プロローグ


 池袋駅西口を出てから歩くこと約五分。街路樹と雑居ビルが立ち並ぶ通りに少し古びたレンガ造りの八階建てビルがあり、その三階、インドカレー屋と美容室が向かい合わせで並ぶフロアの角部屋にいかにも怪しげな看板を掲げる店があることをご存じだろうか。


 看板に書かれた文字、それは――池福楼KEEPERS

 一見、BARのようでBARにあらず。店名のみが表記されたその看板からは、『何の』店かまでは窺い知ることができないが、昨今、インターネット上での噂や口コミが評判となって話題が広がり、巷ではそれなりに名の知れた店となりつつある。

 従業員は総勢五名。不在がちなマスターをフォローすべく現在はいずれも若い男性四名が主力となって店の命運を握っている。

 ――彼らの生業は、『便利屋』。

 各種調査からはじまり、人探し・復縁仲介・運び屋・ストーカー退治・ペットの散歩代行・家事代行・レンタル彼氏貸し出し・ボディーガード貸し出し・家庭教師派遣・パソコン指導・パソコン修理・データ復元・料理指導・恋愛相談・人生相談……etc.

 ノーマルな依頼から少々危険な依頼まで多岐にわたる『お困り事』を交渉次第で請け負い、多少手荒な手段を用いてでも十中八九遂行せしめる彼ら。

 当然、その利用はハイリスクハイリターンとなることをお含みおきいただきたい。


 ――さて。今宵も暮夜とともに開け放たれるであろうその扉。

 夜な夜な訪れる依頼人と一度契約を交わせば、夜陰に紛れて徘徊する梟のごとく、『奴ら』が池袋の街を奔走する――。



一章――はじめてのお困り事


    1.


 大学二年の八月上旬――。寮暮らしをしている黒鐘凜子の元に、離れて暮らす兄・澟太郎から不可解な絵葉書が一枚届いた。


『凜子へ。お元気ですか? 凜子の大学はもう夏休みに入っている頃でしょうか? 兄ちゃんは今、仕事でキャプテン・キッドの埋宝を探しに宝島に来ています。

 常夏の島で青い空・白い雲、青い海・白い砂浜を眺めていたら、ふと、昔お前と塾仲間を連れて、としまえんの波のプールに行ったことを思い出しました。

 あれからもう十数年。時の流れは早いなぁ……と、しみじみする今日この頃。なかなか凜子が実家に帰ってきてくれないので、兄ちゃんとても寂しいです。

 勉強もいいけど、たまには池袋に戻ってきて顔を見せてください。

 兄ちゃん、明日には池袋に帰るんで、首を長くして待ってます。     かしこ


 追伸――敬語使ってみたけどどう!? 頭良さそうに見える!? あっ、そうそうそれと、少し前に『池福楼』を軽くリニューアルしてみたぁっ!! スタッフたちに凜子のこと紹介したいし、夏休みぐらい池袋に戻っておいでよぉ。兄ちゃん待ってるからァ!

池福楼KEEPERS マスター 黒鐘凜太郎』


 凜子は三度ほどその文面を読み返したが、とても人間が書いた代物とは思えないほど汚い字だったうえ、誤字脱字ばかりで脳内変換をしなければ二、三行ぐらいしかまともに読めなかったわけだが、そのうちの一行は『今、仕事でキャプテン・キッドの埋宝を探しに宝島へ来ている』という浮き世離れした話題、もう一行は『池福楼KEEPERS マスター 黒鐘凜太郎』であることだけは確実にわかり、凜子は宝島の海が写された絵葉書に視線を落としたまま、暫し時を止めた。

「……」


 ――凜子にとっての『池福楼』は、祖父が生前経営していた池袋にある学習塾で、祖父亡き今、兄の凜太郎が『塾長』を務める由緒正しき場所のはずだった。

 学習塾といっても少し変わった英才教室で、どちらかというと寺子屋のイメージに近い。少し黄ばんだ白い壁に、西陽の差し込む大きなガラス窓、歩く度に軋むベニヤ板の床、ところどころ黄緑がかった古臭い深緑の黒板に、木製の机に椅子、今にも朽ちそうな木造のロッカー、部屋の隅に置きっぱなしにされた石油ストーブとコードのない壊れた扇風機はいつだって埃を被っていた。

 室内はたったそれだけの質素な空間で、塾講師も塾長である祖父の黒鐘凜之介ただ一人だったが、祖父の周りは常に目を輝かせた幼い子どもたちで溢れていて、生まれてすぐ母が他界し、刑事として多忙な父を持つ凜子は、幼少期の大半を十歳年の離れた兄・凜太郎とともにその祖父の塾『池福楼』で過ごしてきた。

 そこには凜子の大切な思い出がたくさん詰まっている。

 祖父が亡くなった一年半前(凜子が高校三年生の時)までは確かにそこは学習塾として機能していたはずだったのだが、兄が池福楼を受け継いでからこの一年半の間で、どこをどうやってどれだけリニューアルすれば学習塾がキャプテン・キッドの埋宝探しに繋がるのか、はたまた『英才教室 塾長 黒鐘凜太郎』が『池福楼KEEPESマスター 黒鐘凜太郎』という得体の知れない肩書に変わるのかさっぱりわからず、凜子は暫くの間理解に苦しんだ。


 結局。大学が夏休みの真っ只中だったということもあり、凜子は立て続けに入っていた夏季集中セミナーやアルバイトの予定を急遽キャンセルすると、手早く荷物をまとめて実家のある故郷・池袋へしばしの帰省を決意。

 凜子が地元となる池袋の地に足を踏み入れたのは、実に一年半ぶりのことだ。

 その日は朝から雨が降っていて、夕方の池袋駅構内は傘を持ったサラリーマンの帰宅ラッシュで混雑していた。凜子は隙間を縫うようにして長い地下通路を足早に歩き、狭い階段を上って地上へ出ると水たまりをよけながらビニール傘を開く。

 池袋西口の空はくすんだ灰色の雲に覆われていて、朝に見た天気予報のとおり、雨脚は弱まるどころか激しさを増していた。

 時刻はちょうど十八時を迎えようとしている。凜子が腕時計を見るのを待っていたかのように、防災行政無線から『ふるさと』の曲が流れ始めた。


 どこか懐かしいメロディ。郷愁にかられつつも昔よく遊んだ池袋西口公園の脇道を足早に通過しながら、凜子は兄の経営する『池福楼』を目指す。ものの三分もしないうちに貸し画廊が見えてきて、そこの角を曲がると彼女の眼前に大中小様々な雑居ビルの群れが広がった。

 背の高さを競い合うように立ち並ぶビルの中に、見慣れたレンガ造りの八階建てビルが残存していて、凜子は逸る気持ちを抑えるようにレンガ造りのビルを見上げる。

 外看板に書かれていた文字は『池福楼KEEPERS』。

 一見しただけでは何屋だかわからないその看板。しかし間違いない。兄が勝手にリニューアルした『池福楼』は、あのレンガ造りの八階建てビル、三階角部屋だ――。


 傘をたたんでエントランスホールに入ると、運悪く故障中だったエレベーターに見切りをつけて三階まで階段で一気に駆け上った凜子。インドカレー屋と美容室といった相変わらずアンバランスな組み合わせである店の前を通過すると、白いドアの前に行き当たる。団地によくあるタイプのつるっとしたドアで、ドアスコープと呼ばれる覗き穴はついていないが、その代わりにやはりここにも『池福楼KEEPERS』と洒落た字体で書かれたドアプレートが掛かっている。だから一体何屋なのかと凜子は憤る気持ちを一層膨らませながらもそのドアノブを掴み、勢いよく扉を開けようとした……のだが。

「……わっ」

「……うおっ、びっくりした」

 凜子がドアノブを捻るより早くその白い扉が開け放たれ、目の前にOPEN看板を持った一人の男が現れる。同時に驚きの声をあげた二人の頭上では、カランコロンとドアベルが鳴り響いていた。

「……」

「……」

 凜子は店の中から現れたその男を見上げる。黒いワイシャツに蘇芳色のネクタイ、上下黒のスーツを身に纏った二十代半ばの男性。格好もさることながらヘアカタログに載っていそうな無造作に流れる髪型に、くっきりとした二重まぶたが印象的な端整な顔立ちだから、どこからどう見ても新宿の歌舞伎町にいるイケメンホストにしか見えない。学習塾からホスト男がOPEN看板を持って現れた事実など到底理解ができない凜子は、露骨に顔を顰める。


 しかしその一方で、目の前にいるホスト男も凜子のなめらかな肌、猫のような瞳、くるんとカールした睫毛、艶のある唇、マットブラウンの長く美しい髪、細い割にはふくよかなバストのセクシーボディに素早く視線を這わせており、突然現れた若い女性を客かどうか見定めるかのようにしばらく凜子のことをジーっと見つめていた。

 やがてその謎のホスト男は手に持っていたOPEN看板をその場におろすと、ゴホンと咳払いをしてネクタイをキュッと締め直し、突如キリッとしたような表情を作る。――そして。

「ようこそ、姫。池福楼KEEPERSへ! 俺……ようやくマイプリンセスに巡り合えた気がする。これがウンメーの赤い糸ってヤツかな?」

 渾身の口説き文句を繰り出しつつ、とっておきの爽やかな笑みを添えたその男。由緒正しき学習塾からは程遠い軽薄な空気を放つ彼の、煌々と輝くような眼差しに凜子はいよいよ目眩がし、次の瞬間……。

「……断じて認めないッ」

 独り言のようにそう言い放ち、現実逃避するように問答無用でその扉をバタンッと閉めようとする。

「おっと! ちょっと待ってよ姫!」

「ぎゃっ」

 ――が、しかし。凜子が扉を閉めるのを阻止するかの如く、その男はものすごい速さでドアの隙間にガッと足を突っ込んできた。普通は外にいる人間が、内部の人間に扉を閉じられることを防ぐために用いる技であり、どう考えてもこの場合立場が逆だろう。ドアを閉めようとする凜子と、開けようとするホスト男の間で白い扉がぷるぷると揺れる。

「ちょ、ちょっと!?」

「いや絶対ウンメーだから。ガチで赤い糸だからァ!!」

 赤い糸うんぬんについて認められなかったのだと勘違いしたホスト男は、凜子を現実に引き戻すように再び力強く扉を開け放つと、外にいた凜子の腕をむんずと掴む。

「ひっ。なにす」

「外はすごい雨だし、俺、今日はまじでサービスしちゃうから!! とりあえず運命を語らいながらコーヒーでも飲んで雨宿りしよ!? ね? ……ネ??」

 必死に営業活動を行うソイツは、せっかくのカモを逃さんといわんばかりに凜子の腕をがっちりと拘束し、店内に引き込むようにぐいぐいと引っ張る。

「ちょ、まっ……アッ」

「はいッ敷居跨いだ! 姫様一名ゴアンナーイィ」

 思わずよろけるようにして凜子が敷居を跨いだ瞬間、屈託のない笑顔を浮かべたその男は、悪徳商法さながらなアグレッシブ接客で半ば強引に凜子を店内へと引きずり込む。否応なくそのまま室内に足を踏み入れると、エキゾチックなアロマの香りが凜子の鼻腔をついた。

 アップテンポな洋楽が響く室内に客の姿はなく閑散としていて、凜子と彼しかいないような状態。一体彼は誰に向かって姫様一名が入店したことをお知らせしたのか。いや、それよりも驚くべきことは、室内を見渡すと以前は黄ばんだ白だった教室の壁が、シックなブラックベースのものに張り替えられていて、教室の備品である机や椅子、黒板はどこにもなく、代わりに真紅のソファと錆色のテーブルセットが室内の至るところに点在している。

 それは明らかに凜子の知っている世界とは異なっていた。

「はいコーコ。このVIP席、マジで姫のケツにフィットするためソファ業界に生まれてきたようなモンだから」

「な、なに……ここ……」


 ホスト男を無視して困惑気味に店内を見渡す凜子。ホールの中心には梟の銅像。ホールの右奥の方にはブラックライトが光る観賞用の水槽があり、そのすぐ脇にはBARさながらにバーカウンターまでもが設営されていて、もはや塾ではない。塾の『じ』の字もない。まるでBARのような秘密めいた空間に変わり果てていて、祖父が残してくれた塾が一体なぜ……と、凜子はもはや憤りを通り越し衝撃の域に達し、よろよろとVIP席に座り込み項垂れる。

「お隣失礼しまーす」

 オーギュスト・ロダンが制作した『考える人』のようなポーズで押し黙っていた凜子の左隣の席に滑り込むように着席したホスト男は、スーツの内側から名刺を一枚取り出し、それを凜子の方へと差し出そうとしたのだが……。

「俺、この店のご指名ナンバーワン、ホール主任のハヤトね。趣味はUFOキャッチャー、特技はドンペリダンス、好きな子のタイプは……」

「……ちょっと黙ってて」

 一体何屋なのか、いやむしろなんでこうなったのかと考え込む凜子にバッサリと一刀両断され、「ハァイ……」と、シュンとしたように名刺をスーツの内側に戻すホスト男・ハヤト。しかしめげない男は、黙々と考えごとをする凜子の真似をして同じように『考える人』のポーズを作ると、改めて獲物を吟味するように凜子のことをジッと見つめた。凜子の甘いフェイスと魅惑のボディに、ホスト男改めハヤトはしばし釘付けになるように視線を奪われていたが、やがて目をキラキラとさせて熱視線を凜子に送る。そのいかにも構ってほしそうな暑苦しいアピール光線は激しく鬱陶しいものの、命令どおり沈黙を守ってくれているようなので放置プレイにして考え事に没頭する凜子――と、その時。

「……ウス」

 ドアベルの音と欠伸まじりの眠そうな声が入り口から聞こえてきて、彼女の黙念はそこで遮られた。その声に顔を上げたハヤトと凜子は、同時に顔の向きを声がした正面玄関の方へと向ける。柄の悪そうな男が一人、店に入ってきたところだった。

「あ、ハチ。まーた正面から入ってきてるし……! てか、五分ちこくー」

「……ア? るせェな」

 新たに登場した『ハチ』と呼ばれたソイツは、いかんせん目つきが悪いものの鼻筋の通った顔立ちで、ド派手な銀髪を大雑把に結んでいる二十代半ばの男性。だらしなくガムを噛み、耳にはリングのピアスが光る。胸元が覗くワイルドな黒いワイシャツにノーネクタイ。黒いスラックスにロングエプロンを纏っており、一見してバーテンダーのような印象を受ける。

「……って、客、いてるやんか」

 黙っていれば西洋人のような容姿にも見えるのに口調は生粋の関西弁だった。彼はVIP席に座った凜子と目が合ったが、すぐにその目をフイと逸らし軽く舌打ち。ハヤトへと向かって窘めるような声を投げる。

「……アホかハヤト。注文もとらんと何しとんねん」

 彼は仲良く並んで怪しげなポーズをとっている凜子とハヤトを見て、さも不審そうだ。

「なにっていうか、運命の赤い糸を感じちゃってた、みたいな?」

 爽やかな笑みを浮かべるハヤト。「ねぇ、姫。そろそろ何かこう運命の出会い的なものビビッとこない?」顔を覗き込まれた凜子は鬱陶しそうに顔を顰める。クールキャビからおしぼりを取り出しながらそれを聞いていたハチは、すかさずボソリと呟いた。

「何が運命の赤い糸やねん。……お前、こないだも他の女客に似たような口説き文句ゆうとっ」

「アッー。姫、こんなところに枝毛がッ! ハチくん。おしぼりはいいから君は姫のキューティクルが強化できそうな栄養ドリンクでも用意したまえ。至急。早急に。迅速に。マッハでGO!」

 咄嗟にハチの発言を遮るように台詞を被せたハヤト。誤魔化すようにハチをその場から追い払おうとしていることから、この男が手当たり次第に女を口説くような軽い男であることがよくよく窺い知れる。肩を竦めたハチは、手にしたおしぼりを凜子の目の前に無愛想にボンと置くと、いらっしゃいませの一言もなくそのまま踵を返してバーカウンターの中に引っ込もうとするので、凜子はそんな彼のロングエプロンを、容赦なく鷲掴みにした。

「……うおっ!?」

「ドリンクいらない。……それより、ここの塾長は?」

 もう手っ取り早く兄を呼んで徹底的に説明してもらおうと凜子はハヤトとハチを交互に見るようにして問いかける。するとハチは至極怪訝そうな顔をしながら答えた。

「ア? ……塾長? マスターのことゆうとん?」

「ここでどう呼ばれているのかはわからないけど、黒鐘凜太郎 二十九歳独身、射手座で金髪の元バーテンダーです」

「……あ、それそれ。射手座の金髪の元バーテンダーで、事務経験なし、教免なし、マネージメント経験なし、塾経営経験なし、彼女なしの気合一本で『池福楼』をジーチャンから受け継いだって言ってたツワモンの凜太郎サンっしょ? それうちのマスターだから」

 凜子の問いかけに、ころころと笑いながらノリよく答えたのはハヤトだ。打てば響くように返ってきた兄・凜太郎の経歴は反論の余地がないほど的確なものだった。

「……その凜太郎は今どこに?」

 凜子が再び尋ねると、すかさず顔を見合わせたハチとハヤト。

「……どこやっけか。宝島?」

「んー……宝島は一週間前じゃね? 今はどこだろ……? 赤城山あたり?」

「……はい?」

 すぐにでも兄をここへ連れてきて、と、次に続く言葉を用意していた凜子だったが、二人の口から想定外の答えが返ってきて思わず間の抜けた声を出す。ハヤトは続けた。

「なんか宝島からしょんぼり顔で戻ってきたと思ったら今度はマニアックな豪商からの大口依頼を受けちゃったみたいで、『ちょっと徳川埋蔵金掘ってくる』ってハイテンションで出ていったっきり戻ってこないんだよね……」

「な……」

 兄の意味不明な行動に二の句が継げなくなる凜子。従業員を放置して簡単に店を空けてしまう兄の頭のゆるさにも言葉を失ったが、キャプテン・キッドの埋宝に引き続き、軽いノリで『徳川埋蔵金』を掘ってこようとする兄の相変わらずな脳天気ぶりに、凜子は心底辟易する。

「なんで徳川埋蔵金……」

「なんでってまぁ、ここ便利屋だし?」

「便利……屋……?」

「……そ。便利屋」

 にっこりと笑って言うハヤトに、ついに絶句した凜子。

「店頭では喫茶サービスもやってるし、交渉次第でなんでもやっちゃいます、みたいな? これでも巷じゃ結構評判よくてさ。池袋の庶民の味方っていうか。……待ち合わせは東のいけふくろう、お困り事は西の池福楼っつって、梟の手も借りたいぐらい忙しい毎日なんだよね」

 梟に手なんかあったっけ……と、どうでもいいことを考えながらも、凜子はそれでホストやバーテンダーみたいな奴らがいたり、『大口依頼』だの『キャプテン・キッドの埋宝探し』だの『徳川埋蔵金』だのと言っていたのか……と、ようやく少しだけ合点がいった。

 いやしかし祖父の由緒正しき学習塾が、便利屋。そのあまりにも変わり果てた池福楼の実態に、凜子の怒りのボルテージはふつふつと上昇する。

 兄は約一年半前、本当は自分が池福楼を継ぎたがっていた凜子を宥めるよう『凜子が大学を卒業するまでの間、じいちゃんの塾は兄ちゃんに任せておけ!』と、さも自信満々に胸を叩いていたのに――。

 悔しさを堪えるように唇を噛みしめる凜子に、ハヤトは小首を傾げると尋ねた。

「姫……マスターに会いに来たの?」

「……まぁ、そんなとこ」

「んー……。残念だけど、マスターは戻ってきてもすぐどっか行っちゃうし、いつも連絡がとれないような状態だから、俺たちも困っちゃってるんだよねー。先々月と先月のスタッフ四人分の給料支払いも滞らせたままだしさー」

 はぁ、と大袈裟にため息をついてみせるハヤトに、凜子は片眉をぴくりと反応させる。先々月と先月のスタッフ四人分の給料支払いを滞らせたままとは、またしても聞き捨てならない台詞だった。

「――店の改装費と給料払えんと、実は逃げてるんとちゃうか」

 不意に凜子の憂慮を言葉にするように、バーカウンター内でドリンクを作っていたハチがボソリと漏らす。確かに兄にここまで店内を改装するような貯金があるはずもないし、流石に二カ月も従業員の給料を未払いにしているだなんて只事ではないだろう。金にシビアな凜子はごくりと生唾を呑み額に冷や汗を滲ませるが、ソファに座ったままのハヤトは「まさかー」と軽い調子で笑いながら長い足を組む。

「あの天然マスターに限って逃げてるとかねーっしょ」

「さぁてね。……ま、逃げたら逃げたでそれ相応の代償をいただきに行くだけやけどな」

 戯れのように呟いたハチの言葉に、凜子は思わず反応する。

「だ、代償って……?」

「そら便利屋っちゅーのも楽な商売やあらへんし。それ相応のモン払ってもらわんと割に合わんやろ。まぁ、あのマスター貯金もなにもないゆうとったから、代わりになるゆうたら……美人でエロい体した女子大生っちゅう噂の、ご自慢の妹ぐらいか?」

「……」

「あー。マスター、シスコンだしよく自慢してたよね。嫁に出したくないぐらいイイ女に育った妹なんだって。今度呼び寄せてやるって言ってた割にはなかなか会わせてくれないから、早く会ってみたいなーと思ってたんだけど……」

 いやらしい笑みを浮かべながらノリよく話すハチとハヤト。まさかそれであの不可解な絵葉書が凜子の元へと届き、『担保』として呼び寄せられたのか……? と、凜子が不自然に視線を逸らしながら悶々と考え事をしていると、一瞬、ハヤトがさり気なくこちらをチラリと見た気がした。

「……そ、そうだったんだあ。とばっちりを食う妹さんも気の毒だけど、あなたたちも大変なんだねー」

 凜子は慌ててハヤトの視界から逸れるように体の向きを変えようとしたのだが、その凜子の左手首を、すかさずガッと掴んだハヤト。彼はふと、「あっれー?」と言いながら凜子を自分の方へと向けると、今一度彼女の肢体や顔を舐め回すように見つめる。

「そういえば姫……どことなくマスターに似てるし、なんかえっちぃ体してない?」

「え、どこにでもいるような顔だし、露出度の高い服着てるからそう見えるだけだと思うけど……?」

 全力ですっとぼける凜子に対し、「そうかなー?」と、まじまじと見つめてくるハヤト。「他人の空似じゃない?」怯むことなく凜子が適当にあしらっていると、作りたてのトロピカルジュースを手に持ったハチまでもがこちらへとやってきて、ハヤトとは反対側の凜子の右隣にドカリと座る。

「……せやったらあんた、マスターのなんなん? マスターに会いに来る女なんて滅多におらんのやけど」

 トロピカルジュースをドン、と差し出されながら飛んできた鋭いツッコミに、ぐっと出かかる声をなんとか堪える。右手にはハチ。左手にはハヤト。二対一では分が悪いうえ、いつの間にか両脇をガッチリと固められている。……凜子は答えた。

「別に名乗るほどの者じゃないんだけど……アタシはフクザワチユキ。凜太郎の婚約者なの。よろしくね?」

 無論この流れで自分がマスターの妹ですだなんて名乗れるはずもなく、担保になる気も毛頭ない凜子は、ひとまず兄が支払っていない二カ月分の給料が彼らに支払われるまで、マスターの妹である事実は隠蔽しておこうと軽い気持ちで適当についた嘘だったが……。

「マスターの婚約者……? あの人……彼女いてたんかい」

「へぇー、マスターの婚約者……ねぇ。ふぅん……」

 すぐに二人の口から返ってきた不審がるような言葉。兄には少なくともここ数年、女の気配が全くなかったせいか、当然疑うような声色だった。ハヤトは暫し訝しむようにジーっと凜子を見やりながら、ポツリと一言。

「フクザワチユキって……なんか、福沢諭吉っぽくね?」

「……よく言われる。うちの両親、銀行員だからかなァ」

 突き刺さるようなハヤトの視線を笑顔でかわし、堂々と嘘を嘘で固める凜子。尚、前述のとおり彼女の母親は早くに他界し、父親はバリバリの現役刑事である。

「そう。じゃあユキちゃん、普段何してる人? 女子大生くらいに見えるけど……」

「……家事手伝いってトコ? そろそろ凜太郎の家に転がり込もうと思ってたんだけど、全然連絡とれなくなっちゃったから……困ってここへやってきたの」

 なおもしつこく食い下がるハヤトに、凜子は嘘で固められた嘘を更に嘘で塗り固め、最後は困り顔でハヤトへと擦り寄り『はー、チユキ、凜太郎いなくて困っちゃう』と、甘えるような上目遣いで見上げておいた。

 しばらくジト目で凜子のことを疑うような目で見ていたハヤトだが、凜子が女の武器――胸の谷間――をさりげなくチラつかせてハヤトの方へと軽く押し付けると、彼はコロッと態度を変え、彼女の頭を抱き寄せ、よしよしと撫でながら憐れむような声を出す。

「そうだったんだ……。可哀想にユキちゃん。困ってるならマスターやめて俺にする?」

「……ううん、凜太郎がいい」

 ハヤトの申し出をあくまで猫なで声でバッサリ斬り伏せ、とりあえず兄がいなければ話にならないし今日のところは適当に話を切り上げてこの辺で一旦退散し、後日改めて出直そうと思った凜子だったのだが……。

 めげない男はここでハタ迷惑なことを言い出す。

「じゃあさユキちゃん、今からここで働かない?」

「……は?」

「家事手伝いってことは特に仕事してないんだよね? 店、日や時間帯によってはとにかく忙しいし、俺、今マスターの雑用まで背負っちゃってて手が回ってないから、ユキちゃんが手伝ってくれるならまじで助かるんだよね」

 ハヤトは果たして本当に凜子の毒牙にかかっているのか、いないのか。にこにこと笑いながら凜子の長い髪の毛の束を指先でくるくると回して遊んでおり、ただでさえこいつらの傍にいて妹であることがばれたりでもしたら面倒なのに冗談じゃないぞと、凜子はすかさず回避を試みる。

「いや、勝手に決めたら凜太郎に悪いし?」

「あ、大丈夫。俺、ホール主任だから。マスターから人選任されてるし。アルバイトなら好きに雇っていいって言われてンだよね」

 ハヤトは今度こそはとばかりに再び懐から取り出した名刺を凜子の方に差し出し、満面の笑みを浮かべる。差し出された名刺にはこの店の看板と同じ書体の金色の文字で『池福楼KEEPERS ホール主任 隼人―HAYATO―』と、確かに記されていた。

「あ……あら、そう……」

 凜子は差し出された名刺を受け取りつつ、引きつった笑いを浮かべる。横長の黒い紙に源氏名のような名前が記載されたその名刺の雰囲気もさることながらホール主任とはまさしくどこかのホストクラブのよう。話をちゃんと聞いておくべきだったと凜子が脳内で舌打ちしていると、ハチも隼人に続くようにだらしなくガムを噛みながら無愛想に名刺を一枚差し出した。そこにはやはり『池福楼KEEPERS 瑛斗―EITO―』とだけ書かれている。数字の『8(eight)』で、『ハチ』かと、ここでようやく把握することとなったが、凜子にとってそんなことはどうでもよかった。

 瑛斗は頭の後ろで手を組むと、隼人を嗾けるようなことを呟く。

「美乳の新入りねぇ……悪ないやんそれ。つか、いっそのこと、マスターがおらんうちに美乳女集めて、キャバクラ&ホストクラブとかに改装したら今よりもっと儲かるんちゃう」

 無責任にも適当なことを言い出した瑛斗に、形の良い片眉をぴくりとつり上げた凜子。

「いいじゃんそれ。でも、美乳だらけとかヤバくね? 俺、絶対仕事しなくなるけどねー!」

 隼人はころころと笑いながらもまんざらではなさそうな表情だったし、ノリの良い兄の凜太郎が小耳に挟んだら本気でやりかねない提案だった。

(キャバクラ&ホストクラブ……だと?)

 それこそ冗談じゃないとこめかみに青筋を浮き上がらせた凜子はすっと立ち上がると、池福楼のキャバクラ&ホストクラブ化計画を和気藹々と話す二人の会話を遮るようにテーブルをバン、と叩く。隼人と瑛斗が会話を中断しこちらを向いた。

「……私、ここで働く」

 凜子はにっこりと微笑む。一旦退散して出直そうかとも思ったが、そんな暇はなかったようだ。ほっといたら池福楼がこいつらの好きなようにされてしまうかもしれない。

 思い出の場所を守るためにも今すぐにこいつらをここから追い出し、かつての池福楼を取り戻さなければなるまい。そう思った彼女は、『ぶっ潰してやる!!』と、腹の奥でどす黒い炎を渦巻かせた。

 しかし凜子の一言に、さも嬉しそうに目を輝かせた隼人は、「まじでー!?」と、軽いノリで凜子の手をとり、契りを交わすようにぶんぶんと握手する。

「まじで手伝ってくれンの!? めっちゃだいかんげー!! よろしくね、ユキちゃん」

「よろしくぅー」

 凜子の採用はものの三秒で決まり、笑顔で握手を交わしつつ彼女は腹の底で悶々としながら悪しき計画を企てる。

 自信はあった。鍛えぬかれた魅惑のボディと美貌で今まで数多の男を手のひらで転がしてきた凜子。本気を出せばこんな奴らなんか一捻りだと彼女はほくそ笑む。

 ……とはいえ、無論保険となる案も必要だ。万が一にでも自慢のお色気作戦が上手くいかなかった場合、頃合いを見計らって店の全財産と、どこかにしまってあるはずの祖父が作った池福楼の看板を持って夜逃げでもし、新たな土地で一からやり直すか――と、凜子がきめ細かく打算的にそんなことを考えていると。

「……あ、そうそう。一応先に言っておくけどうちの従業員になったからには、しばらくの間、俺たちからは絶対に逃げられないと思ってね」

「……へ?」

 握手していた手を離しつつ、凜子の心中を見透かすように言った隼人に、凜子は内心ぎくりとしつつ、『どういうこと?』と小首を傾げてみせる。

「うち、色々と企業秘密多いから、新人さんに逃げられて内部情報を漏洩されると困っちゃうんだよね。同業者のライバルも結構多いし」

 情報漏洩をするつもりはないものの、いざとなったら金と看板を持ってズラかる気満々だった凜子。

「まさかそんなことするわけないじゃない」

 あくまですっとぼける姿勢を貫こうとする彼女の脇で、ガム風船を作っていた瑛斗が淡々と補足する。

「まぁ逃げよ思ても無駄やと思うけどな。うちには情報のスペシャリストがいてるから、なんでもお見通しやし、一日もあれば地の果てまでストーカー並みに追跡されて確実に捕まるで」

「……じ、情報のスペシャリスト?」

「せや。今の御時世、あらゆる『情報』を押さえられると、全く身動きがとれなくなるやろうからなぁ」

 押し黙った凜子の隣で、瑛斗の口元で膨らんでいたガム風船がパチンと割れ、彼の口元が歪んだように曲がる。

(なによ、情報のスペシャリストって……)

 ただの便利屋だし、情報を探るっつったって限界はあるはずだ。『なんでもお見通し』だなんてどうせ口だけの脅しで単なる誇張だろうとは思うものの……。妙に隼人と瑛斗の浮かべている不敵な笑みが堂々としすぎていて迂闊に軽視できない凜子。説得力がある、というよりは気になる言葉を目の前にチラつかされて、こちらの動きをいいようにコントロールされている気分だった。

 一瞬たじろぐも負けず嫌いな凜子は、上等だとでも言うように挑戦的な眼差しを二人に向けると、微笑みを崩さずに言った。

「やだなぁ、私が逃げるわけないじゃん?」

「だよねー! んじゃ、そんなワケで改めてよろしくね、ユキちゃん」

「……ほな、扱き下ろしたるわ。ちゃっちゃと雑用よろしゅう、新人サン」

 ――というわけで、始まった狐と狸の化かし合い。こうして結局、怪しげな便利屋の思惑どおりに誘導された凜子は『フクザワチユキ』という仮面を被ったまま、一人果敢に池福楼奪還計画を画策し始めるのであった――。