僕と霧子の間で文通が始まったのは、十二歳の初秋のことだった。あと半年で卒業という時期だったが、僕は父親の仕事の都合でそれまで通っていた小学校を離れることになった。転校。それが、僕と霧子を結びつけるきっかけになった。

 十月の末で、最後の登校日だった。夜には町を発つことになっていた。本来であれば貴重な一日なのだろうが、もともと僕には友人らしい友人が二人しかおらず、その片方は体調不良で欠席、もう片方は家族旅行で欠席していた。だから一人ぼっちでその日を過ごすことになった。

 四日前に行われたお別れ会で同じ文言ばかりの寄せ書きと萎れた花束を受け取ってからというもの、同級生は僕と顔をあわせるたびに「あれ、まだいたの?」とでもいいたげな表情を浮かべるようになっており、教室は居た堪れない空間と化していた。僕は既にここに含まれていないのだ。そう切に感じた。

 僕の転校を悲しんでいる者は一人もいなかった。その事実は寂しくもあったが、同時に僕を勇気づけもした。この転校によって僕から失われるものは、何一つとしてない。それどころか、新しい出会いを提供してくれさえするのだ。

 次の学校では上手くやろう、と僕は思った。また転校するようなことがあったら、そのときはせめて、二、三人には別れを惜しんでほしいから。

 授業が終わった。僕は机の中の教科書類をしまった後も、バレンタインデーの放課後に未練がましく教室に居残る男の子のように、ぐずぐずとランドセルの中を無意味にかき回していた。〈ひょっとしたら、誰かが最後に温かい言葉をかけてくれるかもしれない〉と期待せずにいられるほど僕は大人ではなった。

 最終登校日の心温まる思い出を諦めかけた頃、何者かが正面に立つ気配があった。紺のプリーツスカートと、細い脚。僕は緊張を悟られないように何気なく顔を上げた。

 そこにいたのは、三年生の頃から秘かに想いを寄せていた青山倖でも、図書室で会うたびに首を傾けて笑いかけてくれた望月沙耶でもなかった。

「一緒に帰ってもいい?」

 日隅霧子は、生真面目な顔で僕に訊いた。

 霧子は、眉の上で真っ直ぐに切り揃えられた前髪が印象的な女の子だ。内気な子で、囁くような声でしか喋らず、いつもぎこちない笑みを浮かべて俯いている。成績も平凡で、教室では目立たない存在だった。

 それまでほとんど会話らしい会話をしたことのない彼女が、なぜ今日に限って僕に声をかけてきたのか、不思議でならなかった。彼女が青山倖や望月沙耶ならよかったのに、と僕は内心がっかりした。しかし誘いを断る理由もない。「別にいいけど」と僕がいうと、霧子は俯いたまま「ありがとう」といって微笑んだ。

 帰り道、霧子は終始無言だった。ひどく緊張した様子で僕の横を歩き、時折、何かいいたげにこちらの顔を盗み見ていた。僕としても何を話せばいいのかわからなかった。明日この地を去る人間が、それまで特に仲よくしていたわけでもない相手に語るべきことなどあるだろうか? そもそもそれ以前に、同い年の女の子と二人きりで帰るなど初めてなのだ。

 互いにもじもじしているうちに、ついに一度も言葉を交わさないまま僕の家に着いてしまった。

「それじゃあ」

 小さく手を振り、霧子に背を向けて玄関のドアノブに手をかけた。そこまできて彼女はようやく決心がついたらしく、僕の手を掴んで引き止め、「待って」といった。細く冷たい指の感触に戸惑った僕は、必要以上に素っ気なく訊いた。「どうした?」

「あの、瑞穂君に一つ、お願いがあるんだ。聞いてくれる?」

 僕は首の後ろを掻いた。困ったときの癖だった。

「聞くには聞くけれど……明日転校する僕が、君にしてやれることなんてあるかな?」

「あるよ。それどころか、明日転校してしまう君にしかできない頼みなんだ」

 掴んだ手をじっと見つめながら、彼女はいった。

「手紙を書くから、それに返事を書いてほしいの。そうしたら私はまた返事を書くから」

 僕は少し考え込んだ。「それはつまり、文通がしたいということ?」

「そう。それ」霧子は恥ずかしそうにいった。

「どうして僕なんだ? もっと親しい人とやった方が楽しいと思うんだけど」

「だって、近くの人と手紙を出しあってもつまらないでしょう? 私、遠くにいる人に手紙を出すことに、昔から憧れてたの」

「でも、手紙なんて書いたことがないよ」

「じゃあ私と一緒だね。がんばろう」

 掴んだ僕の手を上下に振って、霧子はいった。

「待ってよ、いきなりそんなこと頼まれても……」

 しかし結局、僕は霧子の頼みを引き受けた。年賀状以外に手紙らしい手紙を書いたことのない僕にとって、その時代遅れの発想はかえって斬新で興味深いものに聞こえた。初めて同い年の女の子に真剣に頼みごとをされて舞い上がってしまい、断るに断れなかったというのもある。

 霧子は安堵したように溜息をついた。

「よかった。断られたらどうしようかと思ってたんだ」

 僕の転居先の住所を書いた紙を受け取った彼女は、「お手紙、待っててね」といって微笑み、僕に背を向け小走りで帰っていった。さよならもいわなかった。彼女の関心は僕が書く手紙にあるのであって、生身の僕にはなかったのだろう。

 転校後、すぐに手紙が届いた。

「何よりもまず、私たちは、お互いのことを知るべきだと思います」と手紙には書かれていた。「ですから、まずは自己紹介をしましょう」

 離れ離れになった同級生と今さら自己紹介をしあうというのも奇妙な話だが、他に書きたいことがあるわけでもなかったので、僕は彼女の提案に従った。

 文通を始めてからしばらくして、僕はある発見をした。この日隅霧子という女の子、転校前はまともに口をきいたことがなかったのだが、手紙に書いてくる内容を見るに、どうやらあらゆる価値観が僕と酷似しているようなのだ。

〈なぜ勉強をしなければならないのか〉、〈なぜ人を殺してはいけないのか〉、〈才能とは何か〉。僕たちはそういう、教育の早い段階で大人に思考停止を強要される類の物事について一から考え直してみるのが好きだった。〈愛〉についても、僕たちは恥ずかしいくらい真面目に議論した。

「瑞穂くんは愛というものについてどう考えていますか? たびたび友人たちが口にするその単語の意味が、私には未だによくわかりません」

「僕もよくわかりません。キリスト教では一口に愛といっても四種類の愛があるそうですし、他の宗教においても同様に複数の愛があるそうなので、お手上げです。たとえば僕の母がライ・クーダーに向ける気持ちは確実に愛ですが、僕の父がオールデンのコードヴァンに向けるのもまた愛でしょうし、僕がこうして霧子に手紙を送るのもある種の愛なのだと思います。色々です」

「さりげなく嬉しいことをいってくれるのですね。ありがとう。瑞穂君の言葉を聞いて思ったのですが、私のいう愛と友人たちがいう愛は、多分定義からして違うのでしょう。だから軽々とそれを口にする彼女らをうさんくさく感じるのかもしれません。私がいっているのは、もっと少女じみた、ロマンティックな〈愛〉のことです。映画や本ではよく目にするけれど、現実では一度も見たことのない、家族愛や性愛とは異なるものとされている〈あれ〉です」

「僕も〈あれ〉が実在するのかどうかについては、未だに半信半疑です。ただ、もし霧子のいうような〈愛〉が実在せず、どこかの誰かが勝手に作った概念なのだとしたら、逆に感動的である気もします。遥か昔から、愛は数々の美しい絵や歌や物語が生まれるきっかけとなってきました。もしそれが作り物だったというなら、〈愛〉というのは人類最大の発明、あるいは世界で一番優しい嘘ではないかと思うのです」

 等々。

 何について語りあっても、僕らの意見は生き別れの双子のように一致した。霧子はその奇跡を、「まるで魂の同窓会みたいですね」といった。僕にとっても、それはしっくりくる表現だった。魂の同窓会。



 霧子との関係が深まっていく一方、僕は転入先の小学校に上手く馴染めないままだった。卒業して進学すると、そこでいよいよ本格的に孤独な学生生活を送ることになった。教室では口を利く相手が一人もいなかったし、部活でも必要最低限の会話を交わすだけで、個人的なあれこれを語りあう相手はやはり一人もいなかった。これでは転校前の方がまだましだった。

 霧子は中学に入ってから何もかもがよい方向に転じたらしく、手紙に書かれているのは彼女が幸せに過ごしている証ばかりだった。何人かの素敵な友人ができたこと。部活仲間と毎日遅くまで部室に残って馬鹿話をしていること。文化祭の実行委員に選ばれたおかげで学校の普段入れない教室に入れてもらえたこと。クラスメイトと屋上に忍び込んで昼寝をして、後で教師に叱られたこと。等々。

 そういった手紙に対して、僕の惨めな現状をありのままに綴った手紙を返すのは気が引けた。向こうに妙な気遣いをさせたくなかったし、弱い人間だと思われるのも嫌だった。

 おそらく彼女は僕が悩みを打ち明ければ、親身になって話を聞いてくれたことだろう。しかし僕はそんなことは望んでいなかった。霧子の前では、どこまでも格好つけていたかったのだ。

 そこで僕は手紙に嘘を書くことにした。彼女に負けないくらい充実した生活を送っているという体で、架空の学校生活を便箋の上に描いた。

 最初は強がりに過ぎなかったその行為は、けれども次第に、僕にとって一番の楽しみになっていった。どうやら僕は、演じる楽しみに目覚めたようだった。極力不自然な点を排除して、〈湯上瑞穂〉としてのリアリティを逸脱しない範囲で最良の学校生活を描くことによって、僕は手紙の中にもう一つの人生を作り上げた。霧子に向けて手紙を書いているとき、僕は理想の自分になることができた。

 春も夏も秋も冬も、晴れの日も曇りの日も雨の日も雪の日も、僕は手紙を書いて街角の小さなポストに投函した。霧子からの手紙が届くと、慎重に封筒を鋏で切り開いて、顔に近づけて匂いを嗅ぎ、自室のベッドに腰掛けてコーヒーを飲みながらゆっくり文章を味わった。



 もっとも恐れていた事態が起きたのは、文通を始めて五年目になる十七歳の秋だった。

「直接会って、お話がしたいです」

 そう手紙には書かれていた。

「手紙の中では、どうしてもいえないようなこともあります。お互いの目を見て、お互いの声を聞きながら、お話ししてみたいです」

 その手紙は僕を悩ませた。こちらにも、直接会って話がしてみたいという気持ちがないわけではない。この五年間で彼女がどう変化したのか、確かめたいのは山々だ。

 だがそんなことをすれば、これまで僕が手紙に書いてきたことが嘘だと露見するのは明らかだった。心優しい霧子は、そのことで僕を責めはしないだろう。しかし、失望はするはずだ。

 どうにかして一日だけ架空の〈湯上瑞穂〉になりきれないものかと画策したが、いくら細部を嘘で固めたところで、長年の孤独が染みついた目の濁りや挙動に見え隠れする自信のなさは隠せそうになかった。それまでまともに生きてこなかったことを、今さらのように後悔した。

 彼女の誘いを断る上手い言い訳がないものかと考えているうちに、数週間が過ぎ、数箇月が過ぎた。このまま関係をフェードアウトさせてしまうのが最良の選択なのかもしれない、とある日僕は思った。真実を告げればこれまでのような心地よい関係は終わってしまうだろうし、かといって嘘を見抜かれることに怯えながら文通を続けるのも苦痛だ。

 折しも受験勉強が忙しくなる時期だった。僕は自分でも驚くほどあっさりと、それまで五年間続いていた文通をやめる決心をした。

 嫌われるくらいなら、こちらから関係を断ち切った方がましだと思ったのだ。

 直接会いたいという手紙の翌月、霧子からまた手紙が届いた。相手から手紙が届いてから五日以上開けて返事を出す、という暗黙の了解が破られたのは初めてのことだった。僕からの便りがないのを心配したのだろう。

 だが、僕は届いた手紙を開封すらしなかった。翌月にもやはりもう一通届いたが、それも無視した。心が痛まないわけではなかったが、他にどうしようもなかった。

 文通をやめた翌週、友人ができた。ひょっとすると、霧子に依存し過ぎていたことが正常な交友関係を作ることの妨げになっていたのかもしれない、と僕は思った。

 時が過ぎ、徐々に、郵便受けをチェックする癖がなくなっていった。

 そのようにして、僕と霧子の関係は終わった。



 再び霧子に手紙を出すきっかけとなったのは、友人の死だった。

 四年生の夏、大学生活の大半を共に過ごした進藤晴彦が自殺したことが原因で、僕はアパートに閉じこもるようになった。前期の重要な単位をいくつか落とし留年が確定したが、気にならなかった。まるで他人事のようだった。

 彼の死そのものへの悲しみは、ほとんど感じなかった。予兆はあったのだ。

 初めて出会ったときからずっと、進藤は死にたがっていた。一日に煙草を三箱吸い、ウイスキーをストレートでがぶ飲みし、夜な夜なオートバイを飛ばした。アメリカン・ニューシネマに分類される映画を網羅しており、主人公たちの呆気ない死に様を繰り返し観ては、恍惚とした表情で溜息を漏らしていた。

 だから彼の死を知らされたときは、よかったじゃないかとさえ思った。ようやくいきたいところにいけたのだから。「もっと優しくしておけばよかった」とか「悩んでいるのを見抜いてあげられなかった」といった後悔は、微塵もなかった。進藤だって、僕に悩みを聞いてほしいなどとは思っていなかっただろう。馬鹿笑いの日常の中、ふっと消えてなくなるのが彼の望みだったに違いない。

 問題は残された僕だった。進藤の不在は、僕にとって大きな痛手だった。よくも悪くも、彼の存在は僕の支えだったのだ。僕より怠惰で、僕より自暴自棄で、僕より悲観的で、僕と同じくらい人生の目的に欠けた人間が傍にいることで、僕はずいぶんと救われていた。彼を見ていると、「あんな奴でさえ生きているんだから、僕も何とか生きていかないとな」と思えたものだった。

 その進藤が死んだことで、僕は心の拠り所を失った。外界に対する漠然とした恐怖が生まれ、深夜の二時から四時にしか外に出ることができなくなった。無理に外出しようとすると動悸が止まらなくなり、過換気状態に陥り目眩が起きる。酷いときには手足や顔面が痺れて痙攣した。

 カーテンを閉め切った部屋にこもって酒を飲みながら、彼の大好きだった映画を観続けた。それ以外の時間は寝てばかりいた。進藤の運転するオートバイのタンデムに跨って走り回った日々が懐かしかった。くだらないことばかりやった。脂臭い深夜のゲームセンターでアーケード筐体にコインを送り込み続けたり、一晩かけて海へいって何もせずに帰ったり、川原で一日中水切りをしたり、オートバイからシャボン玉を撒き散らしながら町中を駆け回ったり。

 だが今思えば、冴えない時間を共に過ごすことこそが僕らの友情を深めていたのだろう。もう少し健全な関係だったら、彼の死がここまでの寂しさをもたらすことなどなかったはずだ。

 巻き込んでくれてもよかったのに、と僕は思った。進藤が誘ってくれたら、僕も彼と一緒に笑いながら谷底へダイブしていたことだろう。

 そして、それがわかっていたからこそ、進藤は僕に一言の相談もせず死んでいったのかもしれない。



 蝉が死に絶え、木々が赤く色づき、秋がきた。十月の末のことだ。

 ふと、進藤と交わした、他愛もない会話を思い出した。

 それはよく晴れた七月の午後だった。蒸し暑い部屋の中、僕らはビールを飲みながら取り留めのないことを話していた。テーブルの灰皿には吸殻の山ができ、一本でも位置をずらしたら崩壊してしまいそうで、その横には空き缶がボウリングのピンのように規則正しく並べられていた。

 窓の傍の電柱にとまった蝉の鳴き声が耳障りだった。進藤は空き缶を一つ拾い上げ、ベランダに出て蝉に向かって投げつけた。目標を大きく逸れた缶は道路に落ち、からからと音を立てた。進藤は悪態をついた。

 二つ目の缶を手に取ったところで、蝉は彼を嘲笑うかのように飛び立っていった。

「そういえば」缶を持って立ち尽くしたまま、進藤はいった。「そろそろ合否連絡がきた頃じゃないのか?」

「僕が何も報告しない時点で察してほしいな」と僕は遠回しにいった。

「落ちたか」

「そうだよ」

「安心した」僕と同様に未だ内定が一つも取れていない進藤はそういった。「ちなみに、あれ以来どこか別のところは受けたのか?」

「いや。何もしていない。僕の就職活動は、夏休みに入った」

「夏休みか。それはいい」

 俺も今日から夏休みということにしよう、と進藤はいった。

 テレビでは高校野球の中継が放送されていた。僕たちより四つか五つも若い球児たちが、声援を浴びて活躍していた。試合は両者得点のないまま七回の裏まできていた。

「変なことを訊くようだけど」と僕はいった。「進藤は子供の頃、何になりたかった?」

「高校教師だよ。何度もいっただろう」

「ああ、そういえばそうだった」

「いま思うと、俺が教師を目指すなんて、片腕の人間がピアニストを目指すようなものだったな」

 本人のいう通り、進藤という男はどう見ても教師には向いていなかった。それではどのような職業に向いているのかと訊かれても困る。〈こうなってはいけない〉という反面教師としてはこれほど適した人材はいないだろうが、今のところ反面教師という職業は存在しなかった。

「隻腕のピアニスト、いないわけじゃないけどな」と僕はいった。

「まあな。ちなみに、お前は何になりたかったんだ?」

「それが、何にもなりたくなかったんだ」

「嘘吐け」進藤は僕の肩を小突いた。「子供ってのは、大人の手によって、とりあえずは自分に夢があると錯覚させられるものだろう」

「でも本当なんだ」

 テレビから歓声が上がった。試合が動いたようだ。フェンスに直撃した球を、外野手が必死に追いかけている。二塁ランナーは既に三塁を蹴り、中継に入った遊撃手は本塁への送球を諦めた。

 貴重な一点が入りました、と実況がいった。

「そういえばお前、中学の頃は野球部所属で、しかも県内では名の知れた投手だったんだろう?」と進藤がいった。「中学時代の知人から聞いたことがある。湯上って名前の、二年生のくせに馬鹿みたいに正確な位置に球を投げるサウスポーがいたと」

「僕のことだろうな。どういうわけか、制球力だけは抜群だったんだ。でも、中二の秋には引退した」

「怪我でもしたのか?」

「いや。これがちょっと妙な話でさ。……中学二年の夏、県予選の準決勝で勝利を収めたあの日、確かに僕はヒーローだった。自分でいうのもなんだけど、その試合に勝てたのは僕一人のおかげみたいなものだったんだ。あの中学で野球部が準決勝まで勝ち残るなんて本当に珍しいことだったから、学校総出で応援してくれていた。会う人誰もが僕を褒め称えてくれた」

「今のお前からは、とてもじゃないが想像できないな」進藤は疑わしげにいった。

「そうだろうな」

 僕は苦笑いした。彼がそういうのも無理はない。僕自身、当時を振り返るたび、狐につままれたような気分になるくらいなのだ。

「学校では友人も少なく目立たない存在だった僕が、その一日で晴れてヒーローになったんだ。最高の気分だったな。ところが、だ。その晩、一日を振り返りながらベッドに横たわった僕は、突然、強烈な恥の感覚に襲われたんだ」

「恥?」

「そう、恥だよ。自分を恥じたんだ。『一体僕は何を浮かれているんだろう?』って」

「何もおかしくはないだろう。浮かれて当然の状況だ」

「まあね」と僕はいった。進藤のいう通りだ。あのとき僕が浮かれてはいけない理由など、一つもなかった。素直に喜べばよかったのだ。しかし僕の意識の下層に潜む何かがぬっと顔を出してきて、それを拒否した。膨らませ過ぎた風船が破裂するように、僕の気分は一瞬で萎んだ。

「とにかく、そう思った瞬間に何かもが馬鹿らしく思えてきたんだ。そして、『これ以上恥を晒したくない』と思った。二日後、決勝当日、僕は始発電車に乗って、あろうことか映画館に向かったんだ。そこで立て続けに映画を四本観た。冷房が効き過ぎていて、終始二の腕を擦っていたことを覚えてる」

 進藤は腹を抱えて笑った。「馬鹿じゃねえのか?」

「大馬鹿だね。でも、たとえ時が巻き戻ってもう一度同じチャンスを与えられても、僕はやっぱり同じ選択をすると思う。当然、試合は大差をつけられて負けた。部員も監督もクラスメイトも教師も両親も、揃って激怒していたな。まるで人殺しでもしたかのような扱いだった。決勝にこなかった理由を訊かれて『日にちを間違えた』と答えたら火に油を注いだみたいで、夏休み明け初日に物陰に連れ込まれて袋叩きにされた。鼻が折れて、少し形が変わった」

「自業自得だ」と進藤がいった。

「まったく」と僕は同意した。

 テレビの試合も決着したようだった。ラストバッターは冴えないセカンドゴロに終わった。挨拶の後、両チームの選手が握手を交わしたが、負けた側のチームがおそらく監督からそういう指導を受けてきたのだろうが終始気持ち悪いくらいの笑顔を作っていた。何だか病的だ。

「昔から、何の欲もない子供だったんだ」と僕はいった。「あれをしたい、これが欲しいっていう気持ちが一切なかった。熱しにくい上に冷めやすくて、何をやっても続かなかった。七夕の日に渡される短冊は、いつも白紙で提出していたな。うちにはクリスマスプレゼントというものがなかったけれど、それを不満に思ったことは一度もなかった。むしろ、毎年自分の欲しいものを決めなければならない他の家の子が可哀想だと思っていたくらいだ。お年玉をもらっても母親に預けて、当時通っていたピアノ教室にかかる費用の足しにしてもらっていた。おまけにそのピアノも、家にいる時間を減らしたかったからやっていただけなんだ」

 進藤はテレビを消し、CDプレイヤーの電源をコンセントに繋ぎ、再生ボタンを押した。ニール・ヤングの『トゥナイツ・ザ・ナイト』。彼のお気に入りの一枚だった。

「子供らしくない子供だな。気持ち悪い」一曲目が終わったところで、進藤がいった。

「でも、当時の僕は、それが普通だと思っていたんだ」と僕はいった。「大人っていうのは傲慢な子供を叱りはするけど寡欲な子供のことはそんなに叱らないものだから、自分がおかしいって気づくまでに時間がかかった。……多分、いま僕が突き当たっている壁も、それなんだ。採用担当にも伝わってしまうんだろうな、僕が本心では働きたがっていないどころか、金も欲しがっていないし、幸せになりたいとさえ思っていないことが」

 進藤はしばらく黙り込んでいた。

 くだらないことを喋ってしまったな、と僕は思った。

 話題を変えるために適当なことをいおうとしたとき、進藤はいった。

「でもお前、文通は楽しんでいたんだろう?」

「……文通か。そんなことをしていた時期もあったな」

 一時も忘れたことがないくせに、僕は今久しぶりに思い出したような口ぶりでそういった。

 進藤は、僕が霧子と文通を重ね、その中で嘘ばかり吐いていたことを知る唯一の人間だった。一年前にビアフェスティバルにいったとき、酔っ払って太陽にあてられて、つい口を滑らせてしまったのだ。

「確かに、あれを楽しんでいなかったといったら嘘になる」

「文通相手の女の子、なんていう名前だったかな?」

「日隅霧子」

「そう、日隅霧子だ。瑞穂に一方的に文通を打ち切られた女の子。可哀想に、お前が彼女を無視するようになっても、しばらくは健気に手紙を送り続けてきたんだよな」

 進藤はビーフジャーキーを食いちぎり、ビールで流し込んだ。

 そしていった。

「なあ、瑞穂。お前は日隅霧子に会いにいくべきだよ」

 僕は冗談だと思って鼻で笑ったが、進藤の目つきは真剣そのもので、自分が今口にしたのは素晴らしいアイディアなのだという確信に満ちていた。

「霧子に会いにいく、か」と僕は皮肉っぽくいった。「そして五年前のことを謝罪して、『嘘吐きの僕を許してください』とでもいえばいいのか?」

 進藤は首を横に振った。

「俺がいいたいのは、手紙に書いていたのが嘘だろうと真実だろうと、お前のいっていた……そう、『魂の交流』とやらが成立する相手っていうのは、そうそういるものじゃないってことだ。お前はもっと、その霧子という女の子との相性に自信を持ってよかったんだよ。大体、名前からして運命的じゃないか。〈ゆがみ〉と〈ひずみ〉。どっちも〈歪〉の訓読みだ」

「何にせよ、もう手遅れだ」

「どうかね。俺が思うに、本当に気持ちの通じあった人間なら、五年や十年のブランクなんてまったく問題にならない。まるで昨日の続きのように笑いあえるものなんだ。瑞穂にとっての日隅霧子がそういう存在であるかどうか確かめるためだけに、もう一度会いにいってみるのも悪くないと思う。ひょっとしたら、それがお前の失われた欲を取り戻すきっかけになるかもしれない」

 その後、僕が何と答えたかは覚えていない。きっと曖昧な返事をして、その話題を打ち切ったのだろう。



 霧子に会いにいってみよう、と僕は思った。進藤のくれた言葉を大切にしたいというのもあるし、親友がいなくなって単純に寂しかったというのもある。何より、「好きな人がいつまでも生きていてくれるとは限らない」と身をもって知ったことが、一番の後押しになった。

 勇気を振り絞って外に出た。車を飛ばして実家に帰った。自室のクローゼットから長方形型のクッキー缶を出し、霧子がくれた手紙を日付順に床の上に並べていった。でも僕が返事を出さなくなった後に霧子が立て続けに送ってきた開封すらせずにいた数通の手紙だけは、いくら探しても見つからなかった。どこへやってしまったのだろう?

 懐かしい匂いのする部屋で、僕は手紙を一通一通読み返した。五年かけて溜まった計百二通を、最後の手紙から時間を遡る形で目を通した。

 初めてもらった手紙を読み終える頃には、日が落ちていた。

 封筒と便箋を買い、アパートに戻って手紙を書いた。宛先の住所は手が覚えていた。

 伝えたいことは山ほどあったが、実際に会って話すのが一番だろうと思い、文章は最小限にした。

「五年前はすみませんでした。あなたに隠していたことがあります。まだ僕を許す気があったら、十月二十六日、公園にきてください。僕らの通っていた小学校の通学路にある、あの児童公園です。一日中、待っています」

 それだけ書いて、葉書をポストに投函した。

 期待はしていなかった。していないつもりだった。