保育園の仕事は子供を迎えるところから始まる。次々に溜まる雑用をこなしつつ預かりに来た子供を迎え入れ、クラスに分かれた後は子供たちと一緒にお歌を歌ったりお遊戯をしたりと大忙し、そんなこんなであっという間に給食の時間まで消化する。

「山川、ちょいちょい」

 年中組担任の小野智子先生が陽子を呼んだのは、お昼寝の時間に子供たちを寝かしつけて一息ついたときだった。智子は大学時代の二つ上の先輩で陽子をこの保育園に紹介してくれた恩人だった。

「……なんですか、先輩?」

 ちょっとだけ嫌な予感がした。智子先輩が人目を気にするように呼び出すときは大抵面倒を押し付けられると相場が決まっていた。だけど先輩かつ恩人なので逆らうこともできない。

「あのさ、今日終わった後予定入ってたりする?」

「いえ、特には。いいですよ。先輩の代わりを務めましょう」

「やん、山川話せるから好きっ」

 何年来の付き合いだと思っているのか。断れないのも知ってるくせに。どうせ智子先輩は合コンか何かで忙しいのだろうし、陽子にそのような浮ついた話がないことも手伝って交渉はあっさりと成立した。

「今度ケーキバイキング奢ってあげる!」

 陽子は思わず溜め息を吐いた。

 これまでと同じく果たされもしない約束でチャラにされてしまった。それなのに文句一つ言わない自分はつくづくお人好しだと思う。損な性格だ。

「で、なんですか? 掃除? 洗濯?」

「ううん、そんな大変な仕事じゃないよう。もしかしたらお迎えが遅くなるかもしれない子を見といてくれたらいいの」

 大変ではないが面倒なことには違いなかった。

「わかりました。ええっと、どの子のお母さんが遅くなるんですか?」

 智子先輩はそこで複雑な表情を浮かべた。

「どうかしたんですか?」

「うーん、なんて言ったらいいのかな。お母さんじゃないんだよね」

「? じゃあ、お父さん?」

「でもない、のかな? よくわかんね。ちょい複雑な事情があるみたい」

「?」

 要領を得ない。とにかく保護者の迎えを待てばいいのだから、そこの家庭事情を考慮する必要はないはずだった。

「あ、もしかして『お母さん』って呼んだらまずかったりしますか? ほら、再婚相手を受け入れられない子供とか」

 子供相手には配慮が必要だ。特にこの時期の子供は親というものに絶対の信頼を寄せている分、ちょっとした不調和が一生のトラウマになることもある。不用意な発言は子供を傷つけるかもしれなかった。

「そういうんじゃないの。山川は知らないんだっけ? 百代灯衣ちゃんのこと」

「テイちゃん? ……すみません。担当クラス以外の子はよくわかんなくて」

 新米の陽子は担当クラスだけでいっぱいいっぱいだ。とてもよそのクラスまで目を配ることはできない。

「あ、いいのいいの。たぶん知らないと思ったし。テイちゃんってすっごく大人しいからある意味あんま目立たないかも」

 ある意味、という言葉が引っかかるが、大人しいのならばその方が面倒は見やすい。

「どんな子なんですか、テイちゃんて?」

「……踏み込み過ぎなければ別段害はないわねえ。忍耐力が物を言うかも」

「はあ?」

 真剣な表情で何を言うんだろう、この先輩は。昔から本気と冗談の区別がつきにくい人ではあるが。

「テイちゃんのことはそんなに気にすることないだろうけど、お迎えがねえ」

 智子先輩はどう説明したものかと顎に手を添えている。

「えっとね、テイちゃんはお父さんと二人暮しで、でもお父さんとテイちゃんの苗字は違っているの。でね、送り迎えはお父さんじゃなくていつも違う人なの」

「……先輩、言ってる意味がわかりません」

「ああ、うん。事実だけ言ってもわかんないよね。でも私もよくわかんないのよ。テイちゃんの家庭事情が」

 その後も智子先輩はあれこれ説明してくれたが、わからないと自覚しているだけあって内容は支離滅裂だった。

「とにかく! テイちゃんを迎えに来ましたって人が来たら、まずテイちゃんに知り合いかどうか確認させて、その後引き渡して」

「な、なんですかそれ!? なんか危険な感じしますよ!?

「大丈夫。テイちゃん、しっかり者だから。じゃね、任せたからね!」

 智子先輩は自分の仕事に戻ってしまった。これまでにも無理な頼みを何度か引き受けたことがあるが、今回のはどこか毛色が違う気がした。

 陽子は内容を聞いてから引き受けるかどうか決めればよかったと若干後悔した。



 午後五時。最後のお迎えのお母さんが来て、陽子のクラスの子供は全員帰った。後片付けと掃除を終えて、智子先輩のクラスへ赴く。智子先輩が言っていた通り、お迎えが遅れている園児が一人床に座っていた。

 ──あれがテイちゃんね。

 残っていた先生と交代し、教室に唯一人残るその子供の元へ近づいた。

 声を掛けようとして、陽子は不意に立ち止まる。

 百代灯衣に目が釘付けになった。

 ──かっわいい~っ! お人形さんみたい!

 灯衣の容姿はテレビなどで見かけるジュニアアイドルなんて目じゃないくらい整っていた。腰まで伸びた艶のある黒髪も、目元を浮き立たせる切れ長の睫毛も、小顔の中に映える高い鼻と瑞々しい唇も、少女を形作るパーツのすべてが作り物めいている。まだ四歳か五歳くらいのはずなのに、静かに絵本を捲るその座り姿はとても大人びて見えた。

 陽子にすらない色気を醸し出すその雰囲気に吞まれそうになる。子供相手に何を緊張しているのか。そうは思っても、なんだか話し掛けるのに躊躇してしまう。

 触れれば壊れてしまいそう。

 こんな天使みたいな少女がこの保育園にいたなんて。どうして今まで気づかなかったのか不思議でならない。一度見たら絶対に忘れられないはずなのに。

 立ち尽くす陽子に、灯衣が顔を上げた。

「座ったら? そこに立たれていると気が散るわ」

 それだけ告げると、灯衣は読書に戻る。舌足らずでなくはっきりとした物言いは澄んだ声色にとてもよく合っていた。陽子は素直に頷いた。

 隣に腰を下ろして灯衣を窺う。絵本だと思っていたそれはタウン情報誌で、開いているページには豪華なフレンチレストランが紹介されている。

「はあ。こんなお店行ってみたいなあ。今度パパに頼んでみようかしら」

「パ、パパ!? …………」

 ──ああ、パパね。お父さんのことよね。あー、吃驚した。口調まで大人びているからてっきり誤解しそうになった。

「ねえ、百代灯衣ちゃんよね?」

「そうよ。山川陽子先生」

 顔を上げて、今度ははっきりと陽子の目を見て言った。どきりとする。瞳まで作り物めいて見えてしまった。あまりにも漆黒で艶があったのだ。

 気圧されながらも、なんとか会話を試みた。

「難しい本読んでるんだね? テイちゃんこういうの好きなんだ?」

「別に。あったから読んでるだけ。でも、まあまあ楽しいかも」

 淡白な返答に本当に園児かと疑いそうになる。

 なんでこんな本がここにあるんだろう? なんとなく智子先輩の私物のような気がしてそれ以上考えるのはやめた。

「陽子先生はこういうお店に異性と同伴して行ったことある?」

「い、異性と同伴って……」

 随分とおませな表現である。どう返したらよいのか咄嗟に思いつかず、あるようなないようなと子供相手に濁した言葉を呟いてしまう。

「ないのね。可哀想」

 しどろもどろの陽子に、灯衣は哀れんだ笑みを向けた。

 なんつー子供だ!? 陽子の中で何かが切れた。

「あ、ある! あるに決まってるでしょ! こちとら大人ですから!」

 子供に見栄を張る私って。勢いで言ってしまい自己嫌悪。けれど、

「お父さんと、とかはナシよ? ちゃんと恋人と行かないとね」

「むうう」

 図星を指されてしまい、何も言い返せない。まるで同年代の女性と話しているかのような感覚。灯衣の貫禄はすでに陽子を上回っていた。

「かっかしないの。大人の陽子先生。お父さんも見ようによってはちゃんとした異性なんだから気を落とさないでね」

 くすりと笑い、何事もなかったようにページを捲る。

 印象を改める。この子は天使の仮面を被った小悪魔だ。

 この話題は分が悪いと判断し、逃げるように話題を変えた。というか、逃げた。

「テイちゃんはパパのこと好き?」

「好きっ。世界で一番大好き!」

 あ、やっと子供っぽい顔で笑ってくれた。お父さんの話題を振るのが正解のようだ。

「へえ。素敵なパパなんだね。ね、パパってどんな人? 先生にも教えて!」

「ダメよ。陽子先生じゃパパとは釣り合わないわ。教えるだけ無駄ね」

「……あ、あのね。別に紹介しろって言ってるんじゃないんだから」

「そんな気ないわ。パパのこと教えたら絶対好きになっちゃうもん。報われない恋は見ていて辛いのよ。だから陽子先生には教えられない。ごめんね」

 その謝罪が本心からのものであることは灯衣の表情から読み取れた。

 脱力する。なんという子供だろうか。どうして保育園児に気を遣われなければならないのよ、と腹の中が煮えたぎる。

 可愛い顔をしている分、言葉に重みがあるのだ。きっと灯衣はそれを自覚していて、わかった上で効果抜群の笑みをここぞというタイミングで向けてくるのだ。

 想像以上だ。智子先輩が「忍耐力が物を言う」と表現したのも頷ける。子供と接するというよりも、女として負けたくない気持ちが先に立ってしまう。

 いやいや、何を子供相手にムキになっているのよ。反省反省。

 なんにせよ灯衣の保護者が迎えにくるまで相手をしてやればいい話で、いくら大人びているといっても、所詮子供の戯言。受け流せばいいのだ、大人らしく。

 やがて最後のページまで目を通した灯衣は本を傍らに置き、ふう、と溜め息を溢す。

 集中が途切れた子供は一瞬で寝てしまうことがたびたびある。陽子は保護者の顔を知らないし、智子先輩は灯衣に保護者が知り合いかどうか確認させろと言っていた。もうすぐお迎えが来るかもしれないので寝させるわけにはいかなかった。

「テイちゃん、先生と遊ぼっか? 何して遊ぶ?」

「チェスか将棋がこの園にあるとも思えないし。どうしようかしらね」

 そんなことを呟いて、本気で悩んでいる。背伸びしたい子供が「わたし、あれできるよ」と自慢しているようには聞こえなかった。灯衣の呟きが陽子に聞かせるほど大きな声量ではなかったからだ。

 そして、陽子はチェスも将棋もちんぷんかんぷんだ。

「あ、じゃあトランプは? ババ抜きしようよ!」

「二人だけのババ抜きほど冷めるものないでしょう? やるならポーカーかブラックジャックかしら」

「え? ブラ? え?」

「ブラックジャック。知らないの?」

「……知らない」

 灯衣が呆れた溜め息を吐いた。本当に大人なの? と、その目が訴えてくる。陽子は若干尻込みし、首を振って奮起し直す。わからないなら聞けばいい。これも一つのコミュニケーション。しかし、教えて、の一言を言う寸前、

「じゃあ、やめときましょう。大人しく待ってるわ」

 灯衣は陽子を無視してごろんと横になった。

 そこは子供だったら嬉々として教えるところじゃないの!? 淡白すぎる!

 陽子は灯衣の旋毛を見下ろして震える息を吐き出した。構うもんか。灯衣がとことん大人ぶるのならこっちは全力で子供扱いしてくれる。ううん、こっちが子供になってやる。

 駆け足で教室を出て行き、職員室に置いてあるスポーツバッグを拾って、すぐさま駆け戻った。灯衣は激しい足音に驚いて体を起こし、息を切らす陽子に複雑な眼差しを向けた。

「室内で走ったらいけないって子供には言ってるくせに」

「いいのっ。先生だもん!」

「どういう理屈よ?」

 本当にどっちが子供かわからなくなるが、知るもんか。とにかく灯衣の気を惹きつければ勝ちなのだ。そういう勝負になっていた。

 鞄を開けてひっくり返し、中身をぶちまけた。

 飛び出てきたのは子供の興味を引きそうな種々の玩具がほとんどで、サッカーボールや野球のグローブまであった。中には陽子の趣味の少女漫画や軽食がわりのお菓子、必要最低限の化粧品も紛れていて、おませな子供ならこっちに飛びつくかもしれない。いつも持ち歩いていて本当に良かった。

 さあどうだ、と言わんばかりに胸を張る。灯衣は散らかった床をじっと眺めた。

 いけるかもしれない。どれか一つくらいには反応するはず。

「ちゃんと後片付けしないとダメよ」

 めっ、と注意されてしまった。そうして灯衣は再び寝転んでふわっと欠伸を一つ。

「て、手強い」

 がっくりと肩を落とす。子供に構ってもらえないってこんなに寂しいものだったのか。保育士って一体何。自分の仕事に自信を失いかける。

 渋々と散らかった床を片付け始めると、ふと視線を感じて顔を上げた。

 灯衣が陽子のある一点を見つめて止まっていた。

「何? どうかしたの?」

「……お人形」

「え? お人形?」

 なんてあったっけ? 陽子はどちらかというと体を動かす遊びを推奨している。女の子のおままごとに付き合うこともなくはないが、そのときは園の備品のヌイグルミで間に合わせるので、陽子の私物にお人形はなかった。家に帰れば話は別だが。

 もしかしたら鞄の中に紛れていたか。しかし、陽子があちこち目を配ってみてもお人形なんてどこにもない。

「それよ、それ」

 灯衣が指差す先は鞄の側面。ポケットのファスナーの部分に留められたキーホルダー。

「ああ、これ」

 たしかにお人形だった。金具の鎖に繫がれた古びた人形。プラスチック製で決して落ちない擦れ汚れが目立っている。

「いいでしょー」

 わずかにでも興味をもってくれた灯衣が嬉しくて、まるで鬼の首でも取ったように自慢げに見せ付ける。灯衣はなんとなくムッとなる。

「別に羨ましいんじゃないわ。なんか古い感じだし、大切な物なのかなって思っただけよ」

「意地張んなくていいってば。これで遊びたいんでしょー?」

「そんなんじゃないっ。ちょっと、外さなくていいわよ」

 嫌がる灯衣にキーホルダーの人形を渡して、陽子も手近にあったヌイグルミを拾うとなし崩し的におままごとを開始する。「うっとうしい!」「付き合ってらんない!」と声高に叫ぶ灯衣だったが、そんなやり取りも含めてようやく二人は遊びらしい遊びを始めるのだった。

「はい。灯衣ちゃんがお父さんね」

「……ねえ、普通女の子にはお母さん役やらせない?」

 渋々ではあるが付き合ってくれる灯衣を眺めて陽子は微笑む。

 なんだかんだ言っても子供ねー。

 自分を棚に上げてこっそりそう思うのだった。


 外がだんだんと暗くなっていく。

 時計を見ると午後六時半を過ぎていた。灯衣の保護者はいまだ現われない。いくらなんでも遅すぎる。いつもなら園自体とっくに灯を落としている時間だ。

 閉園時間は七時である。この場合どうするんだろう。やっぱり延長することになるのか。後で園長先生に伺わないと。

 陽子があれこれ考えていると、灯衣が立ち上がった。

「もう我慢できないわ」

「あ、おしっこ? 先生、ついて行こっか?」

「違うわよっ。失礼しちゃうわ!」

「先生がしたくなってきちゃったなー。テイちゃんついて来てくれる?」

「いーやっ。違うって言ってるでしょ!」

 ぷいとそっぽを向く。陽子はあははーと笑うだけでフォローしない。なんとなく灯衣の扱い方がわかってきた。子供扱いすると子供らしく感情的になってくれるのだ。目線を合わせて友達感覚で付き合ってあげると良いのかもしれない。

「で、どこ行くの?」

 ついて行こうとすると、灯衣は待ったをかけた。

「来なくていい。ていうか、わたし、帰るから」

「はあ?」

 帰ると言ってもまだお迎えが来ていない。どういうことだろうと首を傾げる。

「だーかーらーっ、一人で帰るの! 迎えも遅いし、待ってらんない!」

「ちょ、ちょっと駄目よ! お父さん来るまでいなくちゃ!」

「お迎えに来るのパパじゃないもん! どうせ来るのは役立たずのチンピラよ!」

「チ、チンピラ!?

 園児の口から出る単語じゃない。灯衣がチンピラと呼ぶその人物は一体何者なのだろうか。怖いお兄さんがやって来るところを想像して身を強張らせる。

 帰り支度を整える灯衣。陽子は慌ててその手を摑んだ。

「待ちなさい! 一人で帰る気!?

「そう言ったはずよ。大丈夫よ、駅前は人多いし、家もそのすぐ近くだし」

 駅の傍に住んでいるのか。たしかに大した距離ではないが、しかしお迎えが来るまで園児を預かるのが陽子の仕事だ。黙って帰らせるわけにはいかない。

「そうだ! お父さんに連絡取ってみるから、それまで待って。ね?」

 もしかしたらすぐそこまで来ているかもしれない。ぐずりだされる前に少しでも時間を稼ごうと思った。

「ダメ。パパは電話には絶対出ないから」

「そんなことないでしょ。お仕事が忙しいから? でも、履歴が残るからすぐに折り返してくれるはずよ?」

 なんにせよ、閉園時間が迫っているので連絡くらいはつけたかった。遅くても何時頃迎えに来られるか把握しないことにはこちらも戸締まりの準備ができない。

「無理なものは無理なの。だってパパは、電話に出られない」

 灯衣の声に哀しげな色が含まれていたことに、陽子は気づかなかった。

「うーん、そんなに忙しいお父さんなんだ。困ったなあ。だからってテイちゃんだけで帰らせるわけにもいかないし」

「心配ないから。むしろ、お迎えに来るチンピラに預けられる方がよっぽど危険だわ」

「あのね、さっきから言ってるチンピラって何?」

「見たことないの? わたしの送迎はいつも頭の悪そうなチンピラがやっているのよ。智子先生や他の先生も口にはしないけど怖がってるの知ってるもん」

 そんな人来たことあったっけ、と陽子は思い出そうとした。しかし、元々智子先輩のクラスの子供事情に詳しくない陽子なのだ、きっと見ていたとしても意識してないから記憶にもないはずだ。灯衣のことだって今日初めて知ったほどなのだから。

「でも、きちんと迎えに来てくれるんでしょ? だったら待とう? きっとあと少しで来てくれるから」

「あと少しで来るかもしれないから帰りたいの! いつもは時間ぴったりに来るから逃げられないけど、今日はなんだか用事があるとかで遅いから絶好のチャンスだったの! パパがお願いしてるみたいだから大人しく待ってやったけど、これ以上遅くなるんなら先に帰ってやるんだからっ」

 灯衣は陽子の手を振り切って駆け出した。

 まずいと思って後を追うが、子供の足にしては随分速くて捕まえられなかった。見失うわけにもいかず、陽子は鞄を引っ摑んで慌てて園を飛び出す。

 走りながら鞄から携帯電話を取り出し、園長先生の携帯に掛けた。事情を説明し、保護者に連絡をつけるようお願いする。電話越しに慌てふためく園長先生が気の毒になって、陽子はお詫びの言葉を心の中で呟きながら電話を切る。まったく、あのじゃじゃ馬娘め!

「こーらー、待ちなさーい!」

 しばらく追いかけっこが続き、陽子は息を切らしながらも懸命に追いかけた。すばしっこい灯衣をなんとか捕まえると、灯衣が腕の中で暴れた。

「やあっと捕まえたぁ」

「はーなーしーてっ」

「もう、怒るわよ! こんなことしたらパパが心配するでしょ!?

 急に大人しくなる。お父さんを盾にされると弱いようだ。しかし、顔は相変わらず膨れ面のまま。

「いい。わかった。こうしましょ。私がテイちゃんをおうちまで送ってあげる」

「陽子先生が?」

「うん。ちょっと待っててね」

 再び園長先生に連絡する。園長先生は保護者──灯衣の言うチンピラ──と連絡がついたようで、灯衣を送っていくことをすぐに了承した。保護者の方もなんとなく想像がついていたらしく、ものすごく低姿勢で謝っていたらしい。灯衣が言うほど危ない人ではないのかもしれない。単純に灯衣がその人を嫌っているだけなのだろう。

「ふう、とりあえず一段落。──もう、テイちゃんたら、二度とこんなことしちゃダメよ。いろんな人に迷惑かけるんだからね!」

「……ごめんなさい」

 ちょっと意外。灯衣はそっぽを向いたままだが、素直に謝った。きっと根はすごくいい子なのだ。ただ、早熟しすぎた精神とのバランスがちぐはぐで、うまく感情をコントロールできないのかもしれない。

「……パパに言わない?」

 上目遣いに殊勝なお願いを口にした。やばい。この顔はまずい。なんでも許してあげたくなってしまう。泣き落としは生まれたときから女の武器なのだ。

 陽子は灯衣の手を摑んだ。

「言わないよ。ほら、帰りましょう」

「うん!」

 それから駅までの道を二人で歩いた。駅への道は陽子の通勤路から少し外れるが、それほど大した距離ではない。

「ごめんね、陽子先生。わたしを追いかけてきたせいで着替えられなかったんじゃないの?」

 陽子は、上はトレーナー下はジャージである。が、何を謝られているのかわからないので「なんで?」と訊き返す。

「だって、そんなだと格好悪いでしょ?」

「だから、なんで?」

「……智子先生はいつもオシャレなお洋服着てるから。陽子先生もそうなのかなって思ったんだけど」

 ははあ。智子先輩らしい。おめかししないと外を歩けないのだ、あの人は。その点、陽子はファッションになんら頓着がない。家と職場を往復するだけで気合入れる必要がどこにあるのか。たまにお出掛けするとき以外はもっぱらジャージ姿である。

「心配しなくてもいいよ。私はいつもこの格好だから」

 すると、灯衣が呆れたような、憐れむような視線を向けてきた。

「可哀想。陽子先生も普段から女の子らしくしないとダメよ? そんなんじゃ素敵な恋人なんてできないんだから」

 お母さんみたいなことを言われた。大きなお世話だ。ていうか、可哀想って何よ、可哀想って。

 途中、神社の脇の道を通り過ぎたとき、街灯が少ないために神社の建物が闇に沈んでいるように見えた。得も言われぬ迫力があり、言葉少なになった灯衣が繫いだ掌をギュッと握ってきた。なんか可愛い。

 駅前までやって来ると、灯衣は安心したように弾むような笑顔を見せるようになった。

 目に痛いほどのネオンが躍る駅前の光景は、陽子はあまり好きではない。帰宅途中のサラリーマンと遊び歩いているような若者で混雑し、ストリートミュージシャンが必死に声を張り上げるのを素通りする、そんな人込みがまるで虚構のように見えるのだ。空想好きの陽子であってもここには何も見出せない。作られた流れがあるだけで生気のようなものを感じられないのだ。

 居づらそうにする陽子とは対照的に、灯衣はだんだんと生き生きしてきた。ストリートミュージシャンの人や、いわゆるお水系と思しき女性に手を振っている。不思議なことにそれらの人々は灯衣に気づくと笑顔で手を振り返すのだ。知り合いなのかしら?

「こっちよ」

 灯衣に引っ張られて進んだ道は駅の西口に繫がっている。

 少し嫌な気分になる。こちらも繁華街には違いないが東口周辺とは雰囲気がまったく異なる。ネオンに浮かぶ文字のほとんどが卑猥なお店の店名で、うろつく男性がホストっぽい軽薄な格好で道行く人に声を掛けていたり、女性の多くが肌を露出させていたりする。風俗店が立ち並ぶ中に薬局があることで逆説的に不衛生さを主張していた。

 いくらショートカットになるといっても、この道を子供が通るのは教育上よろしくないような気がした。陽子は灯衣の父親に注意を促そうと心に決めた。

「あ、ねえ、どこ行くの?」

 あと少しでこの雑踏から抜け出せる。そう思ったところで、灯衣がさらに方向転換した。ますます風俗街の奥地に進入していき、辺りの怪しさは増大していく。

 不安になり、もう一度灯衣に尋ねた。

「テイちゃん、おうちどこ? こんな道通らなくてもいいんじゃ……」

 道すがら、何度男性から声を掛けられそうになったことか。子供づれと知るとたちまち離れて行ったが、不快感は拭えない。一刻も早くこんな場所とはおさらばしたい。

「ここよ」

「こ、ここって!?

 灯衣が立ち止まった場所は通りの中心部で、目の前の雑居ビルを見上げている。エレベーターがついており、表札には各階のお店の名前が並び、ほとんどがキャバクラで、中にはサラ金を思わせる金融会社の名前まであった。

「ここの六階がおうちよ」

 開いた口が塞がらない。こんな所に住んでいるなんてどうかしていると思った。

 ──六階。そこの表札は空白になっていた。

「ありがとう。ここでいいわ。陽子先生、また明日ね!」

「ちょっと待ったぁ!」

 駆け出す灯衣を、はしっ、と抱えるように捕まえる。

「何? おうちに帰れたんだからもういいでしょ?」

「よくないわよ! テイちゃん本当にここに住んでるの!?

「そうよ。ここにいる人たちみんなお友達だからもう心配いらないわよ」

 そっちの方が心配だ、と陽子は思った。

 いくらなんでも子供を住まわす環境ではない。そりゃ、人それぞれ事情はあるだろうし偏見だということもわかっているけれど、それでも子の親として住居の選択は間違っていると思う。

 これは、灯衣の父親と話し合う必要がありそうだ。出過ぎた真似かもしれないが、放っておいても寝覚めが悪い。

「テイちゃん、お父さんが帰ってくるまで私もいるね」

「え!? どうして!? ダメよ、ダメダメ! パパと会わせられないわ!」

「なんで? テイちゃんのお父さんってそんなに後ろ暗いところあるの?」

 だったらなおさら文句の一つも言ってやらないと。

「何言ってんのよ!? 陽子先生なんてパパに会ったら一目で恋しそうだもん! 悪いこと言わないから大人しく帰って! 陽子先生にはまだ早いわ!」

「なんの心配されてんのよ、私は!」

 ええい、構うもんか。陽子は灯衣を抱えたままエレベーターに乗り込み、六階のボタンを押す。六階フロアに到着し、出てすぐ正面には事務所らしい簡素なガラス扉があり、中は真っ暗だった。

 ドアに掲げられたプレートには『探し物探偵事務所』とあった。

「探偵? テイちゃんのお父さんて探偵さんなの?」

 身を捩って腕の中から逃れた灯衣がぷんすか怒りながら「そうよ!」怒鳴った。

「ほんと強引なんだから! でも、一応送ってもらったお礼くらいするわね。しょうがないから入れてあげるけど、お茶飲んだらさっさと帰ってよね」

 さすがはしっかり者の灯衣ちゃんである。文句を言いつつも陽子を事務所に招いてくれた。住居と兼用しているらしく、入ってすぐの狭い応接間を抜けると、生活感漂う割と広めのリビングに繫がった。

 灯衣はすぐさまキッチンに向かうとお茶の用意を始めた。座っててと背中を押された陽子は手持ち無沙汰なまま突っ立って、何気なく部屋の中を見渡した。

 まず目についたものは洗濯物の山だった。それ以外にも新聞や雑誌、使ったままの食器がテーブルに散乱しており、床にもタオルやらクッションやらが落ちている。とても散らかっていた。

 陽子も自分の部屋はなかなか散らかしているが、散らかり具合はここには負ける。適当に座ってと言われてもどこに腰掛けようか迷う。

 取り込んだまま放置されていると思しき洗濯物をなんとはなしに畳み始める。半分ほど畳み終えたところで灯衣がお茶を運んできた。

「あ! 何持ってんのよ!?

「え? 何って」

 男物の下着だった。途端に顔を赤らめた陽子に灯衣が嚙み付いた。

「勝手に触らないでよ! パパの物は特に!」

「い、いいじゃない、別に。なんか洗濯物が気になっちゃったんだもの」

「そういう仕事はわたしがするんだから!」

 下着を強引にひったくられる。ムスッとする灯衣に愛想笑いを浮かべつつ、陽子はあることに気がついた。

 お母さんはいないのかな?

 灯衣からも智子先輩からも一度として話題に出なかった。きっと父子家庭なのだろう。ならばこの散らかり具合も納得できる。灯衣の早熟さの理由も垣間見えた気がして、陽子は胸が締め付けられた。

 出されたお茶はとても美味しかった。洗濯物の残りを畳んでいる灯衣を黙ったまま窺う。本当にしっかりした子供だ。お茶を出したり家事をこなしたりできるのは普段からそのように躾けられているからだろう。陽子は父親がどんな人物なのかますます気になった。

 午後九時を過ぎたとき、事務所の玄関から音がした。灯衣はさっと立ち上がり、嬉しそうに走って出て行く。話し声と足音が近づいてきて、背の高い男性がリビングに入ってきた。陽子は立ち上がり会釈をする。

「あの、お邪魔してます。私、のぞみ保育園の保育士で──」

 遮るように深々と頭を下げられる。

「ええ。テイから聞きました。すみません、こんな遅くまで見て頂いて」

 優しくて柔らかな声だ。意外にも、顔は想像していたよりもずっと若くて、下手をすれば陽子と同年代くらいに見える。しかし、五歳の子供を抱えるからには同じ二十三歳とは思えず、見かけ以上に年を食っているのか、中性的な雰囲気が邪魔をして年齢を推し量るのが難しい。

 男性と数秒間見つめ合った。なぜか陽子は男性から目が離せない。いや、見つめてくるあの瞳から視線を逸らせなかった。

 どういうわけか、心音が加速した。

「あの、──申し遅れました。僕はテイの父親で日暮旅人です。いつも娘がお世話になっております」

「あ! すみません、えっと、私、山川陽子と申します! 初めましてこんばんは!」

 いけない、ぼーっと見つめている場合じゃない。こっそり灯衣を窺うと、何を勘違いしたのか陽子をむーっと睨んでいた。

「山川陽子先生、……ですか」

 旅人がじっと陽子を観察するように眺めた。

 あ、まただ。旅人に見つめられると身動きが取れなくなる。それは後ろめたい気持ちを見破られたときの、ギクリと身を固めるのに似ていた。

 すべてを見透かしているかのような目。けれど、嫌悪感は一切なかった。

 その理由を、陽子は旅人の目の中に見た気がした。

 旅人は痛みすら覚えるくらい哀しい目をしている。