壱《二本足の八咫烏》



 夏の強い陽射しが、頭の上から容赦なく照りつける。

 真昼の太陽の光は、目の前を流れる川の水面を、固く、真っ白い、一枚の波硝子のように見せていた。

 ――あそこに向かって飛んだら、どうなるんだろう。

 橋の脇、歩道の真ん中に立つ私の足は、今にも欄干を乗り越えようとしている。

 学校指定の靴を脱いだ足には、真っ赤な鼻緒の白木の下駄。夏に入って間もないのに、今年一番の暑さを記録したせいか、あたりは静かで、車も、人も、通らない。

 だからきっと、私がここから飛び降りて川底に沈んでしまっても、誰にも気づかれないままになるに違いない。

 いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう。

 鼻緒がきつく食い込んで痛いということは夢ではないんだろう。夢でないとしたら、なぜ私は、血塗れの下駄を履いて橋から飛び降りようだなんて、そんな馬鹿な真似をしようとしているのか――


 それはまだほんの数時間前。私は自宅の最寄り駅のベンチに座り込み、蝉の声を背に途方に暮れていた。

 誰かが置きっぱなしにしていった新聞に記された新しい年号も、数年してようやく馴染んできたというのに、私は何年経っても、新しい環境に馴染めずにいた。

 それでも私は真面目にやることしか取り柄の無い、ともするとそれが自分の義務であるかのように思っているところがあるので、朝のまだ弱い光が、申しわけ無さげに射し込む中を、ただ黙々と学校へ向かって歩くだけの毎日を過ごしてきた。

 学校から帰って、それなりな夕食をひとりで取って、明日の支度をして、眠る。

 そんな当たり前で単調な毎日も、無くしそうになって、初めて尊かったとわかる。

 父が再婚すると、私に告げてきたのだ。

 中学の時に、母が死んだ。長いこと患っていたから覚悟だけはしていたが、母の死は私の心に大きな影のような染みを残した。

 どんなに大切に思っていても、どんなに一緒に過ごしても。いつかみんな、いなくなってしまう。その存在が大切であればあるほど、失うのが、怖い。

 ならいっそのこと。そういう大切な存在は、初めからいなければいい。

 そう思い決めて、母の死を境にあまり人と関わらなくなった私を心配し、父はよく食事に連れ出したり、会社から早く帰ろうと努力してくれていた。がしかし、それも次第にぎこちないものに変わり、気がつけば、元々母親っ子の私と、元々仕事人間の父は、口を利くこともほとんど無くなってしまっていた。

 朝起きると、父はもうとっくに会社へ行った後で。学校が終わり、家に帰っても、誰もいない。お互いまったく顔を見ない日もかなりあった。

 だから、ずっと気がつかなかった。父に、親しく付き合う女の人ができたことに。

 今朝、珍しく家にいた父の口から、その人と再婚するつもりがあることを告げられ、私の頭の中は真っ白になってしまった。

 訊きたいことはたくさんあった。けどこれは、訊いていいことなのか。訊いたところでどうなる。けど訊かなければ。いや、聞きたくない。知りたくない――両極を揺れ動く気持ちを抱えたまま、家にいるのは辛かった。

 どこか、遠くに行きたい。ここではないどこかに。

 通学鞄の代わりに、帆布で作られた大きく古い藍色の鞄を持ち出すと、張りつめた心を押し込めるようにして、着替えや日用品、教科書の類を詰める。いつもは校則違反にならないように制服のポケットに入れている、翡翠の玉を繋げて作られた母の形見の御守りを手首にはめなおすと、無言で家を出た。

 制服こそ着ていたけれど、どう見ても学校へ行くのではない荷物を抱えて、表へ出て行こうとしている私の姿を父は見たはずだ。なのに、行くなとも、出て行けとも言われなかった。

 私がどうしようと、もう父はお構いなしなのかもしれない。もしかすると、いなくなってくれたほうがなにかと都合がいいと思っているのだろうか――

 悔しさにも哀しさにも似た気持ちで、駅前の電話ボックスに入り、公衆電話の受話器を取る。どんなわけがあっても無断で休むのは良くない。私は、明日が終業式であるにもかかわらず、身体の調子が良くない、と嘘をついて学校を休んだ。

 2―3の能代百合です。風邪を引いて熱があるので、学校を休みます。そんな使い古されたありきたりな嘘の電話ひとつで、先生は疑うこともなくあっさり納得してくれた。能代はここのところ少し気を張りすぎたんだろう、皆より少し早い夏休みになるが、まずは体調を整えろ、なんて、心配までしてくれて。真面目な学生をやってきたことが、初めて役に立った瞬間だった。

 電話を切り、出てきたテレホンカードを生徒手帳にはさみ込むと、私は蒸し暑い電話ボックスを出て、駅構内へと向かった。

 最寄り駅はまだ通勤通学ラッシュの時間で混んでいた。大きな荷物を抱えて電車に乗るのをためらった私は、とりあえず上りホームのベンチに腰掛けると、そのまま人が少なくなるまで、何本も何本も電車を見送った。

 みんなどこかへ向かっていくのに、私は行くあてもなく、ただここで動けずにいる。そのことがたまらなく、情けなく身にしみた。

 これからどうなるんだろう。

 父が再婚したら、きっと暮らしは大きく変わる。どんなに忙しくても、あまり口を利かなくなっても、母の月命日にだけは早く帰って来てくれて、母が好きだったものを私が作って一緒に食べた。父も私も特に話さなかったけれど、そうしていると母が生きていた頃に戻ったような気がして嬉しかった。しかし、それももう、無くなってしまうのか。そう思うと、不意に涙がこぼれた。

 泣いている姿を、人に見られたくない。私は涙を拭こうと、鞄の中に手を入れて、ハンカチを探した。鞄の内ポケットにしまったお気に入りの小花柄のハンカチ。すんなり取り出せるはずのそれは、なかなか鞄から出てこない。見ると、内ポケットにはハンカチと一緒に、木の板のようなものが入っていた。

 なぜ木の板がこんなところに。疑問に思いながらハンカチと一緒にその板を抜き取ると、五角形の板には赤い紐が通っていて、表面には恵比寿様の絵が描かれていた。

 ――そうか。これは絵馬だ。

 この絵馬は母方の叔父が宮司をしている神社・清澄八幡のものだ。絵の描かれた表に対して、裏面にはなにも書かれておらず真っ新なままなのは、なにか願いごとをしようとして絵馬を買ったが、なにも書かずに絵馬だけ持って帰って来てしまったということなのか。

 あれは小学校に上がるか上がらないかの頃。母が入院した時に預けられていた清澄八幡での出来事は、いまでも不思議な記憶として私の中に残っていた。

 それまで自宅療養をしていた母がひどい発作を起こして入院し、初めて叔父さんのところに預けられたあの日。そびえる銀杏の木々を従え、凜と立つ鳥居をくぐった途端に、恵比寿様の像のあたりにいた白い鳩たちが、私の周りに集まって舞い飛んだ。見知らぬ場所でのひとりぼっちの夜に、百合ちゃん、大丈夫だよと囁くぬいぐるみ。ひとりでに頁がめくれ、読み聞かせてくれる不思議な本。まるで私を慰めるように、季節外れに咲いた、鳥居の外に一本だけ植えられている桜の花。そして、そんな桜の木の下で出会った、冠の無い金色に輝くお内裏様――

 今にして思えば夢か幻のような、八幡様での不思議でおぼろげな記憶は、電車の発車を告げるベルの音に、その輪郭を鮮明に結ぶ前にほろほろと解けていく。

 叔父さんの元を訪ねたら、あの鎮守の森はまた、私を優しく迎えてくれるだろうか。しかし訪ねていこうにも肝腎の詳しい場所を覚えておらず、連絡先も控えて来なかったので、どこで電車を降りたらいいかさえわからなかった。

 やはり、家に戻るしかないのか。

 けれど、戻ってどうするというのだ。父にだって、再婚して幸せになる権利はある。それを拒むなら、やはり私のほうが出て行かなくてはいけないのかもしれない。

 そうなった時、私は、いったいどこに行けばいいのだろう。

 私は鞄の中の筆箱からサインペンを取り出すと、真っ新な絵馬の裏に、今の思いのたけを書いた。

 ――私の居場所がみつかりますように。

 願いというには、あまりに漠然としている。けれど、私にとっては切実な問題だ。これからのこともそうだが、さしあたって今夜泊まるところも決めなくてはならない。

 お小遣いをこつこつ貯めた郵便貯金を引き出せば、一週間や十日くらいなら泊まり歩けるはずだ。その間に、今後のことについて考えたい。

 思いがけず見つけた絵馬のお陰で涙に区切りをつけられた私は、絵馬を鞄の奥へとしまい、やってきた電車に乗り込んだ。

 泊まるところの多い都心に出るか、それとももっと先へ行くか。ラッシュを過ぎた車内は人影もまばらで、少し先の駅に着くと、乗っていた人たちがこぞって降りてゆき、私は取り残されたみたいに、車両内にひとりだけになってしまった。

 電車はまるで息継ぎをするように、ゆらゆらと微かに揺れながら、発車までしばし扉を開け放って、他の乗客が来るのを待っていた。

 運転間隔の調整が云々。やけに聞き取りづらい、しわがれた声の車内放送に耳をそばだてていると、その声をかき消すように、バサバサガサガサ、という音が、あたりに突然響いた。

 ――真っ黒なボロ布のような、大きな烏がいる。

 けれど烏がそんなに大きいはずはないのでよく見ると、それは烏ではなく、背の高い男の人だった。

 袂がまるで烏の翼のようにも見える黒い羽織。夏だというのに首に黒いマフラー。黒い長袖のTシャツにジーンズ。履き潰したスニーカーという滅茶苦茶な格好のその人は、烏さん、とでも呼ぶのが相応しく、乗る時に躓いたのか、車内に盛大に乾物の小袋をぶちまけていた。

 項垂れたまま溜息をつき、屈み込んで乾物を拾い集める彼の背中には、大きな烏の紋。和服のことは詳しくないが、随分大胆な羽織だ。

「あの、お手伝いします」

 袋は遠くまで散らばってしまっていて、拾い集めるのに難儀している様子に、自然と手が出た。拾い上げて袋を見ると、焼きめざしに切り烏賊、落花生、等々。どれも美味しそうだったが、あまり口にする機会のない物ばかりだ。

「お、すまないね、娘さん。こいつにはどうにも乗り慣れなくてな」

 昔の人みたいな口調なのに若い声に違和感を覚えて顔を上げると、すぐ目の前に烏さんの顔が。そのきりっとした色白の涼しげな顔は、私より少し年上くらいの年齢に見える。真っ黒な髪は無造作に後ろに流されているが、男の人にしては長めで、どうかすると結い上げられそうな――

「……拾ってもらっといてなんだが、それ、売り物なんだ。返してくれるか」

「す、すみません」

 じっと見ていたことを咎められたように感じ、思わず身をすくめてしまう。私は無意識のうちに、拾った乾物を我が物のようにぎゅっと抱きかかえる格好になっていた。

 返さないつもりじゃなかったんです。小声で言い訳をしながら乾物を返すと、烏さんは黙ってそれを受け取り、丁寧に風呂敷に包み直した。あんなにたくさんの乾物がどうやってしまわれていたのかと思ったが、器用に重ねられ、ひとつの袋を除いて、一枚の布の中にすべて収まってしまった。

「拾ってくれた礼だ。持ってけ」

 目の前に差し出された乾物の袋には、干し芋と書かれていた。とても美味しそうだが、あれくらいの手伝いでお礼なんて貰ってしまっていいのだろうか。

「あの、結構です。その……拾っただけでこんな……」

「いいから。持ってけって」

 半ば押しつけられるように、袋を渡される。きりりと濃い眉毛に、意志の強そうな目をした烏さんには、これ以上断ったら怒って噛みついてくるんじゃないか、と思うくらい、有無を言わせない雰囲気があった。

 彼が通路を挟んだ向かいの席に倒れ込むようにして腰掛けると、間もなく発車のベルが鳴り、私たちの他は誰もいない車両内に、吊り革が揺れる音が小さく響き、電車がゆっくりと動き出した。

 やがて電車は、通っている女子校のある駅を過ぎた。見覚えのあるホームが遠くなり、地下へと潜る。明るい地上から闇の中へと閉塞していくその景色に、自分の今までとこれからを見せつけられたような気がして、私は俯いてしまった。

 子供染みた甘えを捨てられず、未だに母の死を乗り越えられていない。高校二年生といえばもう大人と言ってもいい歳なのに、家族が幸せになろうとしているのを素直に応援することすらできないなんて。

 母が見ていたら、今の私をどう思うんだろう。左腕にはめた形見の御守りを見つめて、ふと考え込む。

 沈み込みそうになる気持ちを紛らわそうと、私は手に掴んだままの干し芋の袋に目を遣った。

 こうやってまじまじと干し芋を見たのは叔父さんの家でお茶受けに出てきた時以来だったか。切られて干されてこの大きさなのだから、元のお芋はさぞ立派だったのだろう。粉砂糖をまぶしたように白い糖を吹いた干し芋は食欲をそそる。確か叔父さんは、ストーブの上の網に載せて焼いていたような……

「なんだ。おまえさんもしかして、その包みの開け方がわからねえのか」

 干し芋の袋を見つめていると、烏さんがやけに愉快そうに、含み笑いをしながら話しかけてきた。これが喋り方のとおり年配の方なら、こちらが若輩なのだから素直に引き下がるところだが、たいして歳の変わらなそうな、おかしな格好の人に袋が開けられない、と思われて笑われるのは些か納得がいかない。否定しようとしたが、その前に干し芋の袋をひょいと取り上げられてしまった。

「見てろ。俺が開けてやる」

 私の前に立ちはだかるように立った烏さんは、袋に手をやると、袋の口の横のところについている切れ目から、つつ、と真横に封を切った。

「どうだ。手で開けてやったぞ。驚いたか」

 ……切れ目がある袋が手で開けられるのは当たり前だ。なのになぜ、この人はこんなに誇らしげにしているのだろう。格好はともかく口調は真剣で、私をからかっているという感じではないのが逆に気にかかる。

 しかし。どんな時でも、どんな人にでも、親切にしてもらったらお礼を言うこと。そう教えてくれたのは母だ。母のように、ありがとうとごめんなさいがきちんと言える人間でありたい。たとえそれが、ちょっと変わった人相手だったとしても、だ。

 ためらっているうちに既に席に戻ってしまった烏さんにお礼を言おうと、私は意を決して席を立った。

「あ、ありが……」

 ありがとうございます。そう言いかけた時、けたたましい音と共に、私の身体は大きく前へと傾げていった。



 それから十数分後。私と烏さんは、座席に並んで座りながら、電車が動き出すのを待っていた。

 前を走る電車が異音を感知した、とのことで電車が急停車し、私たちは駅と駅の間で足止めをされてしまったのだ。

 ……なんてついてないのだろう。

 そう思ってしまうのは、電車が止まったからというだけではない。私は御守りを失くして寂しくなった左手を擦りながら、思わず溜息をついた。

 急ブレーキに体勢を崩した時、私は咄嗟に、空いていた左手で吊り革を掴もうとした。慣れない挙動に左手は空しく空を掴んだだけ。転ぶ、と思った瞬間、左腕を強く掴まれた。

 烏さんが、私を助けてくれたのだ。

 危うく頭から転げてしまうところを支えてもらい、なんとかその場をしのぎ切る。なんだかまるで映画の一幕のようだ、と言っても過言じゃないその光景は、烏さんの慌てた声とともに一瞬で崩れた。

 私を支えようとしてくれたはずの烏さんは、よろけて大きく体勢を崩し、私の手を引いたその勢いのまま、後ろ向きに倒れ込んだ。当然、私も道連れになり、気がつけば私は、烏さんに乗りかかるようにして、床に思い切り転がってしまっていた。

 びっくりするほど硬い胸板に、ぎくりとなる。

 そのまま大人しく転がっていれば、それ以上のことは起きなかっただろう。しかし、男の人の上に乗っているという焦るのに十分な状況は、私を、そして乗りかかられたほうの烏さんをも大いに混乱させた。

 掴み掴まれた手を互いに慌てて振りほどいて身体を起こしたその時、左手首の違和感とともに、手首の御守りが、千切れた。

 小学校の頃母に貰って以来、ずっと身につけていた御守りは、最初はぶかぶかだったが、今はぴったりの長さになっていた。それが突然無くなった喪失感に、寒気にも似た感覚を覚え、心許なくなる。

 御守りは、きれいな淡い緑色の翡翠の玉が十七個連なってできていたのだが、探し集められたのは十六個。烏さんとふたりで電車の中を隅から隅まで探したが、どうしても最後の一個は見つけられなかった。


「本当にすまねえ、俺のせいで……」

 烏さんは気まずそうに頭を掻きながら、さっきから何度となく繰り返しているその言葉を再び呟いた。

 作られてから随分経ったものだし、いつかはこうなる運命だったんだろう。私が不用意に立ち上がって転んだせいで、壊れるのが早まってしまった、それだけのことだ。

 責めるつもりはないのをわかってもらいたくて、私は大きく手を横に振った。

「そんな、いいんです。こちらこそその……すみません」

 上に乗ってしまってごめんなさい、と口に出して言うのはなんだか気恥ずかしくて、つい曖昧な言い方になってしまう。

「あれが壊れちゃ、おまえさん困るだろう。これからどうするんだ」

 烏さんは、外の様子に目を遣りながら、眉を顰めた。地下に入った状態で止まった電車の外の景色は、いやに湿っていて不気味に映る。

「これからどうするって……壊れたといっても玉がひとつ無くなっただけですから、新しい玉を用意して直せばすみます」

「そうは言ってもな……このままじゃおまえさん、絡まれるだろう」

 口元を押さえ、考え込むように座席にもたれると、烏さんは深い溜息をついて黙り込んだ。

 ――絡まれる。

 話の中に唐突に混ざり込んできた物騒な響きの言葉に、妙な緊張が走る。

「絡まれるって……なにに、ですか」

「まだ気づいてないのか。窓の外を見ろ」

 外を見ろと言われても。地下なのだから、特になにも見えないはずだ。窓に水滴が増えているのが気になるといえば気になるが、これがどうかしたというのだろうか。訝しみつつ外を見ていると、その水滴が、上から下へ、さあっと流れ出した。

「え、雨……?」

 まさか。地下に雨が降るわけがない。私がうろたえていると、烏さんは「あれは涙雨だ」と呟き、窓から離れるように警告してきた。

「涙雨って、哀しい時に、まるでその気持ちを代弁するかのように降る雨のことですよね。それがどうして……」

「……あれは人の哀しみや嘆きに呼ばれて来る物の怪だ。ただの雨だと舐めていると、心を持っていかれるぞ」

「物の怪……?」

「大方、おまえのそういう気持ちに惹かれて来たんだろう。心当たりはないのかい」

 ……心当たりはある。だからといって、雨が物の怪だなんて、そんな馬鹿げた話を鵜呑みにするわけにはいかない。

 確かに子供の頃――そう、あれはちょうど清澄八幡に暫く預けられていた頃からだ。三鷹の自宅に戻ってからも、八幡様にいた時ほどではないにせよ、不思議なものを見かけたり、ありえない出来事が起こることが何度もあった。が、それを告げる度に、友達や学校の先生たちに「それは気のせいで、たぶん寝ぼけていたんだよ」と言われてきた。それでも意地を張って、いるんだ、見えるんだと言いはった私を母は随分心配して、百合に御守りをあげる、と言って、あの翡翠の御守りをくれたのだ。

 その時の母が、とても困ったような、申しわけなさそうな顔をしていたのを、今でもはっきりと覚えている。恐らく、私がおかしなことを言い出し始めたのは、自分が入院して家を空けてしまったせいだと思って、気に病んでいたのだろう。

 そんな母の手前、もういい加減真に受けたりしてはいけない。皆の言う通り、それは気のせいだったのだ。現にいつの頃からか、そう言った類のものを見かけることは無くなっていた。

 この烏さんは、大人になってもそういうことを信じている人なのだろうか。それとも、私を子供扱いしているだけなのか。からかっているだけなら止してください、と言いたかったが、地下なのに降る雨に、烏さんの言葉を否定しきれない自分がいた。

「今からこれじゃ先が思いやられるな。仕方ない、これもなにかの縁だ。おまえさん、家はどこなんだ」

「え、ど、どこって……」

 なぜ突然、そんなことを訊くんだろう。いやにまっすぐ見据えられ、怖く感じた。

「家まで送ってやる。その後はまあ、そうだな、とりあえず代わりに……」

「ちょ、ちょっと待ってください。送るだなんてそんな、困ります」

「あの守りを失くしてすぐこの有様だ。先々なにが起こるかわからねえぞ」

 烏さん曰く、私のしていた御守りは、しかるべき形で作られた、魔除けの御守りなのだという。元来そういうものを引き寄せたり、絡まれたりしやすい人が持つもので、失くしてしまったらなにに巻き込まれてもおかしくないのだとか。

「な、なにかの間違いじゃないですか。母から貰った時はそんなこと一言も聞かされてないです。ただ、いつも肌身離さず身につけていなさいって、それだけで……」

「まあ、詳しく話しても怖がらせるだけだと思ったんだろう。兎に角だ。それを直すまで、あまり表を出歩かないほうがいい。代わりに護符をやるから、それを……」

「待ってください、私は、その……」

 物の怪だの、護符だの、見ず知らずの変わった人に妙なことを立て続けに言われ、私はすっかり構えてしまった。この烏さんは、倒れた時も怪我はないかと随分気にかけてくれたし、すらりと高い背を低く屈めながら、翡翠の玉を一緒に探してくれたりもした。鋭い眼差しも、よく見ると思いのほかいろんな表情を持っていて、どうかすると優しそうにも見えた。格好も言動もちぐはぐだが、悪い人ではないのだろう。ないのだろうけれど、やっぱり、怖い――

 曖昧な態度でいると、押し切られてしまうかもしれない。きちんと断りを入れようと、烏さんの顔色を窺う。電車が動き出すや否や無言になってしまった烏さんは、妙に緊張した面持ちで、なぜか座ったままがっちりと手すりを掴んでいた。

 その怒っているようにも見える雰囲気に気圧されて、私は横に置いていた荷物を、思わず胸に抱きかかえた。

 次の駅で降りよう。家まで送る、と言われて、本当にそれだけで済むかなんてわからない。怖がらせるだけ怖がらせて、私が頼ったところを、どこかに連れ込む気なのかもしれない。実際過去に、制服姿で家出同然に出歩いていて、その手のトラブルに巻き込まれた同級生がいた。この烏さんはどちらかというと繊細そうで、そういうやましいことを考えるような下品な人には見えないけれど、服装はともかく背も高くて整った顔をしているし、女の人を扱い慣れていそうだ。私みたいな右も左もわからない小娘なんて、軽い気持ちで遊ばれてしまう、ということもありえるだろう。

 そんなことになったら、きっと死んだ母も、もちろん父だって悲しむだろう。どんなに親切な人でも知らない男の人だ。嫌なものは嫌、駄目なものは駄目、とはっきり意思表示しなくては。

「すみません、私、その……失礼しますっ」

 次の駅、門前仲町に着いて扉が開いた途端、私は鞄を抱え、早足で電車を降りた。

「おい、ちょっと待て、どこに行くんだ」

 どうしよう、追いかけてくる。背後から大きな声で何度も呼びかけられると、だんだんと怖さが募って、悪い人じゃないのかもしれない、なんて考えはすっかりどこかに行ってしまい、とにかく逃げ出さなくては、と、私は必死に駅の構内を駆けた。

 普段よく歩いていて、足腰の強さには少しだけ自信があった私は、呼吸を止め、全速力で走った。が、残念ながら、烏さんの足のほうがずっとずっと速かった。

「よし、追いついた」

 万事休す。改札を通ったところで、鞄の肩紐を掴まれる。振り返り見ると、烏さんは息も切らさず、今にも噛みついてきそうな険しい顔をしてこちらを睨んでいた。

「ひとりで行こうとするな。危ないぞ」

 危ないのはあなたです。離してください――迫ってくる烏さんに、声を荒らげようとした瞬間、烏さんが不意に動きを止めた。

「むっ、なんだこいつ、いきなり閉じやがったッ」

 改札の扉に挟まれ、立ち往生している烏さん。自動改札機はけたたましい音を発しながら、彼を足止めしていた。

「なんだおいっ、なぜ通れない。どうすりゃいいんだ、なんとかしてくれ」

 なんとかしてくれって。恐らく切符を改札機に通していないか、料金不足なだけなのに、気づかないんだろうか。

「……ごめんなさい、さようならっ」

 追いかけてきた時の強面はどこへやら、可哀想なくらいうろたえている烏さんを振り切っていくのは、なんだか少し気が咎めたが、仕方がない。

 私は烏さんの手を鞄から振りほどくと、振り返りもせずに、再び駆け出した。


 地下鉄の駅を出て、高架下を通り、ひたすら駆け続けた私は、気がつくと川沿いの道を伝って、亀久橋という橋の上へと辿り着いていた。

「ここまで来れば……もう平気かな……」

 慌てて逃げて来たはいいものの、これからどうしよう。駅に戻ると烏さんと鉢合わせしてしまいそうだから、暫くこのあたりで時間を潰したほうがいいかもしれない。喫茶店とか、食堂とか、どこか休めるところがないか訊ねたかったが、真昼のうだるような暑さのせいか人通りはなく、川沿いに植えられた木々から蝉の鳴き声が聞こえてくるだけだった。

 ジワジワという蝉の声。照りつける太陽。陽の光は川面に照り返されて、私の目にチカリと飛び込んでくる。眩しさに目を細めながら橋を渡ろうとしたその時。橋の脇にある歩道のちょうど真ん中のあたりに、なにか四角いものが落ちているのが見えた。

 それは、白い桐の台に、深い赤色の鼻緒が挿げてある、一組の下駄だった。

 なんでこんなところに下駄が。誰かが落としたにしては不自然なほどきっちりと揃えられているその下駄は、つま先を川のほうに向けていた。

 今にして思えばどう考えても不吉なその下駄を手に取ると、私はどうしたことか、履いてみたくて履いてみたくて、堪らなくなってしまった。

 暑さに中たっていたのか。それともなにかに取り憑かれたのか。見えないなにかに急かされるように裸足になると、私は鼻緒に足の指をくぐらせていた。

 まるで誂えたみたいにぴったりな下駄の鼻緒は、なぜかしっとりと湿っていた。足を動かすたびに鳴るからころ、という音に、夏を感じたのも束の間。足が急に、鉛のように重く、灼けるように熱くなった。

 途端、こみ上げる焦燥感。追い詰められたように、心が忙しなくなる。

 ――熱い。熱い。熱くて乾いたこの世の中は、ふかい地獄の釜の底。

 おなじ地獄の底だとて、水の中なら冷たいか。乾かないだけいくらかましか――

 低い耳鳴りのように、遠くから聞こえてくる不思議な歌。耳を塞ごうとした手は、なぜか橋の欄干を掴み、足はそれを乗り越えようとしていた。


 ――烏さんの言う通り、私はなにかに絡まれてしまったのだろうか。

 こうなるまでを振り返って後悔してみたが、もう遅いのはわかっている。それでも私は自らの不可解な行動に抗おうと、いくらかの抵抗を試みた。

 が、歌は途切れず、私を追い立ててくる。次第に意識が朦朧となり、歌の一節を口ずさんでいる自分に気づく。

「水の中なら……冷たいか……」

 足が、いや、全身が、灼けるように熱い。あの水面へと身を躍らせたら、どんなに楽になるだろう。きっと、苦しいことも辛いことも無くなる。すべてが無くなるわけじゃないのかもしれないけれど、こんな焦れたような、ひりついたような気持ちに駆られることは無くなるんじゃないか。どうせなら、冷たい水の底で、ひとり凍えながら永遠に眠りたい……

 ――違う。これは私の気持ちじゃない。

 確かに私は、辛いことがあって家を飛び出してきた。けれど、永遠に眠りたいなんて思ってない。だってそれは、どんなにきれいな言い方をしても、死にたいってことじゃないか。

 母が亡くなった日、なにもかも失くしたと思って、気力が根こそぎ消えた。けれど、死んでしまいたいとは思わなかった。いや、思ってはいけない、そう思ったのだ。

 母の後を追うように死を選ぶのは、産んでくれた母を否定しているようなものだ。それだけは、どんなことがあっても、できない。

 しかし。そんな私の意志に反して、足は勝手に欄干をよじ上ろうとする。食い込む鼻緒からは血が滴り、いつの間にか下駄を真っ赤に染め上げていた。

 助けて。そう呼んでも、まるで避けられているみたいに、誰も通りかからない。二枚歯の下駄でよろけながら細い欄干の上に立ち上がると、水面がこちらに迫ってくる錯覚にとらわれる。不安定な足下は、今にも足を滑らせて川へと落ちていきそうだ。

 こんなに重くなった足で川に飛び込んだら、きっと浮き上がって来られない。

 はっきりそうわかっているのに、私の身体は水面へと吸い寄せられるように、前へゆっくり傾いた。

 頭ががくりと下を向き、景色が反転する。もうだめだ。絶望に固く目を閉じたその刹那。すぐ後ろで風を切るような音が聞こえ、身体を力任せに引き戻された。

「おいッ、気を確かに持てッ」

 淀んだ空気を切り裂き、私を現実へと引き戻してくれたのは、さっき駅で振り切ったはずの烏さんだった。

「あの、あの……足、下駄が勝手に……っ」

 烏さんに抱え上げられるようにして助けられたものの、それでもなお私の身体は、尻餅をついた格好のまま、下駄を履いた足でもがきながら欄干へと向かおうとする。慌てて下駄を脱ごうとすると、烏さんに制された。

「無理に脱ぐな。一緒に足の指も落ちるぞ」

 この下駄は血染めの駒下駄と呼ばれている、下駄が物の怪に姿を変えたものだ。履いた者は皆なぜか、この仙台堀に身を沈めちまう。

 険しい顔でそう言うや、烏さんは私の前に立ちはだかった。

「今楽にしてやる。随分苦しんだろう」

 そう呟くと、烏さんは袂から細長い、鞘に包まれた小刀のようなものを取り出した。その目は獲物を狙う烏のように険しく鋭い。

「まさか、足ごと切る気じゃ……」

「安心しろ、祓うだけだ」

「祓う……?」

 鞘を抜き放つと、烏さんは私の足下で、構えた腕を舞うように振るい始めた。空にはいくつもの黒い軌跡が、まるで墨で書いた文字のように残る。

 ――祓。凜とした掛け声とともに、大きく真横に線を引く。長いひとつの文のように連なった軌跡を切り裂くその線から逃れるように、私の足から離れた下駄は、一瞬膨れたように大きくなると、水に姿を変えて、消えた。

「む、仕舞えなかったか、しくじった」

 きっと相当思い残しているに違いない。烏さんは溜息をつくと、持っていた刀を、ふっと一振り振るった。よく見るとそれは刀ではなく、一本の筆だった。

 筆の穂先を舌先で整えてしまい込むと、烏さんは私の手をおもむろに取り、その場に立たせてくれた。

「足に怪我は無さそうだな。あの血は鼻緒から染み出たもんだが、驚いたろう」

「え、ええ、まあ……」

 制止を振り切って逃げてきてしまった手前、烏さんの顔を見るのが気まずくて、俯いて曖昧に答えることしかできない。

 やっぱり絡まれていたか。その呆れを含んだ物言いに、下を向いたまま顔が上げられなくなる。

「あの、さっきのって、神主さんのお祓いのようなもの……ですか。その、立派なお仕事……ですよね。なのに、私……」

 黒ずくめの羽織姿に筆という出立ちは、神主さんの装束みたいにわかりやすいものではなかったけれど、見た目だけで怪しいと決めつけてしまったのは、やはり良くないことだった。

「忠告を聞かなかったこと、反省しています。それからその……助けてくれて、本当に、ありがとうございました」

「……お仕事ねえ」

 溜息まじりの声と共に、下げたままの私の頭になにかが乗せられる。かさりとした感覚に驚いて頭を上げると、その拍子にそれがするりと滑り落ち、襟首の隙間から背中に――入り込んだ。

「ひゃ、な、なに!?」

「うまいこと背中に入ったか。こりゃあ傑作だ」

 慌てる私をよそに、烏さんはまるで堪えきれなくなりました、とばかりに肩を震わせ、笑い出した。

「俺みたいなのに、神に仕える仕事なんて務まるわけがない。まったく、どいつもこいつも買いかぶりが過ぎる」

「え……?」

「俺は弥次ってんだ。今おまえさんの背中に入ってるもんなんかを売って歩いてる」

 引っ張り出したシャツの裾から、ころり、と地面に落ちたのは、からからに乾いためざしだった。