プロローグ


 吉祥寺駅の北口を出てから伸びる道を進み、東急に抜けるほうへとそのまま歩く。カフェの多いその通りを歩いていけば、十字路がある。

 そこに、一際細い小道が存在するのだ。小道の入口には季節になれば立派な花を咲かせるだろう紫陽花が門番のように静かに佇んでおり、ただでさえ細い道の入口を狭めている。

 そんな誰も気づかぬような小道に入り込んだ瞬間、まるで異世界に足を踏み入れたかのように通りの喧騒が消え、静寂に支配される。

 緩やかな坂になった短い小道を抜ければ、――――そこに、然程大きくはないモダンな洋館が現れる。

 文明開化華やかなりし頃、外国人居留地見られたような建物だ。煉瓦造りの壁には蔦が這い、瀟洒なガス灯がそっと立つ。

 建物の扉には4枚のガラスがはめ込まれていた。ガラス戸の上半分はステンドグラスで装飾されていて、その扉をくぐり、中に入れば、押し寄せるような量の珍妙な品々に出迎えられる。

 ずらり、と天井にまで届く程高い棚に置かれた品は人一人が優に入りそうな壺だったり、はたまた古い医療器具だったり、見たこともない柄のトランプらしき物や、ハンモック、美しい装飾の三角錐の万華鏡、古い鉄のフライパンまで。

 珍奇な品物が壁沿いに雑多に並べられた店の奥に、ひっそりと飴色のカウンターが設置されていた。

 そのカウンター内の椅子に腰掛け、ピーコックグリーンの文庫に視線を落とす男が一人。

 美堂橋梓――この摩訶不思議な美術品を扱う店『sanctuary』の店主。


 美堂橋さんは毎朝5時に起きる。

 ベッドから抜け出し、シーツと枕と布団を綺麗に直す。ベッドメイキングに3分の時間をかけるのも決まりである。

 それから快晴だろうが暴風雨だろうがカーテンを開け、外の景色を見る。それに満足してからシャワーを浴びにバスルームへと向かう。

 髪を乾かし、身だしなみを整えた後は丹念に歯磨き。鏡で自分の美しさを実感する美堂橋さんは、若干ナルシストである。だがしかし、事実彼の容姿は酷く整っているため、誰も文句をつけられない。時刻は5時45分、これを過ぎることはない。決して。

 キッチンへ向かうが、美堂橋さんは朝食をとらない。固形物を受けつけないので、デロンギの珈琲メーカーで一杯の珈琲を淹れるのだ。

 その間に郵便受けまで新聞を取りに行き、キッチンに戻ると丁度淹れ終わった珈琲を飲みながら新聞片手にゆっくりと6時10分まで過ごす。

 それが終わると2度目の歯磨き。ここでまた髪の乱れも直す。その後部屋の掃除や洗い物などをし、7時を迎える。

 7時からは店の開店準備。店の裏にある庭から薔薇を一輪切ってきて、それをカウンターに飾り、美堂橋さんは満足気にそれを眺める。

 7時30分になれば店を出て、小道の先にある紫陽花を見に行く。直射日光が苦手な美堂橋さんは、陽射しの弱い朝にだけ積極的に外に出るのだ。

 紫陽花を見て店に戻ってくると7時45分。8時までは店の中を美堂橋さんの美的センスに基づく並べ方で店の中の商品を整理する。

 8時、美堂橋さんはカウンターの中で静かに開店を迎えようとした――その時。

 店の静寂を切り裂くかの如く、甲高い電話が鳴り響いた。

 美堂橋さんは眉根を少々寄せその表情を歪めた。家の電話ではなく、店の電話が鳴る時は大抵あの珍奇な問屋からのものであることが多いからだ。出るか否か悩むように美しき双眸を伏せると、音もなく嘆息を吐き出しカウンター内の椅子から腰を持ち上げた。理由はないが、問屋ではないような気がしたせいかもしれない。

 未だ鳴り響く電話を見下ろし、長く綺麗な指先で受話器を撫ぜる。そのままゆっくりとそれを持ち上げ耳元に寄せた。

「もしもし?」

《もしもし、美堂橋さんのお宅でしょうか》

 優しい女の声音であった。美堂橋さんの朝は、この女性の突然の電話によって優雅さを失うこととなるのである。



    1


 美堂橋梓はデスクチェアに腰掛け、優雅に珈琲の入ったマグを口に運んでいた。周囲の喧騒とは別世界を生きるような美青年のその姿は圧倒的に異様なのだが、それも毎日となれば周りは嫌でも見慣れてしまうものだ。

 顔立ちも然ることながら、彼の長い脚や細い身体のシルエット、スマートに着こなしたスーツなど。どこか浮世離れしたような魅力も持つ美堂橋が女性からの注目を集めることは必然だと言えよう。しかし、その協調性のない言動によって同性からも注目を集めている訳だが。

 パリのカフェテラスかと錯覚するほど優雅に、かつ美しい所作で珈琲片手に新聞を広げる美堂橋。彼は眉根を寄せると細く嘆息を吐き出した。『空き巣? その裏に潜む不可解な共通点』という見出しを眺める彼の伏せた目が、不意に持ち上がる。

「美堂橋、この前の官僚脱税の書類出したか」

 長年の喫煙で掠れた声の主は美堂橋の上司だった。徹夜明けの気怠い表情の割に眼孔の鋭さが目立つ顔と、美堂橋の若々しく麗しいそれはあまりに異なるため同じ職業、同じ場所にいる人間とは思えない。

 新聞を美しい所作で畳んだ美堂橋は「はい」と凛とした声音で返した。顔には当たり前でしょうとも書いてあったが、さすがに口にすることはないようだ。

「……なら良い。ああ、そうだ、田中が戻ってきたら詐欺の受け子の事情聴取に行け」

 そう言ってデスクに戻ろうと背を向けた上司へちらりと一瞥をくれる美堂橋。ふと何か思い出したらしい上司は「あのな」と言って肩越しに振り返ると背広をじっと見つめる美堂橋に気づく。「何だ?」と眉根を寄せた上司だったが、すぐに嘆息交じりに。

「頼むから他の課の人間がいる前で〝変なこと〟を言うな。分かったらその珈琲置いて仕事しろ」

 美堂橋の視線は未だ背広から離れぬまま「変なこととは?」と問う。

「あれだ、『美しくない』とか『美的感覚が』とか訳の分からん指摘をするのはやめろと言っている。これ以上説明させるな」

 以前、横領事件の際に美堂橋は黙っていたと思えば急に明瞭な調子で「美しさ」というものに関して語り始めてしまったのだ。

 突然のことにその場にいた人間が呆気にとられたことは言うまでもない。この上司もそこに居合わせた一人であり、普段は寡黙で冷静な美堂橋の雄弁に語る姿には薄気味悪ささえ感じていた。

「善処します」

 そう呟いた美堂橋の言葉を疑いながらも、この新人ばかりを相手にしている訳にもいかず視線だけで念を押すと上司は再度歩き出した。

「ところで」

 そこに美堂橋の声がかかる。今度は何だ、と身体ごと振り返った上司の目に映ったのは端正な顔に微笑を浮かべる美堂橋。

「その背広の皺、美しくないですよ」

 人の話など全く聞く気のない美堂橋梓の発言に、周りにいた人間は共通の言葉を思い浮かべるのだ――――〝酷い変わり者〟だと。

 ここは―――警視庁刑事部捜査第二課。企画課や鑑識と同じく刑事部に名を置く課のそこに、美堂橋梓は所属していた。祖父の代から警察に身を置く家系で育った彼は大学を卒業と同時にここへの所属を決めた。

 彼は湧き上がる正義感故にここに存在している訳ではない。志願動機はあくまで「美しかった」からだ。代々続く警察一家、その家系図の洗練された並びに自身も加えようとしたに過ぎない。彼自身の美学を持ってしての行動は、はたから見れば馬鹿らしいものである。

 だがしかし、珍妙な志願動機に対し、彼は能力が高すぎたのだ。結果として今現在、美堂橋梓は第二課で珈琲を飲むという現状へと至る。

 刑事部捜査第二課は第一課のように強盗・殺人事件を扱うわけではなく、詐欺や横領、知能犯罪を主に取り扱う課である。地道な捜査が必須となるため検挙に至るまでの時間が長く、必然的に一課と比べ検挙率も低いのだ。近年では二課の必要性を問う議論も持ち出されている程である。

 そんな第二課で、新人でありながら他よりも遥かに検挙率の高い男が美堂橋梓だ。フランスの美大帰りのお坊ちゃんだと噂されていた彼だったが、その仕事の速さと正確さに周囲の評価を一変させる。

 だがしかし。彼はその検挙率以外の面でも課内、否、刑事局内で有名になりつつある。それは先程の発言にもあったように彼は『美学』というものを語るからだ。

 先日の公務員脱税事件においても、確固たる証拠が見つけられずに足踏みを続けていた第二課に、いきなり証拠と証人を連れ事件を解決へと導いた。


 美堂橋はその事件に積極的だった訳ではない。むしろ、彼は事件という事件に熱意を持って取り組む姿勢は持っていない。彼は家系図の美しさに惹かれ、そこに名を連ねるために刑事になったのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、第二課の人間にはそんなこと知る由もない。

 だが、美堂橋の捜査報告を聞いた上司は余計に頭を混乱させることになった。

「脱税などという浅薄な行為に恥ずかし気もなく手を出す美しさに欠けた行動には眩暈がしますが、今回の事件で僕はこの女性の調書があまりに酷いものだったので」

 そう言った美堂橋は逮捕された官僚の第一秘書の妹に当たる人物の証言を上司へと見せた。当たり障りのない発言の並んだ文面と、彼女の身辺調査記録のみであった。

 美堂橋はそれを生ごみでも見るかのような冷徹な視線で見下ろすと、「嗚呼、なんておぞましい」と大仰な調子で呟いた。

「彼女の実家……婿養子に入ってはいますが第一秘書の実家ですね。その所有する別荘……嗚呼、酷過ぎる。この別荘のコンセプトは、あるまじきことに『ルイ13世の屋敷を彷彿とさせるロココ調の屋敷』だそうです。残酷な響きだ。亡くなったルイ13世はこの言葉を聞いたら何と感じただろうか。ええきっと……吐き気をもよおすレベルです」

 美しい青年はその顔を苦渋の色に染め、更に続けた。

「気が狂っているとしか思えない建造物ですね。まずルイ13世は17世紀バロック時代のフランスの人間です。彼の屋敷を彷彿させるなどと言いながら、時代はロココ。ロココは18世紀だと言うのに……すみません眩暈が……はい、心配はいりません。ロココと謳うのならばルイ15世ではありませんか? そうでしょう。僕はこの奇怪な建造物が気になって仕方なかったのです。それは夜も眠れぬほどでした。再度第一秘書にお会いする機会がありましたので、その際に疑念を晴らすべく問うたところ、この別荘の所有者は彼の実家ではありませんでした」

 美堂橋の殺気立った詰問に、所得隠しが露見したのだと勝手に怯えた秘書が口を滑らせたということであった。そこから芋づる式に脱税の証拠を見つけ出したのだと言う。

 美堂橋は単純に己の美意識に反するものに対して言及をした結果、奇しくも事件解決へと動いたのだった。この事件は彼の変人性を知らしめる良い機会にもなったことは言うまでもない。

 フランスの美大を主席で卒業した美青年はそうして検挙率の高さにも負けずとも劣らずの変人ぶりで刑事局内に瞬く間に名を轟かせた。


 本人の端麗な容姿から視線を集めることは多けれど、仕事以外で関わり合いを持つような人間は極少数でしかなかった。当たり前である、普段からその所作、持ち物、食事に至るまで己の『美学』を貫き通すのだから並大抵の人間では対応できない。

 美堂橋自身も同僚と慣れ合うようなことを望まなかったので、特に気にすることもない。そして検挙の件に関しても、然程気にする様子もなかった。

 美堂橋は美しさに欠ける点を指摘しているだけなのだから。彼の唯一情熱を注ぐ『美学』に反する部分は許さないという熱意が検挙率に繋がってしまうという不可思議な法則。しかし与えられた仕事は正確且つ迅速にこなす誠実さもあったため、刑事としての美堂橋は高評価を得ていた。それさえも、彼本人にとっては取るに足らぬ事項であるのだが。


「お先に失礼します」

 定時きっちりに美堂橋は業務を終え、帰り支度を始める。余程のことがなければ定時過ぎに課に残るようなことはしない美堂橋に、最初こそ反感の目もあったが今では「ああ、いつものか」というぐらいの認識になってしまった。

 質の良いスプリングコートを羽織った彼は上司に一礼し、颯爽と二課を後にした。

 彼は大学を卒業後、吉祥寺という町に一人住まいをしている。駅から井の頭公園のほうへ少し歩く場所にあるアパートだ。元はギャラリーだった建物を改築して出来た木造のそこを美堂橋は割と気に入っていた。

 しかし彼の足はその帰路を反れて東急に抜けるほうへと向かう。カフェの多い通りを進み、十字路を曲がって更に道を進む。

 夕刻のそこは静寂が満ちており、通り過ぎる春風が木々を揺らす音が美堂橋の鼓膜を叩いた。そして辿り着くのは両脇に紫陽花の植えられた小さな坂道。

 彼は慣れたようにその坂へ足を踏み出した。心なしか横顔は仕事中とは異なり穏やかさが満ちている。そうしてすぐに登りきった先にあるのは、異国を思わせるモダンな建物―――骨董店『sanctuary』であった。


「こんばんは」

 ステンドグラスの差し込まれた戸を開け、店内へと足を踏み入れた美堂橋の視界に二人の人物が入り込む。一人はカウンター内におり、もう一人は美堂橋に背を向けるように椅子に腰掛けていた。

「やあ、梓おかえり」

 カウンター内に腰掛けるのは、この店の主の美堂橋遥。彼は美堂橋梓の叔父にあたる。

 そして続くように背を向けていた人物が美堂橋を振り返り、柔らかな花のように微笑んでみせた。

「こんばんは美堂橋さん。お邪魔しています」

 髪を胸元まで伸ばしたその女性はそう言いながら頭を下げる。美堂橋も「こんばんは」と返しながら後ろ手で戸を閉めた。

 犇めき合うように陳列された美術品に視線を向けながらカウンターまで近づき、その女性の横へと腰をおろしたところでふっと思わず息を吐き出す。

「珈琲でも淹れてこよう。朱里さん、梓の相手をしてあげて下さい」

 遥は悪戯ぽく微笑むと、そう言ってカウンター奥にある扉へと消えていった。残された美堂橋と朱里と呼ばれた女性は顔を見合わせ、互いに少しだけ笑みをこぼした。

「お久しぶりです。お仕事順調だと伺っています」

 彼女の名は朱里。『sanctuary』の近くに位置する図書館で司書をしている女性だ。美術品を買いに来ている訳ではなく、遥の持つ蔵書を借りるためよくこの店を訪れている。

 性格が似ているせいか、遥の話し相手にもなっている彼女とは仕事が忙しくなる前はよく顔を合わせていた。

「2週間ほど、ですかね。仕事のほうはようやく慣れた頃合いです。不思議な仕事ですね、警察とは。朱里さんは先日風邪をひいていたと聞きましたが、その後具合はどうですか」

「熱風邪だったので3日程お休みをいただいたのですが、もうすっかり良くなって元気いっぱいです」

「それは何よりです」

 朱里の笑みにつられるように目を細めた美堂橋の表情を同僚が見ればさぞ驚くだろうくらいに穏やかである。彼は幼少の頃からこの店に出入りを繰り返し、叔父である遥から美術の知識を学んでいたのだ。彼の唯一心の拠り所としてこの店はある。

 そしてそれは今も変わらず。美堂橋は時間があれば遥に会いに『sanctuary』へと足を向けるのだ。それはもう、彼の日常の一部として成り立っている。

「待たせたね」

 開いた扉から顔を覗かせた遥は手にしていた銀のトレーをカウンターに置いた。香ばしいそれが美堂橋の鼻孔をくすぐる。

「エスプレッソにしても良かったのだけれど、仕事で疲れた身体には少々きついように思ったのでね。深煎りも良いが、たまには中煎りの豆も美味しいさ」

 そう言って微笑む遥に美堂橋は朱里に向ける笑みともまた違うそれを浮かべ、「はい」と頷くのだった。



    2


 廊下の窓から差し込む陽射しを避けるのは、いくら1年中日焼け止めを肌に塗り込んでいようとその猛威には十分警戒するべきだと考えているからだ。美しさを保つ為ならばどんな努力にも惜しみない熱情と労力を絶やさない。

 紫外線に脅える夏場のOLのような思考を持っているとは知らず、すれ違う女性達は皆、彼の端整な顔立ちに視線を注ぐ。

 一刻も早く紫外線の入り込む余地のない場所へ向かわねば、と殺気立った表情をみせる彼は同僚の声に呼び止められた。

「何でしょうか」

 こんな場所で呼び止めずとも、忌々しい。そう内心吐き捨てながら振り返った先にいたのは第二課の人間だ。美堂橋の苛立ちに気づいたのか少々怯えつつ、手にしていたファイルを差し出した。

「俺のファイルと重なってた。これ、お前のだろ」

 受け取ったファイルの中に挟まれた書類に書かれた文字に微細に眉根が寄る。そうか、そう言えばこんなものもあるのだと聞いていたが失念していた、と。

「……なるほど。ありがとうございます」

 用は済んだとばかりに「じゃあな」と背を向ける同僚になど見向きもせず、美堂橋は手にしたファイルを見下ろし、数秒の後細く息を吐き出した。

「……気が進まん」

 憂いを帯びた表情は美しけれど、その手にしたファイル内にあるのは「健康診断のお知らせ」であった。


 その数日後。都内にある病院に彼の姿はあった。

 他人から見れば物憂げな表情に見えるかもしれないが、実際には苛立ちを全面に押し出している。健康診断などなるべくであれば受けたくはないというのが美堂橋の本音。

 待ち時間の長さや到底美しいとは言い難い体勢で行われるバリウム検査など、美堂橋の美意識に反するもののオンパレードだ。

 しかし拒否するほど子供でもなし。朝から精神統一を図り、自身の美しさに一点の曇りもないことを入念に鏡で確かめ、自己暗示をし、ようやく午後一で病院へと辿り着いた。

 早く済ませて仕事に戻ろうと決意している美堂橋に、無情にも第一の試練が訪れた。

「はい、ではこちらに着替えて下さいねー」

 看護師から手渡された検査着に美堂橋は天を仰ぎ、目元を手で覆った。何てことだろうか、この量産型の凡庸な衣服は。実用性という点では計算されたものを感じるが。手触り、形、色合い、全てにおいて美堂橋を崖の底に突き落とすような物であることに間違いはない。

 これを着て院内を歩き回らねばならないと考えただけでぞっとし、何時までも美堂橋はその場に立ち尽くすが「邪魔なんで早く着替えて来て下さい」と看護師から叱咤が飛んできてしまっては、もう着替えるしか選択肢は残っていなかった。


 美しさの欠片もない検査着を着用しての健康診断も、ようやく最後の問診となった。 初めこそ他人にこの姿を晒すことに抵抗を覚えた美堂橋だったが、鏡に映り込んだ自身の姿は普段と何ら変わりなく美しいことが分かったので、そこからはただ肌触りの悪い布を我慢することだけに集中したのだ。診断を回る最中、何やら視線を感じてはいたが、己の美しさが視線を集めることは普段からなので特に気にもしなかった。

 問診の順番を待つため、並べられたパイプ椅子に腰をおろす。問診と言えど簡易的なものなので、大部屋を仕切りでわけてあるだけで、そのスペースに数人の医師がいて順々に受診するスタイルである。

 ―――と。

「持病は! えっと、貧血と低血圧と童貞ですた」

「童貞は病気じゃないので言わなくても大丈夫ですよ、落ち着いて下さい」

 底抜けに明るく明瞭な声音と医師の冷静なそれが部屋に響いた。美堂橋はその声に静かに俯き左手で顔を覆った。

「……何ということだ」

 その時、隣に何者かが腰掛ける気配。美堂橋が顔をあげる前に、肩に手がのせられたのが分かった。

「よっ、美堂橋元気かー?」

 美堂橋はその声に顔をあげる気も言葉を返す気も失せてしまう。大仰なまでに嘆息を吐き出した彼に、「おいおいこっち見ろよー」と肩を揺さぶるその男。いい加減鬱陶しいので振り払いざまに顔をあげた。

「何だ! 揺らすな騒ぐな黙っていろ関戸!」

「うわびっくりしたあ……脅かすなよ」

 降参とでも言うように両手を顔の横にあげてケラケラと笑うのは関戸順平。

 この男は刑事部捜査第一課に所属しており、更に見た目とは裏腹にキャリア組と呼ばれる人間だ。奇しくも美堂橋と同期でもある。

 雑誌でよく見るような流行りの髪型、「好きなタイプは女子高生!」という犯罪者紛いの自己紹介で、美堂橋から軽蔑の眼差しを受けた張本人である。

「それにしても美堂橋がこんな格好してるのレアだよな、レア。思わず写メっちゃったわ」

「おい……、おい。いつ写真を撮ったんだ。今すぐ消さねば貴様のしょうもない人生をこの場で閉幕させてやる」

「やめろ! やり残したことがあるんだ……! やめろ! まだ序幕だ!」

 絞め殺そうとすれば、彼は美堂橋が病院に入る時から近くにいたことを白状した。着替えるタイミングも同じだったらしく、その時に携帯に写真を収めたらしい。協調性という言葉と無縁な美堂橋が皆と同じように健康診断を受ける様がおかしかったようで、ずっと程良い距離を保って見ていたと言う。

 美堂橋はすぐに頭を抱えて「感じていた視線は貴様だったのか」と絶望した。そんな美堂橋などスルーし、関戸はそっと顔を寄せる。

「さっきの声ってアイツだよな?」

 さっきの、とは室内を震撼させた『貧血と低血圧と童貞ですた』発言のことだろう。美堂橋は疲れたように「そうとしか思えん」と返す。

「まあ、童貞っぽい顔してるしな」

「やめろ」

「俺は中一だったな。高一の先輩が相手」

「……まさかお前、それで女子高生が好きだと言っている訳ではないだろうな?」

「ちっげーよ。でもアイツ童貞っておかし……、」

 そこでタイミング良く関戸の名が呼ばれた。会話の途中であったが慌てて医師の元へと向かう関戸に、騒がしいやつだと顔をしかめる美堂橋。

 すると入れ替わりに、男性にしてはやけに線の細い男が美堂橋のほうへと近づいてきた。その顔を見て、美堂橋の表情は一層しかめられる。

「美堂橋も今日だったんだね」

 朗らかにそう声をかけつつ関戸が座っていた椅子に腰掛けるのは、先程の〝アレ〟の発言主、烏丸一人である。少しばかり古めかしいデザインの眼鏡をかけ直しながらなぜかはにかむような笑みを浮かべてみせた。

 烏丸一人は関戸と同じく、美堂橋の同期である。ほんの少し癖のある柔らかな髪をした男で、女性のような痩身のシルエットを隠すように普段は大きめのカーディガンを羽織っていた。目元にはいつも、美堂橋曰く「美しくない」デザインの眼鏡がのっているのだ。

 彼も刑事部捜査第一課に所属している。父親が警視庁幹部であると風の噂で聞いたことはあるが、本人に問うたことはないので詳細は不明だ。しかし、所謂キャリア組だということは周囲の反応や彼自身の言動から見ても明らかであった。

「お前達とは会いたくなかったのだがな」

「達? 何、関戸も? 三人被っちゃったんだねぇ」

 くすくす微笑む烏丸に溜め息を吐き出した美堂橋。そこで彼も名が呼ばれ、座り心地の悪い椅子からようやく解放された。


 苦行のような健康診断を終えて病院を出たところで、見慣れた二人の背中が目にとまり、美堂橋は瞬時に背を向け別の出口から帰ろうとしたのだが。

「あ、美堂橋じゃん。やっと来たな」

 逃げるよりも先に見つかり、忌々し気に振り返れば笑顔の関戸が大股で近づいてきてしまった。隣にいた烏丸もそれを追う。

「どうせ一緒のところに帰るんだからさ」

「僕は一人で戻る」

 そんな発言は完全無視。関戸は「じゃあ仕事行くかー!」と大声を張り上げ、美堂橋の腕を掴んだまま歩き出してしまった。苛立ちに白目を剥きそうな美堂橋に烏丸は「馬鹿はいつも元気で羨ましいね」などと微笑んでみせた。

 健康診断で大分神経を摩耗した美堂橋に、関戸に抵抗する気力は残されてはいなかった。そのまま三人はタクシーに乗り込み、仕事へと戻る。

 関戸、烏丸、この2名こそ、美堂橋と関わり合いを持とうと殊勝なことを思う極少数の人間なのだ。何かと三人でいることも多く、刑事局内では『異端児』と呼ばれているのだが、本人達はまるでその自覚がないことが一番の問題でもある。


 その日の夕方。

 仕事を終えた美堂橋は自宅への帰路とは別の道を歩いていた。健康診断があったため、やむを得ず定時を過ぎても仕事をすることとなったので時刻は9時過ぎ。夜闇を割くように歩く彼。

 吉祥寺駅から進み、日中とは顔を変えた小道を進む。そして見慣れた紫陽花の葉を一瞥してから、短い坂を登った。その先に現れたのは一件の店。

 月明かりに鈍く反射するステンドグラスが印象的な戸を開けようとしたが、そこで美堂橋は暫し動きを止める。だがしかし。

「開いているよ」

 中から聞こえた小さな声音に、そっと戸に手をかけた。ゆっくりと音をたてぬように開ければカウンターの上で小さく光りを灯すアンティーク照明に目を奪われる。

 その横で、柔和な笑みを浮かべる美しい男、もとい遥がいた。闇に溶け込むような黒のハイネック、男にしては白い肌が艶やかな黒髪と相俟って浮き上がるようだった。その顔立ちは美堂橋と酷似している。ただ彼の持つ独特の危ういような儚い雰囲気は、美堂橋とは異なっている。

「やあ、健康診断はどうだったんだね?」

 後ろ手で戸を閉めた美堂橋はそっとカウンターに近づき、向かい合うように椅子に腰掛ける。そんな美堂橋を見つめる遥の揶揄うような視線に苦笑を返せばふ、と笑われてしまった。

「仕事も慣れてきた頃だろう。梓はあまり体力がある方ではないのだから、こういう時期こそ気をつけなければね」

 遥は頬杖をつき、目を細めてみせる。甘やかすような表情は昔から変わらない。美堂橋が中学生の頃、店に遊びにいく度に甘い菓子を与えてくれたその表情と同じである。この歳になっても子供扱いされることは気恥ずかしくもあるが、遥にやめてくれと言ってもきっと聞いてはくれないだろう。

「叔父さんこそ、身体があまり丈夫ではないのですから。そろそろ定期検診の時期では?」

「ああ、そうだね。明後日あたりに行こうと思うが、何分天気が悪くなると聞いたのでね。店で読書に耽ってしまうかもしれない」

 この人は元より行く気がないのだな、と楽しそうな表情に溜め息を吐く美堂橋。そんな彼の視線が、叔父の手元にある一冊の画集に奪われる。少し身を乗り出し、反対側からそれを覗き込んだ。

「何を読んでいるのですか?」

「盛期ルネサンスの画家についての本さ」

 遥は「気になるかい?」と微笑をこぼす。画集から視線をあげた美堂橋の目に映るのは、先程の柔らかな笑みを浮かべる遥ではなく、何か熱情を秘めた双眸を持つ『sanctuary』の店主であった。カウンター内で音もなく立ち上がる叔父を見上げ、静かに彼の声に耳を澄ませた。

「ティツィアーノを知っているかい?」

「ティツィアーノ……ティツィアーノ・ヴェテェッリオですか? 確かイタリア生まれの画家だったと記憶しています」

 遥はうんうん、と数回頷く。薄明りの中、彼は恍惚とした表情を浮かべ語り始める。

「彼は16世紀のヴェネツィア派の画家で最も活躍したと言っても過言ではない。恐るべき彼の画歴は9歳の頃、ヴェネツィアの……そうだ、モザイク画家のセバスティアーノに弟子入りしたところから始まっている。美術史において最長寿だったはずだ」

 カウンター内をゆっくりと歩き回る叔父を見つめながら、美堂橋は不可思議な美術品に囲まれた中で響く叔父の声に居心地の良さを感じ、次第に意識を沈めていく。

 ふ、とどこか楽し気に微笑む遥は置き去りになっていた本を美堂橋の前までスライドさせた。従順に覗き込んだ美堂橋の目に映るのは、一枚の絵画。

「彼の作品で今尚、議論が交わされている『聖愛と俗愛』だ」

 横に長いその絵画には、三人の登場人物が描かれている。真ん中にキューピッド、左には服を纏った女性、右には対比するように裸体の女性がいた。

「絵を観た後に再度タイトルへと話を戻すと、皆服を纏った女性が『聖なる愛』を裸体の女性が『俗なる愛』を象徴しているのだと考える」

 遥はそこで不意に声を潜めた。

「それは間違いだ」

 絵の写真から顔をあげた美堂橋に、遥は優しく微笑むと言の葉を続けた。

「日本では裸体と言うとあまり純粋なイメージはないだろう。しかし梓も知っていると思うが、西洋において裸体とは『純潔』や『純白』を意味するのだよ、うん」

 自分自身の言葉を一つ一つ吟味するようにゆっくりと、しかし明瞭に美術史を語る遥の表情はまるで探検をする子供のようでもあり、官能的な遊びに興じる大人のようでもあった。蠱惑的な表情で美堂橋を見下ろすと、そっと本へと手を添える。

「まずは二人の女性の背景に注目してみよう。裸体の女性の背景はどうなっている?服を纏う女性のほうもどうだい?」

「……これは教会ですか? 動物も……嗚呼、牧場ですね。衣服も纏う女性のほうは暗然とした森や城があります」

「そう。酷く対照的だろう? 天気もそうだ。青空と曇天。対比が明らかではるが、その意とするところはまた別にある。この絵画は対立を描こうとしたものではないのだよ」

 美堂橋は暫し自分の中で意味を理解するように視線を虚空に漂わせた後、再度遥を見上げた。彼の双眸の中に自身が映り込む様は幻想的であった。

「裸体の女性が持つ壺は小さいだろう? そこから煙が出ているのだよ……そう、この写真では見えないかもしれないね。物質的なもののない燃える火の壺、これは『神性さ』を象徴している。さて、つまりどういう意味だろうか」

 視線に促されるまま、美堂橋は「聖なる愛……」と呟いた。

「そう『聖なる愛』の擬人象が裸体の彼女。絡みつけるように赤と白の布を纏っている。これは『慈悲』の象徴だ。それに対して服……こちらも赤と白だね……それを纏う女性はかなり大きく重そうな壺を掴んでいるだろう。その壺は地上における宝という意味だと解釈されている。地上の宝にしがみつく姿……『俗なる愛』の擬人象だよ」

 そこまで話を聞いた美堂橋の目には、最初に観た時と顔を変えた絵が広がっていた。

「では真ん中のキューピッドにも目を向けよう。乗りかかるようにしている櫃の中には水が張られている。そしてその中に手を入れ、かき回しているのが分かるかい?」

「はい。……ああ、『かき回す』……」

 美堂橋は何かにすぐ気づいたように言葉を反芻させた。満足気に頷く遥。

「対立するもの混ぜ合わせているのだよこれは。キューピッドの前にあるピンク色の薔薇も意味がある。赤い薔薇の意味は知っているかね?」

 即座に「ヴィーナスの……彼女の愛の象徴です」と答えてみせた。

「うん。けれどキリスト教では赤い薔薇はイエスの傷口や慈愛、聖母マリアの花とされているんだ。面白いだろう? では絵の中のピンク色の薔薇に戻ろうか。こっちの薔薇は周りに散らばっている。櫃の前には植えられた薔薇の木もあるだろう。どれも花弁の色はピンクだ」

 美堂橋はすぐにそれらが意味するものを連想する。切り取られた花はすぐに枯れることから「儚い快楽」や「束の間の命」。対して植えられた木は毎年花をつけ永続するために「結婚」という意味でも使われる。『聖なる愛』と『俗なる愛』に沿うような薔薇の表現である。

「さてここで女性達に再度注目しようか。―――彼女達の纏う布や服の色は?」

 美堂橋は僅かに目を見開いた。

 彼女達の服は赤と白―――……混ぜ合わせるとピンクという訳だ。

 ぞくりと背中が粟立つ感覚に襲われる美堂橋の顔を覗き込む遥。彼は最初に言っていたではないか、これは対立を描いたものではないと。

「肉体的な愛と精神的な愛。『聖なる愛』と『俗なる愛』をキューピッドが混ぜ合わせ、平等にしている姿だ。ルネサンスの思想でもあったヒューマニズム……信仰と人間性の調和というものをティツィアーノはこの絵画で表現してみせたんだ」

 一見しただけでは分からぬ細部にまで秘められた絵画の謎が、遥の口から美堂橋へと伝えられる。美しさの裏に隠された画家の意図を、こうして時を経た今、自分自身が知るという言葉にし難い経験に美堂橋は惹き込まれてゆく。

 そこでふわりと甘く微笑んだ遥。先程とはまるで表情を変え、「何か飲もう」とカウンターを出た。扉へと消えた背を見送った美堂橋は、静かに本へと視線を落とす。

「愛か……」

 感情が一切消えたような響きを孕んだ独白は、誰にも聞かれることはなかった。



    1


 ピクニックへ行こうと言ったのは、烏丸だった。

「あーあシート飛ばされるから何か上に置こうよー。あ、丁度いいや関戸、角に座っててよ」

「俺仲間外れすぎんだろ。会話にまざりたいんだけど」

 発案から優に1か月は経っていたが、全員が同日に休みをもぎ取れた本日。美堂橋達は代々木公園へと来ていた。普段は職場と自宅の行き来だけで精いっぱいの警察同期組は久しぶりに訪れたそこの長閑さに些か驚かされる。

 広々とした芝生の一角にシートを敷いたは良いものの、冒頭のようなやり取りばかりがなされ、騒がしいことこの上ない。

 美堂橋も関戸も烏丸も、それぞれ系統は違うものの顔立ちは整っているために元より注目を集めやすい。それに加えまるで幼稚園児の喧嘩のような会話がなされれば、余計に周囲からの視線は増えるのも必然であった。

「美堂橋はもっとこっち来いよ」

「構うな」

 陽射しが強い日中ということもあり、一人木陰の下で小さなシートを広げる美堂橋に関戸は「女子か」と肩を竦めた。しかし彼はそれを嘲笑するように鼻で笑い、背中を木の幹へと寄りかからせた。

「しかし……」

 美堂橋はなぜこんな誘いにのってしまったのかと、周りではしゃぎ回る子供達より声を張り上げる関戸と烏丸を眺めてみた。あまりに美しさに欠けた行為だ。

 やれやれ、と嘆息を吐き出した美堂橋は見て見ぬふりをしようと心に決め、バッグからファイルを取り出す。紙コップを配っていた烏丸が目敏くそれを発見し、行儀も悪く美堂橋に右手の人差し指を向けた。

「あ、みどーばし! 駄目だってここで仕事しちゃ」

「そうだぜ。今日くらい仕事を忘れろ」

 やいやい反論する関戸烏丸コンビに「煩い黙れ!」と叱咤する美堂橋は、さながら保護者のようでもあった。

 ―――と。

「お待たせしました。仕事が長引いてしまって……」

 白いワンピース姿の女性が三人に駆け寄ってくる。その瞬間に烏丸が物凄い勢いで立ち上がるとだらしなく破顔させた。

「朱里ちゃん!!!! 待ってたよ!!!」

 熱烈な歓迎に困ったように微笑む朱里を見て、美堂橋は人知れず嘆息を吐き出す。

 そう、今日は美堂橋、関戸、そして―――烏丸夫婦でのピクニックなのだ。