〈プロローグ〉


 頭上から光の雨が降り注いでいる。それを生み出しているのは、ドーム状に抉れた天井を彩る豪華絢爛なシャンデリアだ。その宝石のごとき煌めきが、欧州の古城を思わせる広大な石造りのホールと、そこにいる百人近い男女を照らしていた。

 全員がもれなくタキシードやドレスを身にまとっていて、ある者はグラスを片手に談笑し、またある者はホール中央で行われているダンスを楽しんでいる。彼らに共通していることは、シャンデリアの助けなどなくとも顔つきや服装、そして立ち居振る舞いが煌めいているという点だ。

 しかしそんな光で満ちた空間においても、桁違いの眩さを放つ少女がいた。

 ――たとえるなら月。

 周囲の者たちが星だとすれば、その瞬きが霞んでしまうほど輝く紅い月だ。

 彼女がいるのはダンスに興じる者たちの中である。鮮やかな紅色のドレスをまとい、少年と青年の狭間にいる長身の男子とダンスを踊っている。ワルツの旋律に合わせステップを踏む度、彼女の栗色の長い髪も華麗に舞う。その面差しは美しさと愛らしさを見事に両立していて、この場にいる多くの男たちの、いや女たちの目まで奪っていた。

「あの方、もしや朱乃さまでは?」

 一人の女性が、どこか興奮した口調とともに連れの男性の袖を引く。同じようにホール内のあちこちでは、談笑に紛れて彼女の話が飛び交っていた。

「あれが紅堂家のご令嬢か。なるほど、美しさだけでなく気品に溢れておられる」

「しかし、意外でしたね。こういった集まりはあまり好まれないとも聞いていたのですが」

 そうして周囲が紅色のドレスの少女の話題に夢中になっていると、ちょうど今まで流れていた優しい音楽が終わりを告げた。同時に彼女も休憩に入るのか、ダンスの輪の中から抜け出す。

 直後、十人ほどの男たちが彼女へ駆け寄った。まるで川に落ちた獲物に群がるピラニアである。

「素晴らしいワルツでした。私とも一曲踊っていただけませんか?」

「いえ、ぜひ私と!」

「私をお選びいただければ、決して後悔はさせませんよ?」

 男たちは次々と紅いドレスの少女へ熱を帯びた言葉を贈る。彼女に選択を委ねているものの、彼らは一人として己が選ばれないとは思っていない。おそらく、彼らは生まれてから今日まで敗北など味わったことがないのだろう。そしてその対戦の中には、当然女性も含まれていた。

 ところが、

「申し訳ございません。パートナーなら間に合っております」

 優雅にお辞儀をすると、彼女はするりと男たちの間を通り抜ける。一方、残された彼らは石像のごとく立ち尽くしていた。

「まだ固まってんぞ、あいつら」

 肩越しに振り返りながら、少女の後ろを歩く金髪が溜め息を吐く。先ほど彼女と踊っていた男子だ。彼の言葉通り、男たちは石像のように立ち尽くしている。しかも、少女をダンスへ誘うための手を差し出したままで、だ。人生初の敗北がよほど堪えたらしい。

「私は事実を述べただけよ」

 順調に男たちとの距離を広げつつ彼女は言った。その声はどこか弾んでいるようにも聞こえる。

「なあ、朱乃」

「なにかしら」

 金髪の呼びかけに応えながら、彼女――朱乃は近くの給仕からグラスを受け取る。右手と左手に一つずつだ。

「ダンスってまだ踊んのか?」

 頭の後ろで手を組みながら金髪が尋ねると、朱乃は神妙な表情を作った。

「珍しいこともあるものね。野生動物並の体力のあなたが、一曲踊っただけで音を上げるなんて。まさか道端に落ちていた物を拾って食べたなんてことは……」

「どこまで動物扱いしてんだコラ」

 斜め上の心配をする朱乃に金髪が尖った眼差しを向ける。そして彼は、若干面倒臭そうに先刻の問いの真相を語り始めた。

「もしまだ踊るつもりなら、俺じゃなくて他のヤツと組んでみたらどうだって言おうとしただけだ。よく考えたら、オメー俺以外とほとんど踊ったことねぇだろ?」

 小首を傾げる動作を挟み、金髪は言葉を続ける。

「相手が俺ばっかじゃ正直飽きるだろうし、いい機会だから違うヤツと組んでみるのもいいんじゃねぇか……って、なんでムクれてんだオメー」

 眉根を寄せた金髪の眼前では、朱乃が頬を膨らませていた。それはもう、破裂寸前の風船のごとく。

「分かりました。あなたが私と踊ることに飽き飽きしていることは、よぉぉぉく分かりました。ごめんなさいね、つまらないことにつき合わせて」

「俺が飽きたとは言ってねぇだろ。てか、何でキレてんだよ」

「私のどこがキレていると言うの! 世界の誰より理性的よ!」

 真っ赤な顔で金切り声を放つと、朱乃は左右の手に持ったグラスを立て続けに呷った。そして空のグラスを給仕に押しつけると早足で歩き出す。

「ちょっと待てって。一人でフラフラすんじゃねぇよ」

「ついて来ないで!」

 追ってきた金髪を、朱乃が振り向きざまに睨みつける。手を伸ばそうものならば噛みつかれかねない迫力だった。

「たまに意味の分かんねぇキレ方すんだよな、あいつ」

 肩を怒らせて離れていく朱乃を見送りながら、金髪は頭を掻く。彼女がああなってしまったら下手に構うより放っておいた方がいい。それがここ数ヶ月で彼が学んだことの一つだ。とは言え彼の仕事上、本当に放っておくわけにはいかないのだが。

「見つかんねぇようにしねぇとな。またキレられっとメンドーだ」

 浅く息を吐くと金髪は首元のネクタイを緩める。そして、依然怒りの炎を立ち上らせている朱乃の背中を一定の距離を保ちながら追いかけた。


「まったくあの男は! あの男ときたら!」

 怒り冷めやらぬ朱乃は、ホールの壁際にある料理コーナーにいた。そこには長大な木製のカウンターが設置されていて、中に控える様々なジャンルのシェフが作りたての料理を提供してくれるシステムだ。

「『いい機会だから違うヤツと組んでみるのもいいんじゃねぇか』ですって?」

 カウンター上に置かれた長皿状の漆器、そこに並ぶのは美麗かつ多彩な握り寿司である。そんな食せる芸術を、朱乃は箸を使って矢継ぎ早に口内へ放り込んでいた。その猛烈な勢いは、カウンターの向こうにいる熟練の職人も寿司を握るのが追いつかないほどだ。

「飽きていたら一曲だって踊らないわよ! そもそもパーティーに帯同させないわよ! まったく!」

 イライラがピークへ達した朱乃が、ちょうど九貫目となる真鯛に箸を伸ばそうとしたその時、

「ナイスな食べっぷりだ。きみがそんなに寿司が好きだったとは知らなかったな」

 届いたのは快活な声。その出所は朱乃のすぐ横手からだった。

「さ、西園寺さま?」

 思わず朱乃の声が裏返る。それはミディアムショートの髪に細身の黒いスーツを着こなす美男子だった。いや、服装こそ紳士のものだが、よく見れば体つきは女性的な曲線を描いている。いわゆる男装の麗人だ。

「おいおい、朱乃くん。『西園寺さま』じゃないだろう?」

 朱乃の反応を目にして、彼女は「チチチ」と舌を鳴らしながら指を振った。

「パーティーが始まってすぐ、挨拶に来てくれたきみに言ったことをもう忘れたのかい? ボクのことは去年までと同じように『キラリ先輩』、もしくは『王子』と呼んでくれと言ったじゃないか。たとえボクが清流院を卒業しても、ボクらが先輩後輩であることは変わらない――」

 キラリは拳を握り、さらに若干のタメを作ってから「そう、永遠にね!」と白い歯を見せた。

「さい……いえ、キラリ先輩は相変わらずキラリ先輩ですね」

 行動のすべてが歌劇のように大げさなキラリを眺め、朱乃は思わず苦笑を浮かべた。去年度まで同じ学校にいた先輩は、いい意味でも悪い意味でも変わっていないらしい。

「ははは、当然だとも朱乃くん。――おお、そうだ。きみがパーティーに来てくれたらこの話をしようと思っていたんだった」

 キラリが指を鳴らし、そしてにんまりと笑った。

「そろそろ清流院女子は聖河祭の季節だね!」

「ああ、そう言えば」

 声を弾ませた先輩とは対照的に、朱乃は普段と変わらない様子で手を打った。

「なんだいなんだい。年に一回しかないビッグイベントが迫っているというのに、そんな炭酸の抜けたソーダ水みたいな調子で盛り上げきれるのかい? 清流院のOGとして凄く心配だよ、ボクは!」

「は、はあ」

「とは言え、実際に聖河祭を作り上げるのは現役である朱乃くんたちだからね。卒業したボクがとやかく言うのも筋違いだ。ただ、もし今年の聖河祭が少しでも地味だと感じたら、すぐに連絡してくれたまえ。西園寺の名に懸けて必ず去年以上の盛り上がりにしてみせるからね!」

「そ、それは心強いですね」

 瞳に一等星を輝かせて力説するキラリに、朱乃は困ったような笑顔を浮かべる以外の対応策を持っていなかった。

 そんな中、少し離れた場所にいた燕尾服姿の少年がこちらへやって来る。彼はキラリの隣に立つと、精一杯背伸びをしながら彼女の耳元で囁いた。

「キラリお嬢さま、そろそろ……」

「オーケー、オーケー」

 少年にウインクすると、キラリは名残惜しそうに朱乃を見た。

「悪いね朱乃くん、まだ挨拶回りが終わっていないんだ。話の続きは今度ゆっくりしよう。では、きみは引き続きパーティーを楽しんでくれたまえ! チャオ!」

 機関銃のごとく言うと、西園寺キラリは快活に笑いながら去って行った。燕尾服の少年も慌てて朱乃に一礼し、男装の麗人の後を追う。

「登場も退場も風のようでしたね」

 キラリの背中を見送りながら、朱乃は小さな笑みをこぼす。颯爽と現れた先輩のお陰で、彼女の怒りはだいぶ大人しくなっていた。

「まあ、あの男がデリカシーに欠けた人間だというのは今に始まったことではないわよね」

 ぽつりと呟くと、朱乃は目だけで周囲を見回す。捜しているのは不自然に鮮やかな金色の髪だ。

「ついて来ないでとは言ったけど、本当に独りにしてどうするのよ」

 一向に姿を見せない執事に朱乃は苛立ちを隠せない。ほどなく、彼女の背後に人の気配が生まれた。

「あなたね、自分の仕事が何かを忘れ――」

 振り向きざまに指を突きつけようとする朱乃。ところがその前に、彼女の手首は強い力で捻り上げられた。

「さっきはどうも」

「あなた……!」

 それは捜していた人物ではなく、先刻朱乃にダンスを断られた男たちの一人だった。


 朱乃が声を発しようとすると、手首を掴む男の力が増す。そうやって痛みを盾に連れて来られた場所は人気のない廊下だった。

「ったく、あんな大勢の前で恥かかせてくれやがってよぉ」

 舌打ちしながら男は朱乃を壁に押しつける。

「……っ」

「何だ、その目は。紅堂の娘だからって調子に乗ってんじゃねぇぞ? 名家だかなんだか知らねぇが、おまえ自身はただの小娘じゃねぇか。男を本気で怒らせたらどうなるか教えてやろうか?」

 男が好色な笑みを浮かべ、嫌悪感を前面に押し出している朱乃に顔を寄せていく。

 刹那、

「なら、俺も教えてやるよ」

「――なっ?」

 真後ろで聞こえた声に男が反応して振り向くと、そこには修羅の顔をした金髪がいた。

「テメーを地獄に送るのはこの真田拳児だ」

 拳児は男の喉を掴むと、そのまま垂直に持ち上げた。男の顔はみるみる紅潮し、口からは泡立った唾が溢れ出す。

「が……っ、あ……っ」

「真田! 止めなさい、死んでしまうわ!」

 慌てて朱乃が拳児にしがみつくも、

「ア? まだまだ元気いっぱいじゃねぇか。なぁ?」

 地面から離れた男の両足が勢いよくバタ足しているのを見て、拳児は口端を片側だけ吊り上げた。

「いい加減にしなさい! 主人の命令が聞けないの!?」

「――ちっ」

 小さく舌打ちすると、拳児は男を廊下に転がした。男は床に四つん這いになったまま、今まで吸わせてもらえなかった酸素を懸命に肺腑へ送り込んでいる。

 とりあえず殺人事件だけは免れた。そのことに安堵しながら、朱乃は自宅で飼っている狂拳――否、狂犬を一睨みする。

「まったく、あなたは手加減という言葉を――」

「無事か、朱乃! ケガとかしてねぇか!」

 主人の説教が形になるよりも早く、金髪の執事は彼女の肩を揺すった。

「え、ええ」

 不意を突かれた朱乃が素直に頷くと、

「よかった。オメーに何かあったら俺は……俺は……!」

「さ、真田……」

「借金返すために臓器売らなきゃなんねぇとこだったぜ」

「……」

 ほのかに頬を染めていた朱乃が、一転して半眼になってしまった。

 だが、そうやって拳児を凝視していたことが功を奏す。

「――危ない!」

「うおっ?」

 朱乃が拳児に体ごとぶつかり、その長身を一歩だけ横にずらした。一拍遅れて、金髪の元いた場所を銀色の光が通過する。

「殺してやる……っ!」

 血走った目で男が構えているのは刃だ。廊下の隅に飾ってある西洋甲冑が手にしていた、長さ七十センチほどの幅広の剣である。

「そんな偽モンで俺がビビると思ってんのかコラ」

 鋭い眼光とともに拳児が一歩前へ出ようとするが、ふと燕尾服の左肩がぱっくりと裂けていることに気づく。

「さ、さすが金持ち。こんな飾りモンまでこだわってやがる」

 僅かに青褪めた顔で拳児は呟く。

 先刻の一撃。朱乃の助けがなければ致命傷だったかもしれない。

「僕がおまえみたいなクズに遅れを取るはずがないんだ。女でも、殺し合いでも!」

 男が雄叫びとともに剣を右へ左へと振り回す。狙いはやはり拳児だ。

「真田!」

「朱乃、離れてろ! おら、こっちだ坊ちゃん! かかって来やがれ!」

 朱乃の悲鳴じみた声を聞きながら、男は手を叩いて男を引きつける。長い廊下を走り回って逃げ続けること一分。その労力の甲斐あって、朱乃は安全圏に逃がすことができた。しかし、代わりに拳児が行き止まりに追い詰められてしまう。

「チョロチョロ逃げやがって。死ねクズが!」

 勝ちを確信して男が剣を構えて走り込んで来た。

 それでも拳児の顔に絶望の色はない。

「ただ逃げてたわけじゃねぇんだぜ!?」

 体を反転させると、拳児は背にしていた壁に手を伸ばす。いや、正確な目的は壁に飾られた槍だ。

「戦場じゃ剣より槍が強かったって知ってっか、アァ?」

 テレビの歴史ドキュメンタリーで得た知識をひけらかしつつ、拳児は水平に固定されている槍の柄を掴む。ところがそれは、簡単に入手できた剣とは対照的に頑丈な金具で留められていた。

「ハア? ちょっ、待っ、ふざけんなよコラ!」

 両手で必死に槍を取ろうとするがビクともしない。しかもそうしている間に、

「こいつを殺してもパパが揉み消してくれる! ヒヒヒッ!」

 もう男はすぐ近くで剣を頭上に振りかぶっていた。

「うおぉぉぉマジで殺られる! フンガァァァァァァッ!」

 命の危機に体の制御装置が外れたのか、ようやく拳児は槍を壁から――いや、壁の一部ごと引き抜いた。そしてその勢いのまま、後ろに向けて振り抜く。

「え?」

 槍と言うより『壁』と呼ぶべきその武器は、その圧倒的な重量によって振り下ろされる剣を苦もなく叩き折った。果たして男の手に残ったのは、刀身のない柄のみだ。

「あ……あ……あ……」

 刃物すら超越する威力を目の前に、男はその場に尻餅をつく。ズボンの股の辺りが若干濡れているものの、拳児は気づかないフリをしてやった。

「あー、酷ぇ目に遭った」

 拳児は『壁』を肩に担ぎながら男の様子を見る。完全に戦意は喪失しているが、油断しないにこしたことはない。

「後ろからグサッとか堪らねぇからな」

 拳児は足元を見回す。だが床にはあの白刃の影は見当たらない。

「マンガじゃあるまいし、天井に刺さったりしてねぇだろうな」

 冗談混じりに上を見ると正解だった。かなり後方の天井に、浅くだが折れた剣が突き立っている。

 どう回収したものかと拳児が悩んでいると、

「は? 嘘だろ、おい!」

 突如剣の刺さった天井の真下に人影が現れた。瞬間移動や真下からせり上がって来たわけでもない。ここから死角になっていただけで、彼がいる近くにホールと廊下を結ぶ扉があると考えるのが自然か。

「危ねぇぞ! そこから離れろ!」

『壁』を投げ捨てると、拳児は疾走しながら叫んだ。しかし正しく伝わらなかったらしく、人影は『もう一度言ってくれ』と言わんばかりに耳に手を当てるジェスチャーを返す。

 そして次の瞬間、とうとう天井から刃が抜け落ちてしまった。

「間に合いやがれ!」

 歯を食い縛ってもう一段ギアを上げると、拳児はトップスピードで人影に飛びつく。そして薙ぎ倒すように一緒に床へ倒れ込んだ。

「……ふう」

 刃物相手の立ち回りに次いでの全力疾走。さすがに疲労感のある息が拳児の口から落ちた。

「おい、平気か」

 密着していた体を離しながら、眼下の人物に拳児は尋ねる。

 すると青いドレスをまとった少女は、この状況にそぐわない涼しげな笑みを浮かべた。

「随分、情熱的なアプローチやね」

「オメーは……」

 烏の濡れ羽を思わせる黒髪に、雪のように白い肌。そして大人びた涼しげな瞳。

 拳児は彼女に見覚えがあった。

「藍原蒼依や。自分の飼い主の『お友だち』の名前くらい覚えとき」

 するりと拳児の体の下から脱出すると、藍原蒼依は肩にかかる長さのボブカットの毛先を手で払った。

 藍原蒼依。

 見目麗しい外見とは裏腹に、その本性は蜘蛛に喩える者がいるほど狡猾で有毒だ。紅堂家と双璧を成す名家の娘であり、家同士の関係そのままに朱乃を敵視している。先月も彼女の主催した悪意あるパーティーに招待され、朱乃ともども大変な苦労を強いられたことは拳児の記憶にも新しかった。

「にしても、あんたには借りができてしもたな」

 そう言って蒼依は、さっきまで自分が立っていた場所を見る。そこには垂直に刃が突き立っていた。

「気にすんな。つーか、半分は俺のせいだ。むしろすまん」

 床で胡座を掻いたまま拳児は頭を下げるが、蒼依はそれを手で制す。

「借りは借り、いずれ返させてもらうわ。ほな」

 綺麗なお辞儀をすると、蒼依は近くのドアからホールへと戻って行った。

「ったく、頑固っつーか律儀っつーか……」

 嘆息しながら拳児が立ち上がると、ちょうど近くの柱の陰からこちらを見ている朱乃と目が合った。見事な膨れっ面をしている。

「オメー、いつからいたんだ?」

「……あなたがいやらしい顔で藍原さんを押し倒した辺りからよ」

「んな顔してねぇよ。もしかしてあれか? オメーの敵を助けたからキレてんのか?」

「いいえ! 私は藍原さんを敵だと思っていないし、他人を危険から守ったあなたの行動には尊敬の念すら抱いているわ! それから、あなたが下心丸出しの顔で藍原さんを押し倒した後、すぐに立ち上がればいいのに抱き合ったまま無駄話をしていたことも百歩譲って許しています! だからこの話はおしまい! 分かったわね!?」

「お、おう」

「ああ、もう! 真田、踊るわよ!」

「あ? いきなりだな」

「早くしなさい!」

「へいへい」

「『へい』は一回でしょう!」

「へーい」

 緩慢な返事をしながら、拳児は先に歩き出していた朱乃に並んだ。

『狂拳』の二つ名でおそれられた元ヤンキーの真田拳児と、日本でも指折りの名家の令嬢である紅堂朱乃。まったく住む世界の違う二人は、奇妙な縁に導かれて出会い、以来ある関係を続けていた。

 それは彼らをよく知る人々なら間違いなく顔をしかめるであろう、『執事と主人』という関係である。