第一章 孤高ドッグ


 北海道の最南端の町。僕と茉莉はその町の同じ病院で、同じ日に、ほとんど同じ時間に生まれた。親は高校からの同級生で仲が良く、家も徒歩十秒のお隣さん。幼稚園に入るまで、僕には母さんと父さんがそれぞれ二人ずついて、二つ家があると本気で思っていたほど、僕は茉莉と共に育った。きっと、小さい頃の僕の体の半分は、香住おばさんの作ったご飯でできていたに違いない。

 そんな生活の中で、茉莉も僕にとって特別な存在になっていった。けれど茉莉の事を、茉莉の両親のように家族だと勘違いする事はなかった。そう思うには、あまりに茉莉が僕と違う生き物だったからだ。

 パソコンに保存された昔の写真を見てみると、茉莉の顔にはいつも笑顔が浮かんでいる。傍目からは純粋に楽しむ子供に見えるだろうけど、茉莉は『楽しいから』という理由だけで笑顔を浮かべる子供ではなかった。

 茉莉にはある種の才能があった。他人が何を考えているか、些細な仕草から読み取る才能だ。写真に写る茉莉が笑顔なのは、大人が子供に求めているのは笑顔だと察していたからだと思う。

 僕は茉莉の笑顔を二種類に見分けられる。心から楽しんでいるものと、そうでないものだ。そして前者の笑顔はひどく少ない。だけど初めて茉莉の写真を見た人は、その微かな表情の違いには気付かず、決まって似たような感想を口にする。「まるで人形みたいな子だね」「子供なのにすごく美人」と。

 その通り、茉莉はとても綺麗な顔を持って生まれた。

 そしてその代償に、色んなものを失ったまま生きている。

 正常に心臓を打つ力強さ、血液中に含まれるはずの色んな成分、胃に分泌されるべき消化酵素。そういう人が人として当たり前に機能するための要素が、茉莉の体にはことごとく欠けている。

 元気に産声を上げた僕とは対照的に、茉莉は一言も漏らさず静かに生まれてきたらしい。そのまま多くの管に繋がれ、数ヶ月の間、息一つするのに驚く程たくさんの機械に助けられて生きていた。

 それからずっと、茉莉は病院のベッドで長い時間を過ごしてきた。普通の子供が幼稚園で同年代のお友達と遊んでいる頃、茉莉はよく分からない薬を血管に流し込みながら本を読んでいた。世間が人類滅亡の予言を大国同士の核戦争に掛け合わせて楽しんでいる間、茉莉は成功率が真夏の湿度くらいしかない手術を受けていた。

 茉莉が他人の気持ちを察するようになったのは、きっと医者や看護婦に囲まれて過ごしてきたからだと思っている。死ぬかもしれない、だけど子供に死ぬとは言えない。そんなジレンマを抱えた大人たちと日々を過ごすうちに、顔や仕草に現れる微かな感情を読み取れるようになったんじゃないか。

 だから、茉莉は傍から見ればおとなしくて、病弱で、とても綺麗な女の子という風に見える。

 本性を知らなければ。


 茉莉が生まれた時、医者は茉莉の両親に保って半年と告げた。半年後には、立って歩くまでは生きられないだろうと言った。立って歩く頃には、小学校に上がる前が峠だと宣告した。

 そして小学校に上がる頃、茉莉は生活の場を病院から家へ移しつつあった。適当な事ばかり言う医者に助けられ、ようやく茉莉は点滴や絶食が当たり前じゃない日々を手に入れたのだ。家で毎日を過ごす茉莉は、表面上だけなら普通の子供のように見えた。

 ちょうどその頃――茉莉が入院生活から脱し、お祖父ちゃんの死から一年程経った頃。たしか僕達が五歳の時に、僕は茉莉と、それに母さんと父さんと共に壁に行ったことがあった。

「人が多いわね」

 助手席から降りた母さんは、呆れたように呟いた。路肩にはズラリと車が停められている。キャンプ用の折り畳み椅子で座っている人や、テレビの取材クルー、それに出店まであった。

「みんなそんなにロケットなんて見たいのかしら」

「私は見たいです」

 隣で、つばの広い白い帽子を被っていた茉莉は、独り言のように呟いた。

「僕も、見たいよ」

 俺も俺も! と運転席から降りたお父さんは腕を耳に付けまっすぐ手を伸ばした。お父さんは、ピクニックみたいなものだから、と母さんや僕達をここまで連れてきた張本人だった。

 母さんは、ため息をついて「みんな子供ね」と呟いた。

 道端に集まった人達の視線は、空にあった。

 壁のすぐ向こう側には、ロケットの発射場がある。その昔は、この国に向けての核ミサイルが装備されていたらしいけど、今は、各国が凌ぎを削って競争している宇宙開発のためのロケットがセットされていた。

 世界が、宇宙開発の技術で競い合うようになったのは、僕が生まれるずっと前の話だ。

 先進国に加えて新興国に、複数の国が集まった多国籍の組織。高性能のロケットを作る事は高い技術力のアピールにもなるし、『いざ』という時に軍事的にも利用できる。いつの間にか、世界は我先にとロケットを作っては、まだ見ぬ星を目指す日々を過ごしていた。

 その日打ち上がるロケットも、先端に火星行きの観測衛星を乗せたものだった。迫力のある打ち上げを見ようと、誰もが特等席の壁際に集まっていたのだ。

 ロケットが空に上がるさまは、今でも昨日の事のように覚えている。

 青い空の中、ロケットが白い噴煙を吐き出しながら、ゆるく弧を描いて飛び上がっていった。

 遅れて、耳を覆うようなロケットエンジンの轟音が聞こえてくる。音と言うより圧に近かった。歓声が上がり、誰からともなく拍手が起こった。ロケットはやがて空の彼方に消えていった。お父さんがテレビの取材を受けて、最高です! と親指をぐっと立てていた。

 茉莉の視線は、ロケットが消えていった空の一点をいつまでも見つめていた。


 その次の日。

 僕は茉莉の部屋に遊びに行った。けれど、茉莉の部屋はいつもと様子が違っていた。扉には『立ち入り禁止!』と書かれた紙が貼られていた。だけどあいにく、僕には漢字が読めず、いつものように扉を開けた。

「……っ! ちょっと悠!」

 茉莉の部屋は異様な雰囲気に包まれていた。部屋は閉め切られ、鼻にツンとつく嫌なにおいが漂っている。

「閉めて閉めて!」

 という茉莉の言葉に従って扉を閉める。茉莉は部屋の中央で正座していた。傍らには、去年の夏の残りと思われる花火が、たき火をする直前の薪みたいに積まれている。

 茉莉の手には鋏。

 目の前には、チラシの上にうずくまった黒い砂の山。

「なにしてんの?」

 と僕は膝に手を置いて、屈みこむ。

「あんまり近づかないで。せっかく集めたのが飛んじゃいます」

「それ、なに?」

「見れば分かるでしょう」

 と茉莉は鋏を動かして、手に持つタイプの花火を器用に切り取る。花火をチラシの上で逆さにして、中の火薬を山にかける。

「火薬を集めているんです」

「どうして?」

「ロケットを作るんです」

 声がマジだった。

「悠も昨日のロケットを見たでしょう? あんな風に、宇宙を目指したいと思いませんか?」

「でも、こんなので宇宙まで行けるの?」

「この間、伝記を読んだんだけど、エジソンもライト兄弟もみんな最初は小さなことから始めてるんです。今回は、まず空に上がるロケットを目指す。成功したら、少しずつ大きくしていきます」

「失敗したら?」

 茉莉は鋏を止めた。そして、僕を振り返り、

「君に、一つ良い事を教えてあげます」

 いったいどこから影響を受けたのかは知らないけれど、茉莉がなにかしらのうんちくを語る時は決まってその言葉を口にした。そしてその『一つ良い事』が、僕にとって本当に良い事だった事はあまりない。

「失敗は成功の母なんです。昔のすごい人たちも、みんな最初は失敗してるんです。もし失敗したとしても、成功するまで諦めなければ、失敗じゃなくなります」

「ふぅん」

「だから、私は今忙しいの。また今度、遊びましょう」

「いや」

 僕は机に置いてあるペン立てから鋏を取り、茉莉の対面に座る。花火の山から一本取り、茉莉の真似をして切り取る。

「手伝う」

「いいの?」

「面白そう」

 茉莉はにやりと笑った。

「じゃ、なにかあったら連帯責任ということで」

「れんたいせきにん?」

「あー、大丈夫大丈夫。気にしないでください」

 僕たちはひたすらに花火を切り取って、一時間後には手の平に余るほどの黒色火薬を集めた。茉莉は、集めた火薬を五百ミリリットルのペットボトルに入れた。ペットボトルの蓋には小さな穴があけてあり、そこにはティッシュを細く丸めた紙縒りが通してあった。鼻を近づけると、ストーブが燃える時の臭いがした。

「物置小屋にあった灯油をしみこませているんです」

 茉莉はペットボトルの周りにアルミホイルを何重にも巻きつけた。なんでも、それでエネルギーが下に逃げて、空に浮かび上がるらしい。今考えれば、謎の理論だ。

 そして、もう一本用意していた五百ミリのペットボトルを半分に切り、注ぎ口がある方を捨てた。火薬を詰めたペットボトルを、口の部分を下にして、残った下半分に差し込む。紙縒りが外に出るよう、縁に四角い切り口を付けた。即席の発射台だった。

 完成したのは昼前だった。

 キッチンでは、香住おばさんが、昼ごはんの準備をしていた。僕と茉莉は、ばれないようにこっそりと部屋から出て一階に降り、庭へと向かった。茉莉はプレハブの物置小屋を探って、マッチ箱を取り出す。

「悠! 小屋の中にもう一つ花火セットがありました」

「いいから、早くやろうよ」

 茉莉は、芝生が生える庭の真ん中に発射台を置いた。数回失敗した後、マッチに火をつけ、

「いきます」

 と言って、紙縒りに火をつけた。

 雰囲気を出すためにカウントダウンするつもりだったけど、そんな暇はなかった。紙縒りにつけた火はあっという間にペットボトルへ近づき、

 パン!

 と大きな音を立ててはじけ飛んだ。「ぅお!」と僕は言って、思わず身をのけぞり、目をつむった。ペットボトルの火薬に引火して、発射台もろとも爆発してしまったのだ。

 僕は恐る恐る目を開ける。辺りには、火薬の臭いが漂っている。視界の端で、赤い光がチラついている。ペットボトルの残骸の一つが燃えていて、更には、芝生にその火が燃え移っている。

「……茉莉?」

 茉莉は無言で立ち尽くしている。火はゆっくり、でも確実に燃え広がっていた。

「これ、成功?」

「いえ、失敗ですね」

 そして「まぁ」と呟き、

「長い目で見れば、成功ですけど」

「ちょっと! なにやってるの! あんたたち」

 見ると、香住おばさんがガラス戸を開けて、悲鳴に近い声を上げていた。後ろに引っ込んだ香住おばさんは、すぐに水を入れたなべを抱えて戻り、火にかける。すぐに鎮火した芝生は黒く焦げ、白煙を燻らせていた。

「なに考えてるの! 火遊びなんて!」

 僕達は庭で香住おばさんのお説教を受けた。香住おばさんは、どれだけ火が危険か、一歩間違えていたら家が燃えていたかもしれない、こんな危ないことは絶対にしてはダメだ、という事を延々口にした。

 あれだけ乗り気だった僕の目に、どんどん涙がたまっていった。火遊びをした事よりも、いつもは優しい香住おばさんに怒られるのがつらくて仕方なかった。

「いい!? これからはこんな遊びしちゃダメよ!」

 僕は泣きながら何度も頷いた。

 対する茉莉は、いつも通りの表情で、

「お母さん、キッチンの火はいいの?」

「え? ……あ!」

 香住おばさんは、反転してすぐにキッチンへと向かった。その直後、茉莉も物置小屋に向かって駆け出した。僕は、涙がたまる目で、茉莉が消えていった物置小屋をじっと見つめていた。

 茉莉が姿を現した時、手には去年の残りと思われる花火セットが握られていた。

 そして、茉莉は大人にはめったに見せない、心からの笑顔を浮かべた。

「悠! 次は成功させましょう!」


 茉莉は普通の女の子が憧れを抱く化粧品や、テレビの向こうのアイドル、ロマンチックな恋愛に、とことん無頓着だった。

 代わりに、その他の色んな事に対して好奇心を引かれていた。色んな事とは、世の中に満ち溢れる現象全てだ。ふつうの女の子が鏡を覗き込んでいる間、茉莉は大人だって辟易するような分厚いハードカバーの本を広げて、自分が求める答えを探していた。

 尽きることのない探究、と言ってしまえばとても立派な事のように聞こえるだろう。

 でも、茉莉の心にあったのはそんな大それた考えなんかじゃないと思う

 普通の人が遠くに押しやって見ないようにしている死が、常に傍らに寄り添っていた茉莉にとって、やりたい事をやる、というのは生きる事そのものだったのだと思う。


 茉莉が、例の、真夏の湿度と同程度の成功率しかない手術を受けるのは、それからすぐの事だった。


 茉莉の入院なんて珍しくなかった。小学校に上がる前に限って言えば、家にいる方が珍しかったのだ。だから、その時の茉莉の入院だって大したことないと考えていた。ただ、せっかく峠を越えたのにまた入院生活に戻った事は、かわいそうに思ったけれど。

 その日、僕は母さんと共に茉莉のお見舞いに行っていた。茉莉が、事あるごとに入院している大学病院の入院病棟。普段、病棟内はひっそりと静まり返っているのだけど、その日は少し様子が違った。茉莉の病室に向かう途中ですれ違う、看護婦や白衣の先生は、皆一様に焦りを顔に浮かべ、小走りに廊下を進んでいた。

 茉莉の病室に辿り着くと、誰よりも心配そうな顔をした香住おばさんが、空っぽのベッドの周りをうろうろしていた。僕と、そして母さんに気付くと、香住おばさんは少しだけ安心したような顔を浮かべた。

「消えたの、あの子。売店にも、ロビーにもいないの。看護婦さんにも探してもらっているんだけど、まだ見つからなくて。……検査があるから、朝からなにも食べてないのに、もう、どこにそんな元気があるのか」

 香住おばさんは誰もいないベッドに腰かけ、口元に手を当てて黙り込んでしまった。母さんはその隣に座り「大丈夫よ」と肩に手を置いて語りかけた。僕に話しかける時には聞いた事のない、とても優しい声だった。

「茉莉ちゃんはしっかりしてるから、危ないところには行かないわ。それにここは病院なのよ? なんの心配もいらないって」

 香住おばさんは一つ一つの言葉に頷いていた。垂れた前髪が顔に影を作っていた。茉莉のベッドを跨ぐ細長いテーブルには、『外科病棟』と印字されているシールが張られたサイエンス雑誌が置かれていた。表紙はニュースでよく見るこの国の総理大臣だ。拳を握って語りかける姿は、つい先日、テレビに向かって堂々と火星有人探査計画を発表した時の写真だった。

「悠」

 母さんは僕の名前を呼び、五百円玉を差し出した。

「休憩所で休んできなさい。売店で好きなもの買っていいから。休憩所、分かる?」

「分かる」

「遠くに行っちゃダメよ。あと、茉莉ちゃんを見かけたらここまで連れてきて」

 僕はもう一度頷いて踵を返した。病室から出る時、ちらりと振り向いて見た香住おばさんの横顔が頭に焼き付いた。僕はなんとなく、見てはいけないものを見てしまったように思った。来た時よりもずっと早く歩いて病室から離れた。


 結果から言うと、茉莉の心配をする必要なんて全く無かった。

「悠!」

 売店に向かっている途中だった。エレベーターで一階まで降り、病棟同士を繋ぐ渡り廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。振り返ると、薄い水色のパジャマを着た茉莉が、点滴のスタンドに片足を乗せて、床を蹴りながら移動していた。

「いいところに来ました。グッドタイミング」

 言うが早く、茉莉は僕の手を取り「ちょっと来てください」と売店に引っ張っていこうとする。

「ちょ、ちょっと待って! タイム、タイム!」

「タイムもマイムもありません。早く早く」

「どこに行ってたの? おばさん、心配してたよ」

「気になるなら来ればいいですよ。さ、こっちです」

「だから待ってって!」

 茉莉は、その口調と見た目から想像もできない強い力で、僕を引っ張ろうとする。対する僕は、足を踏ん張ってそれに抵抗する。通り過ぎる老夫婦が、回転車の中で走るハムスターを見るかのように、微笑ましい視線を投げてくる。こっちは必死だっていうのに。

「僕の母さんに、見つけたら連れてきてって言われたんだ。母さんが怒ったら怖いの知ってるだろ? だから、一緒に戻って、お願いだから」

「い、や、で、す」

 茉莉は一言一言力をこめて言った。僕を無理やりにでも引っ張っていこうと、手を握る力を強める。

「こっちはやる事があるんです!」

「やる事? なに?」

「それは……」

 そう言った直後、茉莉はふと思い出したかのよう僕の手を離した。僕は尻餅をついて倒れる。「いたたたた」と、後ろに両手をついてしゃがみこむ僕に、茉莉は屈みこんで、

「そういえば、お金持ってます?」

 カツアゲする不良みたいな質問をした。


「いつもは朝ごはんをこっそりあげてるんですけど、今日は出なくて。どうしようかと悩んでいたところなんです」

 茉莉は売店の手前の廊下で、僕に買う物と目的地を一方的に伝えるとさっさと立ち去ってしまった。「売店にはどうせ看護婦さんが張り込んでいますから」と言っていた言葉通り、売店には、明らかに買い物目的ではない看護婦がうろついていた。叩いた石橋を他人に渡らせるのが茉莉のやり方だ。

 僕は罪悪感を抱えたまま看護婦さんを知らんぷりして、食パンと魚肉ソーセージを買った。

 茉莉が言っていた病院裏に急ぐ。通ったことのない中庭を横切り、病棟からも外来からも離れた人気のない廊下を進んで、『非常口』と書かれたランプが上に光る扉を開ける。エアコンの室外機の影に座り込んでいた茉莉は、息を切らす僕を見て、

「もう。遅いです」

「だって、」

「はいはい分かりました分かりました」

 茉莉はぶっきらぼうに手を突き出した。僕は言いたいことも言えないまま、それでも条件反射的にビニール袋を押し付けた。茉莉は中から魚肉ソーセージを取り出して、ビニールの包装をデタラメな位置で破る。

 茉莉の足元で、野良犬が目を閉じて体を伏せていた。

 たぶん雑種だろう。茶色い毛に覆われた犬だった。子犬ではないだろうが、体は小さい。まだ小学校にも通っていない僕の手に、すっぽり入るほどの大きさだ。犬種がどうこうという小ささではなく、単に食べるべき時に食べられなくて大きくなれなかった、という感じの不健康な小ささ。

 茉莉は一口大に魚肉ソーセージを転がしている。犬は一切れ一切れに鼻を近づけ、食べられると判断しながら口に運んでいた。

「野良?」

 僕が訊ねると、茉莉は「今は」と答えた。

「ほら、見てください」

 茉莉は、地面に放り投げられていた首輪を手に取る。泥に汚れている皮の首輪だ。銀色のタグがぶら下がっている。

 たぶんロシア語だろう。よく、街中に設置された注意書きの看板に、英語や中国語やハングル文字と一緒に載っているから見覚えがある。けれど、だからと言ってその異国の言葉が分かる訳ではなかった。

「この犬の首についてたの。捨てられたのか逃げられたのかは知りませんけど、昔はどこかで、外国人に飼われてたんですよ。たぶん。ほら、全然人を怖がらないし」

 茉莉は首輪を地面に投げ出して、犬を撫でる。食べる事を止めようとはしない犬は、尻尾を勢いよく振り始める。

「人間は良い生き物だと思ってる」

「少なくとも茉莉はそうなんじゃない? ほら、その犬にとっては」

 茉莉はなにも答えなかった。首を撫でていた手を頭に乗せ、三角の耳の裏をくすぐるように指先で掻いている。僕は茉莉が持つビニール袋から食パンを取り出して、同じように一口大に千切り、犬の前に転がした。見向きもしなかった。魚肉ソーセージが余程気に入ったのか、僕が触った食べ物が気に入らなかったのか。なんとなく後者の気がした。

「こいつの名前はなんていうんだろう?」

「さぁ。ロシア語は読めませんから」

「今度調べてみる? うちに、お父さんのロシア語辞書とかあるよ」

「嫌ですよ。捨てた人がつけた名前をそのまま引き継ぐなんて」

「逃げたかもしれないんじゃなかったっけ?」

「可愛がられてたら逃げませんよ。きっとひどい扱いを受けていたに違いない」

「じゃあ、新しい名前を考える?」

 茉莉は犬の頭に手を置いたまま、ピタリと動きを止めた。そして、どこか遠くを見ながら「名前ねぇ……」と呟き、考え込んでしまった。その時の茉莉の横顔は、さっきベッドに腰かけていた香住おばさんとそっくりだった。なんとなく、その時僕は見てはいけないものを見てしまった気がした。

「ねぇ」

 と言って僕は立ち上がる。不思議そうに僕を見上げる茉莉を見つめて、

「帰ろう」

「でもまだ名前を思いついてません」

「次来るときまでに考えとけばいいよ」

「一人じゃずっと浮かばないかも」

「次も一緒に行くから。母さんにお願いすれば、きっといつでも連れてきてくれる。別にすぐ考えなくてもいいんだし。今は、検査があるでしょ。それに、おばさんも心配している」

 犬が退屈そうに欠伸をした。魚肉ソーセージを半端に食べ残し、前足を枕にして体を伏せる。犬の頭に手を置いたままだった茉莉は、そんな姿を見て噴き出すように笑った。「呑気でいいな」と、僕がギリギリ聞こえるくらいの音量で呟いた。

 茉莉は立ち上がり、点滴台に片足を乗せた。

「そういえば、君の母さんは、私を見つけたら連れてくるように言っているんでしたね」

「そうだよ。遅くなると、僕が怒られちゃう」

 茉莉は可笑しそうに笑った。犬は、興味深そうに僕達を見上げている。黒い瞳に、光が反射した白が輝いていた。

「じゃあ、帰りましょうか」


 病室に戻った茉莉を香住おばさんはぎゅっと抱きしめ、耳元でなにかを囁いていた。茉莉はその言葉にただ一度だけ頷いた。その後は看護婦に囲まれ、すぐにどこかへ連れて行かれた。

「あんたそれ買ったの?」

 茉莉の後ろ姿を見送った母さんは、ビニール袋の食パンと魚肉ソーセージに目を留めた。僕は曖昧に頷き、

「お腹空いてたから」

 と答えた。


 次の日も母さんに頼んで、お見舞いに行った。

 けれど茉莉は検査で留守だった。トイレに行くと嘘をついて病院の裏に行けば、犬だけは変わらずそこにいた。僕は足元に、家から持ってきたハムを置いた。食べている間に名前を考えたけど、良いのは一つも浮かばなかった。

 ふと、地面に捨てられたままの首輪に目がいった。それにつけられている銀色のタグを外して、刻まれた文字をまじまじと見た。帰ったら父さんに調べてもらおうか、茉莉はあぁ言っていたけど参考くらいにはなるだろう。そう思って、タグをポケットに押し込めた。

 病室に帰ると母はいなかった。探すと、同じ階の休憩室のソファに座って雑誌をめくっていた。北海道、とでかでか書かれた旅行雑誌で、定番の壁見学ツアーについて書かれている。雑誌の写真では、若い女の子のモデルが二人、壁の前でピースを浮かべている。

 母さんは、僕に気付くと雑誌を閉じた。

「長かったわね」

「おっきいのが出たから」

「茉莉ちゃんの影響で、少しは上品に育ってるかと思ってたけど、やっぱりお父さんの子ねぇ」

 母さんは雑誌を本棚に戻す。そして僕に向かい「どうする?」と訊ねた。

「茉莉ちゃんの検査が終わるまで待つ?」

 首を横に振った。窓の向こうはもう夕暮れから夜に変わりつつある。廊下には、夕食を乗せた四角いカートが置かれている。見るからに味気なさそうな病院食でさえおいしそうに見えた。

「今日はもう帰る」

「そう」

「明日もまた来ていい?」

「いいわよ。手術が終わるまで、出来るだけ一緒にいてあげて」

「手術?」

 僕は調子はずれな声を上げた。茉莉が手術を受けると聞いたのはその時が初耳。だけど、その手術が茉莉の一生を左右するかもしれない大手術だとは、結局手術が終わるまで知らされることはなかった。

「手術って、いつ?」

「来週の月曜よ」


「それはつまり、あの犬の寿命になるかもしれないですね」

 ベッドの上でサイエンス雑誌を捲る茉莉は、何の感慨もなくそう言った。明日に手術を控えた日曜日の事だった。同室のおばさんは静かな寝息を立てて寝ている。母さんと香住おばさんは、休憩室でコーヒーを飲んでいた。

「寿命?」

「だってほら、手術が終わった後の私が、犬に餌をやれるかどうかは分からないじゃないですか。もし私がいなくなれば、悠もこの病院に来る理由はなくなるわけですし、あの犬に餌をやる人もいなくなります」

「ふーん」

 と僕は呟いた。折り畳みのパイプ椅子に座り、届かない足をぶらつかせている。この時の僕は、茉莉の言葉の裏に死がある事を、これっぽっちも分かっていなかった。

「犬は元気ですか?」

 と茉莉は訊ねた。一緒に行く、と宣言しておきながら、結局あれ以来一度も一緒に行っていない。僕が来れなかったり、来ても茉莉が検査でいなかったりと、素晴らしいタイミングですれ違いを続けていた。

「別にー。普通」

「変わりなし、ですか」

「そうそう」

「変わらない事が一番ですね」

「そうかな?」

 と僕は言った。欠伸をかみ殺す。茉莉はページを捲ろうとしたまま動きを止めている。

「あの犬はもっと太らないと長生きできないよ。それに名前だって決めないといけないし。このままでもダメじゃないけど、なんかねぇ」

 茉莉はページを捲る。雑誌の一面に、三十年前に宇宙へ旅立ったアメリカの人工衛星の特集が組まれている。つい先月、最後の通信を試みた後で音信不通となり、運用停止になったそうだ。茉莉は、その雑誌の上に手を置いて、ふっ、と声を潜めて笑った。茉莉らしくない仕草に、僕は目を見張る。

 茉莉は垂れた髪を耳にかけて、

「実に君らしい答えですね」

 僕は首を傾げ、楽しそうに笑う茉莉をじっと見つめていた。


 手術の日は雨になった。茉莉の両親が、ストレッチャーに横たわる茉莉に語りかけている。その隣で、僕は窓の外を見ながら犬の事ばかり考えていた。ちゃんとご飯は食べただろうか。濡れない場所にいるだろうか。窓の外に広がる雨空が、今この瞬間に晴れへと変わってしまえば良いのにと僕は思った。

「悠」

 手術室に入る直前、茉莉は僕に話しかけた。

「犬の名前、良いのを思いつきました。あとで教えますから、よろしくお願いします」

 茉莉はそう言い残すと、扉の向こうに消えていった。自動ドアが閉じて、しばらくすると『手術中』の赤いランプが点灯した。僕の頭には、最後に茉莉が言った『よろしくお願いします』という言葉が渦巻いている。

 何気なくポケットに手を突っ込むと、犬の首輪から取ったタグがあった。父さんに刻印された文字の意味を調べてもらおうと思って、そのまま忘れてしまっていたものだ。じっとタグを見つめる。今夜にでも父さんに頼めば、そんなに時間がかかることも無くあの犬の名前が分かるだろう。人は良い動物だと思い込ませて、捨ててしまった人がつけた名前が。

 雨の音がうるさい。

 僕はふと、窓の外を見る。

 雨が強くなっている。

 あの犬は無事だろうか?

 ちゃんと雨が当たらないところで過ごしているだろうか?

 人は良い動物だと、今でも思っているだろうか?

 気が付くと僕は走っていた。

「え? ……ちょっと、悠! どこ行くの!」

 母さんが声を張り上げる。無視をした。エレベーターを使うのもじれったくて、非常階段を駆け下りる。何度目かの踊り場に差し掛かった時、タグを落としてしまった。銀色のタグが、何度もバウンドして階下に落ちる。拾おうとして、止めた。茉莉がいて、犬が生きていれば、必要のないものだから。

 息を切らして辿り着いた病院の裏。エアコンの室外機がうなるいつもの場所で、犬は雨に打たれながらじっと体を伏せていた。僕は濡れるのも構わず犬を抱きかかえた。急いで病院の中に戻る。扉を閉じ、背中を当ててずるずると座り込んだ。僕の頭の上で緑色の『非常口』の看板が輝いている。耳に響いていた雨音が、心地良いものに変わっている。

 僕の腕に、犬の吐息が当たっていた。


 しばらくすると、母さんが跡を追ってきた。母さんは、廊下にしゃがみこむ僕と、腕の中の犬を見て、世にも恐ろしい顔を浮かべた。

「なにしてるの」

「……」

「その犬はなに?」

「……」

「まさか飼おうってつもりじゃないでしょうね」

「……」

「さっさと元いた場所に戻してきなさい!」

「……」

「病院に動物を連れ込んじゃだめなの」

「……」

「言う事きかないなら家に帰らなくていいわよ。ずっとここでそうしていなさい」

 僕は顔を上げ、まっすぐに母さんと視線をぶつけた。そして、泣いてしまいそうな心を抑えつけて、

「べっ」

 と舌を出した。

 母さんは髪をぐしゃぐしゃと掻き、

「全く」

 と言って深い深いため息をついた。

「誰に似たんだか」

 今、赤いランプの向こう側にいる人だろうな、と僕は思った。


「ライカです」

 病院のベッドで、茉莉は誇らしげにそう言った。ベッド脇の可動式のテーブルには、香住おばさんが切ってくれたリンゴがプラスチックの皿に盛られている。

 茉莉の手術から一週間経った。手術を終えた茉莉は、いつもとなに一つ変わらない茉莉だった。その後の日々は晴れ続き。雨が降ったのは手術の日だけだった。神様は、とことん意地が悪いらしい。

「らいか?」

「そう、ライカ。その昔、科学の発展に貢献した偉大な犬です」

 よく分からないけど、とりあえずかっこいい名前だと思った。僕の家の庭には、既に父さんが張り切って作った犬小屋がある。そこに、でっかく『ライカ』と書き込んでやらねば。

「で、その犬ってなにしたの?」

 茉莉は笑った。そして、

「君に一つ良い事を教えてあげます」

 といつもの前置きをして、僕にはさっぱりな『その昔』の話を始める。

 語る茉莉は、世界中のどんな生き物が見ても、きっと人は良い動物だと思うに違いない、輝かしい笑みを浮かべていた。