2回表



 キャナルシティ博多――通称『キャナル』は、アパレルショップや飲食店、映画館に劇場など、ありとあらゆる娯楽を備えた複合商業施設だ。運河という名前の通り、建物の内部には水が流れ、大掛かりな噴水もある。ステージでは頻繁に催し物が行われ、イベントやライブなどで芸能人が来ることもあった。天神と博多の中間、歓楽街・中洲のすぐ傍に位置している、福岡市のランドマークである。

 榎田は最近、この付近のネットカフェに滞在していた。

 今日は平日だからか、キャナルを訪れる客は少なかった。地下中央にいる似顔絵師たちも退屈そうな顔をしている。シルバーアクセサリーやパワーストーンなどを並べた露店も、揃って暇そうだった。

 友人の拷問師であるマルティネスから、電話で『話がある』と言われたので、キャナル地下一階のカフェで落ち合うことになった。カフェオレを飲みながら、窓側の席で待つこと数分。190センチを超える浅黒い巨体が、店の入り口に姿を見せた。

 手を上げて、こちらの居場所を知らせるまでもなかった。アイスコーヒーを注文したマルティネスは、榎田の派手な色の頭にすぐ気付いた。

「悪いな、遅くなった」

 歩み寄り、向かい側の椅子に座る。

「いい年して、迷子になるかと思ったぜ」マルティネスが苦笑した。「キャナルってのは、どうしてこう複雑な造りなんだろうな」

「一階だと思ってた場所が、地下一階だったりするよね」

「そうそう。いったい誰が作ったんだ、こんな建物」

「デザインしたのは、ジョン・ジャーディっていうアメリカ人の建築家らしいよ」

「外国人の考えることって、理解しがたいと思わねえか?」

「その顔でそういうこと言っちゃう?」ドミニカ人のマルティネスだって、榎田から見れば立派な外国人だ。

「それで、話ってなに?」と、さっそく本題に入る。

「調べてほしいことがあるんだ。この前、天神で交通事故があっただろ?」

 その事故なら、ニュースで見た。「渡辺通りの交差点だっけ? 車が暴走したんだよね」

「そうだ」頷き、続ける。「周囲の車にぶつかって、逃走したんだ。その運転手を捜してる」

「あの辺は防犯カメラも多いし、車種とナンバーくらいなら、すぐに割り出せると思うけど」

「そりゃ助かるぜ」

 マルティネスは視線を外に向け、突然「あっ」と声をあげた。窓から見えるセンターウォークに、なにか見つけたようだ。

「おい、あれ」彼が指差した先には、若い女がいた。よく見れば、知った顔だ。女ではなく、男である。「林じゃねえか?」

「ホントだ」

 女の格好をして、きれいに化粧を施した林が、キャナルの北側から中央へ抜け、博多駅方面に歩いていくところだった。

「なんだ? 買い物か?」

「だろうね」

 林は、両腕に大量のショップバックをぶら下げ、颯爽と歩いている。こちらに気付くことなく、そのままカフェの横を通り過ぎていった。

「しっかしよぉ」と、マルティネスが首を捻る。「あいつ、なんでいつも女装してんだろうな」

「ある種の同一視でしょ。亡くした妹に自分を重ね合わせて、満足してるんだよ」

「そうかぁ? どっちかっていうと、好きでやってるように見えるけどな」


 冷房の効いた施設内から一歩外に出ると、むっとした熱気が体にまとわりついてきた。六月末日の福岡は日差しが強く、うだるような暑さだ。Tシャツにショートパンツ、足元はミュールという涼しげな格好をしていても、少し歩くだけで汗が滲む。両手を塞ぐ大荷物も、林の体力を奪っていく。

 少し買いすぎたな、と反省する。夏物の服を買い込むためにキャナルシティを訪れたが、試着する度にいちいち気に入ってしまい、どれを買うか悩んだ末、結局すべてをレジまで持っていくこととなった。何でも似合う自分が悪い。

 キャナルを出ると、毒々しい色をしたカエルのモニュメントが見えてくる。その先にある横断歩道の信号が、ちょうど青に変わるところだった。『とおりゃんせ』のメロディが流れ、人々がいっせいに歩き出し、白黒の道を渡っていく。林もそれに続こうと足を踏み出したところ、バッグの中の携帯電話が振動した。着信だ。歩きながら取り出し、耳に当てる。

『今どこ?』聞こえてきたのは、馬場の声だった。

「キャナルの前だけど」

『明太子は?』

 と言われ、はっと思い出す。そういえば、馬場から「明太子を買ってくるように」と頼まれていたのだった。危ないところだった。手ぶらで帰ろうものなら、この男が煩い。

『まさか』馬場の声色が変わる。『忘れとったっちゃなかろうね?』

「ちゃんと覚えてるって」すっかり忘れていた。「ちょうど、今から買いに行くところだ」

『いつまで待たせるとね。はよ買ってきいよ』

「うるせえな、半日くらい我慢できねえのか」この明太子中毒者が。塩分摂りすぎて早死にしやがれ、と心の中で毒づく。

『わかっとる? 無着色のレギュラーやけんね、間違えんで――』

 馬場が言い終わらないうちに、林は「わかってる!」と電話を切った。



 馬場には恩がある。明太子五年分の報酬で、命を救ってもらった。その上、行き場のない林を部屋に住まわせてくれている。彼の所有する事務所に居候しながら、林は報酬を支払い続けていた。

 駅地下街にある直営店で指定の明太子を購入し、博多駅の筑紫口を出る。しばらく進んだところに、小さな雑居ビルがある。その三階の窓に、『馬場探偵事務所』の文字が見えた。

 事務所のドアを開けると、馬場は上半身裸で姿見の前に立ち、素振りをしている最中だった。ウエイトリングをつけた金属バットを、「ふんっ」と唸りながら強振している。盛り上がった上腕筋や腹筋が汗で湿っていて、見ているだけで暑苦しい。とても不快だ。その鏡は、俺が全身のコーディネートを確認するために買ったのであって、お前のバッティングフォームをチェックするためのものじゃないんだぞ、と言いたいところではあるが、林は我慢した。

「部屋ん中で素振りすんなって。邪魔なんだよ。バッセン行け、バッセン」

 声をかけると、馬場がこちらに気付いた。「おかえり。明太子は?」

 開口一番それかよ、と呆れてしまう。

 はいはい、ちゃんと買ってきましたよ。無言で『ふくや』の袋を掲げる。馬場は目を輝かせた。

「無着色の?」

「レギュラー」

 合言葉のように間髪入れず答えれば、馬場は「合格!」と満面の笑みを見せた。しかし、すぐに顔色を変え、林の手荷物を指差す。「なんね、その買い物袋の山は」

「なにって、服だよ、服。キャナルでセールやってたんだ」

「……また無駄遣いしてからくさ」

「別にいいだろ、自分で稼いだ金なんだし」

「そげんたくさん、服なんかいらんめえもん」

「俺には必要なんだよ」むっと眉をひそめ、言い返す。「お前だって、野球のグラブ、何個も買ってんじゃねえか。腕、何本あるんだよ。クモかよ」

「俺、一応ユーティリティやけんね」馬場は得意げだ。「内野手用と外野手用、ファーストミットにキャッチャーミット。全部、用途が違うとよ」

「俺の服だって、用途が違うんだよ。仕事用とか、プライベート用とか」

「どれも同じに見えるばってんねえ……」と言いながら、馬場が袋の中身を漁りはじめた。愛らしいデザインのショップ袋の中に、汗まみれの腕を無遠慮に突っ込んでいる。

「おい、汚ぇ手で触んな。汗拭けよ」

「……なん、この布。タオル? ちょうどよかった、汗拭いてよか?」

「タオルじゃねえ、ショールだ! やめろ!」

 慌てて取り上げたが、馬場の悪戯は続く。今度は、大きなリボン付きのカチューシャを袋から引っ張り出し、頭につけた。

「どげん? 似合う?」

 汗で濡れたぼさぼさの髪に、ピンクのリボンが埋まっている。

「やめろ、汚れる!」取り返そうと手を伸ばすが、15センチも身長差のある男の頭には、どうやっても届かない。

 姿見を覗き込み、馬場は満足そうに頷いている。「……なかなか似合うやん、俺」

「似合ってねえよ!」

 我慢の限界だった。林は金属バットを奪い取り、振り回した。「いい加減にしろ、この野郎!」

「わっ」馬場が仰け反った。「あぶなっ」

「撲殺してやる!」

「バットは人を殴るためのもんやなか!」馬場は慌てて客用のソファに手を伸ばし、その上にあったクッションを掴んだ。林が眠るときに枕替わりにしている、安物のクッションだ。それを使って、なんとか攻撃を防ぐ。しかし、防戦一方である。「人々に夢と希望を与えるためのもんたい!」

「うぜえ!」

「道具は大事にせな!」

「だったらおとなしく殴られろ!」

 金属バット対クッションによるチャンバラが繰り広げられ、物は倒れるわ机は凹むわで、部屋の中は滅茶苦茶だ。

 渾身の一振りを、馬場に食らわせる。叩かれたクッションが、ぼふっ、という音を立て、床に落ちた。丸腰になった馬場へにじり寄り、その頭めがけて金属バットを振り下ろす。馬場は両手で挟むようにして、バットを受け止めた。

 そのときだった。遠慮気味にドアの開く音が聞こえた。

「あ」

 真剣白刃取りのような格好のまま、林と馬場は硬直した。ぴたりと動きを止め、事務所の入り口に顔を向ける。

 そこに立っていたのは、見ず知らずの女だった。特に殺気は感じられないので、殺し屋の奇襲ではなさそうだ。女は、馬場と林を見比べ、目を数回瞬いた。

「……あの」恐る恐る、女が尋ねる。「馬場探偵事務所って、ここですよね?」

 年中暇を持て余している探偵事務所に、まさかの来客のようだ。

「ええ」馬場が答えた。「私が、所長の馬場です」

「ど、どうも……」頭にリボンをつけた半裸の男を、女はなんとも言えない表情で見つめている。

 馬場はカチューシャを放り投げ、Tシャツを着てから、にっこりと笑った。「失礼しました。どうぞ、こちらへ」

 言われるままに、女が中へと進む。不安そうに、きょろきょろと室内を見渡していた。馬場探偵事務所は、パーテーションによって半分に仕切られ、応接スペースと生活スペースに分かれている。仕切りの向こう側にある、馬場が散らかしたゴミや洗濯物の山を目に留めると、女の顔色が変わった。変なところに来てしまった、と後悔している様子だ。

「お座りください」客を促してから、林に声をかける。「リンちゃん、お茶用意して」

「はあ? なんで俺が」

「いいけん、早く早く」

 林は渋々、棚からグラスを取り出した。客人など滅多に来ないので、どのグラスも長いこと役目を与えられず、埃をかぶっている。これはさすがに、一度洗った方がよさそうだ。面倒くせえな。肩をすくめ、シンクに向かう。

 パーテーションの向こう側で、馬場の声がする。「それで、ご用件は?」

 女は、しばらく黙り込んでいた。それから、小さな声で告げた。「……夫の、浮気調査を、お願いしたいのです」


「――林といえば」コーヒーが半分ほど残っているグラスから口を離し、マルティネスが話題を変えた。「酷かったよな、この前の試合」

「うん」ストローを咥えたまま、榎田も頷いた。「失策三昧だったね」

 トンネルに送球エラー、さらにはファンブルと、本当に酷いプレーだった。あれでよく勝てたな、と思う。

「二遊のコンビネーションが悪いと、一塁手も気が散るんだよ。おかげで俺までエラーしそうになっちまう」

「それは単にマルさんが下手なだけじゃない?」

「うっせ。外野は黙ってろ」

 吸い込んだカフェオレを、喉に流し込む。「ま、さすがに試合中に喧嘩しはじめるのは、勘弁してほしいよね」

 まったくだ、とマルティネスも同意する。「大会も近いんだしよ。あんなことやってたら、相手に笑われちまうぜ」

「まともにゲッツーとれない二遊間なんて、うちのチームくらいじゃない?」

「息の合ったプレーをしてもらいたいもんだな。ランディとDJみたいに」

「誰、それ」聞いたことのない選手の名前だった。「メジャーリーガー?」

「海外小説の主人公だよ」

「マルさん、小説なんか読むの?」驚いた。彼の口から文学の話題が飛び出してくるとは。この豪快な容姿をした男が、しずかに本を読んでいる姿なんて、まったく想像できない。榎田は馬鹿にしたような声で笑う。「どうせゲイ小説でしょ」

「知らねえのか? ピーター・レフコートの『二遊間の恋』」

「期待を裏切らない男だね、キミは」

「馬鹿にすんなよ。名作なんだぞ」マルティネスがむっとした。それから、得意げに語り出す。「ランディはな、ショートストップのスター選手なんだよ。妻も子どももいたんだが、同じチームで二塁手のDJと付き合いはじめるんだ。それが世間にバレちまって、チームメイトからも差別されるわ、ファンからはブーイングされるわで、大変なことになるんだよ。敵チームからの風当たりも強くてさ。ある試合中、相手チームのキャッチャーがランディを侮辱したんだ。下品な言葉で挑発して、さらに故意に死球を当てた。そのあと、ノーアウトで三塁ランナーになったランディは、どうしたと思う?」

 榎田は首を捻る。「さあ」

「なんと、ホームスチールしたんだぜ」興奮気味に、マルティネスが言った。「ノーアウトなのに、本塁に突っ込んだんだ。自分と恋人を侮辱して、故意死球を要求した憎たらしいキャッチャーに、体当たりした。スチールが成功しようが失敗しようが、彼にとってはどうでもよかったんだよ。ただ、相手キャッチャーをぶちのめすことだけを考えてた。ランディは見事、二百二十五ポンドの巨体を弾き飛ばして、拳を突き上げるんだ。『思い知ったか、この野郎』ってな」

 アツいだろ? とマルティネスが声を弾ませる。そうだね、と榎田は適当に同意した。

「そんなことより、さっきの当て逃げの話だけどさ」

 話題を仕事に戻そうとすると、マルティネスは口を尖らせた。「そんなことって……つまんねえ奴だな、ちょっとは他愛ない会話を楽しめよ。友達なくすぞ」

「ボクも暇じゃないんでね」人の話をじっくり聞いてやるのは情報屋の基本だが、このあとにも用事が詰まっている。夜には、別の客と会う予定もあるのだ。

「どうしてマルさんが、暴走車の当て逃げ犯を探してんの?」

「ジローたちの手伝いだよ。復讐屋の」

 復讐屋は、その名の通り復讐することが仕事だ。『目には目を、歯には歯を』がモットーで、オーバーキルはご法度。銃で三発撃たれた相手には、三発だけ撃ち返す。それ以上の攻撃はしない。与えられた分と、同じだけの痛みを与える。それがジローの方針だった。

「例の交通事故で車をぶつけられた男から、依頼があったんだ。大事な新車を台無しにされたから、復讐してほしいって」

 ジローの元に舞い込むのは、恋人や家族を殺された被害者遺族からの依頼がほとんどだ。交通事故の復讐というのは、なかなか珍しいケースである。

「あいつら忙しくて、今は手が回らないらしい。だから代わりに俺が、その依頼を引き受けることになった」

「……マルさん、暇だもんね」

 憐みの視線を向ければ、マルティネスは巨体を縮め、ため息をついた。「そうなんだよ」

「儲からないでしょ、拷問師って」

「まあな。最近は、軟弱な野郎ばかりでさ。拷問するまでもなく情報を吐いちまうから、俺たちの仕事がねえんだ」マルティネスが愚痴をこぼす。「この前も、久々に依頼が入ったってのに、すぐキャンセルになっちまったんだぜ? 依頼主は、どっかの小さな組のヤクザだったんだがよ。なんでも、幹部のひとりが組を裏切って逃げたとかで、その行方を吐かせようと、幹部と親しかった舎弟を捕まえたんだ。それで、俺が呼ばれたんだが……その舎弟はすぐに怖気付きやがって、俺が到着する前に居場所を吐いちまったんだよ」

 情けねえ話だろ、とマルティネスは肩をすくめた。

「もっと宣伝してみたら、仕事が増えるかもよ? 広告とか出してさ」

「そんな金ねえよ」

「だったら、いい方法がある」

 榎田はバッグの中から、タブレットパソコンを取り出した。インターネットに接続し、あるサイトを開くと、画面をマルティネスに向けた。その中央には、『裏ジョブドットコム 福岡版』という文字が大きく表示されている。

「……裏ジョブ? なんだ、これ」

「所謂、闇サイトってやつ。今、福岡でいちばん勢いのあるサイトなんだって。ここの仕事募集の掲示板に書き込めば、いい宣伝になると思うよ」

「なんでもネットで済ませられる時代になっちまったなあ」

 榎田がすばやくキーボードを叩く。「『情報を吐かせたい! 苦しませたい! 痛めつけたい! どんなニーズにもお応えします。格安拷問師派遣。見積もりは無料、メールにて』――こんな感じの文でどう?」

「『初回お試しサービス50%オフ』も付け加えとけ」

「オッケー」

 そろそろ行くか、とマルティネスが腰を上げたときだった。

「あ、そうだ。マルさんにもあげるよ、これ」榎田はスキニージーンズのポケットから、新作を取り出した。「セアカゴケグモ型盗聴発信機、バージョン2・0」

 マルティネスが首を捻った。「バージョン2・0? 前のと、どう違うんだ?」


「――浮気、ですか」

 馬場が問い返すと、女は頷いた。「ええ。夫が余所で女を作ってるみたいで……それを調べてもらいたいんです」

「余所で女を、ねえ……」と唸ってから、馬場が声を張り上げる。「リンちゃーん、お茶まだぁ?」

「うっせえ!」俺はお前の秘書じゃねえんだぞ、と悪態をつきながら、林はコップを客に差し出した。「ほらよ! 粗茶!」

 テーブルに勢いよく置いた拍子に、中身がすこしこぼれてしまった。それをティッシュで拭きとりながら、馬場がへらっと笑う。「すみませんね、しつけがなっとらん子で」

 林は「ふんっ」と顔を背け、馬場の隣に座り、胡坐をかいた。

 突然の客人――飯塚久美子の話によると、彼女の夫・忠文は、ごく普通の会社員だそうだ。久美子は三十三歳、忠文は三十一歳。結婚四年目で、子どもはいない。久美子は専業主婦として、夫を支え続けてきた。

 ところが、半年ほど前から、夫の様子に異変があったらしい。

「帰りが、いつも遅いんです」

 遅くとも夜九時には退勤しているはずなのに、明け方の四時過ぎに帰ってくることが多くなった。理由を訊けば必ず、「会社の付き合いで」「取引先の誘いを断れなくて」と返ってくる。出張だと言って、家を空けることも増えた。不審に思った久美子は、夫の留守中に部屋を調べてみた。すると、大変なものを発見してしまったという。

「これが、机の中に……」

 と、久美子が数枚の名刺を馬場に手渡した。『Club.Eve』という文字と、女の名前が書かれている。どこからどう見ても、水商売の名刺だ。

「帰りが遅いのは、この店に通い詰めているせいだったんです」

 だから何だ。林は、欠伸を噛み殺しながら呟く。「別にいいじゃねえか、キャバクラで遊ぶくらい」

「週に三日もよ? 異常だわ!」

 さすがに多すぎる。仕事の付き合いの範疇を超えている。これはもしかしたら、ホステスに入れ込んでいるのではないだろうか。しかし、そんな金はどこから? 月々の給料は、久美子がしっかり管理している。夫が好きにできるのは、月五万円の小遣いのみ。不安が募り、久美子はとうとう我慢ができなくなった。そして、次の行動に出た。

「夫の、携帯電話を調べたんです」

「……マジかよ」林は露骨に嫌そうな顔をした。いくら夫婦とはいえ、そんなことまでしていいのか。プライベートもへったくれもないな。

「電話帳には、女の名前がたくさん登録されていました」

 馬場が首を傾げた。「女の名前が、たくさん?」

「アイコ、カオリ、マキ」久美子が、次々と女の名前を唱えはじめた。五十音順にすべて暗記しているのだろうか。恐れ入る。「ミユ、ユリ、レイナ……念のため、すべて番号も控えてあります」

「こわっ」ぞっとして、林は思わず声をあげてしまった。小声で、「そりゃ、浮気もしたくなるわな」と呟くと、馬場に頭を軽く叩かれた。

「その店のことを、旦那さんには訊きました?」

「いいえ、なにも」久美子が首を振る。「ですが、心配になって、店に行ってみたんです」

「うわ、そこまでするか」と林は呆れた。その余裕のなさが、鬱陶しいというか、なんというか。

「店の中に入ったんですか?」

「いえ。夫が出入りしないか、近くに隠れて見張りました。そしたらやっぱり、夫が現れたんです。若い女と二人で、店から出てきました。車に乗り込み、どこかに消えていったんです」

 久美子は「そのときの写真が、これです」と言い、今度は写真数枚を手渡した。どの写真にも、男女の仲睦まじい姿が写っている。

「……あんた、主婦辞めて探偵になれば?」つい口から出てしまった。余計なことを言うなという表情で、馬場がこちらを睨んでいる。

「タクシーに乗って追いかけようかと思ったんですが、あまりにショックで気力がなくなり、そのまま帰りました」

「さぞ辛かったことでしょう」と、馬場が心にもなさそうなことを言ったので、林は鼻で笑った。

「夫が本当に浮気しているのか、あの女とはどういう関係なのか……真実が知りたいんです。どうか、調べてもらえませんか」

 愚かだな、と林は思った。夫の心が自分に向いていないことなど、とっくに気付いているくせに。決定的な証拠を突きつけられないと、現実を認めることができないのだろう。夫を疑っておきながら、残された可能性を信じている。面倒くさい女だ。

「お引き受けしましょう。調査期間は、二週間でよろしいですか?」

 久美子は頷いた。調査の方法や費用について一通り説明を聞くと、すぐに書類にサインをした。

「では、今から二週間後――七月十四日に、調査結果を報告させていただきます」

 と、馬場が告げる。

 手続きを済ませた久美子は、馬場に頭を下げ、事務所を後にした。窓から彼女の背中を眺め、林はため息をつく。

「調査するまでもねえな」あんな嫁じゃ、浮気したくなる気持ちもわかる。「黒だよ、黒」

「それはどうやろ」馬場は、夫の無実を信じているようだ。「変やと思わん?」

「変?」特に、なにも思わなかったが。「なにが?」

「電話帳よ。女の子の名前が多すぎる」

「何人もの女と浮気してんじゃね? 夫もまだ三十そこそこだし、性欲が有り余ってんだよ」

「ホステスにお金をつぎ込む場合って、大抵ひとりの子にハマるもんやない?」

 と訊かれても、今までホステスに金をつぎ込んだことも、特定の女にハマったこともない林にとっては、答えることのできない質問だ。「知らねえよ、そんなの。経験談か?」

「名刺の数も多すぎるし」

 久美子が持ってきた三枚の名刺には、それぞれ別の名前が書かれている。一枚目は『真紀』、二枚目は『ユリ』、三枚目は『愛子』。先程、久美子が呪文のように唱えていた名前と、どれも一致する。

 名刺には女の名前のほかに、メールアドレスと電話番号、それから『Club.Eve』という店名に、店の住所も記載されていた。

 それを見て、馬場がはっとする。「この、Eveって店……」

「知ってんのか?」

 と訊いても、馬場は答えなかった。代わりに、どこかへ電話をかけはじめる。「あー、もしもし? 大和くん?」

 大和というのは、知り合いの青年の名だ。小技が得意な男で、掏り師を生業としている。林も以前、一度だけ彼の被害に遭ったことがある。腕のいい男だが、それだけでは食べていけず、副業でホストをしているそうだ。

「Eveっていうクラブ、知っとる? 大和くんの店の系列店やろ?」大和の働いている店の名前は、たしか『Adams』だったはずだ。「あ、やっぱりそうね。店長さんと知り合い? そんなら、ちょっと頼みがあるっちゃけど……Eveで働きたいっていう子がおるけん、雇ってもらえるよう紹介してやってくれん?」

 大和はすんなりと頷かなかったようで、それからしばらく馬場の懇願が続いた。数分後、とうとう相手が折れたようだ。馬場は「ありがとね」と言って、電話を切った。

「オッケーってさ」林の方を振り返り、馬場が笑いかける。「よかったね」

「は?」

 よかった? なにが「よかった」のだろうか? 

 呆けた顔をしていると、馬場がぐっと親指を立てた。「頑張ってね、リンちゃん」

2回裏

「――なんだと?」猿渡は目の前の女を睨みつけた。

「だからさぁ」女はカウンターに頬杖をつき、面倒くさそうに繰り返す。「ウチではあんたを雇えない、って言ったの」

 グエンから送られてきたリストを頼りに、北九州市内の仲介屋を片っ端から当たってみた。ところが、猿渡の話に耳を傾けようとする仲介屋はおらず、どこも門前払いだった。

 最後の一軒は、北九州市小倉北区紺屋町にある、『レディ・マドンナ』という名前のダーツバーだ。ここの主が、殺し屋に仕事を斡旋しているらしい。キャバクラや風俗店、ホストクラブにコンセプトバーなど、夜の店が一通り揃うこの界隈の、一際目立たない場所に、レディ・マドンナはひっそりと店を構えていた。アメリカの治安の悪い地域にありそうな、猥雑な雰囲気のバーだ。店内のあちこちで、赤やら青やら統一感のないネオンが光っている。店の奥にはダーツ機が三台並んでいて、数人の若者が遊んでいた。

 従業員は、カウンターの中に女がひとり。彼女が店主らしい。顔も体も、パンク風の派手な女だった。赤く染められた長髪を、真ん中で左右に分けている。上半身はボンテージキャミソールを着ていて、剥き出しになった両肩には蜘蛛のタトゥが刻まれていた。美人ではあるが、目の周りを囲む濃いアイラインが、近寄りがたい強烈な印象を与えている。

 今までの仲介屋と違って、その女店主は猿渡の話を聞く気があった。彼女に仔細を説明し、仕事を回してもらうよう頼んだ猿渡だったが、女は「それは無理」と一蹴した。

 納得がいかず、その理由を問い質す。「なんでなん」

「あんたさ」女店主は煙草を咥え、火をつけた。「この町で仕事したこと、ないんでしょ」

 たしかに彼女の言う通り、北九州で仕事をしたことは一度もない。猿渡のデビュー戦は東京で、その後はずっと関東地方での依頼ばかりをこなしていた。

「俺はマーダー・インクに、七年も勤めた」

「マーダー・インク? ……ああ、噂は聞いたことあるわ」ふう、と白い煙を吐き出しながら、女が嗤う。「入社試験で名前さえ書ければ、誰でも就職できるっていう会社でしょ?」

 猿渡が不愉快そうに顔を歪めると、女は逆に愉しげな表情を浮かべた。むかつく女だ。馬鹿にしやがって。くそが。猿渡は舌打ちする。

「誰かの紹介ならともかく、無名の殺し屋を雇ってやれるほどの余裕はないの。さあ、早く帰んな。仕事の邪魔よ」蠅を追い払うように手を振りながら、女店主が言った。こうまでされて食い下がるのは、さすがにプライドが許さない。猿渡は店を出ると、ドアを乱暴に閉めた。

 滞在しているホテルまでの道を歩きながら、ため息をつく。これで全滅だ。せっかく仲介屋リストを手に入れたというのに、結局どこにも雇ってもらえなかった。

 だが、今の自分には、他に働き口を見つける方法がない。このリストだけが頼りなのだ。明日は少し遠出して、福岡市内を回ってみるか。まるで、求人誌片手に仕事を探し回る、リストラされたサラリーマンみたいだ。笑える。そんなことを考えながら、小倉駅前の広場を歩いていた。そのときだ。

「――そこのお兄さん、浮かない顔してますなぁ」

 男の声が聞こえた。

 振り返る。ベンチに、若い男が座っていた。歳は猿渡と同じくらいだ。眼鏡をかけている。ストライプシャツに細いネクタイ、その上から紺色のジャケットを羽織り、下は白のチノパンというビジネスカジュアルを爽やかに着こなしている男が、猿渡に向かって手を振っていた。

 仕事が見つからない挙句、変な男に絡まれるなんて。今日はついてない。

 猿渡が踵を返し、再び歩きはじめると、

「えっ、無視? ちょっと待ってよ」

 男が追いかけてきた。

 猿渡は顔を歪めた。いったい何者なんだ、この男は。気味が悪い。引き離そうと、足を速める。

 それでも、男は後をついてきた。

「ひどくない? 久々に会った友人に、それはないって」

 友人、という言葉が引っかかり、猿渡はぴたりと足を止めた。再度振り返り、男の顔をまじまじと見つめる。

「久しぶりだね、猿っち」

 男はにっと歯を見せた。

 思い出した。自分のことを『猿っち』と呼ぶのは、あいつしかいない。「お前、まさか――巨か?」

「やっと思い出してくれましたか」

 新田巨也。高校時代の同級生。同じ野球部で、バッテリーを組んでいた相手だ。まさか、こんなところで会うなんて。

「なんしよん、お前」

「仕事だよ、仕事。今、こっちに住んでるの」と言って、新田が微笑む。「立ち話もなんだし、『資さん』でも食べに行かない?」

 小倉駅南口のペデストリアンデッキを降り、モノレール沿いに歩いていくと、すぐに平和通り駅が見えてきた。そこから魚町商店街のアーケードに入ったところに、『資さんうどん』がある。北九州市民に馴染みの深いうどん屋だ。猿渡は冷やし山かけうどんを、新田は焼きうどんを注文した。

 同じ野球部でバッテリーを組んでいたとはいえ、新田とは特に仲がよかったわけではない。部活上だけの付き合いだった。それに加えて、高校以来の七年ぶりの再会ということもあり、なにを話せばいいのかわからなかった。猿渡は黙って、うどんを啜った。居心地が悪く、息苦しさを感じてしまう。

「……ところでさー」

 しかし、新田の方はそうでもないようだ。愉しげに目を細め、いきなり核心をついてきた。

「猿っち、殺し屋なんだって?」

「ぶっ」口に含んだ水を、思わず吐き出しそうになってしまった。げほげほと咽ながら、訊き返す。「な、なんで、知って――」

「小倉で噂になってるから。若い殺し屋があちこち仲介屋を回って、売り込みしてるって。猿っちのことでしょ?」

 新田は涼しい顔で『殺し屋』という単語を口にした。ということは、この男も裏業界の人間なのだろう。もしや、同業者か?

「……何者なん、お前」

「申し遅れました」新田が姿勢を正した。「わたくし、こういう者でございます」

 と畏まり、名刺を渡す。『殺し屋コンサルタント 新田巨也』と書かれていた。

「殺し屋コンサルタント?」

「文字通り、殺し屋の相談役、ってやつ?」うどんを啜りながら、説明する。「殺し屋は皆、様々な考えをもって仕事をしてらっしゃるわけです。効率よく金を稼ぎたい、有名になりたい、スリルを感じる仕事がしたい――そういう、ひとりひとりのニーズを叶えるべく、的確なアドバイスを与えるのが、俺の仕事なの。こう見えて、結構敏腕なんだよ? 今だって、売れっ子殺し屋を何人も抱えてるし」

 高校時代に同じ野球部で、ピッチャーとキャッチャーだった二人が、まさかそれから七年後に、殺し屋とそのコンサルタントとして再会するなんて。奇遇というか、世間は狭いというか。

「それよりさ、猿っち、仕事探してるんでしょ? 俺でよかったら相談乗るよ。この辺りにはコネもあるし、紹介できるかも」

 いくら同級生とはいえ、得体の知れない仕事をしている男だ。そう簡単に彼の話を信じるわけにはいかない。だが、コネという言葉が気になった。『大事なのはコネクション』という元上司の言葉が、頭の中に蘇る。この機会を逃せば、もう二度と仕事が見つからないような気がして、戸惑う。

 悩んだ末、今までの経緯を新田に話すことにした。高校を卒業してから、マーダー・インクに入社したこと。殺し屋として働いてきたこと。七年勤め、つい先日辞めたこと。

「会社、辞めちゃったの? どうして?」

「つまらんけ」と、吐き捨てる。

 あの会社での猿渡は、まるで、毎日ひたすらサンドバッグだけを相手にしているボクサーのようだった。スパーリングをするわけでもなく、試合に出るわけでもなく、ただただ無抵抗な黒い塊を殴り続ける。そんな気分だ。ひ弱な人間を、一方的に殺すだけ。相手がやり返してくることはない。

「俺は、もっと強い奴を相手にしたかった。どうせやったら、同じ殺し屋と戦いたい」

「なるほどね。それでフリーになって、仲介屋を回ってみたけど、どこにも雇ってもらえなかった、ってわけだ?」

「無名やけ雇えんっち」だが、納得がいかない。それのどこが悪いんだ。プロ野球の審判が無名であるほど優秀だと言われるのと、同じことではないか。殺し屋だって、名前を知られない方がいいに決まっている。

「無名=優秀、っちことやないん?」

 今まで猿渡は、誰にも知られることなく、一度もしくじることもなく、仕事をこなしてきた。だから自分は、無名なのだ。名前が広く知られているなんて、秘匿性を必要とする暗殺者として失格ではないのだろうか。

 そう語る猿渡に、新田は苦笑した。

「君の殺し屋論にも、一理あると思う。どこかの組織に所属している殺し屋だったら、その考えは正しいだろうね。でもね、名前を売らなきゃいけないフリーランスじゃ、そうはいかないの。特に、この町では通用しない。福岡に、どれだけ多くの殺し屋がいると思う?」

「さあ」そっけなく答える。「わからん」

「そう、わからないんだ。とにかく多い。人口の3パーセントが殺し屋、とまで言われてるんだよ。その中で、いかに目立てるか。インパクトを残せるか。それが重要なの」新田は真剣な面持ちで語る。「『噂』が『評判』になり、『名声』に変わる。それが行き過ぎて、『伝説』になるんだ」

 今まで会社で積み上げてきたものは、ここでは何の役にも立たない。福岡においては、猿渡でさえも無名の新人同然。これまでのキャリアをかなぐり捨てて、ゼロからのスタートというわけだ。面白い。上等じゃないか。ここ数年、自身にまとわりついていた退屈さが、一瞬で消え失せたような気がした。

 全身が震える。絶対にのし上がってやる、と猿渡は口の端を上げた。

「ねえねえ、猿っち」新田もにやりと笑う。「俺と一緒に、仕事しない?」

「あ? お前と?」

「そう。この俺がコンサルタントとして、君を福岡一の殺し屋にしてみせるよ。最強の『殺し屋殺し』屋にね」

 昔から、読めない男だった。人当たりはいいが、腹の中でなにを考えているのか、さっぱりわからない。笑顔の裏に、時折、不気味さすら感じる。その雰囲気は、今でも健在のようだ。

 眼鏡の奥の瞳が、怪しく光った。

「また組もうよ、二人で。昔みたいにさ」