そして秋季県大会、準々決勝。

 南雲一高対立秋館高校の試合は四回戦と同じく敷浪市民球場での開催だった。

 先攻はもちろん南雲一高。

 先攻と後攻を決めるのは主将同士による試合前のジャンケンだが、基本的に後攻の方が人気が高い。だから先攻を希望した場合、ジャンケンに勝てば先攻、負けても高確率で先攻で、滅多に後攻にはならないのだ。

 そして南雲一高が人気のない先攻を選ぶには理由があった。

 格下のチームが格上のチームを破るジャイアント・キリングには幾つかパターンがあるが、その中で最も多いのは先制された格上のチームが焦って拙攻を重ねることだ。先行逃げ切りこそが弱い者の側の戦い方なのである。

 三塁側ベンチには試合開始前の挨拶を終えたばかりの一高ナインが集まっていた。

「ついに準々決勝か……」

 早い段階から県大会ベスト4進出による二一世紀枠の獲得を思い描いていた鈴木が感慨深い声を上げると、マネージャーの優子は顔を上気させる。

「勝てばベスト4、勝てば地区大会進出ですよ」

「そして二一世紀枠でのセンバツ出場、何か裏技みたいで楽しいな」

 二番バッターで試合開始からネクストバッターズボックスに入る日野はヘルメットをかぶると、バットを握って剣のように構えた。

「けど半端な相手じゃないぞ」

 グラウンドを眺めながら豊田が腕を組む。その視線の先には守備位置についた立秋館ナインがボール回しをしていた。

 昨日の四回戦、立秋館は一一対〇の五回コールド勝ちを収めている。これで二回戦から四回戦まで三試合連続コールド勝ちだった。シード校なこともあって二回戦からの参加なので、これまで全試合コールド勝ちでもある。

(さすがに今回は厳しいな)

 みんなの士気が下がるようなことを言いたくないので巧也も口には出さないが、確かに豊田の言う通り、今回の立秋館は強い。

 しかも巧也が気になるのは立秋館側が明らかに一高対策をしていることだった。

 スコアボードの先発メンバーを巧也は眺める。

 南雲一高と立秋館高校のスターティングメンバーが表示されていた。

 一高側のスターティングメンバーは次の通りだ。

 一番レフト、山葉。二番センター、日野。三番セカンド、蘭。四番キャッチャー、巧也。五番サード、松田。六番ファースト、豊田。七番ライト、中島。八番ショート、鈴木。九番ピッチャー、綾音。

 夏と比べると、二番と三番の日野と蘭が交代。七番と八番の中島と鈴木が交代している。日野と蘭の交代は昨日の石橋の読み通りで、日野を実質的な一番バッターとして機能させるためだ。そして中島と鈴木の交代はベンチワークの都合だった。巧也と鈴木の打順を最大限離して、なるべくベンチに二人のうちのどちらかがいる形にするためだった。

 そして立秋館側のスターティングメンバー。

 一番セカンド、大宮。二番センター、芝崎。三番ショート、加東。四番キャッチャー、石橋。五番ファースト、坂本。六番ライト、石井。七番レフト、亀山。八番サード、田丸。九番ピッチャー、田原。

 この打順が、巧也にとってちょっとした衝撃だった。

(打順が昨日とかなり変わっている。五番と六番が入れ替わったのは、昨日の試合のホームランもあってのことだろうけど、七番だった大宮が一番に上がって、昨日のスタメンから加東さん以外の左バッターが消えた……)

 今日の立秋館打線の特徴は左バッターが三番の加東(右投げ左打ち)と九番の左投手である田原、この二人しかいないことだった。

 通常、私立の強豪野球部だと、左バッターが四人か五人はいるもので、時に七人以上だったり先発全員の九人が左バッターなんてことすらある。

 そして立秋館も昨日の試合では先発メンバー中、四人が左バッターだった。それをこれだけ右バッターを揃えてきたということはサウスポーである綾音の攻略に狙いを定めていると見なすべきであろう。

(それと、俺が左利きのキャッチャーだからか……)

 左利きのキャッチャーは右バッターに対して盗塁されやすい。これは左利きのキャッチャーにとって投げ手である左腕が右打席側になるからだ。

 弱いチーム相手なら肩を壊したとはいえ巧也も全国大会優勝経験のある元エースだ、実力差で何とかなる。また強いチームには左バッターが多いので、左利きのキャッチャーである不利も相殺できていた。それどころか左バッターが半数以上なら、逆に右利きのキャッチャーより有利なほどだ。

 けれどさすがに強いチームに右バッターを揃えられると巧也も苦しい。

(これだけ右バッターを揃えてきた以上、向こうはこっちを研究してるはず……あやねえの投球術もおそらく三分岐して見えるところまではわかっているはずだ)

 夏に戦った山霧学園の四番だった白川と、立秋館高校の石橋たちは仲がいい。他の部員たちも横のつながりがあるだろう。詳細な情報はともかく、綾音の特徴ぐらいは野球部員同士の横のつながりで知れ渡っているはずだった。

 前回、有利に使えた手が今回は色々と封じられている。

 それだけに巧也は右バッターボックスに入った山葉に期待する。

(頼むぞ、ヨージロ)

 ここまで山葉は四試合で五本のホームランを打って、そのうち三本が先頭打者ホームランだった。しかも山葉はピッチャーとして登板しても初球が最速になりやすく、何かと一発目に強い。

 そして先取点は格上のチームと渡り合うための最強の武器でもある。

 巧也は祈るような気持ちで山葉の背中を見つめていた。


「プレイボール」

 球審の高らかなコールと共に球場に試合開始のサイレンが響きわたる。

 マウンドの上で先発の田原が大きく振りかぶった。

 迫力あるオーバースローのフォームから、左腕が唸る。

 その初球だった。

 工業用のロボットアームみたいな豪腕がバットを振り放つ。

 その一振りが、終わらない夏のよどんだ空気を二つに切り裂いた。

 そして球審が控えめに右腕を上げる。

「ストライークッ!」

 それは見事なまでの空振りだった。

(ああっ、もう。あんなクソボールに手を出して)

 思わず巧也は頭を抱えこむ。初球はストレートで、外に大きく外れたボール球だったのだ。

「ヨージロ、しっかり見ていけーっ!」「ヨージロ、じっくり、じっくりっ!」

 ベンチから次々と声が上がるが、山葉は何を考えているのか、二球目もボール球を空振りしてしまう。

 それでも巧也は山葉に一縷の望みを託していた。

(それでもヨージロなら、当たりさえすればスタンドへ持って行く力がある)

 しかし三球目。

 山葉はストライクゾーンに入ったカーブを見逃して、あっさり三振に倒れてしまう。

 そしてベンチから「あ~っ」と魂の抜けたような声が上がる。

 期待が大きかっただけに思わず巧也も魂が口から抜けだすような気分になった。

 元々、先頭打者ホームランは期待する方が間違っている。

 そして山葉の打順が一番なのも、ホームランを打つチャンスを一番多く回すためにという意味もあったが、その場に応じた器用なバッティングができるわけでもないので、下手にランナーがいてダブルプレーをくらうより、下位打線の一番後ろでもある一番に置いた方がいいというのが、そもそものはじまりだった。

 けれど今までの四試合中三試合で先頭打者ホームランを放ち、しかも山葉なら相手が強豪校のエースでも力負けしないとなれば、期待するなと言う方が無理だろう。

(まったく罪作りな男だぜ)

 巧也も涙目になってしまうが、次のバッターは南雲一高にとって実質的なトップバッターでもある日野だった。日野の俊足も強豪校相手でも通用するレベルにある。

 一高ベンチも、再び活気をとり戻していく。

「タカ、出ろーっ!」「頼むぞ、タカーッ!」

 ベンチから次々声援が上がる中、日野がバッターボックスに向かう。


 一方、一高の先頭打者を三球三振にしとめたバッテリーは会心のプレーにほくそ笑んでいた。

 マウンドの上で表情をゆるませる田原に、石橋は先ほどのカーブを称えながらボールを投げ返す。

「ナイッボー。球、切れてるぞっ!」

 そして俊足の二番バッターを迎えて、キャッチャーボックスでしゃがみこむ。

(一番は思惑通りと……ただ問題はこいつだ)

 夏のデータではスイッチヒッターで、サウスポーが出てくると右打席だったはずだが、今日は左投げの田原がマウンドにいるにもかかわらず左打席に入った。

 それは石橋にとって予想外の行動で、思わずマスクの中で眉をひそめてしまう。

(いきなりこれかよ……この秋から左に完全移行してたのか)

 四回戦まで一高の対戦相手が右投手ばかりだったので、立秋館側は日野が左打ち専門になったのを知らなかったのだ。

 そして最初からバントの構えを見せる日野の姿に、石橋は頭を悩ませた。

 本来、バントは守備陣の不意をついてこそ成功率が上がるので、最初からバントを構えている時は逆にバントをしてこないことも多い。

 けれど最初からバントの構えを見せておきながら、セーフティーバントを決めることができるのも俊足のバッターの厄介なところだった。

 日野のバッティングスタイルはプッシュバントとドラックバントの二種類のセーフティーバントを使い分けることだ。この二種類のセーフティバントがメインで、ヒッティングをアクセントに混ぜるといったところ。

 最初は先発がサウスポーの田原なので右打席に立つであろうから、ドラックバントは防げると石橋も考えていた。

 しかし左打席に立ったので、相手の得意な形で戦わなければならない。

 田原の球種はストレートとスライダー、カーブ。そして決め球のフォークだ。速球の最速が一四一キロなので、ストレートは常時一三〇キロ台といったところ。加えてサウスポーなので、二年生秋のピッチャーとしてはなかなかのスペックだ。

 ただしコントロールに難があった。

(勇一なら、こいつも何とかなりそうなんだが……)

 一瞬、長年バッテリーを組んできた平繁の顔が頭を過るが、それを振り払うかのように石橋は顔を左右にちいさく振った。

(今は修二の力を引きだして、こいつを何としてでも抑える……まずは初球)

 石橋は田原に外へのスライダーを要求する。

 ドラックバントは一塁方向へ走りながらバントするので、外角はバットに届きにくい。そこをつく形でスライダーがホームベースの左上隅をかすめるようにしてストライクになるのが理想ではある。

 ただここでストライクが決まるかどうかは田原のコントロールでは運任せだ。

 甘く入るのを警戒して、ブロックサインで内野にバントシフトの指示を出す。ただし外角の球なので一塁方向へのドラックバントより、三遊間方向のプッシュバントを警戒し、前に出すのはファーストとサードの両方ではなく、サードだけだ。

 そして初球。

 田原の投げたスライダーは外角に外れてしまう。

 バッターの日野も余裕を持って見送った。

(もうちょい内に入ってくれてたらな)

 切れがあっていい球だっただけに石橋も惜しい気持ちが強かった。

 そして二球目。

 日野がヒッティングの構えになる。

(今度は普通に構えてきたか……)

 石橋は少し考えて、二球目に外のストレートを選んだ。

 元々左ピッチャーの投げる球筋は一塁側から右バッターボックス方向へ斜めの角度がついている。

 スライダーほどではないが、左バッターからすると、ストレートでも外へ逃げる動きだ。きわどいところへ決まればドラックバントをしかけられても、バットが届かないし、プッシュバントでもバットの先っぽに当たってファールになりやすい。

(全力投球で来いっ!)

 気合い入れろとバッターの内角側でミットを叩くと、石橋は静かに身体を外角へと移動させる。

 大きく振りかぶった田原の左腕が白球を放つ。

 県内の球場ではスピードガンが設置されているのは県営球場だけだ。だからこの球場ではスコアボードに球速が表示されない。

 ただ渾身の一球は一四〇キロ近くは出ていたはずで、田原のほぼ最速の球だった。

 しかしこの球も外れて、ノー・ツーとなる。

(初球か、今の球のどちらがストライクになってくれてたらな……)

 もっとも一球目か二球目のどちらかをストライクにできるコントロールがあれば、平繁ではなく田原が背番号1を背負って、甲子園に出場していたかもしれない。

 球威は平繁よりも田原の方が上なのだ。この球威を活かすのがキャッチャーの仕事でもある。

 三球目をどうするか、石橋は少し考えこむ。

 ボールが二つ先行しているので、バッティングカウントではある。けれど日野は一高の中では偵察要員の役割も担っているはずなので、ボールをじっくり見てくる可能性も高い。

 こうなると過去のデータや選手のプレイスタイルが頼りになる。石橋は昨日の敷浪農業戦での第一打席を思いだす。

(昨日はノー・ツーから、カウントをとりにいった甘い球でセーフティバントを決めたな……修二のコントロールに懸けるしかないか)

 石橋は三度目の正直に懸けることにした。

 三球目、外へのスライダーを再び要求する。

 しかしこの球も外れてノー・スリーとなってしまった。

 こうなるとキャッチャーはちょっと打つ手がない。

 もう次の球は決まりだ。どうせ次の球がボールになればバッターは無条件で出塁となる。けれどバッターが打てば、ヒットになるかもしれないが、打ちとってアウトにできるかもしれない。

 石橋がサインを送る。

 ピッチャーにはストライクをとりに行くためのストレート。

 田原はコントロールに難があるのも確かだが、ストライクがとれないのはコースを狙って思いっきり投げる「活きた球」だからであって、コントロール重視の所謂「置きにいった球」ならさすがにストライクゾーンへ投げることができる。

 内野陣はセーフティーバントを警戒して、サードに前へ出て来るよう指示をだす。

 ドラックバントとプッシュバント、両方有り得るが昨日の試合ではプッシュバントを使っていた。プッシュバントならファーストを残しておいた方が思い切ったプレーができる。それにドラックバントなら一塁までの送球距離が短いので、当たり次第ではピッチャーが捕球すれば何とかなるかもしれない。

 やがて指示を終えた石橋は、バッターが次の球に手を出さないことを願う。

 カウントがノー・スリーならフォアボールを期待して最初から手を出さないと決めているバッターも多い。甘い球でも見逃してくる可能性は高いのだ。

(ワン・スリーになったら、また駆け引きの余地も生まれる)


 四球目。

 ストライクをとりに行くためのストレートを田原が投げたところで、日野が勝負をしかけた。

 三遊間方向へプッシュバント。

 バントにしては強い打球が、バントシフトで飛びだしたサードの脇を抜ける。

 そして日野は俊足を飛ばして一塁へ向かう。

 しかしこの三遊間狙いのプッシュバントは石橋が読んでいた通りだ。

 ショートの加東も、このプレーは最初から頭にイメージがあった。

 ただしストライクをとりにいった甘い球なので、やはり日野もいい方向へ打球を転がしている。

 加東は猛然とダッシュして打球を拾うと、身体を急回転させ、倒れこむような形でのジャンピングスロー。強引に一塁へ送球する。

 タイミング的には微妙な線。

 しかし加東の送球はやはり体勢に無理があった。ファーストが捕球できずに後ろへ逸らす。

 日野はセーフ、しかし二塁へ走ることができなかった。

 セカンドの大宮が一塁の後ろでボールを押さえていたのだ。そして二塁上にはセンターの芝崎が立っている。

 この一連のプレーで、セーフティーバントを決めたはずの日野が驚いていた。

(すっげぇなぁ、ギリギリセーフか……これが立秋館の野球か)

 もちろんこれは日野がデータをとられているからでもある。遠くに飛ばす力がないので、外野は最初から浅めにいたし、内野陣もこのプレーは最初からイメージ通りだったのだ。

 しかしだからこそ立秋館側も、日野の俊足には舌を巻いていた。


(ほんとに速い……厄介な奴を出しちまった)

 一塁方向に走っていた石橋はキャッチャーボックスに帰りながら胸の中で愚痴をこぼす。俊足のランナーを一塁に置くと、色々と気を使わないといけないことも多い。

 もちろん石橋も強豪立秋館高校の正捕手で肩には自信がある。そしてピッチャーの田原も球が速い方だし、サウスポーなので投げる直前まで一塁側を向いてランナーに目を光らせることができる。そう易々と盗塁を許す気はない。

 しかし今のプッシュバントは警戒していたのに、それでも日野は成功させた。ならば警戒していても、盗塁を成功させる可能性もある。

 しかも次の相手はストライクゾーンが狭い。コントロールが定まらなくて立ち上がりに苦しんでいる今の田原には嫌なバッターだ。

「お願いしますっ!」

 石橋がキャッチャーボックスに戻ると、ひときわ高い声と共に次のバッターが右バッターボックスに入る。

 南雲一高の三番バッター、石橋蘭だ。

 その蘭が最初からバントの構えをとる。

(送りバントか……よし、やらせるか)

 一塁ランナーは俊足なので、変にバントをさせまいと球数を増やしていると、どこかで走られる可能性がある。盗塁された後に送りバントを決められると、ツー・アウト三塁になってしまう。しかも今のところ、田原は制球にかなり苦しんでいるので、ストライクゾーンの狭い蘭が相手だとフォアボールになりやすい。

 それなら素直にバントをさせて、ツー・アウト二塁にして、次の四番バッター巧也を敬遠で歩かせて、五番の松田と勝負した方がいい。

 そして最初からバントを構えている時は逆にバントをしてこないことも多いが、この場面では素直に一高側もバントをさせるだろう。

 一高にとって立秋館は格上の存在で、クリーンナップに打順が回るところで二塁へランナーを置きたいはずだった。しかも一塁ランナーは俊足だが、ピッチャーはサウスポーでキャッチャーの石橋も強肩である。

 立秋館側と一高側の思惑は互いに送りバントでOKと一致しているはずだった。しかし敵と味方に分かれて勝敗を競っているので、取り引きというわけにはいかない。

 石橋はピッチャーと内野陣に指示をだす。


 バッターボックスに立った蘭は内野の動きを確認する。

(ショートの加東さんが二塁ベースの近くで、セカンドの大宮くんは一塁よりのバントシフト……お兄ちゃんの狙いは送りバント失敗によるダブルプレーだ)

 先発の田原が制球に苦しんでいるので、兄は初球から送りバントをさせようとするだろうと蘭は読んでいた。

 ただし楽に送りバントを成功させてくれるのではなく、良くてダブルプレー、悪くても送りバントでツー・アウト二塁といった形にとどめようとするはずだった。

 実際、兄の指示にそって内野陣はゲッツーシフトを敷いてきた。

 ただこれは蘭にとってチャンスでもある。

 一塁にランナーがいる状態で送りバントをしようとすると、普通は一塁方向へボールを転がす。

 これはバントシフトでファーストとサードが前に飛びだすにしても、ファーストは一塁ランナーへの牽制があるのでスタートが遅れるのに対し、サードはあらかじめ前の位置からスタートが切れるからである。

 だからピッチャーも一塁側方向に打球が転がるのを意識しているはずだった。

 そしてファーストとサードは前に飛び出してくるのに対して、セカンドの大宮は元々一塁と二塁の間にいて、ショートの加東はゲッツーシフトを意識して最初から二塁ベースの近くに立っている。

 つまり三遊間方向が大きく空いているのだ。

 蘭はバントの構えのまま、ふと夏祭りの夜を思いだしていた。

 あの夜、満月を背中にして巧也は「女子が男子に正面から挑むのは無謀だよ」と言い切った。けれど同時に「相手ピッチャーの全力投球には力負けしたとしても、相手ピッチャーに全力投球させなければ相対的に五分の戦いができる」とも語った。

 相手ピッチャーに全力投球をさせないための条件。それはまず第一に状況を最大限に活かすことだ。

 塁上に俊足のランナーがいて、送りバントの技術があれば今のように三遊間方向に大きな隙が生まれる。

 この大きな隙を活かすために蘭は夏の間、特訓を重ねた。

(わたしの野球が男子にも通用するか試す、絶好のチャンス)

 蘭にとってこの試合は勝っても負けてもつらいが、少なくとも今は兄を心配するような立場ではない。どちらかと言えば、仲間たちが一方的に叩きのめされないことを心配するべきだ。

 そして格上の相手と渡り合うためには先制点がどうしても欲しいのは蘭にもよくわかっていた。

 マウンドの上では田原が何度も一塁へ牽制球を投げていたが、やがてセットポジションから投球フォームに入る。

(タイミングは右足が地面につく辺り)

 投球途中の田原が左足一本で立って、その左腕が後ろに回る形となる。そして踏みだそうとする右足が地面に着地した辺りで、蘭はバットを引いてヒッティングの構えに移る。

 そして田原の左手から白球がリリースされた。それはストライクゾーンに入れるための置きにいった球だ。

 その甘い球を蘭は逃さない。全力でバットを振り切った。

 金属バットが音を立て、真芯でとらえた打球は前に飛びだしていたサードの横を抜ける。サードの田丸は反射的にグラブをのばして横に飛んでいたが間に合わない。

 そして大きく空いた三遊間を抜けて、打球はレフトへと転がって行く。

 日野は俊足を活かして一気に三塁まで進む。

 これでワン・アウト一塁三塁となった。

 打った蘭は一塁上で顔を上気させる。

(わたしのバスターがきれいに決まった)

 バスター打法、それはバントの構えからピッチャーが投球モーションに入っている間にヒッティングに切り替えるバッティングだった。

 最初のバントの構えで内野に隙(バントシフト)を誘い、ヒッティングを有利にするのだ。

 理屈としては簡単だが、実際にはピッチャーの投球モーションに合わせてバットを振るのでタイミングが難しい。

 またバッティングがちいさくなる分、長打も望みにくくなる。

 ただ送りバントをする機会の多い二番バッター(一高では変則打順なので三番が実質的な二番バッターの役どころ)にはこのバスター打法は強力な武器になる。

 もしもバスターを警戒して守備側がバントシフトをとらなくなれば送りバントの成功率は上がるし、バントシフトをとれば非力な女子の蘭でもヒットを打つチャンスが生まれるのだ。

 そう、イーブンな状態で戦えば非力な蘭が男子からヒットを打つのは難しい。しかし特殊な局面や状況を活かすことにより、蘭でも男子と対等に渡り合うことできる。

 シニア時代からしっかり練習してきた送りバントと、高一の夏で身につけたバスター。この二つと低い身長を活かし、蘭は新たなバッティングスタイルを作りだした。

(初回からいきなり形にはまったけど、わたしのバスターはこれだけじゃない)

 こうしたバッティングは練習や試合による熟練度も問われるが、いきなり披露する不意打ち効果は絶大だ。

 この試合、まだまだ活躍できる予感がして蘭はワクワクしてきた。