志望校に落ちたことを聞いて泣く両親を見て、あぁ僕はここで格好をつけないといけないんだなと思った。だから僕は落ち込む様子を一切見せないよう努めて、残った春休みを普段通りに振る舞って過ごした。いつまでも肌寒く感じられたのは、そういう年だからだろうか。

 四月の入学式も風の強い日だった。風の走る音が聞こえるぐらいで、青空に虫食いのように広がっていた雲が次々に遠くへ追いやられていく。その下の広いばかりでなにもない道を自転車で走っていると、同じ制服と似た格好でハンドルにしがみついているやつらが何人もいて、中学校のときの入学式を思い出した。あのときに感じていたものがまた、繰り返される。

 学校の左手側の駐輪場に待機していた教師の指示に従って体育館に向かう。更に中では五十音順に並べと指示されて、一列に並んだ椅子の左端を巡る。自分の名前なら比較的最初の方にあるのが普通だからだ。

 滑り止めで受けていた先は私立の男子校なので、体育館の中は右も左も男しかいない。

 どいつもこいつもブレザーに、ピンネクタイとくる。

 当たり前だけど、嬉しくない。砂漠を歩いているような心境だった。

 僕が所属することになるクラスは四組で、分かりやすく前から四番目の列だった。僕より若い番号を与えられたやつが先に座っている。座るとすぐ、そいつが話しかけてきた。

 途端であり、溜めというものがなかったので内心、動揺する。

「俺、相地。お前は?」

「菊原」

 動揺を悟られないように朴訥に名乗ると、相地が驚いたように口を開けたまま固まった。

「随分名前が偏っているんだな」

『あ』から『き』まで名前が飛ぶことへの感想だろう。

「そうだな」

 まだ自分の言葉が硬いことは自覚している。相手が誰でも初対面は緊張するものだ。

 ましてや入学式の出会いというのは思いの外、大事である。ここで誰と友人になったかで、それからの教室内での位置やらが固定されることも多いからだ。

 中学のときはどうだっただろう、と鼻を掻きながら横目で相地を覗く。

 顔の彫りが浅く、中学生がそのままやってきたという印象が強い。……当たり前か。ただこの年頃には親子連れだか家族連れだか分かりやしないほど多く住み着いているニキビが目立たず、つるりとした肌が目を引いた。顎のラインもスッキリとして、嫌みじゃない美しさがある。

 しかしこの学校では美肌など美徳ではない。なにしろ、それを評価する女がいないからな。

 それよりも、とその上に目が行く。なぜこちらを先に意識しなかったのか、と不思議に思うほど頭が凄い。恐らくは途方もない長さであろう髪を無理に頭上で纏め上げて、城みたいに盛り上げている。その結んだてっぺんは均等にばらけて、ヤシの木みたいだ。

 この学校で、そんな頭が果たして許されるのだろうか。

 その髪型に驚いていると、相地が視線を察して髪の先端を摘みながら説明してくれた。

「だってここ、髪を耳にかけるな、襟にかけるなっていうとこなんだぜ。そいつを守るにはこうやって上に盛るしかないだろ、俺だってこんなヤシの木みたいな頭は嫌だよ」

 本人もヤシの木に見えていたらしく、唇を尖らせながら頭上を手で叩く。

 そうなのである。この男子校、髪の長さに非常にうるさい。定期的なチェックもあると聞いた。他にも色々と規則があって、ただでさえ枯れている男子校生活から更に水分を搾り取ろうという腹づもりのようだ。早くも枯れた枝のような気分なので、これで縛られたらさぞ、パキパキと小気味良い音がすることだろう。

 そんな学校だから、こんな長髪は認められるのだろうか。指導室に連れて行かれて、バリカンでガーッとやられてしまいそうだ。

 前を通りかかった男子が「よぅ」と相地に挨拶する。短い挨拶ではあったが、どことなく愛想というものに欠ける声だった。「おー」と相地が応えて、小さく手をあげた。

「結局、ここに来たんだな」

「お互いにな。また三年よろしく」

「おぅ……」

 短く返事した男子が通りすぎて、僕らと同じ列に座る。五十音順では後ろに属するようだ。

「中学のときの友達」

「ああ」

 そう。そんなことを教えられても、そうやって反応するしかなかった。

 同じクラスになるやつだから、知って損はないだろうけど。

「あいつ、あれでも特待生なんだぜ」

 あれでも、という部分が微妙に失礼に値する気もしたが、その続きを目で問う。

「スポーツ推薦ってやつ」

「へぇ……なんの? 野球?」

 校舎と隣接して建てられている、専用の広大なグラウンドを思い出して言ってみる。

「そう。グラウンドにスカウトみたいなのは何回か来ていたんだ」

「ふぅん……」

 ここってそんなに野球で有名だっただろうか。グラウンドは立派だったけど。

 前を向いてから、あれ、と腑に落ちない点に気づく。

 スポーツ推薦なのに、どうして進学科に所属するんだ?

 僕が受けたのはこの学校の普通科じゃなくて、進学科コースだった。そちらの方が授業時間を多く取り、より受験に備えての学校生活を送ることになるらしい。厳格な学校生活の代償とばかりにここは就職率が高いのだけれど、今度は進学率も、と欲張って新設したようだ。

 更に拘束時間が長引いて校舎までまったく別に位置するカレッジコースというのもあるけれど、午後八時を過ぎるまで学校に拘束される生活はご免だった。進学科の生徒も少ないけど、カレッジコースである一組は椅子の数からすると十名前後しかいないようだ。

「菊原はさ、なんでこんな面白みのない学校に来たんだ?」

 相地がまた喋りかけてくる。出会って十分も経っていないのに、この語り具合。

 相当にお喋りなやつだと、自己紹介してくれているようだった。

「なんでって、」

「高校落ちて行き場がないからしょうがねえよな」

 目を剥く。そりゃあ、大抵の連中がそうかもしれないが。

 僕の動揺を認めて、相地が得意げに続ける。

「知っているさ。お前、ここの近所の高校に落ちただろ?」

「……ああ」

 不気味にこちらの事情を知り尽くす相地に警戒しながら頷くと、ニッと、歯を見せてきた。

「俺も落ちたんだ」

 そう言って、相地が前を向いた。その一言で謎は解けた。

 試験会場で周りを見る余裕なんか僕にはなかった。相地にはあったというわけだ。

 まぁどっちみち、落ちているのだけど。同時に、相地が親近感めいたものを持っている理由も、そのあたりにあるのかもしれないと察した。

 ややあってから入学式が始まる。最初は入学祝いの言葉で、その後はお約束のように校長の話が始まった。頼りない本数の白髪が渦を巻くように頭に乗っている、そんな見るからにお爺さん先生の話は、見た目の印象通りに長い。話が行ったり来たりを無益に繰り返しているようで、纏まりなく、延々と、納豆の糸が絡んでくるみたいだった。

 その中で繰り返されている主張は、『携帯電話こそ諸悪の根源』というものだった。携帯電話が絡むことで高校生活に不必要なトラブルを招く、と訴えている。この爺さん校長はともかく、教師は当たり前のように携帯電話を使っていると思うのだが、それで僕らが納得すると本気で思っているのだろうか。

「なんで校長の話って長いと思う?」

 小声で相地が話しかけてくる。体育館の入り口に整列する教師の目を気にしながら、同じく小声で返事した。

「年寄りだからさ。体感時間が僕らと違うから、話が長いか短いかも分かりやしないんだ」

「お、そいつは面白いな。採用」

 僕の適当な説を、相地は気に入ったらしい。悪い気はしなかった。

 同じ中学から受験した顔見知りもいるのか不透明な中、こうして気楽に声をかけてくれる相手ができて内心、安堵していた。気さくな友人が早くもできて、風向きは悪くない。

 と、このときはまだそう思っていた。

 校長の長話が終わった後、モンゴルからの留学生が紹介される。提携校からやってきて、どうもこちらで柔道選手となるのが目標だという話だった。二人いるけれど、右側のやつの方がいかつい。肌は浅黒く、なるほど肩幅広いなと柔道経験者という経歴に納得した。

 その留学生がたどたどしいながらも日本語で挨拶兼自己紹介をこなして、更に友好の架け橋となるモンゴル校からの贈呈品を掲げた。あれは、弦楽器だ。二本の弦が鋭く伸びている。

「この学校に柔道部なんてないけどな」

 自己紹介が終わって、僕らが義務的に拍手する中に紛れて相地が言う。

「そうなのか?」

「パンフレットに名前なかったぜ。しかしごつすぎて制服似合ってないな」

 特に右側、と相地が苦笑する。その率直な感想に、確かに、と舌の上で同意した。

 ……パンフレットなんて、僕はほとんど目を通していなかった。

 第一志望に受かる気しかなかったので、滑り止めの選択はいい加減なものだったのだ。

 両親も似たような心境で、僕の人生というものは大体、なんとかなっていくだろうという甘えがあった。その甘えが当たり前に通じなくて、都合よくはいかないという世の中の在り方を学んだ結果、ここにいる。男子校という砂漠で、僕は次になにを見つけるのだろう。

「それよりも、あれ見ろよ」

 それよりもなにも、お前から話しかけてきたというのに。

 独特のペースに翻弄されながらも、相地が小さく指差した先に目をやる。

 先程、友好の証として紹介された楽器があった。

「馬頭琴ってやつだな」

「……そうか?」

「頭に馬がくっついているじゃないか」

 言われてみると、確かに馬を象った飾りが付属している。

 けれど紹介された名前は違うような気もした。でもまぁそれだけ自信あるなら馬頭琴かもしれない。実物は見たことないが、名前は知っていた。小学校の国語の教科書にスーホの白い馬というものがあって、その話の中に登場するのだ。恐らく相地もそこから知ったのだろう。

「あれが本物なら、音がちゃんと鳴るはずだな」

「だなぁ」

 なんの話をしているのか分からず、曖昧に相づちを打っていると相地が口の端を釣り上げる。

 不敵に見せつけた歯は本人の肌と同じく、つるりと白い。

「馬頭琴の音色、聴いてみたくないか?」

「……なんだって?」

 少し間を置いて、『悪だくみ』を持ちかけられている雰囲気を悟る。

 思わず、既に傍らに追いやられた馬頭琴(仮)を見上げる。

 確かに見ていて、どんな音がするのだろうという興味は湧く。

 けど、それが行動に直結するわけじゃない。少なくとも僕はそうだ。

「どうやって」

「そりゃお前、あれを借りて弾いてみるんだよ」

 拍手が鳴り止み、相地が姿勢を正して顔を引っ込めてしまう。しかしこちらの視線は感じているらしく、その横顔には反応を楽しむような笑みが隠しきれなかった。

 本気か? とその顔に無言で問う。

 本気だ、とその口の端が踊るように僕に応えた。

 僕はまるで、魔法使いにでも遭った気分となって、言葉を失う。

 望まぬ道を歩き出した四月、高校生活初日。

 その入学式は、相地との顔合わせに等しかった。

 そして存分に、『どういうやつ』かを教えてもらうことになったのだ。



「馬頭琴は二階の渡り廊下の棚と。記念品は全部そこみたいだな」

 体育館からの帰り道、いやに遅れて歩く相地に付き合って列から離れて歩いていると、贈呈品を教師が片づけている場面に出会した。以前から飾られていたであろう巨大なハープを横へ押しのけて隙間を作って、ねじ込む形で棚に置く。贈呈品に対する愛を感じない置き方だった。

 交流品なんて、教師からすればこんな扱いで妥当かもしれない。

 通りすぎてから、横を歩く相地に言う。

「あの棚、鍵かけていたぞ」

「だな。職員室にある鍵を調達すると」

 するとじゃない。なぜこいつはそこまで嬉々として受け止めているんだ。

「弾きもしないで棚の肥やしになったら楽器が勿体ない」

 ぞんざいな扱われ方をしていた馬頭琴やらハープやらを省みるに、相地の言い分にも一理あるような気はする。しかしそれを僕らが行動に移してしまうのは、きっと、大問題だ。

「けどさ……まずいんじゃないのか?」

 懸念をそのまま相地にぶつける。鍵をかけるということは相応に理由がある。そこをなんの許可もない新入生の僕たちが犯せば、後で罰が控えているのは想像に難くない。

「バレないようにやるさ」

「お前の言い分を信じるとして……」相地の前に回り込む。「万が一バレたら?」

「……んー……春休みの延長かな?」

 相地はからっと、努めて明るさを崩さない。けれど僕はその一言に暗黒となる。

 それは停学というものじゃないか。

 立ち止まる僕らを通り越して、進学科の連中が渡り廊下の曲がり角へと消えていく。校舎内ではみんな青色のスリッパを履かされているので、足音が均一だ。それと棚に贈呈品を片づけた教師が、しかめ面で相地の頭を見つめていた。そりゃあ、注目されるだろう。

 入学式でそれとなく見渡してみたが、こんな反骨的な髪型は他に一切なかった。

 そのヤシの木頭の男が僕の肩を叩き、陽気に微笑む。

 僕はひょっとして、厄介な流れに巻き込まれていないか?

 自分の意思は、悲鳴を上げていないだろうか。

「大体、お前……弾けるのか? あれ」

 後ろ手に馬頭琴を指差す。相地は振り向くことなく、肩をすくめた。

「弾けるわけないだろう。弦楽器はまるで専門外だ」

 ちゃらららん、と相地の指が小刻みに動く。その指の上下は……ピアノ演奏の真似か?

「言っておくが僕だって弾けないぞ」

「そうか無理かそりゃあ残念だ」

 まったく落胆している様子のない相地の、淡々とした声は不愉快ではなく。

 むしろなんだか癖になりそうなものがあった。

「となると当初の予定通りに行くしかないか」

 最初から、僕がなにを言おうとそう言おうと思っていたように、打って変わって抑揚ある調子に戻る。どうするんだと言葉の続きを待っていると、渡り廊下が終わって角を曲がったところで、相地が窓の外を眺める。その先は学校の裏手で、学生寮が見えていた。

「馬頭琴を持ってきた留学生に弾いてもらうんだよ」

 相地のその発言と、名案だろうとばかりの得意げな表情に言葉を失う。

「可能性があるとしたらあいつらだろう。馬頭琴弾ける高校生はなかなかいないと思う」

「そりゃあいないだろうけど」

 それは僕らが琴か和太鼓あたりを演奏できることに期待するのとなにが違うのだろう。

 穴だらけの希望に思えるが、相地は意気揚々と歩いて教室に入っていく。……いいのか。

 僕はなし崩しに、巻き込まれている気がしてならない。

 そうした不安は、教室に入ったところで束の間、忘れてしまう。これから三年間生活していく場所に対してまず思ったのは、『狭い』だった。数えてみて判明したが進学科は僅か十八人の生徒しかいない。それ故か長方形の、以前は準備室だったのではと思うほど狭い部屋に机がぎゅう詰めとなっている。弁当の中身になったようだ。僕の席は左端で、日の当たる窓際だ。

 校門側に向いて、廊下からは一番遠い。そしてヤシの木頭を間近で見られるアリーナ席でもある。まったくもって、嬉しくはないけれど。

 なにはともあれと席に着いて、そこで分かったけれど隣の席のやつとお互いの肘が二十センチしか離れていないので、肥満体型は後ろの席にどうやっても行けそうにない。幸い、一人いるあからさまな肥満のやつは席順の関係で先頭に座っている。

 世の中、なんだかんだと上手く回るものだと感心した。

 天井を見上げると、エアコンは完備されているようで、そこに微かな光を見る。

 目の前のヤシの木を眺めて待っていると、担任教師はすぐにやってきた。少し太り気味の中年で、顔が全体的に押し潰れて前へ出ている印象がある。そのせいで目が常に笑っているように見える。

 その担任が自己紹介する最中、雑音がまったく感じ取れないことで気づいた。この校舎には僕ら以外の生徒がいないようだ。勉強に集中するために、普通科の生徒とは別の校舎に教室を構えているのだろう。進学科の何人が高校受験に失敗してやってきたか分からないけれど、そういう連中の寄せ集めに等しい僕たちに、どれほどの期待を抱いているのだろうか。

 担任が話終えた後、一人ずつ、みんなの前に出て簡単な自己紹介を行うことになった。

 そういうのが苦手な方なので、敬遠したくなる。中学の時から嫌でたまらなかった。自分のことなんて本当に知りたいやつがいるはずない、という思いが一点。それとここには男しかいないので、まったく心弾まない、というのもある。みんな似たような心境だろう。

 これから三年間、この女日照りには雨が降らない。乾季長すぎだろう。

 五十音順に従い、相地が自己紹介しようと前に出たところで、担任教師が「おい、その髪」と指摘してくる。当たり前だよな、と頬杖をつきながら状況を静観する。

「今日中に切ってこい」

 担任の声が、他人事にもかかわらず高圧的に聞こえて不愉快だった。

 当事者である相地からすれば、更に勘に障るものがあっただろう。

「なぜですか? 規則には引っかかってないでしょう。ちゃんと見ましたよ、長髪は禁止なんて書いてない。ほら、襟にも耳にも髪が引っかかってないですよ」

 挑発を含んだ物言いで、相地が自分の耳を摘む。見ていて、うわぁ、となる。

 反抗期一色の態度で向き合う相地に対して、担任が席から立った。

「生意気言ってないで切ってこい。アホな口聞かなくていいから」

 有無を言わさないように担任が詰め寄る。しかし、相地はまったく引かない。

「先生の髪も耳にかかっていますが、それは床屋に行き忘れたんですか?」

 指差しながら、恐らく自覚して爽やかに笑って……まさに挑発しているのだった。

 舐めきった相地に苛立った担任が、結んだ髪を掴んで引っ張る。「あ、いだだだだ!」と相地が大声で喚く。担任はそのまま指導室にでも連れて行くつもりなのか、相地の髪を引っ張って教室の外に向かおうと動き出した。さすがにそれは酷いのでは、とその横暴に反感を抱く。

 しかしそれ以上に気になるのは、なんだか、相地の声がわざとらしく聞こえることだ。

 中腰のまま「痛い痛い痛い」と必要以上にうるさく騒いで、多分そのせいで担任の力の入れ具合が過剰に思えてしまう。それは恐らく声ばかりで、相地の腕が担任の手を引き剥がすためとか、抵抗に動く素振りが見られないからなのだ。普通、痛くてたまらないなら意識しなくても手が動こうとするものじゃないだろうか。

 そのあやふやな感覚によって覚えた違和感が、正体を晒す。

「痛いとー、つい、力が入ってー、めきめきーっと」

 唐突に口調を変えた相地が屈んだまま、なにかを握りしめている。

 その握りしめているのが誰の携帯電話か、担任の表情の移り変わりから気づく。わざとらしく大声をあげている間に抜き取って、担任はまったく気づいていなかったようだ。担任が慌てて電話を取り返そうと手を伸ばしてきた隙に、相地が髪を掴んでいる方の手から逃れる。

 そのまま窓際へと距離を取って、携帯電話を目の高さまで掲げる。

「携帯電話が諸悪の根源だというなら、教師が持っているのはおかしくないですかね」

 そう語る相地の頭は引っ張られたヤシの木が乱れて、バナナの房みたいになっていた。

 後ろ手に窓側の扉を開けて、そこから続く小さなベランダに一歩下りる。

 そして携帯電話を持った右手を、後ろ向きに素振りする。

 まるで、電話を二階から投げ捨ててやろうかと脅すように。

「おまえー、お前……なにしたいんだ、返せ」

 言葉が出てこないように担任が空回り気味ながら、手を差し出す。

 ベランダで取っ組み合いをする気はさすがにないらしく、迂闊に相地に近寄れない。

「携帯電話を持つ教師は悪の枢軸。であるなら悪の言い分に従う理由はないと」

 校長の教育理念を持ち出して、担任の要求に応えようとしない。その態度にカッとなってか担任が詰め寄ろうとすると、相地は携帯電話を本気で捨てようと振り返り、振りかぶる。

 その投げ方や構え方が堂に入っているというか、手慣れている感じに見えた。

 担任が「やめ、」と言葉を切りながら慌てて引っ込むと、相地もそのまま足を振り回すように一回転して、元の構図に収まる。担任を寄せ付けない反応の早さといい、そうした対応に出ること、そのタイミングというものも予見していたようだ。

 返して欲しいなら、とばかりに相地が自分の頭を指差した。

「生徒の模範たるべき教師がルール違反しているのは、例外、ってことでいいんですかね……じゃあその例外を踏まえますが、この髪は規則に触れないと思いますか、思いませんか?」

 髪の端を摘みながら相地が問う。これじゃあ取引じゃなくて脅迫に近いぞ、と驚く。

 担任もそうした一生徒の蛮行にすぐ応えることはできず、別の手段をちらつかせる。

「お前、初日から親を呼んで話し合いでもしたいのか」

 両親を出してくるのは、ずるい。同時に、あまりに効果的だ。

 しかし、相地はまったく引かない。

「別にいいですよ、家に誰もいませんし、来ないと思いますけどね」

 相地がバナナ頭を揺らす。そしてそれを聞いて、その強気の理由が理解できた。

 詳しくは分からないけれど、相地は保護者というものが介入してこないことを確信して、だからこそ堂々としていられるのだろう。

 僕らの大人に対する弱みは、ひとえに親の庇護下にある、に尽きる。

 それは僕たちの剥き出しの急所であり、教師はいざとなればその部分を徹底して攻めることができるから、強気を保っていられるのだ。もしその急所が存在しないのなら、蛮勇の責任はすべて生徒本人に注がれる。教師は真っ向から、そいつ自身を相手にしなければいけないのだ。

 生意気盛りの高校生を正面から相手する元気が、この担任にあるとは思いがたい。

 事実、既に担任教師は疲弊して、うんざりとばかりに目が落ち込んでいた。

 そりゃそうだろう。新学期の初日から、こんなやつの相手なんて誰が想像つくものか。

 相地を除く十七名、僕を含めた同級生は口をぽかんと開けたまま事態を見守っている。狐につままれる、というのはこのことだろうか。相地という奔放な同級生の行動は、道化師が奇抜な服と靴を持って飛び跳ねるかのようだった。

「分かった、また追って話をする。だから、今日はまだ切ってこなくていい」

 埒が明かないと判断してか、担任が譲歩を示す。相地はそれを受けて、満足そうにベランダから戻ってきた。携帯電話を今までの行動からすれば素直に返す。それを受け取った担任教師が鼻を真っ赤にするほどの怒りに満ちているのを見てか、相地が唇を緩める。

「あ、これもお返ししておきます」

 制服の袖から落としたそれを、ついでのように差し出す。

 自動車の鍵だった。慌てるように奪い返した担任が、目を剥き、若干青ざめる。

 もし担任教師が譲歩しなかったら、その鍵をどうするつもりだったのか。

 何事もなかったように席に座り直した相地が、『自己紹介』を終える。

 僕からしても手慣れすぎていて、ちょっと引いた。

 そんなこんなで有耶無耶な空気になり、担任が一旦退散してしまったことで、結果として自己紹介はたった一人で終わってしまい、僕に回ってこなかった。

 気の進まないことを、一つ回避できたわけではある。

 どよめく教室の中で、僕は頬杖をついたまま、目の前のバナナ頭に感謝すべきか大いに悩むのだった。



 終始、担任教師のせいで気が立ったままの初日は必要以上の長さを覚えた。

 その原因となった相地は馬頭琴のことで頭がいっぱいなのか、上の空だったのが後ろ姿からも伝わってくる。結び直されたヤシの木が嬉しそうに揺れていて、なんだかなぁと思う。

 午前中いっぱいで説明は終わったけれど、僕の入学式はまだ続くのだった。

 今は目の前で、「早速だな」と、中学の友達ことスポーツ特待生が相地に話しかけている。こちらは髪もこざっぱりと短く、規則に触れるような振る舞いとは無縁そうだった。愛想はやはりないが。精悍な顔つき、といえばいいのか横顔が鋭い。引き締まった頬は日焼けした肌と相まって、山脈のようだ。気難しい性格なんだろうというのが、見ているだけで伝わってくる。

 その特待生が去り際、僕を一瞥してきたような気がする。いや、頭を振ったからそう見えただけか?

「さてと」

 待たせたな、とばかりに相地が振り向く。待っていない、が、席を離れなかったのも事実だ。

 一応、聞いてみた。

「今日は床屋に予定変更か?」

「切るわけないだろ。担任の頭見たか、後ろの髪だって酷いものさ。むしろ俺の方がこの学校のルールに従っているぐらいだぜ。そんなやつの言うことを聞く道理はない」

 髪ではなく、意見がばっさりとしていた。

 僕はこいつが『不良』であると遅まきながら悟る。いや、これは僕たちの年齢における当たり前の反抗期を、裏に隠していないだけなのか……どちらにしても、めっちゃ、厄介だ。

 その隣人に付き合うということは必然、僕も獣道を歩くということなのだから。

「納得できない押しつけを飲み込めるかよ。それより行動開始だ、さぁ行こう」

 相地が手を引いて僕を立ち上がらせる。すっかり共犯者……イメージ悪いな、共謀者……大して変わらないか、の扱いになってしまっている。しかし僕は一度でも賛同した記憶がない。

 逃げ出すなら、今が最後だと感じる。僕はこの学校に入って、一体どこへ行くのか。

 それが今、覚悟も前触れも騒々しさもなく決まろうとしている。

 いいのか、いいのかと教室の入り口が近づく。そこを共に抜ければ恐らく後戻りは効かない。

 入ってきたときはなにも感じなかった、変哲のない入り口に赤い線が走ったように見える。

 今の僕は、真っ新だ。新しい環境にやってきて、まだなにものにも染まっていなくて。

 けれどそこを通ったとき、僕は『高校生』に上書きされてしまう……ように、思えて。

「なぁ」

「……ん?」

 相地が屈託ない笑顔を向けてくる。派手な髪型と相まって、とかく陽気だ。

「ちょっと今更な感じだが、仲良くやっていこうぜ」

「……ああ」

 相地の挨拶に返事をしている間に、僕の足はそれを踏み越えて。

 駆け抜ける嵐にそのまま引っ張られるように、廊下に出た。

 ここで勇気を持って逃げ出せないのが、性分というものだろう。

「お、あの部屋のやつパワプロで遊んでるな」