見た情景のすべてを、聞いた音を、触れた風を、嗅いだにおいを、ありとあらゆるその瞬間を、心の中へととどめた。

 それはアカネが胸の奥に埋めた宝箱だった。そしていくつになっても、蓋をそっと開けば〈その瞬間〉――校舎二階の廊下で魂を抜かれて佇む小学四年生のアカネ――に戻ることができた。それはとても幸福で甘やかな、世界とアカネの蜜月の時間だった。

 それからの八年間が夢だったのか。

 ほんの一瞬、本気でそう思った。

 甘やかな刻の記憶に身体が蕩けそうだ。

 膝から力が抜け、もう少しで床に跪くところだった。

 そして目の前の少女は、あのときと変わらない高貴な瞳でアカネを見ていた。

 アカネは混乱していた。

 彼女は魂を落とした者の顔でひたすら少女を見つめている。

「私の言葉がわかりますか。ここの事務所はどこですか」

 少女は英語でゆっくりとそう云った。基本、英語が公用語だ。だがこの養生院ではそれを強要することはなかった。だいたい四十代後半よりも年配の人間は英語があまり得意ではないので、養生院では当然とも云えるだろう。が、実際はたとえ老人を対象とした施設であっても、公の施設で公用語を強制するところはたくさんあった。

「日本語で大丈夫です」

 アカネはようやく声を出した。

「よかった。英語はあまり好きじゃないから」

「竜頭小学校ですよね」

 あまりにも唐突な質問だ。

「えっ、何が」

 少女が問い返す。

「あっ、あの竜頭小学校出身ですよね。ええと一九六八年の卒業」

「そうだけど」

 アカネはさっと手を伸ばした。

「私はハチヤ・アカネ。よろしく」

「ここの職員の方?」

 手を差し出したまま、アカネはうんうんと頷いた。

 少女は手を出すことなく云った。

「ワシオ・サヨコ。今日からこちらでお世話になります」

 軽く会釈をした。

「ワシオ、サヨコ」

 アカネは味わうようにゆっくりと彼女の名を呼んだ。

 そしてワシオの肩をがっしりと掴んで云った。

「ほら、私、同級生。会ったことあるよ。覚えてる?」

 興奮してしどろもどろだ。

「廊下で会ったの。サヨコちゃんは廊下で――」

「ワシオと呼んでくれるかな」

 有無を云わせぬ口調だった。だがアカネはそれすら気がついていないようだ。続けて「サヨコちゃんは」と話を始める。

 そしてすぐに止められた。

「ワシオ、だ」

 睨まれ、アカネは親に叱られた幼児の顔ですがるように云った。

「サヨコちゃんじゃ、駄目?」

 虫けらを見るような目で見られた。それでもアカネはめげない。

「ほんとに駄目?」

「しつこい!」

「じゃあワシオちゃん」

「ちゃん抜き」

「ワシオ」

「それでよし」

「ワシオ、みんな待ってるから一緒に事務所行こ」

 手を取ろうとするが、振り払われる。

 払われた手で再びサヨコの手首をむんずと掴んだ。諦めたのかサヨコはもう振り払わなかった。アカネに手を引かれワシオは事務所へ向かった。

 扉を開くとみんなが待ち構えていた。

「あれ、アカネちゃん、途中で会ったの?」

 トーコに問われると、アカネは勢い込んで喋り出した。

「訊いて下さいよ。ワシオは小学校の同窓生なんですよ。それでね、小学校四年の時に――」

 興奮したアカネを、トーコは逸る猟犬を制するように抑えると、サヨコを示して云った。

「彼女が新しいメンバーです。ええと、自己紹介してもらおうか」

「ワシオ・サヨコです。お世話になります」

 ワシオは深々とお辞儀をした。

「隣町の養生院で半年ほど働いていたのよ」

 とトーコが云うと、ワシオは小さく頷いた。

「閉鎖されたんですよね」

 アリーが云った。

「噂では資金繰りに失敗して借金に借金を重ねて……」

 喋りだしたコンマの口唇に人差し指を当てて、アリーは云った。

「それはあくまで噂でしょ。確認していないことはむやみに云いふらさない」

「ごめんなさい」

 十代の少女に叱られ、大男は子供のように哀しそうな顔で頭を下げた。

「はじめまして。私はアリタ・マユミ。アカネと同級生なら私とも同い年よ」

 意外そうな顔のサヨコにアリーは云った。

「小学生だと思った? もしかしたら私の方がちょっとは年上かも。何月生まれ?」

「四月」

「えっ、偶然。わたしも四月生まれ。よろしく、アリーって呼んで」

 手を出したが彼女もまた無視された。

 仕方なく手を下ろす。

「ぼくはニヘイ・コマジロウ。コンマって呼ばれてます」

 おずおずと手を伸ばしたが、冷たい視線を前にしてすぐに下ろした。

「私はエリザ・オオワダ。エリザで結構よ」

 エリザは手を出さなかった。そしてサヨコは射るような目でエリザを睨んだ。

 何事も臆するのことのないエリザだが、さすがにいたたまれなくなったのか目を伏せた。

「エリザは週に三日来てもらってるの。今日はみんな揃っている日で良かったわ。みんな仲良くやりましょ」

 満面の笑みでアリーが云った。

「そ、そうだよね。みんな仲間――」

 コンマが云い掛けるとサヨコはそれを遮って云った。

「もう仕事に戻りましょうか」

 サヨコの日本語にはわずかに関西弁のアクセントがあった。

「そうね。退役婦人養生院の仲間はこれで全員です。みんなで頑張りましょう。ワシオさんと知り合いなら、アカネちゃんが案内してあげてね」

「がってんだ」

 アカネは嬉しそうに自分の胸をぽんと叩いた。サヨコが苦々しい顔で見ていることも知っていたが、気にしている様子はない。仲良くしていると仲良くなれると信じているのだ。

「じゃあ、解散」

 トーコが、ぱんっ、と良く響く音で手を叩くと、皆はそれぞれに持ち場に向かう。

「まずは医務室に行きましょうか」

 手を取ろうとするアカネの手を振りきった。

「どうして手をつなごうとするの」

「えっ、連れて行ってあげたいから」

「子供じゃないんだから、手をつながなくても行けるよ」

「不安じゃないかなと思って。私なら初めて来た職場で迷ってたら手を引いて欲しいかなって」

「不安でもないし、迷ってもいない。だから手をつながない。わかった?」

 アカネはニコニコしてワシオを見ていた。

「何がおかしいの」

「私、あなたのことを覚えているの」

 アカネは云った。返事はない。

「小学四年生の時でね。あなたは廊下に立たされていたの。首にカードが掛けられていた。そこには『私は方言を使いました』って」

「それで、何が云いたい」

「いろいろ」

「ひとつだけ云って」

「あのときもあなたはきっと不安でもなければ迷ってもいなかったんだろうなって。今とおんなじ顔をしてたから」

「くだらない」

「ワシオは覚えてる?」

「何を」

「あの時のこと。あの時のワシオ」

「廊下には何度も立たされてたから」

「方言を使ったのは本当?」

 ワシオは頷いた。

「あんまり上手じゃないけどね」

「上手じゃないのに、どうして」

「覚えてない」

「じゃあ、私のことは?」

「覚えてない」

「返事、早過ぎ」

「ゆっくり云えと?」

「そんな意味じゃないよ」

 ワシオが立ち止まった。

「ここ、医務室じゃないの?」

「えっ、あっ、そうだ。これじゃあ、どっちが案内してるのかわかんないな」

 扉を開く。ベッドは二床あり、使われているのは一つだけだ。

「ウチダ・アイコさん」

 アカネはウチダの横にしゃがみ込むと、骨張った手を握った。

「この人はワシオ・サヨコ。新しい院の仲間です」

「よろしく。ワシオです」

 一拍遅れて、ウチダはゆっくりと瞬きした。

「よろしくね」アカネは立ち上がる。「今度は昼ご飯前に体位変えにきます」

 一礼して二人は医務室を出た。

「ウチダさんは榴弾がすぐ近くで爆発して脊髄を損傷したの。それからずっと寝たきり。意識ははっきりしているから、さっきみたいに受け答えも簡単なものならできるの」

「前の養生院は寝たきりばかりだった。だから補助金を断たれた時点で閉鎖は決まったようなもんだった。ここもそうだと思うけど、もともと養生院は入院できる施設じゃないからね。医者も看護婦もいないんだから。それを何とかやりくりして近隣の救急病院と連携し、看護婦も雇って、一所懸命維持していたんだ。列島政府のやり方は狂ってるよ」

「ここも前までは看護婦がいたんだけどね。補助金は切られるし物価は上がる一方だし、我々が頑張らなくちゃ。それでワシオはどこに住んでるの」

「えっ」

 ワシオが訊き返す。

「だから、どこに住んでるのかなって」

「どうしてそんなことを訊くの」

「どうしてって、知りたいから」

「無闇に他人に住所を教えるのは馬鹿のすることだよ」

「ええっ、そうかなあ。私は竜頭町六番地の水鎚流道場に住んでるよ」

「ほら」

「えっ、何がほら」

「馬鹿しか自宅の住所を教えたりしないって云っただろう」

「……えっ、それどういうこと」

「次に行くのはどこ」

 あっさりと流されてしまった。

「ええと、それじゃあ、みんなの部屋を回りましょうか。ここには五十二人の退役婦人がいます。寝たきりなのはさっきのウチダさんだけだけど、身体が不自由な人がほとんどです。それから心を病んでしまった人もいます。素人にできることは限りがあるとは思うんだけど、後でみんなの資料を渡しますから目を通しておいてね」

 話をしながら、二人は廊下を歩く。

 相変わらず食い違うばかりの会話を繰り返していたが、肩を並べて歩く二人の後ろ姿は、仲の良い姉妹のように見えていた。